紅塵

紅塵的背景是在南宋年代﹐開場在靖康之難後十幾年﹐千古罪人秦檜去世﹐宋高宗正式掌握國權..

 

作者:田中 芳樹


目 次

 第一章 江南《こうなん》冬《とう》雨《う》
 第二章 密命
 第三章 黄天蕩《こうてんとう》
 第四章 渡河
 第五章 燕京《えんけい》悲歌《ひか》
 第六章 趙王府《ちょうおうふ》
 第七章 莫《ばく》須《す》有《ゆう》
 第八章 前夜
 第九章 采石《さいせき》磯《き》
 第十章 長江無尽《ちょうこうむじん》
 

 


第九章 采石《さいせき》磯《き》


    一

 高宗《こうそう》皇帝からの命令を受けて、子《し》温《おん》はただちに出陣することになった。彼は本来、文官ではあるが、文官が実戦に参加することは、宋《そう》の歴史では珍しくない。まして彼が文官職につくのは父の引退後で、少年のころは戦場で日を送っていた。『説岳《せつがく》通俗《つうぞく》演《えん》義《ぎ》』で、「武芸にすぐれた韓公《かんこう》子《し》」と記されているのは子温である。
 家を出るとき当然、妻子と別離したのであろうが、子温の妻子について、『宋史・韓彦直《かんげんちょく》伝』には記述がない。正史の伝は公人としての記録であるから、私生活については記述がないのが普通である。特筆することもない平穏な家庭生活であったかと思われる。
 特筆することだらけの梁紅玉《りょうこうぎょく》も、息子とともにまず杭州臨安府《りんしゅうこうあんふ》に赴《おもむ》いた。虞《ぐ》允文《いんぶん》を介《かい》して、ときの皇太子から招きがあったのである。ただしすぐには会えず、虞允文に再会した子温は江淮軍《こうわいぐん》の再編成に忙殺《ぼうさつ》された。
 江淮軍とは「長江《ちょうこう》・淮《わい》河《が》下流方面軍」とでも訳せばよいであろうか。事実上、対金防衛戦の総兵力といってよい。
 子温は江淮軍の副参謀であり、虞允文が参謀である。総帥は葉《よう》義《ぎ》問《もん》という人で、科《か》挙《きょ》出身の文官であった。剛直な人で、秦檜《しんかい》の残党が暗躍するのを摘発した。国使として金国におもむいたときには、土木工事や輸送のありさまを観察し、金軍の侵攻が近いことを正確に予測している。
 ただし軍事に関しては無能で、基礎的な軍事用語も知らなかったらしく、しばしば兵士たちや民衆に冷笑をあびている。葉義問のせいではなく、彼を任命した高宗の責任であろう。
 就任すると同時に、葉義問は、長江の北に軍を展開させた。指揮官は劉錡《りゅうき》と王権《おうけん》の二将軍である。淮河を渡ってくる金の大軍を正面からくいとめよ、と命令したのだ。これはかつて子温が高宗に不可を言上した無謀な作戦行動であった。王権はかつて韓世忠のもとで金軍と戦った人である。彼は抗戦の不可能を主張したが、再度の命令を受け、やむなく二万の兵で六十万の金軍と戦った。一戦にして蹴散らされ、かろうじて全滅をまぬがれて逃げもどる。「神機武略」と称される劉錡は、葉義問の無謀な命令を無視し、戦わずに後退した。揚州《ようしゅう》の城市《まち》から長江を渡って帰ることにした、そのときのことである。
「さてと、ただ退却するだけというのも、あまりおもしろくないな」
 白い髯《ひげ》をひねった劉錡は、従卒《じゅうそつ》に文房《ぶんぼう》四《し》宝《ほう》(紙・筆・墨・硯《すずり》)を持って来させた。ただ紙は使わなかった。太い筆をふるって、老将軍は揚州府庁の白い壁に六つの文字を大書したのだ。

  完顔亮死於此

 完顔亮ここにおいて死す。劉錡が書いたのは、金軍にとってまことに不吉な予言の句であった。劉錡は易占《えきせん》や陰陽《おんよう》五行の心得があり、完顔亮が敗死することを予知していたといわれている。
 このように余裕を持って劉錡は兵を退《ひ》いたのだが、周囲の反応はかならずしも老雄の意図どおりではなかった。
「劉錡、王権の両将軍は金軍の侵攻をささえきれずに撤退。宋は長江以北の領土を失った」
 金軍が誇大に宣伝したこともあるが、その報は強烈な衝撃波をもって宋の朝野《ちょうや》を席捲《せっけん》した。最後の一兵にいたるまで淮河を渡りおえた金軍は、潮が満ちるように長江北岸へと押しよせつつある。
 江北《こうほく》の住民は家をすて、大小無数の舟で長江を渡って江南《こうなん》へと逃げてきた。陸路、長江の上流へと逃げる者たちもいる。江南の民衆も動揺して家財をまとめ、さらに南方へ避難する準備をはじめた。朝廷も動揺し、悲鳴まじりで両将軍の責任を問う声が沸《わ》きおこった。
「劉信叔《りゅうしんしゅく》(劉錡)ともあろう者が戦わずして退くとは。呉《ご》唐卿《とうけい》(呉《ご》※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]《りん》)が彼を英慨《えいがい》なしと評したのも宜《むべ》なるかな」
 強硬論に生命をかける張浚《ちょうしゅん》も、そう歎息して、劉錡を弁護しようとしなかった。
「やはりだめか。そろそろ船の用意をさせよう」
 杭州臨安府の皇宮で、蒼《あお》ざめてそう口走ったのは高宗である。逃げることに慣れているから腰は軽い。父|徽《き》宗《そう》や兄|欽宗《きんそう》の轍《てつ》をふむのは恐ろしかった。いまにも港へ向かって駆け出そうとするかのように、座から立ちあがる。
 その袖《そで》を、張浚の手がとらえた。強烈な眼光が高宗を射《い》すくめた。
「お逃げあそばすな、陛下! お逃げあそばしては国が瓦《が》解《かい》いたします。むしろ親征なさって、帝威を金賊どもにお示しあれ」
 金軍が来るたびに逃げまわっていた高宗と、金軍も秦檜も恐れずに主戦論を唱《とな》えつづけた張浚とでは、危地《きち》に立ったときの凄《すご》みがちがう。高宗は反論できず、むなしく口を開閉させた。そのとき、皇太子が毅《き》然《ぜん》として座から立ちあがった。
「張浚はよく申してくれた。陛下は建康《けんこう》へ御《ぎょ》駕《が》を進めたもう。わたしが先駆となろう」
 皇太子の発言は、老いた張浚を感動させた。彼が床に拝《はい》跪《き》すると、皇太子はその手をとって立ちあがらせた。高宗は事態の主導権を失い、口のなかで何やらつぶやくだけであった。
 張浚と葉義問との協議によって、前線指揮官のあたらしい人事がさだめられた。金軍に江北の地をあけわたした劉錡と王権とが更迭《こうてつ》されたのである。劉錡に替わったのは成閔《せいびん》、王権に替わったのは李顕忠《りけんちゅう》であった。ただ、成閔も李顕忠もまだ前線に到着しないので、葉義問が、劉錡と王権からとりあげた軍隊の指揮を直接とることになった。
 この人事は、老雄劉錡の矜持《きょうじ》を傷つけた。戦略的な撤退を、「臆病、無能、老衰のゆえ」といわれたのでは、傷つくのが当然である。まして、無謀な命令を出したのは葉義問であり、その彼が今度は劉錡から軍隊をとりあげて自分で指揮するというのだから、納得できるはずがなかった。過労と精神的な打撃とのために、劉錡は京口《けいこう》城内で病床に就《つ》いた。十月はじめのことだ。
 虞允文と子温が病床を見舞うと、劉錡は力ない笑いで応《こた》えた。右手で虞允文の、左手で子温の手をとって、老雄は自嘲《じちょう》した。
「もうわしなどの出る幕はない。朝廷は兵を養うこと三十年、最後の大功は儒生《じゅせい》の手に帰するじゃろう。無力なる老兵は、ただ恥じて死ぬのみじゃ」
 気のきいた慰めの言葉もなく、ただ療養につとめるよう願って、虞允文と子温は彼のもとを去った。
 劉錡の病臥《びょうが》は残念だったが、子温は対金戦に明るい展望を持っていた。完顔亮が大軍をひきいて南下する、そのとき北方で何がおこるか、子温は予測していたのだ。五年前のことを、彼は想いだす。
「残念だが何ごともお約束するわけにはまいらぬ。だがこれだけは申しあげておこう。無名の師《いくさ》を望まぬこと、金国は宋国と同様である。和平を欲《ほっ》するや切《せつ》であること、女真《じょしん》族は漢族に劣らぬ」
 燕京《えんけい》の趙王府《ちょうおうふ》で、そう完顔雍《かんがんよう》は子温に語ったのだ。彼の意思を、ほぼ子温はさとったが、事が事だけに言葉にして確認するのはむずかしかった。
「暴君を憎むという一点においては、いかがでございましょうか」
 そういう尋ねかたをしてみるしかなかった。雍は短く苦笑したようだが、「何を愛し何を憎むか、人の情は黄《こう》河《が》の北も長江の南も同じであろう」と答えた。それ以上の答えを望むのは愚《おろ》かであった。さまざまの好意を謝しつつ、子温は雍と別れ、燕京を去ったのである。
 無事に帰国してから、子温は、金国内で誰の助力を受けたのか、しばしば問われた。
 絶対に完顔雍の名を出すわけにはいかなかった。黒蛮竜《こくばんりゅう》や阿《あ》計替《けいたい》についても同様である。名を出せばどのような迷惑が彼らに降りかかるか知れなかった。高宗に対してすら、彼は、「臣も彼らの正体を存じませぬ」としか答えなかった。高宗のほうからは、子温は意外な事実を聴《き》かされた。
「じつは、そなたを北方に派遣せしは、虞允文だけではなく、建王《けんおう》の発案にもよるのじゃ。金国の暴君に注意せよ、と、それはうるさくてな」
 建王とは皇太子のことである。姓は趙《ちょう》、名は最初に伯琮《はくそう》、後に※[#「王+爰」、unicode7457]《えん》、さらに即位直前に眷《けん》と改名し、字《あざな》は元永《げんえい》という。二度の改名は高宗のすすめによるものであった。
 皇太子は、後に孝宗《こうそう》皇帝となる人である。
 もともと高宗の最初の太子は幼年にして病死している。以後、高宗には男児が生まれなかった。金軍の侵入によって引きおこされた動乱で、皇族の多くが死に、あるいは行方不明となっている。皇統《こうとう》を絶やさぬために、高宗は手をつくして生き残りの皇族を捜し、ようやく太《たい》祖《そ》皇帝の七代めの子孫を見つけだしたのであった。
 高宗のほうは、太祖の弟である太宗《たいそう》皇帝の六代めの子孫である。同族にちがいないとはいえ、かなりの遠縁であった。歴代、宋王朝の玉座《ぎょくざ》は、太宗の血統によって独占されてきている。太祖の子孫たちは玉座から疎外され、不遇をかこってきたが、ようやく歴史の大道に姿をあらわすことになったのだ。
 孝宗皇帝は、後世、南宋最高の名君といわれるようになる人だから、高宗は、後継者えらびではみごとに成功したといえる。ただ、『宋史』に「聡明にして英《えい》毅《き》」と記される皇太子は、丞相《じょうしょう》の秦檜《しんかい》に忌《い》まれていた。正確にいえば、秦檜が死ぬまで彼は正式に皇太子にはなれず、普《ふ》安郡王《あんぐんのう》にとどまっていたのである。皇太子のほうでも秦檜をきらい、岳《がく》飛《ひ》や韓世忠《かんせいちゅう》らに好意的であった。彼が即位して孝宗皇帝となった後、岳飛の無実が確認され、名誉が回復されるのである。
 だが、それは未来の話である。紹興《しょうこう》三十一年の十月半ば、皇太子は張浚、虞允文、子温らをともなって杭州臨安府から建康府へ赴いた。ここにおいて、朝廷の意思が主戦であることは天下に明らかとなった。

    二

 建康府庁において宋軍出陣の宴が張られたのは、十月末のことである。皇太子臨席のもと、張浚や葉義問らをはじめとする文官武官が宴席につらなった。皇太子も張浚も質素さを好むから、それほど山海の珍味が並んだわけではない。大宴は勝利の後にこそ、という理由も当然であった。このとき金軍六十万は長江の北岸に展開しつつあり、宋軍との間は長江の流れによってへだてられているにすぎない。とはいえ、長江の流れは幅八里(四・四キロ)、容易にこえることはできない巨大な水の城壁である。金軍は六十万の大軍を乗せるだけの軍船がそろわぬため、まだ渡河作戦を実行することができずにいるのだった。
 紹興三十一年に宋の主要な人物の年齢は、高宗皇帝が五十五歳、皇太子(後の孝宗皇帝)が三十五歳、張浚が六十六歳、劉錡が六十四歳、李顕忠が五十二歳、楊折中《ようきちゅう》が六十歳、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]が六十歳、成閔が六十八歳である。ことに第一線における将軍たちの高齢化がめだつ。
 梁紅玉は六十四歳、子温は三十四歳。虞允文の年齢は不明だが四十歳前後かと思われる。
 梁紅玉は亡夫韓世忠と彼女自身との武勲により、「楊国《ようこく》夫《ふ》人《じん》」の称号を有している。列席の文官武官は、彼女に対して敬意に満ちた礼を送った。
 皇太子も、銀雪の髪をいただく老婦人に敬意の視線を送っていたが、ほどなく、まず子温を御《ご》前《ぜん》に招き、彼に命じて母親をつれてこさせた。
「楊国夫人の盛名は、わたしのような一書生でも存じている」
 ということから話がはじまり、梁紅玉がこの場で剣の舞を披《ひ》露《ろう》することになった。そのように話を進めたのが母であることに子温は気づいた。母は何やらたくらんでいるらしい。
 剣を持って梁紅玉は舞いはじめる。すでに六十代半ばに達した老婦人とは、とうてい信じがたい。袖がひるがえり、剣がきらめく。呼吸も足さばきも乱れることはなく、流麗な動作は一瞬もとどこおることがない。一座は感歎して見とれるばかりである。舞たけなわ、梁紅玉はよくひびく声で詞《はうた》を歌いはじめた。

  怒《ど》髪《はつ》、冠《かん》を衝《つ》いて、欄《らんかん》に憑《よ》るの処《とき》
  瀟々《しょうしょう》たる雨|歇《や》みぬ
  眼をあげて望み、天を仰いで長嘯《ちょうしょう》すれば
  壮《おお》しき懐《おもい》は激烈たり
  三十功名は塵《ちり》と土
  八千里の道雲と月
  等閑《なおざり》にするなかれ、少年の頭《こうべ》白くなりて
  空しく悲しみの切なるを

 愕然《がくぜん》として、子温は母の姿を見なおした。この壮烈な詞の作者が誰であるか、子温は知っていたのだ。他の者は知らぬか、忘れさっているのであろう。おどろくようすもなく見とれ、聴きほれている。

  靖康《せいこう》の恥、なお未《いま》だ雪《すす》がず
  臣《しん》子《し》の恨《うらみ》、何《いず》れの時にか滅せん
  長車《ちょうしゃ》に駕《の》り、賀《が》蘭山《らんさん》を踏破して欠《ゆ》かん
  壮志、飢えて餐《くら》うは胡《こ》虜《りょ》の肉
  笑談、渇《かっ》して飲むは匈奴《きょうど》の血
  従頭《あらた》に旧山河を収拾《とりもど》すを待ち
  天闕《てんけつ》に朝《ちょう》せん

 梁紅玉が舞い終え、歌い終えて一礼しても、しばらくは声を出す者もなかった。酔ったような沈黙は、しばらくしてようやく破れた。
「みごと、みごと!」
 手を拍《う》って賞賛したのは皇太子である。それにつづいて満座が拍手した。拍手しなかったのは子温だけである。彼は冷たい汗を掌《てのひら》に滲《にじ》ませて、来《きた》るべき事態を待っていた。彼だけは母の味方をしなくてはならぬ。
 拍手の波がおさまると、皇太子が下問した。
「いまの詞は楊国夫人の作か」
「いえ、他に作者がおります」
「では作者の名は?」
「姓は岳《がく》、名は飛《ひ》、字は鵬挙《ほうきょ》と申します」
 満座が息をのんだ。岳飛の名誉はいまなお回復されておらず、公的には大逆の罪人のままである。その罪人がつくった詞を、梁紅玉は皇太子の御前で歌い、舞いあげたのであった。何という大胆さか。文官も武官も舌を巻いて老婦人を凝視した。
 だが梁紅玉の大胆さは、無謀なものではなかった。彼女は夫とともに四万人の将兵を指揮し、軍団を経営してきたのである。勝算というものを知っていた。秦檜の死、金軍の侵攻、張浚の復帰。事態のすべてがひとつの方向にむかい、そこに皇太子が立っていることを知っていたのだ。岳飛の名誉を回復し、亡《な》き夫の無念を償《つぐな》う機会はいまこのときである、と、彼女は確信していた。
 ゆったりとした微笑が皇太子の顔にひろがった。彼は列席の文官武官を見わたすと、朗々たる声で告げた。
「諸君に望む。靖康の恥を雪《すす》ぎ、諸君らの功を引っさげて天闕《てんけつ》に朝《ちょう》せよ」
 岳飛の詞を引用した。靖康の恥を雪ぐとは、三十数年前に金軍の虜囚《りょしゅう》となった徽宗と欽宗の復讐をとげる、ということである。天闕に朝するとは、朝廷に参上する、ということである。列座の大臣や将軍たちはさとった。この皇太子が即位した後、岳飛の名誉は回復され、蓄積された不正の多くがただされるであろう、と。
「黒蛮竜《こくばんりゅう》は、近く金国に真天子が登場するといっていたけど、どうやら本朝《わがくに》でもそうらしいね。ありがたいことだ。お前の阿爺《とうちゃん》も安心してくれるだろう」
 席にもどった梁紅玉がささやき、子温はうなずくばかりであった。
 翌日、子温は虞允文とともに兵士をひきいて建康府を発《た》った。梁紅玉は皇太子のもとに残留した。このとき子温が手にした「夫戦勇気也《それたたかいはゆうきなり》」の軍旗は、梁紅玉が文字を刺繍《ししゅう》したものであると伝えられている。

 一方、長江の北岸では金の陣営が勝利に沸きかえっていた。とはいえ、完顔亮ほどには将軍たちは喜べなかった。前面で勝っても、本国の後方が不安なのである。
 前年から契丹族の大叛乱がつづいていた。
 彼らにとっては、民族の存亡を賭けた叛乱であった。完顔亮が契丹族の壮丁《そうてい》(成年男子)を伐宋《ばつそう》軍の兵士として根こそぎ徴兵しようとしたため、不満と不安が爆発したのである。乾いた野に火を放つごとく、叛乱は一挙に拡大し、万里の長城の北方は中央政府の統制から解放されるかと思われた。
 このため亮は、白彦恭《はくげんきょう》、※[#「糸+乞」、unicode7d07]石烈《きっせきれつ》志《し》寧《ねい》、完顔《かんがん》穀《き》英《えい》らの将軍たちを派遣して叛乱の鎮圧にあたらせたが、必死の抵抗にあって、戦果はあがらなかった。
 その直後に宮廷内で惨劇が生じる。亮の伐宋を諫《いさ》めた皇太后が亮に殺されたのだ。この女性は亮の生母ではないが、亮の父親であった大《ター》太《ター》子《ツ》宗幹《そうかん》の正妻であったので、皇太后の称号を受けていた。殺された皇太后は宮中ですぐに火葬され、遺骨は河に放りこまれた。同時に、皇太后につかえていた侍女十数名も殺された。
 伐宋を諫めた廷臣は、つぎつぎと殺された。蕭禿刺《しょうとくらつ》、斡《アツ》盧保《ロホ》、僕散師恭《ぼくさんしきょう》、蕭懐忠《しょうかいちゅう》といった人々である。なかには族滅《ぞくめつ》された人もいた。宰相の張浩《ちょうこう》は殺されなかった。彼が死ねば、金の国政はとどこおってしまうからだ。かわりに彼は杖《じょう》で打ちすえられ、半死半生の状態で宮中から運び出された。
 伐宋戦に反対する行動は、宮廷外において、より激烈であった。軍隊からは脱走者があいついだ。ひとりで逃げ出す者もいれば、千人単位で堂々と旗をかかげて離脱する者たちもいた。伐宋の大軍は南へ向かったが、脱走者たちは反対方向へと馬を走らせた。彼らは昂然として宣言した。
「我《われ》輩《ら》いま東京《とうけい》へ往《い》って新天子を立てん」
 東京へ往って新天子を立てる、というのは、東京留守《とうけいりゅうしゅ》たる完顔雍を皇帝として推戴《すいたい》するということであった。衆望のおもむくところ、焦点に雍が立っている。これでは伐宋どころではない。遠征の間に国を奪われてはおしまいではないか。そう考えている廷臣《ていしん》たちにむかって、亮は言い放った。
「予《よ》は軟弱な宋人ではない。言論をもって士《し》大《たい》夫《ふ》を殺すぞ」
 もはや誰も何もいわなくなった。
 自分の威を廷臣どもが恐れたのだ。そう思って、亮は快適な気分にひたった。だがそうではない。廷臣たちが亮を見放したのである。そのことが亮にはわからなかった。亮以外のすべての人間にはわかっていたのに。
 漢文化に対する亮の傾倒は甲冑《かっちゅう》にもおよんでいた。亮のまとった甲冑には、女真族の風《ふう》はまったくない。中華帝国の天子が親征するにふさわしく、伝統の粋《すい》をこらした絹の戦袍《せんぽう》と白銀の甲冑であった。冑《かぶと》には燦然《さんぜん》たる紅玉を両眼にはめこんだ竜の彫刻がほどこされており、雄《ゆう》偉《い》な長身に華麗さを加えていた。
 亮が宋の征服に成功すれば、彼は北方民族の王者として中華帝国全土を支配する、歴史上最初の英雄となるであろう。その華麗な姿は、すでに亮の脳裏にはっきりと描きだされていた。しかも極彩色で。

    三

 老雄劉錡の静かな作戦は成功していたといえるであろう。ほとんど損害なしに淮河を渡り、長江北岸に達した完顔亮は、覇者としての自信を肥大化させる一方だった。ほどなく江南は亮の手に落ち、膨大な富と高度の文化が彼のものになる。そうなれば万が一にも、東京で雍が叛《そむ》いたとしても、恐れるものはない。六十万の軍を反転させ、一撃に雍を討ち滅ぼすだけのことだ。
 このとき金軍六十万を指揮する主要な将軍といえば、完顔昂《かんがんこう》、李《り》通《つう》、烏《う》延《えん》蒲盧《ほろ》渾《こん》、徒《と》単貞《たんてい》、徒《と》単永年《たんえいねん》、完顔《かんがん》元《げん》宜《ぎ》、蘇保《そほ》衡《こう》、許霖《きょりん》、蒲《ほ》察《さつ》斡論《あつろん》といった面々である。兵士もそうだが指揮官たちも、女真族、漢族、契丹族などの混成であった。
 完顔亮は伝統的な中国文化に心酔《しんすい》していたから、行政や文化で漢族を重んじた。また軍事的には契丹族を重んじた。契丹族を弾圧し、彼らの叛乱に悩まされているはずなのに、彼らを重んじた。完顔元宜などはもとも遼《りょう》の貴族であったのに、金の皇族と同じ完顔という姓を、亮から与えられたのである。
「あいつらはおれに感謝しているはずだ」
 亮はそう信じていた。彼の想像力は、どこか偏《かたよ》っており、自分が怨《うら》まれているだろうとは、なぜか考えられないのだった。
 亮にとって、すべてがうまく運んでいるはずであったが、思いもかけぬ事態が彼に冷水をあびせた。
「宋の呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]、十万の兵をもって秦嶺《しんれい》をこえ、京兆府《けいちょうふ》を衡《つ》かんとす。願わくは援兵《えんぺい》を送られんことを」
 悲鳴に似た急報が、この方面における金軍司令官|徒《と》単《たん》合《ごう》喜《き》からもたらされた。彼の正式な官職名は、西蜀道行営兵馬《せいしょくどうこうえいへいば》都《と》統制《とうせい》といい、副将の張中彦《ちょうちゅうげん》とともに、四《し》川《せん》方面へと向かっていた。ただこれはあくまでも陽動が主で、宋が戦力を長江下流に集中させたときのみ、隙を見て四川へ侵入する予定であった。それが意表をついて、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]のほうから出撃してきたのである。これは、むろん、かつて梁紅玉や子温と呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]との間で話しあわれ、立案されていた作戦行動であった。
 呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]がめざす京兆府とは、唐《とう》代の国都|長安《ちょうあん》のことである。ここが陥落すれば、それより西の広大な領土がすべて失われることになる。歯ぎしりして、亮は十万の兵を割《さ》き、京兆府へ急行させた。
 一方、建康府にほど近い長江南岸に到着した虞允文と子温は、危機的な状況を目《ま》のあたりにしていた。
『宋史・虞允文伝』にいう。
「我師三五星散、解鞍束甲坐道旁、皆権敗兵也」
 わが軍の兵士たちは、隊列もつくらず、こちらに三人、あちらに五人と星座のように散らばっていた。乗馬の鞍《くら》をはずし、甲《よろい》をぬいで道ばたにすわりこんでいる。彼らは全員、王権の部隊の敗残兵であった。
 虞允文は李顕忠の到着を待つつもりであったが、このまま時間を浪費してはいられぬ、と判断した。子温とともに麾下《きか》の全軍に出動を命じる。甲冑をまとい、馬に乗って出発しようとすると、朝廷からしたがってきた文官のひとりが意見した。
「公のご任務は兵を犒《ねぎら》うことであったはず。直接、兵を指揮せよとの命は受けておられますまい。よけいな責任を負わされることになりますぞ」
「国が滅びたら責任を追及する者もおらんよ」
 というのが虞允文の返答であった。
 やがて、金軍の勢力圏から脱出してきた諜者が虞允文のもとへきて、つぎのように報告した。
 長江の北岸に、高い台座が築かれ、四本の軍旗が立てられている。天子の所在を示す黄色の屋根がかけられ、完顔亮らしき人物が豪奢《ごうしゃ》な甲冑をまとって椅子にすわっている。白と黒とが斑《まだら》になった馬を犠牲として天帝にささげ、近日、大挙して長江を渡るつもりらしい。最初に渡河に成功した兵士には、黄金一両を与えるとの布告が出たという。
「黄金一両とは吝嗇《けち》ですな」
 子温が苦笑すると、同じ表情で虞允文がうなずいた。
「どうやら女に費用《かね》がかかりすぎて、男にはまわらないといったところですな」
 これは子温たちの偏見とはいえない。金軍の陣営では、亮の吝嗇が怨《えん》嗟《さ》の的《まと》になっていた。蕭遮巴《しょうしゃは》という士官が、「我々がいくら苦労しても、江南の美女と財宝はすべて皇帝が独占してしまうのだ」と語っている。聞く者はみな同感だったので、密告する者はいなかった。
 このとき諜者の報告では、金軍の実数は四十万。宋軍はといえば、虞允文と子温の指揮下に一万八千でしかなかった。なお『宋史』によれば、金軍の馬の数は兵士の二倍に達したというが、この記述はやや誇大にすぎるかと思われる。それでも宋軍よりはるかに多かったことは事実で、数十万頭の馬が天高く砂塵を巻きあげ、冬の陽も翳《かげ》るほどであった。
 諜者の労を犒って、子温たちは顔を見あわせた。
「それにしても、六十万の兵がどうして四十万にまで減ったのか。十万が四川方面へ転進したのはわかっているが」
 不思議がっていると、またべつの諜者からの報告があった。金軍は淮河を渡った直後、十万の兵を割いて東方海岸の方向へ出撃させたのだ、という。これには虞允文も子温も腕を組んで考えこんでしまった。いったい何ごとがおこったのであろう。
 金軍が建国以来はじめて大規模な水軍をつくったことは、すでに知れている。十万の兵を海岸に送って軍船に乗せ、東方海上を南下して一挙に海から杭州臨安府を衡くつもりであろうか。それなら最初からそうしそうなものだが。見当もつかぬまま、さらに調査をつづけることにしたが、一方、べつの心配もある。
「予定以上に兵力が集まりそうでござるよ、子温どの。ただ無計画に増えても、兵に食わせるものがござらぬでな」
「どうなさるおつもりですか」
「糧食がなくならぬうちに勝つしかござらぬな。どうにも難儀なことで」
 虞允文は奇妙な男である。事態が深刻になればなるほど、表情が弛《し》緩《かん》するようだ。
 南方からつぎつぎと援軍が建康府に到着している。出発した、という報告が先にきたものをあわせると、総数で二十万をこしそうであった。かつて虞允文は高宗に「動員可能な兵力は十八万人」と言上している。それを超過しそうな勢いであるが、あまり喜んでもいられないのだった。
 最初に到着したのは成閔であった。かつて韓世忠のもとで勇名を馳《は》せた男は、眉も髭《ひげ》も白くなり、頭は禿《は》げあがっていたが、筋骨はなおたくましい。子直に会うと、咆《ほ》えるような歓喜の声をあげて彼を抱擁《ほうよう》した。
「韓公子とごいっしょに金軍と戦えるとは、武人の本懐。ぜひとも完顔亮めの首をとって、地下《あのよ》の韓元帥に喜んでいただきましょうぞ」
 そういって成閔は老眼に涙をたたえた。もともと気性の烈《はげ》しい人だが、老齢になってさらに感情が不安定になっているようである。今回の出征では、はやく前線に到着したいばかりに、豪雨のなかをむりに行軍して、増水した河で溺死者を出した。雨に打たれて発熱した兵士に強行軍をさせて、病死者も出した。たまりかねて抗議した兵士は斬られてしまった。ようやく前線に到着したものの、疲労と飢えとのために、成閔の部隊はすぐには戦力として役に立たない。こまったものだ、と思いつつ、やはり子温は旧知の老将をいたわらずにはいられなかった。なお成閔には十一人の息子がおり、全員が老父にしたがって参陣《さんじん》していた。長男が四十一歳、末《まっ》子《し》が二十二歳である。子温は全員に紹介され、名と字を告げられたが、とうてい憶《おぼ》えきれるものではなかった。
 集まった兵を前に、虞允文が演説した。
「金国を建てた宿将たちは、すでに世にない。金国主は暴虐にして信望なく、兵は無名の師を忌んでいる。今日の金軍は昔日《せきじつ》の金軍ではない。弱点だらけだ」
 このような場合、「じつは味方にも弱点はある」などと、よけいなことをいう必要はないのである。
「そもそも今回の戦役は、十九年前に成立した和約を金賊が一方的に破ってのもの。背盟《はいめい》破《は》約《やく》の罪は、天もこれを赦《ゆる》したまわず。天の理、地の利、人の和、ことごとく天朝《わがくに》にあれば、勝利はおのずとこちらのものだ」
 虞允文が言い終えると、一瞬の間をおいて雲にとどくような喊声《かんせい》がおこった。すくなくとも士気は高いようだ、と、子温は思った。金主《きんしゅ》完顔亮の暴政は、宋人の多くが知っている。長江の要害で金軍を阻止せねば、国土は蹂躙《じゅうりん》され、妻子は殺され、家は焼かれ、その後に長く屈従の日々がつづくであろう。かつての抗金の義勇兵たちと同様、彼らは決意とともに起《た》ったのだ。
 演説を終えた虞允文のもとへ、一通の書状がとどけられた。解任された将軍王権からのものである。完顔亮が王権に密書を送り、南下の兵力とともに金軍に降伏するよう勧告してきた、というのであった。
「おやおや、金主はどうやら情報が遅れているようだ」
 笑った虞允文は、すぐに表情をあらためた。何やら考えこみ、子温と相談した後、筆をとって一文をしたため、使者を立てて金軍の大本営に送りとどけた。
「わが軍の王権はすでに更迭《こうてつ》され、李顕忠が後任となりました。ご存じのように、彼は四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼《そうひつ》殿下より武勇を賞賛された人物です。采石《さいせき》磯《き》において、心より陛下を歓迎する所存ですので、一戦して勝敗を決していただきたいものです」
「願わくば一戦を以《もっ》て雌《し》雄《ゆう》を決せん」この文章を読んで亮は激怒した。一臣下の分際で大金国の天子に決戦をいどんでくるとは、何と生意気な奴か。しかもどうやら勝つつもりでいるらしい。あの老練な劉錡でさえ戦わずして退いたというのに、身のほど知らずめ。よかろう、一戦にして宋軍ことごとくを滅ぼし去ってくれる。
 虞允文の挑発は完全に成功した。ただちに亮は全軍の渡河を命じる。それなりに体系化されていた伐宋戦全体の戦略構想を無視し、正面から渡河を強行しにかかったのである。

    四

 紹興三十一年十一月、こうして采石磯の戦がはじまる。それは建康府のすぐ近く、長江南岸の地名である。ここに金軍が上陸して橋頭堡《きょうとうほ》を確保すれば、翌日には建康府は金軍の包囲下におかれることになるのだった。
 金軍の渡河作戦の総指揮をとったのは阿《ア》隣《リン》という将軍である。平原での騎馬戦にはすぐれていたようだが、準備が万全でないままに長江の渡河を命じられたのは不運としかいいようがなかった。そもそも金国が編成した水軍は東方の海上にあり、まだ長江に達していない。渡河に必要な軍船の数もたりぬまま、阿隣は作戦を実行にうつしたが、軍船の半数は幅八里におよぶ長江の流れを横ぎることすらできず、むなしく流れのなかを右往左往するありさまだ。
 南岸にたどりついた金の軍船は、それでも七十隻を算《かぞ》えた。船上から梯《はし》子《ご》がおろされ、金兵がつぎつぎと浅い水を蹴って上陸してくる。そこへ矛先《ほこさき》をそろえた宋軍が、「殺《シャア》!」の叫びとともに襲いかかった。
 雄《お》叫《たけ》びとともに金軍が応戦する。剣と盾《たて》とが激突し、矛と槍とがからみあい、怒号と悲鳴とがかさなりあい、血煙と水煙とが混じりあって、采石磯一帯の江岸は「土と水とを血がつなぐ」という凄惨な光景を現出させた。
 冑もろとも首が地上に転がる。矛をつかんだままの手が血の尾を曳《ひ》いて水面にはねる。咽喉《のど》をえぐられた兵士が地に倒れ、笛のような音をたてて血を噴きだすと、その上を敵と味方がもつれあって踏みこえ、背骨のくだける音が刃鳴りにかき消される。眼前の敵を斬りたおした兵士が、背中を矛に突きぬかれて絶叫とともに横転する。剣のきらめきが光の帯となって宙を疾《はし》り、血の驟雨《しゅうう》をまきちらす。武器を失った兵が手で敵の首をしめあげる。盾が割られてはじけ飛び、甲《よろい》の亀《き》裂《れつ》から血と内臓がとび出す。地表は赤黒い泥濘《でいねい》と化し、長江からの風は血の匂いに満ちて兵士たちの頭上に渦まいた。一時、劣勢に立たされた宋軍が優勢に転じたのは、ひとりの男のすさまじい闘いぶりからであった。
「金賊を生かして還《かえ》すな!」
 怒号したのは時俊《じしゅん》という武将だった。大軍を指揮するような器量はないが、勇猛で退くことを知らぬ男である。双刀《そうとう》をふるって敵中に躍りこみ、「殺《シャア》!」の叫びとともに、右に左に金兵を撃ちたおしていく。彼の背後には従卒《じゅうそつ》がおり、背中に籐《とう》を編《あ》んだ籃《かご》を背負っていた。籃には二十本もの刀がはいっている。刃こぼれや血《ち》糊《のり》で斬れなくなった刀を、時俊が放りだすと、従卒があたらしい刀を差しだす。それを受けとって、時俊はまたも敵兵を斬りたおすのだった。
 さらに、風の動きを熟知する宋軍は、風上から硫《い》黄《おう》や石炭の煙を流して金軍を苦しめたともいわれる。
 信じられぬほどの時俊の勇戦を凝視していた虞允文が、楼《ろう》の上で大きく采配《さいはい》をふるった。それを地上で見た子温が剣を抜いた。虞允文の合図を待って、これまで江岸を見おろす高地の上で待機していたのである。
「殺《シャア》!」
 喊声をとどろかせて、子温は精兵二千人の先頭に立ち、斜面を駆け下った。戦い疲れた金軍の側面を衝いたのである。強烈な一撃が金軍に加えられ、金軍は隊形をくずして乱れたった。だがそれでも潰乱することはなく、かろうじて保ちこたえた。
 黄金の耳《みみ》環《わ》をつけた戦士が、まず子温の剣に斬り伏せられた。左から突きこまれた槍が、盾の表面にすべって火花を散らす。子温は手首と腰を同時にひねり、横なぐりの一撃でその敵兵の首を宙に飛ばした。盾を激しく振って三人めの鼻梁《はなばしら》と前歯を打ちくだき、振りおろした刃で四人めの左肩をたたき割った。さらに刺《し》突《とつ》し、斬りたてるうちに、時俊と行きあった。いまや従卒の持つ刀をすべて使いはたしたこの男は、金兵から奪った剣でなお斬りまくりながら、切れ味の鈍さをののしっていた。
 日が暮れてもなお死闘がつづいたが、落日の最後の余光が消えさった直後、無数の松明《たいまつ》が金軍の右側背《みぎそくはい》にまわりこむのが見えた。退路を絶《た》たれる、という不安に駆られた金軍は浮足《うきあし》だち、ついに撃退された。この松明は、虞允文が成閔のひきいる部隊に持たせたもので、実戦に参加する力を持たない彼らをいかに活用するか、虞允文は心をくだいたのである。
 上陸を果たした金兵は一万五千余、戦死者四千余、捕虜五百余。宋軍の戦死者も二千を算《かそ》えた。大きな損失は受けたものの、ついに金軍の上陸を許さなかったのである。宋軍の勝利の原因は、地形的に有利な位置を占《し》めていたこと、上陸した金軍が馬を持たず歩兵戦に終始したこと、宋軍の戦意が金軍より高かったこと、等があげられるであろう。そして何よりも。
「まことに長江の流れは百万の兵に匹敵する」
 虞允文が歎息したとおりであった。長江の流れが金軍を阻止《そし》しなかったら、数十万の兵が一挙に殺到して、宋軍を刀槍《とうそう》の洪水にのみこんでしまったにちがいない。
 ようやく長江の北岸に生還した金兵たちは、ほとんどが負傷していた。援軍もないまま奮戦した彼らの労苦は報われなかった。にわかに信じがたいことだが、『宋史』によれば、完顔亮は敗北を怒り、生還した将兵を杖罪《じょうざい》に処した。多くの者が杖に打たれて死んだといわれる。
「近いうちに敵は再び攻撃してくる。戦勝の美酒に酔っているひまはないぞ」
 三日後、虞允文と子温は、あえて戦力を二分した。成閔のひきいてきた兵も、数日の休養でようやく活力をとりもどし、戦力として計算できるようになっていた。かつて四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼が得意としたように、戦いつつ長距離を移動する、というような離《はな》れ業《わざ》は不可能だが、一ケ所に拠《よ》って敵を防ぐていどのことはできるであろう。子温は二百隻の軍船に兵士を乗せ、夜の間に、ひそかに長江をさかのぼった。時俊がこれに同行した。虞允文のほうは、成閔とともに楊林口《ようりんこう》という土地に本営をかまえ、ことさら多くの軍旗を林立させて存在を誇示した。ひとりで左右の手に軍旗を持たされた兵士もおり、風が吹くと倒れてなかなか起きあがれなかったという。
 さらに三日後、楊林口めがけて金軍は殺到してきた。上陸してきた金軍は約五万、河岸を埋め、槍先をそろえて突撃する。その勢いは先日にもまして烈しく、宋軍はささえかねて後退するかと見えた。
「退く者は斬るぞ!」
 老将成閔は自ら大刀をふるって金兵と渡りあい、彼の十一人の息子たちが剣をとって、老いた父を守りつつ闘う。くずれそうに見えながら、宋軍はくずれない。
 金軍はさらに猛攻をつづけたが、にわかに彼らの後方に黒煙があがった。子温のひきいる伏兵が起《た》って、金軍の後方を遮断し、火矢を飛ばして軍船に火を放ったのである。動揺するところへ、時俊のひきいる騎兵二千が側面攻撃をかけ、一挙に形勢は逆転した。
 炎上した金の軍船は三百隻をこえ、戦死者は二万に達した。降伏した者も一万人をこえた。彼らは先日、死闘から生還した味方がどのような目にあったか知っている。陣に帰っても杖で打ち殺されるとあっては、降伏したくなるのは当然であろう。
 この戦いの直後、葉義問は兵士や民衆を動員して、海岸近くに防御施設をつくらせた。金軍騎兵の突進を防ぐため、平地に壕《ごう》を掘り、「鹿角《ろっかく》」と呼ばれる尖《とが》った木の柵を設けて、「よし、完璧だ」と満足げにうなずいた。一夜が明けると、完璧なはずの防御施設は、跡形《あとかた》もなく消えていた。夜の間に満潮になって、おしよせた海水が引くときに、すべてを持ち去ってしまったのである。
「何と、あの大官は、どうやら潮に干満《みちひき》があることもご存じないらしい」
 露骨に嘲笑されて、葉義問は完全に自信喪失した。これ以後、何か命令を下すたびに無視され、反発され、悄然《しょうぜん》として黙りこむだけになってしまう。
 何とも気の毒なことだ、と、子温は思わざるをえぬ。葉義問は文官としては無能でも不誠実でもない。ただ、実戦を指揮するということは、儒学《じゅがく》の素養や詩文の能力などと無関係なのである。葉義問は官庁の奥で机に向かっていればよかった。最前線に立つよう命じたほうが悪いのである。
 ある意味では、虞允文や子温にとっては事がやりやすくなった。彼らの判断や選択を、葉義問は妨害しようとしなかったから、正しいと思える策を迅速に実行することができるのだ。いまや辞表の文面ばかり考えている葉義問を本営の奥に飾っておいて、虞允文と子温はつぎの作戦にとりかかった。
「金軍が渡河攻撃してくれば、何度でも撃退するだけのことですが、味方の兵にも疲労が出てきますでな、子温どの」
「一度こちらからしかけてみますか、そろそろ」
「子温どのはやりたくてたまらぬようですな」
「彬《ひん》甫《ぼ》どのはやらせたくてたまらぬように見えますが」
「おや、見ぬかれましたか。ではしかたありませんな」
 笑顔が出るのも、ここまで何とか戦況を主導できているからである。この四年間、「長江の天険《てんけん》を徹底的に活用して金軍を防ぎとおし、金国内で異変が生じるのを持つ、かならず異変がおきる」という方針のもと、長江と周辺地域の地形、水流、気象を研究しつくしてきた。その方針を変更する必要はないが、さらに一歩をすすめて、積極的に金軍の心理的動揺をさそうべき時機かもしれぬ。
 宋の水軍都督である李《り》宝《ほう》が招かれ、虞允文らと協議した。李宝は河《か》北《ほく》の出身で、金国領となった故郷から脱出して宋軍に身を投じた男である。正規に武将としての教育を受けたのではなく、金軍に対する遊撃戦で自分自身をきたえあげた。百二十隻の軍船を保有しているが、いずれも大型ではなく、速度と軽捷《けいしょう》さにすぐれたものだった。三千名の部下も、正規の官軍出身ではなく、航海や海賊との戦闘で経験をつんだ義勇兵たちであった。
 協議はすぐにまとまった。もともと以前から作戦は考案されているし、情報も集められている。実行の時機が測《はか》られていただけなのだ。即日、子温は李宝に同行して船上の人となった。

    五

 金の水軍は大陸の東方海上、唐島《とうとう》という島に集結していた。長江の河口から二百里ほど北上した、大陸沿岸の島である。後世、土砂の堆積《たいせき》によって完全に大陸の一部となってしまった。
 冬十一月、海上は北風が強く、波が高い。夜の間にひとまず思いきって北上した李宝の船団は、石臼島《せききゅうとう》という島の蔭にひそんで、つぎの夜を待った。唐島までは海峡ひとつをへだてるだけである。海面に闇がおりると同時に、李宝と子温は船団を動かした。帆が強風をはらみ、ほとんど一瞬に金の水軍に肉薄する。海面に油を流すと、それは風を受け潮流に乗って、みるみる金の軍船をつつみこんでいった。
 まさに火がつけられようとしたとき、暗い海面から呼びかける声がした。数|艘《そう》の小舟に乗った男たちが必死で呼びかけているのだ。漢語であった。
「我らは中原《ちゅうげん》の遺《い》民《みん》です。助けて下さい」
 彼らはそう名乗った。中原の遺民とは、かつて黄河流域に居住していた漢族の人々である。金軍が侵入したとき、南方へ逃げおくれて、そのまま金国の支配を受けるようになった。女真族は水が苦《にが》手《て》だから、水軍には多数の漢族が徴用されていた。彼らは先夜、北上する李宝の船団を発見したが、口をつぐんで女真族には知らせなかった。宋軍に勝ってほしかったし、このさい自分たちも脱走して宋に帰順したかったのである。このあたりに、金軍の内蔵《ないぞう》する弱点があった。
「わかった、小舟をこぐなり泳ぐなり、甲冑をぬいで海岸で待機していなさい。あとで助けに行く。早くしなさい、もうすぐ金の軍船は火につつまれるから」
 いそいで去っていく小舟を見送ると、李宝と子温はあらためて行動をおこした。火のついた松明《たいまつ》を海面に投じると、たちまち油に引火して、黄金色の竜が何匹も海面を疾《はし》った。その帯がみるみる金の軍船の群にとどく。金兵たちが気づいたとき、燃えあがる火の壁が彼らをつつんだ。
 たてつづけに爆発が生じ、轟音が夜を引き裂いた。炎と黒煙とが海上に渦まき、火の粉が熱い黄金色の雨となって水面に降りそそぐ。真紅の怪鳥が何十羽も夜空にはばたく。それは燃えあがった帆布が柱から離れて宙へ舞いあがる姿であった。
 交錯する光と闇とのなかを、李宝に指揮される宋軍の船艇は、急流を下る魚群さながらに疾りまわる。弩《おおゆみ》から矢を放ち、火《か》箭《せん》を撃ちこむ。敵船に近づき、斧《おの》や鉤《かぎ》で船腹に穴をうがつ。船と船との間に板を渡して仮橋とし、その上を走って斬りこんでいく。火と水に追われて金兵は恐慌におちいり、にわかに応戦することもできない。
 ひときわ大きな軍船に接舷《せつげん》すると、子温は兵士たちをひきいて跳《と》びうつった。剣を抜いて敵の姿を探す。甲板上で大刀をかざして兵士を叱《しっ》咤《た》する武将が、彼の視線の先にいた。
 それは金の将軍|完顔《かんがん》鄭《てい》家度《かど》であった。黒煙をあびて、顔が煤《すす》けている。子温の姿を見るや、大刀をかざして突進してきた。子温はむかえうった。最初の強烈な斬撃《ざんげき》を、身体を開いてかわすと、身体ごとぶつかるように剌《し》突《とつ》をくりだす。大刀に弾《はじ》き返された。巨大な炎の下で、小さいがあざやかな火花が散る。斬撃の応酬《おうしゅう》は十数合におよんだが、高々と大刀を振りかぶったとき、完顔鄭家度に隙ができた。
 子温の剣が完顔鄭家度の左|鎖《さ》骨《こつ》の上方をつらぬいた。勢いよく剣を引きぬくと、くぐもった叫びとともに、血が奔騰《ほんとう》して、完顔鄭家度は甲板上に横転し、ふたたび起《た》つことはなかった。
 指揮官の戦死によって、金軍は完全に秩序を失った。絶望して海中に身を投じる者、剣をすてて投降する者、最後まで槍をふるって戦死する者。混乱をつつみこんで、炎はいよいよ明るく、闇はいよいよ暗かった。
 一夜にして、戦死および溺死した者は二万人。捕虜となった者は三千人。炎上した軍船は八百隻。金の水軍は潰滅《かいめつ》し、軍船を焼く炎は四昼夜にわたって消えることがなかった。
 暁《あかつき》の最初の光が海面を照らしだすころ、ただよう死体、木片、旗などのなかを横ぎって、子温は海岸に船を寄せた。海岸に泳ぎついた中原の遺民たちを収容するためである。充分に用心した。金の領土内であるから金兵がいる可能性は当然あったのだ。遺民たちを収容していると、にわかに彼らが騒ぎだした。北の方角を指さして叫びたてる。
 見て、子温はおどろいた。神話に登場するような奇怪な猛獣が十頭ほども近づいてくるのだ。両眼は青く赤く光を発し、牙をむいた巨大な口から炎を吐き、咆哮《ほうこう》とも悲鳴ともつかぬ異音をとどろかせる。思わず子温は、部下に弩の斉射を命じるところであった。それを思いとどまったのは、異音の正体が車輪のひびきであることに気づいたからである。そのひびきがやむと、停止した怪獣の影から、武装したひとりの男があらわれた。
「天朝の軍でござるか」
「いかにも大宋の官軍だが、おぬしはいったい何者だ」
 子温の声を聴くと、男は駆けるように進み出て、砂上に平伏した。あわてて子温が助け起こし、名と事情を問うと、男は大声で答えた。
「それがしは淮陽《わいよう》の住人にて、姓を魏《ぎ》、名を勝《しょう》、字《あざな》を彦《げん》戚《い》と申します。生きて官軍に再会でき、これにすぎる喜びはございませぬ」
 怪獣と見えたものは、一台に五十人もの兵士を乗せた戦車であった。獣面をかたどった木牌《きのたて》を正面に立て、とがった杭《くい》を前方に突き出し、牛の革をかさねて矢を防ぐ。車内で機関《からくり》を動かして車輪を回転させるのだ。
 魏勝《ぎしょう》はこの年四十二歳。無位無官の民間人ながら、義勇軍をひきいて、金の国内で何ヶ月も遊撃戦を展開している人物であった。智勇ともにすぐれ、大刀と弓の名人であり、兵器製造にも才能があった、と、『宋史・魏勝伝』は記す。
 山東半島の西南に海州《かいしゅう》という城市《まち》がある。後世の、連雲港《れんうんこう》という都市の近くである。金国にとって重要な港市だが、完顔亮が伐宋の軍を起したと聞くと、魏勝は三百人の義勇兵をひきいて、金国内に逆侵入し、海州城を奪取してしまったのである。城を守っていた渤海《ぼっかい》人の将軍|高文《こうぶん》富《ぷ》は捕虜となった。この年六月のことである。
 おどろいた金軍は十万の兵を割いて海州城を攻囲した。この城を放置しておけば、金軍が長江を渡るとき後背《こうはい》を衝かれかねない。かくして激烈な攻防戦が展開された。付近の漢族住民が金軍を恐れて逃げこんできたので、食糧が不足して長くは保《も》つまい。そう思われていたのだが、魏勝は奇略縦横、じつに二十度にわたって金軍を撃退した。そして、昨夜、城壁から海上の猛火を発見し、宋軍が来たことを知って、彼が発明した戦車で金軍の包囲を突破し、援軍を頼みに来たのである。
 これほどの魏勝の奮戦を、宋の朝廷はまったく知らなかったのだ。だが、魏勝の出現で事態が判明した。「金軍が十万の兵を割いて海岸方向へ出撃した」という諜者の報告は、このことであったのだ。
 子温は魏勝を軍船に乗せ、李宝とともに建康に帰還した。ただ一夜に金の水軍を潰滅させ、十万の敵兵力を無力化した彼らの功績は大きい。子温は魏勝を張浚に引きあわせた。
 張浚は決断がはやい。ただちに人事権を行使して、魏勝に官位を与えた。山東《さんとう》路《ろ》忠《ちゅう》義《ぎ》軍《ぐん》都《と》統制《とうせい》、そして海州《かいしゅう》路知事《ろちじ》である。魏勝は感激して厚く謝辞を述べたが、祝宴には参列せず、すぐに建康を去った。彼がいなければ海州城をささえることはできないのであった。
 この後、魏勝は海州および楚州《そしゅう》に駐屯し、三年後に戦死するまで、金との最前線に立ちつづけた。彼は部隊が撤退するとき、かならず自分自身で最後衛をつとめたが、ある日、「おれは今日の戦いで死ぬような気がする」と語り、そのとおりになった。いつものように最後衛をつとめ、追撃する金軍の矢を受けて死んだのである。四十歳をすぎるまで無名の民間人として生き、死ぬ直前の三年間に、宋の勇将として歴史に名を残した。「山東魏勝《さんとうのぎしょう》」と書かれた軍旗を見ると、金軍はあえて戦うことを避けるといわれた、異色の武将であった。
 なお、魏勝が考案した兵器のいくつかは、朝廷によって正式に採用され、官軍によって大量に生産使用されるようになった。

 唐島において金の水軍が全滅した。その兇報がもたらされたとき、完顔亮は怒声とともに黄金の杯を使者の顔にたたきつけた。顔を血まみれにして退出した使者は、殺されずにすんだことを天に謝したといわれる。楊林口で三百隻が焼かれ、唐島で八百隻が覆滅《ふくめつ》し、金軍は保有する軍船の九割を喪失した。「年内に長江を渡り、杭州臨安府を陥《おと》す」という亮の計画は、実現から大きく遠のいたように見えた。否、それどころではなかった。
「東京留守完顔雍、叛《はん》す!」
 その報が北方からとどき、金軍の将帥《しょうすい》たちは表情を凍らせた。
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第十章 長江無尽《ちょうこうむじん》


    一

 東京留守完顔雍《とうけいりゅうしゅかんがんよう》、すでにして帝《てい》を称し、年号をあらためて大定《たいてい》とさだむ。その報を受けたとき、金主完顔亮《きんしゅかんがんりょう》は怒った。ただ、その怒りの質が、臣下たちの予測とはややちがった。
「雍め、剽窃《ひょうせつ》しおった」
 おどろいて、伐宋《ばつそう》軍の士官たちは皇帝の怒りを見守った。
「大定という年号は、おれが考えたのだ。宋《そう》を滅ぼし、天下をことごとく平定してから改元するつもりでいたのに、奴めは、おれが考えていた年号を偸《ぬす》みおったのだ!」
 沈黙したまま見守る士官たちを相手に、亮は従弟《いとこ》をののしりつづけた。
「もともと奴は、いつもおれの後をついてくるだけの、つまらぬ男だった。今回とて、見よ、おれが燕京《えんけい》や開封《かいほう》を遠く離れて|るす《ヽヽ》にした隙に、こそこそ旗を立ててみせただけのことではないか。見ておれ、今年のうちに偽《ぎ》帝《てい》めを車裂《くるまざき》にしてくれるわ」
 豪快に亮は笑ったが、将軍たちのなかで呼応して笑う者は誰もいなかった。

 それは十月七日のことであった。雍を支持する金の将軍たちは、東京府城の周辺に集結し、城内の雍の親衛隊と呼応して、一挙に突入したのである。
 激烈な市街戦が展開されたが、それも長くはつづかなかった。副留守高存福《ふくりゅうしゅこうぞんふく》麾下《きか》の兵士たちは、ほぼ半数が武器をすてて投降し、残る半数のほとんどは武器を持ったまま高存福に背《そむ》いた。むしろ先頭に立って、彼らは副留守に刃《やいば》を突きつけたのである。
「裏切者どもめ!」
 という高存福の叫びに、その兵士たちは答えた。
「悪をすてて善についたのだ。汝《なんじ》もそうしたらよかろう。それとも暴君に殉《じゅん》じて死ぬか」
 高存福はうめいた。彼は最初から亮の密偵として雍を監視していた。さらに彼の娘は後宮《こうきゅう》にはいって亮の寵愛を受けていた。二重に亮の縁者であり、いざとなればためらうことなく雍を暗殺するつもりでいた。いまさら雍に跪《ひざまず》くことなど、できようはずもない。
 絶望の叫びとともに高存福は走り、城壁の上から身を投げた。陰暦の十月である。北方の東京府|遼陽《りょうよう》城では鉛色の空に粉雪が舞っていた。冷たい大地に倒れて動かぬ高存福に、視線を向ける者は誰もいない。数万の将兵は、城壁上に姿をあらわした雍を仰《あお》ぎみて、剣や槍を高々と天へ突きあげ、「万歳万歳万万歳《こうていへいかばんざい》!」と叫んでいた。
 その日のうちに雍は即位して皇帝を称した。これが金の世宗《せいそう》皇帝である。ときに三十九歳の壮齢《そうれい》であった。
 この日のために幾年も考えぬき、冷遇に耐え、暗殺を警戒し、準備をととのえてきたのだ。ただちに世宗は亮に対する弾劾《だんがい》文を発表し、十八の大罪について責任を追及した。
 この「十八カ条の罪」のなかに、遼《りょう》の海浜王《かいひんおう》(天《てん》祚《そ》帝《てい》)や宋の天水郡公《てんすいぐんこう》(欽宗《きんそう》)を殺害した、ということが記されている。その他、先帝の煕《き》宗《そう》を弑逆《しいぎゃく》したこと、多くの皇族を殺し、その妻や娘を姦《おか》したこと、重税と労役で数千万の人民を苦しめたこと、などが列挙されていた。
 雍こと世宗の新政権は、当座は武将たちを中心に発足した。完顔謀衍《かんがんぼうえん》、完顔福寿《かんがんふくじゅ》、高忠建《こうちゅうけん》、廬《ロ》万《バン》家奴《カド》らがその陣容である。いずれ世宗は、亮の重臣たちのなかから、才能と識見とを具《そな》えた者を新政権に迎えるつもりであった。張浩《ちょうこう》、※[#「糸+乞」、unicode7d07]石烈良弼《きっせきれつりょうひつ》、僕散忠義《ぼくさんちゅうぎ》などである。彼らのような名臣がいたのに、亮は彼らを用いず、ついに国を失うに至った。自分はけっしてそのような愚行はしない、と、暗い冬空を見あげて、雍はあらためて自らに誓ったことであろう。そして彼を仰いで「万歳」をとなえる軍民のなかに、阿《あ》計替《けいたい》などもいたことと思われる。

 国内の危機を直視することなく出征してきた亮は、陣中にも多数の妃や女官をともなっていた。一日も女性なしではいられぬ亮である。これまで北方の女性ばかりを相手にしてきたが、宋を滅ぼせば、洗練された江南の美女たちをほしいままにすることができるのだ。それこそ人生の快事だ、と、亮は思っていた。
 燕京にいたとき、亮は後宮で一夜のうちに幾人もの美女を幸《こう》することがめずらしくなかった。房室《へや》から房室へと移動するとき、長い長い廊下の各処に女官をすわらせておき、その膝《ひざ》の上に腰をおろして休息するのだ。
「天子さまはなぜそんなにまで苦労なさるのですか。お疲れでしょうに」
 高実《こうじっ》古《こ》という女官に問われたとき、汗を拭《ふ》きながら亮は答えたという。
「天子になるなど、予《よ》にとっては容易なことだ。だが、一夜に幾人もの美女を抱く機会は、めったにあるものではないからな。ま、これも天子のつとめだ」
 このような逸《いつ》話《わ》を読むと、亮は、まじめ一方でおもしろみのない従弟の雍に較《くら》べて、はるかに興味深い人物であるように思われる。おそらく、おもしろすぎる人物は、天下の主にはふさわしくないのだろう。おもしろい暴君に殺されるより、おもしろさに欠けても良心的な統治者の下で平和に生きたい、と民衆が考えるのは当然のことである。
 世宗皇帝完顔雍は、歴史上、「小堯舜《しょうぎょうしゅん》」と呼ばれる。堯と舜とは、ともに古代伝説の聖王であり、彼らに喩《たと》えられるほどの善政を、世宗は布《し》いたのである。いわば世宗は聖人であり、聖人の伝記がおもしろくないのはどうしようもないことである。煕宗と亮と、二代にわたる皇帝が国を傷つけ、死の寸前に追いやった。世宗の責務は、医師として国を癒《いや》すことであった。私心をすてて国を療すことに成功した世宗は、その個性ではなく業績によって評価されるべきであろう。狩猟に出たとき、廷臣が、子を孕《はら》んだ兎《うさぎ》を射《い》たので、「何と無慈悲なことをするのか」と怒ってその廷臣を罰し、以後ついに兎の猟を禁じた、ということぐらいが、この聖王の逸話である。
 さて、完顔亮は再三の大敗にもめげず、なお三十万をこす大軍をひきいて長江の北岸を東へ移動した。そして揚州《ようしゅう》城に入城したのであるが、府庁の前に来たときである。
「何だ、これは。この文章は!」
 亮の声が憤怒にひきつった。彼の視線を追って、士官たちは唾《つば》をのみこんだ。

  完顔亮死於此

 宋の老雄|劉錡《りゅうき》の筆になる六つの文字が、白い壁に黒々と躍っている。文章も不吉なら、亮を「大金国皇帝」どころか「金主」とすら書かず、本名を呼びすてにしているのは、無礼もはなはだしい。むろん劉錡は最初から亮を怒らせるために書いたのである。
「府庁を焼け」
 と、亮は怒号したが、北風の強い時期である、大火となるのを配慮して、さすがに放火命令を取り消した。かわりに三百名の兵士に命じ、府庁の白い壁を黒く塗《ぬ》りつぶすよう命じた。大量の墨《すみ》がすられ、桶《おけ》にいれられた。寒風にさらされながら兵士たちが壁面を塗りはじめると、亮は将軍たちをかえりみて告げた。
「近くの烏《う》江《こう》には西《せい》楚《そ》の覇《は》王《おう》の廟《びょう》があると聞く。ぜひ立ちよって拝礼したい」
「西楚の覇王」とは項《こう》羽《う》のことである。用兵の天才であり、中華帝国の歴史上、勇猛さという点において、おそらく比肩しうる者はいないであろう。虞《ぐ》美《び》人《じん》との恋や、壮絶としかいいようのない最期、「四《し》面《めん》楚《そ》歌《か》」などの故事により、その名は異国人にも親しい。
 亮は詩人である。ことに悲壮美を愛し、英雄にあこがれる詩人であった。項羽の廟があると聞いては、とうてい看《かん》過《か》することはできなかった。
 かくして亮は数万の将兵を引きつれて烏江の覇王廟へと向かった。千四百年前の英雄を祀《まつ》るためにつくられた廟は宏壮で、建築材料も高価そうだが、金軍の侵攻におびえた番人が逃げだしてしまい、手いれがいきとどかず、やや荒涼たる印象があった。すぐに亮は兵士たちを動員して清掃させた。廟の内部にはいると、等身大の項羽の画像が壁にかけられている。かなり|でき《ヽヽ》のよい画像であったらしく、亮はながめて歎賞した後、香を焚《た》いてあらためて拝礼した。詩人である彼は、このとき感懐《かんかい》を託《たく》して詩をつくったようだが、それは後世に伝わっていない。
「英雄、惜しむべし、惜しむべし」
 大声をあげて歎じると、亮は涙を流しはじめた。項羽の劇的な生涯に想いを馳《は》せ、虞美人との別離などかずかずの情景を脳裏に描くと、感情の豊かな彼は泣かずにいられぬ。
「覇王の雄《ゆう》志《し》は、この亮が受けついで天下を統一いたす。照覧《しょうらん》ありたし」
 だが感動の大波におぼれているのは亮ただひとりで、周囲の文官も武将も白《しら》けきっている。皇帝が地上にならびない自己陶酔家であることを、彼らは知っていた。それに第一、自分を項羽に喩《たと》えるなど、不吉もきわまる。項羽はたしかに絶代《ぜつだい》の英雄、蓋世《がいせい》の天才であったが、結局、漢の高《こう》祖《そ》に敗れて死んだではないか。そう思いつつ、口に出していう者は誰もいないのであった。
 満足して覇王廟を出ると、亮は揚州にもどった。府庁の壁が黒く塗られているのを見て、「よし」とうなずき、城外西南の瓜《か》州《しゅう》渡《と》というところに大本営を設置した。そこは長江の豊かな流れを眼下に見おろす場所で、まことに風光|絶《ぜっ》佳《か》の土地である。
「黄天蕩《こうてんとう》といい和尚原《わしょうげん》といい、三文字の地名は金軍にとって不吉だ。采石《さいせき》磯《き》も揚林口《ようりんこう》も三文字だったではないか。瓜州渡もよい名とはいえぬぞ」
 いささか迷信じみた不安の声も、亮の耳にはとどかない。大本営にまず運びこまれたのは、三百人をこす後宮の美姫たちと、彼女らの調度や化粧品、衣服などであった。亮は美女の群にかこまれながら、この大本営で、長江の水上に展開される宋金両軍の死闘を悠々と見物するつもりであった。

    二

 采石磯、揚林口と敗北をかさねる金軍の指揮官たちは、亮のように人生を楽しんではいられなかった。
 ひときわ金軍を緊張させたのは、李顕忠《りけんちゅう》と楊折中《ようきちゅう》についての情報であった。彼らは虞《ぐ》允文《いんぶん》や子《し》温《おん》のような無名の新人ではない。四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼《そうひつ》や岳《がく》飛《ひ》や韓世忠《かんせいちゅう》らが戦場を駆ける「英雄たちの時代」を生きぬいてきた宿将である。彼らの名を聞いて、金軍は緊張せずにいられなかった。
 李顕忠は約二万の精鋭をひきいて虞允文らに合流した。正確には一万九千八百六人である。そこまで正確に判明しているのは、『宋史』に記述されているからだが、無傷の精鋭をそろえた李顕忠の存在は金軍にとってただならぬ脅威であった。
 楊折中のほうは、水軍をもひきいて虞允文と合流した。采石磯の高台に立って部隊を閲兵し、水軍に演習をさせた。長江の流れのただなかに軍船を集結させたのは、金軍に対する示威《じい》である。この演習には、みごとな効果があった。北岸で見守る金軍の前で、三百隻の軍船が上流へ下流へ、鳥が舞い飛ぶごとく疾《はし》りまわり、一糸みだれぬ統率と操船《そうせん》の妙を、金軍に見せつけたのである。
「あの動きを見たか」
 金の将兵たちはささやきあった。宋の軍船の動きは、彼らを驚歎させるに充分だった。ただひとり、おどろかなかったのは皇帝の亮だけである。彼は黄金の鞍《くら》をつけた馬に騎《の》って見物していたが、やがて嘲笑《ちょうしょう》とともに吐きすてた。
「紙《し》船耳《せんのみ》」
 あんなものは紙の船も同様だ、実戦の役になどたつものか。
 そう言い放ったのは、自信か驕慢《きょうまん》か。いずれにしても兵士たちにとって、さして励ましにはならなかったようだ。水上戦において金軍は宋軍に劣等感をいだいている。かつて女真《じょしん》族の武《ぶ》神《しん》ともいうべき四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼が、黄天蕩において韓世忠に敗れた、という忌《い》まわしい記憶もある。つい先日も、東方海上で水軍が潰滅《かいめつ》したばかりではないか。
 不安を禁じえずにいるところへ、またも兇報がもたらされた。李顕忠は前線に着くと早くも軍船をしたてて、揚州より百里ほど上流で長江を渡ったというのである。
 あわてて金軍は李顕忠の速攻にそなえようとしたが、横山澗《おうさんかん》という谷川で李顕忠と遭遇した金軍二万は、ほとんど一瞬で撃砕されてしまった。馬上で大刀をふるう李顕忠は、金の将軍|韋《い》永寿《えいじゅ》を脳天から顎《あご》までたたき割って即死させた。韋永寿の僚友である将軍|頓遇《とんぐう》は、李顕忠の部下|張振《ちょうしん》の矢を受けて重傷を負《お》った。彼はかろうじて敗残兵をまとめ、戦場を離脱したが、このまま本軍に合流しても敗戦の責任を負って殺されるだけだ、と考え、北方へ向かって姿をくらましてしまった。
 李顕忠はほとんど無傷のまま、西から金軍の補給路をおびやかす態勢にはいった。
 あいつぐ兇報に、完顔亮の眉が勢いよくはねあがった。彼は覇王廟で天下統一を項羽の霊に誓ったのだ。それがこうも負けてばかりでは、心楽しかろうはずがなかった。加えて、北からは、即位した雍が着々と勢力を強化しつつある、と伝えてくる。ついに亮は激発した。大本営に士官たちを集めたのだ。
「三日だ」
 亮の宣告がとどろきわたった。
「三日間だけ猶《ゆう》予《よ》をくれてやる。長江の渡河を成功させよ。さもなくば、汝ら、ことごとく営門《えいもん》に役たたずの首を曝《さら》されると思え!」
 床を踏み鳴らして亮が奥へはいった後、士官たちは暗然《あんぜん》たる視線をかわしあった。三日のうちに渡河を成功させるなど、とうてい不可能である。これが北方の曠《こう》野《や》であれば、金軍の誇る騎兵集団の猛攻で圧倒的な勝利をえられるであろう。
 だが騎馬で長江を渡ることなどできようはずもない。水軍が潰滅したため、軍船の絶対数が不足している。何度かくりかえして将兵を輸送するとしても、上陸した部隊はそのつど増援がないままに撃滅されるであろう。つまり、「兵力の逐《ちく》次《じ》投入」という愚《ぐ》を犯し、損害を増やすばかりである。まして先日の宋水軍の練《れん》度《ど》を見ると、金の軍船が無事に長江を渡れるとも思えぬ。
「こうなれば殺すか殺されるかだ」
 士官たちは心理的に追いつめられた。亮の発言が単なる虚喝《おどし》とは、誰も思わなかった。采石磯の死闘で敗れた後、かろうじて生還した将兵たちがどのような待遇を受けたか、全員が知っていた。
「|あの男《ヽヽヽ》を殺すしかない」
 憎悪と恐怖とが、回避しようのない結論をみちびきだす。だが、それでもなおためらいはある。「あの男」は玉座《ぎょくざ》の主であり、天子を殺すのは大逆《たいぎゃく》の罪にあたるのだ。
 完全に決断がつかぬまま、彼らは大本営の外に出た。と、戦場にふさわしからぬ嬌声《きょうせい》が彼らの耳をたたいた。亮が後宮の女たちを車に乗せ、野外の宴遊《えんゆう》に出かけようとしているのだ。数十台の車が大本営からゆるやかに走り出ていく。
 雪のようなものが、士官たちの前に舞い飛んできた。それを掌《てのひら》にとって、彼らは愕然《がくぜん》とした。金箔《きんぱく》であった。女たちの車に金箔が貼《は》られており、それが強風に剥《は》がされて飛んできたのだ。士官たちの脳裏で何かが弾《はじ》けた。
「女たちを乗せる車に、惜しげもなく金銀|珠玉《しゅぎょく》を使いながら、渡河に成功した兵士にはたった黄金一両。おれたちの生命の価値は、車の飾りひとつにもおよばぬのか」
「すでに北方では東京留守が新天子として即位した。おれたちがあの男を殺しても、弑逆《しいぎゃく》にはならないのではないか」
「それどころか新天子に対して、これ以上の忠勤《ちゅうきん》はあるまい」
「新天子は仁慈の人だ。|あの男《ヽヽヽ》が玉座に居すわりつづけるより、新天子がとってかわるほうが国のためだ」
「もともと|あの男《ヽヽヽ》は先帝を弑逆したてまつって即位した簒奪者《さんだつしゃ》ではないか。今度は自分が殺されることになっても、因《いん》果《が》応報《おうほう》、誰を責めようもあるまい」
「そうだ、自《じ》業《ごう》自《じ》得《とく》というものだ」
「おれたちに罪はない。おれたちを追いつめた狼主《ろうしゅ》が悪いのだ」
「そうだ、狼主を倒せ」
 狼主とは、狼《おおかみ》のように兇悪|獰猛《ねいもう》で、人を害する君主のことである。狼が聞けば怒るにちがいない。いずれにしても、輻輳《ふくそう》する無数のささやきが、将兵たちを決意させた。彼らが冷静さを保っていれば、おなじ声が各処で彼らを煽動していることに気づいたかもしれない。だが、たとえ気づいたとしても、彼らの決意が変わることはなかったであろう。
 もっとも有力な将軍のひとり完顔《かんがん》元《げん》宜《ぎ》が決意したことで、その夜のうちに破局が到来することになった。
 十一月二十七日の深夜である。完顔元宜は麾下の兵力をあげて、亮の寝所を包囲した。彼は浙西道《せっせいどう》兵《へい》馬都《ばと》統制《とうせい》の地位にあり、五万ほどの兵力を動員することができたが、他の将軍もそれを阻止する気配を見せなかった。否、むしろ協力して「狼主《ろうしゅ》」を抹殺する動きを見せた。全軍が共犯であった。
 寝所に乱入したとき、兵士たちを迎えたのは女官たちの悲鳴である。その悲鳴が兵士たちを逆上させ、振りおろされる白刃に血が散って、壁や床に紅《あか》い縞《しま》を描いた。その惨状に目もくれず、豪壮な牀《しょう》の絹の帳《とばり》をはねあげた士官が三名いる。ひとりは納哈《ナハ》幹《カン》、ひとり魯補《ロホ》といった。同衾《どうきん》していた半裸の女官ふたりをはねのけて、牀の上に起きあがった亮は、たけだけしい眼光で侵入者たちを睨んだ。
「何をするか。予は汝らの天子だぞ!」
 威をこめて叱《しっ》咤《た》すると、三名のうち二名はやや怯んだ。納哈幹と魯補である。だが三人めの男は大胆に嘲弄《ちょうろう》してみせた。
「天子だと? 汝が天子らしいことを一度でもしたことがあるか。汝は先帝を弑逆したてまつった簒奪者ではないか」
「うぬ、予が簒奪者だと」
「汝を討って国を守り民を救う! せめて最期をいさぎよくせよ!」
 叫ぶと同時に、男は剣をかまえて躍りかかった。意味をなさぬ怒号を発して、亮も右腕を伸ばした。大きな牀の端におかれた宝剣をとろうとした。剣を手にすれば、二、三人は斬り伏せる自信があった。だがその動作は緩慢《かんまん》だった。十年以上にわたる美食と荒淫《こういん》と暴飲と怠《たい》惰《だ》とが、彼の反射速度を老人のものにしてしまっていた。
 腕を伸ばしきってがらあきになった右|腋《わき》を、男の剣が深く深くつらぬいた。刃は亮の上半身を刺しとおし、剣尖《けんさき》が左の腰骨の上から体外へ飛び出した。異様な呻《うめ》きをあげて亮は硬直した。そこへ納哈幹と魯補が飛びかかり、下腹部と右《う》頸《けい》部《ぶ》を突き刺した。剣を引きぬくと、熱い血が絹の帳を染めて、大輪の椿《つばき》が咲いたかに見えたという。
 亮と同衾していた女官ふたりは、恐怖のために失神していたが、亮のたくましい長身が彼女たちの上に倒れこむと、意識をとりもどしてすさまじい悲鳴をあげた。その悲鳴もふいにとぎれて、ふたりはふたたび失神した。
「狼主は死せり!」
 帳の外によろめき出て、かすれた声で魯補が喚《わめ》くと、帳の外で歓声がおこった。血に酔った叫びであった。狼主の死体はどうする、焼いてしまえ、といった声が飛びかった。ひとり帳のなかに残った男が、なおわずかに息のある亮の耳もとにささやいた。
「四《スー》太《ター》子《ツ》ご一族の恨み、思い知ったか」
 その声が耳にとどくと、死に瀕《ひん》した男は弾かれたように眼を開いた。血の泡にまじって、かすかな声がどす黒い唇の間から洩《も》れた。
「汝は……汝の名は?」
「蕭遮巴《しょうしゃは》」
 答えてから、男は低く笑った。
「というのは仮の名だ。おれに名を貸した男は、いまごろ東京遼陽府にいるだろう。おれの本名は黒蛮竜《こくばんりゅう》。亡《な》き四《スー》太《ター》子《ツ》に恩をこうむった者だ。事情がのみこめたか」
 それには応《こた》えず、亮は鮮血にまみれた笑いを口もとにきざんだ。
「汝らは蛮人《ばんじん》だ。中華の礼法では、天子を弑《しい》するときには血を流さぬよう毒を使うのだぞ」
 たてつづけに血の泡を噴きこぼすと、亮は絶息した。彼が煕《き》宗《そう》皇帝を殺したときには剣を使ったのだが、そのことは忘れていたようである。
 金主完顔亮は四十歳。煕宗皇帝を殺して即位してより十二年である。彼は死と同時に帝位を廃され、「海陵王《かいりょうおう》」の称号を与えられたが、やがてそれも剥奪されて庶人《しょじん》とされた。庶人とは無位無官の平民を意味する。それでも『金史』は彼の伝記を「本紀」に組みこんで「海陵紀」と称し、このため歴史の著作では彼を「海陵」ないし「廃帝《はいてい》亮」と呼ぶことが多い。
 亮が殺されたのは、岳飛の死後二十年、そして隋《ずい》の煬帝《ようだい》が同じ揚州で殺されてから五百四十三年後のことである。彼は煬帝の栄華と才能にあこがれ、彼のようになりたいと望んだ。そして同じ場所で同じように部下に殺害されたのである。

    三

 宋軍にもたらされた報告は急であった。
「金軍が北方に移動しつつあります」
 最初の報はそれだけであったから、虞允文も子《し》温《おん》も、うかつには動けなかった。軍を返すと見せかけて、宋軍が渡河攻撃をかけたらにわかに反転攻勢に出る。そのような作戦かもしれない。何といっても金軍はなお三十万以上の兵力をかかえているのだ。
 だが、つづいて海州《かいしゅう》の魏勝《ぎしょう》からも使者が派遣されてきた。
「海州城の包囲をつづけていた金軍が、包囲を飾いて北へ帰りはじめました。物資も置きざりにして、かなり急いでいるようす。何やら異変が生じたことは、まちがいございません」
 この報を受けて、子温たちは推測をかためた。
 虞允文、楊折中、それに子温は、軍船に乗って長江を渡り、北岸に上陸した。同行した兵士は三百名ていどであったが、もはや何の危険もなかった。道を進むと、いたるところに金軍の遺棄《いき》した武器、食糧、資材が転がっている。揚州の城市《まち》にはいり、府庁の壁が黒く塗りつぶされている光景におどろいていると、ひとりの男が出てきた。服装は宋人のものだが、呼びかけてきた声に契丹《きったん》のなまりがある。
「韓彦直《かんげんちょく》とやらいう人はどなたかね」
 遼が金に滅ぼされた後、何万人もの契丹族が金の支配から脱し、宋に亡命してきた。宋でも彼らを保護すると同時に、外交や軍事に利用し、ことに金国内の契丹族と連絡をとるのに役だててきた。彼はそういった亡命者のひとりらしかった。彼の手から書簡を受けとって、子温は差出人の名を見た。
「ああ、黒蛮竜は健在だったか」
 子温は喜んだ。金軍と戦いながら、つねに気になっていたのは、彼や母親と縁があった女真族の勇者のことであった。子温自身の手で幾人も金兵を殺しながら、敵陣にいるかもしれぬ知己《ちき》の身を案じるのは、この時代に生きる者の心情としてはべつに矛盾していないであろう。
 あわただしく文面を読み下すと、子温は呼吸をととのえて楊折中と虞允文に告げた。
「金主完顔亮はすでに殺されました。金の全軍は占領地をすてて帰国の途についております」
「……つまり、わが軍は勝ったというわけだな」
 老将楊折中がつぶやき、自ら訂正した。
「いや、金の暴君めがかってに敗れたということか。いずれにせよ、本朝《わがくに》のためにめでたいことではある。ただちに陛下にお知らせ申しあげるといたそう」
「劉三相公《りゅうさんしょうこう》の予言的中でしたな」
 感心したような声は虞允文である。彼の視線は、黒く塗りつぶされた府庁の壁に向けられていた。そこに劉錡の筆で「完顔亮死於此」と書かれていたことを、虞允文は契丹族の男から聞いたのである。たしかに、府庁の壁にその六字を記された揚州こそが、完顔亮の終焉《しゅうえん》の地となったのだ。六十万の大軍も、彼の生命を守る盾とはなりえなかった。
「六十万金軍のうち、おそらく完顔亮の味方はひとりもいなかったのだろう」
 そう思うと、一瞬、子温は完顔亮の孤独が憐れになった。だがすぐに自分の甘さに気づいて頭《かぶり》を振った。同情すべきは、望みもせぬ戦いに駆りだされた兵士たちであり、さらに同情すべきは、暴君の統治下で荒んだ金兵たちの侵攻を受けた宋の民であるはずだった。
「英雄の美学に殉じるのは当人だけでよい。去る敵をわざわざ追って、よけいな血を流すこともなかろうよ。ひとわたり巡回して民心を安定させたら引きあげるとしよう」
 楊折中が断を下した。古来、「帰師《きし》を阻《はば》むなかれ」という。故郷への帰路をいそぐ軍隊を攻撃すると、必死の反撃を受けて大きな損害を出すものである。百戦錬磨《ひゃくせんれんま》の楊折中はそれをよく知っていた。かくして金軍は、追撃を受けることなく北帰の道をたどった。李顕忠は彼らを追《つい》尾《び》する形で北上し、金軍が淮《わい》河《が》を渡って帰国するのを見とどけてから軍を返した。
 亮の訃《ふ》報《ほう》が開封にもたらされると、そこでも将兵が叛乱をおこした。親征する亮にかわって開封を留守《りゅうしゅ》していたのは長子の光英《こうえい》であるが、叛乱軍によって殺害された。わずか十二歳であった。亮は光英の聡明さを愛し、
「予は光英が十八歳になったら天下を譲る。それ以後は朝から晩まで遊んで暮らし、人生の快楽をきわめるつもりだ」
 と、つねづね語っていたが、すべては無に帰した。光英は父の乱行に心を傷《いた》めていたというから、気質としては父よりむしろ世宗のほうに似ていたかもしれない。
 開封も燕京も、すべての要地が世宗に味方する者の支配下にはいった。ごく短期間のうちに、金においては新天子の威権が確立された。あとは契丹族の大叛乱さえ平定すれば、国内に憂いはなくなる。亮の死後、残党というものはほとんど存在しなかったのである。

 子温が建康《けんこう》にもどると、「楊国《ようこく》夫《ふ》人《じん》」こと梁紅玉《りょうこうぎょく》はすでに帰宅の準備をととのえていた。
「良臣《りょうしん》どのが亡くなってから、わたしも世にふたたび出ることはないだろうと思っていた。でも出てみると、けっこうおもしろいことがあるものだね」
「戦勝の祝宴には出ないのかい」
「もうたくさんだね。先だって剣の舞をやったあと腰が痛くてたまらなかったよ。年歳《とし》をとったものだ。家に帰って寝ているのが一番さ」
「送っていこうか」
「そんな暇があったら、つぎはもうすこし楽に勝てる方法でも考えるんだね。妻子ある身でいつまでも親に頼るんじゃないよ」
 驢馬《ろば》に乗って、さっさと梁紅玉は西《せい》湖《こ》の畔《ほとり》へ帰っていった。腰が痛い、などという人にはとうてい見えない、姿勢ただしい後ろ姿だった。
 梁紅玉は去り、金軍も去った。呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]も出戦の目的をはたして四《し》川《せん》に帰った。すべてはこれで終わるはずだったが、そうはならなかった。勝利をえると同時に、宋の宮廷では主戦論が沸騰しはじめたのである。
 この年のうちに、金国に抑留されたまま消息不明となっていた欽宗皇帝の死がようやく公表され、宋の朝廷は哀悼《あいとう》の意をあらわした。これまで「靖康帝《せいこうのみかど》」と呼ばれていた趙桓《ちょうかん》が、「欽宗恭文順徳仁孝《きんそうきょうぶんじゅんとくじんこう》皇帝」という諡《し》号《ごう》をえたのはこのときである。多くの歴史事典は、これをもって、欽宗の没年を西暦一一六一年としている。『金史』ではなく『宋史』の記述を採用しているわけだ。『金史』には西暦一一五六年六月に欽宗が没したと明記されている。
 あわただしく戦後処理のうちに日が過ぎて、翌年となった。紹興三十二年(西暦一二八二年)である。この年二月、高宗《こうそう》は建康府に赴《おもむ》いて、対金戦の勝利に貢献した将軍たちの功を犒《ねぎら》った。まったく功績のなかった葉《よう》義《ぎ》問《もん》は、罪を謝して致仕《ちし》を願い出た。高宗はそれを許し、葉義問の失敗については不問に付した。
 この年は閏年《うるうどし》で、二月が二回あった。閏二月、劉錡の死が伝わって、子温を悲しませた。精神的な打撃から立ちなおることができず、憤《ふん》死《し》同然の死であったという。朝廷は生前の彼の功績をたたえ、開《かい》府《ふ》儀《ぎ》同《どう》三《さん》司《し》という名誉ある地位と、武《ぶ》穆公《ぼくこう》という諡《おくりな》を賜《たま》わった。だが形式はともかく、「劉三相公《りゅうさんしょうこう》」と呼ばれて敬愛された老雄の晩年は不遇であった。
 その葬儀も終わらぬうちに金軍が海州城を攻め、魏勝によって撃退されている。六月、高宗は譲位して上皇となり、皇太子が即位した。孝宗《こうそう》皇帝である。即位直後、張浚《ちょうしゅん》をはじめとする主戦派が金への出兵を主張した。若い新天子はその意見に賛同しそうに見えた。
 子温は異議をとなえた。
「おそれながら、これ以上の戦いは無益かと存じます。すでに北方では完顔雍が即位し、急速に威権を確立しつつあります。彼は文武に練達し、仁《じん》慈《じ》寛厚《かんこう》の長者として信望あつい人なれば、金の軍民は彼のもとに結束いたしましょう」
 さらに子温は意見を述べた。
「金軍の総兵力はなお五十万。彼らは完顔亮のために死ぬのは嫌でも、新帝のためには死を恐れますまい」
 子温が息をつくと、かわって虞允文が口を開いた。
「長駆《ちょうく》して開封を奪回し、さらに黄河を渡って北へ旌《せい》旗《き》を進めるだけの力は、残念ながらわが軍にはございません。二、三年は兵を休養させて然《しか》るべしと存じます。いま急進しても現地で食糧を調達することはできず、兵を飢えさせるだけに終わりましょう」
 虞允文や子温の意見によって、一時、出兵論は葬りさられるかと見えた。
 だが老いた張浚は主戦論の権《ごん》化《げ》となっていた。采石磯の勝利を、金を滅ぼして国土を回復する一大|戦役《せんえき》の開幕としたかったのだ。異様なまでの老人の情熱に、若い孝宗は動かされた。彼は張浚を枢密《すうみつ》使《し》に任じ、対金戦役の総指揮を委《ゆだ》ねたのである。出兵に反対した子温は軍職を解かれ、虞允文もまた後方に残された。かくして、再開された対金戦役は、子温たちの物語ではなくなる。
 李顕忠や成閔《せいびん》にひきいられた宋軍は、淮河を北へ渡って金の領土へ侵入した。金軍の抵抗はほとんどなく、黄河までの領土を回復するのは数日のうちと思われた。
 だが、ほどなく金軍の大反攻がはじまる。
 即位して世宗皇帝となった完顔雍は、長期にわたる契丹族の大叛乱を平定するのに成功したのだ。幾度かの戦闘に勝利した後、重臣を派遣して降伏をすすめたのである。派遣された重臣というのは、場州で完顔亮を殺した完顔《かんがん》元《げん》宜《ぎ》であった。彼はもともと遼の貴族であったから、これは適任であったといえる。
 世宗は仁慈の人であり、また約束を破ることはけっしてない。これまで世宗がきずきあげてきた人間的な信用が役に立った。契丹族は武器をすてて降伏し、寛大な処置を受けることになった。一部の契丹族は降伏をいさぎよしとせず、一万里の道を西へ走っで西遼《カラ・キタイ》に投じることになるが、それは異なる国の歴史ということになる。
 国内の平和を回復した世宗は、三十万の軍を南へ向け、宋との間にいくつかの戦闘をまじえた。異色の武将である魏勝《ぎしょう》が戦死したのはこの間である。やがて金軍は符離《ふり》の会戦に大勝して、宋軍の北上を完全に阻止《そし》した。宋の主戦派の悲願は潰《つい》えた。

    四

 こうして、宋の乾道《けんどう》元年、金の大定五年、西暦一二八五年。第二次の和約が宋金両国の間で結ばれる。前回の和約に比べ、今回はやや宋に有利な内容となっていた。あらためて国境を確認し、宋が金に支払う平和保障費も、これまでは銀二十五万両、絹二十五万匹であったが、減額されて銀二十万両、絹二十万匹となった。その名称も「歳貢《さいこう》」から「歳幣《さいへい》」となったが、これは「属国《ぞっこく》からのみつぎもの」という意味を薄めたのである。
 さらに儒者たちを喜ばせたことがある。これまで宋の皇帝は金の皇帝に対して「臣」と称さねばならなかったが、この和約成立後は「姪《おい》」と称すればよくなったのである。姪という文字は、この場合、甥《おい》という意味である。ささいなことのようだが、国家の面目《めんぼく》という点では、当時は重要なことであったのだ。
 この和約が成立したことによって、宋金両国は平和共存の状態となり、鉄木真《テムジン》の子孫たちに滅ぼされるまで、金は七十一年、宋は百十四年の命脈《めいみゃく》を保《たも》つのである。
 和約成立以前に、頑強な主戦派の張浚は死去した。生きていれば、和約に反対してやまなかったであろう。信念は人を強くすると同時に視野を狭くもする、ということを証明するような六十八年の生涯であった。
 和約成立の二年後、呉《ご》※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]《りん》が六十六歳で没した。彼の死によって、「抗金名将《こうきんのめいしょう》」と呼ばれる人々は、すべて地上から姿を消した。
 退位して上皇となった高宗は、なお生きつづけた。彼は壮年のころ、丞相《じょうしょう》であった秦檜《しんかい》より長生きしようと決意し、その決意を実現させた。平和と安息のうちに彼が死んだのは八十一歳のとき。秦檜の死後三十二年を経てのことであった。
 講和成立以後、孝宗は、武力による国土回復を断念し、内政に力をそそいだ。二十七年間の治世は、宋に空前の繁栄と平和をもたらし、その財力は北宋時代の最盛期をしのぐものとなった。それにともなって学問と芸術もいちじるしい発展をとげた。
 虞允文は対金戦争に勝利した智将として、かがやかしい名声をえた。功によって川陝《せいせん》宜《せん》論使《ゆし》という地位に昇進したが、宮廷では保守的な重臣たちに嫌われて、三、四年の間はむしろ閑職《かんしょく》にまわされた。金との講和が成立すると、孝宗皇帝は彼を召して、一挙に参《さん》知《ち》政《せい》事《じ》(副宰相)に昇進させた。最終的には彼の地位は左丞相《さじょうしょう》と枢密使を兼任するものとなり、宋の国家戦略の最高指導者となった。彼は絶対的な平和主義者というわけではなく、何十年という長い単位で宋による天下の再統一をめざしていたようである。第一段階として、四川から北上して黄河上流地域を回復する、その後に東方へ進撃する、という戦略を立てていた。これは南北朝時代に北周《ほくしゅう》が北斉《ほくせい》を征服した例に倣《なら》ったものであろう。だがそれは実現せず、虞允文は何人ものすぐれた官僚政治家を育成することで国家に貢献し、孝宗の淳煕《じゅんき》元年(西暦一一七四年)に没した。諡《おくりな》は忠粛公《ちゅうしゅくこう》である。
 梁紅玉の没年は不明であるが、その晩年は穏やかなものであったらしい。ほとんど西《せい》湖《こ》湖畔の翠《すい》微《び》亭《てい》にこもって、ほど近い臨安《りんあん》府《ふ》の城門をくぐることさえ、めったになかった。
 その彼女が建州《けんしゅう》という土地を訪れたことがある。後世の福建省《ふっけんしゅう》の山間、閔江《びんこう》という河の上流である。従僕二名のほかに十歳ぐらいの少年をひとりともなっていたというから、子温の子であろう。季節は春で、里郷《さと》は桃の花につつまれ、河《かわ》面《も》は白と淡紅の花びらにおおわれていた。里郷のはずれに緑山《りょくざん》という山があり、その麓《ふもと》に、二本の桃の大樹にはさまれて小さな祠《ほこら》が建っていた。韓世忠を祭った祠である。かつてこの土地に苑汝《はんじょ》為《い》という賊があらわれて掠奪《りゃくだつ》と殺人をほしいままにし、韓世忠によって討ちとられた。以後、建州の人々は韓世忠の徳を敬《うやま》い、祠に祭ったのである。
 祠を拝する祖母を見て少年がいった。岳忠烈公《がくちゅうれつこう》(岳飛)は京師《みやこ》にりっぱな廟があるのに、祖父《そふ》君《ぎみ》はこのような山間に小さな祠があるだけなのですか、と。
「お祖父《じい》さまにはこれがふさわしいのだよ」
 少年の頭をなでながら梁紅玉は答え、祠のなかに立つ韓世忠の木像をながめて、やや残念そうにつぶやいた。
「でも、どうせなら、もうすこし美男《いいおとこ》に造ってくれればよかったんだけどねえ」
 祠を守ってくれる人に銀百両を渡して後々のことを頼むと、梁紅玉は少年をつれて立ち去った。話を聞いて建州の知事が歓待のために駆けつけたときには、すでに姿が見えなかった。ただ無人の祠に桃の花びらが散りかかるばかりであったという。
 講和成立後、子温は文官職に復帰した。彼はけっして器用ではなかったが、誠実で見識に富み、清廉《せいれん》であることから、孝宗皇帝より深い信任を受けた。官は工部尚書《こうぶしょうしょ》、臨安府知事、戸部《こぶ》尚書などを歴任したが、しばしば海賊や群盗《ぐんとう》の討伐にあたり、甲冑《かっちゅう》をつけての功績も多かった。外交使節として金国へ赴《おもむ》いたこともあり、そのときは旧知の人々と再会したと思われる。文人としても、百六十七巻におよぶ宋朝一代の歴史書を著《あらわ》し、「水心鏡《すいしんきょう》」と名づけた。これは朝廷が国史を編纂《へんさん》するにあたり、重要な資料のひとつとされた。死去したのは孝宗の後、光宗《こうそう》の御宇《みよ》であり、死にあたって※[#「くさかんむり/(單+斤)」、unicode8604]春郡公《ぜんしゅんぐんこう》の爵位を贈られた。
 孝宗の御宇に、岳飛の名誉が回復され、没収されていた財産が岳飛の遺族に返還されることになった。そのとき返還の事務にあたったのが子温である。三十年近くの間に、岳飛の財産は、不正をはたらく官《かん》吏《り》や豪族によって横領され、大半の行方がわからなくなっていた。子温は綿密な調査によって、失われた財産のすべてを捜《さが》しだし、回収して、銅銭一枚も欠けることなく岳飛の遺族に返還した。人々はその誠実さを賞賛してやまなかった、と、『宋史・韓彦直《かんげんちょく》伝』は記している。
 

 

 

 

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