雪国

川端康成の代表作

        
           国境の長いトンネルを抜けると雪国[ゆきぐに]であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
   内側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。雪の冷気[れいき]が流れ込んだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、
   「駅長さん、駅長さん」
   明かりをさげてゆっくり吹きを踏んできた男は、襟巻[えり‐まき]で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。
   もうそんな寒さかと島村は外を眺めると鉄道の官舎[かん‐しゃ]らしいバラックが山裾[やま‐すそ]に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に飲まれていた。
  「駅長さん、私です、御機嫌よろしゅうございます」
  「ああ、葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったよ」
  「弟が今度こちらに勤めさせていただいておりますのですってね。お世話さまですわ」
  「こんなところ、今に寂しくて参るだろうよ。若いのに可哀想だな」
  「ほんの子供ですから、駅長さんからよく教えてやっていただいて、よろしくお願いいたしますわ」
  「よろしい。元気で働いてるよ。これからいそがしくなる。去年は大雪[おお‐ゆき\たい‐せつ]だったよ。よく雪崩れてね、汽車が立往生[たち-おうじょう]するんで、村も炊出しがいそがしかったよ」

  「駅長さんずいぶん厚着に見えますわ。弟の手紙には、まだチョッキ[背心\坎肩]も着ていないようなことを書いてありましたけれど」
  私は着物を四枚重ねだ。若い者は寒いと酒ばがり飲んでいるよ。それでごろごろあすこにぶっ倒れてるのさ、風邪を引いてね」
  駅長は宿舎の方へ手の明かりを振り向けた。
「弟もお酒をいただきますでしょうか」
  「いや」
  「駅長さんもうお帰りですの?」
  「私は怪我をして、医者に通ってるんだ」
  「まあ。いけませんわ」
  和服に外套の駅長は寒い立話をさっさと切り上げたいらしく、もう後姿を見せながら、
  「それじゃまあ大事にいらっしゃい」
  「駅長さん、弟は今出ておりませんの?」と葉子は雪の上を目探しして、
  「駅長さん、弟をよく見てやって、お願いです」
  悲しいほど美しい声であった。高い響きのまま夜の雪から木魂して来そうだった。
  汽車が動き出しても、彼女は窓から胸を入れなかった。そうして線路の下を歩いている駅長に追いつくと、
  「駅長さあん、今度の休みの日に家へお帰りって、弟に言ってやって下さあい」
  「はあい」と、駅長が声を張り上げた。
  葉子は窓をしめて、赤らんだ頬に両手をあてた。
  ラッセルを三台備えて雪を待つ、国境の山であった。トンネルの南北から、電力による雪崩れ報知線が通じた。除雪[じょ‐せつ]人夫[にん-ぷ ]延べ人員[じん‐いん]五千名に加えて消防組青年団の延人員二千名出動の手配がもう整っていた。
  そのような、やがて雪に埋もれる鉄道信号所に葉子という娘の弟がこの冬から勤めているのだと分かると、島村はいっそう彼女に興味を強めた。
  しかしここで、「娘」と言うのは、島村にそう見えたからであって、連れの男が彼女の何であるか、むろん島村の知るはずはなかった。二人のしぐさは夫婦じみていたけれども、男は明らかに病人だった。病人相手ではつい男女の隔てがゆるみ、まめまめしく世話すればするほど、夫婦じみて見えるものだ。字際また自分より年上の男をいたわる女の幼い母ぶりは、遠目に夫婦とも思われよう。

   島村は彼女一人だけを切り離して、その姿の感じから、自分勝手に娘だろうときめているだけのことだった。でもそれには、彼がその娘を不思議な見方であまりに見つめ過ぎた結果、彼自らの感傷が多分に加わってのことかもしれない。
   もう三時間も前のこと、島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている、はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけてふく記憶の頼りなさのうちに、この指だては女の触感で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引く寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片目がはっきり浮き出たのだった。彼は驚いて声をあげそうになった。しかしそれは彼が心を遠く部屋っていたからのことで、気がついてみればなんでもない、向こう側の座席の女が写ったのだった。外は夕闇がおりているし、汽車のなかは明かりがついている。それで窓ガラスが鏡になる。けれども、スチイムの温みでガラスがすっかり水蒸気に濡れているから、指で拭くまでその鏡はなかったのだった。
   娘の片目だけはかえって異様に美しかったものの、島村は顔を窓に寄せると、夕景色見たさという風なり旅愁顔を俄かづくりして、掌でガラスをこすった。
   娘は胸をこころもち傾けて、前に横わたった男を一心に見下ろしていた。肩に力が入っているところから、少しいかつい眼も瞬きさえしないほどの真剣さのしるしだと知れた。男は窓の方を枕にして、娘の横へ折り曲げた足をあげていた。三等車である。島村の真横ではなく、一つ前の向こう側の座席だったから、横寝している男の顔は耳のあたりまでしか鏡に写らなかった。
   娘は島村とちょうど斜めに向かい合っていることになるので、じかにだって見られるのだが、彼女等が汽車に乗り込んだ時、なにか涼しく刺すような娘の美しさに驚いて見を伏せるとたん、娘の手を固くつかんだ男の青黄色い手が見えたものだから、島村は二度とそっちを向いては悪いような気がしていたのだった。
   鏡の中の男の顔色はただもう娘の胸のあたりを見ているゆえに安らかだという風に落ちついていた。弱い体力が弱いながらに甘い調和を漂わせていた。襟巻を枕に敷き、それを鼻の下にひっかけて口をぴったり覆い、それからまた上になった頬を包んで、一種の のような工会だが、ゆるんで来たり、鼻にかぶさって来たりする。男が目を動かすか動かさぬうちに、娘はやさしい手つきで直してやっていた。見ている島村がいらっ立て来るほど幾度もその同じことを、二人は無心に繰り返していた。また、男の足をつつんだ外套の裾が時々開いて垂れ下がる。それも娘はすぐ気がついて直してやっていた。これらがまことに自然であった。このようにして距離というものを忘れながら、二人は果しなく遠くへ行くものの姿のように思われたほどだった。それゆえ島村は悲しみをみているというつらさはなくて、夢のからくりを眺めているような思いだった。不思議な鏡のなかのことだったからでもあろう。
   鏡の底には夕景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように動くのだった。登場人物と背景とはなんのかかわりもないのだった。しかも人物は透明のはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、その二つが融け合いながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた。殊に娘の顔のただなかに野山のともし火がともった時には、島村はなんともいえぬ美しさに胸がふるえたほどだった。
   遥かの山の空はまだ夕焼の名残の色がほのかだったから、窓ガラス越しに見る風景は遠くの方までものの形が消えてはいなかった。しかし色はもう失われてしまっていて、どこまで行っても平凡な野山の姿がなもさら平凡に見え、なにものも際立って注意を惹きようがないゆえに、かえってなにかぼうっと大きい感情の流れであった。むろんそれは娘の顔をそのなかに浮べでいたからである。姿が写る部分だけは窓の外が見えないけれども、娘の輪郭のまわりを絶えず夕景色が動いているので、娘の顔も透明のように感じられた。しかしほんとうに透明かどうかは、顔の裏を流れてやまぬ夕景色が顔の表を通るかのように錯覚されて、見極める時がつかめないのだった。
   汽車のなかもさほど明るくはなし、ほんとうの鏡のように強くはなかった。反射がなかった。だから、島村は見入っているうちに、鏡のあることをだんだん忘れてしまって、夕景色の流れのなかに娘が浮かんでいるように思われて来た。
   そういう時彼女の顔のなかにともし火がともったのだった。この鏡の映像は窓の外のともし火を消す強さはなかった。ともし火も映像を消しはしなかった。そうしてともし火は彼女の顔のなかを流れて通るのだった。しかし彼女の顔を光り輝かせるようなことはしなかった。冷たく遠い光であった。小さい瞳のまわりをぼうっと明るくしながら、つまり娘の眼と火とあ重なった瞬間、彼女の眼は夕闇の波間の浮ぶ、妖しく美しい夜光虫であった。
   こんな風に見られていることを、葉子は気づくはずがなかった。彼女はただ病人に心を奪われていたが、たとえ島村の方へ振り向いたところで、窓ガラスに写る自分の姿は見えず、窓の外を眺める男など見に止まらなかっただろう。
   島村が葉子を長い間盗み見しながら彼女に悪いということを忘れていたのは、夕景色の鏡の非現実な力にとらえられていたからだったろう。
   だから、彼女が駅長に呼びかけて、ここでもなにか真剣過ぎるものを見せた時にも、物語めいた興味が先に立ったのかもしれない。
   ところがそれから半時間ばかり後に、思いがけなく葉子達も島村と同じ駅に下りたので、彼はまたなにか起るかと自分にかかわりがあるかのように振り返ったが、プラット?フォウムの寒さに触れると、急に汽車のなかの非礼が恥しくなって、後も見ずに機関車の前を渡った。
   男が葉子の肩につかまって線路へ下りようとした時に、こちらから駅員が手を上げて止めた。やがて闇から現れて来た長い貨物列車が二人の姿を隠した。
   宿屋の客引きの番頭はちょうど火事場の消防のようにものものしい雪装束だった。耳をつつみ、ゴムの長靴をはいていた。待合室の窓から線路の方を眺めて立っている女も、青いマントを着て、その頭巾をかぶっていた。
   島村は汽車のなかのぬくみがさめなくて、そとのほんとうの寒さをまだ感じなかったけれども、雪国の冬は初めてだから、土地の人のいでたちにまずおびやかされた。
   「そんな格好をするほど寒いのかね」
   「へい、もうすっかり冬支度です。雪の後でお天気になる前の晩は、特別冷えます。今夜はこれでも氷点を下っておりますでしょうね」
   「これが氷点以下かね」と、島村は軒端の可愛い氷柱を眺めながら、宿の番頭と自動車に乗った。雪の色が家々の低い屋根をいっそう低く見せて、村はしいんと底に沈んでいるようだった。
   「なるほどなににさわっても冷たさがちがうよ」
   「去年は氷点下二十何度といるのが一番でした」
   「雪は?」
   「さあ、普通七、八尺ですけれど、多い時は一丈を二、三尺超えてますでしょうね」
   「これからだね」
   「これからですよ。この雪はこの間一尺ばかり降ったのが、だいぶ解けてきたところです」
   「解けることもあるのかね」
   「もういつ大雪になるか分かりません」
   「十二月の初めであった。
   島村はしつっこい風心地でつもっていた鼻が、頭のしんまですっといちどきに通って、よごれものが洗い落とされるように、水洟がしきりと落ちて来た。
   「お師匠さんとこの娘はまだいるかい」
   「へえ、おりますおります。駅におりましたが、御覧になりませんでした、濃い青のマントを着て」
   「あれがそうだったの?――後で呼べるだろう」
   「今夜ですか」
   「今夜だ」
   「今の終列車でお師匠さんの息子が帰るとか言って、迎えに出ていましたよ」
   夕景色のなかで菓子にいたわられていた病人は、島村が合いに来た女の家の息子だったのだ。
   そうと知ると、自分の胸のなかをなにかが通り過ぎたように感じたけれども、このめぐりあわせを、彼はさほど不思議と思うことはなかった。不思議と思わぬ自分を不思議と思ったくらいのものであった。
   指で覚えている女と眼にともし火をつけていた女との間に、何ががあるのかなにが起きるのか、島村はなぜかそれが心のどこかで見えるような気持ちもする。まだ夕景色の鏡から醒め切らぬせいだろうか。あの夕景色の流れは、さては時の流れの象徴であったかと、彼はほとそんなことを呟いた。
   スキイの季節前の温泉宿は最も客の少ない時で、島村が内湯から上がって来ると、もう全く寝静まっていた。古びた廊下は彼の踏むたびにガラス戸を微かに鳴らした。その長いはずれの帳場の曲り角に、裾を冷え冷えと黒光りの板の上へ広げて、女が高く立っていた。
   とうとう芸者に出たのであろうかと、その裾を見てはっとしたけれども、こちらへ歩いて来るでもない、体のどこかを崩して迎えるしなを作るでもない、じっと動かぬその立ち姿から、彼は遠目にも真面目なものを受け取って、急いた行ったが、女の傍に立っても黙っていた。女も濃い白粉の顔で微笑もうとすると、かえって泣き面になったので、何も言わずに二人は部屋の方へ歩き出した。
   あんなことがあったのに、手紙も出さず、合いにも来ず、踊りの型の本など送るという約束も果さず、女からすれば笑って忘れられたとしか思えないだろうから、まず島村の詫びかいいわけを言わぬばならない順序だったが、顔を見ないで歩いているうちにも、彼女は彼を責めるどころか、体いっぱいになつかしさを感じていることが知れるので、彼はなおさら、どんなことを行ったにしても、その言葉は自分の方が不真面目だという響きしか持たぬだろうと思って、なにか彼女に気おされる甘い喜びにつつまれていたが、階段の下まで来ると、
   「こいつが一番よく君を覚えていたよ」と、人差指だけ伸ばした左手の握り拳を、いきなり女の目の前に突きつけた。
   「すう?」と、女は彼の指を握るとそのまま離さないで手をひくように階段を上って行った。
   火燵の前で手を離すと、彼女はさっと首まで赤くなって、それをごまかすためにあわててまた彼の手を拾いながら、
   「これが覚えていてくれたの?」
   「右じゃない、こっちだよ」と、女の掌の間から右手を抜いて火燵に入れると、改めて左の握り拳を出した。彼女はすました顔で、
   「ええ、分かってるわ」
   ふふと含み笑いしながら、島村の掌を拡げて、その上に顔を押しあてた。
   「これが覚えていてくれたの?」
   「ほう冷たい。こんな冷たい髪の毛初めてだ」
   「東京はまだ雪が降らないの?」
   「君はあの時、ああ言ってたけれども、あれはやっぱり嘘だよ。そうでなければ、誰が年の暮にこんな寒いところへ来るものか」
   あの時は――雪崩の危険期が過ぎて、新緑の登山季節に入った頃だった。
   あけびの新芽も間もなく食膳に見られなくなる。
   無為徒食の島村は自然と自身に対する真面目さも失いがちなので、それを呼び戻すには山がいいと、よく一人で山歩きをするが、その夜も国境の山々から七日ぶりで温泉場へ下りて来ると、芸者を呼んでくれと言った。ところがその日は道路普請の落成祝いで、村の繭倉兼芝居小屋を宴会場に使ったほどの賑やかさだから、十二、三人の芸者では手が足りなくて、とうてい貰えないだろが、師匠の家の娘なら宴会を手伝いに行ったにしろ、踊を二つ三つ見せただけで帰るから、もしかしたら来てくれるかもしれないとのことだった。島村が聞き返すと、三味線と踊の師匠の家にいる娘は芸者というわけではないが、大きい宴会などには時たま頼まれて行くこともある、半玉がなく、立って踊りたがらない年増が多いから、娘は重宝がられている、宿屋の客の座敷へなどめったに一人で出ないけれども、全くの素人とも言えない、ざっとこんな風な女中の説明だった。
   女の印象は不思議なくらい清潔であった。足指の裏の窪みまできれいであろうと思われた。山々の初夏を見た自分の眼のせいかと、島村は疑ったほどだった。
   着つけにどこか芸者風なところがあったが、むろん裾はひずっていないし、やわらかい単衣をむしこきちんと着ている方であった。帯だけは不似合に高価なものらしく、それがかえってなにかいたましく見えた。
   山の話などはじめたのをしおに、女中が立って行ったけれども、女はこの村から眺められる山々の名もろくに知らず、島村は酒を飲む気にもなれないでいると、女はやはり生まれはこの雪国、東京でお酌をしているうちに受け出され、ゆくすえ日本踊の師匠として身を立てさせてもらうつもりでいたところ、一年半ばかれで旦那が死んだと、思いのほか素直に話した。しかしその人に死別れてから今日までのことが、おそらく彼女のほんとうの身の上話かもしれないが、それは急に打ち明けそうもなかった。十九だと言った。嘘でないなら、この十九が二十一、二に見えることに島村ははじめてくつろぎを見つけ出して、歌舞伎の話などしかけると、女は彼よりも俳優の芸風や消息精通していた。そういう話相手に飢えていてか、夢中でしゃべっているうち、根が花柳界出の女らしいうちこけようを示してきた。男の気心を一通り知っているようでもあった。それにしてもかれは頭から相手を素人ときめているし、一週間ばかり人間とろくに口をきいたこともない後だから、人なつかしさが温かく溢れて、女にまず友情のようなものを感じた。山の感傷が女の上にまで尾をひいて来た。
   女は翌日の午後、お湯道具を廊下の外に置いて、彼の部屋へ遊びに寄った。
   彼女が坐るか坐らないうちに、彼は突然芸者を世話してくれと言った。
   「世話するって?」
   「分かってるじゃないか」
   「いやあねえ。私そんなこと頼まれるとは夢にも思ってきませんでしたわ」と、女はぶいと窓へ立って言って国境の山々を眺めたが、そのうちに頬を染めて、
   「ここにはそんな人ありませんわよ」
   「嘘をつけ」
   「ほんとうよ」と、くるっと向き直って、窓に腰をおろすと、
   「強制することは絶対にありませんわ。みんな芸者さんの自由なんですわ。宿屋もそういうお話は一切しないの。ほんとうなのよ、これ。あなたが誰か呼んで直接話してごらんになるといいわ」
   「君から頼んでみてくれよ」
   「私がどうしてそんなことをしなければならないの?」
   「友達だと思ってるだ。友達にしときたいから、君は口説かないんだよ」
   「それがお友達ってものなの?」と、女はつい誘われて子供っぽく言ったが、後はまた吐き出すように、
   「えらいと思うわ。よくそんなことが私にお頼めになれますわ」
   「なんでもないことじゃないか。山で丈夫になって来たんだよ。頭がさっぱりしないんだ。君とだって、からっとした気持で話が出来やしない」
   女は瞼を落して黙った。島村はこうなればもう男の厚かましさをさらけ出しているだけなのに、それを物分りよくうなずく習わしが女の身にしみているのだろう。その伏目は濃い睫毛のせいか、ほうっと温かくなまめくと島村が眺めているうちに、女の顔はほんの少し左右に揺れて、また薄赤らんだ。
   「お好きなのをお呼びなさい」
   「それを君に聞いてるんじゃないか。初めての土地だから、誰かきれいだか分からんさ」
   「きれいって言ったって」
   「若いのがいいね。若い方がなにかにつけてまちがいが少ないだろう。うるさくしゃべらんのがいい。ぼんやりしていて、よごれてないのが。しゃべりたい時は君としゃべるよ」
   「私はもう来ませんわ」
   「馬鹿言え」
   「あら、来ないわよ。なにしに来るの?」
   「君とさっぱりつきあいたいから、君を口説かないじゃないか」
   「あきれるわ」
   「そういうことがもしあったら、明日はもう君の顔を見るのもいやになるかもしれん。話に気乗りするなんてことがなくなるよ。山から里へ出て来て、せっかく人なつっこいんだからね、君は口説かないんだ。だって、僕は旅行者じゃないか」
   「ええ。ほんとうね」
   「そうだよ。君にしたって、君が厭だと思う女となら、後で会うのも胸が悪いだろうが、自分が選んでやった女ならまだましだろう」
   「知らないっ」と、強く投げつけてそっぽを向いたものの、
   「それはそうだけれど」
   「なにしたらおしまいさ。味気ないよ。長続きしないだろう」
   「そう。ほんとうにみんなそうだわ。私の生れは港なの。ここは温泉場でしょう」と、女は思いがけなく素直な調子で、
   「お客はたいてい旅の人なんですもの。私なんかまだ子供ですけれど、いろんな人の話を聞いてみても、なんとなく好きで、その時は好きだとも言わなかった人の方が、何時までも懐かしいのね。忘れられないのね。分かれた後ってそうらしいわ。向うでも思い出して、手紙をくれたりするのは、たいていそういるんですわ」

   女は窓から立ち上ると、今度は窓の下の畳に柔らかく坐った。遠い日々を振り返るように見えながら、急に島村の身近[み‐ぢか]に坐ったという顔になった。
   女の声にあまり実感が溢れているので、島村は苦もなく女を騙したかと、かえってうしろめたい[负疚\内疚]ほどだった。
   しかし彼は嘘を言ったわけではなかった。女はとにかく素人である。彼の女ほしさは、この女に求めるまでもなく、罪のない手軽さですむことだった。彼女は清潔過ぎた。一目見た時から、これと彼女とは別にしていた。
   それに彼は夏の避暑地を選び迷っている時だったので、この温泉村へ家族づれで来ようかと思った。そうすれば女はさいわい素人だから、細君にもいい遊び相手になってもらえて、退屈まぎれに踊の一つも習えるだろう。本気にそう考えていた。女に友情のようなものを感じたといっても、彼はその程度の浅瀬を渡っていたのだった。
むろんここにも島村の夕景色の鏡はあったであろう。今の身の上が曖昧な女の後腐れを嫌うばかれでなく、夕暮れの汽車の窓ガラスに写る女の顔のように非現実的な見方をしていたのかもしれない。
   彼の西洋舞踊興味にしてもそうだった。島村は東京の下町育ちなので、子供の時から歌舞伎芝居になじんでいたが、学生の頃は好みが踊や所作事に片寄って来て、そうなると一通りのことを極めぬと気のすまないたちゆえ、古い記録を漁ったり、家元を訪ね歩いたりして、やがては日本踊の新人とも知り合い、研究や批評めいた文章まで書くようになった。そうして日本踊の伝統の眠りにも新しい試み[こころ-み]のひとりよがりにも、当然なまなましい不満を覚えて、もうこの上は自分が実際運動のなかへ身を投じていくほかないという気持にかりたてられ、日本踊の若手からも誘いかけられた時に、彼はふいと西洋舞踊に鞍替えしてしまった。日本踊は全く見ぬようになった。その代りに西洋舞踊の書物と写真を集め、ボスタアやプログスムのたぐいまで苦労して外国から手に入れた。異国と未知とへの好奇心ばかりでは決してなかった。ここに新しく見つけた喜びは、目の当たり西洋人の踊を見ることが出来ないといるところにあった。その証拠に島村は日本人の西洋舞踊は見向きもしないのだった。西洋の印刷物を頼りに西洋舞踊について書くほど安楽なことはなかった。見ない舞踊などこの世ならぬ話である。これほど机上の空論はなく、天国の詩である。研究とは名づけても勝手気儘な想像で、舞踊家の生きた肉体が踊る芸術を鑑賞するのではなく、西洋の言葉や写真から浮ぶ彼自身の空想が踊るの幻影を鑑賞しているのだった。見ぬ恋にあこがれるようなものである。しかも、時々西洋舞踊の紹介など書くので文筆家の端くれに数えられ、それを自ら冷笑しながら職業のない彼の心休めとなることもあるのだった。
   そういう彼の日本踊などの話が、女を彼に親しませる助けとなったのは、その知識が久しぶりで現実に役立ったともいうべきありさまだったけれども、やはり島村は知らず識らずのうちに女を西洋舞踊払いにしていたのかもしれない。
   だから自分の淡い旅愁じみた言葉が、女の生活の急所に触れたらしいのを見ると、女を騙したかとうしろめたいくらいだったが、
   「そうしておけば、今度僕が家族を連れて来たって、君と気持よく遊べるさ」
   「ええ、そのことはもうよく分かりましたわ」と、女は声を沈めて微笑むと少し芸者風にはしゃいで、
   「私もそんなのが大好き、あっさりしたのが長続きするわ」
   「だから呼んでくれよ」
   「今?」
   「うん」
   「驚きますわ。こんな真昼間[まっ‐ぴるま]になんにもおっしゃれないでしょう?」
   「屑[くず]が残るといやだよ」
   「あんたそんなことを言うの、この土地を荒稼ぎの温泉場と考えちがいしてらっしゃるのよ。村の様子を見ただけでも分からないかしら」と、女はいかにもこころ外らしく真剣な口ぶりで、ここにはそういう女のいないことを繰り返して力説した。島村が疑うと、女はむきになって、しかし一歩譲って、それはどうしようと芸者の勝手だけれども、ただ、うちへことわらずに泊れば芸者の責任で、どうなろうとかまってはくれないが、うちへことわっとけば、抱え主の責任で、どこまでも後を見てくれる、それだけのちがいだと言う。
   「責任てなんだ」
   「子供が出来たり、体が悪くなったりすることですわ」
   島村は自分の頓馬な質問に苦笑いしながら、そのようにのんきな話も、この村にはあるかも知れないとおもった。
   無為徒食の彼は自然と保護色を求める心があってか、旅先の土地の人気には本能的に敏感だが、山から下りて来るとすぐこの里のいかにもつましい眺めのうちに、のどかなものを受け取って、宿で聞いてみると、果してこの雪国でも最も暮しの楽な村の一つだとのことだった。つい近年鉄道の通じるまでは、主に農家の人々の湯治場だったという。芸者のいる家は料理屋とかしるこ屋とか色褪せた暖簾をかけているが、古風な障子のすすけたのを見ると、これで客があるのやら、そして日用雑貨の店や駄菓子屋にも、抱えをたった一人置いているのがあって、その主人達は店のほかに田畑で働くらしかった。師匠の家の娘だからではあろうが、鑑札のない娘がたまに宴会などの手伝いに出ても、咎め立てる芸者がないのだろう。
   「それでどれくらいいるの」
   「芸者さん?十二、三人かしら」
   「なんていう人がいいの?」と島村が立ち上ってベルを押すと、
   「私は帰りますわね?」
   「君が帰っちゃ駄目だよ」
   「厭なの」と、女は屈辱を振り払うように、
   「帰りますわ。いいのよ、なんとも思やしませんわ。また来ますわ」
   しかし女中を見ると、なにげなく坐り直した。女中が誰を呼ぼうかと幾度聞いても、女は名指しをしなかった。
   「ところが間もなく来た十七、八の芸者を一目見るなり、島村の山から里へ来た時の女ほしさは味気なく消えてしまった。肌の底黒い腕がまだ骨張っていて、どこか初々しく[ういういし・い]人がよさそうだから、つとめて興醒めた顔をすまいと芸者の方を向いていたが、実は彼女のうしろの窓の新緑の山々が目についてならなかった。ものを言うのも気だるくなった。いかにも山里の芸者だった。島村がむっつりしているので、女は気をきかせたつもりらしく黙って立ち上って行ってしまうと、いっそう座が白けて、それでももう一時間くらいは経っただろうから、なんとか芸者を帰す工夫はないかと考えるうちに電報為替の来ていたことを思い出したので郵便局の時間にかこつけて、芸者といっしょに部屋を出た。
   しかし、島村は宿の玄関で若葉の匂いの強い裏山を見上げると、それに誘われるように荒っぽく登って行った。
   なにがおかしいのか、一人で笑いが止まらなかった。
   ほどよく疲れたところで、くつって振り向きざま浴衣の尻からげして、一散に駆け下りて来ると、足もとから黄蝶が二羽飛び立った。
   蝶はもつれ合いながら、やがて国境の山より高く、黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった。
   「どうなすったの」
   女が杉林の陰に立っていた。
  「うれしそうに笑ってらっしゃるわよ」
   「止めたよ」と、島村はまたわけのない笑いがこみ上げて来て、
   「止めた」
   「そう?」
   女はふいとあちらを向くと、杉林のなかへゆっくり入った。彼は黙ってついて行った。
   神社であった。苔のついた狛犬の傍の平な岩に女は腰をおろした。
   「ここが一等涼しいの。真夏でも冷たい風がありますわ」
   「ここの芸者って、みなあんなのかね」
   「似たようなものでしょう。年増にはきれいな人がありますわ」と、うつ向いて素気なく言った。その首に杉林の小暗い青が映るようだった。
   島村は杉の梢を見上げた。
   「もういいよ。体の力がいっぺんに抜けちゃって、おかしいようだよ」
   その杉は岩にうしろ手を突いて胸まで反らないと目の届かぬ高さ、しかも実に一直線に乾が立ち並び、暗い葉が空をふさいでいるので、しいんと静けさが鳴っていた。島村が背を寄せている乾は、なかでも最も年古りたものだったが、どうしてか北側の枝だけが上まですっかり枯れて、その落ち残った根元は尖った杭を逆立ちに乾へ植え重ねたと見え、なにか恐ろしい紙の武器のようであった。
   「僕は思いちがいしてたんだな。山から下りて来て君を初めてみたもんだから、ここの芸者はきれいなんだろうと、うっかり考えてたらしい」と、笑いながら、七日間の山の健康を簡単に洗濯しようと思いついたのも、実は初めにこの清潔な女を見たからだったろうかと、島村は今になって気がついた。
   西日に光る遠い川を女はじっと眺めていた。手持ち無沙汰に鳴った。
   「あら忘れてたわ。お煙草でしよう」と、女はつとめて気軽に、
   「さっきお部屋へ戻ってみたら、もういらっしゃらないんでしょう。どうなすったかしらと思うと、えらい勢いでお一人山へのぼってらっしゃるんですもの。窓から見えたの。おかしかったわ。お煙草を忘れていらしたらしいから、持って来てあげたんですわ」   
   そして彼の煙草を袂から出すとマッチをつけた。
   「あの子に気の毒したよ」
   「そんなこと、お客さんの随意[ずい‐い]じゃないの、いつ帰そうと」
   石の多い川の音が円い甘さで聞えて来るばかりだった。杉の間から向うの山襞の陰るのが見えた。
   「君とそう見劣りしない女でないと、後で君と会った時心外じゃないか」
   「知らないわ。負け惜しみの強い方ね」と、女はむっと嘲るように言ったけれども、芸者を呼ぶ前と全く別な感情が二人の間に通っていた。
   はじめからただこの女がほしいだけだ、それを例によって遠廻りしていたのだと、島村ははっきり知ると、自分が厭になる一方女がよけい美しく見えて来た。杉林の陰で彼を呼んでからの女は、なにかすっと抜けたように涼しい姿だった。
   細く高い鼻が少し寂しいけれども、その下に小さくつぼんだ唇はまことに美しい蛭の輪のように伸び縮みがなめらかで、黙っている時も動いているかのような感じだから、もし皺があったり色が悪かったりすると、不潔に見えるはずだが、そうではなく濡れ光っていた。目尻が上りも下りもせず、わざと真っ直ぐに描いたような眼はどこかおかしいようながら、短い毛の生えつまった下り気味の眉が、それをほどよくつつんでいた。少し中高の円顔はまあ平凡な輪郭だが、白い陶器に薄紅を刷いたような皮膚で、首のつけ根もまだ肉づいていないから、美人というよりもなによりも、清潔だった。
   お酌に出たこともある女にしては、こころもち鳩胸だった。
   「ほら、いつの間にかこんなに蚋[ぶゆ]が寄ってきましたわ」と、女は裾を払って立上った。
   このまま静けさのなかにいては、もう二人の顔が所在なげに白けて来るばかりだった。
   そしてその夜の十時頃だったろうか。女は廊下から大声に島村の名を呼んで、ばたりと投げこまれたように彼の部屋へ入って来た。いきなり机に倒れかかると、その上のものを酔った手つきでつかみ散らして、ごくごく水を飲んだ。
この冬スキイ場でなじみになった男達が夕方山を越えて来たのに出会い、誘われるまま宿屋に寄ると、芸者を呼んで大騒ぎとなって、飲まされてしまったとのことだった。
   頭をふらふらさせながら一人でとりとめなくしゃべり立ててから、
   「悪いから行って来るわね。どうしたかと捜してるわ。後でまた来るわね」と、よろけ出て行った。
   一時間ほどすると、また長い廊下にみだれた足音で、あちこちに突きあたったり倒れたりして来るらしく、
   「島村さん、島村さん」と、甲高く叫んだ。
   「ああ、見えない。島村さん」
   それはもうまぎれもなく女の裸の心が自分の男を呼ぶ声であった。島村は思いがけなかった。しかし宿屋中に響き渡るにちがいない金切声だったから、当惑して立上ると、女は障子紙に指をつっこんで桟をつかみ、そのまま島村の体へぐらりと倒れた。
   「ああ、いたわね」
   女は彼ともつれて坐って、もたれかかった。
   「酔ってやしないよ。ううん、酔ってるもんか。苦しい。苦しいだけなのよ。性根は確かだよ。ああっ、水飲みたい。ウイスキイとちゃんぽんに飲んだがいけなかったの。あいつ頭へ来る、痛い。あの人達安壜を買って来たのよ。それ知らないで」などと言って、掌でしきりに顔をこすっていた。
   外の雨の音か俄かに激しくなった。
   少しでも腕をゆるめると、女はぐたりとした。女の髪が彼の頬で押しつぶれるほどに首をかかえているので、手は懐に入っていた。
   彼がもとめる言葉には答えないで、女は両腕を閂のように組んでもとめられたものの上をおさえたが、酔いしびれて力がいらないのか、
   「なんだ、こんなもの。畜生。畜生。だるいよ。こんなもの」と、いきなり自分の肘にかぶりついた。
   彼が驚いて離させると、深い歯形がついていた。
   しかし、女はもう彼の掌にまかせて、そのまま落書をはじめた。好きな人の名を書いて見せると言って、芝居や映画の役者の名前を二、三十も並べてから、今度は島村とばかり無数に書き続けた。
   島村の掌のありがたいふくらみはだんだん熱くなって来た。
  「ああ、安心した。安心したよ」と、彼はなごやかに言って、母のようなものさえ感じた。
   女はまた急に苦しみ出して、身をまがいて立上ると、部屋の向うの隅に突っ伏した。
   「いけない、いけない。帰る、帰る」
   「歩けもんか。大雨だよ」
   「跣足[せん‐そく]で帰る。這って帰る」
   「危ないよ。帰るなら送ってやるよ」
   宿は丘の上で、険しい坂がある。
   「帯をゆるめるか、少し横になって、醒ましたらいいだろう」
   「そんなことだめ。こうすればいいの、慣れてる」と、女はしゃんと坐って胸を張ったが、息が苦しくなるばかりだった。窓をあけて吐こうとしても出なかった。身をもんで転がりたいのを噛み[か・む]こらえているありさまが続いて、時々意志を奪い起こすように、帰る帰ると繰り返しながら、いつか午前二時を過ぎた。
   「あんたは寝なさい。さあ、寝なさいったら」
   「君はどうするんだ」
   「こうやってる。少し醒まして帰る。夜のあけないうちに帰る」と、いざり寄って島村を引っ張った。
   「私にかまわないで寝なさいってば」
   島村が寝床に入ると、女は机に胸を崩して水を飲んだが、
   「起きなさい。起きなさいったら」
   「どうしろって言うんだ」
   「やっぱり寝てなさい」
   「なにを言ってるんだ」と、島村は立上った。
   女を引き摺って行った。
   やがて、顔をあちらに反向けこちらに隠していた女が、突然激しく唇を突き出した。
   しかしその後でも、むしろ苦痛を訴えるうわ言のように、
   「いけない。いけないの。お友達でいようって、あなたがおっしゃったじゃないの」と、幾度繰り返したかしれなかった。
   島村はその真剣な響きに打たれ、額に皺立て顔をしかめて懸命に自分を抑えている意志の強さには、 なく白けるほどで、女との約束を守ろうかとも思った。
   「私はなんにも惜しいものはないのよ。決して惜しいんじゃないのよ。だけど、そういう女じゃない。私はそういう女じゃないの。きっと長続きしないって、なんた自分で言ったじゃないの」
   酔いで半ば痺れていた。
   「私が悪いんじゃないわよ。あんたが悪いのよ。あんたが負けたのよ。あんたが弱いのよ。私じゃないのよ」などと口走りながら、よろこびにさからうためにそでをかんでいた。
   しばらく気が抜けたみたいに静かだったが、ふと思い出して突き刺すように、
   「あんた笑ってるわね。私を笑ってるわね」
   「わらってやしない」
   「心の底で笑ってるでしょう。今笑ってなくっても、きっと後で笑うわ」と、女はうつぶせになってむせび泣いた。
   でもすぐに泣き止むと、自分をあてがうように柔らかくして、人なつっこくこまごまと身の上などを話し出した。酔いの苦しさは忘れたように抜けたらしかった。今のことにはひとことも触れなかった。
   「あら、お話に夢中になってちっとも知らなかったわ」と、今度はぽうっと微笑んだ。
   夜のあけないうちに帰らねばならないと言って、
   「まだ暗いわね。この辺の人はそれは早起きなの」と、幾度も立上って窓をあけてみた。
   「まだ人の顔は見えませんわね。今朝は雨だから、誰も田へ出ないから」
   雨のなかに向うの山や麓の屋根の姿が浮び出してからも、女は立ち去りにくそうにしていたが、宿の人の起きる前に髪を直すと、島村が玄関まで送ろうとするのも人目を恐れて、あわただしく逃げるように、一人で抜け出して行った。そして島村はその日東京に帰ったのだった。
  「君はあの時、ああ言ってたけれども、あれはやっぱり嘘だよ。そうでなければ、誰が年の暮にこんな寒いところへ来るものか。後でも笑やしなかったよ」
   女がふっと顔を上げると、島村の掌に押しあてていた瞼から花の両側へかけて赤らんでいるのが、濃い白粉を透して見えた。それはこの雪国の夜の冷たさを思わせながら、髪の色の黒が強いために、温かいものに感じられた。
   その顔は眩しげに含み笑いを浮べていたが、そうするうちにも「あの時」を思い出すのか、まるで島村の言葉が彼女の体をだんだん染めて行くかのようだった。女はむっとしてうなだれると、襟をすかしているから、背なかの赤くなっているのまで見え、なまなましく濡れた裸をむき出したようであった。髪の色との配合のために、なおそう思われるのかもしれない。前髪が細かく生えつまっているといるのではないけれども、毛筋が男みたいに太くて、後れ毛一つなく、なにか黒い鉱物の重ったいような光だった。
   今さっき手に触れて、こんな冷たい髪の毛は初めてだとびっくりしたのは、寒気のせいではなくこういう髪そのもののせいであったかと思えて、島村が眺め直していると、女は火燵板の上で指を折りはじめた。それがなかなか終わらない。
   「なにを勘定してるんだ」と聞いても、黙ってしばらく指折り数えていた。
   「五月の二十三日ね」
   「そうか。日数を数えてたのか。七月と八月と大が続くんだよ」
   「ね、百九十九日目だわ。ちょうど百九十九日目だわ」
  「だけど、五月二十三日って、よく覚えてるね」
   「日記を見れば、すぐ分かるわ」  
   「日記?日記をつけてるの?」
   「ええ、古い日記を見るのは楽しみですわ。なんでも隠さずその通りに書いてあるから、ひとりで読んでいても恥かしいわ」
   「いつから」
  「東京でお酌に出る少し前から。その頃はお金が自由にならないでしょう。自分で買えないの。二銭か三銭の雑記帳にね、細かい罫を引いて、それが鉛筆を細く削ったと見えて、線がきれいに揃ってるんですの。そうして帳面の上の端から下の端まで、細かい字がぎっちり書いてあるの。自分で買えるようになったら、駄目。物を粗末に使うから。手習だって、元は古新聞に書いてたけれど、この頃は巻き紙へじかでしょう」
   「ずっと欠かさず日記をつけてるのかい」
   「ええ、十六の時のと今年のとが、一番面白いわ。いつもお座敷から帰って、寝間着に着替えてつけたのね。遅く帰るでしょう。ここまで書いて、中途で眠ってしまったなんて、今読んでも分かるところがあるの」
   「そうかねえ」
   「だけど、毎日毎日ってんじゃなく、休む日もあるのよ。こんな山の中だし、お座敷へ出たって、きまりきってるでしょう。今年はペエジごとに日付の入ったのしか買えなくて、失敗したわ。書き出せばどうしても長くなることがあるもの」
   日記の話よりもなお島村が意外の感に打たれたのは、彼女は十五、六の頃から、読んだ小説をいちいち書き留めておき、そのための雑記帳がもう十冊にもなったということであった。
   「感想を書いとくんだね?」
   「感想なんか書けませんわ。題と作者とそれから出て来る人物の名前と、その人達の関係と、それくらいのものですわ」
「そんなものを書き止めといたって、しようがないじゃなか」
   「しようがありませんわ」
   「徒労だね」
   「そうですわ」と、女はこともなげに明るく答えて、しかしじっと島村を見つめていた。
   全く徒労であると、島村はなぜかもう一度声を強めようとしたとたんに、雪の鳴るような静けさが身にしみて、それは女に惹き付けられたのであった。彼女にとってはそれが徒労であろうはずがないとは彼も知りながら、頭から徒労だと叩きつけると、なにかかえって彼女の存在が純粋に感じられるのであった。
   この女の小説の話は、日常使われる文学という言葉とは縁がないもののように聞えた。婦人雑誌を交換して読むくらいしか、この村の人との間にそういう友情はなく、後は全く孤立して読んでいるらしかった。選択もなく、さほどの理解もなく、宿屋の客間などでも諸説や雑誌を見つける限り、借りて読むという風であるらしかったが、彼女が思い出すままに挙げる新しい作家の名前など、島村の知らないのが少なくなかった。しかし彼女の口ぶりは、まるで外国文学の遠い話をしているようで、無欲な乞食に似た哀れな響きがあった。自分が洋書の写真や文字を頼りに、西洋の舞踊を遥かに夢想しているのもこんなものであろうと、島村は思ってみた。
   彼女もまた見もしない映画や芝居の話を、楽しげ二しゃべるのだった。こういう話相手に幾月も飢えていた後なのであろう。百九十九日前の時も、こういう話に夢中になったことが、自ら進んで島村に身を投げかけてゆくはずみとなったのも忘れてか、またしても自分の言葉の描くもので体まで温まって来る風であった。
   しかし、そういう都会的なものへのあこがれも、今はもう素直なあきらめにつつまれて無心な夢のようであったから、都の落人じみた高慢な不平よりも、単純な徒労の感が強かった。彼女自らはそれを寂しがる様子もないが、島村の眼には不思議な哀れとも見えた。その思いに溺れたなら、島村自らが生きていることも徒労であるという、遠い感傷に落されて行くのであろう。けれども目の前の彼女は山気に染まって生き生きした血色だった。
   いずれにしろ、島村は彼女を見直したことにはなるので、相手が芸者というものになった今はかえって言い出しにくかった。
   あの時彼女は泥酔していて、痺れて立たぬ腕を歯痒いがって、
   「なんだこんなもの。畜生。畜生。だるいよ。こんなもの」と、肘に激しくかぶりついたほどであった。
   足が立たないので、体をごろん転がして、
   「決して惜しいんじゃないのよ。だけどそういう女じゃないの」と言った言葉も思い出されて来て、島村はためらっていると女はすばやく気づいて撥ね返すように、
   「零時の上りだわ」と、ちょうどその時間聞こえた気笛に立上って、思い切り乱暴に紙障子とガラス戸をあけ、手摺へ体を投げつけざま窓に腰かけた。
   冷気が部屋いちどきに流れ込んだ。汽車の響きは遠ざかるにつれて、夜風のように聞えた。
   「おい、寒いじゃないか。馬鹿」と、島村も立上って行くと風はなかった。
   一面の雪の凍りつく音が地の底深く鳴っているような、厳しい夜景であった。月はなかった。嘘のように多い星は、見上げていると、虚しい速さで落ちつつあると思われるほど、あざやかに浮き出ていた。星の群れが目へ近づいて来るにつれて、空はいよいよ遠く夜の色を深めた。国境の山々はもう重なりも見分けられず、そのかわりそれだけの厚さがありそうないぶした黒で、星空の裾に重みを垂れていた。すべて冴え静まった調和であった。
   島村か近づくのを知ると、女は手摺に胸を突っ伏せた。それは弱々しさではなく、こういう夜を背景にして、これより頑固なものはないという姿であった。島村はまたかと思った。
  しかし、山々の色は黒いにかかわらず、どうしたはずみかそれがまざまざと白雪の色に見えた。そうすると山々が透明で寂しいものであるかのように感じられて来た。空と山とは調和などしていない。
   島村は女の喉仏のあたりを摑んで、
   「風邪を引く。こんなに冷たい」と、ぐいとうしろへ起きそうとした。女は手摺にしがみつきながら声をつまらせて、
   「私帰るわ」
   「帰れ」
   「もうしばらくこうさしといて」  
   「それじゃ僕はお湯に入って来るよ」
   「いやよ。ここにいなさい」
   「窓をしめてくれ」
   「もうしばらくこうさしといて」
   村は鎮守の杉林の陰に半ば隠れているが、自動車で十分足らずの停車場の燈火は、寒さのためびいんびいんと音を立てて毀れそうに瞬いていた。
   女の頬も、窓のガラスも、自分のどてらの袖も、手に触るものは皆、島村にはこんな冷たさは初めてだと思われた。
   足の下の畳までが冷えて来るので、一人で湯に行こうとすると、
   「待ってください。私も行きます」と、今度は女が素直について来た。
   彼の脱ぎ散らすものを女が乱れ籠に揃えているところへ、男の泊り客が入って来たが、島村の胸の前へすくんで顔を隠した女に気がつくと、
   「あっ、失礼しました」
   「いいえ、どうぞ。あっちの湯へ入りますから」と、島村はとっさに行って裸のまま乱れ籠を抱えて隣の女湯の方へ行った。女はむろん夫婦面でついて来た。島村は黙って後も見ずに温泉へ飛び込んだ。安心して高笑いがこみ上げて来るので、湯口に口をあてて荒っぽく嗽いをした。
   部屋に戻ってから、女横にした首を軽く浮かして鬢を小指で持ち上げながら、
   「悲しいわ」と、ただひとこと言っただけであった。
   女が黒い眼を半ば開いているのかと、近々のぞきこんでみると、それは睫毛であった。
   神経質な女は一睡もしなかった。              
   固い女帯をしごく音で、島村は目が覚めたらしかった。
   「早く起きして悪かったわ。まだ暗いわね。ねえ、見て下さらない?」と、女は電燈を消した。
  「私の顔が見える?見えない?」
   「見えないよ。まだ夜が明けないじゃないか」
   「嘘よ。よく見て下さらなければ駄目よ。どう?」と、女は窓を明け放して、
   「いけないわ。見えるわね。私帰るわ」
   明け方の寒さに驚いて、島村が枕から頭を上げると、空はまだ夜の色なのに、山はもう朝であった。
   「そう、大丈夫。今は農家が暇だから、こんなに早く出歩く人はないわ。でも山へ行く人があるかしら」と、ひとりごとを言いながら、女は結びかかった帯をひきずって歩き、
   「今の五時の下りでお客がなかったわね。宿の人はまだまだ起きないわ」
   帯を結びおわってからも、女は立ったり坐ったり、そうしてまた窓の法ばかり見て歩き廻った。それは夜行動物が朝を恐れて、いらいら歩き廻るような落ち着きのなさだった。妖しい野性がたかぶって繰るさまであった。
   そうするうちに部屋のなかまで明るんで来たか、女の赤い頬が目立ってきた。島村は驚くばかりあざやかな赤い色に見とれて、
   「頬っぺたが真赤じゃないか、寒くて」
   「寒いじゃないわ。白粉を落したからよ。私は寝床へ入るとすぐ、足の先までぽっぽして来るの」と、枕もとの鏡台に向って、
   「とうとう明るくなってしまったわ。帰りますわ」
   島村はその方を見て、ひょっと首を縮みた。鏡の奥が真っ白に光っているのは雪である。その雪のなかに女の真赤な頬が浮んでいる。なんともいえぬ清潔な美しさであった。
   もう日が昇るのか、鏡の雪は冷たく燃えるような輝きを増して来た。それにつれて雪に浮ぶ女の髪もあざやかな紫光りの黒を強めた。
   雪を積もらせぬためであろう、湯舟から溢れる湯を俄かづくりの溝で宿の壁沿いにめぐらせてあるが、玄関先で浅い泉水のように拡がっていた。黒く逞しい秋田犬がそこの踏石に乗って、長いこと湯を舐めていた。物置から出して来たらしい、客用のスキイが干し並べてある、そのほのかな黴の匂いは、湯気で甘くなって、杉の枝から共同湯の屋根に落ちる雪の塊も、温かいもののように形が崩れた。
   やがて年の暮から正月になれば、あの道が吹雪で見えなくなる。山袴にゴムの長靴、マントにくるまり、ヴェエルをかぶって、お座敷へ通わねばならぬ。その頃の雪の深さは一丈もある。そう言って、丘の上の宿の窓から、女が夜明け前に見下ろしていた坂道を、島村は今下りて行くのであったけれども、道端に高く干した襁褓の下に、国境の山々が見えて、その雪の輝きものどかであった。青い葱はまだ雪に埋もれてはいなかった。
   田圃で村の子供がスキイに乗っていた。
   街道の村へ入ると、静かな雨滴のような声が聞えていた。
   軒端の小さい氷柱が可愛く光っていた。
   屋根の雪を落す男を見上げて、
   「ねえ、ついでにうちの少し落してくれない?」と、湯帰りの女が眩しそうに濡れ手拭で額を拭いた。スキイ季節を目指して早くも流れこんで来た女給であろう。隣家はガラス窓の色絵も古び、屋根のゆがんだカフエであった。
   たいていの家の屋根は細かい板で葺いて、上に石が置き並べてある。それらの円い石は日のあたる半面だけ雪のなかに黒い肌を見せているが、その色は湿ったというよりも永の風雪にさらされた黒ずみのようである。そして家々はまたその石の感じに似た姿で、低い家並みが北国らしくじっと地に伏したようであった。
   子供の群が溝の氷を抱き起こして来ては、道に投げて遊んでいた。脆く砕け飛ぶ際に光るのが面白いのだろう。日光のなかに立っていると、この氷の厚さが嘘のように思われて、島村はしばらく眺め続けた。
   十三、四の女の子が一人石垣にもたれて、毛糸を編んでいた。山袴に高下駄を履いていたが、足袋はなく、赤らんだ素足の裏に皸が見えた。傍の粗朶の束に乗せられて、三歳ばかりの女の子が無心に毛糸の玉を持っていた。小さい女の子から大きい女の子へ引っぱられる一筋の灰色の古毛糸も暖かく光っていた。
   七、八軒先のスキイ制作所から鉋の音が聞える。その反対側の軒陰に芸者が五、六人立話をしていた。今朝になって宿の女中からその芸名を聞いた駒子もそこにいそうだと思うと、やっぱり彼女は彼の歩いて来るのを見ていたらしく、一人生真面目な顔つきであった。きっと真赤になるにきまっている、なにげないを装ってくれるようにと、島村が考える暇もなく、駒子はもう喉まで染めてしまった。それなら後向きになればいいのに、窮屈そうに眼を伏せながら、しかも彼の歩みにつれて、その方へ少しずつ顔を動かしてくる。
   島村も頬が火照るようで、さっさと通り過ぎると、すぐ駒子が追っかけて来た。
   「困るわ、あんなとこお通りになっちゃ」
   「困るって、こっちこそ困るよ。あんなに勢揃いしてられると、恐ろしくて通れんね。いつもああかい」
   「そうね、おひる過ぎわ」
   「顔を赤くしたり、ばたばた追っかけて来たりすれば、なお困るじゃないか」
   「かまやしない」と、はっきり言いながら駒子はまた赤くなると、その場に立ち止ってしまって、道端の柿の木につかまった。
   「うちへ寄っていただこうと思って、走ってきたんですわ」
   「君の家がここか」
   「ええ」
   「日記を見せてくれるなら、寄ってもいいね」
   「あれは焼いてから死ぬの」
   「だって君の家、病人があるんだろう」
   「あら。よく御存知ね」
   「昨夜、君も駅へ迎えに出てたじゃないか、濃い青のマントを着て。僕はあの汽車で、病人のすぐ近くに乗って来たんだよ。実に真剣に、実に親切に、病人の世話をする娘さんが付き添ってたけど、あれ細君かね。ここから迎えに行った人?東京の人?まるで母親みたいで、僕は感心して見てたんだ」
   「あんた、そのこと昨夜どうして話さなかったの。なぜ黙ってたの」と、駒子は気色ばんだ。
   「細君かね」
   しかしそれには答えないで、
   「なぜ昨夜話さなかったの。おかしなひと」
   島村は女のこういう鋭さを好まなかった。けれども女をこんな風に鋭くするわけは、島村にも駒子にもないはずだと思われるので、それでは駒子の性格の現われかとも見られたが、とにかく繰り返して突っ込まれると、彼は急所にさわられたような気はして来るのであった。今朝山の雪を写した鏡のなかに駒子を見た時も、むろん島村は夕暮れの汽車の窓ガラスに写っていた娘を思い出したのだったのに、なぜそれを駒子に話さなかったのだろうか。
   「病人がいたっていいですわ。私の部屋へは誰も上って来ませんわ」と、駒子は低い石垣のなかへ入った。
   右手は雪をかぶった畑で、左には柿の木が隣家の壁沿いに立ち並んでいた。家の前は花畑らしく、その真中の小さい蓮池の氷は縁に持ち上げてあって、緋鯉が泳いでいた。柿の木の幹のように家も朽ち古びていた。雪の斑な屋根は板が腐って軒に波を描いていた。
   土間へ入ると、しんと寒くて、なにも見えないでいるうちに、梯子を登らせられた。それはほんとうに梯子であった。上の部屋もほんとうに屋根裏であった。
   「お蚕さまの部屋だったのよ。驚いたでしょう」
   「これで、酔って払って帰って、よく梯子を落ちないね」  
   「落ちるわ。だけどそんな時は下の火燵に入ると、たいていそのまま眠ってしまいますわ」と、駒子は火燵蒲団に手を入れてみて、火と取りに立った。
   島村は不思議な部屋のありさまを見廻した。低い明かり窓が南に一つあるきりだけれども、桟の目の細かい障子は新しく貼り替えられ、それに日射しが明るかった。壁にもたんねん半紙が貼ってあるので、古い紙箱に入った心地だが、頭の上は屋根裏がまる出しで、窓の方へ低まって来ているものだから、黒い寂しさがかぶさったようであった。壁の向側はどうなってるのだろうと考えると、この部屋が宙に吊るさっているような気がして来て、なにか不安であった。しかし、壁や畳は古びていながら、いかにも清潔であった。
   蚕のように駒子も透明な体でここに住んでいるかと思われた。
   置火燵には山袴とおなじ木綿縞の蒲団がかかっていた。箪笥は古びているが、駒子の東京暮しの名残りか、柾目のみごとな桐だった。それと不似合に粗末な鏡台だった。朱塗の裁縫箱がまた贅沢なつやを見せていた。壁に板を段々に打ちつけたのは、本箱なのであろう、めりんすのカアテンが垂らしてあった。
   昨夜の座敷着が壁にかかって、襦袢の赤い裏を開いていた。
   駒子は十能を持って、器用に梯子を上ってくると、
   「病人の部屋からだけれど、火はきれいだって言いますわ」と、結いたての髪を伏せながら、火燵の灰を掻き起こして、病人は腸結核で、もう故郷へ死にに帰ったのだと話した。
   故郷とはいえ、息子はここで生れたのではない。ここは母の村なのだ。母は港町で芸者を勤め上げた後も、踊の師匠としてそこにとどまっていたが、まだ五十前で中風をわずらい、療養かたがたこの温泉へ帰って来た。息子は小さい時から機械が好きで、せっかく時計屋に入っていたから、港町に残して置いたところ、間もなく東京に出て、夜学に通っていたらしい。体の無理が重なったのだろう。今年二十六という。
   それだけを駒子は一気に話したけれども、息子を連れて帰った娘がなにものであるか、どうして駒子がこの家にいるのかというようなことには、やはり一言も触れなかった。
   しかしそれだけでも、宙に吊るされたようなこの部屋の工合では、駒子の声が八方へ洩れそうで、島村は落ちついていられなかった。
   門口を出しなに、ほの白いものが眼について振り返ると、桐の三味線箱だった。実際よりも大きく長いものに感じられて、これを座敷へ担いで行くなんて嘘のような気がしていると、煤けた襖があいて、
   「駒子ちゃん、これを跨いじゃいけないの?」
  澄み上って悲しいほど美しい声だった。どこかから木魂が返ってきそうであった。
   島村は聞き覚えている、夜汽車の窓から雪のなかの駅長を呼んだ、あの葉子の声である。
   「いいわ」と、駒子が答えると、葉子は山袴でひょいと三味線を跨いだ。ガラスの尿瓶をさげていた。
   駅長と知合いらしい昨夜の話しぶりでも、この山袴でも、葉子がここらあたりの娘なことは明らかだが、派手な帯が半ば山袴の上に出ているので、山袴の蒲色と黒とのあらい木綿縞はあざやかに引き立ち、めりんすの長い袂も同じわけでなまめかしかった。山袴の股は膝の少し上で割れているから、ゆっくり膨らんで見え、しかも硬い木綿が引き締まって見え、なにか安らかであった。
   しかし葉子はちらっと刺すように島村を一目見ただけで、ものも言わずに土間を通り過ぎた。
   島村は表に出てからも、葉子の目つきが彼の額の前に燃えていそうでならなかった。それは遠いともし火のように冷たい。なぜならば、汽車の窓ガラスに写る葉子の顔を眺めているうちに、野山のともし火がその彼女の顔の向うを流れ去り、ともし火と瞳とが重なって、ぽうっと明るくなった時、島村はなんともいえぬ美しさに胸が顫えた、その昨夜の印象を思い出すからであろう。それを思い出すと、鏡のなかいっぱいの雪のなかに浮んだ、駒子の赤い頬も思い出されてくる。
   そうして足が早くなった。小肥りの白い足にかかわらず、登山を好む島村は山を眺めながら歩くと放心状態となって知らぬうちに足が早まる。いつでもたちまち放心状態に入りやすい彼にとっては、あの夕景色の鏡や朝雪の鏡が、人工のものとは信じられなかった。自然のものであった。そして遠い世界であった。
   今出て来たばかりの駒子の部屋までが、もうその遠い世界のように思われる。そういう自分にさすが驚いて、坂を登りつめると、女按摩が歩いていた。島村はなにかつかまえるように、
   「按摩さん、揉んでもらえないかね」
 「そうですね。今何時ですかしら」と、竹の杖を小脇に抱えると、右手で帯の間から蓋のある懐中時計を出して、左の指先で文字盤をさぐりながら、
   「二次三十五分過ぎでございますね。三時半に駅の向うへ行かんなりませんけれども、少し遅れてもいいかな」
   「よく時計の時間が分かるね」
   「はい、ガラスが取ってございますから」
   「さわると字が分かるかね」
   「字は分かりませんけれども」と、女持ちには大きい銀時計をもう一度出して蓋をあけると、ここが十二時ここが六時、その真中が三時という風に指で抑えて見え、
   「それから割り出して、一分までは分からなくても、二分とはまちがいません」
   「そうかね。坂道なんか辷らないかね」
   「雨が降れば娘が迎えに来てくれます。夜は村の人を揉んで、もうここへは登って来ません。亭主が出さないのだと、宿の女中さんが言うからかないませんわ」
   「子供さんはもう大きいの?」
   「はい。上の女は十三になります」などと話しながら部屋に来て、しばらく黙って揉んでいたが、遠い座敷の三味線の音に首を傾けた。
   「誰かな」
   「君は三味線の音で、どの芸者か皆分かるかい」
   「分かる人もあります。分からんのもあります。旦那さん、ずいぶん結構なお身分で、柔らかいお体でございますね」
   「凝ってないだろう」
   「凝って、首筋が凝っております。ちょうどよい工合に太ってらっしゃいますが、お酒は召し上がりませんね」
   「よく分かるな」
   「ちょうど旦那さまと同じような姿形のお客さまを、三人を知っております」
   「至極平凡な体だがね」
   「なんでございますね、お酒を召し上がらないと、ほんとうに面白いということがございませんね、なにもかも忘れてしまう」
   「君の旦那さんは飲むんだね」
   「飲んで困ります」
   「誰だか下手な三味線だね」
   「はい」
   「君は弾くんだろう」
   「はい。九つの時から二十まで習いましたけれど、亭主を持ってから、もう十五年も鳴らしません」
   盲は年より若く見えるものであろうかと島村は思いながら、
   「小さい時に稽古したのは確かだね」
   「手はすっかり按摩になってしまいましたけれど、耳はあいております。こうやって芸者衆の三味線を聞いてますと、じれったくなったりして、はい、昔の自分のような気がするんでございましょうね」と、また耳を傾けて、
   「井筒屋のふみちゃんかしら。一番上手な子と一番下手な子は、一番よく分かりますね」
   「上手な人もいるかい」
   「駒子ちゃんという子は、年が若いけれど、この頃達者になりましたねえ」
   「ふうん」
   「旦那さん、御存知なんですね。そりゃ上手と言っても、こんな山ん中でのことですから」
   「いや知らないけれど、師匠の息子が帰るのと、昨夜同じ汽車でね」
   「おや、よくなって帰りましたか」
   「よくないようだったね」
   「はあ?あの息子さんが東京で長患いしたために、その駒子という子がこの夏芸者に出てまで、病院の金を送ったそうですが、どうしたんでしょう」
   「その駒子って?」
   「でもまあ、尽すだけ尽しておけば、いいなずけだというだけでも、後々までねえ」
   「いいなずけって、ほんとうのことかね」
   「はい。いいなずけだそうでございますよ。私は知りませんが、そういう噂でございますね」
   「温泉宿で女按摩から芸者の身の上を聞くとは、あまりに月並で、かえって思いがけないことであったが、駒子がいいなずけのために芸者に出たというのも、あまりに月並な筋書で、島村は素直にのみこめぬ心地であった。それは道徳的な思いに突きあったせいかもしれなかった。
   彼は話に深入りして聞きたく思いはじめたけれども、按摩は黙ってしまった。
   駒子が息子のいいなずけだとして、葉子が息子の新しい恋人だとして、しかし息子はやがて死ぬのだとすれば、島村の頭にはまた徒労という言葉が浮んで来た。駒子がいいなずけの約束を守り通したことも、身を落してまで療養させたことも、すべてこれ徒労でなくなんであろう。
   駒子に会ったら、頭から徒労だと叩きつけてやろうと考えると、またしても島村にはなにかかえって彼女の存在が純粋に感じられて来るのだった。
   この虚偽の麻痺には、破廉恥な危険が匂っていて、島村はじっとそれを味わいながら、按摩が帰ってからも寝転んでいると、胸の底まで冷えるように思われたが、気がつけば窓を開け放したままなのであった。
   山峡は日陰となるのが早く、もう寒々と夕暮色が垂れていた。そのほの暗さのために、まだ西日が雪に照る遠くの山々はすうっと近づいて来たようであった。
   やがて山それぞれの遠近や高低につれて、さまざまの襞の陰を深さて行き、峰にだけ淡い日向を残す頃になると、頂の雪の上は夕焼空であった。
   村の川岸、スキイ場、社など、ところどころに散らばる杉木立が黒々と目立ち出した。
   島村は虚しい切なさに曝されているところへ、温かい明かりのついたように駒子が入って来た。
スキイ客を迎える準備の相談会がこの宿にある。その後の宴会に呼ばれたと言った。火燵に入ると、いきなり島村の頬を撫で廻しながら、
   「今夜は白いわ。変だわ」
   そして揉むつぶすように柔らかい頬の肉を摑んで、
   「あんたは馬鹿だ」
   もう少し酔っているらしかったが、宴会を終えてきた時は、
   「知らん。もう知らん。頭痛い。頭痛い。ああ、難儀だわ、難儀」と、鏡台の前に崩れ折れると、おかしいほど一時に酔いが顔へ出た。
   「水飲みたい、水ちょうだい」
   顔を両手で抑えて、髪の壊れるのもかまわずに倒れたが、やがて坐り直してクリイムで白粉を落すと、あまりに真赤な顔が剥き出しになったので、駒子も自分ながら楽しげに笑い続けた。面白いほど早く酒が醒めて来た。寒そうに肩を顫わせた。
   そして静かな声で、八月いっぱい神経衰弱でぶらぶらしていたなどと話し始めた。
   「気ちがいになるのかと心配だったわ。なにか一生懸命に思いつめてるんだけれど、なにを思いつめてるか、自分によく分からないの。怖いでしょう。ちっとも眠れないし、それでお座敷へ出た時計だけしゃんとするのよ。いろんな夢を見たわ。御飯もろくに食べられないものね。畳へね、縫針を突き刺したり抜いたり、そんなこといつまでもしてるのよ、暑い日中にさ」
   「芸者に出たのは何月」
   「六月。もしかしたら私、今頃は浜松へ行ってか知れないのよ」
   「世帯を持って?」
   駒子はうなずいた。浜松の男に結婚してくれと追い廻されたが、どうしても男が好きになれないで、ずいぶん迷ったと言った。
   「好きでないものを、なにも迷うことじゃないか」
   「そうはいかないわ」
   「結婚て、そんな力があるかな」
   「いやらしい。そうじゃないけれど、私は身のまわりがきちんとかだづいてないと、いられないの」
   「うん」
   「あんた、いい加減な人ね」
   「だけど、その浜松の人となにかあったのかい」
   「あれば迷うことないじゃないの」と、駒子は言い放って、
   「でも、お前がこの土地にいる間は、誰とも結婚させない。どんなことしても邪魔してやるって言ったわよ」
   「浜松のような遠くにいてね。君はそんなことを気にしてるの」
   駒子はしばらく黙って、自分の体の温かさを味わうような風にじっと横たわっていたが、ふいとなにげなく、
   「私は妊娠していると思ってたのよ。ふふ、今考えるとおかしくって、ふふふ」と、含み笑いしながら、くっと身をすくめると、両の握り拳で島村の襟を子供みたいに摑んだ。
   閉じ合わした濃い睫毛がまた、黒い目を半ば開いているように見えた。
   翌る朝、島村が目を覚ますと、駒子はもう火鉢へ肩肘突いて古雑誌の裏に落書していたが、
   「ねえ、帰れないわ。女中さんが火を入れに来て、みっともない、驚いて飛び起きたら、もう障子に日があたってるんですもの。昨夜酔ってたから、とろとろと眠っちゃったらしいわ」
   「幾時」
   「もう八時」
   「お湯へ行こうか」と、島村は起上った。
   「いや、廊下で人に会うから」と、まるでおとなしい女になってしまって、島村が湯から帰ったときは、手拭を器用にかぶって、かいがいしく部屋の掃除をしていた。
   机の足や火鉢の縁まで癇症に拭いて、灰を掻きならすのがもの馴れた様子であった。
   島村が火燵へ足を入れたままごろごろして煙草の灰を落すと、それを駒子はハンカチでそっと抜き取っては、灰皿を持って来た。島村は朝らしく笑い出した。駒子も笑った。
   「君が家を持ったら、亭主は叱られ通しだね」
   「なにも叱りゃしないじゃないの。洗濯するものまで、きちんと畳んでおくって、よく笑われるけれど、性分ね」
   「箪笥のなかをみれば、その女の性質が分かるって言うよ」
   部屋いっぱいの朝日に温まって飯を食いながら、
   「いいお天気。早く帰って、お稽古をすればよかったわ。こんな日は音がちがう」
   駒子は澄み深まった空を見上げた。
   遠い山々は雪が煙る見えるような柔らかい乳色につつまれていた。
   島村は按摩の言葉を思い合わせて、ここで稽古をすればいいと言うと。駒子はすぐに立上って、着替えといっしょに長唄の本を届けるように家へ電話をかけた。
   昼間見たあの家に電話があるのかと思うと、また島村の頭には葉子の眼が浮んできて、
   「あの娘さんが持って来るの?」
   「そうかもしれないわ」
   「君はあの、息子さんのいいなずけだって?」
   「あら。いつそんなことを聞いたの」
   「昨日」
   「おかしな人。聞いたら聞いたで、なぜ昨日そう言わなかったの」と、しかし今度は昨日昼間とちがって、駒子は清潔に微笑んでいた。
   「君を軽蔑してなければ、言いにくいさ」
  「心にもないこと。東京の人は嘘つきだから嫌い」
   「それ、僕が言い出せば、話をそらすじゃないか」
  「そらしゃしないわ。それで、あんたそれをほんとうにしたの?」
   「ほんとうにした」
   「またあんた嘘言うわ。ほんとうにしないくせして」
   「そりゃ、のみこめない気はしたさ。だけど、君がいいなずけのために芸者になって、療養費を稼いでいると言うんだからね」
   「いやらしい、そんな新派芝居みたいなこと。いいなずけは嘘よ。そう思ってる人が多いらしいわ。別に誰のために芸者になったってわけじゃないけれど、するだけのことはしなければいけないわ」
   「謎みたいなことばかり言ってる」
   「はっきり言いますわ。お師匠さんがね、息子さんと私といっしょになればいいと、思った時があったかもしれないの。心のなかだけのことで、口には一度も出しゃしませんけれどね。そういうお師匠さんの心のうちは、息子さんも私も薄々知ってたの。だけど、二人は別になんでもなかった。ただすれだけ」
   「幼馴染だね」
  「ええ、でも、別れ別れに暮して来たのよ。東京へ売られて行く時、あの人がたった一人見送ってくれた。一番古い日記の一番初めに、そのことが書いてあるわ」
   「二人ともその港町にいたら、今頃は一緒になってたかもしれないね」
   「そんなことはないと思うわ」
   「そうかねえ」
   「人のこと心配しなくてもいいわよ。もうじき死ぬから」
「それによそへ泊るのなんかよくないね」
   「あんた、そんなこと言うのがよくないのよ。私の好きなようにするのを、死んで行く人がどうして止められるの?」
   島村は返す言葉がなかった。
   しかし、駒子がやはり葉子のことに一言も触れないのは、なぜであろうか。
   また葉子にしても、汽車の中でまで幼い母のように、我を忘れてあんなにいたわりながらつれて帰った男のなにかである駒子のところへ、朝になって着替えを持って来るのは、どういう思いであろうか。
   島村が彼らしく遠い空想をしていると、
   「駒ちゃん、駒ちゃん」と、低くても澄み通る、あの葉子の美しい呼び声が聞えた。
   「はい、ご苦労さま」と、駒子は次の間の三畳へ立って行って、
   「葉子さんが来てくれたの?まあ、こんなにみんな、重かったのに」
   葉子は三の糸を指ではじき切って附け替えてから、調子を合わせた。その間にもう彼女の音の冴えは分かったが、火燵の上に嵩張った風呂敷包を開いてみると、普通の稽古本の外に、杵屋弥七の文化三味線譜が二十冊ばかり入っていたので、島村は意外そうに手に取って、
   「こんなもので稽古したの?」
   「だって、ここにはお師匠さんがないんでうもの。しかたがないわ」
   「うちにいるじゃないか」
   「中風ですわ」
   「中風だって、口で」
   「その口もきけなかったの。まだ踊は、動く方の左手で直せるけりど、三味線は耳がうるさくなるばっかり」
  「これで分かるのかね」
   「よく分かるわ」
   「素人ならとにかく芸者が、遠い山のなかで、殊勝な稽古をしてるんだから、音譜屋さんも喜ぶだろう」
   「お酌は踊が主だし、それからも東京で稽古させてもらったのは、踊だったの。三味線はほんの少しうろ覚えですもの、忘れたらもう浚ってくれる人もなし、音譜が頼りですわ」
   「唄は?」
   「いや、唄は。そう、踊の稽古の時に聞き馴れたのは、どうにかいいけれど、新しいのはラジオや、それからどこかで聞き覚えて、でもどうだか分からないわ。我流が入ってて、きっとおかしいでしょう。それに馴染みの人の前では、声が出ないの。知らない人だと、大きな声で歌えるけれど」と、少しはにかんでから、唄を待つ風に、さあと身構えして、島村の顔を見つめた。
   島村ははっと気押された。
   彼は東京の下町育ちで、幼い時から歌舞伎や日本踊になじむうちに長唄の文句くらいは覚え、自ずと耳慣れているが、自分で習いはしなかった。長唄といえばすぐ踊の舞台が思い浮び、芸者の座敷を思い出さぬという風である。
   「いやだわ。一番肩の張るお客さま」と、駒子はちらっと下唇を噛んだが、三味線を膝に構えると、それでもう別の人になるのか、素直に稽古本を開いて、
   「この秋、譜で稽古したのね」
   勧進帳であった。
   たちまち島村は頬から鳥肌立ちそうに涼しくなって、腹まで澄み通って来た。たわいなく空にされた頭のなかいっぱいに、三味線の音が鳴り渡った。全く彼は驚いてしまったと言うよりも叩きのめされてしまったのである。敬虔の念に打たれた、悔恨の思いに洗われた。自分はただもう無力であって、駒子の力に思いのまま押し流されるのを快いと身を捨てて浮ぶよりしかたがなかった。
   十九や二十の田舎芸者の三味線なんか高が知れてるはずだ、お座敷だのにまるで舞台のように弾いてるじゃないか、おれ自身の山の感傷に過ぎんなどと、島村は思ってみようとしたし、駒子はわざと文句を棒読みしたり、ここはゆっくり、ここはゆっくり、ここはめんどくさいといって飛ばしたりしたが、だんだん憑かれたように子wも高まって来ると、撥の音がどままで強く冴えるのかと、島村はこわくなって、虚勢を張るように肘枕で転がった。
   勧進帳が終わると島村はほっとして、ああ、この女はおれに惚れているのだと思ったが、それがまた情なかった。
   「こんな日は音がちがう」と、雪の晴天を見上げて、駒子が言っただけのことはあった。空気がちがうのである。劇場の壁もなければ、聴衆もなければ、都会の塵埃もなければ、音はただ純粋な冬の朝に澄み通って遠くの雪の山々まで真直ぐに響いて行った。
   いつも山峡の大きい自然を、自らは知らぬながら相手として孤独に稽古するのが、彼女の習わしであったゆえ、撥の強大なるは自然である。その孤独は哀愁を踏み破って、野性の意力を宿していた。幾分下地があるとは言え、複雑な曲を音譜で独習し、譜を離れて弾きかなせるまでには、強い意志の努力が重なっているにちがいない。
島村には虚しい徒労とも思われる、遠い憧憬とも哀れまれる、駒子の生き方が、彼女自身への価値で、凛と撥の音に溢れ出るのであろう。
   細かい手の器用なさばき耳に覚えていず、ただ音の感情が分る程度の島村は、駒子にはちょうどよい聞き手なのであろう。
   三曲目に都鳥を弾きはじめた頃は、その曲の艶な柔らかさのせいもあって、島村はもう鳥肌立つような思いは消え、温かく安らいで、駒子の顔を見つめた。そうするとしみじみ肉体の親しみが感じられた。
   細く高い鼻は少し寂しいはずだけれども、頬が生き生きと上気しているので、私はここにいますという囁きのように見えた。あの美しく血の滑らかな唇は、小さくつぼめた時も、そこに映る光をぬめぬめ動かしているようで、そのくせ唄につれて大きく開いても、また可憐にすぐ縮まるという風に、彼女の体の魅力そっくりであった。下がり気味の眉の下に、目尻が上りもせず、下りもせず、わざと真直ぐ描いたような眼は、今は濡れ輝いて、幼げだった。白粉はなく、都会の水商売で透き通ったところへ、山の色が染めたとでもいう、百合か玉葱みたいな球根を剥いた新しさの皮膚は、首までほんのり血の色が上っていて、なによりも清潔だった。
   しゃんと坐り構えているのだが、いつになく娘じみて見えた。
  最後に、今稽古中のを言って、譜を見ながら新曲浦島を弾いてから、駒子は黙って撥を糸のしたに挟むと、体を崩した。
   急に色気がこぼれて来た。
   島村はなんとも言えなかったが、駒子も島村の批評を気にする風はさなになく、素直に楽しげだった。
   「君はここの芸者の三味線を聞いただけで、誰だか皆分るかね」
   「そりゃ分りますわ、二十人足らずですもの。都々逸がよく分るわね、一番その人の癖が出るから」

   そしてまた三味線を拾い上げると、右足を折ったままずらせて、そのふくらはぎに三味線の胴を載せ、腰は左に崩しながら、体は右に傾けて、
   「小さい時こうして習ったわ」と、棹を覗き込むと、
   「く、ろ、かあ、みい、の……」と、幼げに歌って、ぼつんぼつん鳴らした。
   「黒髪を最初に習ったの?」
   「ううん」と、駒子はその小さい時のように、かぶりを振った。
   それからは泊ることがあっても、駒子はもう強いて夜明け前に帰ろうとはしなくなった。 
   「駒子チャン」と、尻上がりに廊下の遠くから呼ぶ、宿の女の子を火燵へ抱き入れて余念なく遊んでは、正午近くにその三つの子と湯殿へ行ったりした。
湯上りの髪に櫛を入れてやりながら、
   「この子は芸者さえ見れば、駒子ちゃんって尻上りに呼ぶの。写真でも、絵でも、日本髪だと、駒子ちゃん、だって。私子供好きだから、よく分るんだわ。きみちゃん、駒子ちゃんの家へ遊びに行こうね」と、立上ったが、また廊下の籐椅子へのどこに落ちついて、
   「東京のあわて者だわ。もう辷ってるわ」
   山麓のスキイ場を真横から南に見晴せる高みに、この部屋はあった。
   島村も火燵から振り向いてみると、スロオプは雪が斑なので、五六人の黒いスキイ服がずっと裾の方の畑の中で辷っていた。その段々の畑の畦は、まだ雪に隠れぬし、あまり傾斜もないから一向たわいがなかった。
   「学生らしいね。日曜かしら。あんなことで面白いかね」
   「でも、あれはいい姿勢で辷ってるんですわ」と、駒子はひとりごとのように、
   「スキイ場で芸者に挨拶されると、おや、君かいって、お客さんは驚くんですって。真黒に雪焼けしてるから分らないの。夜はお化粧してるでしょう」
   「やっぱりスキイ服を着て」
   「山袴。ああ厭だ、厭だ、お座敷でね、では明日またスキイ場でってことに、もうすぐなるのね。今年は辷るの止そうかしら。さようなら。さあ、きみちゃん行こうよ。今夜に雪だわ。雪の降る前の晩は冷えるんですよ」
   島村は駒子の立った後の籐椅子に坐っていると、スキイ場のはずれの坂道に、きみ子の手を引いて帰る駒子が見えた。
   雲が出て、陰になる山やまだ日光を受けている山が重なり合い、その陰日向がまた刻々に変わって行くのは、薄寒い眺めであったが、やがてスキイ場もゆうっと陰って来た。窓の下に目を落すと、枯れた菊のまがきには寒天のような霜柱が立っていた。しかし、屋根の雪の解ける樋の音は絶え間なかった。
   その夜は雪でなく、霰の後は雨になった。
   帰る前の月の冴えた夜、空気がきびしく冷えてから島村はもう一度駒子を呼ぶと、十一時近くだのに彼女は散歩をしようといって聞かなかった。なにか荒々しく彼を火燵から抱き上げて、無理に連れ出した。
   道は凍っていた。村は寒気の底へ寝静まっていた。駒子は裾をからげて帯に挟んだ。月はまるで青い氷のなかの刃のように済み出ていた。
   「駅まで行くのよ」
   「気ちがい。往復一里もある」
   「あんたもう東京へ帰るんでしょう。駅を見に行くの」
   島村は肩から腿まで寒さに痺れた。
   部屋へ戻ると急に駒子はしょんぼりして、火燵に深く両腕を入れてうなだれながら、いつになく湯にも入らなかった。
   火燵蒲団はそのままに、つまり掛蒲団がそれと重なり、敷蒲団の裾が堀火燵の縁へ届くように、寝床が一つ敷いてあるのだが、駒子は横から火燵にあたって、じっとうなだれていた。
   「どうしたんだ」
   「帰るの」
   「馬鹿言え」
   「いいから、あんたお休みなさい。私はこうしてたいから」
   「どうして帰るんだ」
   「帰らないわ。夜が明けるまでここにいるわ」
   「つまらん、意地悪するなよ」
   「意地悪なんかしないわ。意地悪なんかしやしないわ」
   「じゃあ」
   「ううん、難儀なの」
   「なあんだ、そんなこと。ちっともかまいやしな」と、島村は笑い出して、
   「どうもしやしないよ」
   「いや」
   「それに馬鹿だね、あんな乱暴に歩いて」
   「帰るの」
   「帰らなくてもいいよ」
   「つらいわ。あんたもう東京へ帰らんなさい。つらいわ」と、駒子は火燵の上にそっと顔を伏せた。
   つらいとは、旅の人に深填りしてゆきそうな心細さであろうか。またはこういう時に、じっとこらえるやるせなさであろうか。女の心はそんなにまで来ているのかと、島村はしばらく黙り込んだ。
   「もう帰んなさい」
   「実は明日帰ろうかと思っている」
   「あら、どうして帰るの?」と、駒子は目が覚めたように顔を起した。
   「いつまでいたって、君をどうしてあげることも、僕には出来ないんじゃないか」
   ほうっと島村を見つめていたかと思うと、突然激しい口調で、
   「それがいけないのよ。あんた、それがいけないのよ」と、じれったそうに立上って来て、いきなり島村の首に縋りついて取り乱しながら、
   「あんた、そんなこと言うのがいけないのよ。起きなさい。起きなさい。起きなさいってば」と、口走りつつ自分が倒れて、物狂わしさに体のことも忘れてしまった。
   それから温かく潤んだ目を開くと、
   「ほんとうに明日帰りなさいね」と、静かに言って、髪の毛を拾った。
   島村は次の日の午後三時で立つことにして、服に着替えている時に、宿の番頭が駒子をそっと廊下へ呼び出した。そうね、十一時間くらいにしておいてちょうだいと駒子の返事が聞えた。十六、七時間はあまり長過ぎると、番頭が思ってのことかも知れない。
   勘定書を見ると、朝の五時に帰ったのは五時まで、翌日の十二時に帰ったのは十二時まで、すべて時間勘定になっていた。
   駒子はコオトに白い襟巻をして、駅まで見送って来た。
   またたびの実の漬物やなめこの缶詰など、時間つぶしに土産物を買っても、まだ二十分も余っているので、駅前の小高い広場を歩きながら、四方雪の山の狭い土地だなあと眺めていると、駒子の髪の黒過ぎるのが、日陰の山峡の侘しさのためにかえってみじめに見えた。
   遠く川下の山腹に、どうしたのか一箇処、薄日の射したところがあった。
   「僕が来てから、雪が大分消えたじゃないか」
   「でも二日降れば、すぐ六尺は積るわ。それが続くと、あの電信柱の電灯が雪のなかになってしまうわ。あんたのことなんか考えて歩いてたら、電線に首をひっかけて怪我するわ」
   「そんなに積るの」
   「この先の町の中学ではね、大雪の朝は、寄宿舎の二階の窓から、裸で雪へ飛びこむんですって。体が雪のなかへすっぽっと沈んでしまって見えなくなるの。そうして水泳みたいに、雪の底を泳ぎ歩くんですって。あすこにもラッセルがいるわ」
   「雪見に来たいが正月は宿がこむだろうね。汽車は雪崩に埋もれやしないか」
   「あんた贅沢な人ねえ。そういう暮しばかりしてるの?」と、駒子は島村の顔を見ていたが、
   「どうして髭を伸ばしにならないの」
   「うん。伸ばそうと思ってる」と、青々と濃い剃刀のあとをなでながら、自分の口の端には一筋みごとな皺が通っていて、柔らかい頬をきりっと見せる、駒子もそのために買いかぶっているかもしれないと思ったが、
   「君はなんだね、いつでも白粉を落すと、今剃刀をあてたばかりという顔だね」
   「気持の悪い鳥が鳴いてる。どこで鳴いてる。寒いわ」と、駒子は空を見上げて、両肘で胸脇を抑えた。
   「待合室のストオヴにあたろうか」
   その時、街道から停車場へ折れる広い道を、あわただしく駆けて来るのは葉子の山袴だった。
   「ああっ、駒ちゃん、行男さんが、駒ちゃん」と、葉子は息切れしながら、ちょうど恐ろしいものを逃れた子供が母親に縋りつくみたいに、駒子の肩を摑んで、
   「早く帰って、様子が変よ、早く」
   駒子は肩の痛さをこらえるかのように目をつぶると、さっと顔色がなくなったが、思いがげなくはっきりぶりを振った。
   「お客さまを送ってるんだから、私帰れないわ」
   島村は驚いて、
   「見送りなんて、そんなものいいから」
   「よくないわ。あんたもう二度と来るか来ないか、私には分りゃしない」
   「来るよ、来るよ」
   葉子はそんなことなにも聞えぬ風で、急き込みながら、
   「今ね、宿へ電話をかけたの、駅だって言うから、飛んで来た。行男さんが呼んでる」と、駒子を引っぱるのに、駒子はじっとこらえていたが、急に振り払って、
   「いやよ」
   そのとたん、二、三歩よろめいたのは駒子の方であった。そして、げえっと吐気を催したが、口からはなにも出ず、目の縁が湿って、頬が鳥肌立った。
   葉子は呆然としゃちこ張って、駒子を見つめていた。しかし顔つきはあまりに真剣なので、怒っているのか、驚いているのか、悲しんでいるのか、それが現れず、なにか仮面じみて、ひどく単純に見えた。
   その顔のまま振り向くと、いきなり島村の手を摑んで、
   「ねえ、すみません。この人を帰して下さい」と、ひたむきな高調子で責め縋って来た。
   「ええ、帰します」と、島村は大きな声を出した。
   「早く帰れよ、馬鹿」
   「あんた、なにを言うことあって」と、駒子は島村に言いながら彼女の手は葉子を島村から押し退けていた。
   島村は駅前の自動車を指さそうとすると、葉子に力いっぱい摑まれていた手先が痺れたけれども、
   「あの車で、今すぐ帰しますから、とにかくあんたは先にいってたらいいでしょう。っこでそんな、人が見ますよ」
   葉子はこくりとうなずくと、
   「早くね、早くね」と、言うなり後向いて走り出したのは嘘みたいにあっけなかったが、遠ざかる後姿を見送っていると、なぜまたあの娘はいつもああ真剣な様子なのだろうと、この場にあるまじい不審が島村の心を掠めた。
   葉子の悲しいほど美しい声は、どこか雪の山から今にも木魂して来そうに、島村の耳に残っていた。
   「どこへ行く」と、駒子は島村が自動車の運伝手を見つけに行こうとするのを引き戻して、
   「いや。私は帰らないわよ」
   ふっと島村は駒子に肉体的な憎悪を感じた。
   「君達三人の間に、どういう事情があるかしらんが、息子さんは今死ぬかもしれんのだろう。それで会いたがって、呼びに来たんじゃないか。素直に帰ってやれ。一生後悔するよ。こう言ってるうちにも、息が絶えたらどうする強情張らないでさらりと水に流せ」
   「ちがう。あんた誤解しているわ」
   「君が東京へ売られて行く時、ただ一人見送ってくれた人じゃないか。一番古い日記の、一番初めに書いてある、その人の最後を見送らんという法があるか。その人の命の一番終りのぺエジに、君を書きに行くんだ」
   「いや、人の死ぬの見るなんか」
   それは冷たい薄情とも、あまりに熱い愛情とも聞えるので、島村は迷っていると、
   「日記なんかもうつけられない。焼いてしまう」と、駒子は呟くうちになぜか頬が染まって来て、
   「ねえ、あんた素直な人ね。素直な人なら、私の日記をすっかり送ってあげてもいいわ。あんた私を笑わないわね。あんた素直な人だと思うけれど」
   島村はわけ分らぬ感動に打たれて、そうだ、自分ほど素直な人間はないのだという気がして来ると、もう駒子に強いて帰れとは言わなかった。駒子も黙ってしまった。
   宿屋の出張所から番頭が出て来て、改札を知らせた。
   陰気な冬支度の土地の人が四、五人、黙って乗り降りしただけであった。
   「フォウムへは入らないわ。さろなら」と、駒子は待会室の窓のなかに立っていた。窓のガラス戸はしまっていた。それは汽車のなかから眺めると、うらぶれた寒村の果物屋の煤けたガラス箱に、不思議な果物がただ一つ置き忘れられたようであった。

   汽車が動くとすぐ待会室のガラスが光って、駒子の顔はその光のなかにぽっと燃え浮ぶかと見る間に消えてしまったが、それはあの朝雪の鏡の時と同じに真赤な頬であった。またしても島村にとっては、現実というものとの別れ際の色であった。

   国境の山を北から登って、長いトンネルを通り抜けてみると、冬の午後の薄光りはその地中の闇へ吸い取られてしまったかのように、股古ぼけた汽車は明るい殻をトンネルに脱ぎ落して来たかのように、もう峰と峰との重なりの間から暮色の立ちはじめる山峡を下って行くのだった。こちら側にはまだ雪がなかった。

   流れに沿うてやがて広野に出ると、頂上は面白く切り刻んだようで、そこからゆるやかに美しい斜線が遠い裾まで伸びている山の端に月が色づいた。野末にただ一つの眺めである。その山の全き姿を浅い夕映えの空がくっきりと濃深縹色に描き出した。月はもう白くはないけれども、まだ薄色で冬の夜の冷たい冴えはなかった。鳥一羽飛ばぬ空であった。山の裾野が遮るものもなく左右に広々と延びて、河岸へ届こうとするところに、水力電気らしい建物が真白に立っていた。それは冬枯の車窓に暮れ残るものであった。

   しかし、地蔵の裏の低い木陰から、不意に葉子の胸が浮び上った。彼女もとっさに仮面じみた例の真剣な顔をして、刺すように燃える目でこちらを見た。島村はこくんとおじぎをするとそのまま立ち止った。

   「葉子さん早いのね。髪結いさんへ私……」と、駒子が言いかかった時だった。どっと真黒な突風に吹き飛ばさてたように、彼女も島村も身を竦めた。

   貨物列車が轟然[ごう-ぜん]と真近( まぢか )を通ったのだ。

   「姉さあん」と、呼ぶ声が、その荒々しい[あらあら‐し・い]響きのなかを流れて来た。黒い貨物の扉から、少年が帽子を振っていた。

   「佐ー郎う、佐ー郎う」と、葉子が呼んだ。

   雪の信号所で駅長[えき‐ちょう]を呼んだ、あの声である。聞こえもせぬ遠い船の人を呼ぶよりな、悲しいほど美しい声であった。

   貨物列車が通ってしまうと、目隠しを取ったように、線路向うの蕎麦[そば]の花が鮮やかに見えた。赤い茎[くき]の上に咲き揃って実に静かであった。

   思いがけなく葉子に会ったので、二人は汽車の来るのも気がつかなかったほどだったが、そのようななにかも、貨物列車が吹き払って行ってしまった。

   そして後には、車輪の音よりも葉子の声の余韻が残っていそうだった。純潔[じゅん‐けつ]な愛情の木魂が返って来そうだった。

   葉子は汽車を見送って、

   「弟が乗っていたから、駅へ行ってみようかしら」

   「だって、汽車は駅に待ってやしないわ」と、駒子が笑った。

   「そうね」

   「私ね、行男さんのお墓参りはしないことよ」

   葉子はうなずいて、ちょっとためらっていたが、墓の前にしゃがんで手を合わせた。

   駒子は突っ立ったままであった。

   島村は目をそらして地蔵を見た。長い顔の三面で、胸で合掌した一組の腕のはかに、右と左に二本ずつの手があった。

   「髪を結うのよ」と、駒子は葉子に言って、畦道を村の方へ行った。

   土地の言葉でハッテという、樹木の幹から幹へ、竹や木の棒を物干竿[ものほし-ざお ]のような工合[ぐ-あい]に幾段も結びつけて、稲を懸けて干す、そして稲の高い屏風を立てたように見えるのだが――島村達が通る路ばたにも、百姓がそのハッテを作っていた。

   山袴の腰をひょいと捻って、娘が稲の束[たば]を投げ上げると、高くのぼった男が器用に受け取って扱くように振り分けては、竿[さお]に懸けていった。物慣れて無心の動きが調子よく繰り返されていた。

   ハッテの垂れ穂を、貴いものの目方を計るように駒子は掌に受けて、ゆさゆさ揺り上げながら、

   「いい実り、触っても気持のいい稲だわ。去年とは大変なちがいだわ」と、稲の感触を楽しむように芽を細めた。その上の空低く群雀が乱れ飛んだ。

   「田植人夫[にん-ぷ]賃金協定。九十銭、ー日賃金賄附。女人夫は右の六分」というような古い貼紙が道端の壁に残っていた。

   葉子の家にもハッテがった。街道から少し凹んだ畑の奥に建っているのだが、その庭の左手、隣家の白壁沿いの柿の並木に、高いハッテが組んであった。そしてまた畑と庭との境にも、つまり柿の木のハッテとは直角に、やはりハッテで、その稲の下をくぐる入口が片端出来ていた。莚ならぬ稲で、ちょうど小屋掛けしたようである。畑は闌れたダリやと薔薇の手前に里芋が逞しい葉を拡げていた。緋鯉の蓮池はハッテの向うで見えない。

   去年駒子がいたあの蚕の部屋の窓も隠れていた。

   葉子は怒ったように頭を下げると、稲穂の入口を帰って行った。

   「この家に一人でいるのかい」と、島村はその少し前屈みの後姿を見送っていたが、

   「そうでもないでしょう」と、駒子は突慳貪に言った。

   「ああ厭だ。もう髪を結うの止めた。あんたがよけいなこと言うから、あの人の墓参りを邪魔しちゃった」

   「墓で会いたくないって、君の意気地っ張りだろう」

   「あんたが私の気持を分らないのよ。後で暇があったら、髪を洗いに行きますわ。晩くなるかもしれないけれど、きっと行くわ」

   そして夜なかの三時であった。

   障子を押し飛ばすようにあける音で島村が目を覚ますと、胸の上へばったり駒子が長く倒れて、

   「来ると言ったら、来たでしょ。ねえ、来ると言ったら来たでしょ」と、腹まで波打つ荒い息をした。

   「ひどく酔ってんだね」

   「ねえ、来ると言ったら来たでしょ」

   「ああ、来たよ」

   「ここへ来る道、見えん。見えん。ふう、苦しい」

   「それでよく坂が登れたね」

   「知らん。もう知らん」と、駒子はうんと仰け反って転がるものだから、島村は重苦しくなって起上ろうとしたが、不意に起されたことゆえふらついて、また倒れると、頭が熱いものに載って驚いた。

   「火みたいじゃないか、馬鹿だね」

   「そう?火の枕、火傷するよ」

   「ほんとだ」と、目を閉じているとその熱が頭に沁み渡って、島村はじかに生きている思いがするのだった。駒子の激しい呼吸につれて、現実というものが伝わって来た。それはなつかしい悔恨に似て、ただもう安らかになにかの復讐を待つ心のようであった。

   「来ると言ったら来たでしょ」と、駒子はそれを一心に繰り返して、

   「これで来たから、帰る。髪を洗うのよ」

   そして這い上ると、水をごくごく飲んだ。

   「そんなんで帰れやしないよ」

   「帰る。連れがあんのよ。お湯道具、どこへ行った」

   島村が立ち上って電燈をつけると、駒子は両手で顔を隠して畳に突っ伏してしまった。

   「いやよ」

   元禄袖の派手なめりんすの袷に黒襟のかかった寝間着で伊達巻をしめていた。それで襦袢の襟が見えず、素足の縁まで酔いが出て、隠れるように身を縮めているのは変に可愛く見えた。

   湯道具を投げ出したとみえ、石鹸や櫛が散らばっていた。

   「切ってよ、鋏持って来たから」

   「なにを切るんだ」

   「それをね」と、駒子は髪のうしろへ手をやって、

   「うちで元結をきろうとしたんだけれど、手が言うことをきかないのよ。ここへ寄って切って貰おうと思って」

   島村は女の髪を掻き分けて元結を切った。ひとところがきれるたびに、駒子は髪を振り落としながら少し落ちついて、

   「今幾時頃なの」

   「もう三時だよ」

   「あら、そんな?地髪を切っちゃ駄目よ」

   「ずいぶん幾つも縛ってるんだね」

   彼の掴み取る髢の根の方がむっと温かかった」

   「もう三時なの?座敷から帰って、倒れたまま眠ったらしいわ。お友達と約束しといたから誘ってくれたのよ。どこへ行ったかと思ってるわ」

   「待ってるのか」

   「共同湯に入ってるわ、三人。六座敷あったんだけれど四座敷しか廻れなかった。来週は紅葉でいそがしいわ。どうもありがとう」と、解けた髪を梳きながら顔を上げると、眩しそうに含み笑いをして、

   「知らないわ、ふふふ、おかしいな」

   そして術なげに髢を拾った。

   「お友達に悪いからいくわね。帰りにはもう寄らないわ」

   「道が見えるか」   

   「見える」

   しかし裾を踏んでよろめいた。

   朝の七時と夜なかの三時と、一日に二度も異常な時間に暇を盗んで来たのだと思うと、島村はただならぬものが感じられた。


   紅葉を門松のように、宿の番頭達が門口へ飾りつけていた。観楓客の歓迎である。

   生意気な口調で指図しているのは、渡り鳥でさと自ら嘲るように言う臨時雇いの番頭だった。新緑から紅葉までの間を、ここらあたりの山の湯で働き、冬は熱海や長岡などの伊豆の温泉場へ稼ぎに行く、そういう男の一人である。毎年同じ宿に働くとは限らない。彼は伊豆の繁華な温泉場の経験を振り廻して、ここらの客払いの陰口ばかりきいていた。揉み手しながらしつっこく客を引くが、いかにも誠意のない物乞いじみた人相が現れていた。

   「旦那、あけびの実を御存じですか。召上るなら取って参りますよ」と、散歩帰りの島村に言って、彼はその実を蔓のまま紅葉の枝に結びつけた。

   紅葉は山から伐って来たらしく軒端につかえる高さ、玄関がぱっと明るむように色あざやかなくれないで、一つ一つの葉も驚くばかり大きかった。

   島村はあけびの冷たい実を握ってみながら、ふと帳場の方を見ると、葉子が炉端に坐っていた。

   おかみさんが銅壺で燗の番をしている。葉子はそれと向い合って、なにか言われるたびにはっきりうなずいていた。山袴も羽織もなしに、洗い張りしたばかりのような銘仙を着ていた。

   「手伝いの人?」と、島村がなにげなく番頭に訊くと、

   「はあ、お陰さまで、人手が足りないもんでございますから」

   「君と同じだね」

   「へえ。しかし、村の娘で、なかなか一風変っておりますな」

   葉子は勝手働きをしているとみえ、今まで客座敷へは出ないようだった。客がたてこむと、炊事場の女中達の声も大きくなるのだが、葉子のあの美しい声は聞こえなかった。島村の部屋を受け持つ女中の話では、葉子は寝る前に湯船のなかで歌を歌う癖があるということだったが、彼はそれも聞かなかった。

   しかし葉子がこの家にいるのだと思うと、島村は駒子を呼ぶことにもなぜかこだわりを感じた。駒子の愛情に彼に向けられたものであるにもかかわらず、それを美しい徒労であるかのように思う彼自身の虚しさがあって、けれどもかえってそれにつれて、駒子の生きようとしている命が裸の肌のように触れて来もするのだった。彼は駒子を哀れみながら、自らを哀れんだ。そのようなありさまを無心に刺し透かす光に似た目が、葉子にありそうな気がして、島村はこの女にも惹かれるのだった。

   島村が呼ばなくとも駒子はむろしげしげと来た。

   渓流の奥の紅葉を見に行くので、彼は駒子の家の前を通ったことがあったが、その時彼女は車の音を聞きつけて、今のは島村にちがいないと表へ飛び出てみたのに、彼はうしろを振り返りもしなかったのは薄情者だと言ったほどだから、彼女は宿へ呼ばれさえすれば、島村の部屋へ寄らぬことはなかった。湯に行くにも、道寄りした。宴会があると一時間も早く来て、女中が呼ぶまで彼のとこれで遊んでいた。座敷をよく抜け出して来ては、鏡台で顔を直して、

   「これから働きに行くの、商売気があるから。さあ、商売、商売」と、立って行った。

   撥入れだとか、羽織だとか、なにかしら持って来たものを、彼の部屋へ置いて帰りたがった。

   「昨夜帰ったら、お湯が沸いてないの。お勝手をごそごそやって、朝の味噌汁の残りを掛けて、梅干で食べたのよ。冷たあい、冷たあい。今朝うちで起こしてくれないのよ。目が覚めてみたら十時半、七時に起きて来ようと思ってたのに、無駄になったわ」

   そんなことや、どの宿からどの宿へ行ったという、座敷の模様をあれこれと報告するのだった。

   「また来るわね」と、水を呼んで立ち上りながら、

   「もう来んかもしれないわ。だって三十人のところへ三人だもの、忙しくて抜けられないの」

   しかし、また間もなく来て、

   「つらいわ。三十人の相手に三人しかないの。それが一番年寄りと一番若い子だから、私がつらいわ。けちな客、きっとなんとか旅行会だわ。三十人なら少なくとも六人いなければね。飲んでおどかして来るわね」

   毎日がこんな風では、どうなってゆくことかと、さすがに駒子は身も心も隠したいようであったが、そのどこか孤独の趣は、かえって風情をなまめかすばかりだった。

   「廊下が鳴るので恥ずかしいわ。そっと歩いても分るのね。お勝手の横を通ると、駒ちゃん椿の間かって、笑うんですよ。こんな気兼ねをするようになろうとは思わなかった」

   「土地が狭いから困るだろう」

   「もうみんな知ってるわよ」

   「そりゃいかんね」

   「そうね。ちょっと悪い評判が立てば、狭い土地はおしまいね」と言ったが、すぐ顔を上げて微笑むと、

   「ううん、いいのよ。私達はどこへ行ったって働けるから」

   その素直な実感の籠もった調子は、親譲りの財産で徒食する島村にはひどく意外だった。

   「ほんとうよ。どこで稼ぐのもおんなじよ。くよくよすることない」

   なにげない口ぶりなのだが、島村は女の響きを聞いた。

   「それでいいのよ。ほんとうに人を好きになれるのは、もう女だけなんですから」と、駒子は少し顔を赤らめてうつ向いた。

   襟を透かしているので、背から肩へ白い扇を拡げたようだ。その白粉の濃い肉はなんだが悲しく盛り上って、毛織物じみて見え、また動物じみて見えた。

   「今の世のなかではね」と、島村は呟いて、その言葉の空々しいのに冷っとした。

   しかし駒子は単純に、

   「いつだってそうよ」

   そして顔を上げると、ぼんやり言い足した。

   「あんたそれを知らないの?」

   背に吸いついている赤い肌襦袢が隠れた。

   ヴァレリイやアラン、それからまたロシア舞踊の花やかだった頃のフランス文人達の舞踊論を島村は翻訳しているのだった。小部数の贅沢本として自費出版するつもりである。今の日本の舞踊界になんの役にも立ちそうでない本であることが、かえって彼を安心させると言えば言える。自分の仕事によって自分を冷笑することは、甘ったれた。楽しみなのだろう。そんなところから彼の哀れな夢幻の世界が生まれるのかましれぬ。旅にまで出て急ぐ必要はさらにない。

   彼は昆虫どもの悶死するありさまを、つぶさに観察していた。

   秋が冷えるにつれて、彼の部屋の畳の上で死んでゆく虫も日ごとにあったのだ。翼の堅い虫はひっくりかえると、もう起き直れなかった。蜂は少し歩いて転び、また歩いて倒れた。季節の移るように自然と亡びてゆく、静かな死であったけれども、近づいて見ると脚や触覚を顫わせて悶えているのだった。それらの小さい死の場所として、八畳はたいへん広いもののように眺められた。

   島村は死骸を捨てようとして指で拾いながら、家に残して来た子供達をふと思い出すこともあった。

   窓の金網にいつまでもとまっていると思うと、それは死んでいて、枯葉のように散ってゆく蛾もあった。壁から落ちて来るのもあった。手に取ってみては、なぜこんなに美しく出来ているのだろうと、島村は思った。

   その虫除けの金網も取りはずされた。虫の声がめっきり寂れた。

   国境の山々は赤錆色が深まって、夕日を受けると少し冷たい鉱石のように鈍く光り、宿は紅葉の客の盛りであった。

   「今日は来れないわよ、たぶん。地の人の宴会だから」と、その夜も駒子は島村の部屋へ寄って行くと、やがて大広間に太鼓が入って女の金切声も聞こえて来たが、その騒々しさの最中に思いがけない近くから、澄み通った声で、

   「御免下さい、御免下さい」と、葉子が呼んでいた。

   「あの、駒ちゃんがこれよこしました」

   葉子は立ったまま郵便配達のような恰好に手を突き出したが、あわてて膝を突いた。島村がその結び文を拡げていると、葉子はもういなくなった。なにを言う間もなかった。

   「今とっても朗らかに騒いでます酒のんで、懐紙に酔った字で書いてあるだけだった。

   しかし十分と立たぬうちに、駒子が乱れた足音で入って来て、

   「今あの子がなにか持って来た?」  

   「来たよ」

   「そう?」と、上機嫌に片目を細めながら、

   「ふう、いい気持。お酒を注文しに行く、そう言って、そうっと抜けて来た。番頭さんに見つかって叱られた。お酒はいい、叱られても、足音が気にならん。ああ、いやだわ。ここへ来ると、急に酔いが出る。これから働きに行くの」

   「指の先までいい色だよ」

   「さあ、商売。あの子なんて言った?恐ろしいやきもち焼きなの、知ってる?」

   「誰か?」

   「殺されちゃいますよ」

   「あの娘さんも手伝ってるんだね」

   「お銚子を運んで来て、廊下の陰に立って、じいっと見てんのよ、きらきら目を光らして。あんなああいう目が好きなんでしょう」

   「あさましいありさまだと思って見たんだよ」

   「だから、これ持ってらっしゃいって、書いてよこしたんだわ。水飲みたい、水ちょうだい。どっちがあさましいか、女は口説き落してみないことには、分らないわよ。私酔ってる?」と、倒れるように鏡台の両端をつかまえて覗きこむと、しゃんと裾を裁いて出て行った。

   やがて宴会も終わったらしく、急にひっそりして、瀬戸物の音が遠く聞こえたりするので、駒子も客に連れられて別の宿の二次会へ廻ったのかと思っていると、葉子がまた駒子の結び文を持って来た。

   「山風館やめにしましたこれから梅の間帰りにようますおやすみ」

   島村は少し恥ずかしそうに苦笑して、

   「どうもありがとう。手伝いに来てるの?」

   「ええ」と、うなずくはずみに、葉子はあの刺すように美しい目で、島村をちたっと見た。島村はなにか狼狽した。

   これまで幾度も見かけるびごとに、いつも感動的な印象を残している、この娘がなにごともなくこうして彼の前に坐っているのは、妙に不安であった。彼女の真剣過ぎる素振りは、いつも異常な事件の真中にいるという風に見えるのだった。

   「いそがしそうだね」

   「ええ。でも、私はなんにも出来ません」

   「君にはずいぶんたびたび会ったな。初めはあの人を介抱して帰る汽車のなかで、駅長に弟さんのことを頼んでたの、覚えてる?」

   「ええ」

   「寝る前にお湯のなかで歌を歌うんだって?」

   「あら、お行儀の悪い、いやだわ」と、その声が驚くほど美しかった。

   「君のことはなにもかも知ってるような気がするね」

   「そうですか。駒ちゃんにお聞きになったんですか」

   「あの人はしゃべりゃしない。君の話をするのをいやがるくらいだよ」

   「そうですか」と、葉子はそっと横を向いて、

   「駒ちゃんはいいんですけれども、可哀想なんですから、よくしてあげて下さい」

   早口に言う、その声が終りの方は微かに顫えた。

   「しかし僕には、なんにもしてやれないんだよ」

   葉子は今に体まで顫えて来そうに見えた。危険な輝きが迫って来るような顔から島村は目をそらせて笑いながら、

   「早く東京へ帰った方がいいかもしれないんだけれどもね」

   「私も東京へ行きますわ」

   「いつ?」

   「いつでもいいんですの」

   「それじゃ、帰る時連れて行ってあげようか」

   「ええ、つれて帰って帰って下さい」と、こともなげに、しかし真剣な声で言うので、島村は驚いた。

   「君のうちの人がよければね」

   「うちの人って、鉄道へ出ている弟一人ですから、私がきめちゃっていいんです」

   「東京になんかあてがあるの?」

   「いいえ」

   「あの人に相談した?」

   「駒ちゃんですか。駒ちゃんは憎いから言わないんです」

   そう言って、気のゆるみか、少し濡れた目で彼を見上げた葉子に、島村は奇怪な魅力を感じると、どうしてかかえって、駒子に対する愛情が荒々しく燃えて来るようであった。為体の知れない娘と駆落ちのように帰ってしまうことは、駒子への激しい謝罪の方法であるかとも思われた。またなにかしら刑罰のようでもあった。

   「君はそんな、男の人と行ってこわくはないのかい」

   「どうしてですか」

   「君が東京でさしずめ落ちつく先とか、なにをしたいとかいうことくらいきまってないと危ないじゃないか」

   「女一人くらいどうにでもなりますわ」と、葉子は言葉尻が美しく吊り上るように言って、島村を見つめたまま、

   「女中に使っていただけませんの?」

   「この前東京にいた時は、なにをしてたんだ」

   「看護婦です」

   「病院か学校に入ってたの」

   「いいえ、ただなりたいと思っただけですわ」

   島村はまた汽車のなかで師匠の息子を介抱していた葉子の姿を思い出して、あの真剣さのうちには葉子の志望も現れていたのかと微笑まれた。

   「それじゃ今度も看護婦の勉強がしたいんだね」

   「看護婦にはもうなりません」

   「そんな根なしじゃいけないね」

   「あら、根なんて、いやだわ」と、葉子は弾き返すように笑った。

   その笑い声も悲しいほど高く澄んでいるので、白痴じみては聞こえなかった。しかし島村の心の殻を空しく叩いて消えてゆく。

   「なにがおかしいんだ」

   「だって、私は一人の人しか看病しないんです」

   「え?」

   「もう出来ませんの」

   「そうか」と、島村はまた不意打ちを食わされて静かに言った。

   「毎日君は蕎麦畑の下の墓にばかり参ってるそうだね」

   「ええ」

   「一生のうちに、外の病人を世話することも、外の人の墓に参ることも、もうないと思ってるのか?」

   「ないわ」

   「それに墓を離れて、よく東京へ行けるね?」

   「あら、すみません。連れて行って下さい」

   「君は恐ろしいやきもち焼きだって、駒子が言ってたよ。あの人は駒子のいいなずけじゃなかったの?」

   「行男さんの?嘘、嘘ですよ」

   「駒子が憎いって、どういうわけだ」

   「駒ちゃん?」と、そこにいる人を呼ぶかのように言って、葉子は島村をきらきら睨んだ。

   「駒ちゃんをよくしてあげて下さい」

   「僕はなんにもしてやれないんだよ」

   葉子の目頭に涙が溢れて来ると、畳に落ちていた小さい蛾を掴んで泣きじゃくりながら、

   「駒ちゃんは私が気ちがいになると言うんです」と、ふっと部屋を出て行ってしまった。

   島村は寒気がした。

   葉子の殺した蛾を捨てようとして窓をあけると、酔った駒子が客を追いつめるような中腰になって拳を打っているのが見えた。空は曇っていた。島村は内湯に行った。

   隣りの女湯へ葉子が宿の子を連れて入って来た。

   着物を脱がせたり、洗ってやったりするのが、いかにも親切なものいいで、初々しい母の甘い声を聞くように好もしかった。

   そしてあの声で歌い出した。

   ……………

   ……………

   裏へ出て見たれば

   梨の樹が三本

   杉の樹が三本

   みんなで六本

   下から烏が

   巣をかける

   上から雀が

   巣をかける

   森の中の螽蟖

   どういうて囀るや

   お杉友達墓参り

   墓参り一丁一丁一丁や



   手鞠歌の幼い早口で生き生きとはずんだ調子は、ついさっきの葉子など夢かと島村に思わせた。

   葉子が絶え間なく子供にしゃべり立てて上ってからも、その声が笛の音のようにまだそこらに残っていそうで、黒光りに古びに玄関の板敷きに片寄せてある、桐の三味線箱の秋の夜更けらしい静まりにも、島村はなんとなく心惹かれて、持主の芸者の名を読んでいると、食器を洗う音の方から駒子が来た。

   「なに見てんの?」

   「この人泊まりかい?」

   「誰。ああ、これ?馬鹿ねえ、あんた、そんなものいちいち持って歩けやしないじゃないの。幾日も置きっ放しにしとくことがあるのよ」と笑ったはずみに、苦しい息を吐きながら目をつぶると、褄を放して島村によろけかかった。

   「ねえ、送ってちょうだい」

   「帰ることじゃないか」

   「だめ、だめ、帰る。地の人の宴会で、みんな二次会へついて行ったのに、私だけ残ったのよ。ここにお座敷があったからいいようなものの、お友達が帰りにお湯へでも誘ってくれて、私が言えにいなかったら、あんまりだわ」

   したたか酔ってるのに、駒子は険しい坂をしゃんしゃん歩いた。

   「あの子をあんた泣かしたのね」

   「そう言えば、確かに少し気ちがいじみてるね」

   「人のことをそんな風に見て、面白いの?」

   「君が言ったんじゃないか、気ちがいになりそうだって、君に言われたのを思い出すと、くやしくて泣き出したらしかったよ」

   「それならいいわ」

   「ものの十分もたたぬうちに、お湯に入っていい声で歌ってるんだ」

   「お湯のなかで歌を歌うのは、あの子の癖なのよ」

   「君のことをよくしてあげて下さいって、真剣に頼むんだ」

   「馬鹿ねえ。だけど、そんなこと、あなた私に吹聴なさらなくってもいいじゃないの」

   「吹聴?君はあの娘のことになると、どうしてだかしらないが妙に意地を張るんだね」

   「あんたあの子が欲しいの?」

   「それ、そういうことを言う」

   「じょうだんじゃないのよ。あの子を見てると、行末私のつらい荷物になりそうな気がするの。なんとなくそうなの。あんただって仮にあの子が好きだとして、あの子のことよく見てごらんなさい。きっとそうお思いになってよ」と、駒子は島村は島村の肩に手をかけてしなだれて来たが、突然首を振ると、

   「ちがう。あんたみたいな人の手にかかったら、あの子は気ちがいにならずにすむかもしれないわ。私の荷を持ってきっちゃってくれない?」

   「いい加減にしろよ」

   「よって管を巻いてると思ってらっしゃるわ?あの子があんたの傍で可愛がられてると思って、私はこの山のなかで身を持ち崩すの。しいんといい気持」

   「おい」

   「ほっとてちょうだい」と、小走りに逃げて雨戸にどんとぶっつかると、そこは駒子の家だった。

   「もう帰らないと思ってるんだ」

   「ううん、あくのよ」

   枯れ切った音のする戸の裾を抱き上げるように引いて、駒子は囁いた。

   「寄って行って」

   「だって今頃」

   「もう家の人は寝ちゃってますわ」

   島村はさすがにしりごみした。

   「それじゃ私が送って行きます」

   「いいよもう」

   「いけない。今度の私の部屋まだ見ないじゃないの」

   勝手口へ入ると、目の前に家の人達の寝姿が乱れていた。ここらあたりの山袴のような木綿の、それも色褪せた固い蒲団を並べて、主人夫婦と十七、八の娘を頭に五、六人の子供が薄茶けた明かりの下に、思い思いの方に顔を向けて眠っているのは、侘しいうちにも逞しい力が籠もっていた。

 島村は寝息の温みに押し返されるように、思わず表へ出ようとしたけれども、駒子がうしろの戸をがたびして、足音の遠慮もなく板の間を踏んで行くので、島村も子供の枕もとを忍ぶように通り抜けると、怪しい快感で胸が顫えた。

   「ここで待ってて。二階の明かりをつけますから」

   「いいよ」と、島村は真暗な梯子段を昇って上った。振り返ると素朴な寝顔の向うに駄菓子の店が見えた。

   百姓家らしい古畳の二階に四間で、

   「私一人だから広いのよ」と、駒子は言ったが、襖はみな明け放して、家の古道具などをあちらの部屋に積み重ね、煤けた障子のなかに駒子の寝床を一つ小さく敷き、壁に座敷着のかかっているのなどは、狐狸の棲家のようであった。

   駒子は床の上にちょこんと坐ると、一枚しかない座敷蒲団を島村にすすめて、

   「さあ、真赤」と、鏡を覗いた。

   「こんなに酔ってたのかしら?」

   そして箪笥の上の方を捜しながら、

   「これ、日記」

   「ずいぶんあるんだね」

   その横から千代紙張りの小箱を出すと、いろんな煙草がいっぱいつまっていた。

   「お客さんのくれるのを袂へ入れたり帯に挟んだりして帰るから、こんなに皺になってるけれど、汚くはないの。そのかわりたいていのものは揃ってるわ」と、島村の前に手を突いて箱のなかを掻き廻して見せた。

   「あら、マッチがないわ。自分が煙草を止めたから、いらないのよ」

   「いいよ。裁縫してたの?」

   「ええ。紅葉のお客さんで、ちっとも捗らないの」と、駒子は振り向いて、箪笥の前の縫物を片寄せた。

   駒子の東京暮しの名残であろう、正目のみごとな箪笥や朱塗の贅沢な裁縫箱は、師匠の家の古い紙箱のような屋根裏にいた時と同じだけれども、この荒れた二階では無慚に見えた。

   電燈から細い紐が枕の上へ下っていた。

   「本を読んで寝る時に、これを引っぱって消すのよ」と、駒子はその紐を弄びながら、しかし家庭の女じみに風におとなしく坐って、なにか羞んでいた。

   「狐のお嫁入りみたいだね」

   「ほんとうですわ」

   「この部屋で四年暮すのかい」

   「でも、もう半年すんだわ。すぐよ」

   下の人達の寝息が聞こえて来るようだし、話の継穂がないので、島村はそそくさと立ち上った。

   駒子は戸をしめながら、首を突き出して空を仰ぐと、

   「雪催いね。もう紅葉もおしまいになるわ」と、また表に出て、

   「ここらあたりは山家ゆえ、紅葉のあるのに雪が降る」

   「じゃあ、お休み」

   「送って行くわ。宿の玄関までよ」

   ところが島村といっしょに宿へ入って来て、

   「お休みなさいね」と、どこかへ消えて行ったのに、しばらくするとコップに二杯なみなみと冷酒をついで、彼の部屋へ入って来るなり激しく言った。

   「さあ、飲みなさい、飲むのよ」

   「宿で寝ちゃてるのに、どこから持って来た」   しかし、地蔵の裏の低い木陰から、不意に葉子の胸が浮び上った。彼女もとっさに仮面じみた例の真剣な顔をして、刺すように燃える目でこちらを見た。島村はこくんとおじぎをするとそのまま立ち止った。

   「葉子さん早いのね。髪結いさんへ私……」と、駒子が言いかかった時だった。どっと真黒な突風に吹き飛ばさてたように、彼女も島村も身を竦めた。

   貨物列車が轟然と真近を通ったのだ。

   「姉さあん」と、呼ぶ声が、その荒々しい響きのなかを流れて来た。黒い貨物の扉から、少年が帽子を振っていた。

   「佐ー郎う、佐ー郎う」と、葉子が呼んだ。

   雪の信号所で駅長を呼んだ、あの声である。聞こえもせぬ遠い船の人を呼ぶよりな、悲しいほど美しい声であった。

   貨物列車が通ってしまうと、目隠しを取ったように、線路向うの蕎麦の花が鮮やかに見えた。赤い茎の上に咲き揃って実に静かであった。

   思いがけなく葉子に会ったので、二人は汽車の来るのも気がつかなかったほどだったが、そのようななにかも、貨物列車が吹き払って行ってしまった。

   そして後には、車輪の音よりも葉子の声の余韻が残っていそうだった。純潔な愛情の木魂が返って来そうだった。

   葉子は汽車を見送って、

   「弟が乗っていたから、駅へ行ってみようかしら」

   「だって、汽車は駅に待ってやしないわ」と、駒子が笑った。

   「そうね」

   「私ね、行男さんのお墓参りはしないことよ」

   葉子はうなずいて、ちょっとためらっていたが、墓の前にしゃがんで手を合わせた。

   駒子は突っ立ったままであった。

   島村は目をそらして地蔵を見た。長い顔の三面で、胸で合掌した一組の腕のはかに、右と左に二本ずつの手があった。

   「髪を結うのよ」と、駒子は葉子に言って、畦道を村の方へ行った。

   土地の言葉でハッテという、樹木の幹から幹へ、竹や木の棒を物干竿のような工合に幾段も結びつけて、稲を懸けて干す、そして稲の高い屏風を立てたように見えるのだが――島村達が通る路ばたにも、百姓がそのハッテを作っていた。

   山袴の腰をひょいと捻って、娘が稲の束を投げ上げると、高くのぼった男が器用に受け取って扱くように振り分けては、竿に懸けていった。物慣れて無心の動きが調子よく繰り返されていた。

   ハッテの垂れ穂を、貴いものの目方を計るように駒子は掌に受けて、ゆさゆさ揺り上げながら、

   「いい実り、触っても気持のいい稲だわ。去年とは大変なちがいだわ」と、稲の感触を楽しむように芽を細めた。その上の空低く群雀が乱れ飛んだ。

   「田植人夫賃金協定。九十銭、ー日賃金賄附。女人夫は右の六分」というような古い貼紙が道端の壁に残っていた。

   葉子の家にもハッテがった。街道から少し凹んだ畑の奥に建っているのだが、その庭の左手、隣家の白壁沿いの柿の並木に、高いハッテが組んであった。そしてまた畑と庭との境にも、つまり柿の木のハッテとは直角に、やはりハッテで、その稲の下をくぐる入口が片端出来ていた。莚ならぬ稲で、ちょうど小屋掛けしたようである。畑は闌れたダリやと薔薇の手前に里芋が逞しい葉を拡げていた。緋鯉の蓮池はハッテの向うで見えない。

   去年駒子がいたあの蚕の部屋の窓も隠れていた。

   葉子は怒ったように頭を下げると、稲穂の入口を帰って行った。

   「この家に一人でいるのかい」と、島村はその少し前屈みの後姿を見送っていたが、

   「そうでもないでしょう」と、駒子は突慳貪に言った。

   「ああ厭だ。もう髪を結うの止めた。あんたがよけいなこと言うから、あの人の墓参りを邪魔しちゃった」

   「墓で会いたくないって、君の意気地っ張りだろう」

   「あんたが私の気持を分らないのよ。後で暇があったら、髪を洗いに行きますわ。晩くなるかもしれないけれど、きっと行くわ」

   そして夜なかの三時であった。

   障子を押し飛ばすようにあける音で島村が目を覚ますと、胸の上へばったり駒子が長く倒れて、

   「来ると言ったら、来たでしょ。ねえ、来ると言ったら来たでしょ」と、腹まで波打つ荒い息をした。

   「ひどく酔ってんだね」

   「ねえ、来ると言ったら来たでしょ」

   「ああ、来たよ」

   「ここへ来る道、見えん。見えん。ふう、苦しい」

   「それでよく坂が登れたね」

   「知らん。もう知らん」と、駒子はうんと仰け反って転がるものだから、島村は重苦しくなって起上ろうとしたが、不意に起されたことゆえふらついて、また倒れると、頭が熱いものに載って驚いた。

   「火みたいじゃないか、馬鹿だね」

   「そう?火の枕、火傷するよ」

   「ほんとだ」と、目を閉じているとその熱が頭に沁み渡って、島村はじかに生きている思いがするのだった。駒子の激しい呼吸につれて、現実というものが伝わって来た。それはなつかしい悔恨に似て、ただもう安らかになにかの復讐を待つ心のようであった。

   「来ると言ったら来たでしょ」と、駒子はそれを一心に繰り返して、

   「これで来たから、帰る。髪を洗うのよ」

   そして這い上ると、水をごくごく飲んだ。

   「そんなんで帰れやしないよ」

   「帰る。連れがあんのよ。お湯道具、どこへ行った」

   島村が立ち上って電燈をつけると、駒子は両手で顔を隠して畳に突っ伏してしまった。

   「いやよ」

   元禄袖の派手なめりんすの袷に黒襟のかかった寝間着で伊達巻をしめていた。それで襦袢の襟が見えず、素足の縁まで酔いが出て、隠れるように身を縮めているのは変に可愛く見えた。

   湯道具を投げ出したとみえ、石鹸や櫛が散らばっていた。

   「切ってよ、鋏持って来たから」

   「なにを切るんだ」

   「それをね」と、駒子は髪のうしろへ手をやって、

   「うちで元結をきろうとしたんだけれど、手が言うことをきかないのよ。ここへ寄って切って貰おうと思って」

   島村は女の髪を掻き分けて元結を切った。ひとところがきれるたびに、駒子は髪を振り落としながら少し落ちついて、

   「今幾時頃なの」

   「もう三時だよ」

   「あら、そんな?地髪を切っちゃ駄目よ」

   「ずいぶん幾つも縛ってるんだね」

   彼の掴み取る髢の根の方がむっと温かかった」

   「もう三時なの?座敷から帰って、倒れたまま眠ったらしいわ。お友達と約束しといたから誘ってくれたのよ。どこへ行ったかと思ってるわ」

   「待ってるのか」

   「共同湯に入ってるわ、三人。六座敷あったんだけれど四座敷しか廻れなかった。来週は紅葉でいそがしいわ。どうもありがとう」と、解けた髪を梳きながら顔を上げると、眩しそうに含み笑いをして、

   「知らないわ、ふふふ、おかしいな」

   そして術なげに髢を拾った。

   「お友達に悪いからいくわね。帰りにはもう寄らないわ」

   「道が見えるか」   

   「見える」

   しかし裾を踏んでよろめいた。

   朝の七時と夜なかの三時と、一日に二度も異常な時間に暇を盗んで来たのだと思うと、島村はただならぬものが感じられた。

   生意気な口調で指図しているのは、渡り鳥でさと自ら嘲るように言う臨時雇いの番頭だった。新緑から紅葉までの間を、ここらあたりの山の湯で働き、冬は熱海や長岡などの伊豆の温泉場へ稼ぎに行く、そういう男の一人である。毎年同じ宿に働くとは限らない。彼は伊豆の繁華な温泉場の経験を振り廻して、ここらの客払いの陰口ばかりきいていた。揉み手しながらしつっこく客を引くが、いかにも誠意のない物乞いじみた人相が現れていた。

   「旦那、あけびの実を御存じですか。召上るなら取って参りますよ」と、散歩帰りの島村に言って、彼はその実を蔓のまま紅葉の枝に結びつけた。

   紅葉は山から伐って来たらしく軒端につかえる高さ、玄関がぱっと明るむように色あざやかなくれないで、一つ一つの葉も驚くばかり大きかった。

   島村はあけびの冷たい実を握ってみながら、ふと帳場の方を見ると、葉子が炉端に坐っていた。

   おかみさんが銅壺で燗の番をしている。葉子はそれと向い合って、なにか言われるたびにはっきりうなずいていた。山袴も羽織もなしに、洗い張りしたばかりのような銘仙を着ていた。

   「手伝いの人?」と、島村がなにげなく番頭に訊くと、

   「はあ、お陰さまで、人手が足りないもんでございますから」

   「君と同じだね」

   「へえ。しかし、村の娘で、なかなか一風変っておりますな」

   葉子は勝手働きをしているとみえ、今まで客座敷へは出ないようだった。客がたてこむと、炊事場の女中達の声も大きくなるのだが、葉子のあの美しい声は聞こえなかった。島村の部屋を受け持つ女中の話では、葉子は寝る前に湯船のなかで歌を歌う癖があるということだったが、彼はそれも聞かなかった。

   しかし葉子がこの家にいるのだと思うと、島村は駒子を呼ぶことにもなぜかこだわりを感じた。駒子の愛情に彼に向けられたものであるにもかかわらず、それを美しい徒労であるかのように思う彼自身の虚しさがあって、けれどもかえってそれにつれて、駒子の生きようとしている命が裸の肌のように触れて来もするのだった。彼は駒子を哀れみながら、自らを哀れんだ。そのようなありさまを無心に刺し透かす光に似た目が、葉子にありそうな気がして、島村はこの女にも惹かれるのだった。

   島村が呼ばなくとも駒子はむろしげしげと来た。

   渓流の奥の紅葉を見に行くので、彼は駒子の家の前を通ったことがあったが、その時彼女は車の音を聞きつけて、今のは島村にちがいないと表へ飛び出てみたのに、彼はうしろを振り返りもしなかったのは薄情者だと言ったほどだから、彼女は宿へ呼ばれさえすれば、島村の部屋へ寄らぬことはなかった。湯に行くにも、道寄りした。宴会があると一時間も早く来て、女中が呼ぶまで彼のとこれで遊んでいた。座敷をよく抜け出して来ては、鏡台で顔を直して、

   「これから働きに行くの、商売気があるから。さあ、商売、商売」と、立って行った。

   撥入れだとか、羽織だとか、なにかしら持って来たものを、彼の部屋へ置いて帰りたがった。

   「昨夜帰ったら、お湯が沸いてないの。お勝手をごそごそやって、朝の味噌汁の残りを掛けて、梅干で食べたのよ。冷たあい、冷たあい。今朝うちで起こしてくれないのよ。目が覚めてみたら十時半、七時に起きて来ようと思ってたのに、無駄になったわ」

   そんなことや、どの宿からどの宿へ行ったという、座敷の模様をあれこれと報告するのだった。

   「また来るわね」と、水を呼んで立ち上りながら、

   「もう来んかもしれないわ。だって三十人のところへ三人だもの、忙しくて抜けられないの」

   しかし、また間もなく来て、

   「つらいわ。三十人の相手に三人しかないの。それが一番年寄りと一番若い子だから、私がつらいわ。けちな客、きっとなんとか旅行会だわ。三十人なら少なくとも六人いなければね。飲んでおどかして来るわね」

   毎日がこんな風では、どうなってゆくことかと、さすがに駒子は身も心も隠したいようであったが、そのどこか孤独の趣は、かえって風情をなまめかすばかりだった。

   「廊下が鳴るので恥ずかしいわ。そっと歩いても分るのね。お勝手の横を通ると、駒ちゃん椿の間かって、笑うんですよ。こんな気兼ねをするようになろうとは思わなかった」

   「土地が狭いから困るだろう」

   「もうみんな知ってるわよ」

   「そりゃいかんね」

   「そうね。ちょっと悪い評判が立てば、狭い土地はおしまいね」と言ったが、すぐ顔を上げて微笑むと、

   「ううん、いいのよ。私達はどこへ行ったって働けるから」

   その素直な実感の籠もった調子は、親譲りの財産で徒食する島村にはひどく意外だった。

   「ほんとうよ。どこで稼ぐのもおんなじよ。くよくよすることない」

   なにげない口ぶりなのだが、島村は女の響きを聞いた。

   「それでいいのよ。ほんとうに人を好きになれるのは、もう女だけなんですから」と、駒子は少し顔を赤らめてうつ向いた。

   襟を透かしているので、背から肩へ白い扇を拡げたようだ。その白粉の濃い肉はなんだが悲しく盛り上って、毛織物じみて見え、また動物じみて見えた。

   「今の世のなかではね」と、島村は呟いて、その言葉の空々しいのに冷っとした。

   しかし駒子は単純に、

   「いつだってそうよ」

   そして顔を上げると、ぼんやり言い足した。

   「あんたそれを知らないの?」

   背に吸いついている赤い肌襦袢が隠れた。

   ヴァレリイやアラン、それからまたロシア舞踊の花やかだった頃のフランス文人達の舞踊論を島村は翻訳しているのだった。小部数の贅沢本として自費出版するつもりである。今の日本の舞踊界になんの役にも立ちそうでない本であることが、かえって彼を安心させると言えば言える。自分の仕事によって自分を冷笑することは、甘ったれた。楽しみなのだろう。そんなところから彼の哀れな夢幻の世界が生まれるのかましれぬ。旅にまで出て急ぐ必要はさらにない。

   彼は昆虫どもの悶死するありさまを、つぶさに観察していた。

   秋が冷えるにつれて、彼の部屋の畳の上で死んでゆく虫も日ごとにあったのだ。翼の堅い虫はひっくりかえると、もう起き直れなかった。蜂は少し歩いて転び、また歩いて倒れた。季節の移るように自然と亡びてゆく、静かな死であったけれども、近づいて見ると脚や触覚を顫わせて悶えているのだった。それらの小さい死の場所として、八畳はたいへん広いもののように眺められた。

   島村は死骸を捨てようとして指で拾いながら、家に残して来た子供達をふと思い出すこともあった。

   窓の金網にいつまでもとまっていると思うと、それは死んでいて、枯葉のように散ってゆく蛾もあった。壁から落ちて来るのもあった。手に取ってみては、なぜこんなに美しく出来ているのだろうと、島村は思った。

   その虫除けの金網も取りはずされた。虫の声がめっきり寂れた。

   国境の山々は赤錆色が深まって、夕日を受けると少し冷たい鉱石のように鈍く光り、宿は紅葉の客の盛りであった。

   「今日は来れないわよ、たぶん。地の人の宴会だから」と、その夜も駒子は島村の部屋へ寄って行くと、やがて大広間に太鼓が入って女の金切声も聞こえて来たが、その騒々しさの最中に思いがけない近くから、澄み通った声で、

   「御免下さい、御免下さい」と、葉子が呼んでいた。

   「あの、駒ちゃんがこれよこしました」

   葉子は立ったまま郵便配達のような恰好に手を突き出したが、あわてて膝を突いた。島村がその結び文を拡げていると、葉子はもういなくなった。なにを言う間もなかった。

   「今とっても朗らかに騒いでます酒のんで、懐紙に酔った字で書いてあるだけだった。

   しかし十分と立たぬうちに、駒子が乱れた足音で入って来て、

   「今あの子がなにか持って来た?」  

   「来たよ」

   「そう?」と、上機嫌に片目を細めながら、

   「ふう、いい気持。お酒を注文しに行く、そう言って、そうっと抜けて来た。番頭さんに見つかって叱られた。お酒はいい、叱られても、足音が気にならん。ああ、いやだわ。ここへ来ると、急に酔いが出る。これから働きに行くの」

   「指の先までいい色だよ」

   「さあ、商売。あの子なんて言った?恐ろしいやきもち焼きなの、知ってる?」

   「誰か?」

   「殺されちゃいますよ」

   「あの娘さんも手伝ってるんだね」

   「お銚子を運んで来て、廊下の陰に立って、じいっと見てんのよ、きらきら目を光らして。あんなああいう目が好きなんでしょう」

   「あさましいありさまだと思って見たんだよ」

   「だから、これ持ってらっしゃいって、書いてよこしたんだわ。水飲みたい、水ちょうだい。どっちがあさましいか、女は口説き落してみないことには、分らないわよ。私酔ってる?」と、倒れるように鏡台の両端をつかまえて覗きこむと、しゃんと裾を裁いて出て行った。

   やがて宴会も終わったらしく、急にひっそりして、瀬戸物の音が遠く聞こえたりするので、駒子も客に連れられて別の宿の二次会へ廻ったのかと思っていると、葉子がまた駒子の結び文を持って来た。

   「山風館やめにしましたこれから梅の間帰りにようますおやすみ」

   島村は少し恥ずかしそうに苦笑して、

   「どうもありがとう。手伝いに来てるの?」

   「ええ」と、うなずくはずみに、葉子はあの刺すように美しい目で、島村をちたっと見た。島村はなにか狼狽した。

   これまで幾度も見かけるびごとに、いつも感動的な印象を残している、この娘がなにごともなくこうして彼の前に坐っているのは、妙に不安であった。彼女の真剣過ぎる素振りは、いつも異常な事件の真中にいるという風に見えるのだった。

   「いそがしそうだね」

   「ええ。でも、私はなんにも出来ません」

   「君にはずいぶんたびたび会ったな。初めはあの人を介抱して帰る汽車のなかで、駅長に弟さんのことを頼んでたの、覚えてる?」

   「ええ」

   「寝る前にお湯のなかで歌を歌うんだって?」

   「あら、お行儀の悪い、いやだわ」と、その声が驚くほど美しかった。

   「君のことはなにもかも知ってるような気がするね」

   「そうですか。駒ちゃんにお聞きになったんですか」

   「あの人はしゃべりゃしない。君の話をするのをいやがるくらいだよ」

   「そうですか」と、葉子はそっと横を向いて、

   「駒ちゃんはいいんですけれども、可哀想なんですから、よくしてあげて下さい」

   早口に言う、その声が終りの方は微かに顫えた。

   「しかし僕には、なんにもしてやれないんだよ」

   葉子は今に体まで顫えて来そうに見えた。危険な輝きが迫って来るような顔から島村は目をそらせて笑いながら、

   「早く東京へ帰った方がいいかもしれないんだけれどもね」

   「私も東京へ行きますわ」

   「いつ?」

   「いつでもいいんですの」

   「それじゃ、帰る時連れて行ってあげようか」

   「ええ、つれて帰って帰って下さい」と、こともなげに、しかし真剣な声で言うので、島村は驚いた。

   「君のうちの人がよければね」

   「うちの人って、鉄道へ出ている弟一人ですから、私がきめちゃっていいんです」

   「東京になんかあてがあるの?」

   「いいえ」

   「あの人に相談した?」

   「駒ちゃんですか。駒ちゃんは憎いから言わないんです」

   そう言って、気のゆるみか、少し濡れた目で彼を見上げた葉子に、島村は奇怪な魅力を感じると、どうしてかかえって、駒子に対する愛情が荒々しく燃えて来るようであった。為体の知れない娘と駆落ちのように帰ってしまうことは、駒子への激しい謝罪の方法であるかとも思われた。またなにかしら刑罰のようでもあった。

   「君はそんな、男の人と行ってこわくはないのかい」

   「どうしてですか」

   「君が東京でさしずめ落ちつく先とか、なにをしたいとかいうことくらいきまってないと危ないじゃないか」

   「女一人くらいどうにでもなりますわ」と、葉子は言葉尻が美しく吊り上るように言って、島村を見つめたまま、

   「女中に使っていただけませんの?」

   「この前東京にいた時は、なにをしてたんだ」

   「看護婦です」

   「病院か学校に入ってたの」

   「いいえ、ただなりたいと思っただけですわ」

   島村はまた汽車のなかで師匠の息子を介抱していた葉子の姿を思い出して、あの真剣さのうちには葉子の志望も現れていたのかと微笑まれた。

   「それじゃ今度も看護婦の勉強がしたいんだね」

   「看護婦にはもうなりません」

   「そんな根なしじゃいけないね」

   「あら、根なんて、いやだわ」と、葉子は弾き返すように笑った。

   その笑い声も悲しいほど高く澄んでいるので、白痴じみては聞こえなかった。しかし島村の心の殻を空しく叩いて消えてゆく。

   「なにがおかしいんだ」

   「だって、私は一人の人しか看病しないんです」

   「え?」

   「もう出来ませんの」

   「そうか」と、島村はまた不意打ちを食わされて静かに言った。

   「毎日君は蕎麦畑の下の墓にばかり参ってるそうだね」

   「ええ」

   「一生のうちに、外の病人を世話することも、外の人の墓に参ることも、もうないと思ってるのか?」

   「ないわ」

   「それに墓を離れて、よく東京へ行けるね?」

   「あら、すみません。連れて行って下さい」

   「君は恐ろしいやきもち焼きだって、駒子が言ってたよ。あの人は駒子のいいなずけじゃなかったの?」

   「行男さんの?嘘、嘘ですよ」

   「駒子が憎いって、どういうわけだ」

   「駒ちゃん?」と、そこにいる人を呼ぶかのように言って、葉子は島村をきらきら睨んだ。

   「駒ちゃんをよくしてあげて下さい」

   「僕はなんにもしてやれないんだよ」

   葉子の目頭に涙が溢れて来ると、畳に落ちていた小さい蛾を掴んで泣きじゃくりながら、

   「駒ちゃんは私が気ちがいになると言うんです」と、ふっと部屋を出て行ってしまった。

   島村は寒気がした。

   葉子の殺した蛾を捨てようとして窓をあけると、酔った駒子が客を追いつめるような中腰になって拳を打っているのが見えた。空は曇っていた。島村は内湯に行った。

   隣りの女湯へ葉子が宿の子を連れて入って来た。



   着物を脱がせたり、洗ってやったりするのが、いかにも親切なものいいで、初々しい母の甘い声を聞くように好もしかった。

   そしてあの声で歌い出した。

   ……………

   ……………

   裏へ出て見たれば

   梨の樹が三本

   杉の樹が三本

   みんなで六本

   下から烏が

   巣をかける

   上から雀が

   巣をかける

   森の中の螽蟖

   どういうて囀るや

   お杉友達墓参り

   墓参り一丁一丁一丁や



   手鞠歌の幼い早口で生き生きとはずんだ調子は、ついさっきの葉子など夢かと島村に思わせた。

   葉子が絶え間なく子供にしゃべり立てて上ってからも、その声が笛の音のようにまだそこらに残っていそうで、黒光りに古びに玄関の板敷きに片寄せてある、桐の三味線箱の秋の夜更けらしい静まりにも、島村はなんとなく心惹かれて、持主の芸者の名を読んでいると、食器を洗う音の方から駒子が来た。

   「なに見てんの?」

   「この人泊まりかい?」

   「誰。ああ、これ?馬鹿ねえ、あんた、そんなものいちいち持って歩けやしないじゃないの。幾日も置きっ放しにしとくことがあるのよ」と笑ったはずみに、苦しい息を吐きながら目をつぶると、褄を放して島村によろけかかった。

   「ねえ、送ってちょうだい」

   「帰ることじゃないか」

   「だめ、だめ、帰る。地の人の宴会で、みんな二次会へついて行ったのに、私だけ残ったのよ。ここにお座敷があったからいいようなものの、お友達が帰りにお湯へでも誘ってくれて、私が言えにいなかったら、あんまりだわ」

   したたか酔ってるのに、駒子は険しい坂をしゃんしゃん歩いた。

   「あの子をあんた泣かしたのね」

   「そう言えば、確かに少し気ちがいじみてるね」

   「人のことをそんな風に見て、面白いの?」

   「君が言ったんじゃないか、気ちがいになりそうだって、君に言われたのを思い出すと、くやしくて泣き出したらしかったよ」

   「それならいいわ」

   「ものの十分もたたぬうちに、お湯に入っていい声で歌ってるんだ」

   「お湯のなかで歌を歌うのは、あの子の癖なのよ」

   「君のことをよくしてあげて下さいって、真剣に頼むんだ」

   「馬鹿ねえ。だけど、そんなこと、あなた私に吹聴なさらなくってもいいじゃないの」

   「吹聴?君はあの娘のことになると、どうしてだかしらないが妙に意地を張るんだね」

   「あんたあの子が欲しいの?」

   「それ、そういうことを言う」

   「じょうだんじゃないのよ。あの子を見てると、行末私のつらい荷物になりそうな気がするの。なんとなくそうなの。あんただって仮にあの子が好きだとして、あの子のことよく見てごらんなさい。きっとそうお思いになってよ」と、駒子は島村は島村の肩に手をかけてしなだれて来たが、突然首を振ると、

   「ちがう。あんたみたいな人の手にかかったら、あの子は気ちがいにならずにすむかもしれないわ。私の荷を持ってきっちゃってくれない?」

   「いい加減にしろよ」

   「よって管を巻いてると思ってらっしゃるわ?あの子があんたの傍で可愛がられてると思って、私はこの山のなかで身を持ち崩すの。しいんといい気持」

   「おい」

   「ほっとてちょうだい」と、小走りに逃げて雨戸にどんとぶっつかると、そこは駒子の家だった。

   「もう帰らないと思ってるんだ」

   「ううん、あくのよ」

   枯れ切った音のする戸の裾を抱き上げるように引いて、駒子は囁いた。

   「寄って行って」

   「だって今頃」

   「もう家の人は寝ちゃってますわ」

   島村はさすがにしりごみした。

   「それじゃ私が送って行きます」

   「いいよもう」

   「いけない。今度の私の部屋まだ見ないじゃないの」

   勝手口へ入ると、目の前に家の人達の寝姿が乱れていた。ここらあたりの山袴のような木綿の、それも色褪せた固い蒲団を並べて、主人夫婦と十七、八の娘を頭に五、六人の子供が薄茶けた明かりの下に、思い思いの方に顔を向けて眠っているのは、侘しいうちにも逞しい力が籠もっていた。

 島村は寝息の温みに押し返されるように、思わず表へ出ようとしたけれども、駒子がうしろの戸をがたびして、足音の遠慮もなく板の間を踏んで行くので、島村も子供の枕もとを忍ぶように通り抜けると、怪しい快感で胸が顫えた。

   「ここで待ってて。二階の明かりをつけますから」

   「いいよ」と、島村は真暗な梯子段を昇って上った。振り返ると素朴な寝顔の向うに駄菓子の店が見えた。

   百姓家らしい古畳の二階に四間で、

   「私一人だから広いのよ」と、駒子は言ったが、襖はみな明け放して、家の古道具などをあちらの部屋に積み重ね、煤けた障子のなかに駒子の寝床を一つ小さく敷き、壁に座敷着のかかっているのなどは、狐狸の棲家のようであった。

   駒子は床の上にちょこんと坐ると、一枚しかない座敷蒲団を島村にすすめて、

   「さあ、真赤」と、鏡を覗いた。

   「こんなに酔ってたのかしら?」

   そして箪笥の上の方を捜しながら、

   「これ、日記」

   「ずいぶんあるんだね」

   その横から千代紙張りの小箱を出すと、いろんな煙草がいっぱいつまっていた。

   「お客さんのくれるのを袂へ入れたり帯に挟んだりして帰るから、こんなに皺になってるけれど、汚くはないの。そのかわりたいていのものは揃ってるわ」と、島村の前に手を突いて箱のなかを掻き廻して見せた。

   「あら、マッチがないわ。自分が煙草を止めたから、いらないのよ」

   「いいよ。裁縫してたの?」

   「ええ。紅葉のお客さんで、ちっとも捗らないの」と、駒子は振り向いて、箪笥の前の縫物を片寄せた。

   駒子の東京暮しの名残であろう、正目のみごとな箪笥や朱塗の贅沢な裁縫箱は、師匠の家の古い紙箱のような屋根裏にいた時と同じだけれども、この荒れた二階では無慚に見えた。

   電燈から細い紐が枕の上へ下っていた。

   「本を読んで寝る時に、これを引っぱって消すのよ」と、駒子はその紐を弄びながら、しかし家庭の女じみに風におとなしく坐って、なにか羞んでいた。

   「狐のお嫁入りみたいだね」

   「ほんとうですわ」

   「この部屋で四年暮すのかい」

   「でも、もう半年すんだわ。すぐよ」

   下の人達の寝息が聞こえて来るようだし、話の継穂がないので、島村はそそくさと立ち上った。

   駒子は戸をしめながら、首を突き出して空を仰ぐと、

   「雪催いね。もう紅葉もおしまいになるわ」と、また表に出て、

   「ここらあたりは山家ゆえ、紅葉のあるのに雪が降る」

   「じゃあ、お休み」

   「送って行くわ。宿の玄関までよ」

   ところが島村といっしょに宿へ入って来て、

   「お休みなさいね」と、どこかへ消えて行ったのに、しばらくするとコップに二杯なみなみと冷酒をついで、彼の部屋へ入って来るなり激しく言った。

   「さあ、飲みなさい、飲むのよ」

   「宿で寝ちゃてるのに、どこから持って来た」「ううん、あるとこは分ってる」

   駒子は樽から出す時にも飲んで来たとみえ、さっきの酔いが戻ったらしく眼を細めてコップから酒のこぼれるのを見据えながら、

   「でも、暗がりでひっかけるとおいしくないわ」

   突きつけられたコップの冷酒を島村は無造作に飲んだ。

   こればかりの酒で酔うはずはないのに、表を歩いて体が冷えていたせいか、急に胸が悪くなって頭へ来た。顔の青ざめるのが自分に分るようで、目をつぶって横たわると、駒子はあわてて介抱し出したが、やがて島村は女の熱いからだにすっかり幼く安心してしまった。

   駒子はなにかきまり悪そうに、例えばまだ子供を産んだことのない娘が人の子を抱くようなしぐさになって来た。首を擡げて子供の眠るのを見ているという風だった。

   島村がしばらくしてぽつりと言った。

   「君はいい子だね」

   「どうして?どこがいいの」

   「いい子だよ」

   「そう?いやな人ね。なにを言ってるの。しっかりしてちょうだい」と、駒子はそっぽを向いて島村を揺すぶりながら、切れ切れに叩くように言うと、じっと黙っていた。

   そして一人で含み笑いして、

   「よくないわ。つらいから帰ってちょうだい。もう着る着物がないの。あんたのところへ来るたびに、お座敷着を変えたいけれど、すっかり種切れで、これお友達の借着なのよ。悪い子でしょう?」

   島村は言葉も出なかった。

   「そんなの、どこがいい子?」と、駒子は少し声を潤ませて、

   「初めて会った時、あんたなんていやな人だろうと思ったわ。あんな失礼なことを言う人ないわ。ほんとうにいやあな気がした」

   島村はうなずいた。

   「あら。それを私今まで黙ってたの。分る?女にこんなこと言わせるようになったらおしまいじゃないの」

   「いいよ」

   「そう?」と、駒子は自分を振り返るように、長いこと静かにしていた。その一人の女の生きる感じが温かく島村に伝わって来た。

   「君はいい女だね」

   「どういいの」

   「いい女だよ」

   「おかしなひと」と、肩がくすぐったそうに顔を隠したが、なんと思ったか、突然むくっと片肘立てて首を上げると、

   「それどういう意味?ねえ、なんのこと?」

   島村は驚いて駒子を見た。

   「言ってちょうだい。それで通ってらしたの?あんた私を笑ってたのね。やっぱり笑ってらしたのね」

   真赤になって島村を睨みつけながら詰問するうちに、駒子の肩は激しい怒りに顫えて来て、すうっと青さめると、涙をぼろぼろ落した。

   「くやしい、ああっ、くやしい」と、ごろごろ転がり出て、うしろ向きに坐った。

   島村は駒子の聞きちがいに思いあたると、ほっと胸を突かれたけれど、目を閉じて黙っていた。

   「悲しいわ」

   「駒子はひとりごとのように呟いて、胴を円く縮める形に突っ伏した。

   そうして泣きくたびれたか、ぶすりぶすりと銀の簪を畳に突き刺していたが、不意に部屋を出て行ってしまった。

   島村は後を追うことが出来なかった。駒子に言われてみれば、十分に心疚しいものがあった。

   しかしすぐに駒子は足音を忍ばせて戻ったらしく、障子の外から上ずった声で呼んだ。

   「ねえ、お湯にいらっしゃいません?」

   「ああ」

   「御免なさいね。私考え直して来たの」

   廊下に隠れて立ったまま、部屋に入って来そうもないので、島村が手拭を持って出て行くと、駒子は目を合わせるのを避けて、少しうつ向きながら先に立った。罪をあばかれて曳かれて行く人に似た姿であった。湯で体が温かまる頃から変にいたいたしいほどはしゃぎ出して、眠るどころでなかった。

   その次の朝、島村は謡の声で目が覚めた。

   しばらく静かに謡を聞いていると、駒子が鏡台の前から振り返って、にっと微笑みながら、

   「梅の間のお客さま。昨夜宴会の後で呼ばれたでしょう」

   「謡の会の団体旅行かね」

   「ええ」

   「雪だろ?」

   「ええ」と、駒子は立ち上って、さっと障子をあけて見せた。

   「もう紅葉もおしまいね」

   窓で区切られた灰色の空から大きい牡丹雪がほうっとこちらへ浮び流れて来る。なんだか静かな嘘のようだった。島村は寝足りぬ虚しさで眺めていた。

   謡の人々は鼓も打っていた。

   島村は去年の暮のあの朝雪の鏡を思い出して鏡台の方を見ると、鏡のなかでは牡丹雪の冷たい花びらがなお大きく浮び、襟を開いて首を拭いている駒子のまわりに、白い線を漂わした。

   駒子の肌は洗い立てのように清潔で、島村のふとした言葉もあんな風に聞きちがえねばならぬ女とはとうてい思えないところに、かえって逆らい難い悲しみがあるかと見えた。

   紅葉の錆色が日ごろに暗くなっていた遠い山は、初雪であざやかに生きかえった。

   薄く雪をつけた杉林は、その杉の一つ一つがくっきりと目立って、鋭く天を指しながら地の雪に立った。

   雪のなかで糸をつくり、雪のなかで織り、雪の水に洗い、雪の上に晒す。績みはじめてから織り終るまで、すべては雪のなかであった。雪ありて縮あり、雪は縮の親というべしと、昔の人も本に書いている。

   村里の女達の長い雪ごもりのあいだの手仕事、この雪国の麻の縮は島村も古着屋であさって夏衣にしていたものだ。踊の方の縁故から能衣裳の古物などを払う店も知っているので、筋のいい縮が出たらいつでも見せてほしいと頼んであるほど、この縮を好んで、一重の襦袢にもした。

           雪がこいの簾をあけて、雪解の春のころ、昔は縮の初市が立ったという。はるばる縮を買いに来る都の呉服問屋の定宿さえあったし、娘達が半年の丹精で織り上げたのもこの初市のためだから、遠近の村里の男女が寄り集まって来て、見世物や物売りの店も並び、町の祭のように賑わったという。縮には織子の名と所とを書いた紙札をつけて、その出来栄えを一番二番という風に品定めした。嫁選びにもなった。子供のうちに織習って、そうして十五、六から二十四、五までの女の若さでなければ、品のいい縮は出来なかった。年を取っては、機面のつやが失われた。娘達は指折りの織子の数に入ろうとしてわざを磨いただろうし、旧暦の十月から糸を積み始めて明くる年の二月半ばに晒し終わるという風に、ほかにすることもない雪ごもりの月日の手仕事だから念を入れ、明治の初めから江戸の末の娘が織ったものはあるかむしれなかった。



   自分の縮を島村は今でも「雪晒し」に出す。誰が肌につけたかしれない古着を、毎年産地へ晒しに送るなど厄介だけれども、昔の娘の雪ごもりの丹精を思うと、やはりその織子の土地でほんとうの晒し方をしてやりたいのだった。深い雪の上に晒した白麻に朝日が照って、雪が布かが紅に染まるありさまを考えるだけでも、夏のよごれが取れそうだし、わが身をさらされるように気持よかった。もっとも東京の古着屋が払ってくれるので、昔通りの晒し方が今に伝わっているのかどうか、島村は知らない。

   晒屋は昔からあった。織子が銘々の家で晒すということは少なく、たいがい晒屋に出した。白縮は織りおろしてから晒し、色のある縮は糸につくったのを拐にかけて晒す。白縮は雪へじかにのばして晒す。旧の一月から二月にかれて晒すので、田や畑を埋めつくした雪の上を晒場にすることもあるという。

   布にしろ糸にしろ、夜通し灰汁に浸しておいたのを翌る朝幾度も水では絞れ上げて晒す。これを幾日も繰り返すのだった。そうして白縮をいよいよ晒し終わろうとするところへ朝日が出てあかあかとさす景色はたとえるものがなく、暖国の人に見せたいと、昔の人も書いている。また縮を晒し終わるということは雪国が春の近いしらせであったろう。

縮の産地はこの温泉場に近い。山峡の少しずつひらけてゆく川下の野がそれで、島村の部屋からも見えていそうだった。昔縮の市が立ったという町にはみな汽車の駅が出来て、今も機業地として知られている。

   しかし島村は縮を着る真夏にも縮を織る真冬にも、この温泉場に来たことがないので、駒子に縮の話をしてみる折はなかった。昔の民芸のあとをたずねてみるという柄でもなかった。

   ところが葉子が湯殿で歌っていた歌を聞いて、この娘も昔生まれていたら、糸車や機にかかって、あんな風に歌ったのかもしれないと、ふと思われた。葉子の歌はいかにもそういう声だった。

   毛よりも細い麻糸は天然の雪の湿気がないとあつかいにくく、陰冷の季節がよいのだそうで、寒中に織った麻が暑中に着て肌に涼しいのは陰陽の自然だという言い方を昔の人はしている。島村にまつわりついて来る駒子にも、なにか根の涼しさがあるようだった。そのためよけい駒子のみうちのあついひとところが島村にあわれだった。

   けれどもこんな愛着は一枚の縮ほどの確かな形を残しもしないだろう。着る布は工芸品のうちで寿命の短い方にしても、大切にあつかえば五十年からもっと前の縮が色も褪せないで着られるが、こうした人間の身の添い馴れは縮ほどの寿命もないなどとぼんやり考えていると、ほかの男の子供を産んで母親になった駒子の姿が不意に浮んで来たりして、島村はほったあたりを見まわした。疲れているのかと思った。

   葉子のうちへ帰るのも忘れたような長逗留だった。離れられないからでも別れともないからでもないが、駒子のしげしげ会いに来るのを待つ癖になってしまっていた。そうして駒子がせつなく迫って来れば来るほど、島村は自分が生きていないかのような呵責がつのった。いわば自分のさびしさを見ながら、ただじっとたたづんでいるのだった。駒子が自分のなかにはまりこんで来るのが、島村は不可解だった。駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じていそうにない。駒子が虚しい壁に突きあたる木霊に似た音を、島村は自分の胸の底に雪が降りつむように聞いた。このような島村のわがままはいつまでも続けられるものではなかった。

   こんど帰ったらもうかりそめにこの温泉へは来れないだろうという気がして、島村は雪の季節が近づく火鉢によりかかっていると、宿の主人が特に出してくれた京出来の古い鉄瓶で、やわらかい松風の音がしていた。銀の花鳥が器用にちりばめてあった。松風の音は二つ重なって、近くのと遠くのとに聞きわけられたが、その遠くの松風のまた少し向うに小さな鈴がかすかに鳴りつづけているようだった。島村は鉄瓶に耳を寄せてその鈴の音を聞いた。鈴のなりしきるあたりの遠くに鈴の音ほど小刻みに歩いて来る駒子の小さい足が、ふと島村に見えた。島村は驚いて、もはやここを去らねばならぬと心立った。

   そこで島村は縮の産地へ行ってみることを思いついた。この温泉場から離れるはずみをつけるつもりもあった。

   しかし川下に幾つもある町のどれへ行けばよいのか、島村はわからなかった。現在機業地に発展している大きい町が見たいというのではないので、島村はむしろさびしそうな駅に下りた。しばらく歩くと昔の宿場らしい町通に出た。

家々の庇を長く張り出して、その端を支える柱が道路に立ち並んでいた。江戸の町で店下と言ったのに似ているが、この国では昔から雁木というらしく、雪の深いあいだの往来になるわけだった。片側は軒を揃えて、この庇が続いている。

   隣りから隣りへ連なっているから、屋根の雪は道の真中へおろすようり捨場がない。実際は大屋根から道の雪の堤へ投げ上げるのだ。向う側へ渡るのには雪の堤をとろこどころくりぬいてトンネルをつくる。胎内くぐりとこの地方ではいうらしい。

   同じ雪国のうちでも駒子のいる温泉村などは軒が続いていないから、島村はこの町で初めて雁木を見るわけだった。もの珍しさにちょっとそのなかを歩いてみた。古びた庇の陰は暗かった。傾いた柱の根元が朽ちていたりした。先祖代々雪に埋もれた鬱陶しい家のなかを覗いてゆくような気がした。

   雪の底で手仕事に根をつめた織子達の暮らしは、その製作品の縮のように爽やかで明るいものではなかった。そう思われるに十分な古町の印象だった。縮のことを書いた昔の本にも唐の秦韜玉の詩などが引かれているが、機織女を抱えてまで織らせる家がなかったのは、一反の縮を織るのにずいぶん手間がかかって、銭勘定では合わないからだという。

   そんな辛苦をした無名の工人はとっくに死んで、その美しい縮だけが残っている。夏に爽涼な肌触りで島村らの贅沢な着物となっている。そう不思議でもないことが島村はふと不思議であった。一心こめた愛の所行はいつかどこかで人を鞭打つものだろうか。島村は雁木の下から道へ出た。

   宿場の街道筋らしく真直に長い町通だった。温泉村から続いている古い街道だろう。板葺きの屋根の算木や添石も温泉町と変わりがなかった。

   庇の柱が薄い影を落していた。いつのまにか夕暮れ近くだった。

   なにも見るものがないので、島村はまた汽車に乗って、もう一つの町に下りてみた。前の町と似たものだった。やはりただぶらぶら歩いて、寒さしのぎにうどんを一杯すすっただけだった。

   うどん屋は川岸で、これも温泉場から流れるだろう。尼僧が二人づれ三人づれと前後して橋を渡って行くのが見えた。わらじ履きで、なかには饅頭笠を背負ったのもあって、托鉢の帰りのようだった。烏が塒に急ぐ感じだった。

   「尼さんがだいぶ通るね?」と、島村はうどん屋の女にたずねてみた。

   「はい、この奥に尼寺があるんですよ。そのうち雪になると、山から出歩くのが難渋になるんでしょう」

   橋の向うに暮れてゆく山はもう白かった。

   この国では木の葉が落ちて風が冷たくなるころ、寒々と曇り日が続く。雪催いである。遠近の高いやまが白くなる。これを岳廻りという。また海のあるところ海が鳴り、山の深いところは山が鳴る。遠雷のようである。これを胴鳴りという。岳廻りを見、胴鳴りを聞いて、雪が遠くないことを知る。昔の本にそう書かれているのを島村は思い出した。

   島村が朝寝の床で紅葉見の客の謡を聞いた日に初雪は降った。もう今年も海や山は鳴ったのだろうか。島村は一人旅の温泉で駒子と会いつづけるうちに聴覚などが妙に鋭くなって来ているのか、海や山の鳴る音を思ってみるだけで、その遠鳴りが耳の底を通るようだった。

   「尼さん達もこれから冬籠りだね。何人くらいいるの」

   「さあ。大勢でしょうよ」

   「尼さんばかりが寄って、幾月も雪のなかでなにをしてるんだろうね。昔この辺で織った縮でも尼寺で織ったらどうかな」

   物好きな島村の言葉に、うどん屋の女は薄笑いしただけだった。

   島村は駅まで帰りの汽車を二時間近く待った。弱い光の日が落ちてからは星を磨き出すように冴えてきた。足が冷えた。

   なにをした行ったのかわからずに島村は温泉場に戻った。車がいつもの踏切を越えて鎮守の杉林の横まで来ると、目の前に明りの出た家が一軒あって、島村はほっとしたが、それは小料理屋の菊村で、門口に芸者が三、四人立話していた。

駒子もいるなと思う間もなく駒子ばかりが見えた。

   車の速力が急に落ちた。島村と駒子とのことをもう知っている運転手はんとなく徐行したらしい。

   ふと島村は駒子との逆の方のうしろを振り向いた。乗って来た自動車のわだちのあとが雪の上にはっきり残っていて、星明りに思いがけなく遠くまで見えた。

   車が駒子の前に来た。駒子はふっと目をつぶったかと思うと、ばっと車に飛びついた。車は止まらないでそのまま静かに坂を登った。駒子は扉の外の足場に身をかがめて、扉の把手につかまっていた。

   飛びかかって吸いついたような勢いでありながら、島村はふわりと温かいものに寄り添われたようで、駒子のしていることに不自然も危険も感じなかった。駒子は窓を抱くように片腕をあげた。袖口が辷って長襦袢の色が厚いガラス越しにこぼれ、寒さでこわばった島村の瞼にしみた。

   駒子は窓ガラスに額を押しつけながら、

   「どこへ行った?ねえ、どこへ行った?」と、甲高く呼んだ。

   「危ないじゃないか。むちゃをするね」と、島村も声高に答えたが、甘い遊びだった。

   駒子が扉をあけて横倒れにはいって来た。しかしその時車も止まっているのだった。山の裾に来ていた。

   「ねえ、どこへいらしたの?」

   「うん、まあ」

   「どこ?」

   「どこってこともないが」

   駒子の裾を直す手つきの芸者風なのが、島村にふと珍しいもののように見えたりした。

   運転手はじっとしていた。道の行きづまりで止まっている車に、こうして乗っているのはおかしいと島村は気がつくと、

   「おりましょう」と、島村の膝の上に駒子が手を重ねて来たが、

   「まあ、冷たい。こんなよ。どうして私を連れていかなかったの?」

   「そうだったね」

   「なによ?おかしなひと」

   駒子は楽しげに笑って、急な石段の小路を登った。

   「あんたの出ていらっしゃるところ、私見てたのよ。二時か、三時だったわね?」

   「うん」

   「車の音がするから出てみたの。表に出てみたのよ。あんた、うしろを見なかったでしょう?」

   「ええ?」

   「見なかったわよ。どうして振り返ってみなかったの?」

   島村はおどろいた。

   「あんた、私の見送ってたのを知らないじゃないの?」

   「知らなかったね」

   「そうれごらんなさい」と、駒子はやはり楽しそうに含み笑いした。そして肩を寄せて来た。

   「どうして私を連れて行かないの?冷たくなって来て、いやよ」

   突然擦半鐘が鳴り出した。

   二人は振り向くなり、

   「火事、火事よ!」

   「火事だ」

   火の手が下の村の真中にあがっていた。

   駒子はなにか二声三声叫んで島村の手をつかんだ。

   黒い煙の巻きのぼるなかに炎の舌が見えかくれした。その火は横に這って軒を舐め廻っているようだった。

   「どこだ、君が元いたお師匠さんの家、近いんじゃないか」

   「ちがう」

   「どのへんだ」

   「もっと上よ。停車場寄りよ」

   炎が屋根を抜いて立ち上った。

   「あら、繭倉だわ。繭倉だわ。あら、あら、繭倉が焼けてるのよ」と、駒子は言い続けて島村の肩に頬を押し付けた。

   「繭倉よ、繭倉よ」

   火は燃えさかってくるばかりだが、高みから大きい星空の下に見下ろすと、おもちゃの火事のように静かだった。そのくせすさまじい炎の音が聞こえそうな恐ろしさは伝わって来た。島村は駒子を抱いた。

   「こわいことないじゃないか」

   「いや、いや、いや」と、駒子はかぶりを振って泣き出した。その顔が島村の掌にいつもより小さく感じられた。固いこめかみが顫えていた。

   火を見て泣き出したのだが、なにを泣くのかと島村はいぶかりもしないで抱いていた。

   駒子は不意に泣きやむと顔を離して、

   「あら、そうだった。繭倉に映画があるのよ、今夜だわ。人がいっぱいはいってるのよ、あんた.……」

   「そりゃ大変だ」

   「怪我人が出てよ。焼け死ぬわ」

   二人はあわてて石段を駆け登った。上の方で騒ぐ声が聞えるからだ。見上げると高い宿屋の二階三階も、たいていの部屋が障子をあけた明りの廊下に人が出て火事を見ていた。庭のはずれに並んだ菊の末枯れが宿の燈か星明りかで輪郭を浮べ、ふと火事が映っていると思わせたが、その菊のうしろにも人が立っていた。二人の顔の上へ宿の番頭などが三、四人ころぶように下りて来た。駒子は声を張りあげて、

   「あんた、繭倉あ?」

   「繭倉だあ」

   「怪我人は?怪我人はないの?」

   「どんどん助け出してるんだあ。活動のフィルムから、ぼうんといっぺんに燃えついて、火の廻りが早いや。電話で聞いたんだ。あれ見ろい」と、番頭は出会いがしらに片腕を振り上げて行った。「ううん、あるとこは分ってる」

   駒子は樽から出す時にも飲んで来たとみえ、さっきの酔いが戻ったらしく眼を細めてコップから酒のこぼれるのを見据えながら、

   「でも、暗がりでひっかけるとおいしくないわ」

   突きつけられたコップの冷酒を島村は無造作に飲んだ。

   こればかりの酒で酔うはずはないのに、表を歩いて体が冷えていたせいか、急に胸が悪くなって頭へ来た。顔の青ざめるのが自分に分るようで、目をつぶって横たわると、駒子はあわてて介抱し出したが、やがて島村は女の熱いからだにすっかり幼く安心してしまった。

   駒子はなにかきまり悪そうに、例えばまだ子供を産んだことのない娘が人の子を抱くようなしぐさになって来た。首を擡げて子供の眠るのを見ているという風だった。

   島村がしばらくしてぽつりと言った。

   「君はいい子だね」

   「どうして?どこがいいの」

   「いい子だよ」

   「そう?いやな人ね。なにを言ってるの。しっかりしてちょうだい」と、駒子はそっぽを向いて島村を揺すぶりながら、切れ切れに叩くように言うと、じっと黙っていた。

   そして一人で含み笑いして、

   「よくないわ。つらいから帰ってちょうだい。もう着る着物がないの。あんたのところへ来るたびに、お座敷着を変えたいけれど、すっかり種切れで、これお友達の借着なのよ。悪い子でしょう?」

   島村は言葉も出なかった。

   「そんなの、どこがいい子?」と、駒子は少し声を潤ませて、

   「初めて会った時、あんたなんていやな人だろうと思ったわ。あんな失礼なことを言う人ないわ。ほんとうにいやあな気がした」

   島村はうなずいた。

   「あら。それを私今まで黙ってたの。分る?女にこんなこと言わせるようになったらおしまいじゃないの」

   「いいよ」

   「そう?」と、駒子は自分を振り返るように、長いこと静かにしていた。その一人の女の生きる感じが温かく島村に伝わって来た。

   「君はいい女だね」

   「どういいの」

   「いい女だよ」

   「おかしなひと」と、肩がくすぐったそうに顔を隠したが、なんと思ったか、突然むくっと片肘立てて首を上げると、

   「それどういう意味?ねえ、なんのこと?」

   島村は驚いて駒子を見た。

   「言ってちょうだい。それで通ってらしたの?あんた私を笑ってたのね。やっぱり笑ってらしたのね」

   真赤になって島村を睨みつけながら詰問するうちに、駒子の肩は激しい怒りに顫えて来て、すうっと青さめると、涙をぼろぼろ落した。

   「くやしい、ああっ、くやしい」と、ごろごろ転がり出て、うしろ向きに坐った。

   島村は駒子の聞きちがいに思いあたると、ほっと胸を突かれたけれど、目を閉じて黙っていた。

   「悲しいわ」

   「駒子はひとりごとのように呟いて、胴を円く縮める形に突っ伏した。

   そうして泣きくたびれたか、ぶすりぶすりと銀の簪を畳に突き刺していたが、不意に部屋を出て行ってしまった。

   島村は後を追うことが出来なかった。駒子に言われてみれば、十分に心疚しいものがあった。

   しかしすぐに駒子は足音を忍ばせて戻ったらしく、障子の外から上ずった声で呼んだ。

   「ねえ、お湯にいらっしゃいません?」

   「ああ」

   「御免なさいね。私考え直して来たの」

   廊下に隠れて立ったまま、部屋に入って来そうもないので、島村が手拭を持って出て行くと、駒子は目を合わせるのを避けて、少しうつ向きながら先に立った。罪をあばかれて曳かれて行く人に似た姿であった。湯で体が温かまる頃から変にいたいたしいほどはしゃぎ出して、眠るどころでなかった。

   その次の朝、島村は謡の声で目が覚めた。

   しばらく静かに謡を聞いていると、駒子が鏡台の前から振り返って、にっと微笑みながら、

   「梅の間のお客さま。昨夜宴会の後で呼ばれたでしょう」

   「謡の会の団体旅行かね」

   「ええ」

   「雪だろ?」

   「ええ」と、駒子は立ち上って、さっと障子をあけて見せた。

   「もう紅葉もおしまいね」

   窓で区切られた灰色の空から大きい牡丹雪がほうっとこちらへ浮び流れて来る。なんだか静かな嘘のようだった。島村は寝足りぬ虚しさで眺めていた。

   謡の人々は鼓も打っていた。

   島村は去年の暮のあの朝雪の鏡を思い出して鏡台の方を見ると、鏡のなかでは牡丹雪の冷たい花びらがなお大きく浮び、襟を開いて首を拭いている駒子のまわりに、白い線を漂わした。

   駒子の肌は洗い立てのように清潔で、島村のふとした言葉もあんな風に聞きちがえねばならぬ女とはとうてい思えないところに、かえって逆らい難い悲しみがあるかと見えた。

   紅葉の錆色が日ごろに暗くなっていた遠い山は、初雪であざやかに生きかえった。

   薄く雪をつけた杉林は、その杉の一つ一つがくっきりと目立って、鋭く天を指しながら地の雪に立った。

   雪のなかで糸をつくり、雪のなかで織り、雪の水に洗い、雪の上に晒す。績みはじめてから織り終るまで、すべては雪のなかであった。雪ありて縮あり、雪は縮の親というべしと、昔の人も本に書いている。

  村里の女達の長い雪ごもりのあいだの手仕事、この雪国の麻の縮は島村も古着屋であさって夏衣にしていたものだ。踊の方の縁故から能衣裳の古物などを払う店も知っているので、筋のいい縮が出たらいつでも見せてほしいと頼んであるほど、この縮を好んで、一重の襦袢にもした。

雪がこいの簾をあけて、雪解の春のころ、昔は縮の初市が立ったという。はるばる縮を買いに来る都の呉服問屋の定宿さえあったし、娘達が半年の丹精で織り上げたのもこの初市のためだから、遠近の村里の男女が寄り集まって来て、見世物や物売りの店も並び、町の祭のように賑わったという。縮には織子の名と所とを書いた紙札をつけて、その出来栄えを一番二番という風に品定めした。嫁選びにもなった。子供のうちに織習って、そうして十五、六から二十四、五までの女の若さでなければ、品のいい縮は出来なかった。年を取っては、機面のつやが失われた。娘達は指折りの織子の数に入ろうとしてわざを磨いただろうし、旧暦の十月から糸を積み始めて明くる年の二月半ばに晒し終わるという風に、ほかにすることもない雪ごもりの月日の手仕事だから念を入れ、明治の初めから江戸の末の娘が織ったものはあるかむしれなかった。

  自分の縮を島村は今でも「雪晒し」に出す。誰が肌につけたかしれない古着を、毎年産地へ晒しに送るなど厄介だけれども、昔の娘の雪ごもりの丹精を思うと、やはりその織子の土地でほんとうの晒し方をしてやりたいのだった。深い雪の上に晒した白麻に朝日が照って、雪が布かが紅に染まるありさまを考えるだけでも、夏のよごれが取れそうだし、わが身をさらされるように気持よかった。もっとも東京の古着屋が払ってくれるので、昔通りの晒し方が今に伝わっているのかどうか、島村は知らない。

  晒屋は昔からあった。織子が銘々の家で晒すということは少なく、たいがい晒屋に出した。白縮は織りおろしてから晒し、色のある縮は糸につくったのを拐にかけて晒す。白縮は雪へじかにのばして晒す。旧の一月から二月にかれて晒すので、田や畑を埋めつくした雪の上を晒場にすることもあるという。

  布にしろ糸にしろ、夜通し灰汁に浸しておいたのを翌る朝幾度も水では絞れ上げて晒す。これを幾日も繰り返すのだった。そうして白縮をいよいよ晒し終わろうとするところへ朝日が出てあかあかとさす景色はたとえるものがなく、暖国の人に見せたいと、昔の人も書いている。また縮を晒し終わるということは雪国が春の近いしらせであったろう。

縮の産地はこの温泉場に近い。山峡の少しずつひらけてゆく川下の野がそれで、島村の部屋からも見えていそうだった。昔縮の市が立ったという町にはみな汽車の駅が出来て、今も機業地として知られている。

  しかし島村は縮を着る真夏にも縮を織る真冬にも、この温泉場に来たことがないので、駒子に縮の話をしてみる折はなかった。昔の民芸のあとをたずねてみるという柄でもなかった。

  ところが葉子が湯殿で歌っていた歌を聞いて、この娘も昔生まれていたら、糸車や機にかかって、あんな風に歌ったのかもしれないと、ふと思われた。葉子の歌はいかにもそういう声だった。

  毛よりも細い麻糸は天然の雪の湿気がないとあつかいにくく、陰冷の季節がよいのだそうで、寒中に織った麻が暑中に着て肌に涼しいのは陰陽の自然だという言い方を昔の人はしている。島村にまつわりついて来る駒子にも、なにか根の涼しさがあるようだった。そのためよけい駒子のみうちのあついひとところが島村にあわれだった。

  けれどもこんな愛着は一枚の縮ほどの確かな形を残しもしないだろう。着る布は工芸品のうちで寿命の短い方にしても、大切にあつかえば五十年からもっと前の縮が色も褪せないで着られるが、こうした人間の身の添い馴れは縮ほどの寿命もないなどとぼんやり考えていると、ほかの男の子供を産んで母親になった駒子の姿が不意に浮んで来たりして、島村はほったあたりを見まわした。疲れているのかと思った。

  葉子のうちへ帰るのも忘れたような長逗留だった。離れられないからでも別れともないからでもないが、駒子のしげしげ会いに来るのを待つ癖になってしまっていた。そうして駒子がせつなく迫って来れば来るほど、島村は自分が生きていないかのような呵責がつのった。いわば自分のさびしさを見ながら、ただじっとたたづんでいるのだった。駒子が自分のなかにはまりこんで来るのが、島村は不可解だった。駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じていそうにない。駒子が虚しい壁に突きあたる木霊に似た音を、島村は自分の胸の底に雪が降りつむように聞いた。このような島村のわがままはいつまでも続けられるものではなかった。

  こんど帰ったらもうかりそめにこの温泉へは来れないだろうという気がして、島村は雪の季節が近づく火鉢によりかかっていると、宿の主人が特に出してくれた京出来の古い鉄瓶で、やわらかい松風の音がしていた。銀の花鳥が器用にちりばめてあった。松風の音は二つ重なって、近くのと遠くのとに聞きわけられたが、その遠くの松風のまた少し向うに小さな鈴がかすかに鳴りつづけているようだった。島村は鉄瓶に耳を寄せてその鈴の音を聞いた。鈴のなりしきるあたりの遠くに鈴の音ほど小刻みに歩いて来る駒子の小さい足が、ふと島村に見えた。島村は驚いて、もはやここを去らねばならぬと心立った。

  そこで島村は縮の産地へ行ってみることを思いついた。この温泉場から離れるはずみをつけるつもりもあった。

  しかし川下に幾つもある町のどれへ行けばよいのか、島村はわからなかった。現在機業地に発展している大きい町が見たいというのではないので、島村はむしろさびしそうな駅に下りた。しばらく歩くと昔の宿場らしい町通に出た。

家々の庇を長く張り出して、その端を支える柱が道路に立ち並んでいた。江戸の町で店下と言ったのに似ているが、この国では昔から雁木というらしく、雪の深いあいだの往来になるわけだった。片側は軒を揃えて、この庇が続いている。

  隣りから隣りへ連なっているから、屋根の雪は道の真中へおろすようり捨場がない。実際は大屋根から道の雪の堤へ投げ上げるのだ。向う側へ渡るのには雪の堤をとろこどころくりぬいてトンネルをつくる。胎内くぐりとこの地方ではいうらしい。

  同じ雪国のうちでも駒子のいる温泉村などは軒が続いていないから、島村はこの町で初めて雁木を見るわけだった。もの珍しさにちょっとそのなかを歩いてみた。古びた庇の陰は暗かった。傾いた柱の根元が朽ちていたりした。先祖代々雪に埋もれた鬱陶しい家のなかを覗いてゆくような気がした。

  雪の底で手仕事に根をつめた織子達の暮らしは、その製作品の縮のように爽やかで明るいものではなかった。そう思われるに十分な古町の印象だった。縮のことを書いた昔の本にも唐の秦韜玉の詩などが引かれているが、機織女を抱えてまで織らせる家がなかったのは、一反の縮を織るのにずいぶん手間がかかって、銭勘定では合わないからだという。

  そんな辛苦をした無名の工人はとっくに死んで、その美しい縮だけが残っている。夏に爽涼な肌触りで島村らの贅沢な着物となっている。そう不思議でもないことが島村はふと不思議であった。一心こめた愛の所行はいつかどこかで人を鞭打つものだろうか。島村は雁木の下から道へ出た。

  宿場の街道筋らしく真直に長い町通だった。温泉村から続いている古い街道だろう。板葺きの屋根の算木や添石も温泉町と変わりがなかった。

  庇の柱が薄い影を落していた。いつのまにか夕暮れ近くだった。

  なにも見るものがないので、島村はまた汽車に乗って、もう一つの町に下りてみた。前の町と似たものだった。やはりただぶらぶら歩いて、寒さしのぎにうどんを一杯すすっただけだった。

  うどん屋は川岸で、これも温泉場から流れるだろう。尼僧が二人づれ三人づれと前後して橋を渡って行くのが見えた。わらじ履きで、なかには饅頭笠を背負ったのもあって、托鉢の帰りのようだった。烏が塒に急ぐ感じだった。

  「尼さんがだいぶ通るね?」と、島村はうどん屋の女にたずねてみた。

  「はい、この奥に尼寺があるんですよ。そのうち雪になると、山から出歩くのが難渋になるんでしょう」

  橋の向うに暮れてゆく山はもう白かった。

  この国では木の葉が落ちて風が冷たくなるころ、寒々と曇り日が続く。雪催いである。遠近の高いやまが白くなる。これを岳廻りという。また海のあるところ海が鳴り、山の深いところは山が鳴る。遠雷のようである。これを胴鳴りという。岳廻りを見、胴鳴りを聞いて、雪が遠くないことを知る。昔の本にそう書かれているのを島村は思い出した。

  島村が朝寝の床で紅葉見の客の謡を聞いた日に初雪は降った。もう今年も海や山は鳴ったのだろうか。島村は一人旅の温泉で駒子と会いつづけるうちに聴覚などが妙に鋭くなって来ているのか、海や山の鳴る音を思ってみるだけで、その遠鳴りが耳の底を通るようだった。

   「尼さん達もこれから冬籠りだね。何人くらいいるの」

   「さあ。大勢でしょうよ」

   「尼さんばかりが寄って、幾月も雪のなかでなにをしてるんだろうね。昔この辺で織った縮でも尼寺で織ったらどうかな」

   物好きな島村の言葉に、うどん屋の女は薄笑いしただけだった。

   島村は駅まで帰りの汽車を二時間近く待った。弱い光の日が落ちてからは星を磨き出すように冴えてきた。足が冷えた。

   なにをした行ったのかわからずに島村は温泉場に戻った。車がいつもの踏切を越えて鎮守の杉林の横まで来ると、目の前に明りの出た家が一軒あって、島村はほっとしたが、それは小料理屋の菊村で、門口に芸者が三、四人立話していた。

駒子もいるなと思う間もなく駒子ばかりが見えた。

   車の速力が急に落ちた。島村と駒子とのことをもう知っている運転手はんとなく徐行したらしい。

   ふと島村は駒子との逆の方のうしろを振り向いた。乗って来た自動車のわだちのあとが雪の上にはっきり残っていて、星明りに思いがけなく遠くまで見えた。

   車が駒子の前に来た。駒子はふっと目をつぶったかと思うと、ばっと車に飛びついた。車は止まらないでそのまま静かに坂を登った。駒子は扉の外の足場に身をかがめて、扉の把手につかまっていた。

   飛びかかって吸いついたような勢いでありながら、島村はふわりと温かいものに寄り添われたようで、駒子のしていることに不自然も危険も感じなかった。駒子は窓を抱くように片腕をあげた。袖口が辷って長襦袢の色が厚いガラス越しにこぼれ、寒さでこわばった島村の瞼にしみた。

   駒子は窓ガラスに額を押しつけながら、

   「どこへ行った?ねえ、どこへ行った?」と、甲高く呼んだ。

   「危ないじゃないか。むちゃをするね」と、島村も声高に答えたが、甘い遊びだった。

   駒子が扉をあけて横倒れにはいって来た。しかしその時車も止まっているのだった。山の裾に来ていた。

   「ねえ、どこへいらしたの?」

   「うん、まあ」

   「どこ?」

   「どこってこともないが」

   駒子の裾を直す手つきの芸者風なのが、島村にふと珍しいもののように見えたりした。

   運転手はじっとしていた。道の行きづまりで止まっている車に、こうして乗っているのはおかしいと島村は気がつくと、

   「おりましょう」と、島村の膝の上に駒子が手を重ねて来たが、

   「まあ、冷たい。こんなよ。どうして私を連れていかなかったの?」

   「そうだったね」

   「なによ?おかしなひと」

   駒子は楽しげに笑って、急な石段の小路を登った。

   「あんたの出ていらっしゃるところ、私見てたのよ。二時か、三時だったわね?」

   「うん」

   「車の音がするから出てみたの。表に出てみたのよ。あんた、うしろを見なかったでしょう?」

   「ええ?」

   「見なかったわよ。どうして振り返ってみなかったの?」

   島村はおどろいた。

   「あんた、私の見送ってたのを知らないじゃないの?」

   「知らなかったね」

   「そうれごらんなさい」と、駒子はやはり楽しそうに含み笑いした。そして肩を寄せて来た。

   「どうして私を連れて行かないの?冷たくなって来て、いやよ」

   突然擦半鐘が鳴り出した。

   二人は振り向くなり、

   「火事、火事よ!」

   「火事だ」

   火の手が下の村の真中にあがっていた。

   駒子はなにか二声三声叫んで島村の手をつかんだ。

   黒い煙の巻きのぼるなかに炎の舌が見えかくれした。その火は横に這って軒を舐め廻っているようだった。

   「どこだ、君が元いたお師匠さんの家、近いんじゃないか」

   「ちがう」

   「どのへんだ」

   「もっと上よ。停車場寄りよ」

   炎が屋根を抜いて立ち上った。

   「あら、繭倉(マユグラ)だわ。繭倉だわ。あら、あら、繭倉が焼けてるのよ」と、駒子は言い続けて島村の肩に頬を押し付けた。

   「繭倉よ、繭倉よ」

   火は燃えさかってくるばかりだが、高みから大きい星空の下に見下ろすと、おもちゃの火事のように静かだった。そのくせすさまじい炎の音が聞こえそうな恐ろしさは伝わって来た。島村は駒子を抱いた。

   「こわいことないじゃないか」

   「いや、いや、いや」と、駒子はかぶりを振って泣き出した。その顔が島村の掌にいつもより小さく感じられた。固いこめかみが顫えていた。

   火を見て泣き出したのだが、なにを泣くのかと島村はいぶかりもしないで抱いていた。

   駒子は不意に泣きやむと顔を離して、

   「あら、そうだった。繭倉に映画があるのよ、今夜だわ。人がいっぱいはいってるのよ、あんた.……」

   「そりゃ大変だ」

   「怪我人が出てよ。焼け死ぬわ」

   二人はあわてて石段を駆け登った。上の方で騒ぐ声が聞えるからだ。見上げると高い宿屋の二階三階も、たいていの部屋が障子をあけた明りの廊下に人が出て火事を見ていた。庭のはずれに並んだ菊の末枯れが宿の燈か星明りかで輪郭を浮べ、ふと火事が映っていると思わせたが、その菊のうしろにも人が立っていた。二人の顔の上へ宿の番頭などが三、四人ころぶように下りて来た。駒子は声を張りあげて、

   「あんた、繭倉あ?」

   「繭倉だあ」

   「怪我人は?怪我人はないの?」

   「どんどん助け出してるんだあ。活動のフィルムから、ぼうんといっぺんに燃えついて、火の廻りが早いや。電話で聞いたんだ。あれ見ろい」と、番頭は出会いがしらに片腕を振り上げて行った。

(全文完)
 
 
 
 

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