紅塵

紅塵的背景是在南宋年代﹐開場在靖康之難後十幾年﹐千古罪人秦檜去世﹐宋高宗正式掌握國權..

 

作者:田中 芳樹


目 次

 第一章 江南《こうなん》冬《とう》雨《う》
 第二章 密命
 第三章 黄天蕩《こうてんとう》
 第四章 渡河
 第五章 燕京《えんけい》悲歌《ひか》
 第六章 趙王府《ちょうおうふ》
 第七章 莫《ばく》須《す》有《ゆう》
 第八章 前夜
 第九章 采石《さいせき》磯《き》
 第十章 長江無尽《ちょうこうむじん》

 

 


第五章 燕京《えんけい》悲歌《ひか》


    一

 宋《そう》の紹興《しょうこう》二十六年、金の正隆《せいりゅう》元年、西暦では一一五六年の夏六月。
 後に「宋の欽宗《きんそう》皇帝」と呼ばれるようになる男は、抑留生活の三十年めを迎えていた。年齢は五十七歳になる。帝位にあったのは二年たらずのことで、人生の半分以上を異国で虜囚《りょしゅう》としてすごした。かつて温厚で学識ある貴公子として知られたが、苦難にみちた歳月は彼の頭髪を灰色に変え、酷寒と猛暑のくりかえしは肌を老化させ、貧弱な食事は筋骨を弱めた。かつて金兵に鞭《むち》でなぐられた傷が、赤い紐《ひも》のように背中と腰を彩《いろど》っている。
「自分の人生はいったい何だったのか」
 古い粗《そ》末《まつ》な麻の服の襟《えり》に手をかけながら、何万度めかの呟《つぶや》きを欽宗は発した。
 彼がいる燕京《えんけい》城内の牢獄は「左《さ》廨院《かいいん》」と称される。遼《りょう》の時代から、皇族や貴族などの身分ある罪人を幽閉する建物であったという。左があれば右がある道理で、「右《う》廨院《かいいん》」と呼ばれる牢獄があり、そこにも虜囚がひとり幽閉されていた。
 自分のいる房室《へや》を、欽宗は力なく見まわす。石の壁、石の床。牀《しょう》はなく、床に粗末な敷物をしいて寝なくてはならぬ。北むきの窓は小さく、室内はつねに薄暗い。壁の角《すみ》に小さな方形の穴があいており、一日二回、食事と水がそこから差しいれられる。雑穀《ざっこく》の飯がほとんどで、十日に一度ほど、えたいの知れぬ獣肉や淡水魚のひときれがつく。茶に至っては、もう一年以上も飲んだことがない。衣服は十日に一度、着かえられればよしとしなくではならぬ。かつて遼の貴族の妻であったという女囚《じょしゅう》が通って身辺の世話をしてくれたが、一年ほど前からそれも停止されて、ひたすら孤独と不《ふ》如《にょ》意《い》に耐える毎日である。
 なぜこのような境遇におかれるのか。他に為《な》すこともなく、欽宗の思いは過去に向かうことが多かった。

 欽宗がまだ皇太子|趙桓《ちょうかん》であったころ、それはおこった。
 宋の政《せい》和《わ》八年(西暦一一一八年)、老大国の宋と新興国の金との間に密約が結ばれた。宋の密使は、山東《さんとう》半島から船で海を渡り、遠く金の首都|上京会寧府《じょうけいかいねいふ》をおとずれたのである。密約の内容は、南の宋と北の金とが同盟し、中間にある遼国を挟撃して滅ぼそうというものであった。両国とも、遼には往古《むかし》からの怨《うら》みがあったのである。
 激戦をかさねた末、宋の宣《せん》和《な》七年(西暦一一二五年)に至って、遼は完全に滅びた。共同作戦といっても、宋軍はまるで役にたたず、金軍はほとんど独力で遼を滅ぼしたのである。同盟は成功したのだ。
 ところが遼が滅びた後、宋は金が広大な領土や莫大《ばくだい》な財貨を手にいれたことがおもしろくない。蔡京《さいけい》や童貫《どうかん》といった『水《すい》滸《こ》伝《でん》』に登場する奸臣たちが陰謀をめぐらした。遼の残党をあやつって、金国の内部で叛乱《はんらん》をおこさせたのである。それも一度ではなく二度も、であった。叛乱を鎮定し、陰謀の存在を知って金国は激怒した。実力で謝罪させてやる、とばかり進撃を開始する。あわてた宋では、徽《き》宗《そう》が皇太子に譲位して上皇となった。皇太子はここに欽宗皇帝となった。宋は金との間に和平交渉をはじめる。ところが、それを不満とした主戦派が、停戦条約を破って金軍に急襲をかけたのだ。
「礼教の国」と自称する宋が、三度にわたって背信行為をおこなったのである。またもや金は激怒した。すでに遼を滅ぼし、西《せい》夏《か》を屈服させて、武力には自信をいだいている。急襲にもひるまず、猛然と反撃に転じ、宋軍に大損害を与えた。若き太子たち、宗望《そうぼう》や宗弼《そうひつ》らの勇戦によるものであった。
 野心と実力とを兼《か》ねそなえた強敵に、宋は口実を与えてしまったのだ。当時の政治の実力者、蔡京や童貫らの責任はきわめて大きい。彼らが亡国の責任者として非難されるのはしかたないことであろう。なお、高※[#「にんべん+求」、unicode4fc5]《こうきゅう》を含めて、彼らはいずれもこの前後に死んでいる。童貫は殺されたのだが、他の二名は病死であり、金軍によって北方へ拉致《らち》されずにすんだのは幸運であった。
 金の太宗《たいそう》皇帝は全軍に南下を命じた。統率する元帥は二名。ひとりは太宗の甥《おい》にあたる二《アル》太《ター》子《ツ》宗望。いまひとりは皇族中の元老|宗翰《そうかん》であり、よく似た名だが大《ター》太《ター》子《ツ》宗幹《そうかん》とは別人である。
 金軍の勢いは、黄《こう》河《が》の洪水にも似ていた。
「金の初めて起《お》るや、天下これよりも強きは莫《な》し」
 事実であった。宋軍の必死の抵抗も、虎が卵を踏みくだくがごとくに粉砕された。たちまち金軍は黄河を渡り、宋の首都|開封《かいほう》を重囲下においた。宋は悲鳴をあげて和平を求めたが、金軍は相手にしない。「何をいまさら」というところであったろう。
 ついに宋は開封の城門を開き、徽宗上皇と欽宗皇帝は降伏して金軍の陣営におもむいた。人質となったのである。和平交渉がはじまったが、その間にも金軍は開封城内に乱入し、暴行と掠奪をほしいままにした。
 そして世に名高い「靖康《せいこう》の変」がおこる。靖康元年(西暦一一二六年)の三月。金軍の元帥宗翰は人質となっていた徽宗上皇と欽宗皇帝を呼び出し、袞龍《こんりゅう》の袍《ほう》をぬぐよう命じた。袞龍の袍とは天子の服である。もはや宋王朝はここに滅んだ、汝《なんじ》らの帝位も奪われることとなった、べつの服に着かえよ、というのである。上皇と皇帝は蒼白《そうはく》になって立ちすくんだ。
 このとき工《こう》部侍《ぶじ》郎《ろう》の官にあった李若水《りじゃくすい》が上皇たちに随従《おとも》していたが、欽宗にとりすがって声をはげました。
「なりませぬ、陛下、金賊《きんぞく》の無道に屈してはなりませぬぞ」
 李若水は金兵たちをにらんで叫んだ。
「醜虜《しゅうりょ》、何ぞ天《てん》理《り》を恐れざるや!」
 中華帝国の天子は至《し》尊《そん》の御《おん》身《み》である。お前たちのような野蛮人が手にかけてよいものか。拝《はい》跪《き》して罪を謝せ、天罰がこわくないのか。
「殺せ!」
 宗翰の怒号とともに、金兵数十人が李若水にむけて殺到した。前後左右から乱刃をあび、鮮血にまみれて倒れながら、なお李若水は金兵たちの無道をののしり、徽宗と欽宗の名を呼びながら息たえた。
 自分が殺害を命じたのだが、李若水の忠烈は宗翰を感動させた。
「北朝《ほくちょう》が滅びたとき、国難ら殉《じゅん》じた忠臣に何百人もおった。だが南朝《なんちょう》のときには、李侍《りじ》郎《ろう》ただひとりか!」
 この場合、北朝とは遼、南朝とは宋のことである。後世から見れば李若水の行為は無益なものにしか見えないであろうが、中華帝国において官僚は同時に儒教の徒なのであり、李若水は「臣下は主君の名誉を守る」という儒教的正義のために生命をすてたのである。
 だが宋の忠臣たちはむしろ宮廷の外にいたのだ。徽宗と欽宗とが金軍の虜囚となり、宋帝国はたちどころに崩壊すると思われたのに、金軍にとっては意外な事態となった。いたるところで民衆が蜂《ほう》起《き》し、勤王《きんのう》の軍が金軍と戦いはじめた。これまで、ただただ臆病で無能な宋軍を撃破しつづけてきた金軍も、本気になって戦わねばならなくなった。
 それらの混乱を後に、徽宗と欽宗は北方へ連行されていった。上皇と皇帝のほか、皇族、貴族、官僚、女官、宦官《かんがん》、その家族など約三千人。前後左右を金兵の刀槍にかこまれ、牛車や徒歩で朔風《さくふう》の故郷へと向かったのだ。
 春三月とはいえ、北に向かうにしたがって寒さがつのり、風は強まる。道は霜《しも》溶《ど》けのためにぬかるむと思えば、乾ききって砂《さ》塵《じん》を巻きあげる。寒さに慄《ふる》え、泥や砂塵で汚れた肌を洗うこともできぬ苦しい旅がつづいた。食事が供されぬ日もあり、屋外ですごす夜もあった。勇猛で忍耐づよい金の兵士たちにとっては、さほど苦しくもないであろう。だが宮廷やその周辺で安楽に生活していた人々にとっては、耐えがたい毎日であった。疲労や発熱で倒れた者は、怒号とともに引きおこされ、ふたたび倒れると、そのまま路傍に放置された。
 めずらしく豪壮な館に宿泊できたかと思えば、そこの主人が皇后に酌《しゃく》を強要し、歌え、舞え、と迫るのだった。
 長く辛《つら》い旅の果て、五《ご》国《こく》城に着く。だがそこでの幽囚は数年で終わり、徽宗と欽宗は金の各地を転々とした。欽宗の皇后|朱《しゅ》氏《し》は道に倒れ、ついに息を引きとった。二十歳になったばかりの若さであった。徽宗と欽宗は泣きながら自分たちの手で土を掘り、名も知らぬ荒野の一角に皇后を葬った。
 さらに翌日、大臣の張叔夜《ちょうしゅくや》が死んだ。有能で誠実な官僚として、彼の名は『水滸伝』にもあらわれる。金軍が首都開封の城内に乱入したときにも、兵をひきいて最後まで善戦した。北方へ連行される皇帝たちの随従《おとも》をして、苦難の旅をつづけてきたが、六十三歳にして生命がつきた。
 安粛軍《あんしゅくぐん》という辺境の小都市では、契丹《きったん》族の暴動に巻きこまれた。七百人余の死傷者を出して、暴動が鎮定された後、安粛軍の知事は欽宗が契丹人と共謀して暴動をおこさせた、と決めつけた。欽宗は数十回にわたって鞭でなぐられた。顔まで打たれて前歯が折れ、血にまみれて、大宋帝国の天子は気絶した。化《か》膿《のう》した傷によって発熱しながら、翌日、欽宗は安粛軍を追われ、荒野の旅をつづけねばならなかった。その後、再度の暴動によって安粛軍の知事は殺害されたという……。

    二

 ……最初は幻覚としか思えなかった。薄暗い室内を、おびえた眼で欽宗は見まわした。何かが彼をおどろかせたのだ。だが、それが何であるのか、最初はわからなかった。
「陛下!」
 おしころした声が吹きこんできたのは、食事を差しいれるための方形の穴からである。その声は二度めの呼びかけで、欽宗をおどろかせた原因が判然《はっきり》とした。
「陛下、そこにおわしますか、陛下!」
 欽宗の全身が慄《ふる》えだした。彼を陛下と呼ぶ者は、宋の臣民だけであるはずだ。だがなぜこのような場所に宋の臣民がいるのか。罠《わな》ではないか。欽宗は疑惑をいだいたが、何のためにそのような罠がしかけられるのか見当もつかぬ。当惑と不安と期待にさいなまれつつ、欽宗は穴に這《は》い寄った。
「我《われ》を陛下と呼ぶ者は誰じゃ。我は大金国の天水郡公《てんすいぐんこう》に封じられた者。そのように呼ばれるべきではないが」
 低く探りをいれる。若々しい声が返ってきた。
「臣は大宋の光禄寺丞《こうろくじじょう》にて、姓は韓《かん》、名は彦直《げんちょく》、字《あざな》を子《し》温《おん》と申します。父の名は世忠《せいちゅう》と申し、皇恩《こうおん》をもって枢密《すうみつ》使《し》を拝命いたしておりました」
「おお、やはり天朝《てんちょう》(宋)の者か」
 欽宗はもはや疑わなかった。というより、疑うことに耐えられず、信じたかったのだ。
「靖康帝《せいこうのみかど》におわしますな。拝謁《はいえつ》をえて光栄でございます」
 やはり暗い廊下にひそんだ子温の声も、やや上ずっている。彼が生まれる前から異境に幽閉されていた人、歴史上の人が壁の向こうにいるのだ。生きておられた、と思うと、感情が昂《たか》ぶり、眼前に立ちはだかる陰気な暗灰《あんかい》色の壁をたたきこわしたくなる思いに駆られた。むろんそのような衝動は、すべてを無に帰せしめてしまう。黒蛮竜《こくばんりゅう》や阿《あ》計替《けいたい》が苦心して人脈をたどり、銀子《かね》を費《つか》い、日時をかさねて、子温を潜入させることに成功したのだ。金国の獄《ごく》吏《り》は、子温が欽宗に会うところまでは認めたが、それ以上は許さない。かぎられた時間で、できるだけのことをせねばならなかった。彼は自分が金国に潜入した理由を述《の》べ、父韓世忠と母|梁紅玉《りょうこうぎょく》について手短に語った。
 在位当時に引見《いんけん》した韓世忠のことを、欽宗は記憶していなかった。混乱と不安の日々のなかで、欽宗は多くの人と出会い、別れた。当時、韓世忠は無名の一兵士で、とくに欽宗の注意は惹《ひ》かなかったのである。だが、その後の韓世忠が頭角《とうかく》をあらわし、金軍を撃破して大功をたてた、と聞くと欽宗は嬉《うれ》しい。黄天蕩《こうてんとう》の戦いについて聞き、彼が「両宮《りょうきゅう》をお還し申せ」と金軍に要求したと聞けばさらに嬉しい。
「そなたの亡父にも苦労をかけたようじゃの」
「陛下のご苦難にはとてもおよびませぬ」
 たしかにそうであろう。金国は欽宗に対してあまりにも非情|苛《か》酷《こく》であった。
 ただ、両宮の監視と護送を命じられた阿計替という人物は、欽宗たちの境遇に同情し、何かと親切にしてくれた。食事、住居、医薬品などについてもできるだけ配慮してくれたし、驢馬《ろば》や車を用意して皇后たちを乗せ、休憩時間も増やしてくれた。それほど身分の高い者でもなかったので、限界はあったが、その善意は不幸な虜囚たちにとってこの上なくありがたいものだった。
 今回の件に関しても阿計替の尽力があったことを子温は伝えた。護送の任を解かれてからも、阿計替は欽宗への同情をいだきつづけたが、彼ひとりではどうする術《すべ》もなかった。それが旧知の黒蛮竜の訪問を受け、また完顔亮の暴政に対する反感も禁じえず、思いきって子温に協力してくれるようになったのである。
 欽宗の眼がうるんだ。
「阿計替には感謝のしようもない。あの者がいてくれなんだら、予《よ》はとうに北方の荒野で窮死《きゅうし》しておったにちがいないのじゃ。どうにかして恩に報《むく》いてやりたかったが、このありさまではのう」
 力のない自嘲《じちょう》の翳《かげ》りが、欽宗の頬を流れ落ちる。
「ところで、宋のようすはこのごろどうなっておるのか」
 気をとりなおしたような老皇帝の質問に、子温は答えた。水田は豊かに実って飢える者はなく、杭州《こうしゅう》の港には船があふれ、夜も灯火が消えることはない、と。
 宋の領域は半減してしまったが、和約の成立後、繁栄は急速に回復している。そう聞いて、欽宗のやつれた頬に血の気がさした。
「だとすれば自分の幽囚生活にも意味があったかもしれぬ。天子たるの責務を、すこしは果たせたとうぬぼれてもよいのだろうか」
 欽宗の胸の奥が熱くなる。在位二年たらず、滅亡に瀕《ひん》した国を建てなおす志《こころざし》はあったが、結局、何ひとつ為《な》しえなかった。空《から》の国《こっ》庫《こ》、荒廃した帝都、いがみあう主戦派と和平派。見わたして、若い皇帝は呆然《ぼうぜん》とするばかりだった。あげくに袞龍の袍をはぎとられ、虜囚となって北方の荒野を転々とし、父も妻も喪《うしな》い、帝位にある弟からは見すてられ、牢獄のなかで老いていく。自分の人生はいったい何だったのか。あまりに虚《むな》しいではないか。そう救われぬ思いをいだきつづけてきた。だが自分の苦難が宋の繁栄や平和と引きかえなら、自分の人生にも意味があったといえよう。
 老皇帝の呟きを聴《き》きながら子温が考えたのは、和平の大功労者とされる秦檜《しんかい》のことであった。
 異民族に対して頭をさげ、屈辱に耐えねばならないのは、秦檜ではなくて高宗《こうそう》皇帝である。平和を買うために多額の歳貢《さいこう》を支払うのは、秦檜ではなくて租税をおさめる民衆である。講和条約のために終生、北力の荒野に抑留されて望郷の涙を流すのは、秦檜ではなくて欽宗皇帝である。おなじく講和条約のために無実の罪で虐殺され、一族を流刑に処せられたのは、秦檜ではなくて岳《がく》飛《ひ》である。
 何ひとつ秦檜は失っていない。そして和平成立の大功績は、ことごとく彼の手に帰《き》した。秦檜という人物が、他人の犠牲を自分の利益に転化させる芸術家であったことがよくわかる。
 あらためて、秦檜に対する怒りが胸中に沸《わ》きおこるのを、子温は自覚した。宮中で比類なき権勢をふるい、子や孫を出世させ、離宮をしのぐほどの豪邸で酒《しゅ》池《ち》肉林《にくりん》をほしいままにしながら、秦檜はうしろめたさということがなかったのか。また金国も非情にすぎる。幽囚するにしても、せめて人並みの生活ぐらいさせてやればよかろうに。
「金主《きんしゅ》も天子たる御方《おんかた》を遇する途《みち》を知らぬと見えまする」
「金主はすでに予の存在など忘れておろうよ。むしろそのほうがありがたいくらいだ」
「はい、たしかにつごうがよろしいかと存じます」
 子温の声が熱をおびた。
「なぜなら、その忘却に乗じて、陛下を牢よりお逃がし申しあげることがかないますゆえ」
 欽宗は息をのみ、しばし声も出なかった。やがて発した声は、かすれてはいたが毅然としたひびきに満ちていた。
「……いや、ならぬ。予が牢を脱すれば、誰の助けによるものか金主は疑うであろう。疑うとて他に疑うべき者もなし、宋人の助けによることは明白じゃ。さすれば、それをもって金主は宋を伐《う》つ口実とするのではないか。予の一身を救うかわりに、国と民とが害を受けるようなことがあってはなるまい」
 この方は天子の心を待っておられる。そう子温は思った。無為無能の皇帝とさげすまれ、金国は彼に「重昏侯《じゅうこんこう》」の称号を与えて辱《はずか》しめた。昏とは暗愚の君主を指《さ》す。「重昏侯」というのがいかに侮辱的な、人格を無視する呼びかたであるかわかるであろう。現在ではさすがに称号をあらためて天水郡公と呼ばれるようになっていた。どのように虐待され、侮辱されても、この不幸な天子は、天子としての心のありようを失ってはいなかったのである。
「どうかご心配なさいますな、陛下」
「と申したとて……」
「事をあらだてぬ方法がございますゆえ」
「どのような?」
「おそれ多いことながら、陛下には一時、秘《ひ》薬《やく》をご服用いただき、死者をよそおっていただきます。そしてお身体《からだ》を牢外《ろうがい》へ出し、埋葬すると見せてお逃がしたてまつります」
 子温の提案を欽宗は吟味した。しだいに老いた心臓の鼓動が高なりはじめる。
「できるであろうか、そのようなことが」
「ご案じなく」
 それは子温の母梁紅玉が考えだしたことであった。欽宗が獄を脱して宋へ帰還すれば、たしかに金主に侵攻の口実を与えるであろう。宋の高宗皇帝としても、いまさら兄を先帝として迎えることはできぬ。とすれば、公的には欽宗を死者としておき、別人として宋へ帰還させればよい。かつて欽宗自身が望んだように、道教寺院にはいってもよいし、山中に庵《いおり》を結んでもよし、西湖の上《ほとり》に家を建ててもよい。世に出て権勢と栄華を求めぬかぎり、おだやかな余生は保証されるであろう。通《つう》義《ぎ》郡王《ぐんのう》韓世忠の一族が欽宗の安全を守り、生活をささえる。
「無名の老人として山中に余生を送る、か。それがかなうなら……かなうものならそうしたい」
 欽宗は声をつまらせた。すでに解放をあきらめて幾年になることであろう。だがいま小さな光明が絶望の薄闇をかすかに照らす。
「そなたの志《こころざし》はようわかった。だが、いますぐ決断はできぬ。何しろ予は、かりにいま牢を出られたとて走ることもできぬゆえな」
 欽宗はかるく足をたたいてみせた。足が萎《な》えぬよう室内を歩きまわること心してはいるが、完全な自信はないのだ。
「今日のところは、予よりも先にこれを外に出してくれぬか」
 小さな穴から欽宗が差しだしたのは古びた布の一片で、七言絶句が一首したためられていた。

  徹夜の西風は破れし扉《とびら》を撼《ゆる》がし
  蕭条《しょうじょう》たる孤《こ》館《かん》に一灯|微《かす》かなり
  家《か》山《ざん》、首《こうべ》を回らせば三千里
  目は天の南に断《た》えて雁《かり》の飛ぶこと無し

 転句(第三行)に、幽囚者の悲痛な心情がむきだしになっている。布片をにぎりしめた子温の耳に、詩を低く口《くち》誦《ず》さむ欽宗の声が流れこんできた。
「予には詩《し》藻《そう》がない。これは亡《な》き道君《どうくん》皇帝(徽宗)が五国城でおつくりになったものじゃ。三十年近く、予はこれをたずさえてきた。予が還《かえ》れぬときは、この詩一篇だけでも世に知らしめてほしい」
「不吉なことをおっしゃいますな。かならず近日のうちにお救い申しますゆえ」
「そなたの忠心……いや、義侠《ぎきょう》であろうな、嬉しく思うぞ。だが、くれぐれも無理はせぬよう。もし金国人に知られたら、多くの者に迷惑がかかる」
「心いたします」
「ではもう行くがよい。見つからぬようにな」
「明日の夜にでも、また参上いたします。どうかお心を強くお持ちあそばして、南《なん》帰《き》の日をお待ちくださいませ」
「そうしよう……それにしても子温よ」
「は、はい」
 したしく字を呼ばれて、子温は姿勢をただした。
「どうやって左廨院まで来ることができたのじゃ」
「金の政事《まつりごと》は昨今、乱れております」
「うむ?」
「獄吏に賄《わい》賂《ろ》がききまする。医者も買収できましょう」
 別れを告げて宋からの若い使者が去ると、欽宗は息を吐きだして壁に背をもたれさせた。
「政事が乱れておるか……」
 呟きはにがい。彼が即位する直前の宋においても賄賂が横行し、官吏は腐敗を恥じなかった。そしてほどなく宋は滅亡したのである。

 燕京は三十数年前まで遼の首都であった。後世、北《ペ》京《キン》と呼ばれるようになる土地である。北と西に山地をひかえ、南と東には平原が展《ひろ》がる。王城の風格を持つ土地だが、この時代までまだ統一帝国の首都となったことはない。
 燕京城の西力には、後世、「北京|西山《せいざん》」と呼ばれる山地が展開している。楊《ねこやなぎ》、 柳《しだれやなぎ》、 槐《えんじゅ》、松、楡《にれ》などの樹々が緑したたる広大な森をなしており、いたるところに水が湧きだして沼や池をつくる。森と水の間を渡る風は涼しく、適度の湿気をおびて、おどろくほどに爽快であった。
『二十二史|箚《さつ》記《き》』には、「金、燕京を廣《ひろ》む」という一章がある。金の首都は建国以来、上京会寧府であったが、完顔亮《かんがんりょう》は燕京への遷都を望み、即位後、大臣を派遣して調査と工事をおこなわせた。このとき、大臣が地図をひろげて、宮殿や官庁を建てるにはその土地が吉か兇か確認せねばならぬ由《よし》を言上した。すると完顔亮は一笑していった。
「吉兇《きっきょう》は徳《とく》に在《あ》り、地に在らず。桀紂《けつちゅう》して之《これ》に居《お》らしめれば、善《ぜん》地《ち》といえども何ぞ益せん。堯舜《ぎょうしゅん》、之に居らば、何ぞ卜《ぼく》を以《もっ》て為《な》さん」
 運命の善し悪しは君主の徳によるのであって、土地には関係ない。暴君がいれば、どんなよい土地でも役に立たない。名君であれば、そもそも土地の吉兇を占ったりしないだろう。
 完顔亮はそういったのである。この発言を見るかぎり、彼はけっして暗君ではない。英雄としての度量と気概をそなえた人物であろうと思われる。
 ただし、後がよくないというべきであろう。
「一木《いちぼく》を運ぶの費《ついえ》、二十万に至り、一車を挙《あ》ぐるの力、五百人に至る。宮殿、皆飾るに黄金|五《ご》彩《さい》を以《もっ》てし、一殿《いちでん》の成る、億万を以て計《はか》る」
 とは、『続《ぞく》通《つ》鑑《がん》綱目《こうもく》』の表現である。何十万人もの民衆を酷使し、大金を投じて、豪壮な宮殿を建てたのだ。
 とにかくも燕京全域の拡張と改修が完成したのは金の貞元《じょうげん》元年(西暦一一五三年)のことである。完顔亮は遷都をおこない、新首都を「中都《ちゅうと》大興《たいこう》府《ふ》」と称した。それから三年が経過して、子温と梁紅玉が黒蛮竜の案内で潜入したとき、燕京はまだ大帝国の首都として歴史の試練を受けていない。
 左廨院から脱出した子温は、ほぼ四半刻の後、城内の隠れ家にもどった。城内とはいえ東端に近く、人家もすくない。古い大きな墓がふたつあって、当時の伝説では「戦国時代の燕《えん》王と太子の墓だ」といわれていたが、事実は漢《かん》代の墓であったようだ。
 めだたぬ一軒の人家が、阿計替が用意してくれた家だった。梁紅玉と黒蛮竜が、緊張をといた表情で彼を迎えた。阿計替はすでに自宅に帰ったあとだった。彼はいちおう官人なので、長時間にわたって子温たちと同座してはいられないのである。
「ご無事でようござった、韓《かん》公《こう》子《し》」
 と、子温のことを黒蛮竜はそう呼ぶ。子温は通義郡王の長男であるから、「公子」と敬称されて当然なのだが、どうにも気恥ずかしい。
「公子はやめてくれぬか。子温と呼んでくれればいい」
 そういって、子温は母に布片を手わたした。徽宗の詩が書かれたものである。事情を聞いて、梁紅玉はうやうやしくそれを押しいただいた。服の袖《そで》を二重にして、その奥に布片を隠す。彼女が針を動かす間に、黒蛮竜が報告した。
「阿計替が申しましたが、明日、完顔亮めは宮中の講《こう》武《ぶ》殿《でん》前の広場で大|閲兵《えっぺい》式をおこなうそうでございます」
 黒蛮竜は完顔亮を正式の皇帝と認めていないので、名を呼びすてにする。
「それで城内に兵馬が満ちているのか。はでなことが好きな御仁と見えるな」
「虚飾の徒でござるよ」
 と、黒蛮竜の口調は吐きすてるようだ。
「だからこそ考えつくことでござる。その閲兵式の際に、靖康帝に何やらさせるつもりらしゅうござるぞ」
「何かとは?」
「それはわかり申さぬが、思うに、完顔亮を讃《たた》える詩でもつくらせるのではござらぬか」
 ありえることだ、と、にがにがしく子温は考えた。観衆の前で、欽宗は虜囚としての屈辱をなめさせられるわけである。お気の毒だが後日のことを思えば、明日だけは一日を耐えていただくしかあるまい。脱走に成功するまではおとなしくしていなくてはならないだろう。
「阿計替は明日は非番なので閲兵式を見物に行くそうでござる。公子も靖康帝のお姿を見に行かれますか。おともしますが」
「そうだな、そうさせてもらおうか」
 欽宗の気の毒な姿を見るのはいやだが、完顔亮の顔を確認しておくにはよい機会かもしれぬ。敵将の顔を知らぬばかりに討ちとりそこねた、という例はいくらでもあるのだ。欽宗と同様、子温も一時の屈辱に耐えるぐらいのことはしかたなさそうに思えた。
 だが完顔亮の考えは子温たちの想像を絶していたのである。

    三

 欽宗皇帝がどのような状況で死去したか、『宋史』にはまったく記述されていない。
「帝崩問至」
 訃《ふ》報《ほう》があった、と記すのみである。想像を排して事実のみを記すとすれば、そう書くしかなかったのであろう。それにしても簡略にすぎるようである。したがって、『大宋《だいそう》宣《せん》和《な》遺事《いじ》』という資料にもとづいて状況を再現してみるしかない。
 この年六月、金主完顔亮は新首都たる燕京に皇族、貴族、重臣を集め、三十万の大軍をそろえて大閲兵式をおこなった。このような式典の目的は、皇帝の権威を世に知らしめる、という以外に、軍隊の調練《ちょうれん》ということもある。呼ばれて遠くから来る者にとっては、晴れがましくもあるが迷惑でもあろう。広場の周囲には軍旗が林立し、騎兵と歩兵がきらめく甲冑《かっちゅう》の壁をつくる。身分高い人々のために、階段状の巨大な見物席がつくられ、もっとも高い壇《だん》の上には、むろん完顔亮が座していた。
 完顔亮は容姿のすぐれた男で、幅と厚みを具《そな》えた長身、鋭い眼光、隆《たか》い鼻、黒絹のような髭《ひげ》、どれをとっても帝王としての威光に満ちている。年齢は三十五歳。精気と英気にあふれた少壮の皇帝には、無限の未来が用意されているにちがいなかった。
 誰しもそう感じずにはいられないであろう。だが完顔亮の精気と英気は、しばしば方向を失って乱流となり、国と民衆に惨《さん》禍《か》をもたらした。
 彼が先帝|煕《き》宗《そう》を弑逆《しいぎゃく》して即位したとき、むろん非難の声はあったが、それほど大きくはなかった。煕宗の異常さを誰もが恐れていたし、完顔亮の才幹《さいかん》と度量に期待する声のほうが大きかったのだ。弑逆についても、暴君を打倒した勇気と決断が高く評価されたほどであった。だが暴君を斃《たお》した男は、より以上の暴君だった。
 後世、完顔亮の悪業は誇張されているともいわれる。彼は死後、皇帝としての諡《し》号《ごう》をもらえなかった。「海陵王《かいりょうおう》」という称号を与えられたが、やがてそれすら剥奪されて、「廃帝《はいてい》」としか呼ばれなくなってしまう。金国の歴史からいうと、恥ずべき、抹殺されるべき存在なのである。
 自分に対する後世の評価を、このとき完顔亮は知ることができない。六月の強い陽光の下、西山からの風を受け、美しい女官たちにかこまれて酒杯を手にしている。

「天水郡公、おひさしぶりでございますな」
 講武殿の広場の入口で、欽宗は声をかけられた。声の主は八十歳にもなろうかという老人で、色あせた袍をまとっている。老い衰えた身体を、二本の肢《あし》でようやくささえているといった印象だ。
「ああ、海浜王《かいひんおう》、ご息災《そくさい》であられたか」
 欽宗の声に懐《なつか》しさがこもった。海浜王という老人は、右廨院に幽閉された虜囚であった。彼の姓は耶《や》律《りつ》、名は延《えん》禧《き》。かつて遼の天子であり、歴史上、天《てん》祚《そ》帝《てい》と呼ばれる。遼が金に滅ぼされて以来、三十数年にわたって金に抑留されてきた。その歳月は欽宗よりも長いのである。
 宋と遼とは、かつて長きにわたって敵対してきた。だが、ともに新興の金に滅ぼされ、玉座《ぎょくざ》を追われて荒野に抑留される身となった。たがいの境遇に同情し、機会があれば語りあうようになった。
 天祚帝は欽宗と異なり、亡国に責任がある。女色や遊猟を好んで国政に関心を持たず、危機に際しても無為無策であった。だが、三十年以上の抑留で、その罪は償却《しょうきゃく》されたのではないか、と、欽宗は思う。金の皇族とおなじく、遼の皇族も中国的教養が豊かで、天祚帝も漢語を自由にあやつることができた。
「許可なくしゃべるな、老病夫《おいぼれ》ども!」
 金兵が漢語でどなり、ふたりの老皇帝は口をつぐんだ。天水郡公といい海浜王といい、なまじ貴族の称号だけは与えられているだけに、貧しげな服装の老皇帝たちはいっそうみじめであった。
「天水郡公! 海浜王!」
 名を呼ばれたふたりのもと皇帝は、よろめくように進みでた。壇上の完顔亮を仰《あお》ぎみて、地に両ひざをつき、拝《はい》跪《き》する。かつての大国の天子たるふたりの老人が、いま無力な虜囚として、金主の眼下に拝跪するのだった。そのありさまを見つめる金国人たちの視線は、半分が冷淡、半分が憐憫《れんびん》であった。だがもっとも多かったのは、彼らがまだ生きていたことにおどろく者たちの数であろう。
 そのとき広場に一群の人馬がはいってきた。
 褐色の袖をまとった騎士が約五十名。紫色の袖をまとった騎士もほぼ同数。全員の手に弓がある。彼らの姿に不審な視線が集まったが、観衆に対しては何の説明もなかった。
「天水郡公趙桓、海浜王耶律延禧、両名はそれぞれ一隊をひきいて打毬《だきゅう》の試合をはじめよ」
 打毬《ボロ》は隋《ずい》のころ波期《ペルシャ》から渡来した遊戯で、地上の毬《まり》を馬上から長い棒で打つ。唐の玄宗《げんそう》皇帝の御宇《みよ》にもっとも流行し、後宮《こうきゅう》の美姫たちすら夢中になった。それはよいが、打毬をするからには馬に乗らねばならぬ。欽宗はまだしも、八十歳にもなる天祚帝にそれが可能だろうか。だが、拒否する自由は、老虜囚たちにはなかった。彼らは馬に乗せられ、そしてはじめて弓を持った男たちに気づいた。
 欽宗の顔が恐怖と困惑に曇《くも》った。金主《きんしゅ》が何を考えているか、彼には理解できなかった。相談するように天祚帝をかえりみたが、八十歳になる老人は、馬の背にしがみつくのが精いっぱいで、周囲の情景など視界にはいらないようである。当然のことであった。衝動に駆られて欽宗は叫んだ。
「海浜王! 要心《ようじん》なされよ」
 その叫びは天祚帝の耳にとどいたようだ。老人はかろうじて顔をあげ、欽宗に何やら叫び返した。心配なさるな、と言ったようであったが、はっきりと聴きわけることはできなかった。欽宗の傍《そば》にいた金兵が、今度は女真語でどなりつけたからである。内容は同じことで、許可なく声をたてるな、というのであろう。欽宗は口を閉ざし、急速に膨《ふく》れあがる恐怖に耐えながら、天詐帝の姿を眺めやった。
 褐色の袍をまとった男たちが、天祚帝に向かって馬を走らせている。袍の色からして、獲物を追いつめる猟犬の群を思わせた。馬《ば》蹄《てい》のとどろきが急接近してくるのにようやく気づき、老いた遼の皇帝は不審そうな眼をあげた。同時に弓弦《ゆんづる》鳴りひびいた。天祚帝の右胸と背中に矢が突きたち、一瞬の間をおいて咽喉《のど》と左|腋《わき》にも矢羽がはえた。
 声もなく落馬した天祚帝の老体が馬蹄に踏みつけられるのを、欽宗は見た。鈍い異様な音が欽宗の耳を突き刺す。遼国の最後の皇帝が、むざんに胸郭《きょうかく》を踏みつぶされる音であった。
 広場をとりかこむ金国人たちの間から、うめき声がおこった。今日ここで何がおこるか、彼らもはじめて知ったのである。三十万人の観衆をあつめて、完顔亮は公開処刑をおこなおうというのだ。おそらく歴史上もっとも豪華な公開処刑であろう。殺されるのは市《し》井《せい》の罪人ではなく、宋と遼の皇帝である。おそろしい考えだが、たしかにこれ以上の観《み》物《もの》はないであろう。
 すべてを欽宗はさとった。大観衆の前でみじめに殺されるために、彼は今日ここに呼び出されたのである。天祚帝の死とともに動きはじめた紫色の袍の男たちこそ、欽宗の処刑人であった。
 欽宗の乗馬が走りだした。金兵が馬の横腹を槍の柄でなぐりつけたのである。あきれるほど広い甃《いしだたみ》の広場を、弧《こ》を描くように馬は走った。それを追って、紫色の袍の男たちが馬を躍らせる。彼らの半数は、すでに弓に矢をつがえていた。
 欽宗はあえいた。恐怖に全身をわしづかみにされながら、彼は馬の背にしがみついていた。恐怖は死に対するものではなかった。それは不条理に対する恐怖であった。彼は殺されようとしている。なぜ殺されねばならないのか、それが欽宗にはわからなかった。いま殺すくらいなら、なぜ三十年前に殺さなかったのか。
「なぜ予を殺すのか!」
 絶叫したつもりだが、声にはならなかった。ふりあおいた眼に壇上の人物が映《うつ》る。冷然として、死に直面した老人を見おろしている。死には遠い、力と若さにあふれた顔が。
 最初の矢が欽宗の左胸をつらぬいた。激痛が体内に赤くとどろき、欽宗の身体は宙に舞った。矢は六本まで老天子の肉体をつらぬき、地上に縫《ぬ》いつけた。暗黒が彼をつつんだ。
 中華帝国の歴史上もっとも不幸な皇帝のひとりは、こうして死んだ。金の正隆元年、宋の紹興二十六年、西暦では一一五六年。夏六月。あしかけ三十年にわたる抑留の果てである。享年《きょうねん》五十七であった。

 紫色の袍を着た兵士たちは、馬から降りて欽宗の遺体に群らがった。遺体は馬蹄に踏みにじられ、骨がくだけ、内臓を破裂させて、人皮につつまれた血まみれの袋のように見えた。やがて、胴から斬り離された首が、高くかかげられた。観衆のすべてに見えるように。
 遼の天祚帝の遺体も同様にされた。ふたつの首は盆に載《の》せられて完顔亮の前にうやうやしく置かれた。それは血と泥におおわれた肉の毬《まり》だった。広場をおおう異様な沈黙のなかで、完顔亮はにわかに哄笑《こうしょう》した。彼は席から立ちあがり、足をあげて二個の生首を蹴った。ふたつの首はふたつの弧を描いて地上へと舞い落ちていった。
「見よ、千古の武勲というべきである。一日にして偽《ぎ》帝《てい》二名の罪をただし、誅《ちゅう》に伏《ふく》せしめた。天に二《に》日《じつ》なく、地に二帝なし。天子はただひとり、大金《だいきん》の皇帝たる予のみである。予こそが天下の主である!」
 朗々たる完顔亮の声がひびきわたる。白昼の惨劇を目撃した三十万人は、声もなく彼を見つめるばかりだ。
「あそこまでやる必要はあるまいに、無用の残虐を……」
 ただひとり、沈痛な表情でそう呟《つぶや》いた馬上の人物がいる。燦然《さんぜん》たる甲冑と美々しい冑《かぶと》の房は、彼が王侯の身であることを示していた。黒いみごとな鬚《ひげ》が滝となって腹までとどいている。彼の姓は完顔《かんがん》、名は雍《よう》、年齢は三十四歳。金主完顔亮の従弟《いとこ》であり、封爵《ほうしゃく》は趙王《ちょうおう》、官職は東京留守《とうけいりゅうしゅ》。
 後に金の世宗《せいそう》皇帝となる人物である。
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第六章 趙王府《ちょうおうふ》


    一

 子《し》温《おん》の視界で陽《ひ》は翳《かげ》った。たしかに目撃しながら、なお信じることのできない事実が、人の世には存在するのだ。
 先夜、獄中の欽宗《きんそう》皇帝に、壁ごしながら拝謁《はいえつ》することができた。つぎは機会を見て帝《みかど》を脱走させる。獄《ごく》吏《り》たちの綱《こう》紀《き》の弛《ゆる》みぶりを見れば、かならずしも困難ではないように思われた。
 さまざまな政治的事情から、欽宗を世に出すことができない以上、子温たちの功績も公表されることはない。だが、亡《な》き父の霊には報告することができるし、父も地下《あのよ》で喜んでくれるだろう。幼いころ子温が『論《ろん》語《ご》』を学び、「義を見て為《な》さざるは勇なきなり」と素《そ》読《どく》したとき、「そうだ、そうだ」と手を拍《う》った父|韓世忠《かんせいちゅう》であった。
 ひと安心して眠り、めざめたはずなのに、一夜明けて子温の気分は変わっていた。
 表現しがたいほど強烈な不安が、冷たい鉄の手で子温の胸郭《きょうかく》を締めつけていたのだ。なぜこれほど不安なのか。理性をもって考えれば、欽宗皇帝がいま金主完顔亮《きんしゅかんがんりょう》によって殺されるはずがない。いま殺されるべき理由はどこにもない。不安をいだく必要などないのだ。
 くりかえし自分に言い聞かせるのだが、そのつどかえって不安は増大していった。阿《あ》計替《けいたい》や黒蛮竜《こくばんりゅう》に同行してもらい、金国居住の漢人に変装して講《こう》武《ぶ》殿《でん》の方角に向かうと、前後左右すべて閲兵式に向かう人馬の列だ。
「て、天水郡公《てんすいぐんこう》はいずこにおわす? 尋《き》いてみてくれ」
 阿計替にむけた子温の声が慄《ふる》えた。阿計替が漢語を女真《じょしん》語に通訳して兵士たちに伝える。もともと燕京《えんけい》は乾いた土地で、夏の陽を受けて土はさらにかわき、人馬の舞いあげる埃《ほこり》が口のなかまで侵入してくる。
「天水郡公とは誰のことだ」
 首をかしげる者に、阿計替が説明する。これは探《さぐ》りをいれる意味もある。
「ほれ、以前に南朝(宋《そう》)の天子だったご老人のことさ。ずっと燕京の牢獄にいたが、今日の閲兵式で姿を見せるそうだ」
 そういわれても大半の者は首をかしげるだけだが、なかには、
「そんなことを知ってどうするのだ」
 と問い返す者もいる。不審の表情が疑惑に深まる寸前に、阿計替がさりげなく架空の事情を説明してみせた。
「天水郡公に何やら恩《おん》賜《し》のご沙汰《さた》があるとかで、姿を捜しておるのさ。天水郡公が陛下に何と御礼を申しあげるか、教えといてやらんとな」
「どんな恩賜だ」
「そんなことまで、私らのような下っぱにはわからんよ。それより天水郡公がどこにいるか教えてくれ」
「知らん」
「だったら早く、そういってくれ。時間をむだにしてしまったではないか。こちらは忙しいのだからな」
 咎《とが》めるような阿計替の口調に、金兵は不快げな表情で視線を逸《そ》らせた。阿計替の巧妙な演技で、金兵は不審を封じこまれてしまったのだ。
 閲兵式に参加する金軍の将兵の半数以上は、はじめて燕京に来たので、道に迷う者も多い。彼らの間に子温たちはまぎれこみ、関門をこえて講武殿前の広場の隅にはいりこんでしまった。
 天は子温たちのささやかな成功を冷笑したのだろうか。子温は三十万人の女真族とともに、史上に類を見ない公開処刑を見せつけられることになったのである。見せつけられたこと自体は、誰を怨《うら》みようもない。子温は招かれたわけではなかった。
 褐色の袍《ほう》を着た騎馬の一隊と、紫色の袍を着た一隊。彼らの姿が、手にとどくほどの距離を通過していったとき、子温の感じる不吉さは天に冲《とど》くほど高まった。彼らの姿は、まさしく喪門神《まがつがみ》の群に見えたのである。夢中で子温は兵士たちを押しわけ、前方へ出ようとした。怒声があがり、黒蛮竜と阿計替が懸命に彼をおさえる。そして、彼らから二百歩ほど離れた場所で、欽宗は矢を受けて殺されたのだ。
 このような残虐をあえてやる者の真意はどこにあるのか。子温には想像もつかぬ。ただ激情が沸《わ》きかえって脳を灼《や》いた。声をあげなかったのは、声帯が麻痺《まひ》したからにすぎぬ。無意識に彼の手は左腰の短剣をさぐった。その手首を、黒蛮竜の大きな手が押さえこんだ。
「公《こう》子《し》、なりませぬ。いま飛び出しても徒死《いぬじに》なさるだけでござるぞ」
 黒蛮竜の必死のささやきが、くりかえし子温の耳をたたいた。子温の激情は蒸気をなお噴きあげていたが、理性の冷風が吹きとおって、暗転していた彼の視界をふたたび明るくしていった。夏六月、白日のもと、三十万の将兵が甲冑《かっちゅう》と刀剣とを帯びて立ち並んでいる。見はるかす黄金と白銀の波が、ことごとく金兵であった。とうてい斬り破りようもない。
 黄金と白銀の波が揺れて曇った。西北からの激しい風が吹きこんで、砂《さ》塵《じん》を舞いあげたのだ。兵士たちが袖《そで》をあげ、眼をかばう間に、三人の侵入者は後退して門へと向かった。
 閲兵式はさらにつづき、数万人の兵士と数千頭の馬が踏みこえていった。首を失って地上に倒れ伏したふたりの皇帝の上を。式が終了したとき、もはや彼らの遺体は存在せず、骨も肉も皮も引き裂かれ、つぶされて、大地に溶けこんでしまったのである。

 隠れ家に帰ってきた子温たちの表情を見て、梁紅玉《りょうこうぎょく》はすべてを悟《さと》ったようであった。卓に着いた子温は口もきけぬ。どういってよいかわからず、声すら出ず、ただ両の拳《こぶし》を卓に打ちつけるだけである。黒蛮竜と阿計替がかわって事情を説明した。彼らとても完全に冷静なわけではなかったが、たがいに記憶をおぎないあって、講武殿の惨劇のほぼ全容を梁紅玉に告げることができた。欽宗が矢を受けて殺される場面になると、阿計替も涙を流してまともにしゃべれなくなった。生前の欽宗と、彼は親しく語りあった仲なのである。
「よく子温を制《と》めてくれたね。御礼をいいますよ」
 ふたりの金国人に、梁紅玉は頭をさげた。蒼ざめはしたが、平静さを失ってはいなかった。
「死を恐れぬことと、生命を軽んじることとは似て非なるものだからね。靖康帝《せいこうのみかど》をお救いできなかったのなら、つぎは生きて帝のご無念を晴らすしかない。一時の逆上で事をおこしてはならないよ、子温」
 大きく子温はうなずいた。彼自身は講武殿で闘死しても悔《くい》はなかった。だが、かつての宋の皇帝が惨殺されたとき、報復の刃《やいば》をかざす者は宋の臣以外にない。そのことは万人の目に明らかである。闘死した子温の骸《むくろ》はそのまま、宋の諜者が金に潜入した証拠となる。金主完顔亮が宋に対して侵略の兵を向ける、その口実となるかもしれなかった。後日の復仇《ふっきゅう》を期して、ひとまず退くしか、子温に選ぶ方途《みち》はなかったのである。
「逆上して、おぬしらまで巻きこむところだった。赦《ゆる》してくれ」
 子温も、ふたりの金国人に頭をさげた。
「何の、ご心情はよくわかります」
 黒蛮竜が同情をこめていう。涙を拭《ぬぐ》いながら、阿計替は欽宗のことを語った。
「私は陛下とお呼びするわけにはまいりませんので、八官人《はちかんじん》とお呼びしておりました。ご気性のおだやかな、気品のある御方でしたなあ。あんなむごい亡くなりかたをなさるとは……」
 八官人とは「八番めのだんなさま」というほどの意味である。欽宗は徽《き》宗《そう》の長男であるが、従兄弟《いとこ》たちを含めると一族の同世代で年齢が八番めであったようだ。そのことは『宋《そう》史《し》』には記述されておらず、『大宋《だいそう》宣《せん》和《な》遺事《いじ》』によって知られる。
 欽宗自身が子温に語ったように、阿計替はできるかぎりの厚意を欽宗たちにしめした。衣食住だけではない、「いつかは帰れる日が来ましょう」と励《はげ》まし、和平についての情報も探りだしては報告した。金軍に拉致《らち》されて各地に抑留されている宋国人たちと、引きあわせもした。彼が任を解かれたとき、欽宗は彼の手をとり、涙ながらに別離を惜しんだ。
 虜囚《りょしゅう》となった亡国の皇帝に親切にしたところで、阿計替には何の益もない。冗談で、復位のあかつきには恩賞をはずんでくだされ、といったことはある。だが、事実としては、虜囚に対して寛大すぎる、という理由で金の朝廷から叱責されたのが、阿計替のもらった「恩賞」であった。
「もし黒蛮竜や阿計替に会うことがなかったら、女真族すべてを憎むことになっていただろう」
 そう子温は思わざるをえない。黒蛮竜たちと知己《ちき》であればこそ、完顔亮の存在が女真族にとっても災厄である、という視点を、子温は持つことができた。黒蛮竜たちと会わぬまま、欽宗の惨殺を目撃していたら、女真族ことごとくを殺しつくしても飽《あ》きたりない心情になっていたにちがいない。
「公子、お会いになっていただきたい方がございます」
 姿勢をただして、黒蛮竜が口を開く。いろいろと彼も迷っていたが、今日の惨劇を目《ま》のあたりにして、決意するところがあったようだ。阿計替がうなずいてみせたのは、両者の間で諒解《りょうかい》がなされていたのであろう。
「おぬしらの知己か、その人は」
「知己とはおそれおおい言いかたで、それがしどもよりはるかに身分の高い方でござる」
「皇族かい?」
 梁紅玉が問うと、黒蛮竜が勢いよく答えた。欽宗の死を告げたときの沈痛さと別人のようである。
「葛王《かつおう》殿下でござる」
「いや、つい先だって趙王《ちょうおう》となられた。あの御方こそ、金国の真《しん》天《てん》子《し》となられるにふさわしい」
 阿計替の声まで弾《はず》んでいる。彼ら完顔亮に反感をいだく女真族にとって、その人物はよほど期待される存在であるらしい。阿計替はさらにいった。
「私には弟がおりまして、沙里《さり》と申します。これが趙王殿下のお邸第《やしき》におつかえしておりますれば、案内させましょう」
 子温はためらった。黒蛮竜や阿計替が善意で提案しているのはわかるが、彼はまだ金国の貴人と対面するだけの心情の整理ができていない。相手に迷惑ではないか、こちらの一方的な信頼を裏切られたらどうするか、そもそも対面したところでどのような成果が期待できるのか。即答できずにいる子温を見て、口を開いたのは梁紅玉であった。
「ではそうしておくれ。子温も手ぶらで帰国はできないからね。どのような成果を得られるか、それは子温の器量しだいだろうよ」

    二

 完顔雍《かんがんよう》の官職は東京留守《とうけいりゅうしゅ》である。金国の東京は、燕京の東北八百里(約四百四十キロ)、遼河《りょうが》の畔《ほとり》にあり、後世、遼陽《りょうよう》と呼ばれる戦略上の要地であった。当然、留守《りゅうしゅ》たる雍はそこに駐在しているわけだが、皇族として燕京城内にも邸第《やしき》をかまえている。彼の封爵《ほうしゃく》は趙王であるから、邸第は「趙王府《ちょうおうふ》」と呼ばれる。
 燕京城の大拡張工事にやや遅れて、趙王府は完成した。建てられてから二年ほどしか経過しておらず、栽《う》えられた樹木もまだ若い。建物も規模は大きいが質実な造りで、金銀|珠玉《しゅぎょく》の類は使われていなかった。百万金を費《ついや》したといわれる皇宮の壮麗さには、とうてい比較しようもない。
「おぬしと同じだ。堅いばかりでおもしろみがないな」
 そう評したのは完顔亮である。雍より一歳年長の従兄《いとこ》であり、金国の皇帝である人物だ。雍は少年のころから亮とともに四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼《そうひつ》の陣中にあり、大軍を統御《とうぎょ》する術《すべ》を学んだ。同門の弟子でもあったわけだ。
 惨劇から一夜が明けて、雍は朝から邸第の内院《なかにわ》にいる。四阿《あずまや》の椅子にすわって、卓上の葡《ぶ》萄《どう》をつまみつつ何やら考えこんでいた。この年、最初の葡萄である。この時代、燕京の周辺は葡萄を多く産したようだ。
 歴史上、葡萄をたいそう好んだ人に、三国時代の魏《ぎ》の文帝《ぶんてい》曹《そう》丕《ひ》がいる。文帝は、政治でも学問でも芸術でも、とかく口うるさい批評家であったが、こと葡萄に関しては、「残暑きびしいころ、酒を飲んだ後に新鮮な葡萄をつまむのは、じつに爽《さわ》やかな味わいだ」と絶讃している。
 雍の心境はといえば、爽やかさには遠かった。昨日の閲兵式での光景が脳裏によみがえる。三十四年を生きてきて、宮廷でも戦場でもさまざまな光景を見てきたつもりだ。煕《き》宗《そう》皇帝の、斬りきざまれて血泥《けつでい》の塊《かたまり》となった遺体に対面したこともある。だが、昨日、亡国の皇帝ふたりが殺された光景ほど、胸が悪くなるものはなかった。そして、壇上で傲然《ごうぜん》と佇立《ちょりつ》していた亮の姿も。
 ――自分を制するということができぬ人だ。
 亮に対して、そう雍は思わざるをえない。漢文化に心酔し、女色に耽溺《たんでき》し、権力にのめりこむ。何をやるにしても、亮は極端で、程度というものを知らない。
「君たらんと欲《ほっ》せば則《すなわ》ちその君を弑《しい》し、国を伐《う》たんと欲せば則ちその母を弑し、人の妻を奪わんと欲せば則ちその夫を殺さしむ」
「智は以《もっ》て諫《かん》を拒《こば》むに足《た》り、言《げん》は以て非を飾るに足る」
 とは『金《きん》史《し》・海陵本紀《かいりょうほんき》』の記述である。後者は型どおりの表現で新鮮さに欠けるが、事実、海陵こと完顔亮はそのような男であったろう。誰よりも頭脳の回転が速く、誰よりも弁舌《べんぜつ》がたくみで、それに対抗できる者などいない。自分が誰よりも優れている、と思えば、自制心がとぼしくなるのも当然であった。
 自分と亮との資質のちがいを、少年のころから雍は思い知らされてきた。漢族の学者から史学や儒学を教わったときもそうであった。
「宋においては言論をもって士《し》大《たい》夫《ふ》を殺さず」
 そう教師から聞かされたとき、雍は大きな衝撃を受けた。信じられぬ思いで、彼は問うた。
「では臣下が皇帝に対して反対を唱えても、死刑にはならぬのか」
「なりませぬ。免職とか左遷とか、さらには事実上の流刑とかはございますが、死刑になることはございませぬ」
 断言されて、雍は感歎するばかりであった。おおげさにいえば、雍はこのとき、文明とはどういうものか、ということを知らされたのである。皇帝に反対しても死刑にはならないとは!「ああ、金はとうてい宋におよばぬ」と、彼は歎息した。
 だが、同じ事実に対して、亮の考えは雍と異《こと》なった。「言論をもって士大夫を殺さず」と聞いたとき、亮は鼻先で笑ったのである。
「だから宋はだめなのだ」
 雍がおどろいて、なぜそう思うのか、と問うと、明快に亮は答えた。
「宋には党争《とうそう》が多い」
 党争とは政策や人脈を原因とする派閥抗争のことである。
「何をいっても殺される心配がないものだから、宋の士大夫どもは好きかってなことをいう。無益な口論に時を費《ついや》し、他人を責めるばかりで、自分が責任をもって行動しようとせぬ。死を覚悟せぬ言論など、国に害を与えるだけのものではないか」
 雍は返答ができなかった。かつて四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼が軍をひきいて黄《こう》河《が》を渡ろうとしたとき、宋の対応の遅れを、つぎのように笑いとばしたものである。
「宋人どもには好きなだけ議論させておけ。奴らが結論を出すころには、吾々《われわれ》はとうに黄河を渡っている」
 この発言は、完全には正しくなかった。金軍が黄河を渡ってしまっても、まだ宋の士大夫たちは議論をつづけていたのだ。議論をやめるどころか、今度はあらたな議論の種が加わった。
「見よ、お前たちが無益な議論で国を誤らせたのだ。金軍が黄河を渡ったのはお前たちのせいだ」
 たがいに罵《ば》倒《とう》し、責任を押しつけあううちに、金軍は首都|開封《かいほう》の城門に達してしまったのであった。
 亮が「だから宋はだめなのだ」と嘲笑《ちょうしょう》するのも一理ある。だが雍は思うのだ。「反対すれば殺される。意見などいうまいぞ」と廷臣たちが息をひそめているより、誰はばかることなく大声で議論しているほうが、よほどよいではないか、と。
 雍自身、すこしも安全ではない。亮の即位以来どれほど多くの皇族や大臣が殺されたか。亮は生《せい》母《ぼ》すら殺したのだ。亮の母は契丹《きったん》族で、遼《りょう》の皇族の出身であったが、息子の乱行を責めて、毒殺されてしまったのである。
 雍はさらに記憶をたどる。昨日の閲兵式の直後であった。亮は雍を皇宮の一室に呼んだ。意見を聞きたいことがある、というのである。雍は用心せざるをえなかった。亮がこの世でもっとも嫌いなのは、自分の考えに反対されることである。
 鋭い視線を雍の顔にそそぎながら、亮は問いかけてきた。
「宋で秦檜《しんかい》が死んだことは存じておるな」
「はい、聞きおよびました」
「病死だと思うか」
 亮の悪癖で、このような問いには、かならず揶揄《やゆ》の調子がこもる。臣下の智恵のていどを量《はか》ろうとするかのようだ。慎重に、雍は言葉を選んだ。
「そう聞いておりますが」
「聞くだけなら、予《よ》も聞いておる」
 唇の片端だけを、亮は吊《つ》りあげた。雍の慎重さ、用心深さが、彼は気にいらない。亮は華麗さ、大胆さを好んだ。後宮《こうきゅう》に納《い》れた蘇《ソ》埒《レツ》和《ワ》卓《タク》という女性が男遊びにふけっても処罰しなかったのは、そのぬけぬけとした大胆さが気に入ったからなのである。
 ――雍の奴は女より小心者だ。
 亮はそう思っている。
 たしかに雍はおもしろみのすくない人物ではある。彼の伝記は『金史・世宗《せいそう》本紀』に記録されているが、名君としての業績を称揚し、仁慈や倹約の精神を賞賛する記述ばかりで、読んで感心はするが楽しいものではない。笑話や失敗談などまったく書かれていない。
 これは、「つごうの悪い話はすべて抹殺したのだろう」と考えることもできるが、むしろ事実として、雍は逸《いつ》話《わ》のすくない人であったと思われる。雍は誠実と正論の人で、公人としての義務を何よりも優先させる人であった。したがって、私人としておもしろみに欠けるのは、しかたないのである。
 亮と雍とは血を分けた従兄弟《いとこ》どうしである。そして、極端に思考法も価値観もちがい、たがいをまったく理解することができなかったようだ。端的に表現すれば、奔放《ほんぽう》で利己的で陶酔癖のある天才と、堅実で苦労性で自省癖のある秀才とのちがい、ということになるであろうか。

    三

 沈黙は長くはつづかなかった。
「秦檜は暗殺されたのかもしれぬ」
 めんどうくさくなったのか、亮は言葉を投げだした。「は」と曖昧《あいまい》に応《こた》えただけで、雍としては答える術《すべ》がない。
「証拠があるのか、といいたそうな面《つら》だな。あるわけがない。あればたちどころに宋を問責《もんせき》してくれる。本朝《わがくに》にとって、最大の功労者だったのだからな」
 亮は大笑した。もったいぶった宋の士大夫たちが色を喪《うしな》い、狼狽《ろうばい》するありさまを想像すると、彼は愉《たの》しい。それは従弟《いとこ》である雍に対しても同様で、まじめくさって正論ばかり吐く雍を揶揄してやりたい気分が、つねにある。「いったいお前は何が楽しくて生きているのだ」といってやりたい気がしてならぬ。
 秦檜が暗殺された、などということを、亮自身、信じているわけではない。秦檜の死を惜しんでいるわけでもない。どうせなら騒乱の種ができたほうがおもしろい、と思っているのだ。ただそれだけのことであった。その証拠というべきであろうか、宋の丞相《じょうしょう》が暗殺された、というような重大な発言を、そのまま亮は放りだしてしまった。あらためて口を開いたときには、前兆《さきぶれ》もなく、べつの話題を持ち出す亮であった。
「契丹《きったん》人どもはしばしば謀《む》叛《ほん》をたくらむが、理由がわかるか」
「遼朝の再興を望んでのことでございましょう」
 雍の返答に、亮は濃い眉を動かし、侮《ぶ》蔑《べつ》の思いを吐きすてた。
「当然のことだ。当然のことをいうのは、何もいわぬと同じことだ」
 口調が憐《あわ》れみのそれに変わる。
「よいか、契丹人どもが遼の再興などという妄想をいだくのは、かつての皇帝が生きておったからだ。だから今日、予は海浜王《かいひんおう》を誅戮《ちゅうりく》して、契丹人どもが無益な夢に迷わぬようしてやったのだ」
 遼の天《てん》祚《そ》帝《てい》を殺したのには、りっぱな政治的理由がある。そう亮は主張するのである。たしかに一理あるかもしれぬが、結局それは口実にすぎない。なぜあのように衆人環視のなかで残忍な殺しかたをしたか。それに対して亮は答えていないのだ。さらに、天祚帝だけでなく欽宗をも殺害した理由はどこにあるのか。
「遼は滅びた。宋は江南《こうなん》で再興こそしたが、いったん滅びた」
「は、たしかに両国とも滅びておりますが」
「国が滅びたのに、なぜ奴らはのうのうと生きておるのだ。恥を知る者なら、亡国の際に自ら生命を断って、宗《そう》祖《そ》に罪を謝すべきだろう」
 宗祖とは歴代の先祖たちのことである。つまり亮は、先祖たちに代わって、不肖《ふしょう》の子孫に懲罰を与えてやった、というのだった。それが欽宗を殺した理由である、と。
 ――この人はなぜそのように漢族や契丹族の憎悪をことさら煽《あお》るような所業《まね》をするのか。
 どこまでもまじめに、雍は心を傷《いた》める。
 漢族や契丹族をあわせて三千万人以上。それをことごとく殺して女真族のみで国家を運営していくということは不可能である。憎悪の毒を薄め、融和して生きていくしかないのに。そう思いつつ、雍は、いわずにいられなくなった。
「陛下の御《ぎょ》意《い》はよくわかりましたが、天水郡公にしても海浜王にしても、すでに抑留三十年をこえ、老残《ろうざん》の身でございました。むしろ厚遇して陛下のご寛容をお示しあったほうが……」
「おぬしはいつもそうだ」
 亮の声は嘲弄《ちょうろう》のひびきを隠しおおせることができなかった。
「いつでもしたり顔で正論を唱えるが、それが役に立ったことがあるか。東昏王《とうこんおう》の例を想いおこせ。おぬしが殺される前に、おれが奴を殺してやったのだぞ」
 またしても雍は返答ができぬ。東昏王すなわち煕宗皇帝は暴虐の君主《きみ》であった。多くは酒毒のせいであろう。酒に酔って戸部《こぶ》尚書《しょうしょ》(財政大臣)宗礼《そうれい》を殺した。寝室で妃の裴満《はいまん》氏《し》を殺した。皇族の完顔元《かんがんげん》、阿《ア》懶《ラン》、達《ダ》懶《ラン》を殺した。重臣の奚《えい》毅《き》、田殻《でんかく》、邪《セイ》具《グ》膽《セン》、王植《おうしょく》、高鳳廷《こうほうてい》、王傚《おうこう》、趙益興《ちょうえきこう》らを殺した。文人の宇文虚中《うぶんきょちゅう》、高《こう》士《し》談《だん》らを殺した。彼の治世に血と酒にまみれて異臭を放つに至った。
 煕宗の暴虐を断ったのは、完顔亮がふるった弑逆《しいぎゃく》の剣である。諫言《かんげん》でもなく、正論でもなく、暴力によってのみ、恐怖政治を終わらせることができたではないか。そういう自信が亮にはあり、この絶大な自信の鉄壁に対しては、正論の矢など無力にはね返されるだけである。
 考えてみれば、天祚帝や欽宗の惨殺を正当化するために煕宗の例を持ちだすのはおかしいのだが、そのように論点をずらし、相手の批判を無効化してしまうのが亮の特技であった。まことに『金史』が評するとおりであった。「言は以て非を飾るに足る」。彼は自己正当化の、比類ない達人であったのだ。
「ところでな」
 いきなり亮は話題を変えた。彼の話は、湧《わ》きおこる乱雲さながらに、めまぐるしく変化する。多くの者は、それについていくことさえ容易ではない。
「近いうちに遷都しようと思っておる」
 雍は唖然《あぜん》とした。彼の表情を見て、亮は愉しげに笑う。沈着かつ重厚な雍がおどろきあきれるのは、亮にとってよい観《み》物《もの》である。
「燕京では帝都たるに不足とおおせられますか」
「北方にかたよりすぎる」
 その返答で、雍は自分が何かをさとったように思う。現在の金の領域からすれば、燕京が北にかたよりすぎるということはない。亮が企図しているのは、宋を完全に併呑《へいどん》して天下を統一することではないのか。それにしても、つい三年前、建国以来の旧都を棄《す》てて燕京を新都としたばかりではないか。
「では、玉座をいずれにお遷《うつ》しあそばしますか」
「開封《かいほう》だ」
 これは予測の範囲内にある回答であった。宋の旧都である開封は、中原《ちゅうげん》の経済と交通の中心地である。それに加え、かつての宋都に君臨するということは、亮の勝利感をくすぐるにちがいない。
「亮の才は器《うつわ》に過ぎるようだ」
 四《スー》太《ター》子《ツ》はそう評したことがある。甥《おい》である亮に危険なものを感じていたのだろう。才能は豊かだが、器量がともなわない。才能と感情を自分で制御することができない。人々の上に立つ者としては、大いなる欠点であろう。
 ――自分の才能は、この人の足もとにもおよばぬ。そのことを自分は嫉妬して、この人を低く評価しようとしているのだろうか。
 そこまで考えてしまうのが、雍のまじめすぎるところであった。だが、嫉妬の感情はともかく、どう考えても開封への遷都がめでたいこととは思えぬ。胸奥《きょうおう》で彼はうめいた。
 ――つい先年、燕京城を大拡張して遷都した。今度は開封に遷都して、伐宋《ばつそう》の大軍を発するというのか。そんな資金がどこにある!? すでに国庫は空《から》に近いというのに。
「資金はある」
 亮が答えた。雍は一瞬、呼吸をとめた。胸奥の想いを口に出してしまったかと恐れた。そうではなかった。亮は自分の思考の流れにしたがって発言しただけであった。
「資金はある。宋が毎年、本朝《わがくに》に献上してくる歳貢《さいこう》だ。あれを貯えて、伐宋の軍費にあてるとしよう」
 亮は笑った。悪意が結晶したかのような笑いである。
「つまり宋は自分たちを滅ぼすための軍資金を、すすんで支払うわけだ。奴らの愚かさは後世の笑いものとなるだろう。千年後に、史書を読んでみたいものだ」
 ふいに笑いをおさめて、亮は雍に問いかけた。
「本朝が毎年受けとる歳貢の額を存じておるか」
「銀二十五万両、絹二十五万匹でございます」
「それだけ巨額の歳貢を受けながら、なお金は宋より貧しい。なぜだ!? 米も茶も綿も塩も、すべて宋から買わねばならんからだ」
「それはたしかに……」
「江南を獲《と》るのは、大金国千年の計である。彼《か》の地を獲ってこそ、真の繁栄があるのだ」
 雍は即答できなかった。従兄である亮の思考法に、おいそれとはついていくことができない。「豊穣《ほうじょう》な江南の地を征服すれば、金国は富む」。そのとおりである。江南の富は、金国の国庫を埋めつくして余りあるであろう。だが、征服できれば、の話である。
 雍の思考を、亮はまるで先どりしているかのように話を進めた。
「岳《がく》飛《ひ》、韓世忠、呉《ご》※[#「王+介」、unicode73A0]《かい》はすでに亡く、劉錡《りゅうき》と呉《ご》※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]《りん》は老いたと聞く。名将ことごとく凋落《ちょうらく》して、宋軍に人材なし。百万の精鋭をもって長江《ちょうこう》を渡れば、さえぎる者もなく、杭州《こうしゅう》への道が開けるであろう」
「おそれながら……」
 必死の思いで雍は反論をこころみた。宋の名将たちが世を去ったのは事実だが、それは金も同様である。四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼の死後、十万以上の大軍を実戦で指揮統率し、万里の道を遠征できる将帥は存在しなくなった。南方、宋との国境は安定している。西方、西《せい》夏《か》との国境も同様である。北方においてのみ、遼の再興をめざす残党たちが蠢動《しゅんどう》し、蒙古《モンゴル》と呼ばれる遊牧民の集団がしばしば掠奪《りゃくだつ》行為をおこなっている。それに対して金軍が出動しても、せいぜい二、三万までの兵数だ。宮廷内の混乱ともあいまって金軍首脳部の統兵《とうへい》能力は昨今、下落する一方である。いったい何者をして、伐宋《ばつそう》百万の大軍を統帥《とうすい》せしめるつもりなのか。
「無用の心配だ」
 亮の声には揺らぎの気配もない。
「なぜなら予が親征《しんせい》するからだ」
 この日、幾度めのことか、雍は唖然とした。かつて四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼でさえ黄天蕩《こうてんとう》において宋の韓世忠に大敗し、江南の征服を断念したのだ。どうやら亮は、自分の将才が四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼をしのぐものと信じているらしい。でなければ、これほどの自信を持って断言できるものではなかった。それにしても、この自信はどこから来るのか。何が亮をしてかくも自信に満たさしめるのか。
 困惑の極に立たされて、雍は視線を室内にさまよわせた。その視線が一点に固定する。一枚の屏風《びょうぶ》が置かれていた。柳や桃などの樹木にかこまれた城市《まち》や山水《さんすい》は江南の風景であろう。その風景にかさねて、つぎのような詩句が書かれていたのである。

  提兵百万西湖上
  立馬呉山第一峰

「ああ、この人はやはり……」
 雍は知った。金国主完顔亮の野心をはっきりと知った。疑いようもない。この詩をつくった人物は、百万の大軍をひきいて、かならず宋へ侵攻していく。和平は破られる!
「兵を提《ひつさ》ぐ百万、西《せい》湖《こ》の上《ほとり》。馬を立つ、呉《ご》山《さん》の第一峰《だいいっぽう》」
 雍の視線に気づいて、高らかに亮が詠《よ》みあげた。西湖とは、杭州に接したあの西湖である。亮の詩才は尋常ではない。百万の大軍を統帥して江南を征服してくれよう、という壮麗な覇気が、虹のように雍を圧倒した。
「この人は英雄になりたいのだ」
 あらためて雍は亮の願望を確認した。
 金王朝もすでに第三世代にはいっている。太《たい》祖《そ》皇帝や太宗《たいそう》皇帝の第一世代、二《アル》太《ター》子《ツ》宗望《そうぼう》や四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼の第二世代。彼らは英雄だった。北方の暗い森のなかに住み、強大な遼に圧迫されながら、つつましく河で魚を採《と》り、砂金を集め、火田《はたけ》で雑穀《ざっこく》をつくり、熊や虎や鹿を狩って生活していた。だがひとたび起《た》って金国を興すや、十年にして遼を滅ぼし、十一年にして宋を亡ぼした。四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼は十数万騎の大軍をひきいて長江を渡り、宋の高宗《こうそう》皇帝をして海上へ逃亡せしめた。
 英雄の時代は、だが、二十数年で終わった。和約が結ばれ、平和が訪れた。金は第三世代にはいる。煕宗皇帝や亮や雍の時代である。彼らは何をしているのか。平和の世とは建設の世であるはずだ。毎年、宋から贈呈される巨額の歳貢を費《つか》って、社会の安定と国力の充実、そして文化の向上に努《つと》めるべきであった。そう雍は思っている。だが亮にとって、そのようなことはおもしろくも何ともないのであろう。片々《へんべん》たる雑事は臣下に委《ゆだ》ね、「英雄」としての大事業と快楽に専念するつもりであろうと思われた。
「燕京にはおぬしを置いておこう。おぬしに後事を委ねておけば安心だ」
 いったん口を閉ざして、完顔亮は雍の顔を見やった。
「おぬしは信用できる男だからな。宗族《そうぞく》のなかに、おぬしのような男がいてくれて、予は嬉《うれ》しく思うぞ」
「ありがたき幸せにございまする」
 かろうじて雍は口から声をおしだした。

    四

 不誠実さにおいて、よい勝負であった。そう回想を結論づけて、趙王完顔雍《ちょうおうかんがんよう》は椅子から立ちあがった。葡萄の汁を手巾《ハンカチ》でぬぐい、来《きた》るべき日のことに想いをはせる。このまま亮の欲望と恣意《しい》にまかせておけば、金国は滅びる。それを阻止できるのは雍しかいないのではないか。
「阻止せねばならぬ。だがそのためには帝を廃する以外にない……」
 雍の腹心ともいうべき人々に完顔福寿《かんがんふくじゅ》、完顔謀衍《かんがんぼうえん》、高忠建《こうちゅうけん》、廬《ロ》万《バン》家奴《カド》といった名があげられる。名から見て、高忠建は漢族か渤海《ぼっかい》人、他の三人は女真族であったかと思われる。当時の金国は多民族国家であり、皇帝の亮にしてからが母親は契丹族であった。
 完顔福寿らは、雍がいまただちに起兵するといっても従《つ》いてくるであろう。その他には? 朝廷の重臣といえば、張浩《ちょうこう》であり※[#「糸+乞」、unicode7d07]石烈良弼《きっせきれつりょうひつ》であり※[#「糸+乞」、unicode7d07]石烈《きっせきれつ》志《し》寧《ねい》である。彼らはいずれも有能であり、亮の乱行に批判的であるが、一挙に帝位|簒奪《さんだつ》ということになれば、やはりためらうであろう。そもそも現在の帝座が弑逆の結果なのだ。二代つづけて簒奪がおこなわれるとあっては、宋や西夏に対して面《めん》子《つ》がたたぬし、後世の史家に対しても恥ずかしいことである。
 雍自身にも大きなためらいがある。現在の皇帝を廃するなど、いわずと知れたこと、臣下としての大罪である。亮はあきらかに雍を危険視し、挑発しようとしているが、このまま座して死を待つか。それができぬとすれば起《た》って亮を打倒するしかないではないか……。
「大家《だんなさま》」
 そう呼ばれて雍は振りむいた。舎人《しゃじん》の沙里《さり》であった。めずらしい客人をつれてきたという。内院《なかにわ》の土の上にひざまずいたふたりの男を見て、雍の表情がわずかに変わった。沙里に声をかけ、他の者を通さぬよう命じる。一礼して沙里は立ち去った。
「おぬしは黒蛮竜であろう」
 さらに左右を確認してから、雍は客人のひとりに低い声をかけた。
「一別以来でございます、殿下」
 緊張のうちに旧懐の思いをこめて、黒蛮竜は拝《はい》跪《き》した。歩み寄って、立ちあがるよう雍はうながした。
「よく来てくれた、といいたいところだが、官憲に追われる者が堂々とわが邸第《やしき》にはいってくるようでは困ったものだな」
 これは冗談だが、雍は日ごろ諧謔《かいぎゃく》とは無縁の人と思われている。黒蛮竜はむきになった。
「お言葉おそれいりますが、それがし、天にも地にも恥じるところはございませぬ。かの弑逆者たる完顔亮を憎みますのも、かの者が人倫《じんりん》にはずれること甚《はなはだ》しいからでございます」
「かの御方は、本朝の天子におわすぞ」
 雍はたしなめたが、声には力強さが欠けた。
「このままでは大金国は滅びまする!」
 黒蛮竜のほうは声を張りあげ、あわてて口をおさえた。国の滅亡を広言するのは大罪である。彼はすでに官を棄《す》てて賊となった身だが、雍を巻きこむわけにはいかぬ。否、趙王府へはいった以上、必然的に巻きこむことになってしまうが、それを他人に知られるわけにはいかぬのだ。
「その御《ご》仁《じん》は?」
 雍が問う。黒蛮竜は後ろを振りむき、ひざまずく若い男を紹介した。
「されば、この御仁を殿下にお引きあわせしようと存じ、かくは参上いたしました。宋の通《つう》義《ぎ》郡王《ぐんのう》・枢密《すうみつ》使《し》たる韓良臣《かんりょうしん》どののご子息にて、子温どのと申されます」
「韓良臣?」
「良臣は字《あざな》にて、姓を韓、名は世忠と」
「おお、わかった」
 雍は大きく瞠目《どうもく》した。子温にむけて漢語で話しかける。
「黄天蕩でわが軍を大破したあの韓元帥か。すると母君はあの梁女将軍《りょうじょしょうぐん》……」
 黄天蕩の戦いのとき、雍はまだ八歳であったから、従軍はしていない。だが、いかに壮絶な戦いであったか、雍は幾度も話に聞いている。当時、金軍の主力であった兵士たちは現在、ほとんど五十歳をすぎて初老の域にはいっていた。
「咯咯咯《タンタンタン》! 咯咯咯咯咯咯!」
 そう兵士たちは宋の軍《ぐん》鼓《こ》のひびきを口で再現してみせ、あのひびきを夢裡《むり》に聴《き》いて夜半にはねおきたことがある、と告白するのであった。また、河霧のなかから忽然《こつぜん》として出現した梁紅玉の軍旗、それに記された五つの文字について、印象のあざやかさを語る兵士もいた。

  夫戦勇気也

 夫《そ》れ戦いは勇気なり。「戦いは勇気あってこそのものだ」とでもいう意味になる。味方の大敗に終わった戦いではあるが、兵士たちの話は少年であった雍の胸を躍らせた。もっとも精彩に満ちた話をしてくれたのは、雍の初陣以来、十年にわたって補佐の任にあたった黒蛮竜であった。
 両親の名を出されて、むしろ子温は恥じいった。
「不肖《ふしょう》の子でござる。父母の名を辱《はずか》しめるばかりにて……」
 彼がそういうと、雍の両眼に、短くだが鋭く閃光がよぎった。
「天水郡公をお救いに参られしか?」
 雍の声は穏和だが、剛弓から放たれた矢となって、子温の胸を射《い》た。無言のまま、ただ子温は金国の皇族の顔を見やったのである。一歩、子温のほうへ歩みよって、雍は語をつづけた。
「昨日のこと、何と申しあぐるべきか、言葉もござらぬ。金国人が何をいうか、とお思いであろうが、後日の修好のため、謝罪を容《い》れていただければ幸いでござる」
 その表情を見、その声を聴いて、子温は自分の「成果」をさとった。それは容易に得がたいもの、つまり将来への期待であった。
 

 

 

 

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