紅塵

紅塵的背景是在南宋年代﹐開場在靖康之難後十幾年﹐千古罪人秦檜去世﹐宋高宗正式掌握國權..

 

作者:田中 芳樹


目 次

 第一章 江南《こうなん》冬《とう》雨《う》
 第二章 密命
 第三章 黄天蕩《こうてんとう》
 第四章 渡河
 第五章 燕京《えんけい》悲歌《ひか》
 第六章 趙王府《ちょうおうふ》
 第七章 莫《ばく》須《す》有《ゆう》
 第八章 前夜
 第九章 采石《さいせき》磯《き》
 第十章 長江無尽《ちょうこうむじん》
 

 


第七章 莫《ばく》須《す》有《ゆう》


    一

 風が激流となって峡谷を吹きぬけていく。
 宋《そう》の紹興《しょうこう》二十六年(西暦一一五六年)十一月末。秦嶺《しんれい》山脈の冬は、風に舞う粉雪とともに深まりつつあった。
 秦嶺山脈は中華帝国の西方に位置する長大な山岳の群である。北方には長安《ちょうあん》をいだく関中《かんちゅう》平野、南方には漢中《かんちゅう》盆地と四《し》川《せん》盆地。東西の長さは六百里(約三百三十キロ)にもおよび、大陸の南北をへだてる自然の壁であった。山脈の南では雨が多く、気候は温和で、米や柑子《みかん》を産し、野には竹が生《は》える。北は乾燥して冬はことに寒く、緑も比較的すくなくなる。
 自然の壁はまた、政治と軍事における長城であった。中華帝国が南北に分裂するとき、秦嶺はその境界となって、しばしば大軍が山道をこえ、苛烈な戦闘がまじえられ、人馬の声と刀槍のひびきとが峡谷にこだました。とくに三国時代には魏《ぎ》と蜀漢《しょくかん》との執拗《しつよう》な攻防戦が展開され、司馬《しば》仲達《ちゅうたつ》と諸葛孔明《しょかつこうめい》にかかわる古戦場が各地に遺《のこ》されている。
 同時に多いのは、宋金両軍の古戦場である。大陸全土の制圧をめざす金軍と、それに抵抗する宋軍との戦闘は、幾度もくりかえしおこなわれ、多くの血を流し、それにともなう物語を生んだ。もっとも有名な戦場は和尚原《わしょうげん》であり、饒風嶺《ぎょうふうれい》、武休関《ぶきゅうかん》、仙人関《せんにんかん》、百通坊《ひゃくつうぼう》などがそれに次ぐ。
 紹興二十六年は表面的には和平の時代であったが、この地方を防衛する宋軍はつねに臨戦態勢にあって金軍の侵攻にそなえていた。その警戒網にかかった者がいる。警戒の笛が鳴り、やがて監視用の石塁《せきるい》に連行されてきたのは、服に薄く雪をつもらせたふたりの旅人であった。それぞれ馬に乗った老婦人と青年、そして荷物をつんだ驢馬《ろば》である。彼らは山道で何か燃やしており、その煙を発見されたのである。
 彼らの身分と名を問い質《ただ》した兵士たちは、にわかにそれまでの態度をあらため、護衛と案内役をつけて彼らを成《せい》都《と》へと送り出したのであった。

 成都は三国時代、蜀漢の首都となった。唐《とう》の時代には、首都長安を賊軍に追われた皇帝が、安全なこの土地に避難してきた。唐の滅亡後には前濁《ぜんしょく》、後蜀《こうしょく》というふたつの王朝が、この地を王城とした。後蜀の時代、ときの国主が芙《ふ》蓉《よう》の花を好み、全城をこの花で埋めつくしたため、「芙蓉城《ふようじょう》」の異名が生まれた。また古代より良質の錦《にしき》を産したため「錦城《きんじょう》」とも呼ばれる。
 宋の時代には四《し》川《せん》宣《せん》撫使《ぶし》の本拠地となった。この広大な地方は、成《せい》都《と》府路《ふろ》、梓州《ししゅう》路などいくつもの行政区に分かれていたが、四川宣撫使はそのすべてを統轄しており、いわば総督として巨大な権限をにぎっていた。前任の四川宣撫使は不敗の名将|呉《ご》※[#「王+介」、unicode73A0]《かい》、その死後は正式にではないが弟の呉《ご》※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]《りん》が宣撫使の職務をつとめている。
 秦檜《しんかい》が岳《がく》飛《ひ》を殺したとき、そのやりくちに嫌悪と恐怖をいだきつつも、朝廷の文官たちは結果を受けいれた。強大な傭兵《ようへい》部隊はことごとく解体され、権力は文官の手に帰した。「学問も教養もないくせに、武勲を盾にそっくりかえっていた武官ども」は姿を消した。
 ただひとつ残された主戦派武将の勢力は、「四《し》川《せん》王《おう》」呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]だけであった。
 呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]の官位は秦鳳路経略《しんほうろけいりゃく》安《あん》撫使《ぶし》といい、いわば西北方面軍司令官というところである。だが軍事と行政において、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]の実権は、後世でいう四川省の全域と陝西《せんせい》省南部、甘粛《かんしゅく》省南部におよんでいた。それは三国時代の蜀漢帝国の領土にほぼかさなる。まさしく「四川王」と称されるにふさわしかった。後には呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は正式に四川宣撫使となり、死後は信王《しんおう》の称号を受ける。
 韓世忠《かんせいちゅう》の未亡人|梁紅玉《りょうこうぎょく》の名を聞いた呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は、喜んでこのめずらしい客人を邸第《やしき》に迎えた。
 阿母《かあちゃん》もたいしたものだ、と子《し》温《おん》はいまさら思わざるをえない。秦嶺の山中で監視の兵に発見された謎の旅人とは、この母子であった。彼らは夏、燕京を出発し、黒蛮竜《こくばんりゅう》と同行して金国領を横断した。そして秦嶺の北で黒蛮竜と別れ、宋国領にはいったのである。黒蛮竜を同行させ、通行証まで用意してくれたのは、趙王完顔雍《ちょうおうかんがんよう》であった。
「よう来られた、梁女将軍《りょうじょしょうぐん》」
 この年、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は五十五歳である。実際の年齢よりさらに年長に見え、灰白色の髪や髭《ひげ》に老将の風格がある。字《あざな》は唐卿《とうけい》。少年のころから勇敢で騎《き》射《しゃ》にすぐれ、兵書を愛読したという。
 呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]の兄は呉※[#「王+介」、unicode73A0]という。兄弟そろって「抗金名将《こうきんのめいしょう》」と呼ばれる名誉をになう。呉※[#「王+介」、unicode73A0]の字は晋卿《しんけい》。呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]より九歳の年長であった。
 呉※[#「王+介」、unicode73A0]はまだ字も待たない年齢のころから従軍して戦功をかさねた。主として西《せい》夏《か》との戦いだが、方臘《ほうろう》の乱に際しても従軍したから、どこかで韓世忠とめぐりあったかもしれない。呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]も兄にしたがって戦場を駆けまわった。そのうち文官で対金主戦派である張浚《ちょうしゅん》に、兄弟そろって才能を認められ、以後、四川に侵攻してくる金軍との戦いに生涯をかけた。
 金の将軍|撒離喝《キリカ》はあるときの戦いで呉※[#「王+介」、unicode73A0]に惨敗し、泣きながら逃げたので、あきれた金兵たちが彼を「啼哭郎君《なきむしとのさま》」と呼んだ、などという話もある。
 呉※[#「王+介」、unicode73A0]・呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]の兄弟が勇名をとどろかせたのは、和尚原《わしょうげん》の大会戦であった。
 宋の紹興元年、金の天会《てんかい》九年、西暦一一三一年。呉※[#「王+介」、unicode73A0]は三十九歳、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は三十歳という少壮である。この年、金の四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼《そうひつ》は十万の大軍をひきい、秦嶺山脈をこえて四川の地に侵攻しようとした。
 四川は長江《ちょうこう》の上流にある。この地を占拠して軍を再編成し、補給をととのえ、長江の流れにそって東進する。これは八百五十年前、晋《しん》が呉《ご》を滅ぼして天下を統一したときの戦略であった。
 英気と闘志にみちた宗弼は、晋の壮大な戦略を再現し、一挙に宋を滅ぼして天下統一をなしとげるつもりである。
「金の四《スー》太《ター》子《ツ》」と聞けば、泣く子もだまる。だが四川の地理に精通した呉兄弟は怯《ひる》む色を見せなかった。
「金軍は、われわれに対して四つの点でまさっている。第一に騎兵が優秀であること。第二に兵士が堅忍《けんにん》不《ふ》抜《ばつ》であること。第三に甲冑《かっちゅう》の質がよいこと。第四に弓矢の性能がよいことだ。だが、それらの長所は同時に短所ともなる」
 そして彼らは言い放った。
「おれたちが四川に在《あ》るかぎり、金軍に寸《すん》土《ど》も侵《おか》させはせぬ」
 決意と自信に満ちて、呉兄弟は四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼の襲来を待ち受けたのであった。だが、このとき、呉兄弟がひきいる兵は六千にすぎない。彼らはまだ若く、さほどの名声もなく、四川全土は四《スー》太《ター》子《ツ》の雷名《らいめい》に慄《ふる》えあがっていた。四川全土をあげて金に降伏しようという動きすらあったのだ。
 十月。ついに戦いがはじまった。
 金軍の先鋒は烏魯折合《オルチハ》、孛菫哈哩《ブキハリ》の二将軍であったが、宋軍が後退するのを見ると、勢いに乗って急進した。錯綜《さくそう》する山岳や峡谷を駆けぬけて宋軍に追いついたのだが、突如として後方に宋軍の別動隊が出現し、背後から雨のごとく矢をあびせかけた。あわてて金軍は引き返そうとしたが、狭い山道では自由に動けぬ。混乱するところへ、呉※[#「王+介」、unicode73A0]が馬を飛ばして山上から駆け下り、一刀のもとに孛菫哈哩《ブキハリ》を馬上から斬って落とした。烏魯折合《オルチハ》は逃げた。
 敗報を受けて怒った四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼は、自ら軍をひきいて和尚原に陣を私いた。四川攻略に関して、四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼は充分に準備をととのえていた。河には浮梁《うきはし》をかけ、道には五里ごとに石塁を築いて警備と補給の中継点とした。この石づくりの塁《とりで》は、数百里にわたって、あたかも首飾りの珠《たま》のように連《つら》なったので、これを「連珠営《れんじゅえい》」と称した。黄天蕩《こうてんとう》で大敗した後、これだけの準備を短期間に成しとげた宗弼の力量は、非凡というしかない。
「いよいよ四《スー》太《ター》子《ツ》自身が来るか」
 恐怖よりも、むしろこころよい緊張をもって、呉兄弟は出陣した。出陣したときには、勝利のためにすべての準備がととのっている。和尚原から秦嶺の山深くまで、あらゆる山、峡谷、道、川、森、断崖に罠《わな》がしかけられていたのだ。和尚原は高原状の土地だが、山が迫っており、十万の大軍を展開するにはやや狭い。
 起伏に富んだ高原で、両軍は激突した。両軍の総帥たる宗弼と呉※[#「王+介」、unicode73A0]とが、たがいに槍をふるって一騎打におよび、撃ちあうこと三十合に達したが勝負がつかぬ。その間に呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]はたくみな指揮で戦いつつ軍を後退させた。兄弟は呼吸をあわせて金軍を高原から山間へと引きずりこんだ。逃げる宋軍を追撃して金軍が進んでいくと、樹木が生《お》いしげった険《けわ》しい山の上に数百の軍旗がたなびいている。
 金軍は山麓《さんろく》を包囲し、持久戦の態勢をとる。だが山上の部隊は囮《おとり》だった。呉※[#「王+介」、unicode73A0]と呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は山中の間道《かんどう》を疾駆して金軍の後方にまわりこみ、日没寸前の時刻に補給部隊を襲って火矢を放ったのだ。初冬、乾燥した季節である。たちまち糧秣《りょうまつ》は燃えあがり、峡谷を吹きわたる強風にあおられて樹木にまで火がついた。風と炎の音がとどろき、夕闇の一角が深紅に染まって、金軍を驚倒させる。あわてて引き返すところへ、山上の部隊が逆《さか》落《お》としに攻めかかった。さらに各処の山や谷にひそんでいた伏兵がいっせいに起《た》ち、せまい山道にひしめく金兵めがけて矢と火矢の雨をあびせる。石を投げ落とす。火につつまれた金軍の人馬が、つぎつぎと断崖から谷底へ転落していくありさまは、おそろしくも異様な美しさであったという。必死に軍を統御しつつ宗弼は後退していった。
 夕闇と炎が交錯するなかで、その姿を呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]が見つけた。
「四《スー》太《ター》子《ツ》を討ちとれ! 奴を斃《たお》せば金賊はおのずと潰《つい》えるぞ」
 そう叫ぶと、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は馬上で弓を引きしぼり、宗弼めがけて射《い》放《はな》した。矢は流星のように飛んで、宗弼の左腕に命中した。宗弼は大きくよろめいたが、落馬をこらえて馬を走らせた。馬は名馬|奔龍《ほんりゅう》である。けわしい山道を走ること平原を往《ゆ》くような速さであった。ついに呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は追いつけず、くやしさのあまり馬上で弓をへし折ったという。一年前の韓世忠につづいて、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]もまた歴史を変えそこねたのであった。
 かろうじて戦場から脱出したものの、宗弼も意気消沈するほどの大敗であった。一夜にして戦死者は二万をこえ、峡谷に墜《お》ちたまま行方不明になった者も一万人に達した。黄天蕩につづく四《スー》太《ター》子《ツ》惨敗の記録がこうして生まれた。
 これらの記録を見ると、宗弼の戦歴は敗北の連続であり、「どこが不世出《ふせいしゅつ》の名将か。負けてばかりではないか」とも思われる。だが、これらの戦いで、勝った者は韓世忠や呉※[#「王+介」、unicode73A0]など複数だが、負けたのは宗弼ひとりである。勝った者は、「あの四《スー》太《ター》子《ツ》に勝った」と名誉にした。弱い無能な敵に勝っても名誉にはならないのだ。
 逆にいえば、岳飛、韓世忠ら宋の名将たちが寄ってたかって、宗弼ひとりと互角に戦っていた、ともいえるのである。東は長江の河口から西は黄《こう》河《が》上流まで、宗弼の行動範囲は両国の国境線すべてにおよび、距離にすれば数万里になるであろう。彼の力量を過小評価することは、とうていできない。
 和尚原の戦いにおいて大勝利をおさめたことは、宋軍にとって大いなる自信となった。「天険《てんけん》に拠《よ》って堅く守れば金軍は恐るるにたりぬ」と兵士たちは思った。一年前の黄天蕩の会戦は、宋軍が水上戦で金軍より強いことを証明した。今度は山岳戦でも勝てることが証明されたのだ。
「四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼は宋兵に追いつめられ、自分の髯《ひげ》を切り落として容貌を変え、かろうじて逃れた」という噂が流れ、宋の将兵は気分をよくした。この話は、後に『三国志演義』に取りいれられてさらに有名になった。ただし、自分の髯を切り落として逃げたのは馬超《ばしょう》に追われた曹操《そうそう》ということになっている。

    二

 なお生きていれば、呉※[#「王+介」、unicode73A0]はさらに多くの武勲をたて、威名をとどろかせたにちがいない。ところが四十代も半ばになって、呉※[#「王+介」、unicode73A0]はいちじるしく好色になり、成都の内外で美女を集めるいっぽう、あやしげな精力剤を飲むようになった。このため急速に健康を害し、大量に血を吐いて死んでしまった。紹興九年(西暦一一三九年)のことで、呉※[#「王+介」、unicode73A0]は四十七歳であった。
 残念ながら詩的な最期とはいえないが、彼の早すぎる死は多くの人に惜しまれた。
 呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]の兄呉※[#「王+介」、unicode73A0]はかつて岳飛と親しく語りあい、意気投合した仲である。岳飛の惨死を知って、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]に怒りかつ慄然《りつぜん》とした。ついで韓世忠が宮廷を去った。劉錡《りゅうき》も杭州臨安府《こうしゅうりんあんふ》を追われた。あいつぐ兇報に、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は歯ぎしりして秦檜の専横《せんおう》をののしったが、彼ひとりではどうすることもできなかった。兄が岳飛より二年早く死んだのが惜しまれた。
 かくして呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は自分の根拠地である四川地方にたてこもり、そこを動かぬようになった。四川を金軍が攻撃してくれば、智勇のかぎりをつくしてそれを撃退する。だが四川から出て戦うことはしない。また、宮廷から招かれても杭州臨安府には行かぬ。そう決めた。彼が高宗《こうそう》に謁見するのは秦檜の死後である。
 呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]には、国を愛する心も朝廷を思う心もある。だが岳飛のような目にあうのはまっぴらであった。大軍を擁《よう》して四川にたてこもっていれば、無実の罪で虐殺されるようなことはないであろう。呉※[#「王+介」、unicode73A0]とともに、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は和尚原で金軍を撃滅した。それ以後、一度も敗れることなく四川を守りつづけ、生きながら武神として崇敬《すうけい》されている。
 呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は行政家としてもすぐれており、古代の用水路を修復して広大な耕地を開き、民衆に喜ばれた。ただ剛勇を誇るだけの人物ではなかった。兵士も民衆も、彼のもとで安《やす》んじていられた。
 呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]の判断は正しかった。有力な武将をことごとく追放し、宮廷で専横をほしいままにする秦檜も、四川の地には指一本ふれることができなかった。呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]を屈伏させるためには、大軍をもって四川へ進攻せねばならぬ。だが四川は天然の要害であり、用兵の天才たる呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]が地の利を生かして防御すれば、五年や十年は持ちこたえるであろう。まして、秦檜自身の手で岳飛を殺し、韓世忠を追放したいま、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]と互角に戦える武将など存在しないのだ。
 さらには、四川を討つために宋軍が出動し、長江下流域が空《から》になれば、北方の金国が南下の野心に駆られるであろう。たしかに和約を結んではいるが、それが永遠のものでないことは万人《ばんにん》が知っている。長江は自然の偉大な防壁ではあるが、だからといって軍隊を配置せずにおけるものではない。
 また、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]が四川にこもって独立を宣言し金国と同盟を結んだりしたらどうなるか。四川は広大で豊かな土地であり、過去に幾度も独立国家が形成されている。しかも、長江の最上流に位置しているのだ。そこから呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]が船団を編成して一気に長江を下ったとすれば、同時に金軍は長江を渡って攻めこむであろう。南宋は北と西の二方面から攻撃され、破滅するしかない。
 むろん呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]はそこまでする気はなかった。彼はどこまでも「宋の呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]」として名を残したかったのだ。だが秦檜の魔手に対して、つねに対抗策を用意しておく必要があった。
 抗州から遠く四千里(約二千二百キロ)をへだてながら、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は秦檜の正体を的確に見ぬいていた。岳飛の惨死が、彼に大いなる教訓を与えたのだ。秦檜に道理や正論は通用しない。そして秦檜は負ける|けんか《ヽヽヽ》は絶対にしない男だった。つまり秦檜と互角以上の力を持つ者だけが、誇りを失うことなく地位を保《たも》っていけるのである。
 そして呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は自分をよく知っていた。用兵と統率において屈指の名将であり、四川全域を統治する能力もある。だが宮廷において秦檜と権謀《けんぼう》を競《きそ》う手腕はなかった。あの岳飛でさえ、秦檜の奸智の前には幼児のごとく無力であった。四川の天険と、万里の距離とが、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]を守ってくれるであろう。
 そして十五年。この間、宋と金との間に和平は保たれたが、四川においては北方の守りが解かれることはなく、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は北方の空をにらんで年をかさねていったのである。かつて四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼を騎射の的《まと》とした少壮の勇将も、いまは初老となっていた。
 梁紅玉の口から、金国へ潜入した事情を聞いて、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は感歎した。むろん梁紅玉は事情のすべてを語ったわけではなく、慎重に、話すべきことを選んだ。それでも呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]の血を騒がせるには充分であった。
「ようもしでかされたものだ。わしも老いを歎《なげ》いてはおられぬ。女将軍に倣《なら》わせていただくとしよう。それにしても、靖康帝《せいこうのみかど》は何とおいたわしい……」
 ひとしきり死者を悼《いた》んでから、表情が変わる。最前線に立つ武将の表情である。
「だが容易ならぬことだ。金主完顔亮《きんしゅかんがんりょう》はたしかに侵略の意思を持っておるのか」
 呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]も、信頼できる諜者を金国に潜入させて、情報を収集している。地理的な条件から、金国の西部に関する情報が中心であった。遼《りょう》の残党や西《せい》夏《か》の動きについても調査している。その結果、帝国中枢部の統制力が弱まっていることは推測できた。小さい叛乱《はんらん》が続出し、金軍が出動しても根絶できずにいるのである。
 金国内で何かがおこりつつある。それは確実であったが、金の朝廷内で具体的に何がおこっているか、知りようがなかった。その事情を子温たちは探ってきたのである。
 金国内で大規模な馬の徴発がおこなわれていること、軍隊の動き、軍用道路の建設、それらを語った後、子温は、趙王完顔雍《ちょうおうかんがんよう》から教えられた詩句を紙に書いて呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]に示した。金主完顔亮の作である。
「兵を提《ひつさ》ぐ百万、西《せい》湖《こ》の上《ほとり》。馬を立つ、呉《ご》山《さん》の第一峰」
 その詩句を見て、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は低くうめいた。あまりにも壮大な覇気の表現であり、あまりにも直截《ちょくせつ》な野心の表明であった。
「金主完顔亮は紙上にではなく地上に英雄の詩を書きたがっております。というより、そうせずにいられないのです」
「うむ、たしかに」
 大きく息を吐きだす呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]だった。
「疑問の余地もない。金主はまちがいなく南征《なんせい》の軍を起《おこ》すだろう。問題は、それがいつかということだが、女将軍には何ぞ存念《ぞんねん》がおありか?」
 問われて、考えつつ梁紅玉は答える。
「明年すぐにも、ということはございますまい。百万の軍を動かすまでには、二、三年の時《じ》日《じつ》が必要でしょう。まして遼の残党が大規模な叛乱をおこすとすれば、さらに一、二年はかかります。合計四年というあたりかと存じます」
「なるほど、わしもそう思う」
 うなずく呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]が嬉《うれ》しげに見えるのは、同じ時代を生きて戦いぬいた者どうしの紐帯《ちゅうたい》のゆえであろうか。母の傍で子温はそう思った。
 ――それにしても、ただひたすら金国の滅亡を願うのであれば、むしろ趙王完顔雍をこそ殺すべきではなかったか。
 その疑問が、子温の胸にわだかまっている。雍の人格に敬意をはらいつつも、そう思えてならないのだ。もし雍が帝位に即《つ》けば、金帝国は破滅の淵から立ちなおり、北方に揺るぎなき国《こく》威《い》をそびえたたせるのではないか。そうなれば、失われた領土を回復するという宋王朝の悲願は、永く実現しないであろう。完顔亮が暴走し、人の形をした狂風《きょうふう》となって金国内を荒れくるい、彼に取ってかわるべき者が誰もいない。そのような状態で金国が自壊していくことこそ、宋にとっては望ましいことではないか。
 そう思いつつ、同時に子温は想いおこす。彼ら母子を助けてくれた黒蛮竜《こくばんりゅう》や阿《あ》計替《けいたい》の顔を。彼ら母子のために通行証を用意してくれた雍の顔を。秦嶺の山中で、その通行証を、子温たちは焼きすてた。
「無用のものになったら焼きすててくれ」
 それが雍の出した唯一の条件であった。子温らが金兵にとらわれたら、むろん困ったことになる。また通行証が宋軍の手に渡ったら、それが偽造され、金国内で宋の諜者を横行させることになり、金国人である雍には耐えがたい。だから焼きすててほしいのだ。そう説明されて、子温は雍の思慮に感歎したのだった。彼らが秦嶺の山中で焼きすてたのはその通行証であり、その煙によって彼らの所在が呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]の軍に発見されることになったのである……。
「四川はわしが守る。金兵の靴一足たりとも踏みこませはせぬよ」
 力強く呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は約束した。四川を訪れた子温たちの目的は、これで果たされたといえる。もともと彼らが西まわりで帰国した理由はいくつかあった。東方国境からの逃亡者が増えて、そちらの警備が強化されたこと。来た道をそのまま帰るよりべつの路《みち》をたどるほうが、より広く金国内のようすを探れること。若き日の韓世忠が活躍した西方の風土を見たいと梁紅玉が望んだこと……。とりわけ、四川の呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]に会って金軍侵攻の可能性を話しておくことは、今後の対金戦略の立案《りつあん》に、きわめて大きな意味を持つものだったのである。
 この年十二月二十九日、子温と梁紅玉は成都を離れた。有名な万里橋《ばんりきょう》のたもとから船に乗り、岷江《びんこう》を下って長江の本流にはいり、水路で抗州まで向かうのである。これがもっとも安全で、しかも速い旅の方法だった。
 万里橋には三国時代の故事《こじ》がある。諸葛孔明は腹心の部下|費※[#「ころもへん+韋」、unicode8918]《ひき》が国使として呉《ご》へおもむくのを見送り、「万里の道、ここより始まる」と告げた。ただ距離が遠い、というだけではなく、費※[#「ころもへん+韋」、unicode8918]がおこなう外交交渉の困難を思いやってのことである。蜀漠は単独で魏に対抗することはできず、呉との同盟が成立しなければ国が滅びるのだ。悲壮な出立《たびだち》であったが、費※[#「ころもへん+韋」、unicode8918]は飄々《ひょうひょう》として笑顔で船に乗り、ついに同盟を成立させたといわれる。
 成都の空は雲が低くたれこめ、微風は温かく湿っていた。何分《なにぶん》にも非公式のことなので、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は子温らを見送ることはしなかったが、四川を出るまで三名の部下をつけて護衛と案内をさせてくれることになった。厚意を謝しつつ、子温たちは船上の人となった。
 あとは身を船にまかせて万里の長江を下るのみである。杭州に着くのは年が明けて二月ないし三月というところか。江南《こうなん》は春深く、花と緑のただなかにあるだろう。
 ――今日は十二月二十九日か。
 その日付には、子温の記憶を鋭く剌すものがあった。それは十五年前のことである。子温の父韓世忠の戦友である岳飛が無実の罪でとらえられ、二ヶ月にわたる拷問の末に殺されたのが十二月二十九日であった。

    三

 惨劇が生じたのは宋の紹興十一年(西暦一一四一年)冬のことである。
 ときの丞相《じょうしょう》秦檜は最終的な決断を下した。金国と和平する、そのためにじゃまになる岳飛を殺す。
 かなり皮肉な形で、和平は困難になりつつあった。岳飛、韓世忠らの奮戦によって、宋軍は各地で金軍を撃破し、勢いに乗っている。一方、金国では事実上の最高指導者である大《ター》太《ター》子《ツ》宗幹《そうかん》が急死して内紛が生じ、また遼の残党が大規模な叛乱をおこしていた。いまや金国のほうが和平を必要としていたのだ。機を逃せばずるずると戦争状態がつづくことになりかねない。
 この時期、対金和平を成立させるためには、三大将帥の同意が絶対的に必要であった。張俊《ちょうしゅん》、韓世忠、そして岳飛の三名である。張俊は最初から和平に賛成であった。もともと盗賊あがりであった張俊は、戦争を利用して巨億の富を手中にし、これ以上戦う意欲を失っていた。韓世忠は、両宮《りょうきゅう》(徽《き》宗《そう》上皇と欽宗《きんそう》皇帝)および領土の返還が実現せぬかぎり、和平に反対であった。だが、高宗皇帝から「和平は予《よ》の意思である」といわれると、不満をおさえて和平に同意せざるをえなかった。和平が成立すれば、領土はともかく両宮は返されるであろう。
 問題は最後のひとりである。岳飛は和平に対して徹底的に反対をつづけていた。彼は原則論者であったから和平に反対したのだが、鋭敏な感覚で、秦檜が推進する和平案にいかがわしさを感じてもいたのだ。いま和平を必要としているのは宋よりもむしろ金であり、金の指導部と密《ひそ》かに結託した秦檜自身ではないのか。
 まだ三十代の岳飛が、韓世忠をすらしのぐ宋随一の名将として、どれほどの武勲をあげてきたか。例をあげれば際限がない。農民の家に生まれ、二十歳で義勇軍の隊長となった。徽宗や欽宗の御宇《みよ》には、もっぱら各地の賊徒を討伐して功績をあげた。金軍が侵入してくると、黒竜潭《こくりゅうたん》や※[#「堰のつくり+おおざと」、unicode90FE]城《えんじょう》などでかがやがしい勝利をあげた。洞庭《どうてい》湖《こ》で強大な勢力を誇っていた賊軍を、単独で滅ぼした。わずか八百の兵で五万の敵を撃破したこともある。深く金国の領土に進撃して、かつての首都|開封《かいほう》の近くにまで迫ったこともあった。彼のひきいる部隊「岳《がく》家《か》軍《ぐん》」は金軍に恐れられ、「山を憾《うご》かすは易《やす》し、岳家軍を憾かすは難《かた》し」とまでいわれたのである。
 岳飛の字《あざな》が鵬挙《ほうきょ》というのも有名である。名は親からもらうものだが、字は成人の証《あかし》として自らつけるものである。「鵬挙」という字はあきらかに「飛」という名に対応するものであった。「飛びたつ鵬《おおとり》」と自称するところに、岳飛の強烈な自負《じふ》を見ることができる。
 韓世忠の字は良臣《りょうしん》である。名の「忠」と字の「臣」とが対応しているが、直接すぎてあまり芸はないようだ。
『三国志』の登場人物でいえば、趙雲《ちょううん》の字は子竜《しりゅう》で、名の「雲」と字の「竜」とが対応している。諸葛|亮《りょう》の字を孔明というが、「亮」と「明」はともに「あきらか」という意味である。また随《ずい》の名将|薛世雄《せつせいゆう》は字が世英《せいえい》で、名と字とに共通の文字が使われていた。本名とまったく無関係の字はまず存在しないので、字を「表字《ひょうじ》」ともいう。兄弟順がわかるときもある。字に「伯」とついていれば長男で、「仲」とついていれば次男である。
 岳飛の軍旗を見ただけで金軍が撤退するということも何度かあって、総帥である四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼を歯ぎしりさせたものであった。
「一に岳|爺爺《やや》、二に韓世忠」
 とは、宋の将軍たちに対する金軍の評価だった。韓世忠は岳飛より十歳以上も年長であったが、岳飛の華麗な名声には一歩およばなかった。というより、誰も岳飛にはかなわなかったのだ。宋軍の諸将のなかで、岳飛はもっとも若く、もっとも才能に富み、もっとも雄弁で、もっとも実績があった。そのすべてが他の将軍たちにとっては不快の種であった。
「岳将軍はとにかく自信が強くてね。自分以外の将軍はみな無能だと思ってたんだよ」
 梁紅玉でさえ苦笑まじりにそう評するほどであった。同僚の将軍たちのなかで、岳飛に好意的だったのは、韓世忠と呉※[#「王+介」、unicode73A0]ぐらいのものである。岳飛が無実の罪で殺されたとき、韓世忠は激しく秦檜に抗議して宮廷を去った。呉※[#「王+介」、unicode73A0]はすでに死去し、その弟呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は遠く数千里をへだてた四川の北方で金軍と対《たい》峙《じ》しており、動くに動けなかった。
 岳飛は詩や文章でも一流で、いくつもの詩が後世まで遺されている。
「たいしたものだ。岳鵬挙は詩もつくるし上奏文まで書ける」
 韓世忠は感心したものだ。彼はまったく文字が読めないというわけではないが、無学にはちがいない。詩を詠《よ》むとか上奏文を書くとかいった「知的な」行為とは無縁であった。さらに岳飛は書《しょ》でもすぐれており、諸葛孔明の「出師表《すいしのひょう》」を書写したものが有名である。
「でも、すなおに岳鵬挙どのの学識に感心したのは、お前の阿爺《とうちゃん》ぐらいのものだったねえ。他の人はむしろ反感を待ったよ」
 梁紅玉は説明する。たとえば張俊のような無学者から見ると、岳飛の態度は学識を鼻にかけて同僚の将軍たちをあなどっているようにしか見えない。いっぽう秦檜のような科《か》挙《きょ》出身の知識人から見ると、岳飛の学問などたかの知れたもので、あのていどで何を自慢しているのか、ということになるのだ。かくして、知識人の秦檜と無学者の張俊とが、岳飛に対する反感という一点で結びつくようになる。
 これは張俊にしてみれば、丞相と枢密《すうみつ》使《し》との対等の同盟である。だが秦檜は張俊ごとき下《げ》僕《ぼく》としか思っていない。張俊は秦檜に踊らされ、岳飛を罪におとそうと暗躍をはじめる。そのことに岳飛は気づかない。
「どうして気がつかなかったのだろう? 岳将軍は頭脳《あたま》のいい人だったのに」
 少年のころ、不思議に思って子温が問うと、吐息まじりに梁紅玉は答えた。
「そう、頭脳のいい人だったさ。でも、ちょっと自信の強すぎる人でね。自分は正しいことをしているのだから、当然それにふさわしい待遇を受けると思っておいでだったのさ」
 岳飛は部下や民衆からは愛されたが、上官や同僚からは嫌われた。才能と自信と実績と、三つを兼《か》ねそなえた岳飛は、それだけでも嫉《しっ》視《し》される存在だったが、彼は意に介《かい》しなかった。岳飛の部下たちには有能な者が多かったが、いずれも岳飛を神のごとく崇拝していたので、忠告する者もいなかった。
 昇進して清遠軍《せいえんぐん》節《せつ》度使《どし》になったとき岳飛は自慢した。
「三十二歳の若さで節度使になったのは、太《たい》祖《そ》皇帝と私ぐらいのものだろう」
 この発言はまずかった。太祖皇帝とは、宋王朝を開いた趙匡胤《ちょうきょいん》のことである。武勇にすぐれ、度量の広い趙匡胤は、後周《こうしゅう》という王朝につかえて武勲をかさね、三十二歳で節度使に出世した。さらに後周の皇帝が没して幼少の皇太子が即位すると、平和|裡《り》に譲位を受けて皇帝となり、宋王朝を開くのである。彼は旧王朝の皇族たちを大貴族として厚遇し、礼儀を守った。だがとにかく一武将の身から帝位を手にいれた成りあがりであるにはちがいない。
「岳飛め! 自分をおそれおおくも太祖皇帝と同列に論じるとは、増長にもほどがある。あるいは太祖に倣《なら》い、一武将から皇帝となるつもりか。宋朝を簒《うば》う気か」
 そう疑われたのだ。本気で疑わない者に対しては口実を与えることになった。
 その後、朝廷が将軍たちの傭兵《ようへい》集団を解体して官軍を再編し、かわりに思いきって彼らに高い地位を与えることになった。盗賊あがりの張俊と韓世忠とが枢密使となったが、岳飛は枢密副使にとどまった。まだ若すぎるというのが理由だったが、実力随一を自負する岳飛には、これも不満の種となった。

    四

 宋の有力な将帥たちのなかで、最初に兵権を投げだしたのは劉光世《りゅうこうせい》である。自分の軍を朝廷に差しだし、巨億の資産を手にした彼は、それをかかえて安楽な引退生活にはいった。本人はそれでめでたく幸福になったが、朝廷としては事後処理の必要がある。
 このとき劉光世の部隊四万人は、岳飛の指揮下におかれる予定だった。それだけ岳飛の将才が評価されていたわけだが、その予定を主戦派の文官である張浚《ちょうしゅん》は変更した。たるみきっている劉光世の部隊も、岳飛のもとでは軍律ただしい精強な軍隊に一変するであろう。それはけっこうなことに見えるが、べつの解釈をすれば、岳飛という一個人が合計十万に近い精鋭の武装集団を擁することになるのだ。韓世忠ら他の将帥たちと比較しても、その戦力は突出したものとなる。張浚は主戦派であったが、宋の文官らしく、武将たちを一段下に見ていた。彼らの力を均衡させて、たくみに統御していくつもりだったのである。
 このことに、むろん岳飛は不満であった。しかも、どういう心理であったか、張浚は、劉光世の部隊の指揮権を誰にゆだねるか、岳飛に質問したのである。張浚が挙《あ》げた候補者は、張俊、王徳《おうとく》、呂《りょ》祉《し》、※[#「麗+おおざと」、unicode9148]瓊《れきけい》、楊折中《ようきちゅう》といった将軍たちであった。そのすべてを岳飛は否定した。あいつは無能、そいつは粗暴、こいつは人望がない、という具合である。ついに張浚は腹をたてた。
「岳将軍、卿《けい》の本心はよくわかった。要するに、どうあっても劉|平叔《へいしゅく》(劉光世)の部隊を自分に引き渡せ、というのだな」
 岳飛も屹《きっ》として張浚をにらみ返した。
「それがしは求められて意見を申しあげただけでござる。それをけしからぬとおっしゃるのであれば、もはや何も申しあげることはござらぬ」
 張浚も岳飛も主戦派だが、だからといって妥協も譲歩もしない。たがいに自分の正しさを信じ、相手が自分に同調すべきだと思っている。両者は決裂し、岳飛は官位を返上して故郷へ帰ってしまった。
「また岳将軍が|かって《ヽヽヽ》なことを。あの男は、自分の意見が容《い》れられないと、すぐにすねる。しかたない、機《おり》を見て呼びもどそう」
 張浚はそういって舌打ちしたが、それなどむしろ好意的な意見で、秦檜などは冷然として、腹心の万《ばん》俟《き》禽《せつ》に語ったものである。
「岳飛めは官を棄《す》てたそうだ。よろしい。永遠に官を棄てたままにしておけるよう、とりはからってやるとしよう」
 秦檜は、すでに突破口を開いていた。岳飛がひきいる、いわゆる「岳家軍」の内部に不満分子がいたのだ。王《おう》貴《き》、王俊《おうしゅん》という二名の将軍で、彼らは同僚の張憲《ちょうけん》とたいそう仲が悪かった。張憲は岳飛の信頼がもっとも厚い人物である。秦檜は彼らに買収と脅迫の手を仲ばした。二名のうち王俊は、むしろ進んで買収に応じ、陰謀に加担した。かつて軍律を破って掠奪《りゃくだつ》をおこない、岳飛から厳罰を受けたという恨みがあったのだ。王貴のほうは一度は拒否したが、「では岳飛に連《れん》座《ざ》させ一族すべて流刑に処するぞ」といわれ、ついに屈した。
 かくして罠《わな》が完成する。王俊と王貴は、秦檜に訴状《そじょう》を提出した。「岳飛および張憲に叛意あり」という内容である。「言論によって士《し》大《たい》夫《ふ》を殺さず」というのが宋の国《こく》是《ぜ》であるから、丞相に反対したというだけで死刑にはできない。だが叛逆をたくらんだということになれば死刑にできるのだ。秦檜は二千名の兵を廬《ろ》山《ざん》に派遣し、岳飛の山荘を包囲した。
 こうして岳飛は逮捕された。
 縄をかけられたとき、岳飛は逃亡も抵抗も試《こころ》みなかった。法廷で堂々と弁明し、自らの無実を証明するつもりであったのだ。りっぱな態度であったが、じつは甘かった。彼は最初から無実の罪で殺されることに決まっていたのだ。
 同時に張憲も逮捕された。張俊は口実をもうけて張憲を枢密府に呼びよせ、問答無用で彼に縄をかけたのである。
 このとき張俊は、岳飛の養子である岳雲《がくうん》をも逮捕した。とっさの処置であったが、これは秦檜を喜ばせた。岳雲は二十三歳の弱年《じゃくねん》ながら勇猛で用兵に長じ、気性の烈《はげ》しさば養父をすらしのぐほどである。養父が不当逮捕されたことを知れば、敢然として岳家軍五万三千をひきい、秦檜を討つべく起兵するにちがいなかった。秦檜は三人をまとめて大《だい》理寺《りじ》(最高検察機関)の獄《ごく》に送り、審問《しんもん》を万俟禽の手にゆだねた。
 裁判の名を借りた拷問が開始された。いかに岳飛らが主張しようとも、聞く耳を持つ者はいなかった。最初から有罪は決まっているのだ。
 縛られ、鞭《むち》うたれながらも岳飛は不屈だった。ただ自分の無実を主張するだけではない。自分以外の将軍たちをことごとく無能と決めつけ、「金軍と戦って勝てるのはおれだけだ」と叫んだ。韓世忠や劉錡でさえ自分に比べれば志《こころざし》が低い、と断言したのだから、たしかに岳飛は自信過剰な男だった。
「白状しろ、白状せぬか」
 万俟禽にも焦《あせ》りがある。ここまできて岳飛の自白を得ることができなければ、万俟禽のほうが秦檜の不興をこうむり、失脚する恐れがあった。彼の嗜虐《しぎゃく》癖を満足させるだけでなく、保身のためにも自白させねばならぬ。
 かくして拷問は凄惨《せいさん》をきわめた。すでに岳飛の全身は棍棒《こんぼう》と鞭で乱打されて、皮膚は裂け、肉はほころび、骨が見えるほどであった。その血まみれの身体を天井から吊《つ》るして、さらに鞭うつ。針を突き刺す。傷口に塩水をかける。天井から吊るした綱をねじり、弱りきった身体を激しく回転させ、さらに内臓をねらって角棒でなぐる。胃壁が裂け、岳飛は血を吐いた。その頸《くび》に革紐《かわひも》をかけ、窒息寸前まで絞《し》めあげる。赤く灼熱《しゃくねつ》した石炭を足の甲《こう》にかけると、肉の焼ける臭気が室内にたちこめ、獄《ごく》吏《り》も顔をそむけた。
 これほどの拷問にも、岳飛は屈しない。もはや呼吸も鼓動も弱まり、歯をくだかれてまともに声を出せなくなっても、なお、主張してやまなかった。
「自分は無実である。不軌《むほん》などたくらんだことはない」
 ただ痛めつけるだけでは能がない、と考えた万俟禽は、岳飛の右手だけを自由にし、筆、紙、墨、硯《すずり》を与えた。自分の手で自白書を記せば拷問をやめてやる、というのである。黙然と筆をとった岳飛は、墨痕《ぼっこん》あざやかに、八つの文字を紙上に書きつらねた。

  天日昭昭《てんじつしょうしょう》 天日昭昭

 太陽が明らかに地上を照らすがごとく、自分の無実は明らかである。そう書くと、筆を投じ、毅《き》然《ぜん》として万俟禽をにらみすえた。
「おのれ、どこまでも生意気な!」
 歯ぎしりした万俟禽は、自分が考案した桔槹刑《きつこうけい》に岳飛をかけた。言語を絶する苦痛にさいなまれ、血と胃液を吐いて岳飛は昏絶《こんぜつ》する。医者に治療させてから、ふたたび桔槹刑にかける。十一月にはいり、十二月が来た。ありとあらゆる拷問の方法を使って、万俟禽はなお岳飛ら三名を自白させることができなかった。
「岳飛ら三名を逮捕して、すでに二ヶ月がすぎた。いまだに三名とも自白せず、罪を認めぬとはどういうわけだ」
 秦檜に呼ばれて、ひややかにそう問われても、万俟禽は恐縮するばかりである。
「埓《らち》があかんな」
 平伏する万俟禽に目もくれず、秦檜はつぶやいた。万俟禽の無能さに、秦檜は失望している。岳飛は最初から無実なのだ。頑迷なほどに誇り高い岳飛が、拷問に屈していつわりの自白をするはずがない。岳飛の告白文を、万俟禽が書けばすむのに、なぜそれに気づかぬのか。
 ――すでに罪をでっちあげたのだ。自白もでっちあげればすむことではないか。迂《う》遠《えん》な。そんなことだから、私より何歳も年長のくせに、後輩に顎《あご》で使われるのだ。この一件が終わったら、この男に用はないな。
 冷厳な判断を秦檜は下した。

 秦檜は陰気な表情で自邸の書斎にすわっていた。屋外にひろがる灰色の冬空を映《うつ》したかのような顔色であった。このとき彼が放心の目をむけていたのは東むきの窓であった、ということまで史書には記されている。
 彼の妻がはいってきた。侍女が三名したがっていた。ふたりは書斎の中央の床に火炉《ひばち》をおき、ひとりは卓上に盆をおいた。盆の上には柑子《みかん》が山のように盛られている。
 無言のままに秦檜は柑子をひとつ手にとった。皮をむく手つきが、老病の人のようにおぼつかない。皮をむき終えて袋をつまんだが、指先の力を制御できず、そのままひねりつぶしてしまった。とびだした柑子の汁が秦檜の指を濡らし、袍《ほう》を汚した。
 侍女たちが退出した後、秦檜の妻|王《おう》氏《し》は表情をあらためて夫に尋ねた。
「貴男《あなた》らしくもない、何を憂えておられるのです。よければ妾《わたくし》に話して下さいましな」
「岳飛めのことだ。奴をどうしようかと思ってな」
 素直に秦檜は答えた。彼ら夫婦は、かつて金軍に一時とらえられ、帰国するまで労苦をともにした。秦檜は妻の才智を評価していたらしい。夫の言葉にうなずくと、王氏は火筋《ひばし》を手にとり、火炉の灰に六つの文字を書いた。

  捉虎易縦虎難

 虎《とら》を捉《とら》うるは易《やす》く、虎を縦《はな》つは難《かた》し。
 うむ、と、秦檜はうなった。
「岳飛は虎のように危険な人物です。彼を解放して自由の身にすれば、何をしでかすか知れません。つかまえた虎は殺してしまうべきです」
 王氏はそう夫に忠告したのである。たしかに、いまさら岳飛を釈放したり流罪ですませたりすることはできぬ。結論はひとつしかないのだった。
「よく申してくれた。心の氷が溶けたような想いだ。善は急げ、すぐに実行するとしよう」
 その場で秦檜は机にむかい、万俟禽への密書をしたためた。

    五

 その日、紹興十一年十二月二十九日。
 秦檜からの密書を受けて、万俟禽は狂喜した。ついに岳飛を殺せるのだ。これまでは、自白を得るために生かしておくよう命じられていた。だが、ついに丞相は万俟禽に岳飛を殺すよう命じてきたのである。
 屈強な処刑人の一群をひきいて、万俟禽は岳飛の前に立つ。血にまみれた瀕死の男は、壁を背にして坐したまま、動く力もない。
「逆賊岳飛よ、きさまが私とはじめて会ったときのことを憶《おぼ》えておるか」
「…………」
「もう十年も往古《むかし》になるかな。私は提点《ていてん》湖《こ》北刑獄《ほくけいごく》の職にあった。きさまは部隊をひきいて私の任地を通過していった……」
 万俟禽の両眼に脂《あぶら》っぽい光が浮かび、唇の両端が吊りあがって兇々《まがまが》しい半月形をつくる。
「きさまはあのとき私にきちんと礼をしなかったな」
「…………」
「たかだか兵卒あがりの一士官の分際《ぶんざい》で、朝廷の高官たる私に、きちんと礼をしなかったな。その罪をいま思い知らせてくれるぞ。正義がかならず勝つということを教えてやる!」
 万俟禽が手を振ると、屈強の処刑人が四人、衰弱しきった岳飛の身体を引きずりおこした。太い紐《ひも》を頸《くび》に巻きつける。
「ゆっくりゆっくり絞めあげろ。罪にふさわしい苦痛を味あわせてやるのだ」
 舌なめずりしながら万俟禽は命じたが、彼の熱い期待はかなえられなかった。衰弱しきった岳飛は、頸に紐を巻きつけられたとき、すでに息絶えていたようであった。享年三十九である。
 岳雲と張憲とは、血まみれの身体に縄をかけられ、市場に引きずり出されて斬首された。無念の形相を並べたふたつの首は、そのまま市に曝《さら》され、身体は野に棄《す》てられた。
 惨劇のしめくくりは秦檜の上奏である。彼はうやうやしく高宗に告げた。
「逆賊岳飛めは罪を逃れぬところと覚悟し、獄中で自《じ》縊《い》いたしました。岳雲と張憲も自白いたしましたので、ただちに処刑をすませてございます」
 高宗は無表情にうなずいただけである。この無表情は、秦檜に対する高宗の自己防御法であったかもしれない。岳飛の一族をことごとく南方の辺境に流刑に処する、と告げられたときも、高宗はただ無言でうなずいた。
 岳飛の軍旗には「精忠《せいちゅう》岳飛」の四文字が記されていた。筆をふるってその四文字を書いたのは高宗である。岳飛の将才に幾度となく救われながら、高宗は彼を見殺しにした。軍旗を下賜《かし》されたときの岳飛の感激ぶりを想いおこすと、高宗の胸の一部がさすがに痛むのだった。
 年が明けてすぐ、韓世忠は梁紅玉や幕僚たちとともに前線から杭州臨安府へと駆けもどってきた。岳飛逮捕の報がようやく彼のもとへとどいたのである。おどろいた韓世忠は、「岳鵬挙《がくほうきょ》が不軌《むほん》などたくらむはずがない。おれが弁護する」と叫んで、馬に飛び乗ったのであった。そして臨安府に入城し、岳飛の邸第《やしき》に向かったところ、封鎖されて近よることもできぬ。韓世忠自身の邸第にもどると、岳飛がすでに殺されたことを、家《か》僕《ぼく》たちが告げた。呆然《ぼうぜん》の数瞬がすぎると、激情に駆られた韓世忠は丞相府に乗りこもうとした。
「なりません。丞相府へ行けば殺されますぞ」
 慎重な解元《かいげん》が制止した。丞相府にはいる者は剣を帯びることを禁じられている。秦檜は丞相府内に完全武装の刺《し》客《かく》を数十人も配置しているかもしれぬ。いかに韓世忠が「万人の敵」であっても、白手《すで》では対抗しようもない。
「では、それがしが兵をひきいて丞相府の門外で待機し、事あったときには韓元帥をお救い申そう」
 太い腕をさすったのは猛将|成閔《せいびん》である。解元がめずらしく大声で一喝《いっかつ》した。
「軽々しいことを口にするな。韓元帥を逆賊にするつもりか!」
 成閔が反論できずに黙りこむと、解元は必死に韓世忠を説得した。
「いまは自重《じちょう》が肝要《かんよう》かと存じます。丞相は奸悪《かんあく》にして恥を知らぬ者なれば、目的のためにいかなる非道をもなすでありましょう。まして今回の件は、張枢密《ちょうすうみつ》(枢密使張俊)が深く関与しておりますれば、宋軍が分裂して相《あい》撃《う》つの恐れさえございます。どうかご自重を」
 血を噴くような瞳で宙をにらんでいた韓世忠は、ゆっくりと頭《かぶり》を振った。
「おぬしの言には万金《ばんきん》の値がある。だが、ここで無実の者のために抗議ひとつできなかったら、韓世忠という人物には銅銭一枚の価値もないのだ。おれは丞相府へ行く。とめるな」
「とめませんよ、お行きなさい、良臣どの」
 静かな声は梁紅玉のものだった。彼女の傍で、息をのんで父親を見あげているのは、十五歳になったばかりの長男|韓彦直《かんげんちょく》、字は子温である。初陣して三年めを迎えていた。
 韓世忠が丞相府に姿をあらわしたとき、秦檜は巧言《こうげん》をもって彼を丸めこむつもりであった。無学者の韓世忠が何を血迷って抗議になど来たか。そう思っていた秦檜だが、対面するとたじろいでしまう。圧倒的な迫力で、韓世忠は正面から丞相を詰問し、ゆるぎもしない。岳飛が不軌《むほん》を謀《はか》ったという証拠を示せ。ひたすらそういう。秦檜は何度も話をそらそうとしたが、韓世忠はごまかされない。ついに追いつめられた秦檜は、低い声を押しだすように答えた。
「……莫《ばく》須《す》有《ゆう》」
「莫須有!?」
 韓世忠は唖然《あぜん》とした。莫須有とは、「全然なかったとは断言できない。もしかしたらあったかもしれない」というていどの意味である。もともと物証があるはずはない。自白も得られなかった。公然と処刑することができなかったから、岳飛を獄中で密殺《みっさつ》したのである。
「証拠もなく自白もないのに、丞相は岳鵬挙を殺したとおっしゃるのか!?」
「…………」
「莫須有のただ三字をもって、丞相は有《ゆう》為《い》の人材を証拠なしに処刑なさりしか! それで天下の人々が納得するとお思いか!」
 韓世忠のたくましい拳《こぶし》が慄える。誰にも信じられないことであったが、秦檜の顔に、恐怖の影がひらめいた。だがそれは一瞬で消え、表情と姿勢をあらためた秦檜は大声で叫んだ。
「韓元帥は上《しょう》の御《ぎょ》意《い》に異論がおありか!」
 韓世忠の表情が一変した。高宗皇帝の名を出されては、彼はまったく身動きがとれなくなる。岳飛は「陛下が金賊との和平を考えておいでなら、陛下はまちがっておられる」と言い放つことができる男だった。韓世忠にはそれはできなかった。しばらく秦檜をにらみつけていたが、やがてたくましい肩が落ちた。無言で彼は丞相府を去り、数日のうちに宮廷をも去って、ついに帰らなかった。もはや彼のいるべき席は、宮廷にはなかったのだ。
「莫《ばく》須《す》有《ゆう》、千古の冤罪《えんざい》」
 と、中国の歴史書、小説、戯曲などに題される事件がこれである。
 こうして紹興十二年、宋金両国間に和平条約が結ばれた。淮《わい》河《が》をもって両国の境界とし、宋は毎年、金に対して銀二十五万両と絹二十五万匹を支払う。さらに宋の天子は金の天子に対して「臣」と称する。屈辱的な不平等条約であった。だがとにかく平和がもたらされ、宋は経済と文化の発展にむけて歩みはじめる。
 平和ほど庶民にとってありがたいものはない。だが庶民にとっても、岳飛の死は傷《いた》ましかった。岳飛は不敗の名将であり、軍律は厳しく、たとえば張俊や劉光世の軍のように自国民から掠奪することを厳禁した。それだけでも岳飛は賞賛されるべきであった。庶民は声をひそめて、岳飛の武勲をほめたたえ、一方で権勢をほしいままにする秦檜をののしった。
 ――両国の和約は私が成立させた。この平和と繁栄は私の功績だ。
 秦檜はそう自負していたが、彼に対して感謝する庶民は、おそらくひとりもいなかったであろう。庶民が感謝した相手は岳飛であった。岳飛が侵略者に対して善戦し、ついには無実の罪を負《お》って死んだからこそ、和平が成ったのだ。南宋の恩人は秦檜ではなく岳飛である、ということを、民衆は感じていた。生前の岳飛をきらっていた士《し》大《たい》夫《ふ》たちも知っていた。否、秦檜自身も知っていた。だからこそ秦檜は、「文《もん》字《じ》の獄《ごく》」をおこし、言論弾圧に狂奔《きょうほん》する。事件に関連した公文書をすべて焼きすて、わが子である秦《しん》※[#「火+喜、unicode71BA]《き》に国史を編纂《へんさん》させた。自分につごうよく歴史を改竄《かいざん》するためである。さらに民間で歴史書を編《あ》むことを禁止し、反対派の主要人物を流刑に処した。
 一方で、秦檜を弁護して、つぎのような主張をすることも可能である。
「秦檜の政策によって、南宋は平和と繁栄を手にいれることができた。その功績に比べれば、無実の人間に汚名を着せて殺すぐらい、ささいなことではないか。無知な民衆に憎まれる秦檜こそ被害者というべきだ」
 ただし、この論法は、秦檜自身でさえ公言したことがない。詭《き》弁《べん》にも限界があるということであろう。
 秦檜の共犯者となった張俊のその後はどうであったろうか。兵権を返上して宮廷貴族となって以来、張俊の生活は豪奢《ごうしゃ》をきわめた。紹興二十一年(西暦一一五一年)に高宗皇帝を自宅に招いて盛大な宴会をおこなっている。これは「張王府《ちょうおうふ》の宴」として有名で、このときの菜単《メニュー》が八百年後まで完全に残っている。それによると、前菜だけで七十二種類にのぼり、休憩時間をはさんで「再《さい》座《ざ》」となる。あらためて六十八種類の軽食や果実、菓子が出され、ついで酒が出される。下酒《さかな》が三十種類。それからようやく飯が出されて下飯《おかず》がまた数十種……。
 その間に音楽や演芸がもよおされ、二百人以上の客はすっかり満腹したという。この宴会の菜単《メニュー》を文化史の研究素材とした学者もいるほどである。
 張俊の一族は、べつに天罰を受けることもなく、代々、巨億の富を相続して栄華をきわめた。張俊の曾《ひ》孫《まご》にあたる張磁《ちょうじ》は詩集や随筆をあらわし、風流な文人として知られる。ところがやはりただの風流人ではなかった。
 韓侘冑《かんたくちゅう》という宰相が専横をきわめ、外交政策での失敗も多かったので、史弥《しび》遠《えん》という人が陰謀をめぐらし、韓侘冑を暗殺した。そして今度は史弥遠が宰相となって権勢をふるうことになるのだが、最初、史弥遠は韓侘冑を殺すつもりはなかった。宮廷から追放してすませるつもりだったのである。ところが、陰謀に参画《さんかく》した張磁は、平然として主張した。
「あとくされがないよう、宰相を殺しておしまいなさい。理由はどうとでもつけられます。生かしておいたら、いつか報復されますぞ」
 結局、史弥遠は韓侘冑を暗殺した。事は成功したわけだが、史弥遠は、張磁が気味わるくなった。
「考えてみれば、張磁《やつ》の曾祖父《ひいじいさん》は岳飛を無実の罪で殺した一味だ。反対派を平気で殺すというのは、張家のお家芸というわけだ。あんな奴を近づけたら、今度は私がやられてしまうぞ」
 そして史弥遠は張磁を宮廷から追放してしまった……。
 後世、岳飛は名誉を回復され、外敵の侵略に抵抗した民族の英雄として賛美された。抗州にも岳王廟《がくおうびょう》が建てられ、神として崇敬《すうけい》されるようになる。そして岳王廟には鎖《くさり》で縛られた「四《し》賊《ぞく》」の銅像が置かれた。岳飛の殺害にかかわった秦檜、その妻王氏、万俟禽、そして張俊の四人である。彼らは、生前の権勢と富《ふう》貴《き》とを、死後は千年にもおよぼうかという永い汚辱に変えることになった。彼らは誰かを怨《うら》むべきなのだろうか。

 ……子温と梁紅玉は、新年を江上で迎えた。宋の紹興二十七年、金の正隆《せいりゅう》二年、西暦一一五七年である。
[#改ページ]

第八章 前夜


    一

 子《し》温《おん》と梁紅玉《りょうこうぎょく》が杭州臨安府《こうしゅうりんあんふ》の土を踏んだのは、宋《そう》の紹興《しょうこう》二十七年三月のことである。出発から一年有余を経《へ》て、彼らは無事に帰ってきたのであった。
 四《し》川《せん》から江南《こうなん》へ、満々たる長江《ちょうこう》を下る船旅は、春色《しゅんしょく》を帯びて長閑《のどか》であった。つねに薄曇《うすぐもり》の四川盆地をすぎて三峡《さんきょう》を通過する。河幅はせばまり、左右には断崖《だんがい》がせまり、水流も気流もともに速まって、飛ぶように疾《はし》る船の上空で雲が渦まき、風が咆《ほ》える。断崖の上は松や柏の密林で、鳥や猿《ましら》の鳴声が絶えない。三峡をすぎると、ふたたび流れは広くゆるやかになって、湖《こ》北《ほく》の平野にはいる。
 子温たちより二十年ほど後に、官僚であり文人である范成大《はんせいだい》という人が、船で長江を下り、克明《こくめい》で風趣《ふうしゅ》ゆたかな旅の記録を残した。これが有名な『呉《ご》船録《せんろく》』である。
 旅のちょうど中間、洞庭《どうてい》湖《こ》の近くで、子温たちは一度、船をおりた。西《せい》湖《こ》に劣らぬ美しさを誇るこの湖では、二十年ほど前に岳《がく》飛《ひ》が強大な湖《こ》賊《ぞく》を滅ぼしている。そのすぐ近くに、梁紅玉の旧知である劉錡《りゅうき》がいた。
「儒将《じゅしょう》の風《ふう》有《あ》り」と、『宋史・劉錡伝』には記されている。儒将とは、武将でありながら儒学《じゅがく》をはじめとした学問を修《おさ》めた人のことである。知性と品格を感じさせる人物で、劉錡はあったようだ。
 梁紅玉の訪問を受けると、一瞬の当惑につづいて、劉錡の老顔が再会の喜びにかがやいた。
「おう、韓《かん》家《か》軍《ぐん》の女将軍《じょしょうぐん》ではござらぬか。何とおめずらしい。ご息災《そくさい》でいられたか」
 老人とは思えぬ朗々たる大声である。「声は哄鐘《こうしょう》のごとし」と伝に記されているほど、劉錡の声は有名だった。彼はもう十年以上も荊南《けいなん》節《せつ》度使《どし》の職にあり、兵士からも民衆からも敬愛されていた。いわゆる「抗金名将《こうきんのめいしょう》」のうち、今日なお健在なのは、四川の呉《ご》※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]《りん》と荊南の劉錡、この二名だけであった。
「劉三相公《りゅうさんしょうこう》もお元気で」
 梁紅玉の顔にもなつかしさがあふれる。
「劉三相公」とは老雄劉錡に対する敬称である。紹興二十七年にちょうど六十歳だから、韓世忠《かんせいちゅう》より九歳若いことになる。梁紅玉と同年である。劉錡は少年のころから父にしたがって従軍し、強弓《ごうきゅう》をもって世に知られた。西北方面の防衛にしたがい、若くして辺境に勇名をとどろかせ、西《せい》夏《か》軍に恐れられた。
 金軍との戦いにおいても、鉄騎隊をひきいてかずかずの武勲をあげた。順昌《じゅんしょう》城を守っていたとき、金の大軍に攻撃されたが、わざと城門を開いて静まりかえっていたので、金軍は伏兵の存在を疑い、戦わずして撤退した。胆略《たんりゃく》ともにそなえた勇将だったのである。
 また東村《とうそん》という場所に金軍が陣営をかまえたとき、後世に伝わる果敢な夜襲をかけた。その夜、天候が不安定で夜空には雷光がひらめいていた。劉錡はえりすぐった勇士百人をひきいて金軍の陣営に斬りこんだのである。劉錡の統率は完璧であった。雷光がひらめき、雷鳴がとどろくなか、劉錡たちは五百余人の金兵を斬り、味方はひとりの死者も出さずに引きあげたのだ。
 劉錡の巧妙果敢な戦術によって、金軍の南下速度は鈍ってしまった。四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼《そうひつ》が自ら乗りだして劉錡に決戦を挑んだ。このとき、劉錡のたてこもる順昌城を遠くから眺めて、四《スー》太《ター》子《ツ》は豪語したのである。
「あんな城など、おれの靴尖《つまさき》で蹴とばしてくれる」
 こうして紹興十年(西暦一一三〇年)の夏、劉錡は小さな城にたてこもって二十万の金軍を防ぎつづけ、洪水や暴風雨にも耐えぬいた。ついに宗弼は攻略を断念して去ったのである。
「神《しん》機《き》武略《ぶりゃく》」とまで称された劉錡だが、仲の悪い盗賊あがりの張俊《ちょうしゅん》に讒言《ざんげん》され、秦檜《しんかい》の手で左遷されてしまう。むしろ、それは劉錡の人格にとって名誉なことであった。
 ただ、なぜか四川の呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は劉錡の将才をあまり高く評価していなかったようで、『宋史・呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]伝』につぎのような発言が記録されている。
「信叔《しんしゅく》は雅量《がりょう》ありて英慨《えいがい》なし」
 信叔とは劉錡の字《あざな》である。劉錡は寛大で度量の広いりっぱな人物だが、英雄としての強い気力に欠ける、というのである。この評価は歴史家にとっても意外なようで、『宋史』は、「嵩其然乎《あにそれしからんか》(はたしてそうだろうか)」と疑問を投げかけている。ただひとつ理由として考えられるのは、秦檜の専横《せんおう》に対する劉錡の対応である。岳飛は秦檜に反対して殺され、韓世忠もまた宮廷を去った。劉錡は秦檜に抵抗することなく、おとなしく荊南節度使となった。なぜ秦檜に抵抗しなかったのか、と、気性の烈《はげ》しい呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]は歯ぎしりし、劉錡のおとなしさに飽《あ》きたらなかったのであろうと思われる。だがそれでも、「劉三相公」と敬愛される為人《ひととなり》は、高く評価されていることがわかる。
 劉錡に対しても子温らは金国の事情を説明し、完顔亮《かんがんりょう》の大侵攻に対しての心がまえを求めた。劉錡はうなずき、自信をこめて穏やかに笑ってみせた。
「けっこうだ、おそらく儂《わし》にとって生涯最後の戦いになるじゃろうて」
 子温たちは劉錡と別れてさらに旅をつづけ、建康《けんこう》府《ふ》で次男の韓彦質《かんげんしつ》、三男の韓彦《かんげん》古《こ》の出迎えを受けた。子温はそこで母を弟たちに託し、ひとり騎《き》行《こう》して抗州臨安府に駆けつけた。
 虞《ぐ》允文《いんぶん》の邸第《やしき》を訪れると、午睡《ひるね》中だった主人は、牀《しょう》からはね起きて客人を迎えた。沓《くつ》を片方はき忘れていたので、有名な仙人の藍采《らんさい》和《わ》を思わせる姿だった。世俗ばなれしたその姿に、子温は好意を感じた。
「そのまま仙人になれるような風骨《ふうこつ》をなさっておいでだ」
「それは間《ま》のぬけた顔ということですかな」
 気を悪くしたようすでもなく、虞允文は笑った。子温はあわてて否定したが、相手の笑いに引きこまれて自分も笑いだしてしまう。笑いがようやくおさまると、虞允文は子温を書斎に招《しょう》じいれた。子温に茶をすすめ、金国のようすについて要点のみ問う。金主《きんしゅ》に侵攻の意思あり、と聞くと、うなずいて、それ以上は聞かなかった。くわしくは陛下の御前でこそ、というのである。そして虞允文は話すがわにまわり、宮廷人たちの動静を子温に教えてくれた。先年、宰相となって宮廷に復帰した万《ばん》俟《き》禽《せつ》は、今年にはいって老耄《ろうもう》いちじるしく、高宗《こうそう》皇帝の顔すら判別《みわけ》がつかなくなって、公務でも礼儀でも失敗をかさねている。致仕《ちし》(引退)も近いだろう、ということであった。
「しばしば宮中で眠りこみ、悪夢を見たのか狂ったように叫びたてます。岳鵬挙《がくほうきょ》どのの祟《たた》りだ、という声もありますが、すっかり痩《や》せおとろえて、あれはもうお気の毒ながら、長くはないでしょうな」
 すこしも気の毒がってはいない虞允文の口調だった。子温も同意見である。万俟禽は自宅で死ねるだけでも幸福というものではないか。
「今後むしろ重要なのは、過激な主戦論をおさえることでござる。先制してこちらから金国に攻撃を加えよう、などという人たちがおりますからな」
「ふむ、おるでしょうな」
 このとき両者が同時に想いおこした人物は張浚《ちょうしゅん》である。字は徳遠《とくえん》、文官にして主戦派の領袖《りょうしゅう》。秦檜に反対して宮廷を追われ、隠退生活の間に一度ならず刺客にねらわれたといわれる。秦檜が死んだとき、粛清予定者の名簿が遺《のこ》されたが、その最初に張浚の名が記されていたともいう。秦檜の死後、名誉職をえて宮廷に復帰したが、たちまち激烈な主戦論を唱《とな》えて、ふたたび追放されてしまった。信念の人ではあるが、どうにも懲《こ》りない人だ。
 その日、夕刻に高宗への拝謁《はいえつ》がかなった。むろん非公式なものであり、高宗は重臣との会食を早めに切りあげて、書斎に子温と虞允文を招きいれたのである。
 そして高宗がまず知らされたのは、不幸な兄|欽宗《きんそう》の死であった。あるいは北方の荒野で窮死《きゅうし》したか、とは思っていたが、想像を絶する殺されかたをしていたのだ。しばらく高宗はあえぐばかりで声も出ず、虞允文も粛然《しゅくぜん》としていた。
「このこと、絶対に他言せぬようにな」
 ようやく高宗がいったのは、そのことであった。
 金国が欽宗の死を公式に報告してくることはありえない。歴史上に類のない酸《さん》鼻《び》な処刑をおこなったのだから当然のことだ。そして公式の報告がない以上、宋としては、欽宗の死を知っている、という事実を公表するわけにいかないのだった。「知らせもしないのに、なぜ知っている」と疑われるのは当然で、その当然のことが外交上も戦略上もまずいのである。
 ――かさねがさねお気の毒な。
 子温はやりきれない気分だった。あしかけ三十年の抑留の末、公衆の面前で惨殺され、葬儀すらしてもらえぬのである。むろん、いずれはその死は公表され、むなしくも格調高い葬儀がとりおこなわれるであろうけれども。
 気をとりなおしたように高宗は、金軍の動静を子温に問うた。そして、出兵必至との答えに、ふたたび衝撃を受けることになった。完顔亮の詩を見せられると、呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]と同じように、高宗もまた子温の報告を信じるしかなかったのである。
「二十数年ぶりに、またもや船に乗って海に浮かぶことになるのか」
 高宗は歎息した。四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼の急追を受けて杭州から脱出し、海上で新年を迎えたときの不安と屈辱とを、彼は想いだしている。あれから三十年近く経過し、すでに老境にはいりつつある身で、あの逃避行をふたたびくりかえすのか、と思えば、溜息《ためいき》も出るであろう。
 子温はやや憮《ぶ》然《ぜん》とする。どうやら高宗は杭州臨安府にとどまって侵略者と対《たい》峙《じ》する意思はないようであった。虞允文が子温の表情を観察してから、高宗に言上する。
「今回、そのご心配はございませぬ。伐宋《ばつそう》百万の大軍などと申しても実数は半分というところでございましょう」
「その理由は?」
「女真《じょしん》族のみで百万の軍を編成することは不可能でございます」
 契丹《きったん》族からさらには漢族まで動員せねば、百万もの兵数はそろわぬ。漢族が宋との戦いに本気になるはずはない。契丹族としても、自分たちの国を滅ぼした金国のために、必死で戦う気にはなれぬであろう。金軍は兵数が増えるほど、士気の低さや意思の不統一に悩むであろう。
「それで本朝《わがくに》はどれほどの兵を動員できるのじゃ?」
「十八万というところでございましょうか」
「十八万か……せめて五十万ほどは兵をそろえられぬか」
「御諚《ごじょう》れど、数ばかり膨《ふく》らませても意味がございませぬ。そもそも長江の水こそ、百万の兵に匹敵すると思《おぼ》しめせ」
 虞允文の声に、高宗はうなずいたが、老境にはいりつつある顔には憂色が濃かった。

    二

 気をとりなおした高宗がつぎに問いかけたのは、金軍の侵入経路についてである。子温はそれに答えた。
 第一に、長江の下流を渡って正面から建康周辺を衝《つ》く。第二に、秦嶺《しんれい》をこえて四川を奪《と》り、長江の流れに乗って東へ下る。このいずれも、過去の歴史において実現している。第一の例は、隋《ずい》が陳《ちん》を滅ぼしたとき。第二の例は、晋《しん》が呉《ご》を滅ぼしたときである。金主完顔亮は、おそらく第一の例に倣《なら》うのではないかと思われる。
「なぜ四川への来寇《らいこう》は可能性が低いと申すのじゃ?」
 高宗の問いに、虞允文と子温とがこもごも答える。
「四川には呉《ご》唐卿《とうけい》(呉※[#「王+隣のつくり」、unicode7498])どのがおりますれば、大軍をもって占領するにも時《じ》日《じつ》を要しましょう。さらに、占領した後、多数の軍船を建造するにも時日を要します。いずれも金主の好まざるところでございましょう」
「また、ひとたび北方に異変が生じた場合、四川からふたたび秦嶺をこえて大軍を北《ほっ》帰《き》させるのは容易ではございませぬ。結局、江南を支配するのが金主の最終目的でございますから、最初からそこを直撃してまいりましょう。むろん絶対ではございませんから、北方への守りを備えるよう呉唐卿どのにはお話し申しあげてまいりました」
 うなずいて、高宗は別の問いを発する。
「長江の北にも軍を配置し、北岸で敵を防ぐことはできぬか」
 子温は頭《かぶり》を振った。
「金の大軍がひとたび淮《わい》河《が》を渡って南下すれば、長江を背にしてそれを防ぐのはきわめて困難であろうと存じます。拠《よ》るべき要害とてございませぬ」
 むろん、まったく無防備にしておくわけにもいかぬ。金軍の不審を誘わぬていどに、国境警備の兵力は配置しておかねばならない。だが、それ以上の兵力を配置するのは無意味である。全滅するか、逃亡|四《し》散《さん》するか、撤退するか、いずれにせよ数万の兵をむだにするだけである。
 形だけうなずいたが、高宗は完全に納得したようには見えず、子温はかるい不安をいだいた。
 つぎに高宗が子温たちに問うたのは、戦闘指揮にあたる将軍たちの人選であった。その問いに答えるのは、なかなかむずかしい。人材がすくないのである。
 韓世忠の幕僚のうち、思慮深くて用兵に長じた解元《かいげん》は早く死んだ。韓世忠の隠棲後一年、五十四歳のときである。彼に後《こう》事《じ》をゆだねていた韓世忠はずいぶんと落胆した。解元とは同年で、三十五年にわたる戦友の仲であった。
 猛将|成閔《せいびん》は健在であった。この人物は、かつて韓世忠につれられて高宗皇帝に拝謁したことがある。そのとき、韓世忠は、つぎのように紹介した。
「臣はかつて自分の武勇を天下に並びなきものと信じておりました。ですが、この男に会って、それが|うぬぼれ《ヽヽヽヽ》であったと知りました」
 天子の御《ご》前《ぜん》で、成閔はおおいに面目《めんぼく》をほどこしたわけである。成閔は韓世忠に絶賛されるほどの強剛《きょうごう》であったが、将帥《しょうすい》としては欠点があった。部下に対して必要以上に厳酷《げんこく》であり、兵士たちに人望がなかった。成閔の武勇は三国時代の張飛《ちょうひ》に喩《たと》えられることがあるが、どうやら欠点まで似ていたようである。
 岳飛が殺害された後、岳《がく》家《か》軍《ぐん》は解体された。だが岳飛|麾下《きか》の有力な武将は幾人か生存していた。とくに人望・実績ともにすぐれていたのは牛皐《ぎゅうこう》で、勇猛果敢な闘将として知られていた。当然ながら秦檜は彼を危険視し、紹興十七年(西暦一一四七年)に彼を毒殺した。公式発表においては、宴会の料理にあたって中毒死したとされたが。なぜ牛皐ひとりが中毒死したのか、まともに説明できる者はいなかった。
 牛皐は無学だが機智《きち》に富み、素朴で豪快な性格が庶民の人気を集めていた。『説岳《せつがく》通俗《つうぞく》演《えん》義《ぎ》』のような稗《はい》史《し》では、秦檜の魔手をのがれた牛皐が、秦檜の一党を滅ぼし、四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼をも討ちとって、岳飛の復讐をとげることになっている。むろんこれは史実に反するが、牛皐という人物に庶民の夢が託されていることがわかる。
 牛皐の他に、岳家軍の有名な武将といえば、張憲《ちょうけん》、王《おう》貴《き》、任《じん》子《し》安《あん》、張峪《ちょうよく》、余《よ》化竜《かりゅう》、趙雲《ちょううん》、楊再興《ようさいこう》、狄猛《てきもう》、狄雷《てきらい》、その他多数いた。いまではすべて四散してしまった。岳飛がもっとも信頼していた智勇兼備の張憲は、岳飛とともに秦檜に殺された。楊再興は戦死した。彼はもともと群盗の出身で、討伐の官軍と戦ったとき、岳飛の弟と一騎打して殺してしまった。つかまって死刑になるというとき、その武勇を惜しんだ岳飛に赦《ゆる》され、武将となった。以後、彼は岳飛に忠誠をつくし、金軍と戦いつづけて壮烈な闘死をとげたのである。
 韓家軍、岳家軍以外でいえば、現存する将軍たちの随一は楊折中《ようきちゅう》であろうか。
 楊折中は、字《あざな》を正《せい》甫《ほ》という。高宗皇帝から名を賜わって、存中《ぞんちゅう》と改名した。少年のころから武芸に励み、世が乱れはじめたとき、昂然《こうぜん》として知人に宣言した。
「大丈夫《たいじょうぶ》たるもの、まさに武《ぶ》功《こう》をもって富貴を取るべし。いずくんぞ首をうつむけて腐儒《くされじゅしゃ》とならんや」
 覇気に富んだ人物であったようだ。剛勇で戦闘指揮にも長じていた。岳飛などからは二流の将帥と見られていたようだが、大軍を統率する力量はないにしても、勇戦してしばしば武勲をたてた。彼が五百騎の騎兵をひきいて、柳子鎮《りゅうしちん》という戦場で金軍を夜襲したとき、激戦となり、一時、彼の生死が不明とされた。「朝廷震恐」とあるから、高宗は蒼《あお》ざめて彼の身を案じたのである。結局、楊折中は馬で淮河を渡り、意気揚々と帰ってきた。
 楊折中は生涯に二百回をこす戦闘に参加し、全身に五十もの創《きず》があった。闘将というべきであろう。高宗はよほど楊折中が気に入っていたようで、彼に存中という名を賜い、官位も財宝も気前よく与えた。この年、紹興二十七年に、楊折中は五十六歳で、官位は殿前《でんぜん》都指揮使《としきし》、すなわち近衛軍団総司令官であり、爵位は恭国公《きょうこくこう》であった。
 後年、楊折中が致仕したとき、高宗は、「あの男がいてくれぬものだから、もう三晩も不安でろくに眠れぬ」と語っている。『宋史』は楊折中について、「勇敢で忠実な人だが、それにしても何と幸運な人生であったか」と評している。岳飛が健在であったら、「何であのていどの男があんなに出世するのだ」といったにちがいない。
「恭国公は実戦経験が豊富で、上《しょう》のご信頼も厚い。かならず一軍をひきいていただかねばなりませぬ」
「恭国公のほかには……」
「さよう、寧国軍《ねいこくぐん》節《せつ》度使《どし》の李《り》将軍ははずせぬかと存じます」
 李将軍とは李顕忠《りけんちゅう》のことである。
 ありふれた表現ながら、李顕忠は数奇な運命の人であるといえよう。もともと宋の有名な武門に生まれた。初陣《ういじん》は十七歳のときであるが、ただひとりで十七人の金兵と戦ってその全員を斬りすて、たぐいまれな武勇をあらわした。その後、家族が金軍の人質になり、しかたなく金軍の将となった。四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼に武勇を高く評価されたが、いつかかならず宋に帰順《きじゅん》するつもりだった。彼の父である李《り》永《えい》奇《き》から、宋王朝への忠誠心をたたきこまれていたのである。
 ついに機会を見て、李顕忠は宋への脱出を実行した。父親と充分、計画を練《ね》った上でのことだが、父親は脱出に失敗し、一族郎党二百余人、すべて追跡してきた金軍によって殺された。惨劇の場所は馬翩谷《ばしょうこく》という峡谷で、降りつもった雪が人血に溶かされて赤い河をつくったという。
 李顕忠は一族を救うことができず、わずか二十六騎の部下をひきいて西へ走った。宋に通じる南方への道はすべて封じられていたので、西の国境を突破して西夏の国にはいったのである。ここで西夏国王に依頼されて、「青面夜叉《あおおに》」と称する勇猛な土豪を討伐した。李顕忠はこのとき三千の西夏騎兵をひきいて五万の敵と戦い、一方的な勝利をおさめ、青面夜叉を捕虜としたのである。
 喜んで西夏国王は李顕忠を厚遇したが、もとより西夏に永住する気はない。西夏軍が金に攻めこんだとき、同行して延安《えんあん》城を陥《おと》し、そこで彼の一族を殺した者たちを発見して、ことごとく斬った。一族の復讐を果たしたので、いよいよ宋に帰順しようとしたが、西夏軍が承知しない。李顕忠を裏切者よばわりして攻撃してきたので、李顕忠も反撃した。八百騎の兵で四万の西夏軍を斬り散らしたというから、戦闘における李顕忠の強さは底が知れない。
 こうしてついに李顕忠は宋への帰順を果たした。秦嶺をこえ、四川にはいって呉《ご》※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]《かい》の歓迎を受け、杭州臨安府に到着して高宗皇帝に拝謁する。ときに宋の紹興九年(西暦一一三九年)、李顕忠は三十歳であった。なお、李顕忠の本名は世《せい》輔《ほ》というのだが、顕忠という名を高宗皇帝から賜わって、このとき改名したのである。
 宋、金、西夏と三つの王朝につかえた李顕忠も、紹興二十七年には四十八歳。かつては為人《ひととなり》も用兵も剛烈《ごうれつ》そのものであったが、いまはともに円熟の域にはいっている。四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼が、「あの男に負けたくないのなら最初から戦わぬことだ」と語ったほどの戦闘力は、宋軍にとって大きな力となるはずであった。
 ただ、李顕忠を全軍の総帥とするわけにはいかない。楊折中より年齢も若く、宋での軍歴も浅いから、李顕忠が総帥となったのでは楊折中が承知しないであろう。結局、名目《めいもく》的に高位の文官が総帥となり、劉錡、楊折中、李顕忠といった老練の実戦派武人がそれを補佐する、という形になりそうであった。いまさらいっても詮《せん》ないことだが、岳飛が健在であればこの年五十五歳で、あらゆる面から見て、宋軍の総帥となりえたにちがいない。
 この年四月、子温の官職は、工《こう》部侍《ぶじ》郎《ろう》となり、屯田員外郎《とんでんいんがいろう》を兼ねた。公表できない子温の功績に対して、昇進という形で高宗は報いたのである。
 このまま世が平和にうつろえば、子温の前途には官僚としての順調な人生が待っているはずだ。だが、金軍の大侵攻が数年後にひかえている以上、文官としての境遇に安住してはいられなかった。帰宅して、奥にしまいこんだ甲冑《かっちゅう》を取りだす。父が健在なころ、つまり子温が十四、五歳のころに着用していたもので、もはや着用に耐えない。新調するしかなさそうだった。
 ふたたび甲冑を櫃《ひつ》にしまいこんでいると、母が姿を見せた。息子が何をしていたのか、見ただけでわかったようだが、それについては何もいわなかった。かわりに、天候の話でもするような気軽さで声をかけた。
「ああ、子温、お前の縁談をまとめておいたからね。五月になったら花嫁に会うことになる。せいぜいおめかしするんだよ」
 鈍い音がした。かかえていた櫃が子温の足の上に落ちたのだ。眼から極彩色の火花が散る。ようやく苦痛と驚愕が去って、声が出たのはたっぷり百を算《かぞ》えてからだった。
「おれはまだ嫁をもらう気はないよ。彦質や彦古のほうを先にしてやればいい。だいたいこんな急に……」
 床にすわりこんで足をさすりつつ、子温は抗議した。梁紅玉は平然として抗議を受け流した。
「長幼《ちょうよう》の序《じょ》というものがあるからね。お前が嫁をもらわないかぎり、彦質も彦古も結婚できないじゃないか。国を救うより先に弟たちを救うのが長兄の責務《つとめ》ってものだろ」
「あのな、阿母《かあちゃん》……」
「まったく甲斐《かい》性《しょう》のない息子を持つと苦労するよ。お前の阿爺《とうちゃん》は京口《けいこう》一の美妓《びぎ》に惚《ほ》れられるほどいい男だったけどねえ」
 子温は頭をかかえた。努力し準備すれば金国百万の大軍には勝てるかもしれぬが、どう悪あがきしたところで、この母には勝てそうもなかった。

    三

 完顔雍《かんがんよう》は楼上で夕陽を眺めていた。東京府遼陽《とうけいふりょうよう》城の西は茫漠《ぼうばく》たる曠《こう》野《や》である。乾いた地表から幾億幾兆のこまかい塵《ちり》が宙天高く舞いあがって、それが落日の光を乱反射させる。ために太陽は人血を塗りかためたかのように深《しん》紅《く》の円盤となって沈んでいく。紅塵《こうじん》である。視界ことごとくが紅《あか》く染まって、天と地との境界を分かつものは黄金色の小波《さざなみ》となって揺動する地平線のみである。ただ一条、銀色の帯が紅い礦野にきらめくのは遼河《りょうが》の流れだ。
「紅塵とはすなわち騒がしい世のことをいうが……ついに無名の師《いくさ》を起《おこ》して国を害《そこな》うか」
 吐息すら紅く染まりそうな曠野の落日であった。
 金の正隆《せいりゅう》六年、宋の紹興三十一年、西暦一一六一年の夏。ついに金主完顔亮は伐宋の大軍を起《おこ》した。百万の兵をそろえることには失敗したが、それでもなお六十万の兵を集め、三十二の総管《そうかん》(軍団)を編成して南下を開始したのである。一部重臣の反対を一蹴《いっしゅう》し、続発する叛乱《はんらん》を無視し、空《から》の国庫から目をそむけ、民衆の怨《えん》嗟《さ》の声に耳をふさいで。
 子温たちと会ったとき、雍の封爵は趙王《ちょうおう》であった。現在は曹国公《そうこくこう》である。王から公へ、格下げにされたのだ。何ら失敗を犯したわけでもなく、一種の政治的な挑発と見るべきであろう。
 ――私が激発するのを待っているのだ。
 そう雍は思わざるをえない。そもそも、これまで無事でいられたほうが不思議なのだ。雍が少年時代に親しんでいた皇族たちは、亮の手でほとんど一掃されてしまった。こんなことになろうとは、かつて誰が想像したであろう。
 十九年前のことを、ふと雍は回想した。岳飛が殺され、宋との和平が成った当時のことである。早春、風はなお寒く、野営する金軍の陣を吹きぬけていった。幕舎のなかで、雍は叔父《おじ》である四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼から問われたのだ。将来、金国の皇族として、女真族の指導者として、どのような抱《ほう》負《ふ》を展《の》べるか、と。雍は答えた。
「女真族と漢族、それに契丹族も、なるべくたがいに争わず、それぞれの特長に応じて仲よく共存できればよいと思うのですが」
「孩子《こども》の夢みたいなことをいうな、お前は」
 あきれたように宗弼は雍を見やる。そのようなことが可能であるなら、戦場での流血も宮廷での陰謀も地上から消え去るであろう。甥《おい》の甘い理想を戒《いまし》めようとして、宗弼はやや表情を変えた。
「お前ならそれができるというのか」
「私でなくともできましょう。ただ誰もやろうとしないだけだと思います」
「ふん、賢《さか》しげにいいおるわ」
 宗弼は笑った。好意的な笑いであった。彼はこの沈着で思慮ぶかい甥が好きだった。才気の鋭さ華《はな》やかさにおいては亮がはるかにまさる。だが、天才の鋭気よりも凡人の誠実さのほうが、しばしば世を動かし百姓《じんみん》を救うこともあるのだ。
 金の皇族はつねに陣頭に立つ。このとき宗弼はふたりの甥を陣にともなっていた。長兄|宗幹《そうかん》の子|亮《りょう》と、三兄|宗《そう》輔《ほ》の子|雍《よう》である。亮は二十一歳、雍は二十歳。ともに金の次代をになう俊秀《しゅんしゅう》であり、稀《き》代《たい》の雄将である宗弼のもとで実戦の経験をつんでいた。
 宗弼は甥たちを観察している。これは対宋戦役の総指揮にも劣らぬ重要な任務だった。それによって次代の金国の統治者が決定されるかもしれないのだから。
 宗弼の見るところ、亮は才気抜群だが情緒が不安定で衝動的なところがあり、どうにも危うくてならぬ。彼の父宗幹は大《ター》太《ター》子《ツ》と敬称され、太《たい》祖《そ》皇帝の長男でありながら帝位継承からはずされていた。力量も人望もある宗幹にとっては残念であったろうが、不平を鳴らすことはまったくなく、太宗《たいそう》と煕《き》宗《そう》と、二代にわたり重臣として忠誠をつくした。
 だがどうやら息子の亮はそれが不満だったようだ。本来なら帝位は祖父太祖皇帝から父宗幹へ、さらに自分へと受けつがれるはずではないか。そう考えているようすが、ありありと見える。宗幹は沈《ちん》毅《き》な人で、不満を絶対に口にしなかったが、あるいは家に帰って酒の数杯も酌《く》めば、つい|ぐち《ヽヽ》が出たかもしれない。なぜ母親の身分が低いからといって、自分が帝位継承からはずされなくてはならぬのか、と。その心情は宗弼にもよくわかる。大《ター》太《ター》子《ツ》は皇帝たるにふさわしい人物であった。だが息子の亮はというと、宗弼は、否定的にならざるをえない。
 後年、宗弼の子らは、亮によってことごとく殺害される。それを予測したわけでもないが、亮に対する警戒心を宗弼は消せずにいた。
 それは金の皇統《こうとう》二年、宋の紹興十二年、西暦一一四二年の一月。陣営に在《あ》る宗弼の顔色はすぐれなかった。先日、彼の愛馬|奔龍《ほんりゅう》が老いて死んだのである。鄭重《ていちょう》に葬《とむら》うよう指示する文書を雍に託そうとしたとき、亮が幕舎に駆けこんで来て大声で告げた。宋より公式発表がもたらされ、枢密《すうみつ》副《ふく》使《し》の岳飛が処刑された、というのである。
 四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼は声を失った。
 たしかに彼は和平の条件として、岳飛の死と岳飛軍の解体を要求した。だが、それは外交上の交渉技術というものである。金は金の条件を出し、宋は宋の条件を出す。そこから交渉がはじまり、妥協や譲歩がおこなわれて和約が成立するのだ。そうなるまでの段階で、とくに最初のうちは強い姿勢を見せるのが当然であった。
 金の国内事情は、和平を渇望している。その弱みを宋に知られぬためにも強気を示すしかない。宗弼としては、岳家軍の解体は譲れぬ条件であったが、岳飛は官位の剥奪、そして杭州臨安府からの追放というところで妥協が成立するだろう、と見ていた。それ以上のことを望んで、講和が不成立になっては元も子もない。
 それが岳飛ばかりか養子の岳雲《がくうん》まで処刑され、一族ことごとく流刑となり、名誉と財産を奪われたという。宋では「言論によって士《し》大《たい》夫《ふ》を殺さぬ」のだから、講和に反対したという理由では死刑にできぬはずではないか。
「岳《がく》爺爺《やや》は不軌《むほん》をたくらみ、その陰謀が露《ろ》見《けん》したので殺された由《よし》にございます」
「ばかな……」
 四《スー》太《ター》子《ツ》はうめいた。岳飛が宋朝に不軌《むほん》をたくらむなど、ありえないことである。宗弼が金国に不軌をたくらむなどありえないように。秦檜が非常の策に出たことは明白であった。
「だが、いかに和平が至上の命題だとしても、そこまでやるか」
 ふたたび宗弼がうめいたとき、亮が皮肉っぽく口を開いた。
「四《スー》太《ター》子《ツ》、そのお考えは逆でしょう」
「逆? どういう意味だ」
「秦|丞相《じょうしょう》は講和を結ぶために岳爺爺を殺したのではありますまい。岳爺爺を殺すために講和を利用したのです。順序が逆です」
 息をのんで、宗弼は甥を見つめた。亮は黙然と叔父《おじ》を見返す。そのていどのことがわからぬか、と、自分の智《ち》を誇る表情であった。その点は不愉快であったが、たしかに亮の智を宗弼は認めざるをえない。
 岳飛が勝利をかさね、実力を蓄《たくわ》え、発言力を強めるほど、秦檜の権勢は危うくなるのだ。この際、金国の外交的要求を奇貨《きか》として、岳飛を抹殺する。金国に対しては、岳飛を殺すという条件をのんだという理由で他の条件について譲歩を求めることもできる。譲歩を引き出したということで、秦檜は功績を誇示できる。一石二鳥どころではない。岳飛を殺すことで秦檜はどれほど多くのものを手にいれることか。
 宗弼の耳に歓声が聴《き》こえた。高く低く、さながら黄河の水音のように。金軍の将兵が狂喜して騒ぎまわり、それが本営に伝わってきたのである。
「あいつらは何を喜んでおるのだ」
 宗弼の問いに、かたい表情で答えたのは、もうひとりの甥雍である。
「むろん岳爺爺が死んだことを喜んでいるのでございましょう。彼《か》の御仁は、わが国にとって、人の形をした災厄でございましたゆえ」
 亮や雍が岳飛の名を呼びすてにせず、岳爺爺と呼ぶのは、金軍がいだく敬意のあらわれである。宗弼は眉をしかめると、ふいに立ちあがった。無言のうちに幕舎を出る。まるで祭礼のような騒ぎのなかに踏みこむと、彼の姿に気づいた士官たちがあわてて礼をほどこした。形だけ礼を返して、宗弼は問いかけた。
「おぬしら、いったい何を喜んでおるのだ」
「むろんのこと、岳爺爺が死んだと聞いて、みな狂喜しておるのでございます」
「ほう、岳爺爺が死んだのか」
「四《スー》太《ター》子《ツ》さまにはご存じなかったので?」
「岳爺爺が死んだのか。それはめでたい」
 士官たちの不審を無視して宗弼は声を大きくした。
「では岳爺爺を殺した者に、おれが千金の報賞をくれてやるとしよう」
「四《スー》太《ター》子《ツ》さま……」
「誰が戦場で岳爺爺を討ちとった? 大金国最高の勇者は誰だ。名乗り出よ!」
 士官たちは静まりかえった。四《スー》太《ター》子《ツ》が憤怒していることは、いまや誰の眼にも明らかであった。金軍の手で岳飛を討ちとったのならともかく、宋国内部の陰謀によって殺されたのを喜ぶのは恥ずべきことであった。これ以後、金軍の雰囲気はむしろ喪《も》に服しているように見えたという。
 この年の五月、煕宗皇帝の生辰《たんじょうび》を祝賀するため、宋の重臣|沈昭遠《しんしょうえん》らが高宗の使者として上京会寧府《じょうけいかいねいふ》を訪れた。金では数人の重臣が接待にあたったが、その一員となった雍は、非礼を承知でいわずにはいられなかった。
「このたびは本朝《わがくに》のために岳爺爺を殺していただき、まことにありがたく存ずる。かの御仁は、兵を用《もち》いること神のごとく、『精忠岳飛《せいちゅうがくひ》』の軍旗を見ただけで、わが軍は馬首をめぐらすほどでござった。その岳爺爺が亡《な》きいま、われらは二十年ぶりに安眠できます。それにしても貴国が友《ゆう》誼《ぎ》のためには忠勇無双の功臣すら殺してくださる国だとわかり、深い感銘を受けました」
 これほど痛烈な皮肉を敵国人から投げつけられるとは、想像もしていなかったであろう。沈昭遠は羞恥《しゅうち》のために赤くなり、ついで屈辱のために蒼ざめた。さして同情する気には、雍はなれなかった。岳飛の不当な死に関して、沈昭遠個人に罪があるわけではない。だが、無念といえば岳飛自身やその遺族のほうが、はるかに無念であるはずだった……。

    四

 夜の帳《とばり》がおりて、雍は留守府《りゅうしゅふ》の書斎に非公式の客人を迎えた。黒蛮竜《こくばんりゅう》である。彼はこの五年間、金国内を縦横に歩きまわっていた。梁紅玉|母子《おやこ》を秦嶺まで送り、草原や砂漠で辺境の情勢をさぐり、雍に期待する武将や官僚との間に連絡網をつくった。この夜、八ヶ月ぶりに雍のもとへ報告に訪れたのである。
「契丹族の叛乱は拡大する一方でございます。このままでは興安嶺《こうあんれい》一帯が離反しましょう。さらには軍中に在《あ》る契丹族も叛乱に呼応するやもしれませぬ」
 黒蛮竜はそう報告し、さらに、西夏国の向背《こうはい》にも不気味なものがある、と告げた。
「西夏も好んで本朝《わがくに》に服属しているわけではないからな」
「はい、つねに本朝の隙をうかがっております。西夏の内部には、かつての宋ならともかく、本朝に服属するのは耐えがたい、という声もあるようで」
 もっともだ、と、雍は苦笑した。金国を建てた女真族も、西夏国を建てた党項《タングート》族も、漢民族と対立してきたが、それでも漢文化を尊敬し、おたがいを自分たち以下の蛮族だと思っているのだった。
「それと、どうか副留守《ふくりゅうしゅ》にご油断なさいませぬよう」
 雍の官職は東京留守である。彼を補佐するために副留守がいる。副留守の姓名は高存福《こうぞんふく》というが、形は補佐役であっても正体は監視役であった。
「よくわかった。心しよう。これからも、気づいたことは何でも私に言ってくれ」
 そんなことはわかっている、と、亮ならいうであろう。雍は亮とちがう。他人の忠告が得がたいものであることを雍は知っていた。自制心と自律心の強さが、公人としての雍の美点であり、私人としておもしろみに欠けるところであったろう。亮はといえば、先日、必死で伐宋を諫《いさ》めた宰相の※[#「糸+乞」、unicode7d07]石烈良弼《きっせきれつりょうひつ》を追放している。殺さないだけましであったろうか。
 完顔亮のこの時代、いまひとりの金国の宰相は張浩《ちょうこう》という人である。姓は張、名は浩、字は浩然《こうぜん》。女真族でも漢族でもなく、かつて栄えた渤海《ぼっかい》国の名門の出身者であった。渤海語・契丹語・女真語・漢語を使いこなす語学の達人で、中国古典の教養にも富み、何よりも行政手腕にすぐれていた。礼部尚書《れいぶしょうしょ》をつとめていたとき、宮廷で人事抗争がおこり、一時的に、彼以外の大臣がすべて空席になってしまった。そのとき彼がひとりですべての大臣職を兼任して国政を処理し、まったくとどこおらせなかった。
 煕宗のもとでも海陵《かいりょう》のもとでも、張浩は宰相をつとめた。ということは、両帝の暴政に対して、いくらかの責任はまぬがれない、ということになるだろうか。だが、どうやら張浩は、自分自身の職責を限定していたようだ。ひたすら行政事務の処理に専念し、よけいな意見などいわなかった。
 その張浩が、ついに雍に対して秘かに働きかけてきた。即位とか起兵とか、露骨なことはいわないが、国を救うために最善の方法をとってほしい、というのである。事態はそこまで来ていたのだ。雍は黒蛮竜の顔を見なおして口を開いた。
「岳爺爺の悼《いた》むべき最期とともに、英雄の時代は終わったのだ。金でも宋でも」
「は……」と、黒蛮竜の反応は当惑げである。彼は雍を全国の真天《しんてん》子《し》、女真族の英雄、救世の人傑《じんけつ》と信じている。だからこそ生命がけで彼のために働いているのだ。雍は黒蛮竜を信頼し、彼に感謝している。だが、あまり英雄視されるのは不本意であった。
「私は英雄ではない。英雄になりたいとも思わぬ。英雄にできないことを、誠意をもっておこなうだけだ」
「ご謙遜を」
「いや……」
 謙遜ではない、と言いかけて、雍は口を閉ざした。彼自身が戒《いまし》めていればよいことだ、他人に押しつけることはない、と気づいたのである。
 後に世《せい》祖《そ》皇帝となる雍は、胸に七つの小さな黒子《ほくろ》があり、それが北斗七星の形に見えたという。英雄伝説の典型的なものである。英雄であることを否定しつづけた雍自身にとっては意味のないことだった。
「そうそう、興安嶺の西に住む契丹族の長老から、奇妙な話を聞きました」
「ほう?」
「興安嶺のはるか西には、蒙古《モンゴル》と呼ばれる騎馬遊牧の蛮族どもが住んでおりますが、その一部族長の家に、先ごろ男児が生まれたとか。その赤ん坊が掌《てのひら》に血の塊《かたまり》をにぎって生まれてきたので、吉か兇か、当地の巫術師《シャーマン》どもが騒いでおるやらに聞いております」
 黒蛮竜の話にそれほど興味をいだいたわけでもなかったが、礼儀上、完顔雍は応じた。
「血の塊とは、あまり吉兆とも思えぬが、その赤ん坊の名は何という」
「それがしも興味を持ちましたので、聞いておきました。たしか鉄木真《テムジン》とやら申すとか」
 そうか、とだけ答えて、雍は眼を閉じた。
 契丹族よりさらに西北の辺境で蠢動《しゅんどう》する蒙古族などに、彼が必要以上の関心を寄せる理由もない。彼は女真族を再生させ、金国を建てなおさなくてはならなかった。血の塊をにぎって生まれてきた赤ん坊などに騒ぎたてるというのは、未開の民である蒙古族が英雄を必要としているからだろう。だが金国にはもはや英雄は不要なのだ。

 宋の紹興三十一年(西暦一一六一年)秋、高宗は主戦派の文官|張浚《ちょうしゅん》を宮廷に呼びもどした。官は判建康《はんけんこう》府《ふ》および行宮留守《あんぐうりゅうしゅ》。目前にせまっている金軍の大挙侵攻にそなえて、最前線地帯の行政を統轄《とうかつ》することになったわけだ。ことに「行宮留守」というからには、高宗が杭州臨安府を放棄するときには、張浚が首都防衛の大任にあたることになろう。
「ま、これはこれでよし、ということですな」
 虞允文はそう評した。張浚はすくなくとも敵の大軍を前にして怯《ひる》むような人物ではない。独善的ではあるが剛《ごう》毅《き》で決断力に富む。金軍を撃退するために全力をつくし、生命すら惜しまぬであろう。前線に立つ将兵は、後背の不安なしに敵軍と戦うことができるはずであった。
 同時に、虞允文は江淮軍参謀《こうわいぐんさんぼう》に任じられ、子温は江淮軍副参謀となった。事実上、少壮の彼らふたりが対金作戦の主役となったのである。子温の、文官としての人生は一時、中断されることになった。あるいは、一時ではなく、永遠かもしれない。
 すでに金国に潜入している諜者たちから、大軍が燕京《えんけい》を進発したとの情報がもたらされていた。実数六十万の兵を百万と号し、金主完顔亮が自らこれを統率している。全軍は三十二の総管(軍団)に分かたれ、河《か》北《ほく》の空は旌《せい》旗《き》におおわれている、と。
 欽宗の涙と岳飛の血とによって購《あがな》われた平和は、二十年目にして破られた。子温の亡父韓世忠らの努力も無になった。
 父のことを、あらためて子温は考えた。韓世忠は政治がわからぬ人だった。彼にとって政治とは、かつて白居《はくきょ》易《い》や蘇軾《そしょく》が杭州でおこなったようなことだった。民衆のために害を取りのぞき、彼らの生活を平穏にすること、それが韓世忠の考える政治だった。
 それに対して、秦檜が無実の岳飛を獄中で殺害したこと。高宗が兄欽宗の帰国をはばみ、北方の曠野で抑留生活を送らせていること。それが政治というものだ、といわれても、韓世忠は納得できないであろう。それでは政治とは、権力者が他人を犠牲にしてそのことを正当化する技術であるにすぎないではないか。
 岳飛が殺され、韓世忠が宮廷を去ったとき、一部の文官たちは意地悪くささやきあったものだ。岳飛は学問があったから警戒されて殺され、韓世忠は無学だから殺されずにすんだ、ときには無学も身を助ける、と。
 そのとき梁紅玉は静かな口調で文官たちにいった。
「妾《わたくし》の夫は無学ですが無恥ではございませんよ」
 文官たちは恥じ、かつ恐れて沈黙したという。
 父のことを「政治がわからぬ無学者」と嘲笑《ちょうしょう》する者は、そうするがよい。子温は父を尊敬する。そして、父たちが守りぬいたこの国を守らねばならない、と思う。この四年間、金の使者や諜者に知られぬよう、また国内に恐慌《きょうこう》を来《きた》さぬよう、ひそかに戦略の立案や防御力の整備にあたった虞允文らの苦労を生かして、金主の野望をうちくだくのだ。
 紹興三十一年(西暦一一六一年)九月、北の国境から急報がもたらされた。ついに金軍が淮河に達し、浮梁《うきばし》をかけつつある、というのである。
 ついにその時が来たのだ。子温たちが杭州臨安府に帰還してから四年半後のことであった。

 

 

 

百读不厌的世界经典读物 热门 推荐