紅塵

紅塵的背景是在南宋年代﹐開場在靖康之難後十幾年﹐千古罪人秦檜去世﹐宋高宗正式掌握國權..

 

作者:田中 芳樹


目 次

 第一章 江南《こうなん》冬《とう》雨《う》
 第二章 密命
 第三章 黄天蕩《こうてんとう》
 第四章 渡河
 第五章 燕京《えんけい》悲歌《ひか》
 第六章 趙王府《ちょうおうふ》
 第七章 莫《ばく》須《す》有《ゆう》
 第八章 前夜
 第九章 采石《さいせき》磯《き》
 第十章 長江無尽《ちょうこうむじん》

第一章 江南《こうなん》冬《とう》雨《う》


    一

 低く垂《た》れこめていた雲の一部が割れて、初冬の陽《ひ》が一条の光を地上へ投げ落とした。だが天候が回復したわけではなく、細い冷たい雨滴の列が灰色の線となって天と地とをつなぎつづけている。
 朱色の欄干《らんかん》ごしに、男は雨をながめていた。年齢は五十歳前後であろう。まとった絹の袍《ほう》には、竜を図案化した刺繍《ししゅう》がほどこされている。「袞龍《こんりゅう》の袍」と呼ばれ、地上で彼ひとりが着ることを許されるものであった。男の姓は趙《ちょう》、名は構《こう》、字は徳《とく》基《き》。死後、宋の高宗《こうそう》皇帝と呼ばれるようになる。
 宋の高宗の紹興《しょうこう》二十五年(西暦一一五五年)十月。首都|杭州臨安府《こうしゅうりんあんふ》はめずらしく陰気な雨に閉ざされている。長江《ちょうこう》の南、銭塘江《せんとうこう》の河口にのぞむ温暖の地で、港には中国と諸外国との船があふれ、市場には米と肉と魚と果実とが積みあげられ、人口は増加をつづけて百万にも達しようとしている。陸路から水路から、人と物資とが集まり、街路を歩けば大食《アラビア》や波斯《ペルシャ》から渡来した人々と肩がぶつかりあう。隋《ずい》の時代から商都として繁栄し、白楽天《はくらくてん》や蘇《そ》東《とう》坡《ば》のような文人が、この地の風光を愛してやまなかった。この城市《まち》が同時に政治の中心となったのは、まさに彼、宋の高宗の御宇《みよ》である。高宗は宋の第十代の天子、そして杭州を首都とする南宋《なんそう》の初代の天子であった。
 高宗は待っていた。ここ十数日、ひたすら待ちつづけていた。平静をよそおうためには、すくなからぬ努力を必要とした。だが、待つのは彼の特技だった。二十年間、待ちつづけてきて、ここ十数日が最後の局面だった。解放の日は目前にあった。
 ひそやかな足音が背後におこって、高宗は全身を緊張させた。十歩ほどの距離をおいて、みがかれた石の床に人影がひざまずいた。
「陛下、陛下!」
 呼びかける声は、奇妙に高い。黒《こく》衣《い》黒帽《こくぼう》の服装からも、髭《ひげ》のまったくない年齢不明の容貌からも、その人物が宦官《かんがん》であることがわかる。
 ゆっくりと高宗は振りむいた。陰気な雨の幕を背おって、天子の顔は灰色に沈んでいる。その表情をさぐりながら、宦官は、小さいが高い声で報告した。
「丞相《じょうしょう》はつい先刻、息を引きとりましてございます」
 瞬間、高宗の表情は空白だった。つづいてそれは激しく変化した。まさしく彼が待ちつづけていた報告であった。鼓動がとどろきとなって高宗の体内を満たした。彼は呼吸をととのえ、声を発した。自分のものとは思われぬかすれた声を、彼の耳は聴《き》いた。
「たしかじゃな、その報は」
「万にひとつもまちがいございませぬ。丞相|秦檜《しんかい》は六十六歳をもって薨《こう》じましてございます。おっつけ正式の訃《ふ》報《ほう》がまいりましょう」
 宦官の視線が、ふたたび皇帝の表情をさぐった。いまではそれは、自《じ》失《しつ》に近い安《あん》堵《ど》に落ちついていた。音もなく皇帝の身体が揺れた。
「陛下!」
 宦官の声に狼狽《ろうばい》の気配がまじった。高宗の身体が床にくずれおちたからである。あわてて近よろうとして、宦官は立ちすくんだ。床にへたりこむと、調子のはずれた声で、高宗は笑いだしたのである。
「ははは……そうか、死んだか、死におったか」
 笑顔は、だが快活さとは無縁のものであった。悪い酒に酔ったかのように顔がほてり、汗の流れが光った。
「死におった。秦檜めが死におった。だが、予《よ》はまだ生きておるぞ。予の勝ちじゃ。予が勝ったのじゃ!」
 つつましげに沈黙を守る宦官の前で、高宗は床に掌《てのひら》を打ちつけた。それが不意にやんで、高宗は床から身をおこした。
「誰じゃ、そこにおるのは!」
 高宗が睨《にら》みつけたのは一枚の屏風《びょうぶ》であった。絹が張られ、雲《うん》母《も》と瑪《め》瑙《のう》をもって花鳥図が描かれている。その蔭《かげ》に何者かが身をひそめていた。動かした身体が屏風にあたって音をたてたのである。奇声を発して宦官が飛びあがり、小走りに屏風へと近よる。観念したように、その人物が姿を見せた。
 高宗の侍医をつとめる王継先《おうけいせん》であった。つややかな頬《ほお》と細い髭とが、わずかに慄《ふる》えている。ひざまずき、何やら弁明をはじめようとしたが、立ちあがった高宗は冷然と決めつけた。
「継先よ、予のことを誰に知らせるつもりか」
「は、な、何のことやら臣《しん》にはいっこうに……」
「そなたを飼っていた丞相は、すでに死んだ。痴者《しれもの》め、予が知らずにいたと思うか!」
 王継先は色を失った。皇帝に見ぬかれたとおり、彼は丞相の密偵であった。侍医という職権を利用して、彼は、高宗の言動や健康状態を丞相に知らせていたのである。天子でありながら、高宗は、丞相に監視される身であった。だが、その屈辱も今日で終わりである。
「お、お赦《ゆる》しを、陛下」
 王継先は床にはいつくばった。恐縮と後侮との象《しるし》に、彼は床に額《ひたい》を打ちつけた。耳ざわりな音に、泣かんばかりの弁明がつづいた。
「すべては丞相より強要されてのことでございます。臣は身分ひくく力よわき者なれば、丞相の専横《せんおう》に逆らう術《すべ》もございませなんだ。逆らえば臣の生命はなかったでございましょう。何とぞお赦しを」
 不快げに眉《まゆ》を傾斜させて、高宗は侍医の狂態をながめていたが、やがて手を振った。
「行け。咎《とが》める価値もないわ」
 何かいおうとして口を封じられ、侍医はみじめに退出していく。その背に、宦官が声を投げつけた。「追って御沙汰《ごさた》がございましょうぞ」――出すぎた行為に見えるが、むしろ宦官は侍医を気の毒に思ったのであろう。
 ――権力とは滑稽《こっけい》なものだ。
 高宗はそういう感慨をいだいたかもしれぬ。だが滑稽さを自覚しつつも、それを放棄しようとは思わなかった。放棄するどころか、高宗にしてみれば、ようやくそれを手中におさめた思いである。およそ二十年の長きにわたって、宋の最高権力は、皇帝の手にはなかった。それは丞相(宰相)たる秦檜の手中にあった。皇帝の名のもとに、秦檜が独裁権力をふるいつづけ、文武百官は声をのんで彼に服従したのだ。
 否《いな》、百官どころか天子でさえもそうであった。

 高宗は宋朝第八代の天子|徽《き》宗《そう》皇帝の九男である。上に八人もの兄がおり、本来は玉座《ぎょくざ》にすわるべき機会はなかった。それが至《し》尊《そん》の地位をえることができたのは、巨大な災厄《さいやく》が中華帝国をのみこんだからである。血まみれの狂濤《きょうとう》から彼ひとりが脱出することができたのだ。
 徽宗皇帝の宣《せん》和《な》七年(西暦一一二五年)、北方より金《きん》国の大軍が鉄の奔流《ほんりゅう》となって南下し、首都|開封《かいほう》を占拠した。国難に対して無為無策であった徽宗は、翌年、皇太子に玉座をゆずって退位し、上皇《じょうこう》となる。即位した皇太子は、その年を靖康《せいこう》元年と改元する。これが欽宗《きんそう》皇帝である。彼は国の建てなおしを図《はか》ったが、靖康二年(西暦一一二七年)、父とともに金軍の虜囚《りょしゅう》となり、はるか三千里の彼方にある五《ご》国《こく》城へつれさられた。歴史上これを「靖康の難《なん》」と呼ぶ。そのとき、徽宗上皇は四十六歳、欽宗皇帝は二十八歳。そして戦火と混乱のただなか、金軍の追跡からのがれて長江を渡った高宗は二十一歳であった。
 こうして高宗は天子となったのだが、彼の即位の正統性について疑問視する声は絶えなかった。兄の欽宗は生存しており、正式に退位してはいないのである。紹興二十五年になっても、欽宗は、荒涼たる北方の原野で抑留《よくりゅう》生活を送っており、すでに五十六歳となっていた。むろん彼は帰国を望んでやまなかったが、再建された宋の朝廷は、それを望まなかった。いまさら欽宗に帰還されても、こまるのである。
 むろん、もっともこまるのは高宗である。
 多くの犠牲をはらって宋と金との間に和約が成立したとき、皇太后(徽宗の皇后)韋氏《いし》は夫の遺体とともに帰国することができた。異境にとりのこされることになった欽宗は、涙ぐんで皇太后に訴えた。
「帰国したら、弟と丞相とに伝えて下さい。私はふたたび帝位に即《つ》こうなどとは思っていない。太乙宮使《たいいつきゅうし》にしてもらえれば充分です」
 太乙宮使とは道教寺院の役職である。それになりたい、というのは、仏教でいうなら出家して俗界と縁を切る、ということである。三千里をへだてて、欽宗は弟の心理を正確に洞察していた。どれほど広大な国であろうと、玉座《ぎょくざ》には、ひとりがすわるだけの余地しかないのだ。帝位などいらない、帰国さえできれば欽宗は満足だった。
 帰国した皇太后は、何とか欽宗の希望を高宗に伝えようとした。高宗は皇太后を鄭重《ていちょう》にあつかったが、めったに会うことはなく、会っても兄のことを話題に出すことは一度もなかった。無言と無視とが、高宗の意思表示であった。皇太后は口を封じられた。北方の荒野に抑留されたままの欽宗を憐《あわ》れに思いつつも、どうする術《すべ》もなく、やがて皇太后は亡《な》くなった。
 高宗は権力のために兄を見すてた。といって、非情に徹することもできず、内心に後味の悪さをかかえこみ、それが負担となって彼を心楽しませなかった。そのことを秦檜は承知していた。高宗が彼に逆らおうとすると、秦檜は薄く冷たく笑う。その笑いは高宗をひるませる。高宗の想像のなかで、秦檜はささやくのだ。
「私を追放なさるなら、どうぞご自由に。ですがそのときは陛下も道づれですよ。陛下が兄君のご帰還を望んでおられず、私に命じて金国と交渉するよう命じられたこと、天下に知れまするぞ」
 さらに秦檜のささやきは続く。
「そうなれば陛下は天下の信を失います。むろん私が追放されれば、金国が黙ってはおりませんよ。和平条約が破られたとみなし、大軍をもって国境を突破してまいりましょう。陛下はおそれおおくも玉座と、それ以上に貴重なものを失われることになります。そして金国は陛下の兄君を幽囚から解《と》き放ち、傀儡《かいらい》の皇帝として推《お》したてることでしょうな」
 声のない笑いが高宗をたじろがせる。
「考えてみれば、もともと玉座は兄君のものでございました。陛下はそれを横どりなさったも同様。道義的に陛下は簒奪《せんだつ》者であらせられる。悔《く》いあらためて帝位を返上なさるべきかもしれませぬ。だができるはずがございませんな、ふふふ……」
「悪魔め」と、高宗は喚《わめ》きたかったであろう。だが秦檜を否定することは、高宗自身の正統性を否定することであった。秦檜を憎悪しつつい高宗の生きる道は、彼との共存しかなかったのだ。それはしかたがない。だが高宗が心配するのは将来のことであった。高宗の皇太子は幼くして死亡していた。
「もし予が死ねば、誰をつぎの皇帝とするか、秦檜めの思いのままであろう。予には男子がおらぬからな。だがそこまで奴の思いのままにはさせぬぞ。かならず奴より長生きしてやる」
 こうして十八年にわたり、皇帝と宰相との暗闘がつづくことになる。中華帝国の歴史上、例を見ぬ奇怪な君臣の関係であった。
 普通に考えれば、高宗が必死になる必要はない。秦檜は高宗より十七も年長であり、それだけ早く死ぬはずであった。だが秦檜の異様な生命力は、高宗をおびえさせた。六十歳をこえても、秦檜の細長い身体と痩《や》せた顔には奇妙な精気があふれ、髪も黒く艶やかで、老人とは思えなかった。彼は若いころ「秦長脚《しんちょうきゃく》」と呼ばれていた。「足長の秦」という意味だが、背を伸ばした彼が長い肢《あし》を交互に投げ出すように歩む姿を見ると、高宗は威圧され、鼓動が早まるのをおぼえた。彼が犯した罪――不幸な兄から帝位を横取りし、無実の者を獄中で殺したという罪が、陰気な灰色の影となって彼に追ってくるのだ。
 南宋の天子たる者が臣下に怯《おび》えている。その事実は万人の目に明らかだった。
「秦檜はいずれ簒奪するだろう」
 と、金国では見ていた。外部から秦檜の権勢と専横とをながめていれば、そうとしか見えない。
 だが秦檜が簒奪するはずはなかった。彼は皇帝に寄生していた。自分でそのことを承知していながら、いささかの引けめもないのが、秦檜という男のすさまじい魔力であった。
 内心はどうあれ、表面的には高宗と秦檜は協調して国を統治していった。多くの犠牲をはらったものの、とにかくも和約が成立したので、南宋の内政と経済は急速に充実していった。官僚制度や税制度の改革がおこなわれ、荒地が開拓されて水田となり、運河や用水路が整備された。あたらしい貨《か》幣《へい》も発行され、短期間のうちに南宋は富み、豊かになった。有名な「白蛇伝《はくじゃでん》」の伝説はこの時代を舞台にしており、南宋の富を集める杭州臨安府の栄華と洗練を語ってやまない。
 むろん秦槍の牙《きば》は丸くなってはいなかった。
 秦檜の孫である秦※[#「土+員」、unicode5864]《しんけん》が科《か》挙《きょ》の試験を受けたときのことである。彼はたしかに秀才であったから、首席で合格するものと思われていた。ところが一次試験が終わってみると、秦※[#「土+員」、unicode5864]の成績は次席であった。彼を上まわる秀才がいたのである。首席となった人物の名を陸游《りくゆう》といった。
 孫をおさえて首席となった陸游を、秦檜は赦さなかった。陸游は秦※[#「土+員」、unicode5864]ひとりだけでなく、秦一族すべてに恥をかかせたのである。秦檜は手をまわし、殿《でん》試《し》(科挙の最終試験)において、自分の孫を首席で合格させた。そして憎むべき陸游を落第させてしまった。
「奴め、一生浮かびあがれぬようにしてやるぞ。秦一族に恥をかかせた罪を思い知れ」
 それが秦檜の思考法であり、やりくちであった。べつに悪いことをしたとは思わない。秦一族の権勢と栄華こそが正義であり、妨害する者こそが悪であった。
 後に陸游は南宋一代を代表する詩人として不朽《ふきゅう》の名を残すことになるが、この落第が崇《たた》って、政治的にも経済的にもめぐまれぬ人生を送る|はめ《ヽヽ》になる。
 陸游ひとりではない。およそ秦槍に反対した者、秦檜と論争をして勝った者、秦檜の命令にしたがわなかった者は、ことごとく宮廷を追われ、辺境に流された。当代に比類なき、秦檜は独裁者であったのだ。
 その秦檜が死んだ。ついに死んだ。
 大声で高宗は叫んでまわりたかった。彼は自由を得たのだ。いまや彼を脅迫し抑圧し支配しようとする者は誰もいなかった。
 ……訃報をもたらした宦官を賞して帰した後、高家は半刻ほども放心していたようであった。我に返ったのは、霧雨が冷たく湿った掌《てのひら》で、彼の顔をひとなでしたからである。風の方向が変わり、灰色の雨が宮殿内に吹きこんできたのだ。
 床にすわりこんでいた高宗は、自分でも意味不明の独語《ひとりごと》をつぶやきながら立ちあがった。同時に全身をこわばらせた。視線の先にひとりの男がいたからだ。
「少師《しょうし》か、何用あってまいった?」
 その男は秦檜の長男|秦《しん》※[#「火+喜、unicode71BA]《き》であった。四十代半ばの痩せた男で、少師の地位を得ている。皇帝に対してうやうやしく礼をほどこしたが、それは形だけのことであった。秦※[#「火+喜、unicode71BA]が尊敬するのは偉大な父親だけであったのだ。そして彼が口にした台詞《せりふ》は高宗の意表をついた。
「父亡き後、丞相の座は、当然、長男である臣《わたくし》めが相続できると存じますが、いかがでございましょうか」
 まじまじと高宗は秦※[#「火+喜、unicode71BA]を見つめた。
 ――何という奴だ。親が親なら子も子だ。
 嘔《おう》吐《と》したくなるほどの嫌悪感を、高宗はおぼえた。
 秦檜は皇帝を脅迫して権勢をほしいままにした姦臣《かんしん》であった。そう高宗は思っている。だがとにかく秦檜は自分自身の実力と功績によって、無名の一|廷臣《ていしん》から丞相となったのだ。秦※[#「火+喜、unicode71BA]は多くのものを父親から譲られた。地位も権勢も富も。だが譲られなかったものもある。彼は父親から、皇帝を支配する一種の魔力を譲られなかった。秦檜は体内に底知れぬ深淵《しんえん》をかかえこみ、多くの人間を引きずりこんで溺《おぼ》れさせた。国家や時代そのものを呑みこむほどの深淵であった。それが秦※[#「火+喜、unicode71BA]には欠けている。苦労知らずの二代めであるにすぎない。
 高宗は表情と声をととのえた。
「そなたの父親は国家に大功をたてた。よって予はそなたの父親に王の称号を贈ることにしておる」
「臣下として身にあまる光栄でございます」
 そう秦※[#「火+喜、unicode71BA]は答えたが、口調のどこかに傲慢《ごうまん》さがある。そのていどの礼遇は当然のことだ、と思っているようであった。高宗の口もとがわずかに歪《ゆが》んだ。復讐の快感が、声となって彼の口からすべり出た。
「で、そなたは国家にどのような功をたてたのだ?」
 秦※[#「火+喜、unicode71BA]の反応は鈍かった。不審そうに、彼は皇帝を見かえした。思いもかけぬ反応であったのだ。だが、父の力を自分の所有物と信じこんでいた凡庸《ぼんよう》な男も、皇帝の表情を見つめるうちに、すべてをさとった。秦※[#「火+喜、unicode71BA]は蒼《あお》ざめ、慄《ふる》えだした。残忍なまでに勝利の表情をむきだして、高宗は彼をながめやっていた。

    二

 杭州臨安府の城外に西《せい》湖《こ》という湖水がある。城の西にあるから西湖、という安易な命名がなされたのだが、やがてその名は、地上でもっとも美しい風景を意味するようになった。
 太《たい》古《こ》、この湖は海の一部として湾を成していたが、しだいに土砂が積もって海と切りはなされ、とり残された形で淡水の湖となったという。積もった土砂が平野をつくり、その上に杭州の城市《まち》ができた。杭州という名がついたのは隋の文帝《ぶんてい》の時代で、宋の高宗から見わば五百年以上も往古《むかし》のことである。杭州の市街と西湖とは、いわば兄弟の仲で、たがいを切りはなすことはできない。
 西湖の美しさは、歴代の文人によって描写され、絶讃されている。ことに唐の白居《はくきょ》易《い》(白楽天)と宋の蘇軾《そしょく》(蘇東坡)が有名だが、この両者はもともと杭州の知事として赴任してきた官僚政治家であった。彼らは杭州という土地を愛し、すぐれた行政手腕の所有者でもあった。白居易は西湖の堤防を改修して貯水量をふやし、水門を整備して水田への放水を調節した。さらに水利にかかわる地主の不正をとりしまり、西湖の治水・水利について精密な研究記録をのこした。それから二百五十年後、蘇軾は白居易のつくった水門が失われていたのを再建し、用水路を改修し、湖底に大量にたまっていた泥を浚渫《しゅんせつ》した。そしてその泥を積んで西湖の南北をつなぐ堤を築き、そこに柳の並木を植えて散歩の路《みち》をつくったのである。これが千年後まで「西湖十景」のひとつとして残る「蘇《そ》堤《てい》」である。さらに、杭州一帯に飢《き》饉《きん》がおこったとき、ただちに租《そ》税《ぜい》の免除をおこない、官《かん》庫《こ》をひらいて米を放出し、何百万人もの民衆を飢餓から救った。
 白居易や蘇軾が任期を終えて杭州を去るとき、何万人もの民衆が道の両側に並んで別れを惜しんだ。両者は不滅の名をのこす文人であると同時に、良心的で有能な政治家であったのだ。
 彼らが心血《しんけつ》をそそいで整備した西湖の岸を、ひとりの青年が騎《き》行《こう》していた。背が高く、眉が濃く、精悍《せいかん》な顔つきで、腰に剣をおび、簡単な旅装をしている。
 青年の姓は韓《かん》、名は彦直《げんちょく》、字は子《し》温《おん》という。紹興二十五年に二十八歳であった。官人である。官は浙東《せっとう》安《あん》撫司《ぶし》主管《しゅかん》機宜《きぎ》文《ぶん》字《じ》といささか長い。要するに、臨安府からすこし離れた地方の役所で秘書官をつとめていた。科挙に合格した文官だが、体格や身ごなしはむしろ武官のものに見える。
 頭上にひろがる鉛色の冬空を切り裂いて、鳥の群が飛んだ。遠く黄《こう》河《が》の北から飛来した雁《かり》であろう。それを見送ってさらに子温は馬を進めた。
 西湖の南北両岸には、相対するようにふたつの塔が高々とそびえている。北岸の塔を保俶塔《ほしゅくとう》といい、南岸の塔を雷峰塔《らいほうとう》という。保俶塔はすらりと細長く、天にむけて剣を突きあげるかのようである。雷峰塔は角ばって箱を思わせる。それぞれ形は異《こと》なるが、近世中国の建築技術をきわめた美しい塔であり、西湖の風光の一部として、完全に溶《と》けこんでいるのだった。
 保俶塔の尖鋭にして優美な姿を左手に見あげながら、子温は、馬の歩みをゆるめた。いかに温暖な江南《こうなん》とはいえ、冬の雨あがりとあっては吐く息も白い。砂を敷きつめた道はゆるやかに曲折しながら、落葉した林の間へとはいっていく。途中で左右に別れた道を左へ折れて、さらに進むと、子温は目的地に着いた。四年ぶりの訪問だが、まちがうはずもない。柴を粗《あら》く組んだ低い塀の一部が見え、門札が彼を迎えた。
「翠《すい》微《び》亭《てい》」
 門札の文字はそう読めた。木製の古びた門《もん》扉《ぴ》は開かれたままで、門番らしき者も見あたらない。
 馬からおり、手綱をとって、子温は門内に歩みいった。造園らしいことはなされておらず、竹林のなかを細い道がめぐっている。その道がつきたところに、質素だが頑丈そうな平《ひら》屋《や》があり、地面から三段ほどあがった入口に、ひとりの老婦人がたたずんでいた。子温は湿った土にひざをついて一礼した。
「母上、彦直でございます。お久しゅう」
 すると、老婦人は端整な顔をほころばせ、なまじの男より豪快に笑った。
「何が母上だい、気どるんじゃないよ。さっさとお立ち。まったく、科挙に合格したら言葉づかいまで変わるもんかね。ここは宮廷じゃないんだ。阿母《かあちゃん》とお呼び」
「かなわんなあ、阿母《かあちゃん》には」
「ほら、さっさとおはいり。阿爺《とうちゃん》の遺影にあいさつするんだよ」
 子温の母は、姓を梁《りょう》、名を紅玉《こうぎょく》という。中華帝国においては伝統的に夫婦が別姓で、したがって母と子の姓も異なる。居間の壁に、甲冑《かっちゅう》をまとった堂々たる武将の画像がかけられており、それに礼をほどこしてから、子温は卓についた。
「このたび光禄寺丞《こうろくじじょう》を拝命し、杭州への帰還がかなったのでね」
 寺《じ》とは仏教寺院ではなく官庁を意味する。光禄寺とは宮中の宴《うたげ》や食事をつかさどる官庁で、丞は長官の補佐官である。たかが宴会係、というわけにはいかない。宮中の宴会が重大な国事であることは、後世においても同様であった。しかも光禄とは漢《かん》帝国の時代には皇宮全体の防衛・警備をつかさどる職であったから、子温の時代にもそのような一面があった。
「臨安府《みやこ》に呼びもどしていただいたのかい。それはよかったこと」
「おれだけではないのさ。おもだったところで二十人以上の人たちが臨安府へ帰れることになった。世のなかが変わったのだよ」
 子温の声がはずんだ。
「世は変わるものではないさ。人が変えるのだよ。いったい宮廷で何があったのだい」
 そう問いはしたが、梁紅玉の胸中にはすでにひとつの推測があり、心がまえができていたようである。子温の返答にもおどろかなかった。
「まだ公表されてはいないがね、秦丞相が亡くなった」
「おや、とうとうあの奸物《かんぶつ》が死んだのかい。それはめでたいこと」
 落ち着きはらって、そういった。
「騒ぐこともないさ。人は死ぬものだ。お前の阿爺《とうちゃん》も亡くなった。丞相がいかに奸物でも、閻《えん》羅《ま》王《さま》をだまして不死でいられるわけもないだろうよ」
 だが、落ち着きを押しのけるほどの喜びがこみあげてきたようだ。勢いよく、息子のたくましい肩をたたいた。
「お前の阿爺《とうちゃん》が泉下《あのよ》でこのことを知ったら、手ぐすねひくだろうね。丞相がやってきたら、襟首《えりくび》をつかんで鉄拳《てっけん》のひとつもくれてやるだろうさ。見物できないのが残念だね」
 子温の父は韓世忠《かんせいちゅう》という。姓は韓、名は世忠、字は良臣《りょうしん》。南宋初期の武人であり、「抗金名将《こうきんのめいしょう》」のひとりである。
 中国の歴史書や人名事典を見ると、しばしば「抗金名将」という表現に出あう。「抗金の名将」。つまり十二世紀、金国の侵攻に抵抗して戦った宋の将軍たちを指《さ》す表現である。彼らはただ宋代の名将であったというだけではなく、異民族の侵略に対して抵抗した漢民族の英雄として、後世にいたるまで民衆に愛され、詩や小説や戯曲の主人公として親しまれた。名をあげるとつぎのような人々である。

 岳《がく》飛《ひ》 韓世忠《かんせいちゅう》 劉錡《りゅうき》 呉《ご》※[#「王+介」、unicode73A0]《かい》 呉《ご》※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]《りん》 宗沢《そうたく》

 この他にも、当時、実力のある武将はいた。

 張俊《ちょうしゅん》 劉光世《りゅうこうせい》

 ただ、これらの人々は実力はあったが、貪欲《どんよく》で私腹を肥《こ》やしたり、他人をおとしいれたり、部下に掠奪《りゃくだつ》暴行をさせたり、といった負《ふ》の側面があり、民衆に愛される資格を欠いていたようである。
 ことに張俊の評判は悪い。彼はもともと盗賊であったが、義勇軍に身を投じて金軍と戦い、多くの武勲をあげた。勇猛で統率力もあったが、物欲が強く、しばしば金軍よりひどい掠奪をおこなって私腹を肥やした。それだけならまだしも、秦檜と手を結んで、主戦派の岳飛を無実の罪におとしいれ、獄中で殺害した、という点が、決定的な悪名を歴史上に残すことになった。
 その張俊らと肩をならべる実力者になるまで、韓世忠の歩んだ道はけわしかった。彼は西北方の辺境に生まれ、少年のころから軍に身を投じた。馬術の天才で膂力《りょりょく》が強く、十代のうちに武芸の達人となり、戦場で武勲をかさねた。王淵《おうえん》という将軍が彼を認めてくれた。
「万人《ばんにん》の敵、とは、おぬしのような人物を指していうのだろうな」
 感歎した王淵は、韓世忠にかなり多額の銀子《かね》を恩賞として手わたした。「万人の敵」とは、三国時代の関《かん》羽《う》や張飛《ちょうひ》に対する呼称である。韓世忠の豪勇は、彼らに匹敵するものと思われたのだ。
 多額の銀子をもらった韓世忠は、それを部下の兵士や戦死者の遺族に分配してしまった。自分は馬と甲冑を買いかえただけであった。
『宋史・韓世忠伝』には「義を嗜《たしな》み財を軽んじ、軍を持《じ》すること厳重にして士《し》卒《そつ》と甘《かん》苦《く》を同じうす」とある。兵士たちをいつくしみ、一方では軍規が厳正で、兵士と民衆の信望はきわめて厚かった。
 その後、「方臘《ほうろう》の乱」がおきた。江南全土を巻き込むほどの大|叛乱《はんらん》で、『水《すい》滸《こ》伝《でん》』にも記されている。徽宗皇帝の失政に摩尼《マニ》教徒の信仰や方臘という人物の野心がからみ、天下をゆるがす動乱となった。このとき叛乱軍がどれほど強かったかというと、『水滸伝』に登場する梁山泊《りょうざんぱく》の義賊百八人が討伐のために出征し、そのうち三分の二が戦死あるいは戦病死してしまったほどなのである。
 討伐の官軍も苦労したが、さらに苦しんだのは民衆であった。官軍の規律はきわめて悪く、民家を掠奪し、婦女に暴行を加え、民衆を殺して首をとり、それを賊兵の首だと称して恩賞を要求する、というありさまだった。その光景を見て腹をたてながらも、韓世忠は奮戦した。方臘の本拠地は山中の巨大な洞窟のなかにあって、清渓※[#「山+同」、unicode5CD2]《せいけいどう》と呼ばれていた。そこは巨大な地下要塞であると同時に、壮麗な地下宮殿でもあった。少数の兵をひきいて、韓世忠は洞窟に潜入し、外部の官軍と呼応してついに陥落させたのである。
 それほどの武勲をたてたのに、叛乱が平定されても、韓世忠にはまったく恩賞がなかった。辛興宗《しんこうそう》という将軍が、彼の武勲を横取りしてしまったのだ。それほど当時の官軍は腐敗していたのだが、事情を知ったべつの将軍が取りはからってくれて、韓世忠は承節郎《しょうせつろう》という低い地位をもらうことができた。
「勇は三軍に冠たり」
 とも『宋史・韓世忠伝』は記す。これは『蜀志《しょくし》・黄忠《こうちゅう》伝』にある表現をほぼそのまま使ったもので、要するに韓世忠は、『三国志』に登場する神話的な英傑たちと同列である、と認められたのだ。
 方臘の乱が終結した後、平和は三、四年しかつづかなかった。北方に剽悍《ひょうかん》な女真《じょしん》族が興《おこ》り、遼《りょう》を滅ぼし、さらに南下して宋を襲ったのである。女真族は王朝をたて、「金」と称した。
 十七年間にわたって、韓世忠は金軍と戦いつづけた。しばしば勝利をえて、ついに彼は「枢密《すうみつ》使《し》」にまで出世した。これは宋帝国軍最高司令官ともいうべき高い地位で、文官であれば宰相に匹敵する。だがその直後に、韓世忠は軍の指揮権を皇帝に奉還し、ほどなく枢密使の地位も返上して隠退した。世を捨てたのである。彼は「清涼《せいりょう》居士《こじ》」と自称し、西湖のほとりに翠《すい》微《び》亭を建てた。このとき知人のひとりが忠告した。
「翠微は衰微に通じます。あまりよい名とは思えませぬが」
 すると韓世忠は答えた。
「岳鵬挙《がくほうきょ》が生前、遵池州《じゅんちしゅう》の翠微亭という場所を見て、その風光の清澄なことを賛《たた》えていた。それを想いだして同じ名をつけたのだが」
「ではますますあぶない。丞相に無用の疑いをかけられますぞ」
 岳鵬挙とは、韓世忠の戦友であった岳飛のことだ。丞相秦檜によって無実の罪を着せられ、獄中で殺害されたばかりであった。
「丞相?」
 韓世忠の声にこめられた侮《ぶ》蔑《べつ》のひびきは、隠しようもなかった。知人は赤面して引きさがった。
 生涯を戦場ですごし、無名の一兵士から枢密使、咸安郡王《かんあんぐんのう》、鎮南《ちんなん》・武《ぶ》安《あん》・寧国《ねいこく》三節《さんせつ》度使《どし》にまで出世した男は、五十歳をすぎて静穏な生活にはいった。妻の梁紅玉と、十人ほどの家《か》僕《ぼく》とが彼とともに翠微亭に住んだ。
 韓世忠は戦場で金軍の毒矢にあたり、その後遺症で両手の指のうち六本が動かなくなった。神経が傷ついたのであろう。その不自由な手に釣竿《つりざお》をにぎって、韓世忠は毎日、西湖に釣に出かける。驢馬《ろば》に乗り、童子をひとりおともにして。童子は大きな酒瓶を肩にかついでいる。杭州一帯は米と水にめぐまれ、酒の産地としても知られた。「紹興酒」は、まさにこの時代、紹興年間にはじめてつくられた酒であったという。
 世を捨てても、いっさいの交際を断ったわけではない。ときとして客人が訪れ、歓談の時をすごした。だがどれほど話がはずんでも、どれほど酔っても、韓世忠の口から軍事が語られることはなかった。息子である子温にも文官になるよう勧《すす》め、子温が科挙に合格したときには老顔をほころばせた。しだいに仏教や道教に関心を持つようになった。臨安府《みやこ》の城門をくぐることもなかったが、ただ一度、皇太后|韋氏《いし》が夫たる徽宗皇帝の遣体とともに帰国したとき、参上して拝謁《はいえつ》している。自分たちの働きで徽宗や欽宗を救出できなかった、それが韓世忠にとって生涯の痛恨であった。死の床についたとき、彼は周囲の人々をなぐさめた。
「わしは貧しい庶民として生まれ、百戦を経《へ》て王侯の地位を得た。戦場で首をとられることもなく、わが家で死ぬことができる。これほど幸福な死はないのに、諸君は何を哀《かな》しむのか」
 そう語ると、ゆったりした微笑を浮かべ、ほどなく息を引きとった。紹興二十一年(西暦一一五一年)八月、韓世忠は六十三歳であった。
 彼の訃《ふ》報《ほう》を受けて、高宗は無言であったが、やがて詔《みことのり》が下って、韓世忠は太《たい》師《し》の称号を受け、通《つう》義《ぎ》郡王《ぐんのう》に封じられた。皇族でない者にとっては最高の名誉であった。この処遇に対して、秦檜はべつに反対はしなかったが、宮廷づとめの子温を臨安府《みやこ》から追い出し、地方官にしてしまった。秦檜の死で、ようやく子温は臨安府に呼びもどされたのだ。
 清涼《せいりょう》居士《こじ》。
 その自称こそ、亡き父にふさわしい。子温はそう思う。太師だの郡王だのというきらびやかな称号に、武《ぶ》骨《こつ》な父はさぞ照れることであろう。
 梁紅玉は「真珠泉《しんじゅせん》」という銘酒の瓶を卓においた。息子と自分自身のためにであった。

 

    三

 梁紅玉はこの年、五十八歳である。頭髪こそ白くなっていたが、年齢よりはるかに若々しく見えた。女性としては長身で、背すじもまっすぐ伸び、頬は艶やかで、何よりも両眼には生気あふれる光があった。かつて彼女は江南でも屈指の美女といわれたが、いまでもその評判は人をうなずかせるだろう。
 ただ、深窓《しんそう》の楚々《そそ》たる美女ではない。彼女は庶民の家に生まれた。前半生は芸妓《げいしゃ》であった。後半生は数万の兵を指揮し、馬上で剣をふるう女将軍《じょしょうぐん》であった。母の生涯を思うと、子温は、自分は何とすごい両親を持ったことかと、半ばあきれてしまう。
 梁紅玉と韓世忠とがはじめて遇《あ》ったのは、徽宗皇帝の御宇《みよ》、宣和三年(西暦一一二一年)のことだといわれている。韓世忠は三十三歳、梁紅玉は二十四歳であった。
 梁紅玉は長江の下流、大運河ぞいの町|淮安《わいあん》に生まれた。九百年後にも、故郷の町には彼女の廟《びょう》が残っている。少女のころ、淮安の一帯に兵乱がおこった。彼女は戦火を避けて長江を渡り、京口《けいこう》の城市《まち》で生活するようになった。京口は後世、鎮江《ちんこう》と呼ばれるようになる城市で、長江下流の重要な軍事拠点である。港には軍船がむらがり、街には官軍の将兵があふれていた。そしで彼らを顧客とした酒楼《しゅろう》、勾欄《えんげいじょう》、歌館《ゆうかく》などが繁盛をきわめていた。
 親を失った梁紅玉は、歌館の一軒で修業して芸妓《げいしゃ》になった。美しく、利発で、歌も舞も楽器もうまかった梁紅玉は、たちまち随一の売れっ子になった。その間に弓や剣などの武芸も学んだのは、何やら心に期することがあったようだ。そして、店で韓世忠と出会ったのである。
 梁紅玉は京口一の美姫で、彼女を望む上級官人、将軍、民間の富豪は両手の指にあまる人数である。申し出にうなずけば、その日から彼女は何ひとつ不自由ない生活を送れるはずであった。
 いっぽう韓世忠はといえば、無名の一兵士にすぎなかった。劉廷慶《りゅうえんけい》や王淵といった将軍たちのもとで武勲をかさね、「武《ぶ》節郎《せつろう》」という地位をえているが、下級の士官であるにすぎない。俸給も安い。おまけに粋《いき》とは縁のない武骨な男で、梁紅玉の美しさに|どぎまぎ《ヽヽヽヽ》し、ろくに口をきくこともできなかった。そんな男のどこが気にいったのか、梁紅玉は貯金をはたいて歌館から足をあらい、韓世忠のもとに押しかけて夫婦になってしまったのである。
 建炎《けんえん》三年(西暦一一二九年)三月、宋では大きな叛乱がおこった。「明受《めいじゅ》の乱」と呼ばれるものだが、乱の指導者は、苗傅《びょうふ》、劉正彦《りゅうせいげん》の両者である。苗傅は殿前《でんぜん》都指揮使《としきし》、つまり近衛軍団の総司令官であった。劉正彦も武《ぶ》功《こう》大《たい》夫《ふ》とか威《い》州《しゅう》刺使《しし》とかの官職にある将軍である。その両者が、天子の足もとで叛乱をおこしたのだった。
 その当時、宋の名だたる将軍たちのなかで最上位にあったのは王淵だった。無名であった韓世忠の武勇を認めてくれた人である。彼は実力者ではあったが、他の将軍たちに人望がなかった。理由はいくつかあるが、とくに、王淵が宦官と手を結んで自分ひとり出世した、という点が大きいようだ。
 ことに苗傅らは王淵と仲が悪く、打倒する機会をねらっていた。機会が来た。他の将軍たちはすべて戦いのために杭州を離れた。城内にいるのは、王淵、苗傅、劉正彦の三者だけとなった。
 苗傅たちは兵をひきいて決起した。皇宮に乱入し、おどろく王淵を劉正彦が一刀のもとに斬殺した。さらに王淵と手を結んでいた宦官百人あまりも殺害された。高宗と重臣たちは、まとめて叛乱軍の捕虜となってしまった。苗傅は高宗の前に姿をあらわし、態度だけはうやうやしく退位をせまった。
「なぜ予が退位せねばならぬのじゃ。予に何の罪がある!?」
 怒りをこめた質問に対して、苗傅は答える。
「おそれながら玉座は本来、陛下の占有なさるところにあらず。陛下の兄君のものと心得おります。退位なさってこそ、天下に大義を布《し》くと申せましょう」
 高宗は反論できなかった。兄である欽宗が正式に退位していないのに、高宗は即位したのだ。国家としては、玉座を空《から》にしておくわけにいかぬから、とりあえず高宗が即位したのは、しかたないことである。だが儒教的な正統論からいえば、おおいに問題があった。高宗自身、うしろめたい気分があったからこそ、反論できなかったのである。
 退位要求を拒否すれば毒殺される可能性があった。やむなく高宗は、当時三歳であった皇太子に譲位した。苗傅はただちに「明受《めいじゅ》」と改元し、その旨《むね》を布告したのである。
 前線に出かけていた将軍たちは、報告を受けておどろき、かつ怒った。王淵が死んだことについては喜んだ者もいたが、苗傅が国の支配者になることに誰も賛成しなかった。将軍たちは自発的に連絡をとりあい、叛乱軍を鎮圧するために杭州へと反転した。先頭を切ったのは韓世忠である。杭州を包囲される形になって、苗傅はあわてたが、ひとつの策を考えついた。
「城内に韓世忠の妻子がいる。あれを人質にとって、韓世忠を味方につけよう」
 当時、梁紅玉は、二歳になったばかりの子温を守って、杭州城内の家にいたのである。苗傅は三歳の「新皇帝」の名を使って、梁紅玉を宮中に呼びよせ、「安国《あんこく》夫《ふ》人《じん》」という貴族の称号を与えた。
「勅命《ちょくめい》である。汝《なんじ》の夫たる韓世忠に大義を説《と》き、新帝につかえさせよ」
 そう命じられた梁紅玉は、喜んだふりをして退出したが、家に帰るとすぐ逃走の準備をはじめた。夫に手紙を書くまねをしながら夜を待ち、行動を開始する。監視の兵士たちのようすをさぐり、眠っている乳児を抱きあげた。
「阿亮《ありょう》」
 それは子温の幼名であった。
「阿亮、お前は韓世忠と梁紅玉の子なんだからね。泣くのではないよ。泣いたりしたら棄《す》ててしまうからね。虎にでも育てておもらい」
 冗談まじりにいいながら、梁紅玉は、胸甲《きょうこう》をゆるめて、赤ん坊を胸にだいた。韓家で一番の駿馬《しゅんめ》に鞍《くら》をおき、それに弓と矢《や》筒《づつ》をかけ、細身の槍をかいこんで馬上の人となる。
 ほどなく、宮中にいた苗傅は部下からの急報を受けた。韓世忠の家から一騎の影が脱出したというのである。「甲冑をまとい、槍を持った騎士」と聞いて、苗傅は首をかしげた。韓世忠の家にいるのは、その妻子と、老《お》いた家僕だけであるはずだ。調べたところ、梁紅玉と子温の姿がない。どうやら女だてらに武装して脱出したものと知れた。
「乳児をつれて無事に逃げおおせるつもりか。女の浅慮《せんりょ》というものよ」
 苗傅の嘲笑《ちょうしょう》は、ほどなく凍《い》てついてしまった。「たかが女」は馬術の冴《さ》えをみせて杭州城から脱出してしまったのだ。しかも槍と弓矢で八人もの兵が斃《たお》されたというのである。
「あ、あの女、あの女……!」
 苗傅はあえいだ。何と形容してよいか、わからなかったのだ。
 梁紅玉が天下に聞こえた美女であることは知っていたが、これほど胆力《たんりょく》と武勇に富んでいるとは想像を絶していた。ようやく我に返ると、苗傅は劉正彦を呼びつけ、三百騎をひきいて梁紅玉を捕えるよう命じた。
「手にあまれば殺してもかまわぬぞ。韓世忠めの見せしめにしてやる」
 女ひとりに何をおおげさな。内心、劉正彦はあきれたが、とにかく三百騎をひきいて梁紅玉を追跡にかかった。この夜、月はほぼ満月、春深い江南の野を黄金色に照らしている。
 東北方へ馬を走らせること二刻、秀州《しゅうしゅう》という土地の近くで、梁紅玉は追いつかれた。月光に甲冑を反射させ、馬《ば》蹄《てい》を地にとどろかせて追手が肉薄してくる。だが道幅はせまく、左右は水田であった。梁紅玉は弓をかまえ、突進してくる敵に矢を射《い》放《はな》した。弓弦が鳴りひびくつど、馬上の敵は空を蹴って地に落ちる。騎手を失った馬は水田に走りこみ、泥のなかでもがきまわる。八本の矢で八騎を射落としたが、矢筒は空《から》になった。白兵戦を覚悟したとき、秀州の方角から、あらたな馬蹄の音が湧《わ》きおこった。騎馬隊の先頭に立つ武将が、駿馬を躍《おど》らせつつ、おどろきと喜びの声をあげた。
「おう、紅玉!」
「良臣どの!」
 韓世忠であった。月の光でたがいの姿を認めあったふたりは、せまい道で瞬間に馬を馳《は》せちがわせた。韓世忠は馬上で戟《げき》をかまえなおすと、「殺《シャア》!」と喊声《かんせい》をとどろかせながら、劉正彦の軍へ突入していったのだ。たちまち、苛《か》烈《れつ》な斬りあいが月下に展開された。
 韓世忠の豪勇は、関羽や張飛にたとえられるほどのものだ。鐙《あぶみ》にかけた両足だけで馬をあやつりながら、右に左に戟を振りおろし、旋回させ、突き、払い、血煙と絶鳴をまきおこす。たちまち十数騎が馬上からたたきおとされ、韓世忠は呼吸も乱さず、悍《かん》馬《ば》をあおると一直線に劉正彦めざして突進した。
 呆然《ぼうぜん》として月下の血闘をながめていた劉正彦が、悲鳴まじりに退却を命じた。韓世忠ひとりの豪勇を恐れたわけではなく、官軍がここまで迫っていることを知ったためであった。劉正彦は杭州へ逃げもどり、苗傅とともにさらに南へと逃亡していった。韓世忠は官軍の陣頭に立って杭州を賊軍から奪回した。救出された高宗は韓世忠を賞し、さらに梁紅玉をもほめたたえた。
「女ながら趙子竜《ちょうしりゅう》の輩《ともがら》か」
 天下こぞって、梁紅玉の驍勇《ぎょうゆう》に舌を巻いた。趙子竜とは三国時代の趙雲《ちょううん》のことで、これより九百年以上の往古《むかし》、主君の後継者である幼児を抱いて敵中を突破したのだ。これによって梁紅玉は「巾※[#「てへん+國」、unicode6451]英雄《きんかくのえいゆう》」の名をたしかなものとした。巾※[#「てへん+國」、unicode6451]とは女性の髪飾りのことであり、中華帝国においては女性の英雄をそう呼ぶのである。
 臨安府奪回の功をきっかけに、韓世忠の地位と武名は飛躍的に向上した。韓世忠は自分自身より妻の評判をよろこんだ。
「見よ、おれの妻を。天下一の女だ」
 中国史上の英傑たちのなかで、韓世忠ほど手放しに女房自慢をした男もめずらしい。彼は以後、妻を自分の副将として遇し、軍事についても政治についても彼女の意見を求め、忠告にしたがった。韓世忠の麾下《きか》には、すぐれた武将が多い。解元《かいげん》、成閔《せいびん》、王勝《おうしょう》、王権《おうけん》、劉宝《りゅうほう》、岳超《がくちょう》といった人々の名が後世まで伝わる。彼らはいずれも韓世忠が無名の兵士であったころからの戦友であったが、梁紅玉の智勇胆略を認め、よろこんで彼女の指示を受けた。これらの武将たちが、つれだって韓世忠の家をおとずれ、梁紅玉の料理に舌鼓《したつづみ》を打ち、杯をかわし、戦場のできごとを語りあった。おさない子温は父のたくましい膝に抱かれて彼らの話を聞いた。用兵巧者《いくさじょうず》の解元、剛勇の成閔らが子温をあやしてくれた。
 あれから何年たったことだろう。時の大河は音もなく流れ去り、勇者たちは老《お》い、病《や》み、姿を消していった。若い子温にも夢のように思える。
「悪い時代がつづいたけど、その元兇もいなくなった。世は変わるよ、阿母《かあちゃん》」
「どう変わるというのだい。変わりようがないじゃないか」
 梁紅玉の反応は冷淡だった。女ながら彼女は酒豪で、杯をかさねても乱れることはない。頬は赤くなり、声はやや大きくなるが、頭脳は冴え、言語は明晰《めいせき》だった。
「すべては陛下の御《ぎょ》意《い》だったのだよ。秦檜を登用なさったのも、金国と和平を結ばれたのも、岳将軍を死なせたのもね。陛下はご健在だ。世が変わりようはなかろうよ」
 子温が返答できずにいると、梁紅玉はまたあらたな杯をほして大きく息をついた。
「陛下の御意であったからこそ、子温、お前の阿爺《とうちゃん》は無念をおさえて和平に同意したのだよ。丞相ひとりの考えなら、阿爺《とうちゃん》が承知したはずはない。お前の阿爺《とうちゃん》は、天下でただひとり丞相の権勢を恐れなかった男だった。忘れたのかい?」
 子温は忘れてはいなかった。十四年前、韓世忠の戦友であった岳飛が、叛逆《はんぎゃく》の汚名を着せられて殺された。岳飛の無実を誰もが知っていたが、秦檜の権力を恐れて沈黙していた。天下でただひとり、韓世忠だけが面とむかって秦檜に異議をとなえたのだ。人々は韓世忠の勇気に感歎したが、韓世忠自身の気分は苦《にが》かった。彼の勇気は岳飛を生き返らせることができたわけでもなく、秦檜の無法をくつがえすこともできなかった。韓世忠は宮廷を去り、世を棄てた。あとは宮廷に残った秦檜が専横をふるうだけだった。
 皇帝のために、子温は弁ずる必要を感じた。
「だけど、阿母《かあちゃん》、すべては丞相が奸策《かんさく》をめぐらしたことだろう。陛下がお考えになったことではない」
「そうだね、だけど反対はなさらなかった」
「…………」
「秦丞相がいくら奸策をめぐらしても、陛下が拒否なされば、実現のしようはなかったろうさ。それがわかっていたから、阿爺《とうちゃん》は苦しんで、とうとう宮廷を去ったんだよ。自分のいるべき場所でないと思い知ったのさ」
 梁紅玉は高宗の心理の一部を正確に見ぬいていた。高宗は秦檜に利用されているように見えて、じつは無意識のうちに利用していたのではなかったか。兄である欽宗を見殺しにしたこと、無実の岳飛を殺害したこと。それらを実行し、手を汚したのは秦檜だった。高宗は見て見ぬふりをして、すべてを秦檜のせいにすればよかったのだ。秦檜にしてみれば、自分は皇帝のために汚名をかぶったのだ、というところであったろう。
「まあ浮かれないことさ。春が来たからといって跳《と》びはねていると、薄氷を踏み割って水に落ちることだってあるからね。ところで今夜は泊まっていくんだろ?」
 母の声に子温はうなずいた。臨安府の城門をくぐるのは明日でよい。高宗に拝謁して、それから四年ぶりに宮廷での勤務がはじまるはずであった。
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第二章 密命


    一

 呪縛《じゅばく》めいた秦檜《しんかい》の圧迫から解放されて、高宗《こうそう》がまずやってのけたことは人事の刷新《さっしん》であった。秦檜によって宮廷から追放されていた二十人以上の有力な官僚政治家が、呼びもどされることになったのである。彼らの大半は、秦檜の専横に反対して追放されていたので、秦檜の死と自分の復権とは二重の喜びだった。
 人事の刷新は、多くの場合、政策の変更につながるものである。宮廷に復帰した対金強硬派の大臣たちは、高宗の外交政策が劇的に変化するのを期待した。
 だがそれは過大な期待というものであった。内治にせよ外政にせよ、高宗皇帝は、これまでの政策を急に変える気はなかった。追放されていた大臣たちを宮廷に呼びもどしたのは、人事権を高宗が死者の手から取りもどした、その事実を天下に知らしめるためであった。したがって、呼びもどしはしたが、べつに権限を与えようとはしなかった。そしてほどなく、高宗はひとりの老人を登用した。
 姓は万《ばん》俟《き》、名は禽《せつ》、字《あざな》は元忠《げんちゅう》。きわめて珍しい姓の人物である。年齢はこの年、すでに七十三歳であった。秦檜のために宮廷から追放されていたが、今回復帰したのだ。
 この老人が尚書《しょうしょ》右《う》僕《ぼく》射《や》、同中書門下平章事《もんちゅうしょもんかへいしょうじ》となった。宋《そう》代の官名には、やたらと長いものが多いが、要するに秦檜の後をついで帝国宰相となったのである。この人事は、宮廷の内外を唖然《あぜん》とさせた。
「万俟禽が宰相に? あの老人に宰相になどなる資格があるのか!」
 おどろきと怒りの声をあげ、そして人々はさとったのである。高宗が内外の政策を変えるつもりなどない、ということを。
 万俟禽は、たしかに秦檜によって宮廷を追われた。だがそれは政策に反対したためではなく、正論をとなえて憎まれたためでもない。それどころか、一時期、彼は秦檜の腹心であったのだ。
「そもそも万俟禽はあの件の共犯ではないか!」
 あの件、とは十四年前の惨劇である。当時、金国との和平条約締結をいそいでいた秦檜は、強硬な和平反対派である枢密副《すうみつふく》使《し》の岳《がく》飛《ひ》を排除する必要にせまられた。高宗の黙認をえて、秦檜は岳飛を逮捕した。不軌《むほん》の罪をでっちあげ、凄惨《せいさん》な拷問を加え、ついに自白が得られないままに獄中で虐殺《ぎゃくさつ》したのだ。そのとき秦檜の腹心として、不当逮捕・拷問・虐殺を実行したのが万俟禽であった。
 それ以来、万俟禽は秦檜の腹心としてのさばっていたが、五、六年で不興を買って宮廷から追放されてしまったのである。堂々と秦檜に反対したというわけではない。何やらつまらぬ不手《ふて》際《ぎわ》をしでかしたようだが、正確な内容は誰も知らなかった。
「役に立たぬ奴だ」
 という秦檜のひややかなつぶやきが、人々に事情を推測させるだけであった。要するに、無能のゆえに見放されたのである。
 自分の一族以外の人々に対して、秦檜がいだいていた感情は、憎悪と侮《ぶ》蔑《べつ》だけであったように見える。有能な者は憎悪され、無能な者は侮蔑された。敵である岳飛は憎まれ、味方である万俟禽は蔑《さげす》まれた。有能な敵は無実の罪で滅ぼされ、無能な味方は使いすてにされた。膨大な他人の犠牲の上に、秦檜は一族の栄華をきずきあげ、死にいたるまでそれを守りつづけた。
 国家も皇帝も政敵も部下も、すべては秦檜が栄華をきわめるための道具でしかなかったのだ。
 岳飛を殺すとき、数日にわたって秦檜はためらった。だがそれは、無実の人間に汚名を着せて殺す、という行為のおそろしさを感じたからではない。どの選択が自分にとって最大の利益をもたらすか、計算に手間どっただけのことであった。秦檜の思考には、後悔とか自己|懐《かい》疑《ぎ》とかいった要素が存在しない。秦檜の人格は、当時の人々にも後世の人々にも異常な印象を与えずにおかないが、その要因は、死者の霊や後世の評価をおそれるような「弱さ」が完全に欠落しているという点にあるであろう。完璧な利己主義者というものが地上に存在しえるとするならば、この冷たい灰色の男こそがそれであった。
 秦檜も万俟禽も『宋史・姦臣《かんしん》伝』に名を並べているが、両者を同列に論じることなど、とてもできない。秦檜の内包する深淵《しんえん》の底知れなさに比べれば、万俟禽の残忍さや卑劣さなど底の浅いものである。万俟禽は、抵抗できぬ者を虐待《ぎゃくたい》して快楽をおぼえる異常者でしかなかった。
「岳将軍を拷問にかけるため、毎日、獄へと出かけていく。それはそれは嬉しそうな表情でな」
 そういう話を、子温は、幾人かの知人から聞いたことがある。秦檜は万人から恐怖されていたが、万俟禽は蔑まれていたのである。
 さらに万俟禽は「桔槹刑《きつこうけい》」という拷開法を考案したといわれる。
 囚人の両足首を綱《つな》でしばり、天井から逆《さか》さ吊《づ》りにする。これだけで体内の血が頭に上って、苦痛は激しい。さらに天井からの綱を幾《いく》重《え》にもよじらせてから放すと、逆吊りになった人体はすさまじい勢いで回転する。回転がおさまると同時に、前後左右から杖《じょう》をもって乱打する。「血と内臓が口から飛び出すかと思われる」ほどの苦痛であるといわれた。この凄惨な拷問を、万俟禽は二ヶ月にわたって岳飛に加えつづけたのだ。
 万俟禽という老人が、世に何か事績を残したとすれば、このような拷問法を考えだしたというだけである。そのような人物をわざわざ宰相に任じようという高宗の心理が、子温には判断しかねた。
 ――他にいくらでも人材がいるだろうに、よりによって……。
 そう思ったが、あらためて考えてみると、じつはそうでもない。前提条件として、これまでの政策を変えない、ということであれば、対金強硬派のなかから宰相を選ぶわけにはいかないのだ。秦檜を盟主とする対金友好派のなかから選ぶとすれば、万俟禽ぐらいしか人材がいないのである。
 秦檜は、才能ある者を好まなかった。彼に必要なのは、自分の命令を忠実に果たすだけの部下だった。政策をつくり、計画をたて、陰謀をめぐらせるのは、秦檜ひとりで充分だったのだ。そして、なまじ有能な部下を必要としない点で、いまや高宗も秦檜と同じ立場だった。宮廷の一部には、張浚という人が宰相となることを望む声もあったが、それはかなわなかった。

 いささかややこしいのだが、この時代、「ちょうしゅん」という名の有名人がふたりいる。
 ひとりは「張俊」と書く。盗賊より身をおこして将軍となり、金国との戦いや叛乱《はんらん》討伐に大功をたてた。この人の字は伯英《はくえい》という。
 もうひとりは「張浚」と書く。唐《とう》の名宰相といわれ、伝書鳩《でんしょばと》の創案者ともいわれる張九齢《ちょうきゅうれい》の子孫であり、科《か》挙《きょ》出身の、教養ゆたかな文官であった。字は徳遠《とくえん》である。
 対照的な生まれ育ちのふたりは、政治的な立場も正反対であった。武将の張俊は和平派であり、文官の張浚は主戦派であるから、ますますややこしい。張俊は勇猛で統率力にすぐれていたが、白昼堂々と殺人や掠奪《りゃくだつ》をおこなうような男であった。その悪事や金軍に対する戦意のなさを、張浚は激しく批判し、ふたりは反目《はんもく》しあっていた。
 当時の人にも、なかなか両者は区別しにくかったようで、両者を混同した記録がいくつもある。そのような記録を見ると、張俊というただひとりの人物が、神出鬼没、あるときは宮廷で大臣となり、あるときは戦場で将軍となり、あるときは主戦論をとなえ、あるときは和平を主張し、ころころと態度を変えていて、まことにめまぐるしい。
 武将の張俊のほうは、昨年、七十歳で死んだ。文官の張浚のほうは、六十歳で健在である。こちらは三十三歳で知《ち》枢密院《すうみついん》事《じ》、つまり帝国軍最高司令官代理となったほどの英才であるから、充分に宰相がつとまるはずだ。だが彼が宰相となるときは、宋と金とが全面戦争に突入するときであろう。
 秦檜の専横にさからった、という点では張浚は正義派である。ただ、やたらと口やかましいし、自分が正義派であることを誇る癖があった。知枢密院事として、宋の戦時体制をごく短期間に築きあげた功績は大きい。だが戦略家としてはいささか性急《せいきゅう》で、状況判断が主観的であったから、大きな敗北も経験している。
「張浚はなぜああも戦いを好むのか」
 と、高宗の信頼もいまひとつであった。だが張浚は秦檜に睨《にら》まれ、処刑や暗殺の危機にさらされながら、主戦派としての節《せつ》を守りつづけた。彼の名は金国の指導者たちにも知られていた。宋と外交|折衝《せっしょう》があるつど、金の指導者たちは、張浚の動静を問うたという。
 一方、武将のほうの張俊は、というと。
 極端にいえば、この時代、南宋の官軍は傭兵《ようへい》部隊の集合体であるといってよい。将軍たちは自身の実力と人望とによって、兵士を集め、組織し、編成し、軍団をつくりあげたのである。朝廷から官位をもらい、官軍として公認されれば、軍資金や食糧も供給される。やりようによっては、いくらでも富をえることができた。
 うまく立ちまわった将軍たちのなかには、駐屯地で民衆から租《そ》税《ぜい》を取りたてる権利を手にいれた者もいる。取りたてた税は、国庫におさめず、軍資金という名目《めいもく》で自分の懐《ふところ》にいれてしまうのだが、べつに違法ではない。朝廷から認められた権利なのだ。
 将軍たちのなかで、とくに殖財《しょくざい》がたくみだったのは、張俊と劉光世《りゅうこうせい》のふたりである。手にいれた権利を最大限に活用して、ふたりは天下で指おりの富豪に成《な》りあがっていった。張俊の荘園《しょうえん》では、一年間に六十万石の米を産したというから、まさに大諸侯である。劉光世のほうは広大な塩田を手にいれて、塩の生産と販売を独占し、巨億の富をわがものとしていた。
 このふたりと、韓世忠《かんせいちゅう》は仲が悪かった。
「何だ、あのふたりは。銭をよこせ、米をよこせ、と朝廷にせびるばかりで、このごろろくに戦ってもおらんじゃないか」
 国を救うための戦いを、劉光世たちは金銭《かね》もうけの手段と考えている。朴直《ぼくちょく》な韓世忠には考えられないことだった。だが韓世忠としても、四万人からの兵士を統率して、彼らを食わせてやらねばならぬ。仙人ではあるまいし、霞《かすみ》を食わせるわけにいかないのだ。米や麦をたくわえ、軍資金をととのえる。ただ将軍であるだけではなく、軍団経営者としての資質が必要だった。
「だが、おれは自分の腹を肥《こ》やすようなまねはしておらんぞ。すべて戦いのためだ」
 韓世忠はそう思っていたが、残念なことに、べつの観《み》方《かた》をする人々もいる。高宗の側近である文官たちから見れば、張俊も劉光世も韓世忠も同類でしかなかった。
「将軍どもは何のかのいっても、結局、自分の利益のために戦争をつづけたがっているのだ。張俊や劉光世はもちろんのことだが、正義派づらしている岳飛や韓世忠の本心もそうに決まっている」
 そういう文官たちの反感が、やがて秦檜の大粛清を生むのである。

    二

 歴史的に見れば、高宗は宋帝国中興の名君である。だが彼自身が積極的に何ごとかをやったわけではない。動乱のなかで逃げまわるうちに、旧臣たちに推《お》されて帝位に即《つ》いた。さらに逃げまわっているうちに、敵軍は長江《ちょうこう》の北へ引きあげた。その後、玉座《ぎょくざ》にすわっている間に岳飛が殺され、和平条約が成立した。さらに待つうちに秦檜も死んだ。そしていま高宗は、すくなくとも国内で恐れるものなどなくなったのだ。幸運な人物というしかない。
 むろん、それは一面から見ての説明である。
「頭のなかは和(和平)と避(逃走)の二文字だけ」と冷笑されながら、高宗は非凡な忍耐力によって、王朝を再興し、平和を確保し、国を富ませたともいえるのだ。子《し》温《おん》は、高宗に対していくつかの批判もあったが、基本的には好意をいだぎ、忠誠をつくすつもりであった。
 はじめて子温が高宗皇帝に拝謁《はいえつ》したのは六歳のときである。父につれられて宮中に参内《さんだい》したのだ。『宋書・韓彦直《かんげんちょく》伝』には事情は記されていないが、他の将軍たちが拝謁するついでであったかもしれない。
 天子の御《ご》前《ぜん》で、子温は紙と筆を与えられ、字を書くよう命じられた。自分の身体より大きな紙を床において、子温は筆をふるい、あざやかに四つの文字を書きあげた。
「皇帝|萬歳《ばんざい》」
「これはこれは、幼児ながらみごとな筆跡だ。将来が楽しみじゃな」
 喜んだ高宗が子温の背をなでて賞賛したので、韓世忠は感激に顔をかがやかせた。そして死ぬまでそのことを自慢していた。
 いまになって思うと、どうもわれながらこざかしい孩子《こども》であったような気が子温はする。だが、自分の無学を気にしていた韓世忠にとって、わが子が文の道で天子にほめていただいたことは、なまじの武勲よりうれしいことだったのだ。
 ――さいわいにして、陛下は暴虐の君主《きみ》ではない。
 子温は|ほっ《ヽヽ》とする。高宗ひとりにとどまることではなく、宋は建国から滅亡に至るまで十八代三百二十年、ひとりの暴君も生まなかった。中華帝国を統治した歴代王朝のなかでも、宋の皇室である趙《ちょう》家は、もっとも民衆から好まれた一家であったろう。
 高宗の父親であった徽《き》宗《そう》皇帝は、とくに善良な為人《ひととなり》で知られる。それは温和で優しいお方であった、と、誰もが口をそろえる。だが残念なことに、その善良さは、国を守ることも民を救うこともできなかった。
 金軍の虜囚《りょしゅう》となり、牛車に乗せられて北方へ引きたてられる悲惨な旅。その途中、道の左右につみかさねられた民衆の屍体を見て、徽宗は涙を流し、「予《よ》の罪である、予の罪である」とくりかえしたという。そのような話を聞くと、「皇帝がもっとしっかりしていれば」という人でも、徽宗個人の罪を責める気になれないのであった。
 もともと秦檜は、徽宗と欽宗《きんそう》が金軍の捕虜となったとき、やはり捕虜となって北方へつれさられたのである。それがやがて無事に帰ってきたので、人々はおどろいた。秦檜自身は平然として、悪びれたようすもない。
「監視の金兵を殺して、生命《いのち》がけで脱出してきたのだ」
 そう秦檜は説明したが、これは誰も信じなかった。秦檜は妻子や従僕《じゅうぼく》を全員ひきつれ、家財道具までかかえて悠々と帰ってきたのだ。兵士を殺して脱出したにしては、追跡者の姿もないではないか。そして帰国直後から宮廷に復帰すると、秦檜は、たちまち和平派の領袖《りょうしゅう》として宰相にのしあがっていった。人々は推測し、結論を出した。秦檜は金国の重臣と密約を結び、和平を推進するという条件で帰国を許されたにちがいない、と。
 ほんとうに生命がけで脱出してきた人のなかに、曹勛《そうくん》という官人がいる。彼は徽宗から高宗にあてた密書をたずさえていた。紙もなく、徽宗は着衣の布を引き裂いて、文章を書きつけたのだ。炭をくだいて水にとかし、古ぼけたただ一本の筆を使って。
「中原《ちゅうげん》を清めるの策あらば、ことごとく挙《あ》げて之《これ》をおこなえ。我をもって念と為《な》すなかれ」
 奪われた国土を回復する策があるなら、どんな方法でもよいから実行せよ。私の生命など気にしなくてよい。
 それが徽宗の伝言であった。帝位にあったころの徽宗は、人生を楽しむことしか頭になかったが、荒野に虜囚となってから、はじめて皇帝としての責任にめざめた。遅すぎた、というべきであろうか。だが徽宗は、自分自身の罪を背負って、極北の流刑地へと旅をつづけた。馬や車を使うことも許されなくなり、徒歩で荒野を進み、砂漠を渡り、雪原をこえた。ろくな食事も薬も防寒衣も与えられず、息子をはげまし、妻をいたわり、やがて砂《さ》塵《じん》のために眼を傷つけて半盲目となりながら、八年にわたる抑留《よくりゅう》生活の末に死んだ。宋の紹興《しょうこう》五年(西暦一一三五年)のことで、五十四歳であった。遺体が宋に帰ったのは、その七年後である。
 子温やその両親たちの時代、中華帝国とその周辺は、すさまじいほどに鳴動していた。

  宋  漢族  趙匡胤《ちょうきょいん》が建国
  金  女真《じょしん》族 完顔《かんがん》阿骨打《アクダ》が建国
  遼  契丹《きったん》族 耶《や》律《りつ》阿保機《アボキ》が建国
  西夏 党項《タングート》族 李《り》元※[#「日/大」、unicode65F2]《げんこう》が建国

 これらの諸民族が、東アジアの大地に治乱と興亡をくりかえしていた。なお、女真族は後世にも清《しん》という王朝を樹《た》てる。契丹族はモンゴル系、党項族はチベット系である。
 文化と経済と社会制度と産業技術において、宋の存在は圧倒的であった。火薬、木版印刷、羅《ら》針盤《しんばん》など人類史を変えるような発明がなされ、石炭が燃料として使われるようになり、料理法や農法は飛躍的に進歩した。米の生産量は一億|斤をこえ、塩や茶の生産量もそれぞれ一億斤をはるかにこえた。紙も陶器も織物も、世界で最高のものが世界最大の生産量を誇った。すぐれた文人や画家が輩出《はいしゅつ》したが、もっともすぐれた画家のひとりが、第八代皇帝の徽宗である。ただ軍事力は弱くて、「宋朝弱兵《そうちょうじゃくへい》」などといわれたが、財力の豊かさと外交のたくみさでそれをおぎなった。
 そして遼を滅ぼし宋を圧迫する金は――。
 女真族が金を建国した当初、君主である完顔《かんがん》一族には名君や名将が輩出した。しかも一族が心をあわせて協力し、新興の国家を急速に強大化させていった。
「見るべし、開国の初《はじめ》、家庭の間、心を同じうして協力し、皆、門《もん》戸《こ》を大にし土宇《とう》を啓《ひら》くを以《もっ》て念と為《な》し、絶えて自《みずか》ら私《わたくし》し自ら利するの心なきを」
 と、清《しん》の史家|趙翼《ちょうよく》は絶讃している。民族の指導者たちが、私心や私欲をすてて力をあわせ、ひたすら国を発展させていくありさまは、後世の口やかましい史家をも感動させたのである。さらに趙翼は記す。
「金の初めて起《おこ》るや、天下これよりも強きは莫《な》し」
 金の皇族たちは、将軍となって金軍の先頭に立ち、自ら白刃をふるって敵と戦った。宋の皇族たちと、勇敢さにおいて比べものにならない。ゆえに少数の兵をもって大軍を撃破し、四方の敵をことごとく圧倒して勢力を拡大していった。
 ことに太《たい》祖《そ》皇帝|阿骨打《アクダ》の四男、宗弼《そうひつ》の勇敢さは、敵も味方もおどろかせた。兄|宗望《そうぼう》の死後、金国の兵権は宗弼ひとりの手に帰した。銀述可《ぎんじゅつか》という百戦錬磨の宿将が、若い宗弼を補佐したが、ほどなく死去したので、金軍の戦略立案と戦闘指揮は、ほとんどすべて宗弼によっておこなわれるようになった。
 宗弼とは漢式の名で、女真族としての名は「ウジュ」という。もともと女真族には文字がなかったので、漢字で表記すると「兀《ウ》朮《ジュ》」となる。烏《ウ》珠《ジュ》とも書くが、歴史小説や戯曲では兀朮と記されるのがほとんどである。宋人、つまり漢民族から見れば、宗弼は侵略者の代表といえる。にもかかわらず、宗弼の勇敢さを、たたえずにはいられなかった。
「四《スー》太《ター》子《ツ》は敵ながら颯爽《さっそう》たる男だったねえ」
 そう梁紅玉《りょうこうぎょく》は息子に語ったものだ。四《スー》太《ター》子《ツ》。それは「第四皇子」という意味である。なお、仲のよかった兄の宗望は本名を斡離不《オリブ》といい、「二《アル》太《ター》子《ツ》」と呼ばれる。弟にひけをとらぬ驍将《ぎょうしょう》として名をとどろかせ、あつく仏教を信仰して「菩《ぼ》薩《さつ》太《たい》子《し》」とも称されたが、若くして病死した。
 宗弼には自慢の親衛隊がいた。騎兵のみ三千騎から成り、「鉄塔兵《てつとうへい》」と称されている。
「四《スー》太《ター》子《ツ》の鉄塔兵」
 といえば、味方は畏《い》敬《けい》し、敵は恐怖した。鉄塔兵一騎で、宋兵十人にあたるといわれた。黒い尖《とが》った鉄の冑《かぶと》をかぶり、黒馬にまたがって長槍《ちょうそう》をふるう。黒い奔流となって、鉄塔兵が戦場を駆けぬけると、後には敵兵の屍体のみが残された。彼らは遼国や西夏国の勇士たちを馬《ば》蹄《てい》の左右に蹴ちらし、ついに槍先を宋にむけてきたのである。
 鉄塔兵の先頭には、つねに四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼がいた。彼の愛馬の名は、『金史・宗弼伝』に記録されている。「奔龍《ほんりゅう》」といい、金国随一の名馬であった。
「そんなに強かったら、四《スー》太《ター》子《ツ》とかいう人は一度も負けたことがないんだろうね」
 まだ少年であった子温が問うと、梁紅玉は愉快そうに笑ったものだ。
「冗談いっちゃいけないよ。四《スー》太《ター》子《ツ》は英雄だった。鉄塔兵は強かった。だけど、四太子と鉄塔兵を、黄天蕩《こうてんとう》の戦いで全滅寸前にまで追いこんだのは、お前の阿爺《とうちゃん》と阿母《かあちゃん》だからね。楽しみに持っといで、くわしく話してやるから」

    三

 十一月にはいって、宮廷にもどった子温は、ようやく高宗への拝謁がかなった。
「彦直か、ひさしいの、息災《そくさい》であったか」
 高宗は主君であるから、子温の本名を面とむかって呼ぶ資格があるのだ。
「ご聖恩《せいおん》をもちまして」
 うやうやしく子温は低頭する。彼が招じいれられたのは、高宗が秦檜の訃《ふ》報《ほう》を受けた部屋であった。屏風《びょうぶ》は花鳥図ではなく山水図のものに変わっている。
「そなたはまだ独身《ひとりみ》であったと思うが、それとも臨安府を離れておる間に良縁をえたか」
「いえ、まだでございます」
 子温は二十八歳でまだ独身である。この当時、士《し》大《たい》夫《ふ》としては結婚が遅い。彼の両親が当時としては晩婚であったから、本人もあまり気にしなかった。それに、父子そろって丞相《じょうしょう》秦檜ににらまれているとあっては、積極的に婚儀を申しこんでくる人もいなかったのだ。
 なお、子温には弟がふたりいる。上の弟を韓彦質《かんげんしつ》、下の弟を韓彦《かんげん》古《こ》という。どちらも精確な記録は残されていないが、朝廷につかえたことはたしかなようで、彦古のほうは戸部《こぶ》尚書《しょうしょ》(財政大臣)にまで出世した。
「そうか、では家庭の憂《うれい》はないな」
 高宗はうなずいた。結婚の話題を持ちだしたのは、皇帝自身のお声がかりで子温に妻を迎えさせる、ということではなかったようだ。内心、子温は|ほっ《ヽヽ》とした。皇帝のお声がかりとなれば、たとえ気のすすまない縁談でもありがたくお受けするしかない。
「じつはの、金国から諜者《ちょうじゃ》がもどってまいった」
 孫《そん》子《し》の兵法が世に出て以来、漢民族は諜報戦に長じている。これまで宋が何とか金に対抗してこられた理由のひとつは、諜報戦ではるかに敵国よりすぐれていた、という点であった。この時代よりやや後に、金の世宗《せいそう》皇帝に対して、重臣がつぎのように言上している。
「わが国も諜者を多く放っておりますが、なかなか宋の内情をさぐることができません。ところが宋のほうでは、わが国の内情をじつに正確に知っております。これでは戦争にも外交にも不利でございますから、諜者の待遇をもっとよくして、何としても宋に対抗すべきでございます」
 世宗はうなずいたが、苦笑まじりであったという。後世、金の歴史上最高の名君といわれる人だ。待遇をよくしたぐらいでどうにもなるものではない、とわかっていたのであろう。
 金国の人口は約四千万人と推計される。そのうち七百万人が女真族であり、契丹族や渤海《ぼっかい》人が三百万人もいるだろうか。残りはすべて漢民族である。宋からの密偵が潜入しやすいのは当然であった。
「諜者によって滅びるような国なら、滅びてもしかたがない。予はただ善《よ》き政《まつりごと》につとめるのみだ。漢民族に対しても公正にふるまえば、宋に通じる者もなくなろう。よき国をつくる以外に、正しい道というものはないはずだ」
 それが世宗の考えであった。彼の考えを、
「現実の厳しさを知らぬ甘ったるい理想主義」
 と嘲笑《ちょうしょう》ることもできるだろう。だが、現実に、金帝国がもっとも安定と充実を誇ったのは、世宗の時代であった。少数民族である女真族が多数の漢民族を統治する、という基本的な矛盾《むじゅん》は、むろん人知によって解決できるものではない。だが、統治される漢民族のがわから、世宗を古代の伝統的な聖王にたとえる声があがったのは、世宗の名誉というものである。
 ただし世宗の出現までに、歴史は金のために流血と劫《ごう》火《か》の舞台を用意していたのだ……。
 宋の首都、杭州臨安府《こうしゅうりんあんふ》の宮廷では、高宗皇帝|自《みずか》らが、臣下である子温に対して、金の国内情勢を説明しはじめたところである。
「そなたも知っておるやもしれぬが、六年前のことじゃ。金国で思いもかけず政変が生じた」
「はい、存じております」
 講和の成立から今日に至るまで十三年間、宋では高宗ひとりが帝位に在《あ》った。だが金では、帝位が交替している。講和が成立した紹興十二年、金の天子は煕《き》宗《そう》であったが、七年後、煕宗が没して、皇族のひとり完顔亮《かんがんりょう》が即位した。じつは煕宗は完顔亮によって弑逆《しいぎゃく》されたのである。
 煕宗が即位したのは十七歳のときである。少年のころから中国式の教育を受け、中国文化にあこがれて成長した。宗幹《そうかん》・宗弼《そうひつ》・宗翰《そうかん》といった皇族たちが文武の才能をつくして彼を補佐した。二十四歳のとき、宋との講和が成立し、金は中国大陸の北半を支配する強大な王朝として、ここに覇権を確立したのである。
 そこまではよかった。だが、有能だが目ざわりな皇族たちがつぎつぎと引退したり逝去《せいきょ》したりすると、煕宗は節度を失いはじめた。彼はもともと聡明な青年で、酒乱が唯一の欠点であったが、急速にそれがひどくなった。酒毒に精神を冒《おか》されて妄想をいだくようになり、つぎつぎと皇族や重臣を殺し、ついに皇后と口論のあげく斬殺するにおよんだ。
 それでも煕宗が何とか安泰だったのは、驍勇《ぎょうゆう》無双の雄将であった四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼が健在だったからである。宗弼は宋にもっとも恐れられた男で、岳飛や韓世忠との間に死闘をくりひろげ、一時は杭州を占領して高宗を海上に追い落としたことすらあった。その武勲と実力は比類がない。彼は建国の苦難を知りつくしていたから、一族が内紛をおこすことを何よりも憎んだ。煕宗は彼をけむたがり、宮廷から遠ざけてはいたが、どこにいようと宗弼の存在は巨大であった。
 その宗弼が死ぬと、煕宗は帝位をささえてくれる柱を失った。そのことに気づいて態度をあらためれば、煕宗は殺されずにすんだかもしれない。だが、宗弼という最後の歯どめを失って、煕宗は、反感と敵意の包囲網のなかに孤立し、さらに殺戮《さつりく》をすすめようとする。
 ここで完顔亮が登場する。完顔という姓は、彼が金の皇族であることをあらわす。彼は煕宗の従弟《いとこ》にあたり、平章政事《へいしょうせいじ》、つまり宰相の一員であった。彼は決断を下した。同志を集め、白刃《はくじん》をかざして宮廷に乱入する。御林《ぎょりん》(近衛)の兵士たちはあえて防ごうとせず、酒杯を手にしたまま煕宗は一室に追いつめられた。
「誰かある! 武官やある! 予を救え!」
 それが最期の叫びであったという。最初に剣を突き剌したのは完顔亮であった。倒れた皇帝の身体に、十数本の白刃が降りおろされ、血と酒の匂いが室内を満たした。金の皇統《こうとう》九年十二月。宋の紹興十九年、西暦では一一四九年にあたる。煕宗は三十一歳であった。あれほど無私の団結を誇った女真族のなかで、ついに皇帝弑逆の惨劇がおこったのである。
 こうして完顔亮が即位して新帝となった。彼は煕宗以上に中国の文人としての教養に富み、頭脳は鋭敏で容姿もすぐれた二十八歳の青年であった。金の宮廷人たちは彼に期待した。いわば宮廷内の総意で、乱心の皇帝を殺した、という負《お》い目はあるが、新帝が国内の混乱をおさめ、清新な政治をおこなってくれれば、弑逆の罪も浄化されるであろう。流された血も意味あるものとなるはずだ。これからの金国は、建国から安定へ、重大な転機を迎えるのだから。
 ……だが、その期待は裏切られた。
「現在の金国主《きんこくしゅ》は、煬帝《ようだい》以来の暴君といわれておるそうな」
「はい」
「殺人と淫虐《いんぎゃく》とを好むことはなはだしく、すでにして皇族百五十人を殺し、しかも彼らの妻女をすべて後宮《こうきゅう》に納《い》れ、姦淫《かんいん》をほしいままにしておると」
 高宗の声が嫌悪に慄《ふる》える。漢民族の文化では、同族の男女が通じるのは人倫《じんりん》にもとる行為であった。直接、血がつながっていなくとも、たとえば兄の妻を姦《おか》すとか、従弟《いとこ》の妻と通じるとかいう行為をなせば、野獣にひとしい者とみなされるのである。それを完顔亮はきわめて大規模にやってのけたのだ。
「はっきりいっておくが、金国主が国内でどのように暴政をおこなおうと、予の知ったことではない。皇族や重臣がつぎつぎと殺されているというが、ざまを見よ、といいたいほどじゃ。徳の薄い言いようではあるがな、それが本心じゃ」
 たしかにそれが高宗の本心であろう。彼の家族を遠く北方へ拉致《らち》したのは金軍である。ようやく帝位についた彼を、大陸じゅう追いまわし、ついに船に乗って海上へ逃れるまで苦しめたのも金軍である。そして和平が成《な》った後には、中華帝国の天子たる者が、異民族の皇帝に頭をさげねばならなくなった。すべて金軍のせいである。彼らがたがいに殺しあうありさまを見れば、高宗としては手を拍《う》って、「ざまを見よ」といいたくなるのは当然であった。
「だが暴君の視線が、南に向いたときがおそろしいのじゃ。わかるか、彦直」
 高宗の声は、さりげなさをよそおっていたが、深刻な恐怖を隠しおおせることはできなかった。
「陛下、それは金が和約を破って侵略してまいるやもしれぬ、ということでございますか」
 子温の声もこわばった。
 高宗の考えが妄想であればよい。だが、完顔亮の行為を伝え聞くと、やはり不安をいだかずにいられない。蒼白《あおじろ》んだ高宗の顔を見やって、子温は異論をこころみた。
「ですが、和約は金にとっても望ましいものであったはず。一方的にそれを破る理由はないように臣には思えまするが」
「理由なき暴挙をあえてやるがゆえに、暴君と呼ぶのじゃ。まず主君を弑《しい》し、つぎつぎと一族の者を殺し、その妻女を姦《おか》す。どのような理由がある?」
「……ございませぬ」
 完顔亮が金国でおこなっている悪業のかずかずには、誤伝や誇張があるかもしれない。だが、彼の行為が、さまざまな意味で原則を踏みはずしていることはたしかだ。何をしでかすやら見当もつかぬ、という恐怖がある。
「彦直よ、そなたに頼みたいことがある」
 その言葉を聞いたとき、子温はすでに予測していた。皇帝は頼みという。だが臣下がそれを拒《こば》めようはずがない。そして、予測どおりに玉声《ぎょくせい》は下った。
「智勇胆略《ちゆうたんりゃく》のすべてを具《そな》え、しかも絶対的に信頼できる者でなければ、このようなことは頼めぬ。彦直、予の飛耳《ひじ》鳥目《ちょうもく》となって北方に潜入してくれ。金国内にはいりこみ、完顔亮が何を考えおるか、探ってきてほしいのじゃ」

    四

 自分で思いこんでいたほどには落ちついてなかったようだ。高宗の御前から退出した子温は、曲折した長い回廊のどこかで、自分の位置を見失ってしまった。曲がるべき地点で曲がりそこねたらしい。
 天子から与えられた使命のことを考える。勅命であるから拒みようはない。だがどこまでも密命であるから、安全の保証は絶無である。かりに金国の官憲にとらえられれば、沈黙を守ったまま死んでいくしかないのだ。死を恐れてはいないつもりだが、無意味な死は好まない子温だった。
 子温は韓家の長男であり、母親がいる。儒教倫理からいえば、母親への孝養と家の祭《さい》祀《し》とを最優先させねばならぬ。さてどうするか、と思ったとき、一団の人影に気づいた。子温は目をこらして、先頭の人物を認めた。
 万俟禽であった。十人をこす官人が、群らがるように彼に随従《ずいじゅう》している。子温は反射的に身体を動かし、朱《しゅ》塗《ぬ》りの太い円柱の蔭に身をひそめた。白髪の宰相は、表情というもののない顔で柱の前方を横切っていった。
 一見したところ万俟禽は平凡な老人でしかない。容姿にも言動にもとくに異常はなく、むしろ端整なほどだ。だが、この老人が十四年前に無実の罪で岳飛をとらえ、二ヶ月にわたって凄惨な拷問を加えた末に惨殺したのである。冤罪《えんざい》によって人を殺す、という、人界にあってもっとも陰惨な行為を平然としてなしとげた人物なのだ。そして、このたび宮廷に復帰した彼がまずやってのけたのは、秦檜の子である秦《しん》※[#「火+喜、unicode71BA]《き》の地位を剥奪《はくだつ》し、家族もろとも臨安府から追放することであった。
 秦※[#「火+喜、unicode71BA]は泣く泣く家族をつれて臨安府を去っていった。ざまを見よ、と思っていた人々も、あまりの惨《みじ》めな姿に、つい気の毒になったほどである。
 子温の父母――韓世忠と梁紅玉の時代は、英雄の世代であったといえる。宋にも金にも智者や驍将が雷雲のごとく群らがり生まれて、覇をきそったのだ。
 そのころは悪でさえ非凡だった。秦※[#「火+喜、unicode71BA]や万俟禽の|ていたらく《ヽヽヽヽヽ》を見ていると、亡《な》き秦檜の巨大さを、子温は認めざるをえない。すくなくとも秦檜は、一国を私物化して小ゆるぎもしなかった。
 ついで万俟禽がおこなったのは、岳飛の名誉回復を拒絶することであった。秦檜の死、反秦檜派の宮廷復帰、秦※[#「火+喜、unicode71BA]の追放。それらの変化に勢いづいた人々は、岳飛の名誉を回復するよう、高宗皇帝に願い出たのである。
 岳飛は獄中で殺され、彼の後継者で養子であった岳雲《がくうん》は共犯として斬首された。一族はすべて流刑となり、財産は没収された。「天の理《ことわり》はどこにあるか、朝廷の義はどこにあるか」と、人々がささやきあうのも当然であった。
 高宗としては、岳飛殺害の全責任を秦檜にかぶせてしまうことができれば、岳飛の名誉回復を認めるつもりだった。兄欽宗を見すてた件と同様、岳飛の死も、高宗の良心に刺さった鋭い棘《とげ》であったのだ。
 だが万俟禽にしてみれば、岳飛の名誉回復など、とうてい認められるものではなかった。高宗と異《こと》なり、万俟禽は、すべての責任を秦檜に押しつけることはできなかった。岳飛の死に関して、高宗は見て見ぬふりをしたのだが、万俟禽は直接に手を下して無実の者を殺したのである。それも、きわめて積極的にこの犯罪に加担したことは、誰もが知っていた。岳飛の名誉が回復されれば、つぎは万俟禽が責任を追及されることになるであろう。
 かくして万俟禽は、岳飛の名誉回復に異議をとなえる。
「岳飛の名誉を、そうたやすく回復するわけにはまいりませぬ。彼《か》の者は、一貫して、金国との和平に反対でございました。いま彼の者の名誉を回復すれば、金国はどう思うでございましょうか。本朝《わがくに》が和平策を棄《す》て去るのではないか、と疑念をいだき、出兵してまいるやもしれませぬぞ。そうなったらいかがなさいますか」
 そういわれて、高宗は不快げに眉を寄せた。何かというと「金国がどう思うか」という論法で、高宗に反対するのが、亡き秦檜のやりくちであった。万俟禽はそれを模《も》倣《ほう》しているのである。だが、この論法は高宗に対してたしかに有効であった。高宗としては、金国を刺激するようなことは、国家のためにも自分自身のためにも、やりたくない。
 岳飛の名誉回復案は、かくして葬りさられた。
 これが公人として万俟禽の最後の「業績」になる。以後、彼は、無為のうちに地位に安住し、ゆっくりと死に至る。岳飛殺害に対して、彼が罪を問われるのは、死後のことである。
 万俟禽が柱の蔭に気づかず通りすぎていったので、子温は息を吐きだした。本来、隠れねばならぬ必要もなかったのだが、猜《さい》疑《ぎ》心のつよい老人から詰問され、天子からの密命に気づかれでもしたら一大事である。用心にこしたことはない。岳飛をすら殺害した万俟禽が、子温の生命など重んじるはずもなかった。
 なお用心しながら、子温は柱を離れ、万俟禽とは反対の方角へ歩みはじめた。まだ彼の知る宮廷内の風景はあらわれず、自分がいる場所の見当もつかぬ。困惑して立ちどまったところへ声がかかった。官服を着た人物が、子温の左側、十歩ほど離れてたたずんでいる。年齢は子温より五、六歳上であろうか。おどろくほど背が高く、堂々たる身体つきだが、眉がさがりぎみで奇妙に愛敬《あいきょう》のある顔つきだ。案内を申しでてくれたその男は、子温の名乗りに対してこう応えた。
「姓は虞《ぐ》、名は允文《いんぶん》、字は彬《ひん》甫《ぼ》と申す」
「や、あなたが虞彬甫どのでござったか」
 子温は目をみはった。二年前、科挙に合格した新進の官人である。たしか四《し》川《せん》の地に赴任し、「抗金名将《こうきんのめいしょう》」呉《ご》※[#「王+隣のつくり」、unicode7498]《りん》の下で秘書官をつとめていたはずだった。この人物が有名なのは、高宗に対して上疏《じょうそ》文をたてまつったからである。
「秦檜、権《けん》を盗むこと十|有《ゆう》八年、檜死して、権、陛下に帰す」
 とは虞允文の上疏文にある文章である。秦檜の生前、高宗には権力がなかった。その事実を、虞允文は明言したのだ。それを読んだ高宗は、著者に興味を持ち、遠い四川から宮廷へと呼んで、秘書丞《ひしょじょう》に任じた。宮廷書記官である。虞允文は文官だが、どうやら軍事に知識と興味があるようで、しばしば高宗に、金国に対する防御をかためるよう進言していた。
「じつは、子温どの、卿《けい》を金国へ派遣なさるよう陛下に進言いたしたのは、この彬甫でござる」
 そう告白した虞允文のおだやかな表情を、子温はやや呆然《ぼうぜん》として見つめたのであった。
 

 

 

 

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