紅塵

紅塵的背景是在南宋年代﹐開場在靖康之難後十幾年﹐千古罪人秦檜去世﹐宋高宗正式掌握國權..

 

作者:田中 芳樹


目 次

 第一章 江南《こうなん》冬《とう》雨《う》
 第二章 密命
 第三章 黄天蕩《こうてんとう》
 第四章 渡河
 第五章 燕京《えんけい》悲歌《ひか》
 第六章 趙王府《ちょうおうふ》
 第七章 莫《ばく》須《す》有《ゆう》
 第八章 前夜
 第九章 采石《さいせき》磯《き》
 第十章 長江無尽《ちょうこうむじん》
 

 

第三章 黄天蕩《こうてんとう》


    一

 大いなる黄《こう》河《が》が、子《し》温《おん》の眼前にあった。
 黄濁した水流が高く低く咆哮《ほうこう》しながら東へと奔《はし》り去る。水量の豊かさは長江《ちょうこう》におよばないが、むろん凡百《ぼんひゃく》の河川をはるかにしのぐ。水勢の強く烈《はげ》しいことは、たとえようもない。天界の巨神が、目に見えぬ大刀で地をたたき割り、そこに豪雨を流しこんで水平の滝をつくったかとすら思える。手で河水をすくいあげてみると、その半分近くが黄土の粒子であることに気づいて、おどろかされる。遠く西天の涯《はて》から黄河は流れ来《きた》り、東天の彼方へと流れ去る。一瞬ごとに大地を削《けず》り、水流に運ばれた膨大《ぼうだい》な土砂は河口に堆積して平野をつくる。年ごとに平野はひろがり、黄河の河口は東へと伸びていくのだ。
 宋《そう》の紹興《しょうこう》二十六年、金の正隆《せいりゅう》元年、西暦一一五六年の春二月。子温は黄河の南岸に立っている。西ヘ一日歩けば開封《かいほう》に着く。つい三十年ほど前まで、宋の京師《みやこ》として地上でもっとも繁栄していた都会だ。
 大いなる黄河は、山東《さんとう》半島の北を流れて渤海《ぼっかい》湾へとそそぐ。だいたいにおいて、黄河下流の河道は不安定だが、太《たい》古《こ》、黄帝《こうてい》の時代からそうであった。
 だが、子温たちの生きたその時代、黄河は河道を変え、山東半島の南を流れて黄海《こうかい》にそそいでいた。河口の距離からいえば、八百里(約四百四十キロ)も南に移動していたのだ。
 これはじつは人為的なものである。宋の建炎《けんえん》二年(西暦一一二八年)十一月、文字どおり怒《ど》濤《とう》のごとく南下する金軍を阻止《そし》するため、宋の大臣|杜充《とじゅう》は最後の手段に出た。濮陽《ぼくよう》という土地で、黄河の堤防を破壊し、金軍の前方に濁流の壁をきずいたのである。
 黄河は天と地との境を轟雷《ごうらい》さながらの水音でみたし、流れを東北から東南へと変えた。金軍のすさまじい南下は阻止され、多くの人々が征服者の手を逃れて長江を渡ることができた。むろんそれは数十日の時間をかせいだだけで、結局、金軍は黄河を渡ることに成功するのだが。
「……お前の阿爺《とうちゃん》に見せてやりたかったねえ」
 滔々《とうとう》たる大河を見はるかして、そう歎息したのは、子温と同じく旅装に身をつつんだ老婦人であった。彼女の姓名は梁紅玉《りょうこうぎょく》という。子温の母であり韓世忠《かんせいちゅう》の未亡人である彼女は、密命を受けた息子について、杭州臨安府《こうしゅうりんあんふ》を発《た》ち、いま黄河の岸に立っているのだ。
 成人した息子が老母をいたわりつつ旅をするという話は、「孝《こう》」を倫理の最高位にすえる中華帝国では珍しくない。『水《すい》滸《こ》伝《でん》』は子温の父母の世代、徽《き》宗《そう》皇帝の御宇《みよ》の物語だが、王進《おうしん》という人物が老母をつれて逃避行をするところから本篇の物語がはじまるのだ。
 しかし、事情を知らぬ者が見れば、おともをしているのは息子のほうに見えるであろう。老母のほうは鼻唄をうたいながら足どりもかるく、息子は杖《じょう》をつき、荷物を背負って後からついていく。
 母が金国へ赴《おもむ》くと宣言したとき、子温の弟たちは血相を変えて反対したが、梁紅玉は意に介しなかった。かるい口調でこういっただけである。
「お前たち、大恩ある母親のいうことにさからうのかい」
 その一言で、弟たちは恐れいってしまい、
「大哥《あにじゃ》、母上をよろしく」
 というしかなくなってしまったのであった。子温は憮《ぶ》然《ぜん》とした。
「お前たちはよろしくといえばそれですむがなあ、こちらの身にもなってみろ」
「わかっている。家はおれたちが守るから、その点は心配いらないよ、大哥。ふたりして無事に帰って来てくれ」
 子温は密命を受けて金国に潜入するのだ。その任務を公表するわけにはいかない。公式には、老母が重病なので看病のために休職する、ということになった。重病どころか、梁紅玉は健康そのもので、足どりの軽快で確かなこと、息子が感心するよりあきれるほどだ。
 この時代、黄河の北は金が占領し、長江の南は宋が確保していた。問題は黄河と長江との間である。ここには淮《わい》河《が》という川が東西に流れている。だいたいにおいて、黄河の南・淮河の北を「河《か》南《なん》」と呼び、長江の北・淮河の南を「江北《こうほく》」ないし「淮南《わいなん》」と呼ぶ。淮河の線が、宋と金にとって譲りえぬ最前線となった。
 最初のうち金に宋との直接対決を避け、斉《せい》とか楚《そ》とかいった傀儡《かいらい》国家をつくって緩衝《かんしょう》地帯にしようとした。多数の漢民族を統治する自信がなかったからである。だが、ほどなく自分たちの軍事能力だけでなく政治能力にも自信を持つようになった。斉も楚も廃されて、河南一帯は金の直接の統治下におかれるようになった。
 すでに子温と梁紅玉は、金の領土に潜入しているのである。
 高宗《こうそう》から密命を受けた直後、子温は虞《ぐ》允文《いんぶん》という人に会って、さらにくわしく、潜入の目的を知らされることになった。
「ほかでもない、靖康帝《せいこうのみかど》のことでござる」
 靖康帝とは高宗の兄、不幸な欽宗《きんそう》のことである。欽宗とは死後に贈られた歴史上の名であり、この年、紹興二十五年には彼はまだ生存していたから、一般に靖康帝と呼ばれていた。欽宗が即位したときの年号が靖康なのである。
 欽宗がどのような境遇にあるかをさぐり、可能であれば何か力ぞえしてほしい。それが皇上《こうじょう》(現在の皇帝、高宗)の御心《みこころ》である。そう虞允文はいうのだった。要するに高宗は兄を見すてたものの、冷酷には徹しきれぬ。せめてすこしは抑留の苦痛をやわらげてやりたいのだが、これまでは泰檜《そうかい》の目を恐れて何もできなかった。公然と金国に問うて、外交上の問題になってもこまる。そこで、まず子温に状況を調べてほしい、というわけであった。
 そして、その話を子温から聞いたとき、梁紅玉は、同行を申し出たのである。
 韓世忠は死ぬまで欽宗の身を案じていた。抗金義勇軍の無名の一士官であったころ、彼は欽宗の引見《いんけん》を受け、その温和でひかえめな為人《ひととなり》に感銘を受けたのだ。梁紅玉にしてみれば、どうとかして欽宗にお目にかかり、夫の霊に報告したいのである。
「阿母《かあちゃん》は黙ってさえいれば貴婦人に見えるんだ。くれぐれもよけいな口をきかぬようにしてくれよ」
「はいはい、老《お》いては子に従えというからねえ。じゃまをしないように小さくなっているから、どうか見すてないでおくれ」
 しおらしく梁紅玉はいうのだが、その点に関して子温は母を信用していない。本気で子に従うつもりなら、おとなしく西《せい》湖《こ》のほとりで子の帰国を待っているはずだ。それが、形としては息子について金国に潜入している。事実としては、息子に荷物をかつがせて、勇《いさ》んで金国に潜入した。欽宗にお目にかかって夫の霊に報告したい、というのは嘘ではないだろうが、この元気な母は冒険が好きなのだと、子温は見ぬいているのだった。

    二

 ごく幼少のころから、子温は、宋金両国の戦士たちの話を聞いて育った。母である梁紅玉は、正確な記憶力と豊かな表現力とをあわせ持った語り手だったのだ。
「金の四《スー》太《ター》子《ツ》という人は、敵ながらなかなかあっぱれな男ぶりだったよ。天下一とはいかなかったけどね」
 梁紅玉にとって天下一の男児は韓世忠なのである。第二に岳《がく》飛《ひ》、第三に四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼《そうひつ》、という順序だ。京口《けいこう》随一の美妓《びぎ》とうたわれていたころ、上官につれられて歌館《ゆうかく》をおとずれた無口な大男の兵士が、なぜか彼女の心を惹《ひ》いた。誠実で素朴な好《よ》い男だと思った。「そんな男は|やぼ《ヽヽ》で退屈なだけだよ。もっとしゃれた粋《いき》な男といっしょになって、おもしろい一生を送ればよいのに」と、同僚の妓女たちはいった。だが梁紅玉は、この|やぼ《ヽヽ》な男こそ彼女にこの上なく波乱に満ちた一生を約束してくれそうに思えたのだ……。
 こうして夫婦となった韓世忠と梁紅玉とが、もっともかがやかしい武勲をたてたのは、建炎四年(西暦一一三〇年)秋のことである。歴史上に名高い「黄天蕩《こうてんとう》の戦」がおこなわれたのだ。韓世忠は四十二歳、梁紅玉は三十三歳、子温は三歳であった。
 この年、宋王朝はまさしく存亡の淵に立たされていた。四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼にひきいられた金軍十二万騎が、ついに長江を渡って杭州臨安府《こうしゅうりんあんふ》を攻撃してきたのだ。
「今年こそ宋を滅ぼし、わが女真《じょしん》族の手で天下を統一してくれるぞ」
 少壮気鋭の宗弼は、そう決意していた。彼の名は宋全土を戦慄《せんりつ》させた。
「四《スー》太《ター》子《ツ》来《ライ》!」
 もっとも怯《おび》えたのは高宗皇帝である。金軍がせまると、高宗は杭州臨安府をすてて南へ逃げだし、追撃されるとついに陸をすて、大船団をしたてて海上へ逃れた。各地を劫掠《ごうりゃく》した宗弼が、ついに高宗をとらえることを断念して引き返した後、ようやく天子は杭州へ帰ったのである。
 宗弼はこのとき金国の都《と》元帥《げんすい》である。
 都元帥の「都」とは「みやこ」の意味ではなく、「全」や「総」と同義である。都元帥とは、帝国軍最高司令官、あるいは軍事担当宰相とでもいうべき地位であった。宋であれば枢密《すうみつ》使《し》にあたるであろう。
 宗弼には三人の兄がいた。「大《ター》太《ター》子《ツ》」宗幹《そうかん》、「二《アル》太《ター》子《ツ》」宗望《そうぼう》、「三《サン》太《ター》子《ツ》」宗《そう》輔《ほ》である。弟に宗峻《そうしゅん》がいる。この五人兄弟はすべて母親が異なる。彼らの父|太《たい》祖《そ》は、きわめて精力的な男性であったようだ。長兄の宗幹は軍事より政治にすぐれ、国《グ》論《ルン》勃極烈《ボギレ》すなわち宰相として内政と外交に大きな功績をあげた。弟の宗峻は母親の身分が高かったので太祖の嫡子《ちゃくし》となったが、若くして死んだ。三兄の宗輔が、西暦一〇九六年の生まれであるから、宗弼や宗望の年齢もあるていど推測できる。
 宗弼ともっとも仲がよかったのは、次兄の宗望である。たぐいまれな驍将《ぎょうしょう》で、ことに用兵の神速《じんそく》果敢なことは比類がなかった。少年のころから宗弼は宗望の副将をつとめ、ともに戦場を駆けた。宗弼が十三歳のとき、行軍中に味方とはぐれたことがある。ただ一騎で野を駆けるうち、遼《りょう》軍の一部隊に発見されてしまった。弓と槍で八騎まで倒したとき、弟をさがしまわっていた宗望が軍をひきいて駆けつけ、重囲《じゅうい》を斬り破って宗弼を救いだした、ということがあった。戦場を離れると気のやさしい宗望は、虜囚となった徽宗と欽宗に同情し、和約成立と同時に帰国させてやろうとしたが、宗望のほうが早く死んだ。胸を病《や》んでいたかと思われる。
 自らの死期をさとった宗望は、弟である宗弼を枕頭《ちんとう》に呼び、つぎのように遺言した。
「宋朝はかならず再興され、勢力を回復するだろう。わが軍は現在、勝利しつづけているが、大陸全土を支配できるだけの力はない。無用に戦線を拡大してはならぬ。黄河をもって、両国の境界とせよ」
 遼を滅ぼし、西《さい》夏《か》を破り、宋を撃《う》って、生涯不敗のままに宗望は息をひきとった。宋の建炎元年(西暦一一二七年)、暑熱の季節であった。
 宗望の享年《きょうねん》は不明だが、三十代前半の少壮であったことはまちがいない。彼の死は、金国にとって大いなる損失であったが、徽宗と欽宗にとっても不幸なできごとであった。宗望の死によって、両皇帝を宋へ帰してやるよう主張する者が、金国にはいなくなったのだ。だからこそ、宗弼が大軍をひきいて、いささか性急に長江を渡ることもできたのである。
 一方、宗弼を迎撃すべき宋軍はどういう状況であったろうか。
 この当時、岳飛の軍を岳《がく》家《か》軍《ぐん》と呼び、韓世忠の軍を韓《かん》家《か》軍《ぐん》と呼ぶ。兵士たちは岳飛や韓世忠を通して、はじめて宋の朝廷に忠誠を誓う、という形になるのだった。兵士たちの俸給や恩賞も、あくまでも主将をとおして受けとるのだ。
 前述したように、この当時の南宋の官軍は、傭兵《ようへい》部隊の集合体であった。極端な表現であるが、そう見るのがもっとも実態に近い。もともと、金の侵略に抗して集合した義勇軍が母体だから、そうなってしまうのだ。
 中央集権と文官優位とを理想とする科《か》挙《きょ》出身の文官たち。彼らにとって、この事実は憎むべきものであった。文官たちが武器をとり兵を指揮して金軍と戦うわけにはいかない。宋の命運は武将たちの肩にかかっている。韓世忠や張俊《ちょうしゅう》のような無学者たちが宰相級の力を持っている、と思うと、文官たちは腹がたつ。なまじ学問のある岳飛あたりが「国より銭を愛する文官ども」と皮肉ったりすると、ますます腹がたつわけである。
 岳飛は若く、才能と学識に富み、自信と覇気にあふれていた。彼に好意をいだく人には、まことに頼もしく見える。彼に悪意をいたく人には、危険で油断ならぬよう映《うつ》る。そして、高宗をとりまく重臣たちの多くが、そちらの見かたをしていた。
 保身の感覚が岳飛には乏《とぼ》しかった。彼自身は公明正大な志《こころざし》をいたき、武勲はかずしれず、誰にはばかるところもなかったが、もっと他人の感情に配慮したほうがよかったであろう。あまりに才能と自信がありすぎて、他人がみな|ばか《ヽヽ》に見えたのだ。彼が他人の欠点や失敗を批判するとき、その口調はあまりにも容赦がなさすぎた。
 岳飛ひとりが孤立していたわけではない。他の将軍たちも、たがいに嫌悪し、憎みあっていた。
 たがいに反感をいだきあう傭兵部隊の集合体。それは他の時代には異常に見えるが、宋のこの時代にはたしかな現実だった。ことさらに不和の種をまきちらす者もいた。張俊などはその悪い例のひとりであった。
 ある戦いが勝利に終わったとき、張俊の部下が勇将|劉錡《りゅうき》の陣営に乱入し、火を放って暴れまわった。主将の権勢を恃《たの》んでの無法であった。ただちに劉錡は彼らをとらえ、軍律に照らして斬首した。合計十六名が処刑された。無法者たちの一部は、かろうじて逃げだし、張俊に訴えた。激怒して、張俊は劉錡の陣営に乗りこんだ。
「おれはこの地を宣《せん》撫《ぶ》するためにわざわざやって来たのだ。なぜおれの部下を殺したのか」
「卿《けい》の部下であろうとなかろうと、そんなことは関係ない。軍律に照らして、無法の輩《やから》を処断しただけだ。それとも奴らの無法は卿の命令によるものだとでもいうのか」
「何をいうか、孺子《こぞう》!」
 逆上した張俊は剣に手をかけ、劉錡もまた剣の柄をつかんだ。あわや味方の将軍どうしが斬りあうところであったが、周囲の者が必死に制止して、ようやく事なきをえた。この例においては、張俊のがわにより大きな責任があるであろう。後に張俊は、岳飛を憎むあまり、秦檜の陰謀に加担する。劉錡のほうは秦檜にうとまれ、辺境の知事として左遷されてしまうのだが、盗賊集団の討伐や行政の公正さによって民衆に敬《けい》慕《ぼ》され、「劉三相公《りゅうさんしょうこう》」と敬称された。相公とは「とのさま」とでもいう意味で、「劉三」とは彼が劉家の三男であることを指《さ》す。
 劉錡と同じ姓ではあるが、劉光世《りゅうこうせい》という将軍も問題が多い人であった。欲が深く、戦争を利用して私《し》腹《ふく》を肥やした点において、劉光世は張俊と同じである。ただ劉光世は、他人を無実の罪におとしいれて殺すような所業《まね》はしなかった。悪人ではなかった。あるいは、悪事すらなしえなかった、というべきだろうか。「身を律するに厳しからず、軍を馭《ぎょ》するに法|無《な》し」と、『宋史・劉光世伝』の記述は手きびしい。
 劉光世が高宗皇帝にむかって、つぎのように大言したことがある。
「願わくば国のために力をつくして働き、後世の歴史家に、劉光世の功績こそ第一のものであった、と書かれるつもりでございます」
 それに対して高宗は答えた。
「卿不可徒為空言、当見之行事」
 口先では何とでもいえる、ぜひ実行してみせてほしいものだ――という意味である。高宗は劉光世をまったく信頼していなかった。劉光世が名門の当主で、勢力が無視できないから、適当にあつかっていただけである。その劉光世と、韓世忠はとくに仲が悪かった。韓世忠は「義を嗜《たしな》んで財を軽んじ」、朝廷から賜《たま》わった財宝もすべて将兵に分配するような男だったから、守銭《しゅせん》奴《ど》の劉光世と気があうはずはなかった。また、劉光世の父は劉延慶《りゅうえんけい》という有名な武将で、兵士時代の韓世忠は、その下で戦ったことがある。父の名声を恥ずかしめる|ばか《ヽヽ》息子だ、とも思っていたようだ。
 ともあれ、宋軍は、作戦行動の統一性という点で、致命的な欠陥がある。宗弼はそのことを知っていた。当然、宋軍を恐れる気にはなれない。多少の抵抗があるにしても、錐《きり》をもって薄紙を突き破るがごとく、蹴ちらして北方へ帰るつもりであった。
 それに対する宋軍の行動はどうであったか。岳飛や劉錡は戦意はあるが位置が悪い。金軍の後を追いかけるだけでも容易ではなかった。張俊や劉光世は自軍の損害をきらい、あえて戦おうとせぬ。ただひとり韓世忠だけがいた。
 後年、韓家軍は四万の兵を擁《よう》するようになるが、建炎四年の段階ではまだ八千人しかいなかった。精鋭ではあるが、絶対数の不足はいかんともしがたい。だが、正面から戦おうとする韓世忠の決意はゆるがなかった。
 四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼を討つ。四《スー》太《ター》子《ツ》を討ちとれば、金は全軍を統帥《とうすい》する名将を失い、一挙に弱体化する。ただひとりの人物を討つことが、最大の戦略上の目的を果たすことになるのだ。
 韓世忠はそう確信していた。そして、彼の確信が正しかったことは、後に歴史によって証明されることになる。

    三

 来襲の速度にくらべると、北《ほっ》帰《き》しようとする金軍の動きはやや鈍かった。杭州臨安府や建康《けんこう》のような豊かな都市を占領し、莫大な財宝を掠奪《りゃくだつ》していたからである。また、無敗のままに帰ろうとする彼らは、当然ながら驕慢《きょうまん》になっており、いささか油断が見られた。
 韓世忠は決戦の場を黄天蕩《こうてんとう》にさだめた。そこは長江の流れにのぞむ湾のひとつだった。
「黄天蕩は死港である」
 死港とは、出入口が一ケ所しかない湾である。いったん船がはいりこんだら、他に逃れようがない。しかもその出入口はせまく、容易に封鎖できる。平和なとき、嵐を避けて逃げこむのにはよいが、水上戦の根拠地としては不適当であった。
 宗弼の軍をそこへ追いこむ。韓世忠と梁紅玉の作戦は一致した。
 長江を渡るため、金軍十二万はその南岸に達した。彼らは二千隻の軍船に分乗して長江を南へ渡ったのである。その船団は南岸で彼らを待っているはずであったが、予定の場所には一隻の船影もなかった。韓家軍の激しい攻撃を受け、碇《いかり》をあげて退避してしまっていたのだ。はじめて宗弼はわずかな不安を感じたが、しかたなく船団の姿を求めて、長江の南岸を西へ進んだ。
 韓世忠が待ちかまえていたのは、龍王廟《りゅうおうびょう》と呼ばれる土地である。地形のためか気流のためか、霧の多い土地で、その年九月も例外ではなかった。秋冷《しゅうれい》の朝、息をひそめて待ちうける韓家軍の前に金軍が姿をあらわしたのだ。
 頭頂部が異様にとがった黒い冑《かぶと》の群。それが白い河霧の底から湧《わ》きあがってきたとき、韓家軍の将兵たちは唾《つば》をのみこんだ。
「鉄塔兵《てつとうへい》だ!」
 彼らは知っている。いま自分たちが地上で最強の戦闘部隊と睨《にら》みあっているのだ、ということを。たしかに匈《フン》奴《ヌ》以後|蒙古《モンゴル》以前の歴史で、鉄塔兵は最強の騎兵集団であったにちがいない。その数三千。それが金軍十二万の中核を成《な》していた。
「引きつけろ。もっと引きつけろ!」
 指示する解元《かいげん》や成閔《せいびん》ら武将たちの声が緊張をはらんで慄《ふる》える。無限とも思える数瞬の後、高らかに軍《ぐん》鼓《こ》の音が鳴りひびいた。
「咯咯咯《タンタンタン》! 咯咯咯咯咯咯!」
 打ち鳴らしたのは梁紅玉である。|はっ《ヽヽ》として立ちどまった鉄塔兵は、つぎの瞬間、一万羽の水鳥がはばたくような音に耳を乱打された。矢が射《う》ちこまれたのだ。
 降りそそぐ矢の豪雨の下に、鉄塔兵は立ちすくむかと見えた。だが、鉄塔兵の甲冑《かっちゅう》はきわめて堅固で、矢の多くはそれをつらぬくことができなかった。それでも百騎以上の兵が落馬し、戦闘力を失った。
 鉄塔兵にむけて、韓家軍の将兵が殺到していく。鉤《かぎ》のついた棒で馬の肢《あし》をはらって転倒させ、網をかぶせ、長槍で突きまくる。怒号と悲鳴がいり乱れ、血の匂いがたちこめるなかで、宗弼と韓世忠が正面から顔をあわせた。
 韓世忠も宗弼も、敵の総帥が陣頭に馬を躍《おど》らせているとは想像していなかった。ほとんど馬首どうしがぶつかりあうほどに両者は接近したのだ。同時に戟《げき》をひらめかせたが、韓世忠の勢いがまさった。すさまじい一合の直後、宗弼の愛馬|奔龍《ほんりゅう》が体勢をくずし、不意をくらった宗弼はよろめいて地上へ転落した。
 すかさず韓世忠は戟をさかさに持ちかえ、宗弼めがけて突きおろした。地上で一転して、宗弼は必殺の一撃をかわす。戟の刃は宗弼の胸甲《きょうこう》をかすめ、火花とともに亀裂をつくった。さらに一転して宗弼ははねおき、指笛を鳴らして奔龍を呼んだ。奔龍は風をまいて疾駆してくる。自分も走りながら、宗弼は奔龍の手綱をつかみ、鞍《くら》に手をかけると地面を蹴った。一瞬後、宗弼の姿は馬上にあった。あまりのみごとさに、韓世忠は第二撃を加えることを忘れ、走りさる後ろ姿を見送ったのである。
 後に韓世忠は捕虜となった金兵から、その騎士の正体が四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼であったことを聞き、冑《かぶと》を地に擲《なげう》ってくやしがることになる。だがこのときには、正体不明の一騎士になどこだわっていられなかった。
 軍の先頭に立って血戦しつつ、韓世忠は兵を動かしている。わずか八千とはいえ、韓家軍は強かった。霧のためもあって、金軍は敵の兵力を把握しそこねた。また、宗弼ひとりに依存しすぎて、中級の指揮官たちがあせり、うろたえ、的確な指示を下すことができなかった。敵も味方も信じられないことだが、金兵は一方的に斬りたてられ、斃《たお》されていった。
 鉄塔兵といえども、一対一では韓世忠にかなわぬ。戟がうなりを生じると、血煙と絶鳴が奔騰《ほんとう》し、冑が飛び、甲《よろい》が割れ、人体が馬上から転落していく。三合とつづけて撃ちあえる者はいなかった。十数騎が撃ちたおされ、恐怖を知らぬ鉄塔兵が、開闢《かいびゃく》以来はじめてひるんだ。韓世忠が馬を進めると、押されたようにしりぞく。と、一騎の兵が決死の形相で槍をかまえ、突進してきた。ただ一合で槍ははねとばされ、兵士は胴をつらぬかれた。あっけない勝負と見えた。
 だが、その兵士は、胴をつらぬかれたまま、両手で戟の柄にしがみついたのである。何か叫ぼうとして、声のかわりに血の塊《かたまり》を宙に吐きだした。意図するところは明らかであった。彼自身の生命をもって韓世忠の武器を封じこみ、僚友たちに韓世忠を殺させようというのである。鉄塔兵のおそろしさがそこにあった。韓世忠はやむをえず戟を放りだし、背の大剣をぬこうとする。それより早く金兵の剣が頭上に落ちかかってきた。
 その瞬間、風を裂いて一本の矢が飛来し、金兵の右眼に突きたった。金兵は槍を放りだし、絶叫をあげて地上へと転落する。そわを横目で見ながら、韓世忠は大剣を抜き放ち。肉薄してきた金兵の槍をはらいのけると、かえす一刀で頸《けい》部《ぶ》を両断した。熱い人血が音をたてて地に降りそそぐ。
 韓世忠の危機を救ったのは梁紅玉であった。彼女の弓が鋭く弦音をたてるつど、矢につらぬかれた金兵がもんどりうって落馬し、さらに韓世忠の大剣が右に左に敵を撃ちたおしていく。
 むろん韓世忠は個人的な武勇のみに頼っていたわけではない。彼の兵力の配置と運用は完璧であった。金軍は大兵力を生かすことができず、韓家軍の速攻によって陣形を寸断されては各個に撃破されていた。宗弼は敗北をさとった。
 地上に夜の闇が落ちかかり、韓世忠と宗弼はそれぞれ兵をまとめて、いったん引き分かれた。軍を点検して、宗弼は、この一日だけで一万の兵を失ったことを知った。
「宋朝弱兵《そうちょうじゃくへい》などと無責任なことを誰がいった」
 宗弼の表情に、自嘲《じちょう》がある。金軍は強く勇ましい。宋軍は弱く臆病である。それが一般的な評価であった。だが現実に、金軍はしばしば宋軍に敗れ、いままた、これまでに経験したことのない苦境に立たされている。
 金軍の補給能力は低く、動員能力にもかぎりがある。戦闘に勝って敵地深く侵攻しても補給がつづかない。地の利は敵にあり、連戦の疲労と慣れない気候とが将兵を苦しめる。そろそろ撤退《てったい》の時機と思ったからこそ、宗弼は北帰を図《はか》ったのだ。だが長江という自然の壁を前にして、さらに厚く、韓家軍という壁が彼らをはばんだのであった。
「糧食はどれほど残っている?」
 宗弼の問いに、元帥府|長史《ちょうし》の蔡松年《さいしょうねん》が蒼ざめて答える。わずか三日分にすぎませぬ、と。この蔡松年という人物は北方に生まれた漢人で、若いときから金王朝につかえた。事務能力にすぐれ、宗弼が遠征するときにはつねに本営にあって補給や庶務を担当し、宗弼の信頼が厚かった。
 その日の朝まで、北帰は金軍にとってかがやがしい凱旋《がいせん》であった。それがいまや生か死か、苦難にみちた脱出行に一変してしまった。
 亡き兄宗望の忠告が、宗弼の脳《のう》裏《り》をよぎったかもしれない。「むやみに戦線を拡大するな」と二《アル》太《ター》子《ツ》はいったのだ。兄を尊敬しながらも、宗弼はその忠告にしたがわなかったのである。金は強くかつ清新であり、宋は弱くかつ腐朽《ふきゅう》している。自分たちが負けるはずはなく、天の時も人の和も自分たちの上にある。そう宗弼は信じていた。
「恐るべきは岳飛のみ。他の将軍どもなど何ごとかあらん」
 そう豪語していた宗弼も、韓世忠の矛先《ほこさき》に苦しんで、自分たちの驕《おご》りを認めざるをえなかった。韓世忠の名が金軍の記憶にきざみこまれるのは、これ以後のことである。
 とにかく渡河地点を選ばねばならぬ。宗弼はいそいで軍を再編し、翌日から長江の南岸に沿《そ》って西へ移動した。そのありさまを確認しながら、韓世忠は金軍と並行する形で西へ進む。兵力がすくないからいったん撤退したらどうか、という意見もあったが、韓世忠はそれを拒否した。
「兀《ウ》朮《ジュ》死せんこと目前にあり。もしこの機会を失わば、虜賊《りょぞく》志をえて、中原《ちゅうげん》いつのときか復し、両宮《りょうきゅう》いつの日か還御《かんぎょ》あらん。戦うは他日になく、今日にあり」
 実際にはもっと庶民的な言葉づかいをしたにちがいないが、とにかく韓世忠は全軍に覚悟のほどをしめし、三日後ふたたび宗弼に戦いを挑《いど》んだ。先日の思いもかけぬ敗戦で、宗弼はいささか勘が狂ったようである。韓世忠の偽態にまどわされて深追いし、伏兵にあってしたたかな打撃をこうむったあげく、平江《へいこう》という湿地帯に追いこまれ、退路を絶たれてしまった。包囲攻撃を受けること数日、金軍には絶望の色が濃い。
「追いつめられれば野獣とて死を覚悟して闘うものだ。まして吾《われ》らは誇りある女真の民。手をつかねて、むなしく宋軍に殺されてなろうか」
 決死の覚悟とはこのときの宗弼の心境であろう。彼は地図をにらみ、知能のかぎりをつくして策を練《ね》った。そして、完璧なまでの死地から、全軍をひきいての脱出をはたすのである。

    四

 金軍が包囲されていた地帯に、老鶴《ろうかく》河《が》という往古《むかし》の河道があった。泥や葦《あし》によってふさがれ、何千もの小舟が放置されていたその河道を、宗弼は脱出路に使ったのだ。
 韓世忠がそれを知ったのは、朝になってからであった。万事に周到《しゅうとう》な解元が、馬を飛ばして報告におとずれたのである。ちょうど韓世忠は梁紅玉と簡素な朝食をすませたところであった。
「計測地点で長江の水深が二寸ほどさがりました。おそらく四《スー》太《ター》子《ツ》が水路を切り開き、そこへ水が流れこんだのでしょう」
「老鶴河の旧河道か」
「まずまちがいないと思われます」
「そうか、やはりな」
 韓世忠は歎息した。あと五千の兵力があれば、老鶴河にそれを配置して宗弼を待ち伏せすることもできたであろう。わずか八千の兵力を分散させるわけにいかず、韓世忠は、気にしながらもどうする術《すべ》もなかったのだ。
 一夜にして三十里の旧海道を掘りぬき、運河をつくって金軍は小舟で脱出したのである。彼らのふるった死力と、彼らにそれを成しとげさせた宗弼の統率力とは、感歎に値した。ますます四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼を生かしておくわけにはいかぬ。韓世忠は立ちあがり、あらたな作戦を部下に指示した。
 いったん宗弼は韓世忠の包囲を脱し、長江の南岸に沿ってさらに西へ走った。そして牛頭山《ぎゅうとうさん》という山の麓《ふもと》まで来たとき、金軍の捕《ほ》捉《そく》をはかる岳飛に遭遇してしまった。両軍ともに死力をつくして戦ったが、金軍は疲労の色こく、王鉄《おうてつ》児《じ》という武将が戦死した。それも、岳飛の養子で、この戦いが初陣という十二歳の少年|岳雲《がくうん》に討ちとられたのである。
 その他に百七十五人もの士官が戦死するという金軍の惨状であったが、卓絶した宗弼の統率力は軍の崩壊をかろうじて阻止した。激しい逆撃《ぎゃくげき》をくりかえして、岳飛の猛追撃をしりぞける。このとき岳飛は、むしろ建康府に入城して治安を回復させることを優先し、金軍を追いつめることを断念したのだった。黄天蕩に到着すると、宗弼は船団との連絡をはかって待機した。二千隻の軍船が五日後ようやく陸上の宗弼と合流した。十万の兵を二千隻の軍船に分乗させると、宗弼はそのまま長江の本流へと乗りだしていった。
 江上で韓世忠は待ちかまえていた。兵力の増強もなく、岳飛らとの連係も期待できず、かきあつめた軍船も三百隻ていどの数でしかない。だが彼には必勝の策があった。二千本にのぼる鉄の鎖《くさり》を水中に張りめぐらしている。鎖にはひとつひとつ大きな鉤《かぎ》がついていた。
 数で圧倒する金軍は、長江の波を蹴たてて突進した。と、軍鼓の音が規則ただしくひびきわたり、宋の軍船は整然と左右に分かれはじめた。冑をかぶらず、甲だけを身に着けた梁紅玉が、軍船の楼上で自ら軍鼓をうち鳴らす。
「咯咯《タンタン》! 咯咯! 咯咯咯咯!」
 その音によって、すべての軍船が前後左右ヘ一糸の乱れもなく行動するのだった。このときの梁紅玉の英《えい》姿《し》は、後世、多くの画家により歴史画として描かれることになる。
 罠《わな》か、と、宗弼は疑ったが、軍船の数も兵士も金軍のほうがはるかに多い。中央突破が可能と見て、全艦の全速前進を命じた。金軍はさらに突進し、宋の船列をまさに分断しようとした。
 その瞬間であった。十隻をこす金の軍船が江上で急停止したかと思うと、つんのめるように転覆したのである。悲鳴と水柱がたてつづけにあがり、みるみる金軍の船列は秩序を失った。沈没に巻きこまれるのを避けようとして方向転換すると、他の船にぶつかる。さらに鎖に舵《かじ》をとられて停止し、数隻がかたまって動けなくなる。
 鎖を切るよう宗弼は指示したが、鉄鎖を断つのは容易ではない。狼狽《ろうばい》するうちに、船底を鉤が突き破り、水が流れこんでくる。たちまち百隻以上の軍船がかたむき、つぎつぎと長江の水に呑みこまれていく。かたむく甲板から、人や馬が滑落し、波間へ姿を消す。
 金軍は恐慌《きょうこう》におちいった。女真《じょしん》族は勇猛で騎馬戦に長じているが、泳げる者はほとんどいない。船が沈めば溺《でき》死《し》するしかないのだ。恐怖に駆られた金兵は、上官の命令ももはや耳にはいらなかった。せめて水に浮かびやすくしよう、と、甲冑をぬぎすて、船体をたたきこわして板を剥《は》がし、それにつかまって逃れようとする。その混乱を、韓世忠は見逃さなかった。いまこぞ金賊《きんぞく》を鏖殺《おうさつ》する好機である。
「咯《タン》咯咯! 咯! 咯咯咯!」
 鳴りひびく軍鼓を合図に、宋軍はいっせいに襲いかかった。軍船を近よせ、弓や弩《おおゆみ》から矢の雨をあびせる。船体を敵のそれに衝突させ、跳《と》びうつっては斬りこむ。甲冑をぬぎすてた金兵たちは、勢いに乗る宋兵たちの刃《やいば》に抗しようもなかった。韓世忠自身、偃月刀《えんげつとう》をかざして敵船に躍りこみ、草を刈るがごとく金兵を断りたおしていく。解元も成閔も歴史に残る勇戦ぶりで、解元などは敵の軍船とすれちがいざま、長槍を伸ばして敵将の咽喉《のど》をつらぬくという妙技を見せた。
 一隻また一隻。軍船は金兵の血と屍体におおわれた。これほどの凄惨な敗北を、金軍はこれまでに知らない。一日の水上戦で六百隻の軍船と二万五千の兵を失い、宗弼はかろうじて残兵をひきい、黄天蕩に逃げもどった。
 宗弼ほど勇敢な男でも、気の弱くなる時というものはあるものらしい。韓家軍の攻勢を実力でしりぞけえぬ。そう思ったのが第一の弱気であり、交渉して兵を退《ひ》かせようと考えたのが第二の弱気であった。
「宋の将軍どもは、張俊にしても劉光世にしても強欲で、私腹を肥やすのに熱心と聞く。韓世忠もおそらく彼らと同じだろう。これまで掠奪した財宝のすべてを奴にくれてやり、この場を逃してもらうとしよう」
 北方民族にとって、掠奪とは一種の産業のようなものだ。同族から奪うのではなく、豊かな民族からとりあげて貧しい同族に分配するのだから、べつに悪いこととは思わない。翌日さっそく宗弼は、掠奪した財宝をまとめ、韓世忠に交渉を申しこんだ。両者はそれぞれ軍船に乗り、長江の波をへだてて対面した。
 このときの対話は、どうやって成立したのであろうか。通訳がいたとも考えられるが、おそらく宗弼が漢語をしゃべったと思われる。金の皇族が文章力や語学力にすぐれていたことは史書に明記されているし、客観的にみて宋が金より文化程度が高かったのだから、低いほうが高いほうの言語を学ぶのも当然である。もっとも、個人的には、金国人である宗弼のほうが、宋国人である韓世忠よりはるかに学問の素養があったわけだが。
 まず宗弼が鄭重《ていちょう》に一礼していう。
「韓将軍の武勇は宋金両軍に冠《かん》たり。願わくば哀憐《あいれん》をもってわが軍の兵士を故国に帰していただきたい。感謝の証《あかし》として、軍中の財宝ことごとくを将軍に進呈し、かつ後日かならず恩に報いん」
 韓世忠の返答は、つぎのようなものだった。
「両宮《りょうきゅう》を還《かえ》したてまつれ」
 両宮とは金軍の捕虜となって北方の荒野に幽閉されているふたりの皇帝を指《さ》す。つまり徽宗と欽宗とを解放して帰国させよ、と、韓世忠は要求したのである。
「それといまひとつ、汝《なんじ》らが無法に占領した宋朝の領土を返せ。この二点を容《い》れるなら、汝らを生かして故郷へ還してやろう。それ以外に交渉の余地などない」
 韓世忠と宗弼の視線が空中で衝突した。軟弱な者なら、彼らの眼光を受けただけで気死《きし》したかもしれぬ。宗弼は自分の甘さをさとり、ひそかに恥じた。韓世忠は買収に応じるような男ではなかった。このような男には、堂々と戦って堂々と勝つしかないのだ。
「なるほど、交渉の余地はないようだ。ではしかたない。実力をもっておぬしの陣を斬り破るとしよう。後日を楽しみに待て」
 言い放って、宗弼は船をかえし、黄天蕩に引きこもった。死《し》戦《せん》を覚悟したものの、にわかに作戦も立たず、宗弼は苦悩した。
『通俗両国志《つうぞくりょうこくし》』などの稗《はい》史《し》によれば、このとき苦悩する宗弼のもとをひとりの老人がおとずれ、韓世忠を破る秘策を授《さず》けたという。だが、「奇略を授ける謎の老人」というのは、『三国志』などにもよく見られるお決まりの設定で、事実としては信じられない。
 むしろ、幾度も窮地《きゅうち》に追いつめられながら、そのつど全知全能をふりしぼって脱出策を考えだす、宗弼の不屈さをこそ高く評価すべきであろう。このときも苦しみぬいて、ついに宗弼は反撃の戦法を考えついた。ただ、これは多分に自然現象に依存せざるをえないものであった。
 断続的に戦闘をまじえつつ数日が経過して、ついに天は宗弼に味力した。江上の風は完全にやんで、韓家軍の軍船は江上にひしめいたまま動かぬ。このときの要点は、金の軍船には櫓《ろ》がついており、無風でも漕《こ》いで動くのが可能だったことだ。韓家軍の船は完全な帆船で、櫓がついておらず、無風では動けない。そのような船しかなかったのだからしかたないが、この差が韓世忠をして大魚を逸《いっ》せしめることになった。
 無風を確認すると、ただちに宗弼は急進を指令した。兵士から将軍まで必死に船を漕ぎ、韓世忠らの眼前を通過していく。
 完全な無風状態のもとでは、帆船が動きようもない。金軍はそれに乗じた。宗弼の命令一下、数万本の火箭《ひや》がいっせいに放たれた。江上に炎の河が生まれたかと見えた。帆船は動けず、火箭を避けようもない。たちまち帆や船体が火につつまれて燃えあがる。そして、ひとたび火が燃えると、それが大気の流れを生み、風がおこる。しかも風は渦巻いて、方向が一定しないから、帆船はそれに翻弄《ほんろう》され、たがいに衝突し、回転し、大混乱となった。
 韓世忠は歯ぎしりした。
「おのれ、手をつかねて金賊に名をなさしめるか」
 彼は軍船から手漕《てこ》ぎの小舟をおろさせ、それに乗って金の軍船の列に突入した。解元、成閔らの諸将もそれに倣《なら》った。数百の小舟が波を蹴って金の船団に群らがっていく。おどろく敵船に小舟を寄せ、韓世忠は大剣を手に跳びうつった。
 剣光が斜めに奔《はし》った。刀をつかんだまま、鉄塔兵の右手が血の尾をひいて宙に舞いあがった。絶叫を放った兵が船上からもんどりうって水面にたたきつけられる。さらに大剣がひらめいて、ひとりの左肩を割り、ひとりの咽喉《のど》を斬り裂き、韓世忠の長身は金兵の血に染まった。さながら深紅の武神像だ。一閃ごとにひとりを倒し、一《いっ》揮《き》ごとにひとりを討ち、乱刃乱槍《らんじんらんそう》のただなかで韓世忠ひとりは傷も負わず、その突進をとどめる者は存在しないかに見えた。
 その眼前に躍りたった金軍の武将がいる。三度めの対面で、もはや見あやまりようもなかった。四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼であった。
「韓世忠! それほど両宮に見《まみ》えたくば、おぬしの首を五《ご》国《こく》城まで運んでやろう。彼《か》の地は寒いゆえ、首が腐る懸《け》念《ねん》もないわ!」
「妄言《もうげん》するをやめよ、金賊!」
 どちらが先に斬りつけたか、たちまち二本の白刃が激突して、火花の滝を降らせる。船板を踏み鳴らし、縦横に剣をふるい、斬撃《ざんげき》をかわしあうこと五十余合におよんだが、勝敗は決しなかった。やがて煙が巻き、敵味方の兵がいりみだれて、両者は分けへだてられた。
 いまや黒煙は天にみなぎっている。風は炎をあおり、炎は風を強めて、長江の水上は熱の嵐におおわれていた。人間どもの戦いにおどろいた淡水|海豚《いるか》が波間に躍りあがり、水鳥の群が飛びかいつつ鳴きさわぐ。それらの音を圧して、軍鼓のひびきが規則ただしく耳をうつ。軍船の楼上で、梁紅玉がなお軍鼓を鳴らし、味方を激励しているのだった。だがその軍船にも火が燃えうつってきた。金兵の返り血をあびた解元が、小舟を寄せて呼びかける。
「女将軍、船をお棄《す》てくだされ。もはやこの船も危のうござる」
 再三、解元にすすめらわて、ついに梁紅玉はそれ以上、船にとどまることを断念した。すでに帆は炎のかたまりとなって、黄金の怪鳥さながらに帆柱から舞いあがろうとしている。梁紅玉は、寄せられた小舟に乗りうつって岸へむかった。
「伝え聞く赤壁《せきへき》の戦とはこんなだっただろうか、と思ったよ」
 後に梁紅玉は子温にむかってそう語ったものであった。それほどに火と煙の勢いは激しく、燃えあがる軍船の群は、さながら炎の長城かと見えたのである。
 韓世忠も梁紅玉も、かろうじて火と煙から逃れ、長江の南岸にたどりついた。解元、成閔らの諸将も、乱戦をかいくぐってどうにか陸にあがることができた。
 宗弼も炎と煙の戦場を脱し、北岸に上陸した。全身、血と煤《すす》にまみれながら、なお颯爽《さっそう》として見えるのが四《スー》太《ター》子《ツ》の面目《めんぼく》である。だがさすがに疲労の色は隠しおおせなかった。
「生き残った者は何人おるか?」
 そう問いかけた宗弼は、全軍の半ばを失ったと知って肩を落とした。長江を渡って、一時的に杭州臨安府を占領し、高宗皇帝を海上へ追い落とした。女真族の歴史上、空前の壮挙であったが、宋を滅ぼすことはできなかったのだ。宗弼の武名は天下にとどろいたが、そのようなことで彼は満足してはいられなかった。
 なお煙におおわれた長江を見はるかしながら、宗弼はただならぬ喪失感に耐えていた。この後、金軍がふたたび長江を渡って杭州臨安府を攻めおとす日がはたして来るであろうか。その思いを胸に、宗弼は愛馬奔龍にまたがり、馬首を北へ向けたのであった。生き残った六万人の金軍が彼につづいた。
 かくして、韓世忠は八千の兵をもって金軍十二万に対抗し、四十八日間にわたって敵の作戦行動を阻止したのである。宗弼は大陸全土の征服と高宗を捕えることとを断念し、北方へ帰らざるをえなかった。韓世忠は国家の危機と皇帝の安全とを救ったのである。
「四《スー》太《ター》子《ツ》の首をとりそこねた」
 と、韓世忠は無念がったが、それでいいのだ、と、梁紅玉は思う。四《スー》太《ター》子《ツ》を討ちとれば、韓世忠の武勲はあまりに巨大すぎるものとなり、宮廷の嫉《しっ》視《し》と疑惑を呼ぶことになったにちがいない。そうなれば、朴直《ぼくちょく》で政略と無縁な韓世忠は、どのように卑劣な罠にはまるか知れたものではなかった。
 口に出しては、梁紅玉はこういった。
「あまり欲を出すものではありませんよ、良臣《りょうしん》どの。他の方たちにも武勲をたてさせてあげなくては」
「うむ、そうだな。そのとおりだ」
 大きくうなずく韓世忠は、だがやはり残念そうに長江の北岸をにらみつづけていた。その視線をさえぎるように、なお軍船の群は炎上をつづけ、江上は煙におおわれている。

 ……あれからもう二十六年もたってしまった。あの死闘に生き残った将兵も、いま幾人が生きつづけているだろう。梁紅玉の夫である韓世忠も死んだ。韓世忠がもっとも信頼していた解元も病死した。そして敵の総帥であった宗弼も死去したという。梁紅玉は、静かな日々のなかでひとつの想いをいだくようになった。
 生きるということは、自分以外の人間が死んでいくのを見送ることなのだ、と。
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第四章 渡河


    一

 黄《こう》河《が》の南岸に沿って、梁紅玉《りょうこうぎょく》と子《し》温《おん》は西へ向かった。最初の目的地は開封《かいほう》である。かつて大宋《だいそう》帝国の首都として殷賑《いんしん》をきわめ、東京《とうけい》とか※[#「さんずい+卞」、unicode6C74]京《べんけい》とかいう異称があった。その栄華は、『東京《とうけい》夢華《むか》録《ろく》』ほかの記録にくわしいが、夜のにぎわいは唐《とう》の長安《ちょうあん》をさえしのぐものだったのである。
 もともと開封は政治都市ではなく経済都市であった。黄河と大運河との結節点に位置し、大陸の水陸交通の中枢で、四方八方から人と物資が集まってくる。西暦九六〇年、太《たい》祖《そ》皇帝|趙匡胤《ちょうきょいん》が宋王朝を建てたとき、経済と交通の中心地を首都としたのである。
 開封が首都となって百六十年後のこと。当時の徽《き》宗《そう》皇帝は、宮廷内の遊びにも飽《あ》きて、にぎやかな市街へ遊びに出かけたくなった。むろん天子たる身、軽々しく宮城の外へ出かけられるわけもない。そこで、大臣のひとり高※[#「にんべん+求」、unicode4fc5]《こうきゅう》に相談した。高※[#「にんべん+求」、unicode4fc5]は政治家というより、皇帝の遊び友だちである。彼は皇帝を変装させることにした。科《か》挙《きょ》の試験を受けるために上京した書生、という態《てい》をつくり、ふたりで宮廷をぬけだしたのである。なお、高※[#「にんべん+求」、unicode4fc5]は、『水《すい》滸《こ》伝《でん》』には冷酷残忍な悪役として登場するが、実像は、さしてだいそれた野心があったわけでもなく、奸臣《かんしん》と呼ぶにも値しない。無責任で不定見な、いつの世にもありふれた小権力者である。反対派にもひそかに資金を渡して、批判や弾劾《だんがい》をまぬがれていたというから、保《ほ》身《しん》の名人でもあったようだ。
 とにかく徽宗は街へ出かけた。瓦子《がし》という繁華街にはいってみると、広い道路が人であふれている。奇術師がいる。講釈師がいる。雑劇《しばい》に曲芸のかずかず。影戯《かげえ》に角抵《レスリング》。こちらで闘鶏《とうけい》をやっていると思えば、あちらでは鳥の鳴声を競っている。剣や棍《ぼう》で演《えん》武《ぶ》する者もいる。「|すり《ヽヽ》だ、すりだ」と騒ぐ声、犯人を追う絹捕《めあかし》の姿まで、徽宗にはめずらしく、おもしろい。
 さらに金線巷《きんせんこう》という地区にはいると、ここは女好きと酒好きの天国である。三階建の妓《ぎ》楼《ろう》が建ちならび、美酒や脂《し》粉《ふん》の香がただよう。なまめかしい若い女の声や胡弓《こきゅう》の音が聴《きこ》える。徽宗は高※[#「にんべん+求」、unicode4fc5]に案内され、ひときわ豪壮な妓楼へはいった。三階の個室に案内される。
 李師師《りしし》という開封随一の美妓《びぎ》が徽宗の相手をつとめた。むろん皇帝だとは知るよしもない。科挙の受験生だと信じこんで、「ご出身はどちら? ご家業は? お名前は?」と問いかける。何しろ育ちのよい人だから、徽宗は嘘がつけない。
「ああ、いや、予《よ》は京師《みやこ》の産でな。家は代々、天子をやっておる」
「あら、おもしろいご冗談」
「いや、ほんとなのじゃ。で、予は趙八郎《ちょうはちろう》といってな、家を継いで天子をやっとるのだよ」
 徽宗が自分を趙八郎と称するのは、先帝の八男だからである。彼がそう主張するのを聞いて、李師師は眉をひそめた。この男は、狂人か詐欺師かにちがいない、と思ったのである。ひそかに役人に知らせた。よりによって天子を偽称するとは大罪にもほどがある。開封府庁から二百名もの兵士が駆けつけて妓楼を包囲した。外の騒ぎを不審に思った高※[#「にんべん+求」、unicode4fc5]が出てきて、事情を察すると、兵士たちの隊長を一喝する。
「上《しょう》のお楽しみをさまたげるとは何ごとか、不忠者どもが!」
 高※[#「にんべん+求」、unicode4fc5]の顔はよく知られているから、兵士たちは仰天して退散する。ほんものの天子と知って、李師師もひたすら無礼を謝する。笑って徽宗は赦《ゆる》し、以後、長いこと李師師を寵愛した。
 右の話は単なる笑話のようだが、無視できない要素を含んでいる。徽宗の為人《ひととなり》や、開封のにぎわいがうかがえるし、何よりも社会が平和で安定していたことがわかる。皇帝が護衛もつれずに変装して街を歩き、いっこうに身の危険を感じずにすんだのだ。誰が見ても泰平の世であり、この泰平は永くつづくものと思われたにちがいない。
 だが、金《きん》の侵入によって宋が一時的に滅亡するのは、それからわずか十年後のことである。宋の平和と繁栄は、深淵の縁《へり》にかろうじて立っていたのだ。滅亡までの迅速さは、坂道を転げ落ちるというより、垂直の滝を落下するようであった……。

 黄河流域の春はまだ浅い。冬の残存勢力が風に乗って北から殺到してくる。強風は大地の表面から土を舞いあげ、草を吹きちぎり、人の肌から潤《うるお》いを奪う。さえぎるものとてない広漠たる大地を風は鞭《むち》うってやまない。
「何と、この地では空が黄色い」
 子温は唖然《あぜん》とする。「黄塵《こうじん》」というものを知識としては知っていたが、実際に見るのは初めてであった。黄塵は西北からもたらされるので、空の東南半分は青く、反対側は黄色く、その境界は白っぽい。かつて宋の全盛時には、街道の左右には樹木が蔭《かげ》をつくり、野は緑をなし、路面も整備されていた。ひとたび戦乱が地をおおえば、野は焼かれ、樹は切りたおされ、水路は屍体と泥とでふさがれてしまう。長期にわたる人の努力でたもたれていた緑は、たちまち色あせ、消えさってしまう。そして天と地との間を風だけが吹きぬけ、黄塵をまきちらす。乾ききった貧弱な土を、だが梁紅玉は愛《いと》しげに手にとるのだ。
「この土には歴史が染《し》みこんでるんだ。黄帝《こうてい》以来、何億人もの血と涙と汗と、それに野心と勇気と智略とがね。子温、お前の阿爺《とうちゃん》も若いころここを通っていったんだよ」
 梁紅玉はもともと江南《こうなん》の産であるから、北方とは縁が薄い。だが彼女の夫は、黄河の上流に生をうけ、馬を友として原野や岩山を駆けめぐった。十八歳にして正式に官軍の一員となり、あるときは西《せい》夏《か》軍の将軍を二百歩の距離から一矢で射落《いお》とした。あるときはただひとりで三千の賊軍の本拠地に乗りこみ、説得して無血で降服させた。大陸の西北の涯《はて》で生をうけた男が、万里を転戦して、ついに大陸の東南隅で死ぬことになったのだ。
 生前、韓世忠《かんせいちゅう》は梁紅玉に対して「女は黙っとれ」といったことは一度もない。何ごとも妻に相談し、意見を求めた。妓女であった梁紅玉がこれほど軍事に精通しているとは、思えばふしぎなことであった。
「紅玉が男に生まれていたら、すぐにでも枢密《すうみつ》使《し》になれるのにな」
「良臣《りょうしん》どのがなればいい」
「おれはだめだ。学問がないからな。鵬挙《ほうきょ》とはちがう」
 鵬挙とは岳《がく》飛《ひ》の字《あざな》である。岳飛には学問があり、詩をつくることも上奏文《じょうそうぶん》を書くこともできた。
「では鵬挙どのなら枢密使になれるのでしょうか」
「才能と実績からいえば当然だ。ただ、あの男は敵が多いからなあ」
 自分よりはるかに年少の岳飛を、韓世忠は尊敬していた。だがそれでも、岳飛の自信家ぶりに辟易《へきえき》することがあったのだ。結局、韓世忠は盗賊あがりの張俊《ちょうしゅん》とともに枢密使になれたが、若い岳飛は枢密副使にとどまった。これが岳飛の矜持《きょうじ》を激しく傷つけ、彼は宮廷の人事に不満をもらすようになる。そしてそれも後日の不幸の一因となるのだ。
 四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼《そうひつ》ひきいる金軍が黄天蕩《こうてんとう》に集結した、との報がとどいた夜である。明日はいよいよ決戦、という緊張が韓《かん》家《か》軍《ぐん》にみなぎった。作戦を再確認して武将たちを解散させた後、韓世忠は妻に声をかけた。
「今《こ》宵《よい》はみごとな月夜だ。ふたりでそぞろ歩きでもしようか」
 韓世忠は風流とは縁の遠い男である。笑って梁紅玉はうなずいた。柄《がら》にもないことを、と、おかしくもあるが、それ以上に、夫の不器用な心づかいが嬉《うれ》しい。
 ふたりは甲冑《かっちゅう》をぬぎ、軍船から小舟をおろして上陸した。満月の青白い光に照らされながら、小高い丘へと歩いていく途中で、韓世忠が詞《はうた》を歌いだした。

  万里の長江《ちょうこう》 淘《なが》れて不尽《つきず》
  壮《おお》しく秋色を懐《いだ》けり
  竜虎|嘯《うそぶ》き風雲泣く
  千古の恨《うら》み如何《いか》にして晴《はら》さん
  山河に対《むか》えば耿々《こうこう》として血涙襟《けつるいえり》を沾《うるお》す……

 韓世忠の声は朗々としてひびきがよい。百万の大軍を叱《しっ》咤《た》するにたる勇将の声である。ただ歌は拙劣《へた》で、声が大きいばかりにかえって拙劣さがきわたつのが気の毒だった。
 長江の暗い流れをへだてて、光の毬《まり》が見える。金の軍船が対岸に密集し、灯火が群らがっているのだ。このときの韓世忠の心境を、『説岳《せつがく》通俗《つうぞく》演《えん》義《ぎ》』は、「曹公《そうこう》、赤壁《せきへき》にのぞんで槊《ほこ》を横たえ詩を賦《ふ》すの心に似たり」と表現している。
「……結局、生き残ることになったけどね。仮につぎの日、戦場で死んだとしても侮《くい》はなかったろうよ。わたしが選んだ男は、わたしにこの上なくおもしろい人生を送らせてくれた。良臣どのの拙劣《へた》な歌を月の下で聴いたときほど幸せなことはなかったよ」
 うなずきつつ、気になることが子温にはある。黄天蕩の戦いのとき、幼い子温は保母《うば》にあずけられていた。戦死した場合、遺《のこ》された子の身を案じなかったのだろうか。
「心配なんぞしなかったね。韓世忠と梁紅玉の子なら、親なんぞいなくてもたくましく生きていけるはずさ。子にとって、むしろ親などじゃまなものだよ。いま、お前がそう感じているようにね」
 梁紅玉は笑い、子温は渋い表情になる。まだとうてい彼は母親にかないそうにもない。

    二

 開封まで二十里の地点で休息することにし、昼食をとった。はいった酒肆《さかば》の壁には、この時代、酔った仙人の図がかかっている。飯に肉と野菜をかけたものを注文する。それ以外のものはできない、というのだからしかたない。飯を運んできた老人は、眼病にかかっているらしい赤い眼をしょぼつかせつつ、不意に口を開いた。
「息子さんは健康そうな身体をしていなさる。朝廷の役人に見つからぬようなさることじゃ」
 それだけいって、老人は口を閉ざしてしまった。梁紅玉と子温は食事をすませ、代金を支払って店を出た。
 開封に近づくにつれ、人馬の往来が増える。目だつのは、兵士に監視された男たちの列と牛馬の群だ。木材や石材を運ぶ車も多く、それらが通るたびに濛々《もうもう》と埃《ほこり》がたつ。
「大規模な土木工事か、大規模な出兵か、どちらかがおこなわれるということだね。あるいは両方かもしれない」
 どちらにしても、権力者がすぐにやりたがることだ。万人の目に明らかな形で、自分の権勢を確認したいのである。宮殿を建てるのも大軍を動員するのも、ひけらかしたいためだ。
 このとき金国では、二十歳から五十歳までの男は、ことごとく徴用されつつある。半数は兵士とされ、半数は土木工事に駆りだされるのである。二十歳未満の少年、五十歳以上の老人、そして女性は、租《そ》税《ぜい》をおさめるために働き、そして武器をつくらされる。一戸ごとに千銭の税をおさめ、矢を十本こしらえて軍隊におさめねばならない。
 農家の牛も徴発される。軍需品を運ぶためであり、その皮革《かわ》で甲《よろい》や矢《や》筒《づつ》をつくり、肉は食糧とされる。農家にとって牛は貴重な財産であるが、代償なしで取りあげられてしまうのだ。馬も同様で、戦争のために完顔亮《かんがんりょう》が全国から集めた馬は五十六万頭におよんだ。
「戦争といっても、遼《りょう》はすでに滅び、宋とは和平が成立し、西《せい》夏《か》は服属している。どこを相手に戦うつもりなのか」
 金の役人も民衆も、不安を禁じえなかった。むろん公然と批判はできぬ。声をひそめて語りあうのである。
「金主《きんしゅ》は隋《ずい》の煬帝《ようだい》以来の暴君といわれておるそうな」
 と、かつて宋の高宗《こうそう》皇帝は子温にむかって声をひそめた。たしかに完顔亮は煬帝に似たところがある。まず帝位に即《つ》くとき、道義的に問題があった。完顔亮は、従兄《いとこ》である煕《き》宗《そう》を弑《しい》して即位した。煬帝は、本来の皇太子である兄を陰謀によって追い落とし、即位直後にその兄を殺した。即位にあたっては病床の父帝を殺したという不名誉な風聞もあった。
 贅沢《ぜいたく》が好きなこと。女色におぼれたこと。大規模な土木工事を好んだこと。才能にあふれ、ことに文才に富んでいたこと。自信がありあまり、経験にとぼしかったこと。それらの点でも、煬帝と完顔亮は似ていた。
 そしてふたりとも北方に生まれ、南方にあこがれた。完顔亮は即位後、金建国以来の首都|上京会寧府《じょうけいかいねいふ》をすて、燕京《えんけい》に首都を遷《うつ》した。燕京は、後世、北《ペ》京《キン》と呼ばれるようになる土地である。
「あまりまねされてはこまる。隋と金とでは国力の蓄積がちがう」
 これもそのとおりである。煬帝が即位したとき、隋は歴史上もっとも富みさかえる豊かな国であった。南北朝の戦乱が熄《や》んで、平和と繁栄が天下に満ち、国庫には財貨があふれていた。煬帝は、大運河を建設し、何百もの豪壮な離宮を建て、何万人もの行列をしたてて天下を巡幸し、無数の美女を絹と宝石とで飾りたて、それでも国庫には余力があって、二度の減税をおこなったほどである。
 金はどうか。宋と和平条約をむすんだ結果、金は莫大《ばくだい》な歳貢《さいこう》を受けとることになった。毎年、銀二十五万両と絹二十五万匹が宋から贈られる。これほどの富も、だが金の国家財政のすべてをささえることはできなかった。
 ひとつの要因として、黄河流域の生産力がいちじるしく低下していることがあげられる。なぜそうなったかというと、かつて金軍が乱入して掠奪《りゃくだつ》と破壊のかぎりをつくしたからである。誰のせいでもない。そして、先代の煕宗と、現在の完顔亮と、二代つづいての失政が国庫を圧迫する。
 治世の初期において名君といわれた人が、末期においては暴君として後世に汚名を残す。歴史上けっして珍しい例ではない。だが、まったく同じ「初期名君・末期暴君」型の天子が二代連続した例は、さすがにまれであろう。
 金国も統治がむずかしい時代にはいっていた。中華帝国に侵入して王朝をたてた少数民族が、かならず直面する問題である。少数の征服者が、多数の漢民族を支配する。しかも征服されたほうが、文化的にも高度で、経済的にも豊かであり、征服者を見下ろしている。
 征服に成功したのは、ただ軍事力が強かったからであり、何よりも中華帝国の腐敗と弱体化に乗じたからである。戦いに勝ち、繁栄した都市や肥沃な田園を占領したものの、さて気づいてみれば、これらの土地と人民をどのように統治すればよいのか。自分たちの部族だけで生活していたいままでのように、簡単にはいかないのだ。
 第一の方法は、行政技術にすぐれた漢人官僚を登用して、彼らに実務をゆだねることだ。金国の初期は、それで成功した。北方の辺境にいた漢民族の知識人たちは、すすんで金に協力した。彼らは宋の本土へ行けば、単なる田夫野人《いなかもの》あつかいされるだけで、出世もおぼつかない。だが新興の金王朝につかえれば、重要な地位を与えられ、いくらでも才能をふるうことができるのだ。
 彼らに実務をゆだねつつ、金は国家制度の変革に着手した。これまでの素朴な部族国家から、中華帝国の正統な王朝へと変わらねばならない。その大事業にあたったのが、大《ター》太《ター》子《ツ》宗幹《そうかん》であった。二《アル》太《ター》子《ツ》宗望《そうぼう》や四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼の兄である。彼は太祖皇帝の長男であったが、母が正式な妃ではなかったので、帝位を継承することができなかった。だが彼はそれを怨《うら》むこともなく、宰相として国のためにつくした。彼を助けたのが漢民族の韓《かん》企《き》先《せん》という重臣で、金の国家制度がととのったのは、ほとんどこのふたりの功績である。だがその功績も、ここ十年の混乱と失政で無に帰そうとしていた。
「古《いにしえ》より大兵大役《たいへいたいえき》、未《いま》だ民怨沸騰《みんえんふっとう》して国を喪《うしな》い身を亡《ほろ》ぼさざる者|有《あ》らず」
 と、清《しん》の史家|趙翼《ちょうよく》は記す。古来、大きな戦争をおこす権力者は、かならず人民の怒りによって、国と自分自身を滅ぼすものである。歴史をみればわかりきったことなのに、なぜ権力者は同じ愚行を何度も何度もくりかえすのであろう。趙翼の筆には、激しい怒りがある。およそ、人の世に、権力者ほど歴史に学ばない者はいないようである。
 金国内の治安は、急速に悪化しつつあった。いたるところで叛乱《はんらん》がおこり、官《かん》吏《り》が殺される。南では漢民族の農民たちが役人に反抗し、村をすてて山中に逃げこむ。そして北では契丹《きったん》族の叛乱がおこっていた。契丹族は、かつて遼という国をつくって北方の広大な領域を支配したが、西暦一一二五年、金によって滅ぼされた。その同じ年に、金は宋に乱入する。そして、つい二、三年の間に、遼と宋というふたつの大国が、新興の金によって滅ぼされてしまうのだ。
 だが、王朝が消滅しても、その土地に人がいなくなるわけではない。
 もともと中華帝国の農民たちは温和で忍耐づよいといわれるが、ひとたび起《た》てば、その怒りは王朝をくつがえし、侵略者を圧倒する。金の以前に、遼が侵略してきて暴虐のかぎりをつくしたことがあった。侵略に抵抗する者をかたはしから殺し、屍体を積みあげて、これを「打穀草《むぎかり》」と称した。恐怖によって支配しようとしたのだが、農民たちの抵抗はやまない。殺しても殺しても、家族や同志の屍体を踏みこえて、遼軍にたちむかってくる。ついに遼の太宗《たいそう》皇帝は怯《ひる》んで、全軍に撤退を命じるにいたった。
「ふん、中国がこれほど治《おさ》めにくい国だと知っていたら、誰がわざわざやってくるものか。こんなところより北方の曠《こう》野《や》のほうがよほどましだ」
 そう捨《す》て台詞《ぜりふ》を吐いて、太宗は引きあげていったのだが、帰途、陣中で急死してしまった。公式には病死とされているが、太宗はまだ四十六歳であったから、別の死因も考えられる。ちなみに「太宗」と呼ばれる皇帝は、唐・宋・遼・金・元《げん》・清、いずれの王朝においても第二代皇帝である。第二代以外の皇帝が「太宗」と称した例はない。
 それから百九十年が経過して、金が中華帝国に乱入したとき。腐敗しきっていた宋の官軍は敗北と逃走をくりかえすだけであった。だが破壊と殺戮《さつりく》、放火と掠奪の嵐のなかで、民衆は決起した。彼らは、真に国家の危機を救う人が誰であるかを知っていた。彼らは武器をとって、その人のもとへ駆けつけた。
 その人、東京留守宗沢《とうけいりゅうしゅそうたく》のもとへ。

    三

 金軍が乱入してきた宣《せん》和《な》七年(西暦一一二五年)、宗沢はすでに六十七歳の老齢であった。もともと彼は科挙出身の文官で、それまでたいして出世したわけではない。主として地方の知事などをつとめていた。
 民衆の人望はあついが、中央政府の評価は低い。良心的な官吏にしばしば見られる型の人生をすごして晩年にいたったとき、彼の人生も大宋帝国の運命も激変するのである。
 開封を占領し、黄河流域を軍事力によって支配した金軍は、宋の皇族をつぎつぎと囚《とら》えた。徽《き》宗《そう》皇帝の九男、康王趙構《こうおうちょうこう》も金軍から呼び出しを受け、その陣営に出頭しようとしていた。だが出頭の寸前、宗沢と出会う。宗沢は康王を説得して出頭をやめさせた。康王は引き返して金軍の勢力圏から脱出し、南方で即位して大宋帝国第十代の天子たるを宣言した。これが高宗皇帝である。
 たしかに宗沢はこのとき歴史を変えたのだ。康王がのこのこ金軍の陣営に出頭していたら、父徽宗や兄|欽宗《きんそう》とともに虜囚《りょしゅう》となって遠く五《ご》国《こく》城へ送りこまれたにちがいない。そうなると、彼は即位して高宗皇帝となることもできず、帝位につくべき人物が不在のまま、宋はずるずると解体し滅亡してしまったであろう。
 宗沢の的確な判断は国を救った。
 高宗個人にとっても宗沢は大恩人である。即位した高宗は、長江を渡って安全な場所に避難した。だが、長江の北にひろがる広大な地域を、金軍にわたしてしまうわけにはいかない。この地域を防衛し、宋軍全体の指揮をとるべき人物が必要であった。そして、高宗が指名したのが宗沢であった。宗沢は東京留守に任じられた。黄河と長江とにはさまれた広大な地域において、政治と軍事の全権をにぎることになったのである。
 たいへんな出世といってよいが、実状はといえば、鉄の怒《ど》濤《とう》となって南下する金軍を押しとどめる、その責任を一身に押しつけられたのであった。後方からは、ろくな支援もない。兵士を集め、編成し、訓練し、実戦を指揮し、補給をととのえ、城壁を修復し、そして戦火に逃げまどう民衆を救出する。すべてを、七十歳ちかい宗沢がひとりでやらなくてはならなかった。そして彼はやってのけた。
 宗沢は、まず金軍の手から開封を奪回した。金軍のがわでは、四《スー》太《ター》子《ツ》宗弼が大軍をひきいて再攻略に乗りだしたが、これを宗沢は撃退してしまったのである。宗沢の守城《しゅじょう》指揮は完璧で、四《スー》太《ター》子《ツ》ともあろう者が手も足も出ず、多数の死傷者をだして撤退するはめになった。
「宗《そう》爺爺《やや》」
 と、金軍は宗沢を呼ぶようになった。爺爺とは「長者」とか「大人《たいじん》」とかを意味する尊称である。敵ながら、宗沢の才能と人格を、金軍も賞賛せずにいられなかったのだ。
 開封周辺の民衆も義勇兵も、宗沢のもとに集まった。彼らから見れば、皇帝や大臣たちは安全な南方で宮殿にふんぞりかえっているとしか思えない。老体に甲冑をまとって最前線に立つ宗沢のほうに信望が集まるのは当然であろう。
 宗沢|麾下《きか》の兵力は十万をこえ、二十万に達した。そのなかに、戦友である解元《かいげん》や成閔《せいびん》をしたがえた韓世忠もいた。そして、当時二十五歳の岳飛もまた宗沢のもとに駆けつけた。王彦《おうげん》という武将のもとにいたのだが、宗沢のもとで戦うべく、脱走同様に王彦の陣営を飛びだしたのだ。
 宗沢は岳飛が勇猛で用兵もたくみなのを見て感心した。本格的に孫《そん》子《し》や呉子《ごし》の兵法を教授してやろうと思ったが、岳飛は兵書の頁《ページ》をめくっただけで、宗沢に返してしまった。
「運用の妙は一心にあり」
 岳飛はそういったという。理論より実践だ、臨機応変に敵に対処したい、敵の急襲を受けたとき、兵書をひらいて陣形など考えてもしかたない、というのである。
 なまいきな奴だ、とは宗沢は思わなかった。むしろ岳飛の気概に感歎した。この青年は、いずれ宋の国運を双肩に担って立つであろう。宗沢は彼を都《と》統制《とうせい》という高級士官に任じた。
 岳飛は後に金軍から「岳《がく》爺爺《やや》」と尊称されるようになる。金軍から「爺爺」と尊称されたのは、宗沢と岳飛の両者だけで、韓世忠でさえそう呼ばれることはなかった。この両者が、いかに金軍にとって印象的であったかわかる。
 そしてここに、忌《い》まわしい歴史の多数例がある。敵から尊敬されるような名将は、味方から憎まれ、嫉《しっ》妬《と》され、猜《さい》疑《ぎ》され、ついには粛清されてしまうのだ。
 宗沢の実力と人望は、高宗の宮廷をおそれさせるようになった。自分たちは安全な場所にいて何ひとつ危険を冒《おか》さないくせに、他人の才能と功績を嫉《ねた》むことだけは一人前。そのような廷臣《ていしん》たちが、忠義づらで高宗の耳に毒を吹きこむのである。
「宗沢は危険な男でございます。やたらと主戦論をとなえておりますが、それは国を思ってのことではなく、ただ自分ひとり功績をあげたいがためでございます」
「宗沢を信用してはなりませぬ。あの男は宋と金との間に立って、自立しようとたくらんでおります」
「開封へ還御《かんぎょ》あるように、などと宗沢は申してくるでしょうが、行かれてはなりませぬぞ、陛下。行けば宗沢めの傀儡《かいらい》にされてしまいます」
「それどころか、宗沢め、陛下の御《おん》身《み》を金賊に引きわたし、それと引きかえに自分の地位を認めさせるつもりかもしれませぬ。くれぐれも信じてはなりませぬぞ」
「それでなくとも、宗沢のもとには義勇軍と称する無《ぶ》頼漢《らいかん》どもが集まって気勢をあげております。お近づきになるのは危のうございます」
 高宗はまるきり暗《あん》愚《ぐ》というわけではないが、絶えることのない讒言《ざんげん》にかこまれて、宗沢に対する信頼を失ってしまったのだった。
 黄河を渡って金軍に大反撃を加え、占領された河《か》北《ほく》の広大な領土を回復する。戦略、戦術、補給、編成、あらゆる面で宗沢は準備をととのえた。あとは高宗皇帝の勅許《ちょっきょ》をえるのみである。宗沢は筆をとって上奏文を書いた。金軍を渡河攻撃するために朝廷の許可を求め、さらに高宗に請《こ》うた。全軍の士気を高め、また決戦の意思を天下に知らしめるため、陛下には開封に還御ありたし、と。
 上奏文は無視された。返事は来なかった。
「陛下はなぜ総反抗をお許しくださらぬのか。このままでは勝機を逃してしまう」
 廷臣たちが讒言するように、宗沢に離反や自立の野心があれば、高宗の許可など必要とするはずがなかった。かってに出撃してかってに勝ってしまえばよいのである。だが宗沢は、あくまでも宋の臣として行動した。じつに二十回以上にわたって、宗沢は、黄河を渡って出撃する許可を高宗に請うた。そしてついに一度の返答すら与えられなかったのである。
 自分が猜疑されていることを宗沢はさとった。
 これほど不本意なことがあるだろうか。東京留守となる以前、宗沢はいくらでも安全な場所へ逃げる機会があったのだ。あえて最前線にとどまり、老体に甲冑をまとって侵略者と戦うのは誰のためか。老将の眼から涙がこぼれた。あまりに忠誠心あつい彼は、皇帝を非難しようとはしなかった。ただ、つぎのような詩句を幾度か口《くち》誦《ず》さんだ。

  師《いくさ》を出《いだ》して未《いま》だ捷《か》たず身まず死し
  永《とこし》えに英雄をして涙|襟《えり》に満《み》たしむ

 杜甫《とほ》の七言律詩「蜀相《しょくしょう》」の一節である。三国時代の諸葛孔明《しょかつこうめい》の生涯をうたいあげたもので、報われぬ忠誠の念を、宗沢は歴史上の人物にかさねあわせたのであろう。
 出兵の許可がえられぬままに月日はすぎ、黄河以北では金軍の支配が着々とかたまっていく。一目ごとに領土回復は困難になっていくのだ。なお宗沢は出兵を断念してはいなかったが、精神より先に肉体の限界が来た。宗沢は病床に倒れた。
「宗留守《そうりゅうしゅ》、病篤《やまいあつ》し」
 その報に、開封全城は粛然《しゅくぜん》たる空気につつまれた。陰暦七月、残暑がすぎて地には秋風が満ち、憂色《ゆうしょく》が全軍をおおった。老将の病状は急速に悪化し、数日のうちに、誰の目にも再起は不可能と映った。一夜、冷たい雨が風をともなって開封を襲った。激しい風雨が宗沢の本営である東京留守府の建物をたたくなか、昏々《こんこん》と睡《ねむ》りつづけていた宗沢がふいに叫んだ。
「黄河を渡れ!」
 病床の周囲に集まった将兵たちは、声をのんで立ちつくした。蒼白な顔に両眼をとざしたまま、混濁した意識のなかで、ふたたび老将は叫んだ。
「黄河を渡れ!」
 叫び終わると、激しい喘鳴《ぜんめい》がそれにつづいた。長くはなかった。喘鳴がやむと、もはや老将は、どのような種類の声も音も発することはなかったのである。それにかわって風雨の叫びがさらに強まり、甲冑をまとった大の男たちが声を放って泣いた。
 宋の建炎《けんえん》二年(西暦一一二八年)秋七月十五日。宗沢は七十歳であった。彼の死によって、宋は、黄河以北の領土を回復する機会を、永遠に失ったのである。
 宗沢の訃《ふ》報《ほう》は、ただちに高宗のもとへもたらされた。このとき高宗は、長江の南岸|建康《けんこう》府《ふ》にいた。後世、南京《ナンキン》と呼ばれるようになる城市《まち》である。呉《ご》・東晋《とうしん》・劉宋《りゅうそう》・南斉《なんせい》・梁《りょう》・陳《ちん》と六代の王朝が首都をおいたところで、そこに落ちついた高宗は、黄河どころか長江すら渡る気はなかった。
 さすがに高宗は宗沢の死を悼《いた》み、多少は後侮もした。ただちに宗沢に「忠簡公《ちゅうかんこう》」の諡《おくりな》を贈り、同時に杜充《とじゅう》という大臣を東京留守の後任として開封へ送りこんだ。かつて黄河の堤防を破壊して金軍の南下をくいとめた男である。
「いまさら諡などが何の役にたつか」
 そう思いつつ杜充を迎えた将兵たちは、さらに怒りと失望を禁じえなくなる。杜充はとても宗沢の後任がつとまるような人物ではなかった。無能ではなかったが、残忍で猜疑心が強い。せっかく集まった義勇兵を冷遇し、すこしでも批判的な態度を見せる者は、たちどころに殺してしまう。たまりかねた将兵は、つぎつぎと開封から離れていった。宗沢の人望によって守られていた開封は、いまや守るに値せぬ城市《まち》となった。韓世忠も杜充に生命をゆだねる気にはなれず、解元や成閔とともに開封を去った。その年のうちに、開封城内の宋軍は十分の一に減ってしまった。
 こうして開封一帯の宋軍を解体させたあげく、後に杜充は金の誘いに応じ、祖国を裏切って敵国に降伏してしまうのである。降伏後の杜充は、宋の国内機密に通じていることを売物《うりもの》として順調に出世し、金帝国の右丞相《うじょうしょう》にまでなり、天寿をまっとうして死んだ。彼が死んだ年に、秦檜《しんかい》によって宋・金両国の和平が成ったのである。杜充自身にはいろいろと言分《いいぶん》もあるだろうが、節操《せっそう》や羞恥心《しゅうちしん》という言葉を嘲笑《ちょうしょう》るような人生であった、と評されてもしかたないであろう。
 ……後にその当時の事情を韓世忠が梁紅玉に語ったとき、彼は深く溜息《ためいき》をついて話をしめくくったのだった。
「おれは開封に帰るつもりだった。かならず帰って、宗留守の霊にご報告するつもりだった。だがだめだったなあ」と。

    四

 突如としてそれはおこった。梁紅玉と子温の足がとまったのは、街道の前方で騒ぎがおこったからである。人の声、馬や牛の声、馬《ば》蹄《てい》のひびき、車輪のきしみ、それらが同時に沸《わ》きおこり、さらに刃《やいば》を打ちかわす音まで、風に乗って子温たちの耳にとどいてきた。道|往《ゆ》く人々が不安げな顔を見あわせ、いつでも災厄から逃げだせるように身がまえる。そしてつぎの瞬間、思い思いの方角へ逃げだした。混乱の渦が騒音をまきちらしながら、前方から殺到してきた。
 囚人を護送する檻車《かんしゃ》が賊に襲われ、囚人が逃げだしたのである。とびかう漢語と女真語の会話から、おぼろげに事情がわかったとき、子温と梁紅玉はすでに渦に巻きこまれかけていた。
 母の身体をかかえるようにして、子温は、路傍の草地に難を避けた。眼前を、三、四頭の馬がもつれあって走りぬけた。いずれも鞍《くら》をつけているが騎手の姿はなく、鞍には点々と人血が散っていた。ついで二頭の牛が並んで暴走してくる。車輪のはずれた檻車をひっぱったままだ。砂埃《すなぼこり》が舞いくるって、眼を開けているのさえ容易ではなくなる。悲鳴があがったのは、逃げそこねた人が馬蹄か車輪にかけられたらしい。
 騒動が終わるまで草地にひそんでいるつもりだったが、にわかに荒々しい音がして、血まみれの騎手を乗せた軍馬が草地に躍りこんできた。騎手の姿が子温の足もとに落下する。軽武装の金兵だが、左肩から胸の中央部にかけて、すさまじいほどの刀痕《とうこん》が血を噴いている。練達の剣士に斬られたらしい。
 とりあえず子温は軍馬の手《た》綱《づな》をつかんだ。舌を鳴らす音をたてながら馬の興奮をなだめる。馬はさかんに首を振り、前肢《まえあし》で宙を蹴っていたが、しだいに落ちついてきた。息子のお手なみを見物していた梁紅玉が笑って歩みよる。
「阿爺《とうちゃん》の三倍ほどは時間がかかったね。でもまあ何とか馬を調《なら》すていどのことはできるようになったじゃないか」
 梁紅玉が掌《てのひら》で鼻面《はなづら》をさすると、馬は完全におとなしくなった。そのころには街道にも静寂が回復している。おこるだけのことはすべておこってしまい、大規模に金の官軍が出動してくるまで空白の時間ができたということであろう。とすれば、いまのうちにこの場を離れておくべきであった。
 母を馬に乗せ、馬の轡《くつわ》をとって、子温は街道にもどった。できれば彼自身も馬を求めて騎行したほうがよい。だが、車体からはずれた牛車の車輪が残されているだけで、路上は空虚だった。子温はすばやく記憶をたどり、三百歩ほど引き返して、丈《たけ》の高い草のなかの陪道《わきみち》にはいった。曲折した道をすこし歩いて、何ともぐあいの悪い事態に直面してしまった。ふたつめの角で、賊に出くわしたのだ。彼もまた、官軍と出会うことがないよう陪道にひそんでいたのであろう。血ぬれた剣をさげ、牛革《ぎゅうかく》の甲《よろい》をまとった男は、いきなり馬をあおって子温に斬りかかった。
 降りおろされる剣を、子温は杖《じょう》をふるって横に払った。大きく払ったのではない。短く、だが鋭く、最小限の動きであった。刃鳴りの音も大きくはない。
 それだけで、子温の技倆《ぎりょう》を知るには充分であったろう。賊は四十歳前後の中背の男だったが、精悍《せいかん》な顔に、おどろきの表情が走った。馬を駆けさせながら、剣をにぎりなおす。馬首をめぐらし、一瞬、子温をにらみつけてから馬腹を蹴った。黒い大きな風のかたまりが眼前にせまる。瞬間。横へ跳んだ子温は、ねらいすまして杖を投じた。前肢に杖をからめた馬は、高くいなないてつんのめった。怒声を放って、賊の身体が馬上から投げだされる。路上ではねた身体が、一転してとびおきたとき、躍りかかった子温の拳がたてつづけに賊の腹を撃った。宋の太祖趙匡胤《たいそちょうきょいん》を開祖とする「太《たい》祖《そ》拳《けん》」の技だ。賊はうめき、大きくよろめいた。よろめきつつなお剣を突きだし、子温をとびのかせたのは凡物《ただもの》ではなかった。
 十歩ほどの距離をおいて両者はにらみあう。子温の肩ごしに、賊と梁紅玉の視線が正面から合った。
「あっ」と賊が声をあげた。呆然《ぼうぜん》として梁紅玉を凝視《ぎょうし》している。剣を持つことも忘れたかのような姿は、むろん隙《すき》だらけであったが、それに乗じて子温は拳の一撃をあびせる気になれなかった。よほどの衝撃が賊を襲ったにちがいない。
 石化したような賊の姿勢が一変した。剣を地上に投げだすと、賊はその場に拝《はい》跪《き》したのである。今度は子温が呆然とする番であった。
「梁女将軍《りょうじょしょうぐん》、おなつかしゅうござる」
 ややたどたどしい漢語で賊はいった。声が慄《ふる》えている。恐怖や怒りではなく感動のためであった。
 梁紅玉はべつに表情を変えなかったが、意外ではあったらしい。男を見やる視線が問いかけを含んだ。
「それがしは黒蛮竜《こくばんりゅう》と申す者」
 男はそう名乗り、敬愛の念をこめて梁紅玉を見あげた。
「女将軍にはご壮健のごようす。ふたたびお目にかかれて、この上の喜びはござらぬ」
「はて、金国人に知己《しりあい》があったろうかね」
「さよう、もう二十六年の往古《むかし》になり申す。それがしは年十四にして四《スー》太《ター》子《ツ》都《と》元帥《げんすい》の麾下にあり、黄天蕩《こうてんとう》において宋軍と死《し》戦《せん》いたしました」
「おお、黄天蕩の……」
「さようでござる。そのとき乗っておりました軍船がくつがえり、それがしは水中に投げだされ申した」
 黄天蕩の激戦で、金軍はただ一日に二万五千の死者を出した。ほぼ半数は溺死であった。地上では精悍無比の女真族も、水上水中では幼児のごとく無力であった。悲鳴を残し、両手でむなしく宙をかきながら、つぎつぎと水中に没していく。
 黒蛮竜も大量の水をのみ、半死半生で木片につかまったまま長江の波に翻弄《ほんろう》されていた。気がついたとき、彼の姿は船上にあった。りっぱな甲冑を着けた、眼光の鋭い、みごとな黒髭《くろひげ》の男が彼を見おろして口を開いた。
「故郷に親はいるか。罪なき民を害したことはないか。それならば助けてやるが」
 漢語でそう問いかけてきた偉丈夫が、敵将韓世忠であることを知って、黒蛮竜は舌が凍った。ようやく答えたのは、親とはすでに死別したこと、民を殺したことはないが掠奪には参加したこと、などである。すると、韓世忠の傍《そば》に立っていた長身の美しい女性が笑声をあげた。
「正直な人間は助ける価値がありましょう、良臣どの。この子もいずれ親になります。自分の子に、宋は強いからけっして侵《おか》してはならぬ、と伝えてもらいましょう」
 ……話を聞きおえて、梁紅玉は手を拍《う》った。
「ああ、思いだしたよ、そういうことがたしかにあった」
「あのときはおかげさまにて、なきはずの生命をひろい申した。御恩は一日とて忘れたことがございませぬ」
 真剣な表情で黒蛮竜はいったが、この猛悍《もうかん》な女真族の男が顔を朱《あか》くしている。ふと子温は想像をめぐらした。二十六年前、金の少年兵の目に、子温の母の姿はどう映ったことであろうか。
「髭をはやして、りっぱにおなりだねえ」
「女将軍にはお変わりもなく」
「そういってくれるのはありがたいよ。でも、やはり、わたしは年齢《とし》をとった。往古《むかし》をなつかしむようになったのが、その証拠さ」
 笑って手を振ってみせてから、梁紅玉は疑問を質《ただ》した。
「それにしても、四《スー》太《ター》子《ツ》のもとで戦っていた勇者が、どうしていま金の官兵と刃をまじえておいでなのかい」
 黒蛮竜は表情をあらためた。
「四《スー》太《ター》子《ツ》のご遺族がどうなったか、女将軍にはご存じありますまい。四《スー》太《ター》子《ツ》の男児はすべて殺され、女児は後宮《こうきゅう》の虜囚となり申した。居館は、毀《こぼ》たれて廃墟となりはてております」
「おお、それは……」
「すべて玉座《ごくざ》を奪いたる偽《ぎ》帝《てい》めのなせしことでござる。彼奴《きやつ》の暴虐非道、天帝も赦したまわじ」
 黒蛮竜の声がふたたび慄える。今度は激情のために。四《スー》太《ター》子《ツ》の遺族が弑逆者|完顔亮《かんがんりょう》によって族滅《ぞくめつ》された後、黒蛮竜は官位をすてて逃亡した。彼ひとりのことではなく、この時期、逃亡者は数おおい。山中に隠れて仙人となる者、僧となる者、賊となる者などさまざまであった。いずれも、完顔亮の治世が短からんことを望んだ。なかには積極的にそれを短くしようとする者もいる。黒蛮竜もそのひとりであった。そして、しばしば路上で金の官人を襲っては、囚人を解放したり軍需物資や書類を奪ったりしていたのである。

    五

 先帝煕宗を弑逆して登極《とうきょく》した完顔亮は、なみはずれた好色の君主であった。
 好色であるということ自体は、べつに罪悪とはみなされていない。漢高(漢の高《こう》祖《そ》)、漢武(漢の武《ぶ》帝《てい》)、唐宗(唐の太宗)といった人々はいずれも好色多情であった。だが彼らが非難されることはない。個人としての欠点より、統治者としての業績がはるかに巨大であるためだ。
 好色な天子は許される。だが天下に害毒を流す天子は許されない。当然のことであった。そして当然のことをどうしても理解できない天子が、暴君と呼ばれるようになるのだ。
 清の趙翼が著《あらわ》した『二十二史|箚《さつ》記《き》』には、「海陵《かいりょう》の荒淫《こういん》」という一章がある。海陵とは完顔亮の死後の名だが、彼がつぎつぎと一族の女性を姦《おか》していったことが記録されている。彼の好色の犠牲となった女性の名も明記されているが、それらは、阿《ア》蘭《ラン》、阿里庫《アリコ》、重節《ジュウセツ》、実《ジッ》庫《コ》、布《フ》拉《ラツ》、錫納《セキノウ》、実《ジッ》古爾《コジ》、蘇《ソ》埒《レツ》和《ワ》卓《タク》、伊都《イト》、定格《テイカク》、密埒《ミツレツ》、札《サツ》巴《バ》、富爾和《フジワ》卓《タク》、などというのである。女真族の女性の名を知るのには役だつが、彼女たちの父や夫がことごとく完顔亮に殺されたことを思うと、これは凄惨な粛清の記録でもある。
 もっとも、彼女たちのなかには、完顔亮と互角に張りあう者もいたようだ。蘇埒和卓という女性は、宮廷をぬけたしては美男子あさりをしていたようで、完顔亮にどなりつけられている。
「爾《なんじ》、娯楽を愛せり。豊《ほう》富偉《ふい》岸《がん》なること我のごとき者あるか」
 お前はまったく男遊びが好きだな。だが、おれ以上の男などおりはしないだろうが。
 そう叱りつけたものの、完顔亮は彼女を罰しようとはしなかった。どうやらお気に入りであったらしい。
 その一方で、密埒という女性は、後宮に納《おさ》められたとき処女ではなかったので、同居していた姉の夫が殺されてしまった。義妹との関係を疑われたのである。どうにも気の毒というしかない。また定格という女性は、もともと完顔亮と私《し》通《つう》していたが、教唆《きょうさ》を受けて夫を毒殺し、後宮の一員となった。
 後宮は特殊な社会である。ただひとりの男性である皇帝と、千人以上の女性、そして去勢された|もと《ヽヽ》男性である宦官《かんがん》の群が、この豪奢《ごうしゃ》で陰湿な密室にひしめいている。名君といわれる皇帝のもとでも、後宮ではしばしば怪異な事件が発生した。まして皇帝自身が節度を欠き、欲望と衝動をほしいままにするようでは、後宮の乱脈は必然のことであろう。
 女真族そのものが爆発的な生命力をもてあましていたとすれば、完顔亮は個人としてそれに忠実であった、というだけのことかもしれない。だが国を統治する者には、欲望を自制する責任がともなう。その責任をまっとうした上で、豪奢も好色も許されるのである。
 ……それらのことを語り終えた黒蛮竜の表情は苦しげである。彼は四《スー》太《ター》子《ツ》の征戦にしたがって苦闘をかさねた老練の戦士であり、素朴で誇り高い女真族であった。
 苦労してようやくつくりあげた新国家が、なぜ短期間でこうも乱れ、腐敗してしまったのか。黒蛮竜としては、ひたすら完顔亮を憎むしかないであろう。
「それがしは女真の民であり、金国を貴《とうと》しと思うております。ゆえに、四《スー》太《ター》子《ツ》らの功業をことごとく覆《くつが》えさんとするあの偽《ぎ》帝《てい》めが赦せませぬ。完顔亮めを玉座より引きずりおろし、ひとつには四《スー》太《ター》子《ツ》ご一家の無念を晴らし、ふたつには国を暴君の手から救いとうございます。数ならぬ身なれど、志《こころざし》だけはすてませぬ」
 そして今度は黒蛮竜が疑問を質《ただ》す番である。宋の名将として枢密使とまでなった方の御婦人が、なぜ旅人に身をやつし、このような場所におられるのか。誓って口外《こうがい》せぬゆえ教えていただきたい。拝察するに、何ごとか重大な目的がおありなのではないか。
「そなた、靖康帝《せいこうのみかど》がいまどこにおられるのか、ご存じではないかえ」
 ためらう子温にかわって梁紅玉が問う。ひとたび信じれば彼女は異国人にも隠しだてはしなかった。黒蛮竜は息をのんだ。その問いで事情を察した。この女傑は靖康帝、すなわち不幸な欽宗皇帝を救出しに来たのだ、と思った。欽宗は敵国の天子であったが、黒蛮竜としては個人的な怨《うら》みはない。三十年にわたって異境に虜囚《りょしゅう》となっていると思えば哀《あわ》れでもある。また、欽宗が救出されれば、完顔亮の驕慢さに一撃を加えることになるであろう。
 黒蛮竜は一礼した。
「それがし、くわしくは存じませぬが、靖康帝はいま燕京城内に囚《とら》われておられる由《よし》。知人の阿《あ》計替《けいたい》なる者が事情に通じております。それがしに燕京までご案内させていただければ、御恩の一片なりと報じることができましょう。ぜひぜひ、そうさせてくだされ」
「ありがたい、では燕京へ行くとしようかね」
 さらりと梁紅玉は言い放つ。あまり簡単にいわんでほしいな、と思いつつ、子温の胸には希望が強い光を点《とも》しはじめていた。
 

 

 

 

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