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禅における心の探求

(著・中祖一誠)

禅とは何かという問いに答えることはなかなか難しいことです。古くから禅について「不立文字」とか言詮不及」・「以心伝心」といったことばがいわれております。これらのことばは、禅の心髄がとうていことばで伝えることができない、みずからの体験を通してはじめてその核心をつかむことができるのだと言っているのです。しかし、ことばの及ばない世界だといって沈黙を守っているだけでは、禅はいつまでもわたくしたちの視野に入ってまいりません。やはり、何らかの方法でそれにアプローチしなければなりません。事実、中国の禅の巨匠たちはおびただしい禅の指南書(語録といっています)を著わしました。

  禅はもともと古代インドに興った行法にその起源をもちます。紀元前10世紀ごろから、バラモン教の僧たちや沙門(しゃもん)と称される修行者たちは思索を深め、深遠な哲理を探究していきました。このような傾向にはおそらくインドの苛酷な暑さが強くはたらいたと思われます。こんもりとした森林の大樹のもとで瞑想に耽り、精神続一のてだてをしだいに整備して、一つの行法として確立してまいります。これがヨーガといわれているもので、現在の日本においてもなかなか盛んです。それは大体、紀元前56世紀ごろには体系が整えられたと考えられます。禅はこのヨーガの行法をもとにして生まれたわけです。このことばは、古代インド語であるサンスクリット語の「ディヤーナ」、あるいは当時の俗語の「ジャーナ」の音を漢字に写した、いわゆる音写語です。ディヤーナ(禅)はさきにいいましたヨーガと同じく、心を静めて瞑想することを意味しております。中国の禅僧たちは「禅定」(ぜんじょう)、「思惟修」(しゆいしゅ)、「評慮」(じょうりょ)などと訳しました。当時の瞑想にもいろいろの種類がありまして高度な精神的境地をめざすものから、超自然的な能力の獲得や健康法・長寿を目的とするものなどもあったようです。おおざっぱに申しまして、ヨーガは行法のもたらす効果に重点をおき、それに対して禅は心の自由な活動を実現することに眼目をおいているということができます。

  菩提樹のもとでこの禅の真髄に到達した釈尊の教えは、時代の推移とともに、さまざまな教学を生みだしましたが、とくに釈尊の禅体験を基調とする独立した一つの系統を禅宗と称して、中国の唐代に完成されることになります。その禅宗の開祖として菩提達磨が出てまいります。かれの伝記には伝説的な要素が含まれ、確かなことは分かりませんが、南インドに生まれ、6世紀初頭、中国に渡来して禅の教えを鼓吹したといわれます。8世紀の禅の史書(『歴代法宝記』西暦774)の中に達磨を初祖とする禅の系譜が述べられています。その達磨と弟子の慧可(えか)との対話をとりあげてみようと思います。若いころ儒学や老荘の教えを学び、論書を読んで達磨にまみえた慧可との山会いはやがて禅の伝統の礎(いしずえ)となります。そのときの問答の内容はつぎのようなものでした。達磨に対した弟子は、「わたしの心が不安でなりません。どうか安心(あんじん)を与えてください」と懇願します。師は、「その心をもってこい」と告げます。弟子は、「心を覓(もと)むるについに不可得なり」と答えます。すかさず師は、「汝のために、すでに安心を与えおわった」といいきります。心は常に動いて止むことがありません。その心を取りだして差しだすことはできません。不安だ、やりきれないなどといっているのは心の迷いであり、妄想であるというのです。さまざまな想いはもとからあるわけではない、わたくしたちが勝手に作りあげて、それに執われているにすぎないということを達磨は教えているのだと思います。心は本来とくべつな相をもっていないのです。この「心不可得」のテーマは、たんに禅の課題であるだけでなく同時に人間一般の普遍的な課題でもあります。

   時代はそれからずっと降りますが、唐代の徳山宣鑑(とくさんせんかん)と一老婆との問答もよく知られています。現在でも禅宗の寺院で盛んに読まれております経典の一つに、『金剛般若経』と称されるものがあります。これは、大乗仏教の空の思想を躍動的に展開している有名なものです。そのなかに、「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」ということばが出てまいります。日ごろ経典の読誦・解釈に没頭していた徳山が、当時南方で禅の教えがはやっていることを聞いて、経典を軽蔑して勝手ほうだいな法螺(ほら)を吹いている禅の教えを折伏しようと思って、両肩に『金剛経』を背負って南方に降っていきました。途中、州(れいしゅう)というところの茶店で点心(てんじん)を摂ります。これは軽い食事のことですが、おなかが空いていたので飢えを充たすつもりでこの茶店に立ち寄ったわけです。そこのお婆さんは禅の素養があったとみえて、この雲水に、さきに言いました金剛経のことばの「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」を突きつけて、どの心でもって点ずるのかと問い詰めます。つまり、どの心で食事をするのか(点心)と詰め寄ります。徳山はついに一言も答えることができず、この老婆の前にかぶとを脱いで、禅の教えに参じ、後に唐代の禅僧として大成したといわれます。

  この話もなかなかに出来すぎており、皆様もお疑いになることでしょう。しかし、禅の立場と申しますか、仏教の側からいいますと、これが史実であるかどうかということは必ずしも重要ではありません。むしろ、このようなかたちで心のあり方が真剣に修行の課題とされていたという事実の方が意味をもっています。さきに申しました禅の指南書の中にこれに類した話が無数にでてまいります。心がことばや理屈ではとらえられないという認識は、このように仏教ないし禅の中で、早くできあがっておりました。

  ところが、仏教の生まれたインドにおいても、ちがったかたちで心の問題は僧たちのあいだで関心を集めていました。中国人とちがって、インド人はたいへん理論的で思索的傾向をもっております。さきに挙げましたヨーガでも詳しく考察されております。仏教もヨーガの土壌で育ったのですから同様です。紀元1世紀以降、大乗経典と総称される新しい経典群が成立いたします。その中に、『華厳経』(けごんきょう)と呼ばれる経典があります。この経典は、釈尊の悟りの内容を説き明かしたものであり、釈尊の悟りの世界〈O!2ZB"@$3&!S$NAq87$J$5$^$rM:Bg$KIA$$$F$*$j$^$9!#$=$NCf$K!"!V;03&M#?4!W$H$$$&$3$H$,$G$F$^$$$j$^$9!#!V;03&$O5uLQ!J$3$b$&!K$K$7$F!"$?$@0l?4$N:n!J$5!K$J$j!W$H$$$&$3$H$P$OM-L>$G$9!#$9$Y$F$O5$1$D$,$l$F$^$$$j$^$9$,!"$H$j$o$1BN7OE*$K9M;!$5$l$k$N$O!"45世紀ごろにあらわれる唯識と称される学問体系です。この体系は、さきの華厳経の「三界唯心」の教えを基本にして一層綿密な分析的考察を深めていきます。

  われわれの意識の表層を構成している心の様態〈現行識〉を眼・耳・鼻・舌・身・意の六識でまとめ、さらにその下層に末那識(マナ識)〈自我意識〉と阿頼耶識(アーヤラ識)〈根源識〉という深層の心の様態を想定いたします。マナ識というのはあらゆるものを自己のものとして取りこむ傾向性であり、われわれを六誠の対象に執着させるもとになるものです。これによってわれわれは無限の苦の世界に縛られ、いわゆる輪廻の中に生きることを余儀なくさせられます。唯識説では、その背後にさらにアーラヤ識というわれわれのあらゆる経験の貯蔵庫(アーラヤとは蔵という意味です)を考えます。ちょうど宇宙におけるブラックホールのように、すべての経験を余すことなく飲みこんでしまうわけです。これは現在の生涯だけでなく、無限の過去からのすべての経験を収納しています。そして、このアーラヤ識は、また現在の六識の活動の原因となって、結果としての迷い、苦しみの世界を絶えず生みだしていきます。このように、われわれの潜在意識としてのアーラヤ識と我執としてのマナ識とを背後に背負ってわれわれは生きていることになります。これだけで終るならば、唯識説はわたくしたちに何の意義も与えないことになります。唯識説はアーラヤ識がそのままの状態であり続けることを転換して、まったく別の状態、すなわち「智」にめざめること 〈転識得智〉を説きます。この境地は仏の心と全く同じです。これは従来のさまざまな経験が無に帰することではなく、それぞれの六識はその対象をとらえながらも束縛されることがない境地にあるわけです。無知の知・無作の作というようなことばがいわれるのはこのような境地をいっております。しかし、このような転換がいかにして可能になるのか、そのためには、冒頭に申しました禅定の実践、訓練が要請されることになます。このことが大変重要でありまして、ここまでのことを含んでいるのが唯識説であります。唯識説の心のとらえ方は、ちょうど海面に浮ぶ氷山のように、海面上の氷山の一角の下層に、十倍する巨大な氷塊を予想しています。とにかくこのような心の構造の考察と瞑想〈禅定〉を通して、果てしない行為の影響力〈業〉を断ちきり、心の本来のあり方を実現しようとする理論です。

  外界とわたしという二元的な区別は人類精神史の出発点からあったと思われます。「わたしはAを見る」という一般的な分節を例として考えてみますと、主体としての「わたし」と知覚作用としての「見る」というはたらきと対象としての「A」とに分けられます。「A」は物理的対象であることもあれば、幻影・観念のような心的対象であることもありますが、いずれの場合もわたしの知覚の対象として存在する限り、わたしの知覚を通して存在するわけです。たとえば「風が吹く」という場合、図式的にいえば、〈わたしが-感じる-吹く風〉になるわけですが、風がまず存在してそれが吹くということではありません。吹かない風は考えることはできません。「風が吹く」という不可分の事実だけです。達磨と慧可の対話にでてまいりました「心が不安でなりません。安心を与えて下さい」ということばでも同じです。不安である心などはどこにもない、あるのは慧可が不安であるという亭実だけです。つまり、〈わたしが(主観)-見る(知覚作用)-A(客観)〉ではなく、〈(わたしに)見られているA〉という図式の方が実際に合っているでしょう。

  このような心の考察は、もちろん仏教や禅・唯識説に限られるものではありません。西欧の心理学や精神分析学の研究にも認められます。たまたま手元にありますクレッチマーの『医学的心理学』をみますと、その冒頭につぎのようなことが書いてあります。「直接体験を名づけて心と呼ぶ。心とは感覚されたもの、知覚されたもの、表象されたもののすべてである。例えば一本の木やある音や太陽も、それらが木という知覚、太陽という表象として認められている限りは、やはり心を意味している。心は体験からなった世界である」。心理学に不案内であるわたしには、クレッチマーの主張をどう評価すべきかは分かりません。ただ、かれのとらえる心の本質が禅・唯識説の心のとらえ方とよく似通つていることに興味をもちます。明確にちがう点は、唯識では禅定という「行」が基盤になっている点です。

  精神の科学が、進歩というか、単に客観的考察の地平を越えて新しい展望をめざそうとすると、心身一如的な視点を求めていくことが必要になるようにわたしには思われます。しかし、科学の立場からは、科学の名において、いっきに飛躍するわけにはいかないでしょう。しかし、禅・唯識説のような宗教の側からの心の考察を、領域の異なる全く別の世界のことがらとして無関心でありつづけることには疑問が残ります。新しい地平を求めて接点を探ることが必要となることでしょう。

  その意味から、道元禅師の説かれる「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法(まんぼう)に証せらるるなり」ということばをじっくり味わってみる必要があります。

本来本法性、天然自性身

  ひとが一己の求道者としての道をあゆみはじめるに至る動機は、それぞれに個性的であります。身近な肉親との死別を直接の機縁としてこの道を辿る場合もあれば、一片の飛花落葉の景に無常の思いに駆られる場合もあります。さらにまた、天災地変、国家的規模の動乱や、それに起因する社会秩序の崩壊や経済の破綻などであることもあります。

  人間存在の根底に巣食う迷妄の闇を打ち破るべく出家した釈尊の「四門出遊」の仏伝記事や、禅の初祖達磨の膝下に安心(あんじん)を尋ねた「慧可断臂(えかだんぴ)」の伝承はよく知られています。道元禅師とほぼ同じ時代に生きた鎌倉仏教の祖師たちの出家求道の機縁となった事情も、それぞれに個性的であるということができます。

  仏教伝来このかた、中国からの直輸入のかたちでわが国に受け容れられてきた仏教は、国家の態勢が整備されるにしたがって、次第にわが国に定着してまいります。とくに比叡山を中心にして、学問仏教の隆盛をもたらしてきます。道を求める学僧たちは、競って比叡山に登って仏教の教学を究めていきました。法然をはじめ、親鸞、道元など、新しい仏教をやがて築いていく新仏教の祖師たちもそのような学憎たちでありました。

  幼少の時すでに父の死に遇い、8才にして再び生母との死別を体験した道元は、貴顕の家系に生を享けながらも、人生の悲哀をつぶさに感じて、涙したことは想像に難くないことでしょう。『三祖行業記』の伝えるところによりますと、「慈母の喪に遇ひ、香火の煙を観て潜(ひそか)に世間の無常を悟り、深く求法の大願を立つ」と述べております。道元の求道の動機に、両親とくに生母との死別が強くはたらいていたことは確かなことと思われます。母方の叔父の庇護のもとに、世間的に恵まれた将来が開かれる可能性は十分にあったはずですが、道元は出家の道を択びます。13才の時、意を決して比叡山に登り、翌年には天台座主公円に就いて出家得度を果たします。この比叡山における修学の時代に、道元は生涯の大きな疑問に逢着することになります。

  当時の比叡山は多くの学匠たちが互いに教学上の知識を競い合っていましたが、なかには当代の名僧知識となって天下に名を馳せ、名聞利達を求めることに汲汲としている憎達も多くいました。このような山内の状況のなかにあって、かれはひたすら経論の研究と『高僧伝』、『続高僧伝』などの伝記類の渉猟、耽読に専念していきます。その過程で、大いなる疑問に直面することになります。

  『建撕記(けんぜいき)』によりますと、「顕密二教ともに談ず。本来本法性、天然自性身と。若(も)しかくの如くならば、三世の諸仏、甚(なに)によってか更に発心して菩提を求むるや」と述べています。つまり、われわれは本来すでに仏性を具えており、その本性は清浄であるのに、なにゆえに3世の諸仏たちは発心して更に悟りを求める必要があるのか、という問題です。人間が本来法性を具えた存在であるという教学上の真実と、法性を有する人間が修行を重ねて行かなければならないという実践的命題が、いかにして一己の人間において会通(えづう)しうるかという宗教の本質にかかわる疑問に道元は逢着いたします。われわれがひとしく仏性を具えた存在であるならば、みずから菩提を求めて修行することの意義は一体どこにあるのかといったような自家撞着に陥つてしまったことになります。やがて後年、道元の禅風の根幹をなすことになります”修証一等”、 ”只管打坐”の課題は、実にこのときに始まったということができます。まさしく、”大疑現前”ということができましょう。

  この疑団をかれは、三井寺の学匠公胤に質ねます。しかし、公胤はこの問いに直接には答えず、宋より帰国してまもない建仁寺の栄西を訪ねることを勧めます。もっとも、この公胤との相見(しょうけん)、そしてかれの勧めによる栄西との正式の相見は、史実としての疑問が古くから指摘されていますので確かとはいえませんが、とにかく道元は建仁寺に拝錫(はいしゃく)して禅の修行に打ち込んでまいります。とくに栄西の高足、明全に師事して臨済の禅風に触れて、新しいあゆみをはしめてまいります。

  その後、師・明全に従って入宋いたします。入宋の後、みずからの眼で中国禅林の諸山を巡錫しつつ、正師を尋ねて遍歴を重ねていきます。しかし、当時の中国では宋朝禅が隆盛をきわめておりました。それには、「教外別伝」派とか「教禅一致」派などと呼ばれるものがありました。それらは、仏祖伝来の面目を軽視して、恣意的に勝手な禅を鼓吹したり、また安易に儒・仏・道三教の帰するところは結局一つに帰するなどと説く、独断と妥協の禅風に堕していて、すでに活力を失っていました。これは求道の人・道元の納得しかねるところでした。

  入宋後、2年にして機熟して、天童山において如浄禅師に相見する機を得ます。時に宝慶元年5月のことです。これが運命的な出合いとなることになります。如浄は初相見の場において、「仏仏祖祖面授の法門現成せり」と道元を称えて、日本からの若き留学僧に大いなる期待を寄せています。このことばは道元の力量の非凡さを即座に見抜いたことを端的に示しています。道元は渡宋二年にして、漸く生涯の師との相見を実現したことになります。

  同年の夏安居(げあんご)の終わりをつげる頃、暁天坐禅の巡堂をしていた如浄は、ひとりの雲水が坐禅中に坐睡するのを咎め叱咤して、「参禅は須く身心脱落なるべし。只管に坐睡して什廳(なに)を為すに堪へんや」と大喝して警策(きょうさく)を振います。そのかたわらで坐禅工夫に専念していた道元は、豁然として大悟します。坐禅後、道元はただちに方丈に上り、恭しく焼香礼拝いたします。如浄は「焼香の事、作麼生(そもさん)(何のための焼香か)と問います。道元は「身心脱落し来る」と答えます。すかさず師は、「身心脱落脱落身心」。道元「這箇(これ)は是れ暫時の伎倆(ぎりょう)、和尚乱りに某甲(それがし)を印することなかれ」(簡単にこのわたしを印可めさるな)。師「吾乱りに爾を印せず」。道元「如何なるか是れ乱りに印せざるの底」。如浄「脱落脱落」と、道元の悟境に印可の証を与えたのであります。この参学の大事を悟了した後、師・如浄より「仏祖正伝菩薩戒脈」が授けられます。道元は如浄のもとに留まること2年あまり後、漸く帰国の途に就きます。

  1227年秋、28才、帰国した道元は建仁寺に暫く留まり、その後31才のとき宇治深草の安養院に移り、さらに37才のとき観音導利興聖宝林寺を開創して僧堂開単にこぎつけます。このようにして本格的な禅風宣揚の足ががりを築きます。

  僧堂開単の祝国開堂の法語は、「山僧叢林を歴ること多からず。只是れ等閑(なおざり)に天童先師に見ゆ。当下に眼横鼻直(がんのうびちょく)を認得して人に瞞(あざむ)かれず。便ち空手にして郷に還る。所以(ゆえ)に一亳も仏法無し」と述べている。このなかに、新しく禅仏教を標榜せんとする道元の意気込みが躍動していることをうかがわせるものがあります。

  もっとも、この祝国開堂の法語については、近年ではさらに数年後の上堂語とも考えられる面もあり検討の余地のあることも事実ですが、文面に漲る高揚した雰囲気には、禅仏教新生の意気に燃える道元の真骨頂がいかんなく発揮されているといわねばならないでしょう。

  道元はそれを可能にする必須の要件として「発菩提心」ということばを述べております。文字通りには菩提、すなわち解脱を得たいと願う心のことです。しかし、ただ頭の中でそれを願うだけでは全く意味がありません。一切の思惑や量見といつかものから離れなければ堂々回りを繰り返しているばかりです。そこで道元は、「菩提心とは一心である」とか、「吾我を離れよ、我見、我執を離れよ」ということばを繰り返します。また「世間の生滅無常を観ずる心も亦菩提心と名づく」と強調します。つまり、自己意識の場を突き抜けて、自他の境界を踏み越えたところに開けてくる地平にまで徹していかなければならないことになります。「本来本法性、天然自性身」ということも、この境位においてはじめて意味をもってまいります。ここに道元の徹底した世界超越の姿勢がうかんでまいります。「修」と「証」の弁別や、「煩悩」と「菩提」の対置を離れることが求められることになります。「修証一如」、「只管打坐」といった道元の仏法のキー・ワードは、究極的には「発菩提心」の別の呼称ということになります。

  比叡山における弁道のさなかに体験した「本来本法性、天熱自性身」の大いなる疑問を抱いて下山した道元は、京洛での苦悶のはてに入宋、遍歴の末に天童で如浄との相見の機縁をえて、ついに多年にわたるこの疑団に終止符を打ちます。帰国後、京洛の地にあって、早速『普勧坐禅儀』をあらわします。真実の仏法が菩提樹下の釈尊の端坐正覚の体験にあることを明かし、”只管打坐”の仏法を宣揚します。当時わが国では、伝統的に比叡山で行われていた「四種三昧」の禅法が中心でしたが、道元はこれに独自の立場を打ちだしました。その後、「弁道話」、「現成公案」など、後に集大成されていく『正法眼蔵』の総序の位置を占める著作が堰を切ったように書かれていきます。そこでありのままの流転生死の現実世界が仏道の究極の課題の対象であることを説き明かします。しかし、このことを体現するのは「自己」をおいてはほかにありません。「自己」の探究は自己を放擲してはじめて輝きを発します。そのとき、現実世界(万法=まんぽう)が、”仏法”としてわたしたちの前にあらわになってきます。「本来本法性、天然自性身」という道元の疑団はここにきわまります。まさに”現成公案”の世界が開けてくることになります。

"透脱"の仏法

  道元の禅風を端的にあらわすことばがいくつかあります。それらのなかで、「身心脱落」とか「只管打坐」などのことばはその代衷的なものとしてよく知られています。これと並んで、「発菩提心」ということばも道元の禅風を味わう上で重要なことばです。

  『正法眼蔵』のなかにも「発菩提心」という巻があります。また、仏道修行の要諦を説く『学道用心集』は、「菩提心を発すべきこと」を第一則において、十ケ条の"学道の用心"が述べられており、発菩提心が仏道修行に肝要なことが示されています。

  「学道」ということばは、今日わたしたちが「学問」と呼んでいるものに相当するわけですが、その内容も方法も随分とことなっています。現在、わたしたちが学問という場合、真理の探究とか、今日大学で学ぶ学問の体系や処世のための知識の習得を意味しているわけですが、道元のいう「学道」は、大いにちがっております。道元においては、「学道」とは。"学仏道"ということを意味します。つまり、"仏の道"を学ぶことであり、"仏祖の道"を学ぶことになります。仏祖といいますと、わたしたちはすぐ釈尊を頭のなかに思い浮べますが、道元の場合には、ただ釈尊だけをいっているのではなく、釈尊の教えを代々にわたって承(う)けつぎ伝えてきた祖師たちも含まれます。つまり、仏々祖々の歩んできた道もまた"学道"に含まれることになります。まさしく、"嫡々相承(てきてきそうじょう)の仏法"と称されるゆえんです。「嫡」という字は、もともと中国では、"正妻・正夫人"とか"妻の産んだ子供"を意味しますから、このことばは、釈尊の教えを断絶することなく正しく承けついで、今日まで伝えてきた仏道を学ぶということになります。

  それでは、仏法は釈尊から始まった、つまり、釈尊が仏法なるものを新しく創始したということになるかというと、必ずしもそうだともいいきれません。確かに歴史的な事実としてはそういうことになります。しかし、仏典のなかに、「過去七仏」とか「七仏通誡偈」ということばがでてきます。釈尊すらも、新しく仏法を創り出したのではなく、みずから"古道を歩む"という認誠に立って教えを説いたことが仏典に語られています。妙ないい方になりますが、"仏陀以前の仏教"を学ぶということが仏教においては成り立つことになります。

  ここまできますと、学問といっても、今日わたしたちがいっているものとはよほど異なった性格を帯びてきます。知識の蓄積や知的体系の習得などで決着がつかないことになります。宗教に関わる知識にはつねにこのような事が問題とならざるをえません。あらかじめ設定された目標を、便利なマニュアルにしたがって習得するという功利的な"実学"の手法とは全くちがった性格のものということになります。それでは、このような学問への動機はどのようにしてなり立つかというと、道元にしたがえば"菩提心を発(おこ)す"ことにおいてなり立つわけです。さきに挙げた『学道用心集』の冒頭に「菩提心を発すべきこと」が掲げられているのはこのことを示しています。

  「菩提」ということばは古代インドのことばの"ボーディ″を音訳したもので、「道」とか「覚り」、「知恵」などを意味しています。道元はこれを"道を求める心""道心"とも述べています。しかし、わたしたちはここで早速つまずいてしまいます。学ぶ対象も目的もなく、「道」が何であるかということが分らずして道心をおこすことを求められてもいたしかたがないではないかということになります。そこでまず道元のことばに立ちかえってみましょう。「右、菩提心は、多名一心なり。龍樹菩薩の曰く、唯、世間の生滅無常を観ずる心も亦菩提心と名づくと。然れば乃ち暫く此の心に依るを菩提心と為すべきか」。菩提心はいろいろな名で説明されていますが、根本的には一つの心であるというのです。

  龍樹菩薩(2世紀ごろのインドの学僧)のことばにしたがって、"世間の生滅無常を観ずる心"がとりもなおさず菩提心であるといいます。さらに、「無常を観ずる時、吾我(ごが)の心生ぜず、名利の念起らず、時光の太(はなは)だ速かなることを恐怖す」と述べています。無常を思うとき、自己中心のよこしまな心も、他に先駆ける名誉心も消滅して、みずからの身命の実に脆(もろ)く儚(はかな)い存在であることに思いいたり、道を求めることに一途に精進することになることを示します。

  釈尊は、在俗のとき、生国カピラの城外における生老病死の四苦の省察が機縁となって菩提心をおこしたと伝えられます。「四門出遊」の話としてよく知られています。道元は、八才のとき母の死に遇い、立ち上る香火の煙をみてひそかに世間無常の理を感じて、求法の大願を立てたといわれます。

  無常感といえば、ややもすればこの世の一切の事を放棄断念する"諦め"につながり易い一面があります。事実、わが国の中世の隠者文学のなかには顕著にこのような傾向がみられます。しかし、道元においては、無常感こそ"真理の王国"を探究する根源となるものです。

  道元の思想を哲学とか思想の面からばかり取り挙げるのは、例えば盾(たて)の一面だけをみてほめ讃えて、他の一面を見落すことと同じです。わたしたちは、兎角に思想の論理的な側面ばかり評価して実践的側面を見落しがちです。今日の道元への関心にもこの傾向があるといえます。総じて仏教は、とくに道元の唱導する禅仏教は、坐禅をそのいしずえにおきますから、身体を通して体得するという実践的な面から理解していかなければその真実のすがたがみえてまいりません。主著『正法眼蔵』のなかに「身心学道」の巻があることがこのことを示しています。また、同じく主著のなかに「仏性」と名づけられる巻があります。"仏性"というのは、道元によれば、わたしたちの生きる現実世界を離れた、まったく別の清浄な世界をいうのではありません。現実の世界に生滅流転する一切の現象のなかに仏性をみることをいいます。

  現象というものは、時間、空間の制約をうけて時々刻々と生滅変化して止まないのを常とします。一方、このような生滅変化を越えた永遠の存在というあり方があります。仏教でも、教学上の一応の区別として「性相」というものを立てます。「性」が実在(法性・実相)であり「相」が現象(諸法・万法)に相当します。仏性は「性」ということになりますが、このように性と相に二分して終わるならば、それは仏教の本来の立場にならないことになります。性がそのまま相であり、相がとりもなおさず性であるといった境地です。「この山河大地みな仏性海なり」とか、「真如仏性のなかにいかでか草木等あらん。草木いかでか真如仏性ならん」といっているのが、このことを示しています。山川、草木、一木一草ことごとくがそのまま現象(相)であり、実在(性)であるわけです。ちょうど、魚が水を雛れて魚でなく、鳥が天空をほかにして鳥でないように仏性がそのまま草木であり、草木が仏性であるということになります。

  このような境地を実感として体得するためには、観念の世界のなかで合理的に解決することだけでは不充分です。どうしても、行に徹し切ることが求められます。繰りかえし"発菩提心"を重ねていかねばなりません。文字通り「千億発(ほつ)の発心は、さだめて一発心の発なり、一発心は千億の発心なり」という気概をもって道を求めなければなりません。このようにして"透脱の仏法"の世界が開けてくるということができます。

  芥川龍之介の小品『河倉』のなかにつぎのような寓話がでてきます。雌の河童が産月を迎えたとき、雄の河童が、頭をのぞかせた胎児に向って、この世に生まれてくる意志があるかどうかを尋ねる場面があります。胎児は母親の股のあいだから、そっとあたりを見回して、その意志のないことを告げます。すると、膨らんだ雌の河童のお腹が急にしぼみだして胎児は生まれなくなるという話です。これはもちろん河童の国の話のことです。人間は、まず生まれるという事実(厳然たる事実)があって、そのあとでいかに生きるかという生の意義を問う宿命を負わされている存在です。つまり、ひとは生の原因(受胎)は明白であるけれども、なぜ生まれてこなければならないかという、その根拠については永久になぞとして閉ざされています。ショーペンハウアーによりますと、人生は苦悩と退屈のあいだをあたかも時計の振子のように往復しているにすぎないといいます。苦を離れてひと息つくやいなや、たちまち耐えがたい無聊(ぶりょう)の思いにさいなまれることになります。パスカルの『パンセ』のなかにもこのような述懐があります。所詮、河童の国の住人になりえないわたしたちは、現実世界の生死、流転の不条理のなかで""の意義をたずねるほかないといえます。大聖釈尊やマイスター道元にならって。

  ギリシアの神話の伝えるシーシュポスは、自らの招いた不実の罪の代償として、神がみに刑罰を課されます。山の頂上に重い岩を担ぎ上げるという果てることのない労働を強いられます。頂上近くに押し上げた岩は自らの重みで再び麓に落下してしまいます。

  シーシュポスは、水久にこの作業を繰りかえしていかなければならないのです。しかし、かれのこころのなかで必ずやり遂げられるという"希望"ががれの一歩ごとの労働を支えているとすれば、がれの苦痛はどこにもないはずだとされています。これは、カミュの「不条理の哲学」におけるカミュ自身の解釈です。

  "医の道"についても同じことがいわれるとわたしは考えます。この世にまったく病気のない時代が到来する保証はどこにもありません。この世に不治の病があるという断定の根拠もまた存在しません。けれども、医の道に携わる人びとはその道を一歩一歩と進んでいかなければならないわけです。

  道元の説く"只管打坐"の仏法もその意味では同じことをいっていることになります。証悟を目的視し、修行を手段視することのなかでは、仮象の浄土をみるばかりで真景の浄土はみえてきません。つまり、仏性の世界は幻想に終わってしまいます。今日ただいまの自己の課題に全身全霊を注ぎ徹していくところに"透脱の世界"(仏性界)が露われてくるといえると思います。

天女降華 ―無執着のすすめ―

  『維摩経』という経典の「観衆生品」につぎのような挿話がでてきます。「維摩詰の室に一天女あり。諸の天人を見、所説の法を聞きて便ちその身を現わし、天華を以って諸の菩薩・大弟子の上に散ず。華、諸の菩薩に至れば即ち皆堕落す。大弟子に至れば即ち着きて堕ちず。一切の弟子、神力をもて華を去れども去らしむること能わず」とあります。

  ここで維摩詰(ゆいまきつ)という名前がでてきますが、これはこの経典の主役を演ずる在家の居士(こじ)の名前です。しかし、この場面では直接には関係いたしません。とにかく、この維摩詰の部屋の中が舞台となります。多くの菩薩や大弟子たちの、釈尊の傍近くで平素修行に励んでいる人たちが坐禅を組んでいます。そこに一天女が現れて、頭上から花びらを撒きます。すると、菩薩の頭上に降ってきた花びらはするすると肩を滑って地面に落ちてきたのですが、大弟子たちの上に撒かれた花びらは、なぜか仏弟子たちの頭上といわず肩といわず、皆ぴったりとくっついて離れようとしません。仏弟子たちはそれを懸命に払い除けようとしますが、いたるところにくっついて一向に取り除くことができません。弟子たちはいよいよ慌ててしまいます。これは何を言おうとしているのでしょうか。

  釈尊の教えでは、戒律として修行者は香華などの飾り物を身に着けてはならないとされています。香水や華飾りなどの装飾品は修行の妨げになるとして禁じられています。現在でも、東南アジアの仏教圏の比丘(びく)たちはこの戒律を忠実に守っているといわれます。世俗の欲望を退けて修行に専念することの意義は、それはそれとして比丘たちにとって尊いあり方であります。戒律を重視する釈尊以来の仏教の伝統を規範とする南方の仏教では当然のことです。

  ところが、仏教の伝統にはそれとは異なった考え方に立脚する仏教があります。大乗仏教と称されるものがそれです。釈尊の時代から数百年ほど経った時代になって、従来の厳格な戒律重視の仏教とはスタイルの違った仏教が興ってまいります。世俗の生活の中に宗教的意義を認めようとする大乗仏教が現れてきます。冒頭に挙げました『維摩経』はこのような立場に立つ初期の経典の一つです。

  さて、この経典にこの“天女降華”の挿話がでてくるのはどういう意味をもつのでしょうか。日夜修行に明け暮れる修行憎(比丘)は、釈尊の教えに背くことなく、戒律を忠実に守り修行を深めていくことに意義を認めて、俗世の関心事に心を奪われることなく動めなければなりません。このような求道の姿勢自体はまことに崇高であるのですが、そのために世俗と出家のあいだに差別をおいて、後者の道が前者の道より尊いと思い込むことになると問題となります。大乗仏教が興った動機のーつがこの点にあったといえます。大弟子たちはいずれも釈尊の膝下に侍(はべ)り、目他ともに道心堅固の士と認める仏弟子の中の代表であります。十大弟子で知られる阿難尊者や舎利弗尊者などです。これらの大弟子たちは、自ら目負の心を抱いていたかも知れません。このような自負の心が出家と世俗とを弁別していることを戒めているのがこの経典の趣旨です。

  一方、菩薩たちはこのような差別の心を超越して自他の区別なく浄・不浄を離れて修行に努めているのですから、いくら上から花びらが降ってきても粘着することがないのです。花びらは頭や肩を滑って地面に落ちてしまいます。どうやらこの経典の意図するのは、花びらが大弟子たちのからだに着いて落ちないのは花びらの側に非があるのではなく、大弟子たち、ひいてはわたしたちの側にあることを語っているようです。たとえいかに崇高な心掛けであっても行為であっても、当人の側に執着するところがあったならば迷いとなり無益だということを教えているといえます。

  この経典の中で大弟子とされている人びとのことを阿羅漢(あらかん)といいます。原意は“尊敬に値する、布施を受けるに値する聖者”を意味しますが、大乗仏教の立場からは、自己の解脱のみに関心を寄せ、利他の心をもたない独善的な修行者ということになります。これに対して菩薩は“解脱を求めるもの”とか“解脱を具えたもの”と解し、とくに悟りをすでに具備して世俗の人びとの救済に努める人びとを意味します。世俗の人びとに手を差し延べるためには、まずさきに聖俗、美醜、浄不浄の思いから離れなければなりません。『維摩経』はこのような無執着のあり方を説いているといえます。この経の「観衆生品」という章は、衆生をいかに観るべきかをテーマとして構成されていることになります。

  現代はまさしく“痛める社会”といってよい時代であります。わが国も大戦終結このかた半世紀のあいだに、敗戦の荒廃からの驚異的な経済復興を遂げ、いっときは繁栄をほしいままにした時期もありましたが、やがてバブルの崩壊、金融破綻などの苦渋を体験し、いまだ曙光を見いだせない状況にあります。溢れる“モノ”の洪水に身をまかせて、慢性化した欲望と消費の再生産から脱却できず、不安のただ中を浮沈しているといえます。このようか現代の状況の徴候の源を辿れば18世紀後半の産業革命にさかのぼることになります。“最大多数の最大幸福”の人類共通の夢は、その後の科学・技術の発展の恩恵により驚異的な繁栄をもたらし、当初はこの人類の夢を叶えるかにみえた感もありました。しかし、やがて富の不均衡、大量失業による社会不安、そして大戦の誘発などの世紀末の状況をもたらしました。そして、その後また100年を経過して再び人類は世紀末の状況に直面したままの状況にあります。

  かつて日本に来たこともあるエーリッヒ・フロムというアメリカの社会心理学者が、いまから20年あまり前、『持つことかあることか』(To have or to be)という書物を著しています。「持つ様式」の生き方と「ある様式」の生き方の違いを論じて、現代がまさに「持つ様式」の生き方の時代であると批判しています。さきにいいましたように、わたしたちが大量消費社会にどどっぷり浸りきって、“モノ”を所有することにあくせくしている現代の状況のことをいっているのです。これに対し、「ある様式」の生き方は、“モノ”を所有することよりも、この世に“いかにあるか”を追求することに意義を見いだすことをいいます。イエスしかり、ソクラテスしかり、老子しかり、なかんずく無執着・無我を説くブッダこそ、この「ある様式」の生き方の典型として賞賛を与えています。このような後者の生き方こそ、現代の“ヒズミ”を克服する唯一の道であることを提唱しています。

  フロムは、さらに禅仏教の西欧社会への紹介に生涯を捧げられた鈴木大拙師の文を引用して仏教の“無執着”の生き方に賛意を示しています。ここにそれを再録して紹介してみましょう。それはテニスンの詩と芭蕉の俳句の比較を通して、西洋と東洋の心のあり方の違いを指摘しています。

  ひび割れた壁に咲く花よ

 私はお前を割れ目から摘み取る

 私はお前をこのように、根ごと手に取る、小さな花よ

 -もしも私に理解できたらお前が何であるのか、根ばがりでな$/!"$*A0$N$9$Y$F$r-

 その時私は神が何か、人間が何かを知るだろう

 〈テニスン〉

  眼をこらして見ると

 なずなの咲いているのが見える

 垣根のそばに!

 [よくみればなずな花咲く垣根かな]

 〈芭蕉〉

  ここで、テニスンはどうやら自分の関心の対象である花を“所有する”ことに心を向けているようです。そして、その花を摘みとり、根ごと手に取ることに興味を示します。つまり、少しおおげさな言い方になりますが、“破壊する”(摘み取る)ことに“所有する”(根ごと手に取る)ことにこだわっているかのようにみえます。フロムはここに科学・技術の長所と短所とを認めているようです。一方、芭蕉の俳句では、作者はもっぱら“見る”ことにだけ関心を寄せています。この作者は花と花の咲いている垣根と一体化すること、ただ自然と“対面すること”に意識を留めるだけで終始しているようです。芭蕉の場合には花を“所有する”とには全く関心がうかがえません。フロムはこの俳句の中に無執着のよりどころを認めていることになります。むろん、この2つの詩歌は、詩歌として味わうことで十分であって、それ以上のことを求める必要はないのですが、人間の生き方、あり方を象徴的に示している好例になると思います。

  所詮、人間も生物です。生きていくために食を摂り、モノを所有することから完全に離れることはできません。しかし、無制約な欲望の充足だけで満足してはいけないことも事実です。“持つ”ことから“ある”ことへの転換が図られなければならないと思います。 

  このような点から考えてみますと、東洋の思想や宗教、なかんずく禅仏教には学ぶべきことが多いといえます。江戸期の禅僧であり、詩人としても名高い良寛の残した漢詩の中につぎのように詠まれています。

  花無心招蝶

  蝶無心尋花

  花開時蝶来

  蝶来時花開

  吾亦不知人

  人亦不知吾

  不知従帝則(法・摂理)

  この詩で、花も蝶もともに地上に生きる生物として、文字通りには、“無心”に互いを求めているわけではありません。生の営みを完うする意図のもとに互いを招き、尋ねています。しかし、このようにこの詩を理解しようとするのは、さきに述べた“待つ様式”の理解になります。良寛はそのように詠んだのではなく、ただ”ある様式”でこのような詩を詠んだとみるべきでしょう。わたしたちも同じくこの境涯でこの詩を味わう必要があります。禅の原風景もこのことのほかに求めても見いだせないことになります。「不知従帝則」の結びの句ををじっくり味読しなければならないと考えます。

無常を観ずる

  菩提樹下における成道から入滅に至るまでの45年の釈尊の生涯は、ガンジス河中流域を中心とする教化活動に捧げられたといえます。当時、この地域はたいへん活気に満ちていました。東にマガダ、西にヴァッツァ(ヴァンサ)、北にコーサラ、そしてガンジスの支流ガンタク川の東方にはヴリジ(ヴァッジ)といった新興の商業都市が栄えていたといわれます。釈尊は、これらの地域での説法遊行の旅を繰り返しておりました。そして、最後の旅がマガダ国の首都ラージャグリハ(王舎城)からはじまります。この都の東北方に位置する鷲の峰(霊鷲山)に行脚の足をとどめた釈尊は、アジャータシャトル王(阿闇世王)の重臣への説法を終えて、弟子アーナンダ(阿難)を伴い、ナーランダ、パータリプトラなどの集落を経由しながら、商都ヴァイシャーりーにはいります。そこでたまたま雨期を迎えた釈尊は、この地で弟子たちとともに雨安居(あんご)の修行にはいります。

  “安居”とは、まいとし定期的にこの地域に見舞う雨の季節に由来する仏教サンガの修行の制のことをいいます。インドのことばで、ヴァルシャ(ヴァッサ)といっています。地域によって若干の違いはありますが、だいたい5月または月中旬以降になりますと、毎日スコールのような雨に見舞われる季節がおとずれます。いわゆるモンスーン地帯に特有の季節です。すると、恵みの雨によって植物が生い茂るのとひきかえに、道はぬかるみ、水も混濁します。これは、三衣一鉢のほかは何も所有せず、各地を遊行する比丘の生活を、事実上困難なものにしてしまいます。そのうえ、路上に生息する毒虫や小動物が活発に動き回るため、比丘は生命の危険と無益な殺生を避けて、ほこらや樹木の下に滞在して、一定の期間、修行と学習に専念するわけです。年に1度約3ヵ月間この地域はこの雨の季節を迎えます。

  このヴァルシャということばに、雨という意味と年という意味とがあるのは意味のあることです。この雨期を迎えると、前の雨期から1年が経過したことを意味します。わが国のように、年間を通じて晴雨の繰り返しを経験するのとはずいふん様子がちがいます。この季節、仏弟子としての修行と反省に専念する慣習が、教団のなかで制度として定められたわけです。わが国でも、禅宗などでこの安居の制が現在でも行われております。

  すでに、齢80を数えた釈尊は、侍者アーナンダにつぎのようなことばを告げます。

  わたしはもう老い衰えて80歳に達した。古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動くように、わたしの身体も革紐によってやっともっている。……………この世で自らを灯明とし、自らをよりどころとして、他をよりど$3$m$H$;$:!"K!$rEtL@$H$7!"K!$r$h$j$I$3$m$H$7$F!"B>$r$h$j$I$3$m$H$7$F$O$$$1$J$$!#

  このように、よく知られている “自灯明法灯明´の訓戒を示して、いくたびかの遊行の地、ヴァィシャーリーの都への追憶の思いとともに、自らの死を予見したと経典は伝えています。

  ヴァィシャーリーをあとにした釈尊は、いくつかの村や町を経て、パーヴァーの都に着きます。そこで鍛冶工の息子チュンダの供養を受けます。その際に釈尊が摂った食べ物が何であったかは定かではありませんが、

パーリ語の経典には“スーカラマッダヴァ”と記されています。それは柔らかい豚肉の料理とも、栴檀の茸料理ともいわれており、確かではありませんが、とにかく釈尊は、この料理を摂ったのち食中毒の症状に見舞われます。激しい痛みに堪えながら、北への道をクシナガラを目指して歩み続けます。そして、その地にほど近い河畔のサーラ樹(沙羅樹)の林に至って尽き果てます。侍者アーナンダを促して、サーラ樹のあいだに床を作らせて横になります。経典の一つは、サーラ樹が時ならざるに花開き、天空より香華が降りそそがれ、妙なる音楽が虚空に奏でられたと語っています。これは、いうまでもなく、聖者の死を荘厳する多くの仏伝に共通する装飾的な描写ではありますが、つぎのようなことばが経典作者(仏弟子)の手によって伝えられていることを知るとき、釈尊の精神が誤りなく仏弟子たちに承けつがれていることを確認することができます。

  サーラ樹が時ならざるに花開き、天空より香華が降りそそがれ、妙なる音楽が虚空に奏でられようとも、このようなことで、如来は敬われ、尊ばれ、供養されるべきではない。比丘、比丘尼、優姿塞(うばそく)もしくは優婆夷(うばい)(在家の男女の信者)にして、よく法と随法(法にもとづく実践)とに住するものこそ、如来を敬い、尊び、供養するものであることを知らなければならない。

  さらに、臨続をまえにした釈尊は、アーナンダたちの弟子を諭して、「教えを説かれた師は、もはやいないと思ってはならない。わたしが説いた教えとわたしが定めた戒律とが、わたしの死後にお前たちの師となるであろう」と告げて、最後のことばを示します。

  さあ、比丘たちよ。お前たちに告げよう、「もろもろの現象は過ぎ去る(諸行無常)ものである。怠ることなく修行の完成に努めよ」と。

  実にわれわれの現実世界のもろもろの事象には、何ひとつとして固定的なものはなく、刻々と移ろいゆくことを定めとしています。この現実の真相をしっかり受けとめて、揺ぎのない生き方に住することこそ釈尊の遺訓の眼目であります。原始経典のひとつ、『スッタニパータ』(経集)はつぎのような一節を伝えています。

  無花果(いちじく)の樹の村の中に花を探し求めても得られないように、もろもろの存在の中に堅固なものを見出さないものは、この世とかの世とをともに捨てる。あたかも蛇が旧い皮を脱いで捨てるがごとくに。

  蛇は生きているあいだにいくども脱皮するといわれています。人間の生涯も、これと同様に、いくたびも脱皮、こころの脱皮を繰り返していくことが必要です。自己に纒(まと)うさまざまなもの、怒り、貪欲、迷妄などを脱ぎ捨て、本来みずからに属していないものをいたずらに追い求めることなく生きることが、この世とかの世を捨てることの真意です。これが“涅槃”ということです。わたしたちも日々の生活の中に涅槃の真意を生かしていくこと、すなわち精神の脱皮、心の脱皮を重ねていくことが必要です。”この世”(世俗)を捨てることのなかに多くの宗教の意向があるとするならば、釈尊の宗教は、ひたすらに現世の苦悩を厭い離れて楽園を追い求めることではなく、“この世とかの世とをともに捨てる”ことが肝要であると、この一節は教えています。

  釈尊のほぼ半世紀に及ぶ説法の内容は、時にふれ所により万別でありますが、その基調とするところは、法(ダルマ)の体得、体現ということに集約されると思います。法とはこの世の如実(ありのまま)の心理真相にほかなりません。そして、この世のあらゆる現象に固定性を認めないことです。われわれは、ややもすれば目前の事象に心を奪われ、過ぎ去ったものにこだわり、また未だ到来しないことに一喜一憂することを常としがちです。そのため、苦悩の大海に浮沈することを余儀なくされています。すなおに、もろもろの存在の中に堅固なるもの(固定性・常住性)をみることなく、この世とかの世とをともに捨て去って生きていかなければならないのです。”もろもろの現象は過ぎ去る”という釈尊の最後の遺戒をじっくりと味わってみることが必要です。

  ひとが一箇の求道者としての道を歩みはじめる動機は、それぞれに個性的です。釈尊にはじまる仏教の伝統は、インド・中国の思想風土に洗練されつつ、わが国にもたらされました。しかし、それは中国からの直輸入のかたちで受け容れられ学問仏教として隆盛の途を辿ります。とくに平安期に至って、比叡山はそのメッカとして学問仏教の権威を確立します。法然をはじめ鎌倉新仏教の祖師たちは、競ってここに登って仏教の教学を究めていきます。当時の比叡山は、多くの学匠たちが教学の研鎮に心血を注いでいましたが、そのなかには当代の名僧知識となって天下に名声を馳せ利達を得ることに汲々としている僧たちも当然いたわけです。そのような状況のなかで、道元も教学の研究に没頭していきます。その過程で、道元は大いなる疑問に直面することになります。

  師、如浄のもとでの坐禅弁道のなかで、道元はついにひとつの転期を迎えます。如浄に相見した同じ年の夏安居(げあんご)の終りをつげるころ、師は暁天(きょうてん)の坐禅のとき坐睡の雲水を叱咤して、「参禅は須(すんから)く身心脱落なるべし、只管に打睡して什麼を為すに堪へんや」と大喝して警策(きょうさく)を振います。この師のことばを耳にした道元は、積年の大疑を払拭します。ただちに方丈に上って師の前に「身心脱落」の悟境を突きつけます。師はついに偽りのないことを確認して印可の証を与えます。道元は、“ここに一生参学の大事”を成就したのです。

  4年の中国留学から帰国した道元は、宇治興聖寺において、もっぱら“坐に生きる”ことを標榜する「只管打坐」の曹洞禅を打ち立てていきます。やがて都を避けて、越前の大仏寺(後の永平寺)を畢生の道場として、禅の参究に生涯を捧げます。「学道は須(すべから)く吾我を離るべし」、「吾我を離るるには、無常を観ずる是れ第一の用心なり」などの訓戒を会下の僧に繰り返す道元の姿勢の中に、釈尊の伝統が脈々と生きているということができます。わたしたちも同様に、吾我を離れ無常を観じて、“精神の脱皮”こころの脱皮”を繰り返していかなければならないことになります。

|不落因果」と「不昧因果」

  21世紀はこころの時代であるといわれています。たしかに、前の世紀には2つの地球的規模の大戦をはじめとして、大小さまざまな国際間の紛争を人類は経験してきております。この100年間から戦争をみなかった時期を数え上げるとすると、はたしてどれだけの年数があるでしょうか。歴史の表面に記録を留めなかったものまで含めたならば、平穏無事の期間などほとんどなかったといってもよいのかも知れません。あるいは、このような仮定の問いそのものが無意味であるともいえます。この世紀がこころの時代であるということばには、人類の平和への強い期待、願望のおもいが込められているといえます。

  一般的にいって、争いの根底にはつねに、正邪、善悪、是非といった”あれか、 これか”という二者択一の判断が付きまといます。そして、それはグローバルな国際的規模の場合はもちろんのこと、小規模な体制や階層内の紛争や、またわたしたちの日常的レベルの生活の場においても同様です。そして、時にはそれがもたらすある種の緊張の高まりによって適度な心理的充足感に浸ることがあることも事実です。次元の違いはそれぞれですが、わたしたちの日常生活はさまざまな価値の取捨択一を通して、ある種の統一がほどよく維持されているという一面があります。しかし多くの場合、この統一が破られ、おおきく逸脱することも事実です。二者択一の判断の背後には自己中心的な思い込みが覆蔵しています。”欲望”といわれるものがそれです。仏教の側からいえば”我執”、”煩悩”ということになります。適度な統一がつねに矛盾なくわたしたちの生活を円滑に維持してくれたら問題はないのですが、実際にはこの期待がつねに破られてしまうことは、だれしも経験するところです。

  一見、平穏無事な統一のある生活も些細なことからもろくも崩れてしまいます。また、このような際立ったかたちをとらないまでも、曖昧模糊とした気分に沈み込むことも、現在では珍しい現象ではありません。平穏な生活に浸っていながら、こころの片隅に”何となく物足りない、落着かない”といったような不安定な気分に襲われることは、多くのひとの経験するところです。このような傾向は、現代の複雑な生活様式のなかで、ますます顕著になってきています。しかし、この現象はいまになって生まれたわけではなく、古く人類の精神史の歩みとともに存在していたと思われます。つまり宗教の起源と軌を一にするといえますが、その顕在化は、近代以降の産業構造の変革とそれに伴う社会構造に起因することは否定しがたい事実です。

  19世紀前半に生きたデンマークの実存主義者キェルケゴールの指摘する”不安”の概念や、20世紀中頃のアメリカのプラグマティスト、デューイのいう”何かよからぬもの(Something Wrong)”といった病的な気分が注目されるようになったことが、現代の病める意識をよく反映しています。つまり、現代は確たる生きる指針を見出しがたい時代であるといえます。技術文明の飛躍的な進歩によって、人類は過去に手にすることのできなかった便利さや快適さを享受することができました。ところが、その代償として、他方では得体の知れない”不安”のまっただなかに置かれていることも否定しがたい事実です。科学のもたらした恩恵に浴しながらも、落着きのない生活を余儀なくされているのが現代の実像であるといえます。

  宗教の内実は別として、仏教やキリスト教、そして最近ではイスラム教もわたしたちの視野に入ってきましたが、これらの既成宗教から近年わが国で顕在化してきた先鋭的なカルト宗教集団に至るまで、宗教がひとびとの関心を集めていることが現代の病弊をよく示しています。つまり、現代は生きることが難しい時代であるということができます。

  わたしたちの日常の生活には二つの次元を異にする局面があります。その一つは、日日の生活の場において遭遇する現実のなかに相応の価値を見出して充足していく日常的な世界です。いま一つはこころのなかに人生の意義を探求していく価値的な世界であります。前者は功利的、合理的に生活を享受する世界であり、後者は没功利的にこころの豊かさを追究する世界であります。霊性の世界といってもよいかも知れません。人間はこの二つの世界のあいだで揺れ動いている存在ということになります。ひとは生涯を通じて前者の生き方に留まることはできません。機に応じて二つの世界を往来しているのが現実の姿です。世の多くの宗教が成立する根拠がそこにあるといえます。”貧しきものは幸いなり、天国は近きにあり”とか”諸行無常、一切皆苦”のことばが真実味を帯びてくるのもここにあります。

  エーリッヒ・フロムという社会心理学者が、20年あまり前に、『持つことか、あることか』(To have or to be)という書物を著しています。「持つ様式」の生き方と「ある様式」の生き方の違いを論じて、現代がまさに「持つ様式」の生き方の時代であるとして、「ある様式」の生き方を推称しています。大量消費社会にどっぷり浸りきって、”モノ”を所有することにあくせくしている現代の状況を批判して、この世に”いかにあるか”を追究することに意義を見出すべきだといっています。イエスしかり、ソクラテスしかり、老子しかり、なかんずく無執着、無我を説くブッダこそ、この「ある様式」の生き方の典型として賞賛しています。このように、フロムは”モノ”を所有することを追究する生活享受型の生き方に対して、価値追究型の「ある様式」の生き方こそ、現代の”ヒズミ”を克服する道であることを提唱しています。

  ところが、もしわたしたちがこの二様の生き方のいずれかを選びとって、一方的に価値の是非を問おうとすると、新たな差別のなかに堕ちてしまうことになります。所詮(しょせん)、わたしたちは、この二つの様式に完全に決別することはできません。”ある様式”の生き方を勧める宗教も、時としてこの陥穽(かんせい)に迷い込むことがあります。つまり、山のかなたに幸せを尋ねて涙して空しく帰路に着く轍(てつ)を踏むことになってしまいます。人生の不幸は、この二つの様式の世界を二つの別々な世界と思い込んでしまうところにあるといえます。この二つの世界も一つの真実の世界に根をもっていることに気付く必要があります。そこで、ひとつの例話として、中国の禅話にでてくる「百丈野狐」の逸話を紹介しましよう。

  唐代の禅匠として知られる百丈懐海禅師(749814)にまつわるつぎのような問答が伝えられています。これは『五灯会元』という書物のなかに出てきます。百丈山に住する百丈禅師が、禅林の日課にしたがって、いつものように説法を終えて帰ろうとすると、その法座に常連として説法を聴いていたひとりの老人が、師(百丈)の前にすすみでてつぎのように問答をしかけます。わたしは、大昔この山の和尚として修行をしておりました。ある時に弟子のひとりが、「大修行底(てい)の人、還(かえ)って因果に落つるや、否や(よく修行のできた人でも因果の法則を免れることはできないでしょうか)」と問われて、「不落因果(因果に落ちることはない)」と答えました。そのとたん、わたしは狐の身に落ちて五百の生涯を生まれかわり死にかわりして、今日までまいりました。どうか師の力のあることばによって狐の身から救いだして下さい、といって再度「大修行底の人、還って因果に落つるや、否や」と百丈に問いかけます。すると百丈は言下、「不昧因果(因果を昧(くらま)さず)」と答えます。この老人は即座に大悟したと述べています。この”不昧因果”ということは、因果の法則を胡魔化さずそのまま正しく受け取るのが肝心だ、ということを教えていると理解しなければならないと考えます。野狐の姿に堕ちた老人は、因果の法則を自分の外に置いて、その因果の理(ことわり)に自分が堕ちるか堕ちないかを未だ意識していることになります。あるいは、みずからの修行の効果として”不落因果”というプレミアムを期待しているとみることもできましょう。「不落因果」という答えのなかにそれがうかがえます。語録には、この問答のあと、百丈山の裏山に一匹の野狐の屍骸が横たわっていて、百丈がていねいにこの狐を葬つたという意味深長な”落ち”までついています。

  人間という存在は、日常的な行為においても道徳的な行為においても、その行為の主体であるわけですが、行為とは別に独立した主体というようなものがあるわけではないのです。行為そのものが主体であります。人間的存在という自我がまずあって、それに行為とか価値などが、あたかも付着物が身体に着くようにまとわるのではありません。古代インドにはそのような考え方もたしかにありましたが、”無我” の立場に立つ仏教はこのような考え方はいたしません。行為そのものが人間的存在の証(あか)しであります。行為というのは、仏教のことばでは”業”といっております。さきに述べました古代インドの考え方のように、なにか得体の知れない業という付着物が自分にまとわりつくということではありません。ひととしてこの世に生を享けると同時に、業そのものとして生きるのが人間の存在であります。業に繋がれているとか、業に引かれるといういい方$,$h$/$5$l$^$9$,@5$7$/$"$j$^$;$s!#6H$H?M$H$O0l$D$G$"$k$H$$$&$Y$-$G$"$j$^$9!#?M4V$O6H$=$N$b$N$G!"$=$7$F!"$=$N;vfLn8Q!W$NOC$r$8$C$/$j$H4aL#$7$F$_$kI,MW$,$"$j$^$9!#

  古仏道元のことばに、「花は愛惜に傲り、草は棄嫌に生う」と述べられています。花はだれにとっても美しく咲き誇っているのが好ましいに違いありません。しかし、いつまでも美しいままであり続けることはできません。いつか凋み朽ちます。また、庭に生える草は汚く見苦しいけれども、どんどんはびこっていきます。すべて自然の理にしたがって花はひとの惜しいという思いに関係なしに散り、草も容赦なしにはびこっていきます。この道元のことばも「不昧因果」の理と同じことを教えていることになります。「因果は年(れきねん)として私なし」という道元のことばがあります。”持つ様式”の生き方と”ある様式”の生き方の根底にはたらく理法をしっかりと見据えなければ、道はいつまでたっても開かれてこないということになります。

 

 

   
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