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坐禅入門

坐禅といえば、悟りを開くことだと、いつも思われている。

そしてその悟りを開くということは、修行の結果、本当の自由の世界を開くことだというのが一般の印象のようである。

いつでも特効薬的なものを求めている人間には、このように考えられている坐禅は、うってつけのものでよくブームに乗る。果たしてこのような人間の期待に禅が応じているのであろうか、またそのようなことが、真の人間の救いであるのであろうか。

人生というものには、いつも苦悩することは、一切御免蒙って、いつでも幸福で満足していたいという、定まった景色がある。

人間は生涯、この景色で終始している。

坐禅を求めようとする人も、この生理的宿命にしたがって志向したまでのことであると見る時には、別に驚くことはない。

人間はこのように、人生を送っているが、これは人体の生命活動の中での景色であって、かれらにはこの景色以外には何もあり得なかったのである。 人間には思考することがある。これがかれの人生の根幹ではあるが、ただし、それは身体の生命活動の一表情であり、その一景色であった。しかし一般人には、決して一表情ではなかった、故にかれらには、これらを越した人体の事実は実感的としてはあり得ない。

禅語に「(じん)十方界(じっぽうかい)真実(しんじつ)人体(にんたい)」という有名な一語がある。

「尽十方界」とは宇宙全体、大自然のことである。

そして真実とはこの宇宙全体の事実であった。

かくて人体はこの真実であったというのである。

人間にとっては、宇宙は人体で、これが全てであって、どんなに暴れて

人体の生命活動の範囲を飛び出ることは絶対に出来ない。

すなわち人間はこの真実の中に終始している。 したがって、真実は、人間が特殊な体験によって獲得するものではなかった。 人間がどのように真実を考えても、それはかれが考えたまでのことであり、感じてみても感じたまでのことであるに過ぎなかった。

人体は大自然の生命活動をしている。

そしてその人生はその真実の中での一様相で、人間にはこの一様相が総てであり、その中で千変万化の感覚に右往左往しているのであった。

われわれの日常生活はこの右往左往が総てであって、それがいつも喜びを求めて、苦悩を脱出しようとしているパターンであった。

これとても実に、尽十方界真実人体の生命活動の中での、千変万化の賑やかな景色であったのである。

したがってわれわれの日常というものは、人生の景色の中で終始して、尽十方界真実人体はあり得なかったのである。 ゆえに真実はこの人生を超越しなければ絶対の真実はあり得ないのであった。 結局、真実を追求して、どんなに喜びを得ても、それは真実の解明でも何でもなく、それは追求によって、陶酔に結集したまでのことであった。したがって人生を超越した尽十方界真実人体の真実は、一体どうしたらよいというのであろうか。

ここで坐禅にご登場を願わなければならない。 実は坐禅の修行は「無所得、無所悟」をつとめることであった。 つまりこれは人生を放棄して、尽十方界真実人体を実践することであったのである。

ゆえに坐禅は、精神統一でも瞑想することでもあってはならなかった。(Bそれでは「無所得、無所悟」を実際どういうようにすればよいのかというと、道元禅師の『正法眼蔵』生死の巻のつぎの言葉を紹介しよう。ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる。ということである。

これは外ならぬ坐禅の「無所得、無所悟」の修行の実態であった。

ここでわれわれには、ただ正身端坐することだけが要求されるのである。 正身端坐を厳密に行ずることが「無所得、無所悟」の行であった。 かくて正身端坐することが、真実の仏を修行することであったのである。正身端坐には自分の欲するもの、追求などは一切放棄され、仏が仏であるための修行であったので、坐禅のことを仏行といわれている。

さて正身端坐を実践するのには、まず壁に向かった静粛な場所の確保が大切である。すなわちそれは人間生活にかかわり合いのないところでなければならない。場所の確保が出来たら、まず、坐る場所に大き目の坐蒲団を敷く。そしてその上に()()を置く。坐蒲は直径三十四センチ、厚さ十一センチくらいの丸く作ったもので、内容にはパンヤをいれる(用布は別珍が最適、内容はパンヤが最適、ウレタン類は不可)。

坐禅は尽十方界真実を修行するものであるので、その場所は単なる場所ではなく、これとも一体の修行をしなければならない。 そこで必ず壁の方に向かって合掌して低頭をしておじぎをする。それから右廻りをして後向きになって同じように合掌低頭するのである。

一般には壁の方に向かっての合掌低頭を隣位問訊(りんいもんじん)といい、後向きのを対坐問訊(たいざもんじん)といって、一応、前後左右の隣位で坐禅しているものにたいする挨拶といっているが、これは隣位にたいする挨拶だけの意味ではない。

場所と一体の行をするのであるから、当然の敬謙の表明である。

まず腰を坐蒲の上に降す、そして一応、「あぐら」を組む。

その時に、背骨を坐蒲の真中に真直ぐに立てるようにして、頭で天を突くようにする。しかし上半身には力をいれない、したがって腰をぐっと一段高くしなければならない。坐蒲は腰の下のクッションというよりは、腰を高くする役目の方が重要である。腰が一段と高くなると、自然と両膝が下がって、ピッタリと坐蒲団に(坐蒲団を使用しない時は畳に)密着するようになる。左右の膝の間隔は十分に開く。そうして足首を、最初に右を左の内股に乗せ、それから左を右の内股に乗せる。

これを結跏趺坐(けっかふざ)といい、ただ左の足首だけを右の内股に乗せる坐り方もあるが、これを半跏趺坐(はんかふざ)という。いずれにせよ坐った時には、必ず両膝がピッタリと下に密着して、脊椎を頂点として前方に正確な二等辺三角形が開くように坐るのである。このように坐ると、真直ぐな姿勢になることが出来る。 かくて腰にきまりがついて、直立不動の姿勢をする。顔は正面を見て、眼は普通に開いて視線は四十五度ぐらい下方向に向ける。この時に体の重心が一番低いところに定まり、左右前後に傾いていないので、それらを支える体力の負担はない、したがってこれ以上安定した姿勢はないわけである。

しかしわれわれの日常生活は、それぞれの生活の癖があるために、もっとも安定した姿勢がかえって窮屈なことになっている場合もある。やはり坐禅は人生を超越した尽十方界の真実人体を実修し実証するものであるので、どこまでも正身端坐を努力しなければならない。道元禅師の「打坐は、即ち正法眼蔵涅槃妙心なり」という言葉を、ここで坐禅の修行者は銘記しておいて貰いたいものである。坐禅は「身心を調えてもって仏道に入るなり」(『学道用心集』)というものであった。

足の組み方は以上のようである。結跏趺坐でも半跏趺坐でも、必ず左足が上にあるが、その左足の上に右手の掌を仰向けてのせ、さらにその上に左手の掌を仰向けにして重ねる。そして両手の親指は一直線にして両端が軽く触れ合う様にし、その接触点は臍にたいするようにして正確にこの手の格好を保持するよう、坐中始終努力するのである。

坐禅は終始一貫して気力を充実させていなければならないのである。しかし坐禅の第一の障害は疲労と睡魔である。それらの一番最初に現れるのは手先であるので、この手の格好の保持に努力することが、取りも直さず正身端坐の努力になる。

姿勢が一応調ったところで、調息致心(ちょうそくちしん)ということがある。

調息(ちょうそく)ということは呼吸の調え方である。しかしこれとても自己流にある目的のための呼吸法であってはならないので、道元禅師では数息観は厳しく禁止されている。そして「非長非短」にせよと教えられている。つまり呼吸には、長も短もない、開いている鼻孔を窓口として、空気が自然に吸込まれて、また吐き出されるといった具合で、決してそこには人間の介在があってはならない。これは結局、坐禅の正身端坐のその人体のもっとも安定した基本姿勢における、生命活動のリズムの表現が呼吸であったのである。坐禅はその本来のリズムを努力しなければならないことになる。いうならば本当の調息は正身端坐を保つことであり、正しい調息が行われることによって正身端坐の保持があるということである。

致心(ちしん)ということ、つまり坐禅中の「こころ」の持ち方について述べると、その要点は「非思量」ということである。これは一体どういうことかといえば、心意識の活動とても、尽十方界真実人体の生命活動の表情であることには変わりはない。その活動の片々によって人間は思考したりして人生を形成している。その形成以前は脳の生理活動、人体の生命活動であった。思考したりして人生が形成されてから自我が暴走を開始するのである。正身端坐の坐禅は人生以前の尽十方界真実人体を修行するのであるから、「こころ」の方も自然のまま、人生以前のものでなければならない、思考以前でなければならない。 その努力が「無所得、無所求」であった。

大自然には、つねに千変万化がある。どの状態が最高のもの、どの状態が真実だということはない。生命活動も同じである。坐禅には一切自分の好みの状態を追求するものではない。大自然の状態そのものを行ずるのである。この大自然の状態をそのまま、自己の追求を放棄して努めることを「非思量」というのであった。ここで古老の「心の中に何が浮かんでも、浮かびっぱなしにして、追うな追うな」の教えが、素晴らしく感ぜられるのである。

何にもならない只管(しかん)打坐(たざ)に無量無辺を感得するのである。

 

   
 

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