辛抱して数息に専念しようとするが、そのうちには、「こんなことをやって、はたして何になるのだろう」などという疑いがわいてきたり、あるいは会社員なら会社の仕事、学生なら宿題のこと、人の子の親なら子供の教育のことなど、あれこれと頭に浮かんでくる。そして気がついてみると、姿勢はいつに間にか前かがみとなり、法界定印(ほっかいじょういん)がすっかりくずれ、どこまで数えたかわからなくなっている。とにかく、最初の間は、この数息観、百はおろか三十、二十までも、なかなかとどかぬものである。
〔注.法界定印=左右の手を組み合わせ、両親指を軽く支え合わせた形〕
雑念とは
だいたい、数息にひたすら専念して他念をまじえないのが、数息観の眼目である。いわゆる煩悩妄想や、それから派生した連想はむろん雑念であるが、数息観を修している場合には、数息以外の想念や分別はすべて雑念である。たとえていえば、麦それ自体は雑草ではないが、大根畑に生えた麦を雑草として扱うように、会社の仕事や子供の教育のことを考えることは、普通の場合なら結構なことであるが、数息観の時には、それは雑念であり妄想である。大根畑には、いわゆる雑草はむろんのこと、麦であれ南瓜(かぼちゃ)であれ、大根以外の何物をも生(は)やしてならぬように、数息観の時には、数息以外のいかなる念慮をも根をおろさせてはならない。
雑念への対応
だがそれでは、数息以外の雑念のはびこりを防ぐにはどうしたらよいのか、これが問題である。それについて古人は「雑念を相手にするな」、「二念をつぐな」と教えている。雑念が起こったら雑念を引きぬくように、その雑念を取りはらえばよいと思うだろうが、そうすることは、いわば雑念を相手に相撲(すもう)をとることで、それではかえって雑念をはびこらすだけで、数息そのものがお留守になってしまう。たとえば何か物音がしたとする。静坐していたとて感覚は正常なのだから、その音は当然聞こえる。だがこの場合、大切なことは、聞こえたら聞こえたままにして「今の音は何の音だろう」、「どこから聞こえたのだろう」などという思慮や分別へ、それを発展させないことである。聞こえたら聞こえたままにして、第二念に発展したら発展したままにして、相変わらず数息をつづけると、それらの感覚や想念は、そのままでスーッと立消えになってしまう。雑念の種は芽をふかず、根をおろさずに、したがって数息観はあやうく切れかけながらも、切れずに続いていく。「二念をつがないこと」、これが数息観の秘訣である。また、二念が三念に発展しそうな場合には、やや深く大きめに呼吸することも、それをそれ以上に発展させない効果的な方法である。なお、どうしても四念・五念と起こるなら、思いきって最初の一に戻って出直すのがよい。
数息三昧(すうそくざんまい)とは
雑念に対して、このように対処しながら、大いに勇気をふるい起こして、毎日うまずたゆまず根気強く数息観を継続していると、いわゆる邪念妄想はもとより、その他の雑念もしだいに前ほどには起こらなくなってくる。まだ時折、妄想の影がさしながらも、一応切れ目なく百まで数えられるようになる。数息観の一燈が、時々、雑念の風に揺れ消えそうになりながらも、どうやら消えず百まで持続するようになる。ここまで実際にいけたら、数息観も相当進歩したといってよい。しかし、時折とはいいながらも、妄想の影がさし、雑念の風に揺れるかぎり、そこはまだ数息観の至妙の境、いわゆる数息三昧の境地ではない。数息の一燈が明るく、しかも微動だにせず、ズーッと持続し、呼吸を数える自己と数えられる呼吸とが不二一如(ふにいちにょ)となって、はじめて数息三昧というものである。ここまで実際に到達することは容易なことではないが、とにかくこれが数息観の究極の目標である。
禅の修行の基本
数息観こそはまさに、人間が生きながらに無限絶対の世界に入る唯一の道である三昧力(ざんまいりょく)を養う基本であり、古来「数息観は坐禅の最も初歩であるが、また最も究極である」と、いわれている。究極の理想はともあれ、正しく静坐して数息観を実地に修し、三昧力を少しずつなりと養い深めていくこと、これが禅の修行の基本である。書画の道にせよ、茶や花の道にせよ、ないし能楽(のうがく)や歌舞伎(かぶき)にせよ、単調無味な基本の鍛錬を十分にしておかないと、将来の大成は期せられない。それと同じように、禅の修行もこの数息観をしっかりやっておかないと、本当の禅者には仕上がらない。「数息観は禅のアルファであり、オメガである」ということを、繰り返し強調しておきたい。
参禅弁道へ
このようにして、基本としての数息観の実修に骨折り、大いに三昧力を養った上で、いよいよ正しい法脈を伝えた明眼の師家(禅の真髄を体得した指導者)のもとに入門し、参禅弁道(さんぜんべんどう)にはげむのが禅の修行、少なくとも臨済禅(りんざいぜん)の修行の建前(たてまえ)である。 |