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本来無一物

中国禅宗の初祖達磨(だるま)大師より、2祖慧可(えか)、3祖僧燦(そうさん)、4祖道信(どうしん)、5祖弘忍(こうにん)を経て、第6祖の法燈をついだのが慧能(えのう)大師です。慧能大師(713年没)は中国広東省の嶺南という貧しい家に生まれます。3歳にして父を失い母を養うために朝早くから山に入り薪を売って生計を立て母と共に暮らしていました。ある日、はからずも僧が読経する金剛経の「応無所住而生其心」(おうむしょうじゅにしょうごしん)の一句が心に響いたといいます。慧能は出家を志し、幸いにも老母の世話をしてくれる親切な人があり、黄梅山の弘忍禅師のもとで修行することになります。

ちなみに、「応無所住而生其心」とは「まさに住する所無くして而(しか)も其の心を生ずべし」と読みます。つまり、「こころにとらわれなければ、いつでもどこでも安心立命をあらわすことができる」という意味になります。

道元禅師はこの 「応無所住而生其心」 を詠ずとして「 水鳥の行くも帰るも跡たえて されども路はわすれざりけり 」と詠まれています。
 この歌の上の句は、とらわれない、執着しない、思いめぐらすことを捨てた状態を詠み、下の句は、まさに住する所無くしての行というものは仏が仏の行をするということになるでしょう。弁道話に「すでに修の証なれば、証にきわなく、証の修なれば、修にはじめなし」と修証一等の立場を示されておられます。水鳥はあちらへゆくかと思えばこちらの方へと自然に泳いでいる。その跡形は無いけれども、水鳥は警戒も怠らず本分を忘れず泳いでいる。つまり、求道の人生にはいろいろあるが卒業や終点はないのです。毎日を本分として終点として救われていくとでも申しましょうか、終点の無いところにいつも終点がもてる。夢中の中に夢を得ていく。人生とは永遠に途中であり、その途中がそのまま仏道であるぞと示されておられるのでしょう。

 

さて、慧能の師である五祖弘忍禅師の下にはつねに多くの門弟が集まり、盛んに禅風を挙げていました。あるとき弘忍禅師は七百人の弟子たちの誰かに自分の禅法を継がせたいと思ったのでしょう。おのおの自分の修行した心境を偈(禅のこころを示した詩)で示すようにと告げました。

門下でやはり光ったのは第一座と云われていた高弟、神秀(じんしゅう)です。彼は内外の信望も篤く皆も期待していました。その神秀の偈というのは、
 身是菩提樹   身は是菩提樹
 心如明鏡台   心は明鏡台の如し
 時時勤払拭   時時に勤めて払拭(ふっしき)して
 莫使惹塵埃   塵埃(じんあい)をして惹(ひ)かしむることなかれ
 というものです。その大意は(この身体はさとりを宿す樹のごときもの、心は清浄で美しい鏡台の如きもの、故に常に汚れぬように払ったり拭いたりして、煩悩のチリやホコリをつけてはならない)と修行の大切さを示します。煩悩多き心に塵埃が無くなることはないでしょう。この永遠の汚れに対しては永遠に払拭(清掃)を続ける以外にはないでしょう。その道には清浄なる境地がありますし、たしかにひとつの「仏教観」があります。
 この偈を見た門弟たちは賞賛を惜しみませんでしたが、弘忍は沈黙しました。ところが、その時、米をついている寺男の慧能がそんなら自分も出してみるかということで神秀の偈のそばに張り出したのです。
 菩提本無樹    菩提本(もと)樹(じゅ)無し
 明鏡亦非台    明鏡も亦台に非ず
 本来無一物    本来無一物(ほんらいむいちもつ)
 何処惹塵埃    何れの処にか塵埃(じんあい)を惹かん
 この大意は(本来菩提には樹などという不変なものはない、明鏡という心もない。故に、本来無一物である。よって塵埃のたまりようがないから払拭の必要もないではないか)というものです。

弘忍禅師も門下一同も禅の絶対性がうたいあげられている慧能のこの偈にはたいへんに驚いたのでありました。結局は寺の米つき男である慧能に弘忍禅師の正統の禅法が伝わるのです。

ところで、神秀の偈にあらわれた心境は修行ということを重点に説いています。「われわれの身心は立派なものではあるが、常に煩悩の塵埃(じんあい)に汚れがちである。ゆえに、時時に勤めて払拭せよ」というのが偈の主意になっています。これはこれで間違いでもないし、確かに立派なのです。漸々修学必到成仏の漸悟の宗とも呼ばれました。けれども神秀の偈は「心はもともと性善である」という有心で比較対N)E*$J$b$N$N9M$(J}$H$b$$$($^$9!#

これに対して「心はもともと悪である」という考え方がありますが、この考えも比較対立的な考え方です。ところが、慧能の偈は本来無一物なのです。本来無一物とは、好き嫌いとか損得、良し悪しなどといった二見にとらわれた概念がありませんから、それに埃がかかるとか払うとかという道理もない。対立的な考えを超越した禅の根本を示しているのです。ところで、真実の実体というものは筆舌では表現できるものではありませんが、宗門法戦式の有名な問答として神秀の偈を引いた「明鏡台(みょうきょうだい)にあらず」がありますので紹介します。

問 作者は「心は明鏡台の如し」(本来そなわっている仏性、即ち心は一点の曇りもない澄んだ鏡のようなものである)。というがそなたの思うところをお聞かせ願いたい。
答 いたずらに祖師の言葉をもてあそぶではない。
問 いやいや、そうは言うが身体は是菩提樹。菩提樹とは釈尊がその樹下で悟りを開いた樹であり、「身は是菩提樹」とはこの身体は悟りの樹のようなものではないか。
答 自分勝手な判断の悟りにとらわれているようではいけない。
問 私のとらえているところは、一切衆生悉有佛性(全ての生きとし生けるものに仏性があるという教え)有情非情同時成道(有情とは感情や意識を持ったあらゆる生物。非情は山河大地、草木などの無生物。それらがお釈迦様のお悟りと同時に成道すること)と云うことである。
答 起床の時刻を知らせる鈴が鳴ったら速やかに起きよ、寝るときの鈴が鳴ったら直ちに安眠せよ。
問 尊答に感謝する
答 しっかり辨道しなさい

 この問答は、自己本来の中に優れた仏性を見る問に対して、本来の仏性即ち仏行とは、日常の行住坐臥の中にあることを示した問答です。「一切衆生、悉有仏性」なれども「威儀即仏法、作法是宗旨」が仏行であり、それが即仏性である。いたずらに言葉だけの認識であってはならないと教示します。

年越しは めいどの旅の 問屋場か 月日の飛脚 あしをとどめず(蜷川)

門松は 冥途の旅の 一里塚 馬かごもなく とまりやもなし(一休)
さとりなば 坊主になるな さかなくへ 地獄へ行って 鬼に負けるな(蜷川)

鬼という 恐ろしきものは どこにある 邪見の人の 胸にすむなり(一休)

死んでから 仏になるは いらぬもの 生きたるうちに よき人になれ(蜷川)

ほとけにも なりかたまるは いらぬこと 石仏らを 見るにつけても(一休)
蜷川新右ヱ門が危篤になったときに一休が、旅先から駆けつけます。「引導がいるか?」と一休が尋ねた。すると新右ヱ門は歌でもって答えました。
ひとり来て ひとり帰るも 我なるに 道をしえんと いふぞおかしき(蜷川)
すると一休は
ひとり来て ひとり帰るも 迷いなり 来たらず去らぬ 道を教えん(一休)
蜷川新右ヱ門は、にっこり笑いながら往生したという。
もうひとつ、おまけに一休禅師の作といわれる道歌を二首。
本来もなきいにしえの我なれば 死にゆく方(かた)も何も彼(か)もなし
やきすてて灰になりなば何ものか 残りて苦をば受けんとぞ思う

五祖弘忍(ぐにん)禅師は、そろそろ弟子の一人に、初代達磨(だるま)大師から受け継いだ禅法を継がせたいと思い、弟子たちがそれぞれ修行を重ねた心境を詩で表してみよと告げた。その中でこれぞ秀逸と誰しもを唸らせた詩を書いたのが高弟の一人、神秀(じんしゅう)だった。
その詩の内容は次のようなものである。
 身是菩提樹   身は是(これ)菩提樹(ぼだいじゅ)
 心如明鏡台   心は明鏡台(めいきょうだい)の如(ごと)し
 時時勤払拭   時時に勤めて払拭(ふっしょく)し
 莫使惹塵埃   塵埃(じんあい)をして惹(ひ)かしむることなかれ
意味は、「この身は悟りを具える大樹であり、心は清浄で美しい鏡のようなものである。常に汚れぬように拭き払って、煩悩のチリやホコリが付着しないようにしなければならない」といった内容。
門弟たちは誰しもが絶賛したが、師の弘忍は、ただ沈黙しているだけである。
そんな中、その詩を見た典座(てんぞ:修行僧たちの食事係)の慧能(えのう)が、「こんな詩は禅の精神ではない」と言い放ち、次のような詩を書いた。
 菩提本無樹   菩提本(もと)樹(じゅ)無し
 明鏡亦非台   明鏡もまた台に非(あら)ず
 本来無一物   本来無一物(ほんらいむいちもつ)
 何処惹塵埃   何れの処にか塵埃(じんあい)を惹(ひ)かん
意味は、「本々悟りを具える樹などというものは無い。心も鏡などではない。本来、一切の物が無いのである。したがって、チリやホコリなども付着しようがないのだ。」
門弟たちは、「なんて乱暴なことを言うのだ!」と驚き、慧能を非難するが、師の弘忍は慧能に軍配を上げた。かくして、初代達磨から受け継がれた禅の法灯は慧能に継がれることになり、慧能が六祖となった。〜
本来無一物ということをよくよくかみしめると、極めて広大無辺でありながら極めて現実的な意味を含んでいることが伺える。
悟りとは、どこか遠いところにあり、悟るということは、なにか特別な存在に変身するような印象を受けそうだが、そうではない。禅では、悟りは久遠の過去から悠久の未来まで、常に「いまここ」にあると説く。
自分は本々神仏と同じなのだということに気付きさえすればいい。
そして、そのことに気付いた人は、いよいよ神仏と同じ働きをもって行動したくなるのである。
知らず知らずのうちに、モノ、カネ、権威その他さまざまなあやふやなものに執着したり依存したりしてしまいがちな部分は誰しも持っているのは、いた仕方ないことであり、それが結局、本来の尊い自己に気付けない障壁になっているように思われるが、本来無一物ということに時々思いを巡らしてみて、自分ひいては全ての命の尊さということをしっかり見つめてみることが大事なことであると考える。

 
 
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