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歴史名城  紹興

 

     

 

    紹興市は浙江省の東北部に位置し、2500年以上の歴史があります。古都であって、典型的な江南水郷を代表する水の都市です。東洋のヴェニスと讃えられています。紹興県、諸曁市、上虞市、嵊州市、新昌県、越城区を管轄し、面積は8256平方キロ、人口は433万、そのうち、市街区面積は339平方キロ、人口は64万。市内には縦横に水路がめぐられて、東湖や鑑湖といった湖も近くにあります。川と運河が網の目のように縦横に走り、物質を輸送するジャンク、魚をとる船、珍しい昔ながらの「脚劃船」(別名烏蓬船ともいわれる苫船)など様々な船が行き交っている。東方のベニスといわれる紹興には、まだ5000余りのいろいろな風格を持った古い石橋、アーチ橋が残されている。そこで紹興は中国石橋の博物館とも称されている。今日の紹興は、紀元前6世紀後半、春秋戦国時代末に興った越王国が会稽を都としてから、発展してきた町です。1131年会稽を紹興と改名した。昔から、陸遊、徐渭、王羲之などの文学家、画家、書道家が輩出し、歴史を秘めた様々な名所、旧跡がある。主なものに禹陵、越王台、王義之ゆかりの蘭亭と魯迅の故居などがある。約2400年の伝統を持つ造酒では、中国十大名酒の一つに数えられている紹興酒が世界に名誉を博している。紹興酒の中で、長い年月貯蔵された特別なものを「老酒」と言う。今の紹興は紡績業が盛んで、陶磁器、竹、金、銀細工など工芸品も多くの生産を揚げている

紹興の名所旧跡

【魯迅故居】
  ここが魯迅の生家です。清朝、日本の江戸時代に建てられました。今では国家級の文化財になっています。生まれてから、1898年までの17年間はこの家で暮らしました。周の一族が集まって住んだ所です。「故郷」という小説の舞台がここになります。

【三味書屋】
  ここは清末期、紹興でも有名な私塾でした。12歳の時から魯迅はここで学びました。ここでは当時、魯迅が机の上にほった「早」という字を見ることができます。これは、ある日、魯迅が家の用事で遅刻し、先生に怒られたため、もう2度と遅刻しない、自分を戒めるという意味で、この「早」という字をほった、と言われています。

【百草園】
  周家の裏庭で、魯迅の少年時代の重要な遊び場の一つでした。夏はここ遊んでで、コオロギや小鳥を捕まえたりしました。

【咸亨酒店】
  「孔乙己」(こういつき)という、魯迅の小説をお読みになった方はきっとご存じでしょう。ここが小説の舞台となりました咸亨酒店です。ここで小説に登場する紹興酒や五豆香を堪能してください。

 

【蘭亭】

  市内から西南13キロメートルの蘭諸山の麓にあります。2400年前に越王勾践が蘭の花を植えたこと、また、漢の時代に馬に休憩所になったことから蘭亭として有名になりました1600年前、東晋時代の書の大家、王義之がここで「蘭亭集序」を書いたことから書の聖地としてたたえられ現在に至っています。毎年3月に行われる蘭亭祭には書道界の代表が集まって書が披露されます。日本からも有名な書道界の大御所が出席しています。また兵庫県西宮市の植物園には、友好都市関係を記念して、「小蘭亭」が建てられました。

【「蘭亭序」】
  353
年、蘭亭曲水の宴に参加した人が37首も作詩しました。王羲之はこの詩のために、序文(前書)を書いて、感想を述べました。この序文が「蘭亭序」であり、書道史上非常に有名な文章です。文章は山水を愛する気持ち、人々が自由気ままに人生を楽しむと同時に、永遠へのあこがれと、限りある人生へのはかなさなどを述べています。また、王の書体は完壁な様式とされます。ゆえに「蘭亭序」を天下第一行書と称され、人々がこぞってそれを手本としました。今日でも書道を学ぶ際の手本となっています。

【王羲之(おうぎし)】
  321
年生まれ、378年になくなりました。字は逸少、東晋臨沂の人、かつて右軍の将軍に任じられていたことがあり、そのために王右軍ともよばれていました。王羲之は、祖父も父も役人の役人家庭出身でした。本人は秘書郎、参軍遷任長史、江州刺史、右軍の将軍、会稽内史を歴任しました。幼い頃から、年長者の指導を得て書道の勉学にいそしみ、秦や漢代の字体などを研究し、それぞれの字体を行書、草書などと組み合わせて、奔放で力強く優雅な書体を残しています。書道の革命家と言われ、後世の書道家達に大きな影響を与えました。「書聖」として讃えられています。王羲之には7人の息子がいて、皆、書道に長けていましたが、中でも飛びぬけた才能をもっていたのが、末子の王献之です。伝説では、ある時、王献之が習字している時、王羲之は不意うちで、彼の背後からその筆をひっぱりました。献之はしっかり筆を握っていたので、動かず、王羲之はこれを大いに称えたといいます。その後、王献之も書道家として有名になりました。人々は彼ら父子二人を合わせて「二王」と称しました

【題扇橋】
  ところで、紹興の城内には題扇橋という石橋があります。これには王羲之にまつわる面白い伝説があります。昔、この橋のたもとで、ある老婆がたくさんの六角竹扇を持って王羲之に売ろうとしましたが、王羲之は買わずに、扇子の上に五文字を書き、それを売るように言いました。老婆が半信半疑で売りに行ったところ、その扇子は原価の数十倍もの値段でたちまち売り切れてしまいました。それから、老婆はしょっちゅうその橋のたもとで王羲之を待っていたので、王羲之は煩わしく思い、近くの路地に身を潜めて、その老婆を避けるようになりました。
  後世の人々によって、橋は題扇橋、路地は婆を躱(か)わす、躱婆弄と呼ばれるようになって、今でも、それは地名として残っております。

【紹興酒】 

  紹興酒は黄酒とも呼ばれ、2400年前から造られています。日本では一口に紹興酒と言っていますが、実際にいろいろな製品があります。紹興酒は原料の種類、添加剤、手法によって@加飯酒、A状元酒、B善醸酒、C香雪酒の4種類に分けることが出来ます。紹興酒の仕込みは年に1回、10月から翌年の2月になって造られます。一般的には冬に発酵させ、3年以上保存します。中国語では、「永く寝かせた(年老いた)お酒」のことを老酒(らおちゅー)と言うので、紹興酒は老酒の一種でもあります。もともと紹興酒は女の子が生まれた時に製造し、その子供が成人になったときに取り出して飲むものだったので、その事から「女児紅」とも呼ばれていました。
紹興酒は、アルコール分が低く、栄養価が高くて、健康に良いお酒です。

【花彫酒
  昔、紹興では、女の子のうまれた家では、かめに上質のお酒を詰めて地下に貯蔵しておきます。そのまま、ずっとその女の子が嫁に行く日まで保存し、結婚する時にその酒を取り出して酒がめの外側に色と飾りをつけます。そして嫁入りの持参品としました。酒がめに模様を彫刻してありますので、「花彫」の名が生まれました。

【お酒にまつわる物語】
  紀元前473年一度呉国に敗れた越国は二十年におよぶ「臥薪嘗胆」を経て国力を回復させ、軍事力を充実させ、食糧をたくわえました。越王勾践は、呉を打つ決意をかためました。軍が出発する日、越国の百姓は自家製の「醪」すなわちお酒を、越王に贈りました。越王は将兵に命じて酒を河の上流にあけて、軍民とともにこの河の水を飲みました。
  「なんという情の深い王だ」
  軍民の士気はあがりました。こうしてかれらは勇敢に戦って、次々に敵をうちやぶり、ついに大勝利を収めたのです。越王が酒を投げ入れた河が、現在の醪(にごりざけ)を投げた河、「投醪河」で、紹興の城南にあります。

【東湖】

  紹興の東湖は杭州の西湖、嘉興の南湖と並んで浙江省の三つ名湖です。東湖は紹興市内から6キロメートルの東にあり、1000年前は、漢代に開始された採石場でした。ここで採られた石は石橋の建造に多く使われています。石の品質は下にいけばいくほど良いということから隋唐代には、深く掘られました。そのため地下水と河の水が合わさり、現在のような湖の姿になりました。今は「烏蓬(うほう)舟」という紹興独特の片足で漕ぐ舟に乗って遊覧観光する事ができます。

柯 岩
  柯岩は紹興市内から西に12キロメートルの所に位置します。紹興にはこのような採石跡の風景地が4カ所(東湖、吼山、柯岩、羊山)あります。ここの総面積は約7平方キロメートル、北には中国軽紡城、南には有名な鑑湖が広がっています。ちなみに鑑湖は紹興酒を造る水として有名です。
3
世紀頃三国時代から採石を開始したと言われており、採石に携わった当時の人はさまざまな形の洞窟や石壁を残しました。清代には更に多くの採石景色を造っています。
この大仏は弥勒さまです。大きな石岩の中に彫られて、「天からの大仏」と呼ばれており、典型的な隋朝から唐代の風格を持っています。この東隣には、「雲骨」という根本が細くて、そびえ立つ奇怪な形の岩があります。これは、採石時に大きさを図る尺度に使われたとも言われています。


印山越国王陵
  印山越国王陵は近年1995年から2年間かけて、発掘された重要歴史文化財です。紹興市内から13キロメートルの蘭亭鎮に位置する独特な小さな山で、大きさは東西350メートル、南北300メートル、高さ26メートル、その形が四角形で印鑑に似ている印山と名付けられたとされています。
  記載によると、昔、このあたりは「木客」と言われ、樹木に覆われ木材の伐採が行われていました。そこへだんだんと人々が集まって住み始めました。印山にある巨大な墓は「木客大塚」と呼ばれ、勾践の父親のものだと言われています。小高い山の中に安置された木棺の上に巨大な長方形の木材が三角形状に組まれ、腐敗しないようにその上に大量の炭粉で覆い土盛りがされている、2500年前(越国時代)のたいへん貴重な文化財の一つです。
  禹陵とは4000年前の夏王朝の始祖の陵墓です。本名は姒文命(じぶんめい)。治水神話の主人公です。伝説によれば、「三皇五帝」といわれる8人の天子がいて、その最後の五帝、禹が夏王朝を始めたと言われています。彼は治水の英雄でした。約4千年前に中国の大地で河が氾濫しました。彼は、民衆を率いて水害と戦いました。13年の努力の末、ついに洪水を治めました。その期間、禹は8年間家を留守にして、3回自宅の前を通りながら、立ち寄ることがなかった、という話しはとても有名です。禹は治水の功を認められて、舜から王位を禅譲され、王になります。彼の夏王朝は中国の古代王朝の始まりでした。中国大陸には100万年前に太古の人類の足跡が残されています。しかし、文字によって記録された歴史は、紀元前21世紀頃に始まったとされます。最初の王朝、すなわち夏の出現です。

【禹廟】
  史記によれば、禹の息子が創建した、と言われていますが、現在の場所には545年に創建されました。しかし何度も荒廃し、現存の建物は明、清時代のものです。大殿は1933年に修復しました。

【岣嶁(こうろう)碑】
  本物は湖南省の衡山岣嶁峰にあったので、故にこの名前が付けられました。この字体が、おたまじゃくしににていることから名付けられた蝌蚪(かと)文字です。蝌蚪とはおたまじゃくし、の意味です。明代、ある冬紹興の郡守張道明が、岳麓書院の拓本を得てまねて造り、ここに置いたのが始まりです。全文が、禹の治水に関することなので、別に「禹王牌」とも呼ばれています。

禹王殿】
  高さ、寛さ約24メートル、奥行き22メートル。天井には「地平天成」 、すなわち「地平らかに天成る」と描かれています。これは康煕帝によって書かれました。この言葉は『書経』大禹謨の中で描かれており、「内外、天地とも平和が達成される」という意味です。今の昭和天皇の年号、平成の出所でもあります。禹廟の大殿の南東の小さな丘陵に窆や亭や建っています。この亭には、高さ2メートルほどの紡錘形をした窆石(墓石)か置かれていますが、この石の真下が禹埋葬した場所だと伝えられています。

窆石亭(へんせきてい)】
  窆石(へんせき)の窆(へん)には埋葬の意味があります。伝説によると、禹を葬る時、この石が墓穴の周辺に置かれ、クレーンの代わりに使われたといわれます。つまり、縄を石にある穴を通し、棺桶を引っ張りながら、ゆっくり地下に落としました。葬式が終わった後も、墓のしるしとして窆石は残されました。しかし、四千年以来、禹陵はいくたびかの荒廃を経ているため、この石もあちこちに移され、結局、今日ではその確かな居場所は分からなくなっています。

会稽山
  本当の名前は、茅山といいますが、禹が治水に成功してから、ここで諸侯を会して彼らの功績を計った、即ち、勤務評定をしたと言われています。「会稽」=「会計」という地名はそこから来ました。春秋時代には越王勾践と呉王夫差がここで戦い、「会稽の恥」「臥薪嘗胆」の故事の舞台でもあります。

【八字橋】
  八字橋は宋の時代(1256)に建てられた街中の橋で、一つの橋で三つの道をまたいでいるのが特徴です。「中国で現存する最古の立体橋」と言われ、全国重点保護文化財に指定されています。南宋の「会稽志」によれば、橋の形が八の字に似ていることかたこの名前がつけられたと記されています。主用部の橋の高さは4.6m、幅4.5mで、全て石を組み合わせて造られています。
紹興にはこのような石で造られた大小さまざまな石橋が1万以上もあると言われています。水郷以外ではなかなか見ることの出来ない身近な文化財です。

【周恩来記念館】
  周恩来は1898年に生まれ1976年に亡くなった中国の初代総理です。周恩来の暮らした家は、現在の市中心にあたる労働路に位置する明代の建築様式の家です。周恩来の先祖はここに住んでいましたが、彼の祖父が江蘇へ任務で赴任した際に紹興を離れました。周恩来は少年時代の一時をここで過ごしました。
  なお、1698年に周恩来の先祖の妻子王壽が100歳に成った時に浙江省の省長が「百歳壽母」の看板を送ったことから、以前はこのあたりを「百歳堂」と呼んでいました。この祖居は2100uの広さがあり、周恩来の写真や書が展示されています。

【青藤書屋】
  青藤書屋は明代に活躍した中国を代表する文芸家、芸術家で、紹興出身の徐渭(15211593年)本名文清、別名青藤が書画を学んだところです。徐渭が10歳の頃に庭に青い藤の苗を植えたことから、彼が書を読んだ場所は青藤書屋と呼ばれるようになりました。彼の書は写実的で明末の文化に大きく貢献し、革命をもたらしたといわています。青藤書屋は約1000uの明代の屋敷であり、その屋敷の中には彼の作品が陳列されています。彼は73歳の時、貧しさのため病になり亡くなりました。

秋瑾(しゅうきん)故居】
  秋瑾(1875―1907年)は中国の女性革命家として活躍した紹興の名士です。僅か32歳の若さで処刑されこの世を去りましたが、中国ブルジョア民族革命に身を投じ、婦人解放の大きな原動力となりました。秋瑾は30歳の時に日本にも留学していますが、日本で彼女の名前を知る人はそれほど多くありません。
  秋瑾はもともと名門の令嬢、資産家の令夫人であり、幼い頃から愛国心に燃えていました。秋瑾の住いは清の時代に建てられた平屋で市の中心地に近くにあり、全国重点文化財に指定されています。各住まいは、秋瑾が使用していたままの状態で残されており、当時の面影を偲ぶことができます。なお、秋瑾について興味のある人は小職の友人が出版した書「自由への闘い秋瑾」を参考にするとよいでしょう。


【沈園】
  沈園は南宋時代、沈という名前の個人の庭であり、当時は現在の4倍以上の広さを誇っていました。以前は一般の人には公開されていませんでしたが、現在では、見学可能になっています。南宋の詩人、陸遊と彼の前妻が再会した場所です。それは次のような物語です。
彼は20歳の時に彼のいとこの唐婉と結婚しました。2人は本当に仲の良い幸せな時を過ごしていました。しかし陸遊の母親は唐婉が気に入らず2人を別れさせました。7年後の春、陸遊がこの沈園に来た時に、唐婉が再婚した主人と一緒にこの沈園に来ており、2人は偶然に出会いました。陸遊は元の奥さんを見てその心中を沈園の壁に書きました。その陸遊の想いの一首を読んだ唐婉の想いの一首も沈園内に残されています。

【府山越王台】
  府山は紹興の北西(ほぼ市の中心)、自然と人工の遺跡が多く見られる海抜74mの小高い山で、市内を一望できます。かつて歴代政府の所在地(市役所)であったことから、俗名府山と呼ばれています。また府山はまるで龍が横たわっているような姿にも見えることから、別名龍山とも呼ばれています。最も古い遺跡として越王台と越王殿があり、越王勾践の「臥薪嘗胆」を記念して建造されたものと言われています。越王台は越王勾践が将軍を委任されたところであり、宋代、1200年頃に建築されたものですが、戦争時に焼失し、1983年に再建されました。越王殿は越王台の後側の高い石垣の上にある建物で、殿内には越王勾践の像を臥薪嘗胆の壁画が残っています。


【古繊道】(こせんどう)
  古繊道は紹興市内から杭州へ向う道路に添って続く運河の上に作られた細長い石橋状の道で、全国の重点文化財に指定されています。歴史書によると、最も古いものは140年頃に作られたものではないかと言われていますが、長い年月の間何回も作り替えられています。古繊道は役人を運ぶ船の速度を上げるために運河の中に作られたもので、この石橋道を、船を引っ張りながら歩いたと言われています。この古繊道は採石場の石を使っており、約3m間隔で橋げたが設けられ、その幅は約1.5m。最初に作られた時は約70kmにも及ぶ長いものでした。今は1kmほどS字型のものが残っており、紹興の水郷写真スポットとしても有名です。最近は長い運河に沿って公園も整備され、昔の石橋等も展示されています。

【羊 山
  石仏寺は紹興県にある採石場跡地の一つです。この自然の景観は約1400年前に形成されたといわれています。この羊山風景は石仏寺、羊山公園、羊山石城の3カ所からなり、現在ある石仏寺は清代に造られたものです。
  その寺の中心、武粛王殿の後にある岩壁には多くの文字が記載されており、中でも「飛躍」の2字は南宋の将軍韓世忠(かんせちゅう)が書いたものです。石仏寺周辺の湖水は絶えることなく、また底はみえません。更に湖水の中にそそり立つ二つの岩石は、石仏寺との景観をより一層引きたてています。またこの石仏寺の向いにある羊山は絶壁のようにそびえたっていますが、実は比較的容易に短時間で頂上に登ることができます。採石場のスケールの大きさを感じることが出来ると同時に、頂上からは周囲が一望できます。


【新昌大仏寺】
  大仏寺は345年に建造されたもので、早くから中国の仏教伝承地として詠われてきました。また浙江省の中でも最大といわれる洞窟内に安置された仏像は国内外で有名です。大仏がある整座殿は5層からなり、額に記載された「逍遥楼」「弥勒洞天」「三生経跡」「大雄宝殿」「宝相庄厳」という名前は唐代の有名な唐の顔真郷、清の愈越与等の有名な書道家によって書かれたものです。なおこの中に鎮座する大仏の大きさは全長16.4mで、年中多くの参拝客があります。入口からこの大仏へ至る遊歩道沿いに広がる総面積25平方キロメートルの景観も素晴らしい。

【西施故里】
  西施は中国4大美人の一人です。西施意外には、楊貴妃、貂弾(ちょうだん)、王昭君がいます。西施は春秋時代末期の人で、故郷は越国、今の紹興諸市に当たります。彼女が生まれたのは苧籮(ちょら)村で、この村は東村と西村に分けられていました。彼女は西村に住んでいたため、名字の施の前に西をつけて、西施と呼ばれました。西施殿は西施故里の中で最も重要な地で、その両脇にはネムの木が植えられています。これは秋田県の象潟(きさかた)町の中日友好協会が持参したものです。そのそばに日本の俳人松尾芭蕉の書いた句「象潟や雨に西施ネムの花」があります。西施殿の中には西施の像があり、西施が相当の美人であったことが伺えます。

【古鎮安昌】
  古鎮安昌は紹興県の中の村であり、浙江省の代表的な水郷の一つです。昔から経済が発達し、物も豊富で市場も繁栄しており、裕福でお金もある街でした。市内では少なくなった400年前(明代)の古い民家が今もあり、全ての道路には石が敷き詰められていて、歴史のなごりを強く感じさせてくれます。河に添って並んだ家の前には、素朴な昔懐かしい数多くの遊び道具や食べ物が露店と同じように並べられ、観光客の眼を和ませてくれます。運搬船や烏蓬船が今もなお市民の運搬、交通手段として行き交い、水郷地ならではの光景を生み出しています。

 

 

 

 
 

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