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留 園
留園は蘇州市閶門外の留園路通り79号に位置している。留園は明の時代に築造された。万暦21年に太僕寺少卿の徐泰時が免官されて故郷に帰った後、東園と西園を築造した。西園の裏の部屋は仏寺として使われ、西園は現在の戒幢律寺である。東園は現在の留園の前身である。その時の東園には大湖の石でつくられた瑞雲峰という築山があり、高さは30余メートルで、朱勉が築造させたものといわれている。それは北宋「花石綱」の遺物である。乾隆44年に、瑞雲峰は織造府の行宮に移された。徐泰時が亡くなった後、東園はだんだんと荒れはてることになっていた。59年に、庭園は劉恕の所有となり、5年がかりで修復、拡充をおこない、嘉慶3年に完工した。庭園は「寒碧荘」と改名され、「花歩小築」とも称され、一般の人びとの間では「劉園」と称されていた。庭園には、名奎宿、玉女、箬帽、青芝、累黍、一雲、印月、獼猴、鶏冠、拂袖、仙掌、干霄など十二の築山があり、その頃からよく知られていた。その後、咸豊の頃の申更の戦乱のため、庭園はだんだん荒れ果ててしまった。
同治12年に、盛康という人がこの庭園を買い取り、大規模な修築を行い、「劉園」を「留園」と改名した。盛康の留園は泉の石の多いこと、草木の美しいこと、あずまやの静けさでその名を知られていた。冠雲峰の山の石は最も珍しいものと見られていた。辛亥革命のぼっ発後、盛康の息子の盛宣懐が日本に亡命したため、留園は荒れ放題になってしまった。1927年に、北閥遠征軍第21師団の司令部がかつてこの庭園に置かれていた。40年代に、中国を侵略した日本軍、国民党の軍隊が相次いでここで軍馬を飼育したため、門や窓がひどく破壊され、荒れ果ててしまった。1953年に、人民政府が資金を出して留園を修築し、1954年1月1日に一般公開された。
留園の面積は2万3310平方メートルで、建築物の敷地面積が庭園総面積の三分の一を占めている。庭園は大体中、東、北、西という四つの部分に分かれ、南側には祠堂と住居がある。中部はもとの「寒碧荘」を基礎とし、部分的には変えられたが、依然として庭園の粋と言える。西側は山の池、楼閣、長い回廊があり、静けさに満ちたところである。東側には広間がある。東、北、西の三つの部分は清の光緒の頃に拡充されたものである。東側には冠雲峰を際立たせるように建てられた建物群がある。北側にあった建築物は壊されてしまい、いまでは盆栽園となっている。西側は土石でつくられる築山を主としている。それぞれの空間がたくみに組み合わされており、その配置の妙と華麗な庁堂が目を引く。また回廊を飾る「漏窓」と言われる透かし窓も見もの。一つとして同じデザインはなく、その一つ一つの窓から見える眺めも異なり、それぞれに完成された一副の絵画を見るようだ。
庭園には精緻な見所がたくさんある。古木交柯、緑蔭、明瑟楼、涵碧山房、聞木樨香軒、可亭、遠翠閣、汲古得綆処、清風池館、西楼、曲渓楼、濠濮亭、五峰仙館、環我読書処、揖峰軒、林泉耆碩の館、佳晴喜雨快雪の亭、冠雲峰、佇雲庵、冠雲亭、冠雲楼、至楽亭、舒嘯亭、活潑潑地などがある。清の時代の学者の兪樾が書いた「留園記」が入り口の木造のついたてに刻まれている。
留園の著名な観光スポット:董刻二王法帖、古木交柯、冠雲峰、涵碧山房、濠濮亭、花歩小築、林泉耆碩の館、緑蔭小軒、明の頃のぼたん花壇遺物、明瑟楼、石林小庭(揖峰軒)、舒嘯亭、聞木樨香軒、五峰仙館、又一村
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