伊豆の踊り子

川端康成の初期の代表作


  
  第七章
  出立の朝、七時に飯を食っていると、栄吉が道から私を呼んだ。黒紋附の羽織を着込んでいる。私を送るための礼装らしい。女たちの姿が見えない。私はすばやく寂しさを感じた。栄吉が部屋へ上がって来て言った。
  「皆もお送りしたいのですが、昨夜おそく寝て起きられないので失礼させていただきました。冬はお待ちしているから是非と申しておりました。」
  町は秋の朝風が冷たかった。栄吉は途中で敷島四箱と柿とカオールという口中清涼剤とを買ってくれた。
  「妹の名が薫ですから。」 と、かすかに笑いながら言った。
  「船の中で蜜柑はよくありませんが、柿は船酔いにいいくらいですから食べられます。」
  「これをあげましょうか。」
  私は鳥打ち帽を脱いで栄吉の頭にかぶせてやった。そしてカバンの中から学校の制帽を出してしわを伸ばしながら、二人で笑った。
  乗船場に近づくと、海ぎわにうずくまっている踊子の姿が私の胸に飛び込んだ。そばに行くまで彼女はじっとしていた。黙って頭を下げた。昨夜のままの化粧が私を一層感情的にした。眦(まなじり)の紅がおこっているかのような顔に幼いりりしさを与えていた。栄吉が言った。
  「ほかの者も来るのか。」
  踊子は頭を振った。
  「皆まだ寝ているのか。」
  踊子はうなずいた。
  栄吉が船の切符とはしけ券とを買いに行った間に、私はいろいろ話しかけて見たが、踊子は掘割が海に入るところをじっと見おろしたまま一言も言わなかった。私の言葉が終わらない先き終わらない先きに、何度となくこくりこくりうなずいて見せるだけだった。
  そこへ、「お婆さん、この人がいいや。」 と、土方風の男が私に近づいて来た。
  「学生さん、東京へ行きなさるのだね。あんたを見込んで頼むのだがね、この婆さんを東京へ連れてってくんねえか。かわいそうな婆さんなんだ。伜が蓮台寺の銀山に働いていたんだがね、今度の流行性感冒てやつで伜も嫁も死んじまったんだ。こんな孫が三人も残っちまったんだ。どうにもしょうがねえから、わしらが相談して国へ帰してやるところなんだ。国は水戸だがね、婆さん何もわからねえんだから、霊岸島へ着いたら、上野の駅へ行く電車に乗せてやってくんな。めんどうだろうがな、わしらが手を合わして頼みてえ。まあこのありさまを見てやってくれりゃ、かわいそうだと思いなさるだろう。」
  ぽかんと立っている婆さんの背には、乳飲み子がくくりつけてあった。下が三つ上が五つくらいの二人の女の子が左右の手につかまっていた。きたない風呂敷包みから大きい握り飯と梅干とが見えていた。五六人の鉱夫が婆さんをいたわっていた。私は婆さんの世話を快く引き受けた。
  「頼みましたぞ。」
  「ありがてえ。わしらが水戸まで送らにゃならねえんだが、そうもできねえでな。」なぞと鉱夫たちはそれぞれ私にあいさつした。
  はしけはひどく揺れた。踊子はやはり唇をきっと閉じたまま一方を見つめていた。私が縄梯子につかまろうとして振り返った時、さようならを言おうとしたが、それもよして、もう一ぺんうなずいて見せた。はしけが帰って行った。栄吉はさっき私がやったばかりの鳥打帽をしきりに振っていた。ずっと遠ざかってから踊子が白いものを振り始めた。
  汽船が下田の海を出て伊豆半島の南端がうしろに消えて行くまで、私は欄干にもたれて沖の大島を一心に眺めていた。踊子に別れたのは遠い昔であるような気持ちだった。婆さんはどうしたかと船室をのぞいてみると、もう人々が車座に取り囲んで、いろいろと慰めているらしかった。私は安心して、その隣りの船室にはいった。相模灘は波が高かった。すわっていると、時々左右に倒れた。船員が小さい金だらいを配って回った。私はカバンを枕にして横たわった。頭がからっぽで時間というものを感じなかった。涙がぽろぽろカバンに流れた。頬が冷たいのでカバンを裏返しにしたほどだった。私の横に少年が寝ていた。河津の工場主の息子で入学準備に東京へ行くのだったから、一高の制帽をかぶっている私に好意を感じたらしかった。少し話してから彼は言った。
  「何かご不幸でもおありになったのですか。」
  「いいえ、今人に別れて来たんです。」
  私は非常にすなおに言った。泣いているのを見られても平気だった。私は何も考えていなかった。ただすがすがしい満足の中に静かに眠っているようだった。
  海はいつのまに暮れたのかも知らずにいたが、網代や熱海には灯があった。膚が寒く腹がすいた。少年が竹の皮包を開いてくれた。私はそれが人の物であることを忘れたかのように海苔巻のすしなぞを食った。そして少年の学生マントの中にもぐり込んだ。私はどんなに親切にされても、それを大変自然に受け入れられるような美しい空虚な気持ちだった。明日の朝早く婆さんを上野駅へ連れて行って水戸まで切符を買ってやるのも、至極あたりまえのことだと思っていた。何もかもが一つに溶け合って感じられた。
  船室の洋燈が消えてしまった。船に積んだ生魚と潮のにおいが強くなった。まっくらななかで少年の体温に温まりながら、私は涙を出任せにしていた。頭が澄んだ水になってしまっていて、それがぽろぽろ零れ、そのあとには何も残らないような甘い快さだった。

  
 

 

 

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