金閣寺

三島由紀夫最有代表性的長篇小说。

第一章

 幼時から父は、私によく、金閣のことを語った。
 私の生れたのは、舞鶴《まいづる》から東北の、日本海へ突き出たうらさびしい岬《みさき》である。父の故郷はそこではなく、舞鶴東郊の志《し》楽《らく》である。懇望されて、僧籍に入り、辺《へん》鄙《ぴ》な岬の寺の住職になり、その地で妻をもらって、私という子を設けた。
 成《なり》生《う》岬の寺の近くには、適当な中学校がなかった。やがて私は父母の膝《しっ》下《か》を離れ、父の故郷の叔父の家に預けられ、そこから東舞鶴中学校へ徒歩で通った。
 父の故郷は、光りのおびただしい土地であった。しかし一年のうち、十一月十二月のころには、たとえ雲一つないように見える快晴の日にも、一日に四五へんも時雨《しぐれ》が渡った。私の変りやすい心情は、この土地で養われたものではないかと思われる。
 五月の夕方など、学校からかえって、叔父の家の二階の勉強部屋から、むこうの小山を見る。若葉の山腹が西日を受けて、野の只中《ただなか》に、金屏風《きんびょうぶ》を建てたように見える。それを見ると私は、金閣を想像した。
 写真や教科書で、現実の金閣をたびたび見ながら、私の心の中では、父の語った金閣の幻のほうが勝を制した。父は決して現実の金閣が、金色《こんじき》にかがやいているなどと語らなかった筈《はず》だが、父によれば、金閣ほど美しいものは地上になく、又金閣というその字《じ》面《づら》、その音韻から、私の心が描きだした金閣は、途方もないものであった。
 遠い田の面《も》が日にきらめいているのを見たりすれば、それを見えざる金閣の投影だと思った。福井県とこちら京都府の国堺《くにざかい》をなす吉《きち》坂峠《ざかとうげ》は、丁度《ちょうど》真東に当っている。その峠のあたりから日が昇る。現実の京都とは反対の方角であるのに、私は山あいの朝《あさ》陽《ひ》の中から、金閣が朝空へ聳《そび》えているのを見た。
 こういう風に、金閣はいたるところに現われ、しかもそれが現実に見えない点では、この土地における海とよく似ていた。舞鶴湾は志楽村の西方一里半に位置していたが、海は山に遮《さえ》ぎられて見えなかった。しかしこの土地には、いつも海の予感のようなものが漂っていた。風にも時折海の匂《にお》いが嗅《か》がれ、海が時化《しけ》ると、沢山の鴎《かもめ》がのがれてきて、そこらの田に下りた。

 体も弱く、駈足《かけあし》をしても鉄棒をやっても人に負ける上に、生来の吃《ども》りが、ますます私を引込思案にした。そしてみんなが、私をお寺の子だと知っていた。悪童たちは、吃りの坊主が吃りながらお経を読む真似《まね》をしてからかった。講談の中に、吃りの岡《おか》っ引《ぴき》の出てくるのがあって、そういうところをわざと声を出して、私に読んできかせたりした。
 吃りは、いうまでもなく、私と外界とのあいだに一つの障碍《しょうがい》を置いた。最初の音《おん》がうまく出ない。その最初の音《おん》が、私の内界と外界との間の扉《とびら》の鍵《かぎ》のようなものであるのに、鍵がうまくあいたためしがない。一般の人は、自由に言葉をあやつることによって、内界と外界との間の戸をあけっぱなしにして、風とおしをよくしておくことができるのに、私にはそれがどうしてもできない。鍵が錆《さ》びついてしまっているのである。
 吃りが、最初の音《おん》を発するために焦《あせ》りにあせっているあいだ、彼は内界の濃密な黐《もち》から身を引き離そうとじたばたしている小鳥にも似ている。やっと身を引き離したときには、もう遅い。なるほど外界の現実は、私がじたばたしているあいだ、手を休めて待っていてくれるように思われる場合もある。しかし待っていてくれる現実はもう新鮮な現実ではない。私が手間をかけてやっと外界に達してみても、いつもそこには、瞬間に変色し、ずれてしまった、……そうしてそれだけが私にふさわしく思われる、鮮度の落ちた現実、半ば腐臭を放つ現実が、横たわっているばかりであった。
 こういう少年は、たやすく想像されるように、二種類の相反した権力意志を抱くようになる。私は歴史における暴君の記述が好きであった。吃りで、無口な暴君で私があれば、家来どもは私の顔色をうかがって、ひねもすおびえて暮らすことになるであろう。私は明確な、辷《すべ》りのよい言葉で、私の残虐《ざんぎゃく》を正当化する必要なんかないのだ。私の無言だけが、あらゆる残虐を正当化するのだ。こうして日《ひ》頃《ごろ》私をさげすむ教師や学友を、片っぱしから処刑する空想をたのしむ一方、私はまた内面世界の王者、静かな諦観《ていかん》にみちた大芸術家になる空想をもたのしんだ。外見こそ貧しかったが、私の内界は誰よりも、こうして富んだ。何か拭《ぬぐ》いがたい負《ひ》け目を持った少年が、自分はひそかに選ばれた者だ、と考えるのは、当然ではあるまいか。この世のどこかに、まだ私自身の知らない使命が私を待っているような気がしていた。

 ……こんな一挿《そう》話《わ》が思い出される。
 東舞鶴中学校は、ひろいグラウンドを控え、のびやかな山々にかこまれた、新式の明るい校舎であった。
 五月のある日、中学の先輩の、舞鶴海軍機関学校の一生徒が、休暇をもらって、母校へあそびに来た。
 彼はよく日に灼《や》け、目《ま》深《ぶか》にかぶった制帽の庇《ひさし》から秀でた鼻梁《びりょう》をのぞかせ、頭から爪先《つまさき》まで、若い英雄そのものであった。後輩たちを前にして、つらい規律ずくめの生活を語った。しかもそのみじめな筈の生活を、豪奢《ごうしゃ》な、贅《ぜい》沢《たく》ずくめの生活を語るような口調で語ったのである。一挙手一投足が誇りにみちあふれ、そんな若さで、自分の謙譲さの重みをちゃんと知っていた。彼はその制服の蛇腹《じゃばら》の胸を、海風を切って進む船首像の胸のように張っていた。
 彼はグラウンドへ下りる二三段の大《おお》谷《や》石《いし》の石段に腰を下ろしていた。そのまわりには、話に聴き惚《ほ》れている四五人の後輩がおり、五月の花々、チューリップ、スイートピイ、アネモネ、雛《ひな》罌粟《げし》、などが斜面の花圃《かほ》に咲きそろっていた。そして頭上には、朴《ほお》の木が、白いゆたかな大輪の花をつけていた。
 話者と聴《きき》手《て》たちは、何かの記念像のように動かなかった。私はといえば、二米《メートル》ほどの距離を置いて、グラウンドのベンチに一人で腰掛けていた。これが私の礼儀なのだ。五月の花々や、誇りにみちた制服や、明るい笑い声などに対する私の礼儀なのだ。
 さて、若い英雄は、その崇拝者たちよりも、よけい私のほうを気にしていた。私だけが威風になびかぬように見え、そう思うことが彼の誇りを傷つけた。彼は私の名をみんなにきいた。それから、
「おい、溝口《みぞぐち》」
 と、初対面の私に呼びかけた。私はだまったまま、まじまじと彼を見つめた。私に向けられた彼の笑いには、権力者の媚《こ》びに似たものがあった。
「何とか返事せんのか。唖《おし》か、貴様は」
「ど、ど、ど、吃りなんです」
 と崇拝者の一人が私の代りに答え、みんなが身を撚《よじ》って笑った。嘲笑《ちょうしょう》というものは何と眩《まぶ》しいものだろう。私には、同級の少年たちの、少年期特有の残酷な笑いが、光りのはじける葉《は》叢《むら》のように、燦然《さんぜん》として見えるのである。
「何だ、吃りか。貴様も海機へ入らんか。吃りなんか、一日で叩《たた》き直してやるぞ」
 私はどうしてだか、咄《とっ》嗟《さ》に明瞭《めいりょう》な返事をした。言葉はすらすらと流れ、意志とかかわりなく、あっという間《ま》に出た。
「入りません。僕は坊《ぼう》主《ず》になるんです」
 皆はしんとした。若い英雄はうつむいて、そこらの草の茎を摘んで、口にくわえた。
「ふうん、そんならあと何年かで、俺《おれ》も貴様の厄介《やっかい》になるわけだな」
 その年はすでに太平洋戦争がはじまっていた。

 ……このとき私に、たしかに一つの自覚が生じたのである。暗い世界に大手をひろげて待っていること。やがては、五月の花も、制服も、意地悪な級友たちも、私のひろげている手の中へ入ってくること。自分が世界を、底辺で引きしぼって、つかまえているという自覚を持つこと。……しかしこういう自覚は、少年の誇りとなるには重すぎた。
 誇りはもっと軽く、明るく、よく目に見え、燦然としていなければならなかった。目に見えるものがほしい。誰の目にも見えて、それが私の誇りとなるようなものがほしい。例えば、彼《?》の腰に吊《つ》っている短剣は正にそういうものだ。
 中学生みんなが憧《あこが》れている短剣は、実に美しい装飾だった。海兵の生徒はその短剣でこっそり鉛筆を削るなんぞと言われていたが、そういう荘厳な象徴をわざと日常些《さ》末《まつ》の用途に使うとは、何と伊達《だて》なことだろう。
 たまたま、機関学校の制服は、脱ぎすてられて、白いペンキ塗りの柵《さく》にかけられていた。ズボンも、白い下着のシャツも。……それらは花々の真近で、汗ばんだ若者の肌《はだ》の匂いを放っていた。蜜蜂《みつばち》がまちがえて、この白くかがやいているシャツの花に羽根を休めた。金モールに飾られた制帽は、柵のひとつに、彼の頭にあったと同じように、正《ただ》しく、目深に、かかっていた。彼は後輩たちに挑《いど》まれて、裏の土俵へ、角力《すもう》をしに行ったのである。
 脱ぎすてられたそれらのものは、誉《ほま》れの墓地のような印象を与えた。五月のおびただしい花々が、この感じを強めた。わけても、庇を漆黒に反射させている制帽や、そのかたわらに掛けられた帯革と短剣は、彼の肉体から切り離されて、却《かえ》って抒情的《じょじょうてき》な美しさを放ち、それ自体が思い出と同じほど完全で……、つまり若い英雄の遺品という風に見えたのである。
 私はあたりに人《ひと》気《け》のないのをたしかめた。角力場のほうで喚声が起った。私はポケットから、錆《さ》びついた鉛筆削りのナイフをとり出し、忍び寄って、その美しい短剣の黒い鞘《さや》の裏側に、二三条のみにくい切り傷を彫り込んだ。……

 ……右のような記述から、私を詩人肌の少年だと速断する人もいるだろう。しかし今日まで、詩はおろか、手記のようなものさえ書いたことがない。人に劣っている能力を、他の能力で補《ほ》填《てん》して、それで以《もっ》て人に抜きん出ようなどという衝動が、私には欠けていたのである。別の言い方をすれば、私は、芸術家たるには傲慢《ごうまん》すぎた。暴君や大芸術家たらんとする夢は夢のままで、実際に着手して、何かをやり遂げようという気持がまるでなかった。
 人に理解されないということが唯一《ゆいいつ》の矜《ほこ》りになっていたから、ものごとを理解させようとする、表現の衝動に見舞われなかった。人の目に見えるようなものは、自分には宿命的に与えられないのだと思った。孤独はどんどん肥《ふと》った、まるで豚のように。
 突然私の回想は、われわれの村で起った悲劇的な事件に行き当る。この事件には実際は何一つ与《あずか》っている筈もない私であるのに、それでもなお、私が関与し、参加したという確かな感じが消えないのである。
 私はその事件を通じて、一挙にあらゆるものに直面した。人生に、官能に、裏切りに、憎しみと愛に、あらゆるものに。そうしてその中にひそんでいる崇高な要素を、私の記憶は、好んで否定し、看《かん》過《か》した。

 叔父の家から二軒へだてた家に、美しい娘がいた。有為子《ういこ》という名である。目が大きく澄んでいる。家が物持のせいもあるが、権柄《けんぺい》ずくな態度をとる。みんなにちやほやされるにもかかわらず、一人ぼっちで、何を考えているのかわからないところがあった。嫉《ねた》み深い女は、有為子がおそらくまだ処女であるのに、ああいう人相こそ石女《うまずめ》の相だなどと噂《うわさ》した。
 有為子は女学校を出たばかりで、舞鶴海軍病院の特志看護婦になった。病院へは自転車で通勤できる距離である。しかし朝の出勤は夜のしらじら明けに家を出るので、私たちの登校時間よりも二時間あまり早い。
 ある晩、有為子の体を思って、暗鬱《あんうつ》な空想に耽《ふけ》って、ろくに眠ることのできなかった私は、暗いうちから床を脱《ぬ》け出し、運動靴を穿《は》いて、夏の暁闇《ぎょうあん》の戸外へ出た。
 有為子の体を思ったのは、その晩がはじめてではない。折にふれて考えていたことが、だんだんに固着して、あたかもそういう思念の塊のように、有為子の体は、白い、弾力のある、ほの暗い影にひたされた、匂いのある一つの肉の形で凝結して来たのである。私はそれに触れるときの自分の指の熱さを思った。またその指にさからってくる弾力や、花粉のような匂いを思った。
 私は暁闇の道をまっすぐに走った。石も私の足をつまずかせず、闇《やみ》が私の前に自在に道をひらいた。
 そこのところで道がひらけ、志楽村字《あざ》安岡の部落の外れになる。そこに一本の大きな欅《けやき》がある。欅の幹は朝露に濡《ぬ》れている。私は根《ね》方《かた》に身を隠し、部落のほうから有為子の自転車が来るのを待った。
 私は待って、何をしようとしたのでもない。息をはずませて走ってきたのが、欅の木《こ》蔭《かげ》に息を休めてみて、自分がこれから、何をしようとしているのかわからなかった。しかし私には、外界というものとあまり無縁に暮して来たために、ひとたび外界へ飛び込めば、すべてが容易になり、可能になるような幻想があった。
 藪《やぶ》蚊《か》が私の足を刺した。おちこちに?鳴《けいめい》が起った。私は路上を透かし見た。遠く白い仄《ほの》かなものが立った。それは暁の色のように思われたが、有為子だったのである。
 有為子は自転車に乗ったらしかった。前燈が点《つ》けられた。自転車は音もなく辷《すべ》ってきた。欅のかげから、私は自転車の前へ走り出た。自転車は危うく急停車をした。
 そのとき、私は自分が石に化してしまったのを感じた。意志も欲望もすべてが石化した。外界は、私の内面とは関《かか》わりなく、再び私のまわりに確《かっ》乎《こ》として存在していた。叔父の家を脱け出して、白い運動靴を穿き、暁闇の道をこの欅のかげまで駈けて来た私は、ただ自分の内面を、ひた走りに走って来たにすぎなかった。暁闇の中にかすかな輪郭をうかべている村の屋根々々にも、黒い木《こ》立《だち》にも、青葉山の黒い頂きにも、目前の有為子にさえも、おそろしいほど完全に意味が欠けていた。私の関与を待たずに、現実はそこに賦与《ふよ》されてあり、しかも、私が今まで見たこともない重みで、この無意味な大きな真暗な現実は、私に与えられ、私に迫っていた。
 言葉がおそらくこの場を救う只《ただ》一つのものだろうと、いつものように私は考えていた。私特有の誤解である。行動が必要なときに、いつも私は言葉に気をとられている。それというのも、私の口から言葉が出にくいので、それに気をとられて、行動を忘れてしまうのだ。私には行動という光彩陸離たるものは、いつも光彩陸離たる言葉を伴っているように思われるのである。
 私は何も見ていなかった。しかし思うに、有為子は、はじめは怖《おそ》れながら、私と気づくと、私の口ばかりを見ていた。彼女はおそらく、暁闇のなかに、無意味にうごめいている、つまらない暗い小さな穴、野の小動物の巣のような汚れた無《ぶ》恰好《かっこう》な小さな穴、すなわち、私の口だけを見ていた。そして、そこから、外界へ結びつく力が何一つ出て来ないのを確かめて安心したのだ。
「何よ。へんな真似《まね》をして。吃りのくせに」
 有為子は言ったが、この声には朝風の端正さと爽《さわ》やかさがあった。彼女はベルを鳴らし、ペダルにまた足をかけた。石をよけるように私をよけて迂《う》回《かい》した。人影ひとつないのに、遠く田のむこうまで、走り去る有為子が、たびたび嘲《あざ》けって鳴らしているベルの音を私はきいた。
 ――その晩、有為子の告口《つげぐち》で、彼女の母が、私の叔父の家へやって来た。私は日ごろは温和な叔父からひどく叱責《しっせき》された。私は有為子を呪《のろ》い、その死をねがうようになり、数ヶ月後には、この呪いが成就《じょうじゅ》した。爾《じ》来《らい》私は、人を呪うということに確信を抱いている。
 寝ても覚めても、私は有為子の死をねがった。私の恥の立会人が、消え去ってくれることをねがった。証人さえいなかったら、地上から恥は根絶されるであろう。他人はみんな証人だ。それなのに、他人がいなければ、恥というものは生れて来ない。私は有為子のおもかげ、暁闇のなかで水のように光って、私の口をじっと見つめていた彼女の目の背後に、他人の世界――つまり、われわれを決して一人にしておかず、進んでわれわれの共犯となり証人となる他人の世界――を見たのである。他人がみんな滅びなければならぬ。私が本当に太陽へ顔を向けられるためには、世界が滅びなければならぬ。……
 例の告口の二ヶ月あと、有為子は海軍病院の勤めをやめて、家に引きこもった。村の人たちはいろいろと取《とり》沙汰《ざた》した。そうして秋のおわりに、あの事件が起った。

 ……私たちはこの村に海軍の脱走兵が逃げ込んだなどということは夢にも知らなかった。ただ昼ごろ村役場へ憲兵が来た。しかし憲兵の来るのはめずらしくなかったから、さほどにも思わなかった。
 それは十月末の明るい一日である。私はいつものように学校へゆき、夜の勉強をすませて、寝るべき時刻であった。燈《あかり》を消そうとして見下ろした村道に、大ぜいの人が、犬の群のように息せいて駈《か》ける音がきこえた。私は階下に下りた。玄関口には学友の一人が立っていて、起きてきた叔父叔母や私に、目を丸くして叫んだ。
「今、むこうで、有為子が憲兵につかまってるぞ。一緒に行こう」
 私は下駄《げた》をつっかけて駈け出した。月のよい夜で、刈《かり》田《た》のそこかしこに稲架《はざ》が鮮明な影を落していた。
 一むらの木立のかげに、黒い人影が集まって動いている。黒っぽい洋服を着た有為子が地面に坐《すわ》っている。その顔が大そう白い。まわりにいるのは、四五人の憲兵と、両親である。憲兵の一人が、弁当包みのようなものを差出して、怒鳴っている。父親はあちこちへ顔を動かし、憲兵に詫《わ》び言を言ったり、娘を責め立てたりしている。母親はうずくまって泣いている。
 私たちは田を一つ隔てたこちらの畦《あぜ》から眺《なが》めていた。見物はだんだん増え、お互いに無言の肩が触れた。月が絞られたように小さく、われわれの頭上にあった。
 学友が私の耳もとで説明した。
 弁当包みを持って家を抜け出して、隣りの部落へ行こうとしていた有為子が、待ち伏せしていた憲兵につかまったこと。その弁当は脱走兵へ届けるものに相違ないこと。脱走兵と有為子は海軍病院で親しくなり、そのために妊娠した有為子が病院を追い出されたこと。憲兵は脱走兵の隠れ家を言えと詰問《きつもん》しているが、有為子はそこに坐ったまま一歩も動かず、頑《かたく》なに押し黙っていること。……
 私はといえば、目《ま》ばたきもせずに、有為子の顔ばかりを見つめていた。彼女は捕われの狂女のように見えた。月の下に、その顔は動かなかった。
 私は今まで、あれほど拒否にあふれた顔を見たことがない。私は自分の顔を、世界から拒まれた顔だと思っている。しかるに有為子の顔は世界を拒んでいた。月の光りはその額や目や鼻筋や頬《ほお》の上を容赦なく流れていたが、不動の顔はただその光りに洗われていた。一《ちょ》寸《っと》目を動かし、一寸口を動かせば、彼女が拒もうとしている世界は、それを合図に、そこから雪崩《なだ》れ込んで来るだろう。
 私は息を詰めてそれに見入った。歴史はそこで中断され、未来へ向っても過去へ向っても、何一つ語りかけない顔。そういうふしぎな顔を、われわれは、今伐《き》り倒されたばかりの切株の上に見ることがある。新鮮で、みずみずしい色を帯びていても、成長はそこで途絶え、浴びるべき筈《はず》のなかった風と日光を浴び、本来自分のものではない世界に突如として曝《さら》されたその断面に、美しい木《もく》目《め》が描いたふしぎな顔。ただ拒むために、こちらの世界へさし出されている顔。……
 私は有為子の顔がこんな美しかった瞬間は、彼女の生涯《しょうがい》にも、それを見ている私の生涯にも、二度とあるまいと思わずにはいられなかった。しかしそれが続いたのは、思ったほど永い時間ではなかった。この美しい顔に、突然、変容が現われたのである。
 有為子は立上った。そのとき彼女が笑ったのを見たように思う。月あかりに白い前歯のきらめいたのを見たように思う。私はそれ以上、この変容について記すことができない。立上った有為子の顔は、月のあからさまな光りをのがれて、木立の影に紛れたからである。
 有為子が、裏切りを決心したときのこの変容を、私が見られなかったのは残念なことだ。つぶさにそれを見ていれば、私にも人間を恕《ゆる》す心が、あらゆる醜さを含めて恕す心が、芽生えたかもしれないのだ。
 有為子は隣りの部落の鹿《か》原《わら》の山かげを指さした。
「金剛院だ」
 と憲兵が叫んだ。

 それから私にも、子供らしいお祭りさわぎのよろこびが生れた。憲兵は手分けをして、金剛院を四方から囲むことになった。村民の協力が要請された。意地のわるい興味から、私は他の五六人の少年と共に、案内の有為子を先立ててゆく第一隊に加わった。月の道を、有為子が憲兵に附添われて、先頭に立って歩くその確信にみちた足取に、私はおどろいた。
 金剛院は名高かった。それは安岡から歩いて十五分ほどの山かげにあり、高丘《たかおか》親王の御手植の栢《かや》や、左甚五郎《ひだりじんごろう》作と伝えられる優雅な三重塔のある名刹《めいさつ》である。夏にはよく、その裏山の滝を浴びて遊んだ。
 川のほとりに本堂の塀《へい》がある。やぶれた築《つい》泥《じ》の上に、芒《すすき》が生い茂って、その白い穂が夜目にもつややかに見える。本堂の門のそばには山茶花《さざんか》が咲いている。一行は黙々と川ぞいに歩いた。
 金剛院の御《み》堂《どう》は、もっと昇ったところにある。丸木橋をわたると、右に三重塔が、左に紅葉の林があって、その奥に百五段の苔《こけ》蒸《む》した石段がそびえている。石灰石であるために滑りやすい。
 丸木橋を渡る前に、憲兵がふりかえって、手振りで以て、一行の歩みを止めた。むかしここには運慶湛慶《うんけいたんけい》作の仁《に》王《おう》門があったのだそうである。そしてここから奥、九十九《つづら》谷《だに》の山々は金剛院の寺領になっている。
 ……私たちは息をひそめた。
 憲兵は有為子を促した。彼女一人が丸木橋をわたり、しばらくして私たちはそれにつづいた。石段の下方は影に包まれている。しかし中程から上は、月明りの中に在る。われわれは石段の下方の、そこかしこの物蔭《ものかげ》に身を隠した。色づきかけた紅葉は、月の光りに黒ずんで見えた。
 石段の上には金剛院の本殿があり、そこから左へ斜めに渡殿《わたどの》が架せられ、神楽《かぐら》殿《でん》のような空《あき》御《み》堂《どう》に通じている。その空御堂は空中にせり出し、清水《きよみず》の舞台を模して、組み合わされた多くの柱と横木が、崖《がけ》の下からそれを支えているのである。御堂も渡殿も、支える木組も、風雨に洗われて、清らかに白くて、白骨のようである。紅葉の盛りには、紅葉の色と、この白骨のような建築とが、美しい調和を示すのだが、夜だと、ところどころ斑《まだ》らに月光を浴びた白い木組は、怪しくも見え、なまめかしくも見える。
 脱走兵は、舞台の上の御堂のなかに、身をひそめているらしかった。憲兵は有為子を囮《おとり》にして、彼を捕えようと思ったのである。
 私たち証人《??》は、蔭にかくれ、息を詰めていた。十月下旬の冷たい夜気に包まれながら、私の頬はほてった。
 有為子一人が、石灰石の百五段の石段を昇って行った。狂人のように誇らしく。……黒い洋服と黒い髪のあいだに、美しい横顔だけが白い。
 月や星や、夜の雲や、鉾杉《ほこすぎ》の稜線《りょうせん》で空に接した山や、まだらの月かげや、しらじらとうかぶ建築や、こういうもののうちに、有為子の裏切りの澄明な美しさは私を酔わせた。彼女は孤《ひと》りで、胸を張って、この白い石段を昇ってゆく資格があった。その裏切りは、星や月や鉾杉と同じものだった。つまり、われわれ証人と一緒にこの世界に住み、この自然を受け容《い》れることだった。彼女はわれわれの代表者として、そこを昇って行ったのである。
 息をはずませて、私はこう思わずにはいられなかった。
『裏切ることによって、とうとう彼女は、俺《おれ》をも受け容れたんだ。彼女は今こそ俺のものなんだ』

 ……事件というものは、われわれの記憶の中から、或る地点で失墜する。百五段の苔蒸した石段を昇ってゆく有為子はまだ眼前にある。彼女は永久にその石段を昇ってゆくように思われる。
 しかしそれから先の彼女は別人になってしまう。おそらく石段を登り切った有為子は、もう一度私を、われわれを裏切ったのだ。それから先の彼女は、世界を全的に拒みもしない。全的に受け容れもしない。ただの愛慾の秩序に身を屈し、一人の男のための女に身を落してしまった。
 だから私は、それを古い石版刷《せきばんずり》のような光景としてしか思い出すことができぬ。……有為子は渡殿を渡って、御堂の闇へ呼びかけた。男の影があらわれた。有為子は何か語りかけた。男は石段の途中へ向けて、手にしていた拳銃《けんじゅう》を撃った。これに応戦する憲兵の拳銃が、石段の中途の繁みから発射された。男はもう一度拳銃を構えると、渡殿のほうへ逃げようとしている有為子の背中へ、何発かつづけて射《う》った。有為子は倒れた。男は拳銃の銃先《つつさき》を、自分の顳┥《こめかみ》に当てて発射した。……
 ――憲兵をはじめ、みんなが我がちに石段を駈け上り、二人の屍《しかばね》のほうへいそぐのをよそに、私は紅葉のかげに、じっと身をひそめていたままである。白い木組は縦横に重なって、私の頭上にそびえていた。その上からは板敷の渡殿を踏みちらす靴音が、ごく軽やかな音になって舞い落ちてきた。二三の懐中電燈の光りの入り乱れるのも、欄《てすり》をこえて紅葉の梢《こずえ》にまで届いた。
 私にはすべてが遠い事件だとしか思えなかった。鈍感な人たちは、血が流れなければ狼《ろう》狽《ばい》しない。が、血の流れたときは、悲劇は終ってしまったあとなのである。しらぬ間に私はうとうとしていた。目がさめたとき、皆の置き忘れた私のまわりは、小鳥の囀《さえず》りにみたされ、朝陽がまともに紅葉の下枝深く射《さ》し込んでいた。白骨の建築は、床下から日をうけて、よみがえったように見えた。静かに、誇らしげに、紅葉の谷間《たにあい》へ、その空御堂をせり出していた。
 私は立上って、身ぶるいして、体のそこかしこをこすった。寒さだけが身内に残っていた。残っているのは寒さだけであった。



 次の年の春休みに、父が国民服に袈裟《けさ》をかけた姿で、叔父の家を訪ねてきた。私を二三日京都へ連れて行くというのである。父の肺患はずいぶん進んでいて、私はその衰えにおどろいた。私のみならず、叔父夫婦も京都行を止めるのに、父はきかない。あとになって思うと、父は自分の命のあるあいだに、私を金閣寺の住職に引合わせたかったのである。
 もちろん金閣寺を訪れることは、私の永年の夢であったが、気丈に振舞っていても誰の目にも重患の病人に見える父と、旅へ出るのは気が進まなかった。まだ見ぬ金閣にいよいよ接する時が近づくにつれ、私の心には躊躇《ちゅうちょ》が生じた。どうあっても金閣は美しくなければならなかった。そこですべては、金閣そのものの美しさよりも、金閣の美を想像しうる私の心の能力に賭《か》けられた。
 少年の頭で理解できるだけのことについては、私も金閣に通暁《つうぎょう》していた。通り一ぺんの美術書は、こんなふうに金閣の歴史を述べていた。
「足利義満《あしかがよしみつ》は西園《さいおん》寺《じ》家の北山殿《きたやまどの》を譲り受け、ここに大規模な別荘を営んだ。その主要建築は、舎《しゃ》利《り》殿《でん》、護摩《ごま》堂《どう》、懺法堂《せんぼうどう》、法《ほ》水院《すいいん》などの仏教建築と、宸殿《しんでん》、公卿間《くげのま》、会所、天鏡閣、拱北楼《きょうほくろう》、泉殿《いずみどの》、看雪亭などの、住宅関係の建築とであった。舎利殿は最も力を注いで造られ、後に金閣と言われた建物である。いつ頃から金閣というようになったか、はっきりと一線を引くのは困難であるが、応仁《おうにん》の乱以後らしく、文明《ぶんめい》頃には可《か》成《なり》普遍的に用いられている。
 金閣はひろい苑《えん》池《ち》(鏡湖池)にのぞむ三層の楼閣建築で、一三九八年(応永《おうえい》五年)ごろ出来上ったものと思われる。一?二層は寝殿《しんでん》造《づくり》風につくり、蔀戸《しとみど》を用いているが、第三層は方三間の純然たる禅堂仏堂風につくり、中央を桟唐《さんから》戸《ど》、左右を花《か》頭窓《とうまど》としている。屋根は檜《ひ》皮葺《わだぶき》?宝形造《ほうぎょうづくり》で金銅の鳳凰《ほうおう》をあげている。また、池にのぞんで、切妻《きりづま》屋根の釣殿(漱清《そうせい》)を突出させ、全体の単調を破っている。屋根の勾配《こうばい》はゆるやかで、軒は疎《そ》?《すい》とし、木割細く軽快優美であって、住宅風の建築に仏堂風を配して調和をえた庭園建築の優作であり、公家《くげ》文化をとり入れた義満の趣味の現われと、当時の雰《ふん》囲気《いき》とをよく伝えている。
 義満の死後、北山殿は遺命により禅刹《ぜんさつ》となし、鹿苑《ろくおん》寺《じ》と号した。その建物も他に移されたり、または荒廃したりしたが、金閣だけは幸いに残された。……」
 夜空の月のように、金閣は暗黒時代の象徴として作られたのだった。そこで私の夢想の金閣は、その周囲に押しよせている闇《やみ》の背景を必要とした。闇のなかに、美しい細身の柱の構造が、内から微光を放って、じっと物静かに坐っていた。人がこの建築にどんな言葉で語りかけても、美しい金閣は、無言で、繊細な構造をあらわにして、周囲の闇に耐えていなければならぬ。
 私はまた、その屋根の頂きに、永い歳月を風雨にさらされてきた金銅の鳳凰を思った。この神秘的な金いろの鳥は、時もつくらず、羽ばたきもせず、自分が鳥であることを忘れてしまっているにちがいなかった。しかしそれが飛ばないようにみえるのはまちがいだ。ほかの鳥が空間を飛ぶのに、この金の鳳凰はかがやく翼をあげて、永遠に、時間のなかを飛んでいるのだ。時間がその翼を打つ。翼を打って、後方に流れてゆく。飛んでいるためには、鳳凰はただ不動の姿で、眼《まなこ》を怒らせ、翼を高くかかげ、尾羽根をひるがえし、いかめしい金いろの双の脚を、しっかと踏んばっていればよかったのだ。
 そうして考えると、私には金閣そのものも、時間の海をわたってきた美しい船のように思われた。美術書が語っているその「壁の少ない、吹ぬきの建築」は、船の構造を空想させ、この複雑な三層の屋形船が臨んでいる池は、海の象徴を思わせた。金閣はおびただしい夜を渡ってきた。いつ果てるともしれぬ航海。そして、昼の間というもの、このふしぎな船はそしらぬ顔で碇《いかり》を下ろし、大ぜいの人が見物するのに委《まか》せ、夜が来ると周囲の闇に勢いを得て、その屋根を帆のようにふくらませて出帆《しゅっぱん》したのである。
 私が人生で最初にぶつかった難問は、美ということだったと言っても過言ではない。父は田舎の素《そ》朴《ぼく》な僧侶《そうりょ》で、語彙《ごい》も乏しく、ただ「金閣ほど美しいものは此《この》世《よ》にない」と私に教えた。私には自分の未知のところに、すでに美というものが存在しているという考えに、不満と焦躁《しょうそう》を覚えずにはいられなかった。美がたしかにそこに存在しているならば、私という存在は、美から疎《そ》外《がい》されたものなのだ。
 金閣はしかし私にとって、決して一つの観念ではなかった。山々がその眺望《ちょうぼう》を隔てているけれど、見ようと思えばそこへ行って見ることもできる一つの物だった。美は、かくて指にも触れ、目にもはっきり映る一つの物であった。さまざまな変容のあいだにも、不変の金閣がちゃんと存在することを、私は知ってもいたし、信じてもいた。
 金閣は私の手のうちに収まる小さな精巧な細工物のように思われる時があり、又、天空へどこまでも聳《そび》えてゆく巨大な怪物的な伽《が》藍《らん》だと思われる時があった。美とは小さくも大きくもなく、適度なものだという考えが、少年の私にはなかった。そこで小さな夏の花を見て、それが朝露に濡《ぬ》れておぼろな光りを放っているように見えるとき、金閣のように美しい、と私は思った。また、雲が山のむこうに立ちはだかり、雷を含んで暗澹《あんたん》としたその縁《ふち》だけを、金色にかがやかせているのを見るときも、こんな壮大さが金閣を思わせた。はては、美しい人の顔を見ても、心の中で、「金閣のように美しい」と形容するまでになっていた。

 その旅は物悲しかった。舞鶴《まいづる》線は西舞鶴から、真《ま》倉《ぐら》、上杉などの小さな駅々に止って、綾《あや》部《べ》を経て、京都へ向うのだが、客車は汚なく、保津《ほづ》峡《きょう》ぞいのトンネルの多いところでは、煤煙《ばいえん》が容赦なく車内に吹き込み、そのむうっとする煙のために、何度となく父は咳《せ》き込んだ。
 乗客は多少とも海軍に関係のある人が多かった。三等車は、下士官、水兵、工員、海兵団へ面会に行ったかえりの家族などで満員だった。
 私は窓外のどんよりした春の曇り空を見た。父の国民服の胸にかけられた袈裟を見、血色のよい若い下士官たちの金釦《きんボタン》をはね上げているような胸を見た。私はその中間にいるような気がした。やがて丁年に達すれば、私も兵隊にとられる。しかし、私はたとえ兵隊になっても、目の前の下士官のように、役割に忠実に生きることができるかどうか。ともかく、私は二つの世界に股《また》をかけている。私はまだこんなに若いのに、醜い頑《がん》固《こ》なおでこの下で、父の司《つかさど》っている死の世界と、若者たちの生の世界とが、戦争を媒介として、結ばれつつあるのを感じていた。私はその結び目になるだろう。私が戦死すれば、目の前のこの岐《わか》れ道のどっちを行っても、結局同じだったことが判明するだろう。
 私の少年期は薄明の色に混濁していた。真暗な影の世界はおそろしかったが、白昼のようなくっきりした生も、私のものではなかった。
 父が咳き入るのを看取《みと》りながら、私はたびたび保津川を窓外に見た。それは化学の実験で使う硫酸銅のような、くどいほどの群青《ぐんじょう》いろをしていた。トンネルを出る毎に、保津峡は、線路から遠くにあったり、また意外に目《ま》近《ぢか》に寄り添うて来ていて、滑らかな岩に囲まれて、その群青の轆《ろく》轤《ろ》をとどろに廻《まわ》していたりした。
 父は白米の握り飯の弁当を車中でひらくのを恥かしがった。
「闇米《やみごめ》ではないさかいにな。檀《だん》家《か》の志だから、よろこんでもろたらええのんや」
 あたりにきこえるようにそう言って食べるのだが、父はそのさして大きくない握り飯を一つ食べるのがようようであった。
 私にはこの煤《すす》けた古い列車が、都を目ざしてゆくようには思えなかった。この汽車は死の駅へ向って進んでいるように思われた。こう思うとトンネル毎に車内に充《み》ちる煙は、焼場の匂《にお》いがした。

 ……しかしさすがに鹿苑寺総門の前に立ったとき、私の胸はときめいた。これからこの世で一等美しいものが見られるのだ。
 日は傾きかけ、山々は霞《かすみ》に包まれていた。数人の見物が、私たち父子と前後してその門をくぐった。門の左方には、鐘楼《しゅろう》をめぐって残んの花をつけた梅林があった。
 父は、大きな櫟《くぬぎ》の木を前に控えた本堂の玄関に立って案内を乞《こ》うた。住職は来客中なので、二三十分待ってほしいと云われた。
「その間に金閣を見てまわってこ」
 と父が言った。
 父は多分顔を利《き》かして、只《ただ》で、参観門をくぐるところを、息子の私に見せたかったらしい。しかし切符やお札《ふだ》を売る係の人も、参観門で切符を検《あらた》める人も、十数年前に父がよく来たころの人とはすっかり変っていた。
「この次来るときは、又変ってるんやろな」
 と父はうそ寒い面持《おももち》で言った。しかし「この次来るとき」を、もう父が確信していないということを私は感じた。
 しかし私は、わざと少年らしく(私はこんな時だけ、故意の演技の場合だけ、少年らしかった)、陽気に先に立って、ほとんど駈《か》けて行った。そこであれほど夢みていた金閣は、大そうあっけなく、私の前にその全容をあらわした。
 私は鏡湖池のこちら側に立っており、金閣は池をへだてて、傾きかける日にその正面をさらしていた。漱清《そうせい》は左方のむこうに半ば隠れていた。藻《も》や水草の葉のまばらにうかんだ池には、金閣の精《せい》緻《ち》な投影があり、その投影のほうが、一そう完全に見えた。西日は池水の反射を、各層の庇《ひさし》の裏側にゆらめかせていた。まわりの明るさに比して、この庇の裏側の反射があまり眩《まば》ゆく鮮明なので、遠近法を誇張した絵のように、金閣は威《い》丈高《たけだか》に、少しのけぞっているような感じを与えた。
「どや、きれいやろ。一階を法水院、二階を潮音洞、三階を究竟頂《くきょうちょう》と云うのんや」
 父の病んだ肉の薄い手は私の肩に置かれていた。
 私はいろいろに角度を変え、あるいは首を傾けて眺《なが》めた。何の感動も起らなかった。それは古い黒ずんだ小《ち》っぽけな三階建にすぎなかった。頂きの鳳凰も、鴉《からす》がとまっているようにしか見えなかった。美しいどころか、不調和な落着かない感じをさえ受けた。美というものは、こんなに美しくないものだろうか、と私は考えた。
 もし私が謙虚な勉強好きの少年だったら、そんなにたやすく落胆する前に、自分の鑑賞眼の至らなさを嘆いたであろう。しかし私の心があれほど美しさを予期したものから裏切られた苦痛は、ほかのあらゆる反省を奪ってしまった。
 私は金閣がその美をいつわって、何か別のものに化けているのではないかと思った。美が自分を護《まも》るために、人の目をたぶらかすということはありうることである。もっと金閣に接近して、私の目に醜く感じられる障害を取除き、一つ一つの細部を点検し、美の核心をこの目で見なければならぬ。私が目に見える美をしか信じなかった以上、この態度は当然である。
 さて父は私を導いて、うやうやしく法水院の縁先に上った。私はまず硝子《ガラス》のケースに納められた巧《こう》緻《ち》な金閣の模型を見た。この模型は私の気に入った。このほうがむしろ、私の夢みていた金閣に近かった。そして大きな金閣の内部にこんなそっくりそのままの小さな金閣が納まっているさまは、大宇宙の中に小宇宙が存在するような、無限の照応を思わせた。はじめて私は夢みることができた。この模型よりもさらにさらに小さい、しかも完全な金閣と、本物の金閣よりも無限に大きい、ほとんど世界を包むような金閣とを。
 しかし私の足は、いつまでも模型の前に止まっていたわけではない。次いで、父は名高い国宝の義満像の前へ私を案内した。その木像は義満の剃髪《ていはつ》ののちの名、鹿苑院殿道義の像と呼ばれている。
 それも私には煤けた奇妙な偶像と見えただけで、何の美しさも感じられなかった。さらに二階の潮音洞に昇り、狩野《かのう》正信《まさのぶ》の筆と云われる天人奏楽の天井画《てんじょうが》を見ても、頂上の究竟頂の隈々《くまぐま》にのこる、哀れな金箔《きんぱく》の痕跡《こんせき》を見ても、美しいと思うことはできなかった。
 私は細い欄干《らんかん》に凭《よ》ってぼんやり池のおもてを見下ろした。池は夕日に照らされ、銹《さ》びた古代の銅鏡のような鏡面に、金閣の影をまっすぐに落していた。水草や藻のはるか下方に、映っている夕空があった。その夕空は、われわれの頭上にある空とはちがっていた。それは澄明で、寂光に満たされ、下方から、内側から、この地上の世界をすっぽり呑《の》み込んでおり、金閣はその中へ、黒く錆《さ》び果てた巨大な金《きん》無垢《むく》の碇《いかり》のように沈んでいた。……

 住職の田山道詮和尚《おしょう》は、父と禅堂における友であった。道詮和尚も父も、三年にわたる禅堂生活をし、そのあいだ起居を共にした仲であった。二人はこれも将軍義満の建立《こんりゅう》にかかる相国寺《しょうこくじ》の専門道場へ、昔ながらの庭詰《にわづめ》や旦《たん》過《が》詰《づめ》の手続を経て入衆《にっしゅ》したのである。のみならず、ずっとあとで道詮師が機嫌のよいときに話したことだが、父とはこうした辛苦の友であるのみならず、開枕《かいちん》の時刻のあとで、塀《へい》を乗り超えて女を買いに出たりする楽しみを共にした仲でもあった。
 われわれ父子は、金閣拝見のあと、ふたたび本堂の玄関をおとなうと、長いひろびろとした廊下をみちびかれて、名高い陸舟松のある庭を見わたす大書院の住職の部屋へとおされた。
 私は学生服の膝《ひざ》を畏《かしこ》まらせて、固くなって坐《すわ》っていたが、父はここへ来て俄《にわ》かに寛《くつろ》ぎを見せた。しかし父と、ここの住職とは、同じ出身でも、福々しさがずんとちがっていた。父は病み衰え、貧相で、粉っぽい肌《はだ》をしているのに、道詮和尚は、まるで桃いろのお菓子みたいに見えた。和尚の机の上には、こんな花々しい寺らしく、諸方から送られた小包や雑誌類、本、手紙などが、封も切られずに山と積まれていた。和尚はむっちりした指さきで、鋏《はさみ》をとって、小包の一つを器用に剥《む》いた。

「東京から送ってきた菓子や。今ごろ、こんな菓子はめずらしい。店には出さんと、軍や官庁にだけ納めてるんやそうな」
 われわれはお薄茶《うす》をいただき、ついぞ喰《た》べたこともない西洋の干菓子《ひがし》のようなものを喰べた。緊張すればするほど、粉が際限もなく、私の光っている黒サージの膝にこぼれた。
 父と住職は、軍や官僚が神社ばかりを大事にして寺を軽《かろ》んじ、軽んじるばかりか圧迫することを憤慨し、これからの寺の経営はどういう風にやってゆくべきか、などという議論をした。
 住職は小《こ》肥《ぶと》りしていて、もちろん皺《しわ》もあったが、一つ一つの皺の中までが、きれいに洗い込まれている。丸顔で、鼻だけが長くて、流れてきた樹脂が固まったような形をしている。顔がそういう風なのに、剃《そ》り上げた頭の形はいかつく、精力が頭に集まっているようで、頭だけがひどく動物的なのである。
 父と住職の話題は、僧堂時代の思い出に移った。私は庭の陸舟松を眺めていた。それは巨松の枝が低くわだかまって、船の形をし、舳《みよし》のほうの枝だけが、こぞって高まっているのである。閉園間近に団体の見物が来たらしく、塀ごしに金閣のほうからざわめきがひびいて来る。その足音も人声も、春の暮れがたの空に吸われて、音が尖《とが》ってきこえず、やわらかい円みを帯びてきこえる。足音がまた潮のように遠ざかってゆくのが、いかにも地上を通りすぎてゆく衆生《しゅじょう》の足音という風に思われる。私は暮れ残る光りを凝《こ》らしている金閣頂上の鳳凰をじっと見上げた。
「この子をな、……」と父の言っている声をききつけて、私は父のほうへふりむいた。ほとんど暗くなった室内では、私の将来が、父から道詮師に託されているのだった。
「わしも永いことないと思うてますので、どうかその節はこの子をな」
 道詮師はさすがにお座なりの慰めなどは言わなかった。
「よろし。お引受けします」
 私がおどろいたことには、その後の二人の愉《たの》しげな対話は、さまざまな名僧の死の逸話についてであった。或る名僧は「ああ、死にとうない」と言って死に、或る名僧はゲーテそっくりに「もっとあかりを」と言って死に、或る名僧は死ぬまで自分の寺の銭勘定《ぜにかんじょう》をしていたそうである。

 薬石《やくせき》と呼ばれる夕食を御馳《ごち》走《そう》になり、その晩は寺に泊めてもらうことになったが、夕食後私は父を促して、もう一度金閣を見に行った。月がのぼったからである。
 父は住職との久々の対面に昂奮《こうふん》して、大そう疲れていたが、金閣ときくと、息を切らしながら私の肩につかまってついて来た。
 月は不動山の外れからのぼった。金閣は裏側から月光をうけ、暗い複雑な影を折り畳んで静まり、究竟頂の華頭窓の枠《わく》だけが、月の滑らかな影を辷《すべ》らせていた。究竟頂は吹抜けなので、そこには仄《ほの》かな月明りが住んでいるように思われた。
 葦原島のかげから夜鳥が叫びをあげて飛び翔《た》った。私はわが肩に父の痩《や》せ細った手の重みを感じていた。その肩に目をやったとき、月光の加減で、私は父の手が白骨に変っているのを見た。



 あれほど失望を与えた金閣も、安岡へかえったのちの日に日に、私の心の中でまた美しさを蘇《よみがえ》らせ、いつかは、見る前よりももっと美しい金閣になった。どこが美しいということはできなかった。夢想に育《はぐく》まれたものが、一旦現実の修正を経て、却《かえ》って夢想を刺《し》戟《げき》するようになったとみえる。
 もう私は、属目《しょくもく》の風景や事物に、金閣の幻影を追わなくなった。金閣はだんだんに深く、堅固に、実在するようになった。その柱の一本一本、華頭窓、屋根、頂きの鳳凰なども、手に触れるようにはっきりと目の前に浮んだ。繊細な細部、複雑な全容はお互いに照応し、音楽の一小節を思い出すことから、その全貌《ぜんぼう》が流れ出すように、どの一部分をとりだしてみても、金閣の全貌が鳴りひびいた。
「地上でもっとも美しいものは金閣だと、お父さんが言われたのは本当です」
 とはじめて、私は父への手紙に書いた。父は私を叔父の家に連れ戻すと、すぐ又寂しい岬《みさき》の寺にかえっていた。
 折り返して、母から電報が届いた。父は夥《おびただ》しい喀血《かっけつ》をして死んでいた。



第二章


 父の死によって、私の本当の少年時代は終るが、自分の少年時代に、まるきり人間的関心ともいうべきものの、欠けていたことに私は愕《おどろ》くのである。そしてこの愕きは、父の死を自分が少しも悲しんでいないのを知るに及んで、愕きとも名付けようのない、或る無力な感懐になった。
 駈《か》けつけたとき、父はすでに棺の中に横たわっていた。というのは、内浦まで徒歩で行って、そこから船を頼んで、浦づたいに成《なり》生《う》へかえるには、丸一日かかったからである。季節は梅雨《つゆ》入り前の、照りつける暑い毎日である。私が対面すると匆々《そうそう》、柩《ひつぎ》は荒涼たる岬《みさき》の焼場に運ばれて、海のほとりで焼かれることになっていた。
 田舎の寺の住職の死というものは、異様なものである。適切すぎて、異様なのである。彼はいわば、その地方の精神的中心でもあり、檀《だん》家《か》の人たちのそれぞれの生涯の後見人でもあり、彼等の死後を委託される者でもあった。その彼が寺で死んだ。それはまるで、職務をあまりにも忠実にやってのけたという感銘を与え、死に方を教えて廻っていた者が、自ら実演してみせてあやまって死んだような、一種の過失と謂《い》った感を与える。
 実際父の柩は、用意万端整えられていたものの中にはめ込まれたような、所を得すぎた感じで置かれていた。母や雛僧《すうそう》や檀家の人々はその前で泣いていた。雛僧のたどたどしい読経《どきょう》も、半ば、柩の中の父の指示に頼っているという風なのである。
 父の顔は初夏の花々に埋もれていた。花々はまだ気味のわるいほど、なまなましく生きていた。花々は井戸の底をのぞき込んでいるようだった。なぜなら、死人の顔は生きている顔の持っていた存在の表面から無限に陥没《かんぼつ》し、われわれに向けられていた面《めん》の縁《ふち》のようなものだけを残して、二度と引き上げられないほど奥のほうへ落っこちていたのだから。物質というものが、いかにわれわれから遠くに存在し、その存在の仕方が、いかにわれわれから手の届かないものであるかということを、死顔ほど如実《にょじつ》に語ってくれるものはなかった。精神が、死によってこうして物質に変《へん》貌《ぼう》することで、はじめて私はそういう局面に触れ得たのだが、今、私には徐々に、五月の花々とか、太陽とか、机とか、校舎とか、鉛筆とか、……そういう物質が何故あれほど私によそよそしく、私から遠い距離に在ったか、その理由が呑《の》み込めて来るような気がした。
 さて、母や檀《だん》那《な》たちは、私と父との最後の対面を見《み》戍《まも》っていた。しかしこの言葉が暗示している生ける者の世界の類推を、私の頑《かたく》なな心は受けつけなかった。対面などではなく、私はただ父の死顔を見ていた《????》。
 屍《しかばね》はただ見られている。私はただ見ている。見るということ、ふだん何の意識もなしにしているとおり、見るということが、こんなに生ける者の権利の証明でもあり、残酷さの表示でもありうるとは、私にとって鮮やかな体験だった。大声で歌いもせず、叫びながら駈けまわりもしない少年は、こんな風にして、自分の生を確かめてみることを学んだ。
 卑屈なところの多い私ではあったが、そのとき、少しも涙に濡《ぬ》れていない明るい顔を、檀家の人たちのほうへ向けることを恥じなかった。寺は海に臨む崖《がけ》上にあった。弔い客たちの背後には、日本海の沖にわだかまる夏雲が立ちふさがっていた。
 起《き》龕《がん》の読経がはじまり、私はそれに加わった。本堂は暗かった。柱にかけられた幡《ばん》、内陣の長押《なげし》の華《け》鬘《まん》、香炉や華瓶《けびょう》のたぐいは、燈明のちらちらする光りをうけて煌《きら》めいた。ときどき海風が入って来て、私の僧衣の袂《たもと》をふくらませた。私は読経している自分の目のはじに、強烈な光りを彫り込んだ夏の雲の立姿をたえず感じていた。
 たえず私の顔の半面にそそぎかけるあの厳しい外光。輝やかしいあの侮《ぶ》蔑《べつ》。……

 ――葬列がもう一二丁で焼場へ着くというとき、私たちは突然の雨に会った。折よく気のよい檀家の前だったので、柩もろとも雨宿りをすることができた。雨は止《や》むけしきがなかった。葬列は前へ進まねばならなかった。そこで一同の雨具が整えられ、柩は油紙で覆《おお》われて焼場へ運ばれた。
 そこは村の東南へ突き出た岬の根《ね》方《かた》の、石だらけの小さな浜である。そこで焼く煙は村のほうへひろがらないので、昔からそこが焼場に使われて来たものらしい。
 その磯《いそ》の波は格別荒い。波が動揺しながらふくらんで砕けようとするあいだにも、その不安な水面は、間断なく雨に刺されている。光りのない雨はただならぬ海面を、冷静に刺し貫ぬいているだけである。しかし海風が、ふとして、雨を荒涼とした岩壁に吹きつける。白い岩壁は、墨の繁《し》吹《ぶき》を吹きつけられたように黒くなる。
 私たちはトンネルを抜けてそこに達し、人夫たちが荼毘《だび》の仕度をするあいだ、トンネルの中で雨を避けた。
 海景は何も見えなかった。波と、濡れている黒い石と、雨だけがあった。油をかけられた柩は、艶《つや》やかな木の肌《はだ》の色をして、雨に叩《たた》かれていた。
 火がつけられた。配給の油が、住職の死のためにたっぷり用意されたので、火は却《かえ》って雨に逆らって、鞭《むち》打つような音を立てて募った。昼間の焔《ほのお》が、おびただしい煙のなかに、透明な姿で、はっきり見えた。煙はふくよかに累《かさ》なりながら、少しずつ崖のほうへ吹き寄せられ、ある瞬間には、雨の只中に、焔だけが端麗な形で立上った。
 突然、物の裂ける怖《おそ》ろしい音がした。柩の蓋《ふた》が跳ね上ったのである。
 私はかたわらの母を見た。母は数《じゅ》珠《ず》に両手でつかまって立っていた。その顔はひどく硬く、掌《てのひら》の中へ入りそうなほど、ひどく凝固して小さく見えた。



 父の遺言どおり、私は京都へ出て、金閣寺の徒弟になった。そのとき住職に就いて得《とく》度《ど》したのである。学資は住職が出してくれ、その代りに掃《そう》除《じ》をしたり、住職の身のまわりの世話をしたりする。在家のいわゆる書生と同じことである。
 寺に入ってすぐ気のついたことだが、やかましい寮頭は兵隊にとられ、寺には老人とごく若い者としか残っていなかった。ここへ来て、いろんな点で私はほっとした。在家の中学のように、お寺の子だからと云ってからかわれることはなく、ここにいるのは同類ばかりだったから。……私は吃《ども》りで、皆より少し醜い点だけがちがっていた。
 東舞鶴《ひがしまいづる》中学校を中退して、田山道詮和尚《おしょう》の口ききで、臨済《りんざい》学院中学へ転校することになった私は、一ト月足らずしてはじまる秋学期から、転校先へ通うことになっていた。しかし学校がはじまれば、いずれすぐどこぞの工場へ、勤労動員をされることはわかっていた。今、私の前には、新たな環境における、数週間の夏休みが残っていた。喪中の夏休み、昭和十九年の戦争末期に置かれたふしぎにしん《??》とした夏休み、……寺の徒弟生活は規則正しく送られたが、私にはそれが、最後の、絶対的な休暇だったように思い出される。その蝉《せみ》の音もつぶさにきこえる。

 ……数ヶ月ぶりに見る金閣は、晩夏の光りの中に静かである。
 私は得度の折に剃《そ》られたばかりの青々とした頭をしていた。空気が頭にぴったりと貼《は》りついているようなその感覚、それは自分の頭の中で考えていることが、薄い敏感な傷つきやすい皮膚一枚で、外界の物象と接していると謂《い》った妙に危険な感覚だ。
 そういう頭で金閣を見上げると、金閣は私の目からばかりでなく、頭からも滲《し》み入って来るように思われる。その頭が日照りに応じて熱く、夕風に応じて忽《たちま》ち涼しいように。
『金閣よ。やっとあなたのそばへ来て住むようになったよ』と、私は箒《ほうき》の手を休めて、心に呟《つぶや》くことがあった。『今すぐでなくてもいいから、いつかは私に親しみを示し、私にあなたの秘密を打明けてくれ。あなたの美しさは、もう少しのところではっきり見えそうでいて、まだ見えぬ。私の心象の金閣よりも、本物のほうがはっきり美しく見えるようにしてくれ。又もし、あなたが地上で比べるものがないほど美しいなら、何故それほど美しいのか、何故美しくあらねばならないのかを語ってくれ』
 その夏の金閣は、つぎつぎと悲報が届いて来る戦争の暗い状態を餌《えさ》にして、一そういきいきと輝やいているように見えた。六月にはすでに米軍がサイパンに上陸し、連合軍はノルマンジーの野を馳駆《ちく》していた。拝観者の数もいちじるしく減り、金閣はこの孤独、この静寂をたのしんでいるかのようだった。
 戦乱と不安、多くの屍《しかばね 》と夥《 おびただ》しい血が、金閣の美を富ますのは自然であった。もともと金閣は不安が建てた建築、一人の将軍を中心にした多くの暗い心の持主が企てた建築だったのだ。美術史家が様式の折衷をしかそこに見ない三層のばらばらな設計は、不安を結晶させる様式を探して、自然にそう成ったものにちがいない。一つの安定した様式で建てられていたとしたら、金閣はその不安を包摂《ほうせつ》することができずに、とっくに崩壊してしまっていたにちがいない。
 ……それにしても、箒の手を休めて何度か金閣を仰ぎながら、私にはそこに金閣の存在することがふしぎでならなかった。いつかのように、たった一夜、父と共にここを訪れたときの金閣は、却《かえ》ってこんな感じを与えなかったのに、これから永い年月を暮すあいだ、いつも金閣が私の眼前に在ると思うことは、信じ難い心地がした。
 舞鶴にいて思うと、金閣は京都の一角に、恒常的に在るように思われたが、ここに住むことになると、金閣は私の見るときだけ私の眼前に現われ、本堂で夜眠っているときなどは、金閣は存在していないような気がした。そのため、私は日に何度となく金閣を眺《なが》めにゆき、朋輩《ほうばい》の徒弟たちに笑われた。私には何度見ても、そこに金閣の存在することがふしぎでたまらず、さて眺めたあと本堂のほうへ帰りがてら、急に背《そびら》を反《かえ》してもう一度見ようとすれば、金閣はあのエウリュディケーさながら、姿は忽ち掻《か》き消されているように思われた。

 さて私は、金閣周辺の掃除をすますと、ようやく暑熱を加えてくる朝日を避けて、裏山へ入って、夕《せっ》佳《か》亭へむかう小《こ》径《みち》を登った。開園前の時間であるから、人影はどこにもなかった。多分舞鶴の航空隊のそれらしい戦闘機の一編隊が、金閣の上を可《か》成《なり》低空で、圧《おさ》えつける轟《とどろ》きを残して去った。
 裏の山中に、藻《も》におおわれた寂しい沼、安民沢というのがあった。池中に小島があり、白蛇塚と呼ばれる一基の五重の石塔が立っていた。そのあたりの朝は、鳥のさえずりがかまびすしく、鳥の姿は見えないで、林全体が囀《さえず》っていた。
 池の手前には夏草の繁《しげ》みがある。小径は低い柵《さく》で以《もっ》て、その草地を劃《かく》している。そこに白いシャツの少年が寝ころんでいた。かたわらの低い楓《かえで》の樹には、熊《くま》手《で》が凭《もた》せてある。
 少年はそこらに漂っていた夏の朝のしめやかな空気をえぐるような勢いで身を起したが、私を見て、
「何だ、君か」
 と言った。
 鶴川《つるかわ》というその少年には、昨夜紹介されたばかりであった。鶴川の家は東京近郊の裕福な寺で、学資も小遣も食糧も潤沢に家から送られ、ただ徒弟の修業を味わわせるために、住職の縁故で金閣寺に預けられているのであった。夏休みを帰省していたのが、早目に昨夜帰ってきたのである。水際《みずぎわ》立った東京弁を話す鶴川は、秋からは臨済学院中学で私と同級になる筈で、その口早な快活な話しぶりが、昨夜すでに私を怖《おじ》気《け》づかせていた。
 そして今も、「何だ君か」と云われると、私の口は言葉を失った。が、私の無言が、彼には一種の非難のように解されたらしかった。
「いいんだよ、そんなにまじめに掃除なんかしなくても。どうせ見物が来れば汚されちゃうんだし、それに見物の数も少ないんだから」
 私は一寸《ちょっと》笑った。こうして私の無意識に洩《も》らす仕《し》様事《ようこと》ない笑いが、或る人には親しみの種子《たね》になるらしい。私はそんな風に、いつも自分が人に与える印象の細目に亙《わた》って、責任を持つことができないのである。
 私は柵をまたいで、鶴川の傍《かたわ》らに腰を下ろした。また寝ころんだ鶴川の頭へまわした腕は、外側が可成日に焦《や》けているのに、内側は静脈が透けて見えるほどに白かった。そこに朝日の木洩《こも》れ陽《び》が、草の薄青い影を散らしていた。直感で、私には、この少年はおそらく私のようには金閣を愛さないだろうということがわかった。私はいつか金閣への偏執を、ひとえに自分の醜さのせいにしていたからである。
「お父さんが亡《な》くなったんだってねえ」
「うん」
 鶴川は素速く瞳《ひとみ》をめぐらして、少年らしい推理に熱中していることを隠さずに、
「君が金閣がとても好きなのは、あれを見ると、お父さんを思い出すからなのかい? たとえばお父さんが金閣がとても好きだった、というようなわけで」
 この半分当っている推理も、私の無感動な顔つきにまるで変化を与えていないことを感じた私は、それが一寸嬉《うれ》しかった。鶴川は、人間の感情を、昆虫《こんちゅう》の標本を作ることの好きな少年がよくそうするように、自分の部屋の小綺《こぎ》麗《れい》な小《こ》抽斗《ひきだし》にきちんと分類しておいて、時々それをとりだして実地にためしてみると謂った趣味があるらしかった。
「お父さんが亡くなって、ずいぶん悲しかったろうねえ。それで、君、淋《さび》しそうなところがあるんだねえ。ゆうべはじめて会ったときからそう思ったよ」
 私は何の反撥《はんぱつ》をも感じないで、こう云われると、自分が淋しく見えたという相手の感想から、或る安心と自由を贏《か》ち得て、言葉がすらりと出た。
「何も悲しいことあらへん」
 鶴川はうるさそうなほど長い睫《まつげ》を押しあげて、こちらを見た。
「へえ……それじゃ君は、お父さんを憎んでいたの? 少くとも、きらいだったの?」
「おこってなんかいいへんし、きらいでもなし……」
「へえ、それでどうして悲しくないのか?」
「何となく、やな」
「わからん」
 鶴川は難問に逢着《ほうちゃく》して、草の上に坐《すわ》り直した。
「それなら、ほかにもっと悲しいことでもあったのかな」
「何や、わからへん」
 と私は言った。言ってから、私は人に疑問を起させるのがどうして好きなのかと反省した。私自身にとってはそれは疑問でも何でもない。自明の事柄である。私の感情にも、吃《きつ》音《おん》があったのだ。私の感情はいつも間に合わない。その結果、父の死という事件と、悲しみという感情とが、別々の、孤立した、お互いに結びつかず犯し合わぬもののように思われる。一寸した時間のずれ、一寸した遅れが、いつも私の感情と事件とをばらばらな、おそらくそれが本質的なばらばらな状態に引き戻《もど》してしまう。私の悲しみというものがあったら、それはおそらく、何の事件にも動機にもかかわりなく、突発的に、理由もなく私を襲うであろう。……
 ……又しても私は、こういう凡《すべ》てを、目前の新しい友に説明できずに終った。鶴川はとうとう笑い出した。
「へえ、変ってるんだなあ」
 彼のシャツの白い腹が波立った。そこに動いている木洩れ陽が私を幸福にした。こいつのシャツの皺《しわ》みたいに、私の人生は皺が寄っている。しかしこのシャツは何と白く光っているだろう、皺が寄っているままに。……もしかすると私も?

 世間をよそに、禅寺は禅寺のしきたりで動いていた。夏のことだから、毎朝おそくも五時には起きる。起床のことを開定《かいじょう》という。起きてすぐ朝課の読経《どきょう》である。三時回《え》向《こう》と云って、三回読む。それから屋内の掃除をし、雑《ぞう》巾《きん》をかける。朝食の粥座《しゅくざ》になる。
粥有《しゅーゆう》 十利《じーりー》
饒益《にょういー》 行人《あんじん》
果《こ》報《ほう》 無《ぶ》辺《へん》
究竟《きゅうきん》 常楽《じょうらー》
 という粥座の経を読んで、お粥《かゆ》をいただく。食後に草取り、庭掃除、薪《まき》割《わ》りなどの作務《さむ》をする。学校がはじまれば、そのあとで学校へゆく時間になる。学校からかえると、やがて薬石《やくせき》である。そのあとでたまに、住職が経典講義をして下さることがある由《よし》である。九時には開枕《かいちん》、つまり就寝になる。
 私の日課は右のようなもので、一日の目ざめの合図は、厨番《くりやばん》の典《てん》座《ぞ》さんの鳴らしてまわる鈴《りん》のひびきであった。
 金閣寺、すなわち鹿苑《ろくおん》寺《じ》には、本来十二三人の人がいるべきだった。しかし応召や徴用で、七十幾つの案内人や受付役、六十近い炊事婦のほかには、執事、副執事、それにわれわれ徒弟三人がいるだけであった。老人たちは苔《こけ》が生えて半分死んでおり、少年たちは要するに子供である。執事も副《ふう》司《す》と云って、会計の仕事で手一杯である。
 数日後、私は住職(われわれは彼を老師と呼んでいる)の部屋へ、新聞を届ける役目をいいつかった。新聞が来るのは朝課がすみ、拭掃《ふきそう》除《じ》のすんだころの時刻である。小人数で、わずかのあいだに、三十も部屋数のある寺の、廊下という廊下を拭くのでは、仕事はいきおい粗雑になる。玄関で新聞をとって、使者の間《ま》の前廊下をとおり、客殿を裏から一まわりして、間《あい》の廊下を渡って、老師の居る大書院までゆく。そこまでの廊下が、乾けよがしに、半分バケツをぶちまけるような拭き方をしてあるので、板のくぼみのところどころには、水たまりが朝《あさ》陽《ひ》に光っていて踝《くるぶし》まで濡《ぬ》れてしまう。それが夏のことだから、いい気持である。しかし老師の部屋の障子の外にひざまずき、
「おねがいいたします」
 と声をかけて、
「うう」
 という答《いら》えがあって部屋へ上るまでに、僧衣の裾《すそ》で、濡れた足を手早く拭《ぬぐ》っておくという秘伝を、私は朋輩から教わった。
 私は印刷インクの放つ、俗世の鮮烈な匂《にお》いを嗅《か》ぎながら、新聞の大見出しを、ちらちらと盗み見て廊下をいそいだ。すると「帝都空襲不可避か?」という見出しが読まれた。

 それまで、奇妙なことに思われようが、私は金閣と空襲とを結びつけて考えてみたことがなかった。サイパンが陥《お》ちてこのかた、本土空襲は免《まぬ》がれないものとされ、京都市の一部にも強制疎《そ》開《かい》が急がれていたが、それでも金閣というこの半ば永遠の存在と、空襲の災禍とは、私の中でそれぞれ無縁のものでしかなかった。金剛《こんごう》不壊《ふえ》の金閣と、あの科学的な火とは、お互いにその異質なことをよく知っていて、会えばするりと身をかわすような気がしていた。……しかし、やがて金閣は、空襲の火に焼き亡《ほろ》ぼされるかもしれぬ。このまま行けば、金閣が灰になることは確実なのだ《???????????????》。

 ……こういう考えが私の裡《うち》に生れてから、金閣は再びその悲劇的な美しさを増した。
 それは明日から学校がはじまる日、夏の最後の日の午後であった。住職は副執事を連れて、どこかの法事に頼まれて出かけていた。鶴川は私を映画に誘った。しかし私が気乗薄だったので、彼も忽ち気乗薄になった。鶴川にはそういうところがあった。
 私たち二人は数時間の暇をもらって、カーキいろのズボンにゲートルを巻き、臨済学院中学の制帽をかぶって本堂を出た。夏の日ざかりのことで、拝観者は一人もなかった。
「どこへ行こう」
 私はそれに答えて、どこかへ行く前に金閣をしみじみ見てゆきたい、明日からはこの時刻に金閣を見ることはできなくなるし、われわれが工場へ行っている留守に金閣は空襲で焼かれているかもしれない、と言った。私のたどたどしい言訳はしばしば吃《ども》り、鶴川はそのあいだ、呆《あき》れたようなじれったい表情できいていた。
 これだけ言い了《おわ》った私の顔には、何か恥かしいことを言ったあとのように、夥《おびただ》しい汗が流れていた。金閣に対する私の異様な執着を打明けた相手は、ただ鶴川一人であった。が、それをきいている鶴川の表情には、私の吃音をききとろうと努力する人の、見馴《
みな》れた焦躁《しょうそう》感《かん》があるだけだった。
 私はこういう顔にぶつかる。大切な秘密の告白の場合も、美の上《うわ》ずった感動を訴える場合も、自分の内臓をとりだしてみせるような場合も、私のぶつかるのはこういう顔だ。人間はふつう人間にむかってこんな顔をしてみせるものではない。その顔は申し分のない忠実さで、私の滑稽《こっけい》な焦躁感をそのままに真似《まね》、いわば私の怖《おそ》ろしい鏡のようになっていた。どんなに美しい顔でも、そういうときは、私とそっくりの醜さに変貌《へんぼう》するのだ。それを見たとたん、私が表現しようと思う大切なものは、瓦《かわら》にひとしい無価値なものに堕《お》ちてしまう。……
 鶴川と私とのあいだには、夏のはげしい直射日光がある。鶴川の若い顔は脂《あぶら》に照りかがやき、光りの中に睫を一本一本金いろに燃え立たせ、鼻孔をむしむしする熱気にひろげて、私の言葉の終るのを待っている。
 私は言い了った。言い了ると同時に怒りにかられた。鶴川ははじめて会ってから今まで一度も私の吃りをからかおうとしないのだ。
「なんで」
 私はそう詰問《きつもん》した。同情よりも、嘲笑《ちょうしょう》や侮《ぶ》蔑《べつ》のほうがずっと私の気に入ることは、再々述べたとおりである。
 鶴川はえもいわれぬやさしい微笑をうかべた。そしてこう言った。
「だって僕、そんなことはちっとも気にならない性質《たち》なんだよ」
 私は愕《おどろ》いた。田舎の荒っぽい環境で育った私は、この種のやさしさを知らなかった。私という存在から吃りを差引いて、なお私でありうるという発見を、鶴川のやさしさが私に教えた。私はすっぱりと裸かにされた快《こころよ》さを隈《くま》なく味わった。鶴川の長い睫にふちどられた目は、私から吃りだけを漉《こ》し取って、私を受け容れていた。それまでの私はといえば、吃りであることを無視されることは、それがそのまま、私という存在を抹殺《まっさつ》されることだ、と奇妙に信じ込んでいたのだから。

 ……私は感情の諧《かい》和《わ》と幸福を感じた。そのとき見た金閣の情景を、私が永く忘れ得ないのはふしぎではない。私たち二人は、居眠りをしている受付役の老人の前をとおりぬけ、人影のない道を塀《へい》ぞいにいそいで、金閣の前へ行った。
 ……私にはありありと思い出される。鏡湖池の片ほとりに、ゲートルを巻いた二人の白シャツの少年が肩を組んで立っている。その二人の前に、金閣が、何ものにも隔てられずに存在していたのだ。
 最後の夏、最後の夏休み、その最後の一日……私たちの若さは、目くるめくような突端に立っていた。金閣もまた、私たちと同じ突端に立っていて、対面し、対話した。空襲の期待が、こんなにも私たちと金閣とを近づけた。
 晩夏のしんとした日光が、究竟頂《くきょうちょう》の屋根に金箔《きんぱく》を貼《は》り、直下にふりそそぐ光りは、金閣の内部を夜のような闇《やみ》で充《み》たした。今まではこの建築の、不朽の時間が私を圧し、私を隔てていたのに、やがて焼夷弾《しょういだん》の火に焼かれるその運命は、私たちの運命にすり寄って来た。金閣はあるいは私たちより先に滅びるかもしれないのだ。すると金閣は私たちと同じ生を生きているように思われた。
 金閣をめぐる赤松の山々は蝉《せみ》の声に包まれていた。無数の見えない僧が消災呪《しょうさいしゅ》を称《とな》えているかのように。「??《ぎゃーぎゃー》。?哂?哂《ぎゃーきーぎゃーきー》。吽吽《うんぬん》。入?《しふ》?《らー》入?《しふ》?《らー》。??入?《はらしふ》?《らー》??入?《はらしふ》?《らー》。」
 この美しいものが遠からず灰になるのだ、と私は思った。それによって、心象の金閣と現実の金閣とは、絵絹を透かしてなぞって描《えが》いた絵を、元の絵の上に重ね合せるように、徐々にその細部が重なり合い、屋根は屋根に、池に突き出た漱清《そうせい》は漱清に、潮音洞の勾欄《こうらん》は勾欄に、究竟頂の華頭窓は華頭窓に重なって来た。金閣はもはや不動の建築ではなかった。それはいわば現象界のはかなさの象徴に化した。現実の金閣は、こう思うことによって、心象の金閣に劣らず美しいものになったのである。
 明日、天から火が落ち、その細身の柱、その優雅な屋根の曲線は灰に帰し、二度と私たちの目に触れないかもしれない。しかし目の前には、細《さい》緻《ち》な姿が、夏の火のような光りを浴びたまま、自若としている。
 山の端《は》には、父の枕経《まくらぎょう》のあいだに、私が目のはじに感じたような、いかめしい夏雲が聳《そび》えている。それは鬱積《うっせき》した光りを湛《たた》え、この繊細《せんさい》な建築を見下ろしている。金閣はこんなに強い晩夏の日ざしの下では、細部の趣きを失って、内に暗い冷ややかな闇を包んだまま、ただその神秘な輪郭で、ぎらぎらした周囲の世界を拒んでいるように見えるのである。そして頂きの鳳凰《ほうおう》だけは、太陽によろめくまいとして、鋭い爪《つめ》を立てて、台座にしっかりとつかまっている。
 私の永い凝視に飽きた鶴川は、足もとの小石をひろって、あざやかな投手の身ぶりで、それを鏡湖池の金閣の投影の只中《ただなか》へなげうった。
 波紋は水面の藻《も》を押してひろがり、忽《たちま》ちにして、美しい精《せい》緻《ち》な建築は崩れ去った。



 それから終戦までの一年間が、私が金閣と最も親しみ、その安否を気づかい、その美に溺《おぼ》れた時期である。どちらかといえば、金閣を私と同じ高さにまで引下げ、そういう仮定の下に、怖《おそ》れげもなく金閣を愛することのできた時期である。私はまだ金閣から、悪しき影響、あるいはその毒を受けていなかった。
 この世に私と金閣との共通の危難のあることが私をはげました。美と私とを結ぶ媒立《なかだち》が見つかったのだ。私を拒絶し、私を疎《そ》外《がい》しているように思われたものとの間に、橋が懸けられたと私は感じた。
 私を焼き亡《ほろ》ぼす火は金閣をも焼き亡ぼすだろうという考えは、私をほとんど酔わせたのである。同じ禍《わざわ》い、同じ不吉な火の運命の下で、金閣と私の住む世界は同一の次元に属することになった。私の脆《もろ》い醜い肉体と同じく、金閣は硬いながら、燃えやすい炭素の肉体を持っていた。そう思うと、時あって、逃走する賊が高貴な宝石を嚥《の》み込んで隠匿《いんとく》するように、私の肉のなか、私の組織のなかに、金閣を隠し持って逃げのびることもできるような気がした。
 その一年間、私が経も習わず、本も読まず、来る日も来る日も、修身と教練と武道と、工場や強制疎開の手つだいとで、明け暮れていたことを考えてもらいたい。私の夢みがちな性格は助長され、戦争のおかげで、人生は私から遠のいていた。戦争とはわれわれ少年にとって、一個の夢のような実質なき慌《あわただ》しい体験であり、人生の意味から遮断《しゃだん》された隔離病室のようなものであった。
 昭和十九年の十一月に、B29の東京初爆撃があった当座は、京都も明日にも空襲を受けるかと思われた。京都全市が火に包まれることが、私のひそかな夢になった。この都はあまりにも古いものをそのままの形で守り、多くの神社仏閣がその中から生れた灼熱《しゃくねつ》の灰の記憶を忘れていた。応仁《おうにん》の大乱がどんなにこの都を荒廃させたかと想像すると、私には京都があまり永く、戦火の不安を忘れていたことから、その美の幾分かを失っていることを思うのであった。
 明日こそは金閣が焼けるだろう。空間を充たしていたあの形態が失われるだろう。……そのとき頂きの鳳凰は不死鳥のようによみがえり飛び翔《た》つだろう。そして形態に縛《いま》しめられていた金閣は、身もかるがると碇《いかり》を離れていたるところに現われ、湖の上にも、暗い海の潮《うしお》の上にも、微光を滴《したた》らして漂い出すだろう。……
 待てども待てども、京都は空襲に見舞われなかった。あくる年の三月九日に、東京の下町一帯が火に包まれたというしらせをきいても、災禍は遠く、京都の上には澄んだ早春の空だけがあった。
 私は半ば絶望して待ちながら、この早春の空が、丁度きらめいている硝子《ガラス》窓のように内部を見せないが、内部には火と破滅を隠していることを信じようとした。私に人間的関心の稀《き》薄《はく》だったことは前にも述べたとおりである。父の死も、母の貧窮も、ほとんど私の内面生活を左右しなかった。私はただ災禍を、大破局を、人間的規模を絶した悲劇を、人間も物質も、醜いものも美しいものも、おしなべて同一の条件下に押しつぶしてしまう巨大な天の圧搾《あっさく》機《き》のようなものを夢みていた。ともすると早春の空のただならぬ燦《きら》めきは、地上をおおうほど巨《おお》きな斧《おの》の、すずしい刃の光りのようにも思われた。私はただその落下を待った。考える暇も与えないほどすみやかな落下を。
 私は今でもふしぎに思うことがある。もともと私は暗黒の思想にとらわれていたのではなかった。私の関心、私に与えられた難問は美だけである筈《はず》だった。しかし戦争が私に作用して、暗黒の思想を抱かせたなどと思うまい。美ということだけを思いつめると、人間はこの世で最も暗黒な思想にしらずしらずぶつかるのである。人間は多分そういう風に出来ているのである。

 戦争末期の京都の、或る挿《そう》話《わ》が思い出される。それはほとんど信じがたいことであるが、目撃者は私一人ではない。私の傍《かたわ》らには鶴川がいたのである。
 電休日の一日、私は鶴川と一緒に南禅寺へ行った。まだ南禅寺を訪れたことがなかった。私たちはひろいドライヴウエイを横切って、インクラインに跨《またが》る木橋を渡った。
 五月のよく晴れた日であった。インクラインはもう使われていず、船を引き上げる斜面のレールは錆《さ》びて、レールはほとんど雑草に埋もれていた。その雑草には白いこまかな十字形の花が風にわなないていた。インクラインの斜面の起るところまで、汚れた水が淀《よど》み、こちら岸の葉桜並木の影をどっぷりと涵《ひた》していた。
 私たちはその小さな橋の上で、何の意味もなしに、水のおもてを眺《なが》めていた。戦争中の思い出のほうぼうに、こういう短い無意味な時間が、鮮明な印象でのこっている。何もしていなかった放心の短い時間が、時たま雲間にのぞかれる青空のように、ほうぼうに残っている。そういう時間が、まるで痛切な快楽の記憶のように鮮やかなのは、ふしぎなことだ。
「ええもんやな」
 と私はまた、何の意味もなく、微笑して言った。
「うん」
 鶴川も私を見て微笑した。二人はこの二三時間が自分たちの時間であることをしみじみと感じていた。
 砂利の広い道がつづくかたわらには、美しい水草をなびかせて、清冽《せいれつ》な水の走っている溝《みぞ》があった。やがて名高い山門が目の前に立ちふさがった。
 寺内にはどこにも人影がなかった。新緑のなかに多くの塔頭《たっちゅう》の甍《いらか》が、巨大な銹銀《さびぎん》いろの本を伏せたように、秀でていた。戦争というものが、この瞬間には何だったろう。ある場所、ある時間において、戦争は、人間の意識の中にしかない奇怪な精神的事件のように思われるのであった。
 石川五右衛門《ごえもん》がその楼上の欄干《らんかん》に足をかけて、満目の花を賞美したというのは、多分この山門だった。私たちは子供らしい気持で、もう葉桜の季節ではあったけれど、五右衛門と同じポーズで景色を眺めてみたいと考えた。わずかな入場料を払って、木の色のすっかり黒ずんだ急傾斜の段を昇った。昇り切った踊り場で鶴川が低い天井《てんじょう》に頭をぶつけた。それを笑った私も忽《たちま》ちぶつけた。二人はもう一曲りして段を昇り、楼上へ出たのである。
 穴ぐらのようなせまい階段から、広大な景観へ、忽ちにして身をさらす緊張は快かった。葉桜や松のながめ、そのむこうの家《や》並《なみ》のかなたにわだかまる平安神宮の森のながめ、京都市街の果てに霞《かす》む嵐山《あらしやま》、北のかた、貴《き》船《ぶね》、箕《み》ノ裏《うら》、金《こん》毘羅《ぴら》などの連山のたたずまい、こういうものを十分にたのしんでから、寺の徒弟らしく、履物《はきもの》を脱いで恭《うやうや》しく堂《どう》裡《り》へ入った。暗い御堂には二十四畳の畳を敷き並べ、釈《しゃ》迦《か》像を中央に、十六羅《ら》漢《かん》の金いろの瞳《ひとみ》が闇に光っていた。ここを五《ご》鳳楼《ほうろう》というのである。
 南禅寺は同じ臨済宗でも、相国寺派の金閣寺とちがって、南禅寺派の大本山である。私たちは同宗異派の寺にいるわけである。しかし並の中学生同様、二人は案内書を片手に、狩野《かのう》探幽《たんゆう》守信と土佐法眼徳悦の筆に成るといわれる色あざやかな天井画を見てまわった。
 天井の片方には、飛翔《ひしょう》する天人と、その奏《かな》でる琵琶《びわ》や笛の絵が描かれていた。別の天井には白い牡《ぼ》丹《たん》を捧《ささ》げ持つ迦陵頻《かりょうびん》伽《が》が羽《は》搏《ばた》いていた。それは天竺雪山《てんじくせっせん》に住む妙音の鳥で、上半身はふくよかな女の姿をし、下半身は鳥になっている。また中央の天井には、金閣の頂上の鳥の友鳥、あのいかめしい金色の鳥とは似ても似つかぬ、華麗な虹《にじ》のような鳳凰が描いてあった。
 釈尊《しゃくそん》の像の前で、私たちはひざまずいて合《がっ》掌《しょう》した。御堂を出た。しかし楼上からは去りがたかった。そこで昇ってきた段の横手の南むきの勾欄《こうらん》にもたれていた。
 私はどこやらに何か美しい小さな色彩の渦《うず》のようなものを感じていた。それは今見て来た天井画の極彩色の残像かとも思われた。豊富な色の凝集した感じは、あの迦陵頻伽に似た鳥が、いちめんの若葉や松のみどりのどこかしらの枝に隠れていて、華麗な翼のはじを垣《かい》間《ま》見せているようでもあった。
 そうではなかった。われわれの眼下には、道を隔てて天授庵《てんじゅあん》があった。静かな低い木々を簡素に植えた庭を、四角い石の角《かど》だけを接してならべた敷石の径《みち》が屈折してよぎり、障子をあけ放ったひろい座敷へ通じていた。座敷の中は、床の間も違《ちが》い棚《だな》も隈《くま》なく見えた。そこはよく献茶があったり、貸茶席に使われたりするらしいのだが、緋《ひ》毛氈《もうせん》があざやかに敷かれていた。一人の若い女が坐《すわ》っている。私の目に映ったものはそれだったのである。
 戦争中にこんなに派手な長振袖《ながふりそで》の女の姿を見ることはたえてなかった。そんな装いで家を出れば、道半ばで咎《とが》められて、引返さざるをえなかったろう。それほどその振袖は華美であった。こまかい模様は見えないが、水色地に花々が描かれたり縫取りされたりしており、帯の緋《ひ》にも金糸が光り、誇張して云うと、あたりがかがやいていた。若い美しい女は端然と坐っていて、その白い横顔は浮彫され、本当に生きている女かと疑われた。私は極度に吃《ども》って言った。
「あれは、一体、生きてるんやろか」
「僕も今そう思っていたんだ。人形みたいだなあ」
 と鶴川は勾欄にきつく胸を押しつけ、目を離さずに答えた。
 そのとき奥から、軍服の若い陸軍士官があらわれた。彼は礼儀正しく女の一二尺前に正《せい》坐《ざ》して、女に対した。しばらく二人はじっと対坐していた。
 女が立上った。物静かに廊下の闇に消えた。ややあって、女が茶碗《ちゃわん》を捧げて、微風にその長い袂《たもと》をゆらめかせて、還《かえ》って来た。男の前に茶をすすめる。作法どおりに薄茶をすすめてから、もとのところに坐った。男が何か言っている。男はなかなか茶を喫しない。その時間が異様に長くて、異様に緊張しているのが感じられる。女は深くうなだれている。……
 信じがたいことが起ったのはそのあとである。女は姿勢を正したまま、俄《にわ》かに襟元《えりもと》をくつろげた。私の耳には固い帯裏から引き抜かれる絹の音がほとんどきこえた。白い胸があらわれた。私は息を呑《の》んだ。女は白い豊かな乳房の片方を、あらわに自分の手で引き出した。
 士官は深い暗い色の茶碗を捧げ持って、女の前へ膝行《しっこう》した。女は乳房を両手で揉《も》むようにした。
 私はそれを見たとは云わないが、暗い茶碗の内側に泡《あわ》立《だ》っている鶯《うぐいす》いろの茶の中へ、白いあたたかい乳がほとばしり、滴《した》たりを残して納まるさま、静寂な茶のおもてがこの白い乳に濁って泡立つさまを、眼前に見るようにありありと感じたのである。
 男は茶碗をかかげ、そのふしぎな茶を飲み干した。女の白い胸もとは隠された。
 私たち二人は、背筋を強《こわ》ばらせてこれに見入った。あとから順を追って考えると、それは士官の子を孕《はら》んだ女と、出陣する士官との、別れの儀式であったかとも思われる。しかしそのときの感動は、どんな解釈をも拒んだ。あまり見詰めすぎたので、いつのまにかその男女が座敷から姿を消し、あとにはひろい緋毛氈だけの残されていることに、気のつくには暇がかかった。
 私はあの白い横顔の浮彫と、たぐいなく白い胸とを見た。そして女が立去ったあとでは、その一日の残りの時間も、あくる日も、又次の日も、私は執拗《しつよう》に思うのであった。たしかにあの女は、よみがえった有為子《ういこ》その人だと。

第三章

 父の一周忌が来た。母はふしぎなことを考え出した。勤労動員中の私の帰郷がむずかしいことから、母自身が父の位《い》牌《はい》を持って上洛《じょうらく》して、田山道詮和尚《おしょう》の読経《どきょう》を、旧友の命日にほんの数分間でも上げてもらおうと考えたのである。もとより金はなく、ただお情に縋《すが》って、和尚に手紙を寄越した。和尚は承諾した。そしてその旨《むね》を私にも伝えた。
 私はそのしらせを喜ばしい気持で聴かなかった。今まで、故意に母について、筆を省いて来たのには理由がある。母のことにはあまり触れたくない気持があるからだ。
 私はある事件について、一言も母を責めたことがない。口に出したことがない。母もおそらく、私がそれを知っていることに気づいていないのではないかと思われる。しかしあれ以来、私の心は母を恕《ゆる》していないのである。
 東舞鶴《ひがしまいづる》中学校へ入学して、叔父の家に預けられて、第一学年の夏休みに、はじめて帰省したときのことである。そのころ母の縁者の倉井という男が、大阪で事業に失敗して、成《なり》生《う》へ帰ったが、家附の娘である彼の妻は、彼を家に入れなかった。そこでやむなく、ほとぼりがさめるまで、倉井は私の父の寺に身を寄せていた。
 私たちの寺には蚊帳《かや》の数が少なかった。よく感染しなかったものだと思うが、母と私は結核の父と一つ蚊帳に寝、それに更に倉井が加わった。私は夏の深夜の庭木づたいに、ちりちりともつれたように短かい啼《なき》音《ね》を立てて、蝉《せみ》が飛び移ったのをおぼえている。多分その声で私は目をさました。潮騒《しおさい》は高く、海風は蚊帳の萌《もえ》黄《ぎ》の裾《すそ》をあおった。蚊帳の揺れ方が尋常でなかった。
 蚊帳は風を孕《はら》みかけては、風を漉《こ》して、不本意に揺れていた。だから吹き寄せられる蚊帳の形は、風の忠実な形ではなくて、風が頽《すた》れて、稜角《りょうかく》をなくしていた。畳を笹《ささ》の葉のように擦る音は、蚊帳の裾が立てている音であった。しかし風が立てるのではない動きが蚊帳に伝わった。風よりも微細な動き、蚊帳全体に漣《さざなみ》のようにひろがる動き、それが粗《あら》い布地をひきつらせ、内側から見た大きな蚊帳の一面を、不安の漲《みなぎ》った湖のおもてのようにしていた。湖の上の遠い船の蹴立《けた》てて来る波の先達《せんだつ》、あるいはすでにすぎさった船の余波《なごり》の遠い反映……。
 私はおそるおそる目をその源のほうへ向けた。すると闇《やみ》のなかにみひらいた自分の目の芯《しん》を、錐《きり》で突き刺されるような気がした。
 四人にはせますぎる蚊帳の中で、父の隣りに寝ていた私は、寝返りを打つうちに、いつしか父を片隅《かたすみ》に押しやっていたらしい。そこで私と私の見たものの間には、皺《しわ》だらけの敷布の白い距離があり、私の背には、身を丸めて寝ている父の寝息が、衿元《えりもと》へじかに当っていた。
 父が目をさましているのに気づいたのは、咳《せき》を押し殺している呼吸の不規則な躍り上るような調子が、私の背に触れたからである。そのとき、突如として、十三歳の私のみひらいた目は、大きな暖かいものにふさがれて、盲《めく》らになった。すぐにわかった。父のふたつの掌《てのひら》が、背後から伸びて来て、目隠しをしたのである。
 今もその掌の記憶は活《い》きている。たとえようもないほど広大な掌。背後から廻されて来て、私の見ていた地《じ》獄《ごく》を、忽《たちま》ちにしてその目から覆《おお》い隠した掌。他界の掌。愛か、慈悲か、屈辱からかは知らないが、私の接していた怖《おそ》ろしい世界を、即座に中断して、闇のなかに葬《ほうむ》ってしまった掌。
 私はその掌の中でかるくうなずいた。諒解《りょうかい》と合意が、私の小さな顔のうなずきから、すぐ察せられて、父の掌は外された。……そして私は、掌の命ずるまま、掌の外されたのちも、不眠の朝が明けて、瞼《まぶた》がまばゆい外光に透かされるまで、頑《かたく》なに目を閉じつづけた。

 ――後年、父の出棺《しゅっかん》のとき、私がその死顔を見る《??》のに急で、涙ひとつこぼさなかったことを想起してもらいたい。その死と共に、掌の羈《き》絆《はん》は解かれて、私がひたすら父の顔を見ることによって、自分の生を確かめたのを想起してもらいたい。私はあの掌、世間で愛情と呼ぶものに対して、これほど律《りち》儀《ぎ》な復讐《ふくしゅう》を忘れなかったが、母に対しては、あの記憶を恕していないこととは別に、私はついぞ復讐を考えなかった。

 ……母は命日の前日に、金閣寺へ来て一夜の宿りを許される手《て》筈《はず》になっていた。命日の当日は、私も学校を休めるように、住職が手紙を書いてくれた。勤労動員は通いであった。前日私は鹿苑《ろくおん》寺《じ》へかえるのが気が重かった。
 透明で単純な心を持った鶴川《つるかわ》は、久々の母との対面を喜んでくれたし、寺の朋輩《ほうばい》も好奇心を抱いていた。私は貧しい見すぼらしい母を憎んだ。どうして自分が母に会いたくないかを、親切な鶴川に説明するのに苦しんだ。しかも彼は工場が終ると匆々《そうそう》、
「さあ、駈足《かけあし》でかえろう」
 と私の腕をつかんで言った。
 私がまるきり母に会いたくないと云うのでは誇張になる。母が懐《なつか》しくないわけではない。ただ私は肉親の露骨な愛情の発露に当面するのがいやで、そのいやさにさまざまな理由づけを試みていたにすぎぬのかもしれない。これが私のわるい性格だ。一つの正直な感情を、いろんな理由づけで正当化しているうちはいいが、時には、自分の頭脳の編み出した無数の理由が、自分でも思いがけない感情を私に強《し》いるようになる。その感情は本来私のものではないのである。
 しかし私の嫌《けん》悪《お》にだけは何か正確なものがある。私自身が、嫌悪すべき者だからである。
「走ったかて、しようがない。しんどいんやもん、足を引きずってかえったらええのんや」
「そうしてお母さんに同情させて、甘ったれるつもりなんだな」
 鶴川はいつもこうして、私の誤解に充《み》ちた解説者であった。が、彼は私には少しもうるさくない、必要な人間になっていた。彼は私のまことに善意な通訳者、私の言葉を現世の言葉に飜訳《ほんやく》してくれる、かけがえのない友であった。
 そうだ。時には鶴川は、あの鉛から黄金を作り出す錬金術師のようにも思われた。私は写真の陰画、彼はその陽画であった。ひとたび彼の心に濾過《ろか》されると、私の混濁した暗い感情が、ひとつのこらず、透明な、光りを放つ感情に変るのを、私は何度おどろいて眺《なが》めたことであろう! 私が吃《ども》りながら躊躇《ため》らっているうちに、鶴川の手が、私の感情を裏返して外側へ伝えてしまう。これらの愕《おどろ》きから私の学んだことは、ただ感情にとどまる限りでは、この世の最悪の感情も最善の感情と逕《けい》庭《てい》のないこと、その効果は同じであること、殺意も慈悲心も見かけに変りはないこと、などであった。たとえ言葉を尽して説明しても、鶴川にはこんなことは信じられもしなかったろうが、私にとっては一つの怖ろしい発見だった。鶴川によって私が偽善を惧《おそ》れなくなったとしても、偽善が私には相対的な罪にすぎなくなっていたからである。
 京都では空襲に見舞われなかったが、一度工場から出張を命ぜられ、飛行機部品の発注書類を持って、大阪の親工場へ行ったとき、たまたま空襲があって、腸の露出した工員が担架で運ばれてゆく様を見たことがある。
 なぜ露出した腸が凄惨《せいさん》なのであろう。何故人間の内側を見て、悚然《しょうぜん》として、目を覆ったりしなければならないのであろう。何故血の流出が、人に衝撃を与えるのだろう。何故人間の内臓が醜いのだろう。……それはつやつやした若々しい皮膚の美しさと、全く同質のものではないか。……私が自分の醜さを無に化するようなこういう考え方を、鶴川から教わったと云ったら、彼はどんな顔をするだろうか? 内側と外側、たとえば人間を薔薇《ばら》の花のように内も外もないものとして眺めること、この考えがどうして非人間的に見えてくるのであろうか? もし人間がその精神の内側と肉体の内側を、薔薇の花弁のように、しなやかに飜《ひらが》えし、捲《ま》き返して、日光や五月の微風にさらすことができたとしたら……

 ――母はすでに来て、老師の部屋で話をしていた。私と鶴川は、初夏の日暮の縁先に膝《ひざ》まずき、只今《ただいま》かえりました、と言った。
 老師は私だけを部屋へ上げ、母を前にして、この子もよくやっている、というようなことを言った。私は母のほうを殆《ほと》んど見ずに頭を下げていた。洗いざらしの盲縞《めくらじま》のもんぺ《???》の膝が、その上に揃《そろ》えた汚ない手の指が見えた。
 老師はわれわれ母子《おやこ》に、部屋へ下ってよいと言った。われわれは何度もお辞儀をしてその部屋を出た。小書院の南向き、中庭に面した五畳の納《なん》戸《ど》が私の部屋である。そこに二人きりになると、母は泣き出した。
 このことあるを予知していたので、私は冷然としていることができた。
「おれはもう鹿苑寺の預りもんやで、一人前になるまで、訪ねて来《こ》んといてほしい」
「わかってる。わかってる」
 私は母を残酷な言葉で迎えるのが嬉《うれ》しかった。しかし昔ながらに、母が何も感ぜず、何も抵抗しないことが歯《は》痒《がゆ》かった。それでいて母がもしや閾《しきみ》を越えて私の中へ入ってくることは、想像するだに怖《こわ》かった。
 母は日に焼けた顔に、小さな狡《ずる》そうな落ち窪《くぼ》んだ目を持っていた。唇《くちびる》だけは別の生き物のように赤くつやつやしており、田舎の人の頑丈《がんじょう》な硬い大柄《おおがら》な歯が並んでいた。都会の女なら厚化粧をしておかしくない年であった。できるだけ醜くしているような母の顔が、どこかに澱《よど》みのように肉感を残しているのが、私には敏感にわかり、それを憎んだ。
 老師の前から下って、思う存分一泣きしたあと、今度は母は、配給物のステイプル?ファイバーの手拭《てぬぐい》で、日に焼けた胸もとをはだけて拭《ふ》いた。動物的に光った生地の手拭は、汗に湿って、いよいよ光った。
 リュックサックから米をとり出した。老師にあげるのだと言った。私は黙っていた。更に母は古い鼠《ねずみ》いろの真綿に幾重にも包んだ父の位牌をとり出して、私の本棚《ほんだな》の上に置いた。
「ありがたいこっちゃな。あしたは和尚《おしょう》様にお経をあげてもろうて、お父さんもよろこんでるやろ」
「命日がすんだら、お母さんは成生へ帰るのんか?」
 母の答は意外であった。母はあの寺の権利をすでに人に譲り、わずかな田畑《でんぱた》も処分して、父の療養費の借金を皆済し、これからは身一つで、京都近郊の加佐郡の伯父の家へ身を寄せるように、話をつけて来たのだった。
 私の帰るべき寺はなくなった! あの荒涼とした岬《みさき》の村には、私を迎えるべきものがなくなったのだ。
 このとき私の顔に浮んだ解放感を、母はどう釈《と》ったかしらない。私の耳もとに口をつけて、こう言った。
「ええか。もうおまえの寺はないのやぜ。先はもう、ここの金閣寺の住職様になるほかないのやぜ。和尚さんに可愛がってもろうて、後継ぎにならなあかん。ええか。お母さんはそれだけをたのしみに生きてるのやさかい」
 私は動顛《どうてん》して母の顔を見返した。しかし怖《おそ》ろしくて正視できなかった。
 納戸はすでに暗い。私の耳もとに口を寄せたので、この「慈母」の汗の匂《にお》いが私のまわりに漂った。そのときの母が笑っていたのを私は憶《おぼ》えている。遠い授乳の記憶、浅黒い乳房の思い出、そういう心象が、いかにも不快に私の内を駈けめぐった。卑《いや》しい野心の点火には、何か肉体的な強制力のようなものがあって、それが私を怖れさせたのだと思われる。母のちぢれた後《おく》れ毛《げ》が私の頬《ほお》にさわったとき、薄暮の中庭の苔《こけ》蒸《む》した蹲踞《つくばい》の上に、私は一羽の蜻蛉《とんぼ》が羽根を休めているのを見た。夕空はその小さな円形の水の上に、堕《お》ちていた。物音はどこにもなく、鹿苑寺はそのとき無人の寺のように思われた。
 やっと私は母を直視した。なめらかな唇のはたに、母は金歯を光らして笑っていた。私の答は激しく吃《ども》った。
「そやかて、いずれ兵隊にとられて、戦死せんならんかもわからへん」
「あほ。こんな吃りが兵隊にとられたら、日本もおしまいやな」
 私は、背筋を硬《こわ》ばらせて、母を憎んでいた。しかし吃りながら出てくる言葉は遁《とん》辞《じ》でしかなかった。
「空襲で、金閣が焼けるかもしれへんで」
「もうこの分で行《い》たら、京都に空襲は金輪際《こんりんざい》あらへん。アメリカさんが遠慮するさかい」
 ……私は答えなかった。寺の薄暮の中庭は海底の色になった。石は激しく格闘した形のまま沈んでいる。
 私の沈黙を物ともせず、母は立上って、五畳をかこむ板戸を無遠慮に眺《なが》め、
「お薬石《やくせき》はまだかいな」と言った。

 ――後になって思うと、このときの母との対面は、私の心に少なからぬ影響を及ぼしている。母があくまで私と別の世界に住んでいることに気づいたのもこのときなら、母の考え方がはじめて力強く私に作用したのもこのときである。
 母は美しい金閣とは生れながらに無縁の人種であったが、その代りに、私の知らない現実感覚を持っていた。京都に空襲の惧《おそ》れがないことは、私の夢想にもかかわらず、本当のところかもしれなかった。そしてもし金閣が空襲をうける危険がこの先ないとすれば、さしあたり私の生《いき》甲斐《がい》は失せ、私の住んでいた世界は瓦《が》解《かい》するのだった。
 一方、思いもかけない母の野心は、それを憎みながらも、私を虜《とりこ》にした。父は一言も言わなかったが、母と同じ野心の下に、私をこの寺へ送ったのかもしれなかった。田山道詮師は独身であった。師自身が、先代に嘱望《しょくぼう》されて鹿苑寺を継いだのであれば、私も心がけ次第で、師の後継者に擬せられるかもしれなかった。もしそうなれば、金閣は私のものになるのである!
 私の考えは混乱した。第二の野心が重荷になると、第一の夢想――金閣が空襲を受けること――に立戻り、その夢想が母のあからさまな現実判断で破られると、また第二の野心に立戻って、あまりあれこれと思いあぐねた結果、私の首の附根には、赤い大きな腫物《はれもの》ができた。
 私はそのままに放置した。できものは根を張り、首のうしろから、熱い重い力でのしかかった。途絶えがちな眠りのあいだに、私は金《きん》無垢《むく》の光背がわが首に生え、頭のうしろを楕《だ》円《えん》にとりかこむために、すこしずつ生い茂っている夢を見た。目がさめると、しかしそれは、悪意のある腫物の疼《うず》きにすぎなかった。
 とうとう発熱して私は寝込んだ。住職が私を外科医のところへやった。国民服に脚絆《きゃはん》をつけた外科医は、この出来物にフルンケルという簡単な名を与え、アルコールを惜しんで、火であぶって消毒したメスをあてがった。
 私は呻《うめ》いた。熱い重苦しい世界が、私の後頭部で、はじけ、萎《しぼ》み、衰えるのが感じられた。……



 戦争がおわった。工場で終戦の詔勅の朗読を聴くあいだ、私が思っていたのは、他《ほか》ならぬ金閣のことである。
 寺へかえると匆々《そうそう》、私が金閣の前へ急いだのはふしぎではない。参観路の砂利は真夏の光りに灼《や》け、私の運動靴の粗悪なゴム裏は、石のひとつひとつに粘ついた。
 終戦の詔勅をきいてから、東京なら宮城前へゆくところであろうが、誰も居ない京都御所前へ泣きに行った者が大ぜいいる。京都には、こういう時に泣きに行くための神社仏閣が沢山ある。どこもその日は繁昌《はんじょう》したにちがいない。しかしさすがに金閣寺へ来る者はなかった。
 灼けた砂利の上には、かくて私だけの影があった。金閣がむこうに居《お》り、私がこちらに居たと云うべきだろう。この日の金閣を一目見たときから、私は「私たち」の関係がすでに変っているのを感じた。
 敗戦の衝撃、民族的悲哀などというものから、金閣は超絶していた。もしくは超絶を装っていた。きのうまでの金閣はこうではなかった。とうとう空襲に焼かれなかったこと、今日からのちはもうその惧れがないこと、このことが金閣をして、再び、「昔から自分はここに居り、未来永劫《えいごう》ここに居るだろう」という表情を、取戻させたのにちがいない。
 内部の古びた金箔《きんぱく》もそのままに、外壁に塗りたくった夏の陽光の漆《うるし》に護《まも》られて、金閣は無益な気高い調度品のようにしんとしていた。森の燃える緑の前に置かれた、巨大な空っぽの飾り棚《たな》。この棚の寸法に叶《かな》う置物は、途方もない巨《おお》きな香炉とか、途方もない厖大《ぼうだい》な虚無とか、そういうものしかなかった筈だ。金閣はそれらをきれいに喪《うしな》い、実質を忽《たちま》ち洗い去って、ふしぎに空虚な形をそこに築いていた。もっと異様なことには、金閣が折々に示した美のうちでも、この日ほど美しく見えたことはなかったのである。
 私の心象からも、否《いな》、現実世界からも超脱して、どんな種類のうつろいやすさからも無縁に、金閣がこれほど堅固な美を示したことはなかった! あらゆる意味を拒絶して、その美がこれほどに輝やいたことはなかった。
 誇張なしに言うが、見ている私の足は慄《ふる》え、額には冷汗《ひやあせ》が伝わった。いつぞや、金閣を見て田舎へかえってから、その細部と全体とが、音楽のような照応を以《もっ》てひびきだしたのに比べると、今、私の聴いているのは、完全な静止、完全な無音であった。そこには流れるもの、うつろうものが何もなかった。金閣は、音楽の怖ろしい休止のように、鳴りひびく沈黙のように、そこに存在し、屹立《きつりつ》していたのである。
『金閣と私との関係《??》は絶たれたんだ』と私は考えた。『これで私と金閣とが同じ世界に住んでいるという夢想は崩れた。またもとの、もとよりももっと望みのない事態がはじまる。美がそこにおり、私はこちらにいるという事態。この世のつづくかぎり渝《かわ》らぬ事態……。』
 敗戦は私にとっては、こうした絶望の体験に他ならなかった。今も私の前には、八月十五日の焔《ほのお》のような夏の光りが見える。すべての価値が崩壊したと人は言うが、私の内にはその逆に、永遠が目ざめ、蘇《よみがえ》り、その権利を主張した。金閣がそこに未来永劫存在するということを語っている永遠。
 天から降って来て、われわれの頬《ほお》に、手に、腹に貼《は》りついて、われわれを埋めてしまう永遠。この呪《のろ》わしいもの。……そうだ。まわりの山々の蝉《せみ》の声にも、終戦の日に、私はこの呪《じゅ》詛《そ》のような永遠を聴いた。それが私を金いろの壁土に塗りこめてしまっていた。

 その晩は開枕《かいちん》の読経《どきょう》の前に、特に陛下の御安泰を祈り、戦歿者《せんぼつしゃ》の霊を慰めるために、長いお経が上げられた。戦争このかた、各宗で簡略な輪袈裟《わげさ》が用いられるようになっていたが、今夜特に老師は、久しく納《しま》われていた緋《ひ》の五条の袈裟を召した。
 皺《しわ》の中まで洗い込まれたように清浄《しょうじょう》な、小《こ》肥《ぶと》りしたその顔は、今日もまことに血色がよく、何かに満ち足りていた。暑い夜であったので、その衣《きぬ》摺《ず》れの音のすずしさが冴《さ》えた。
 読経のあとで、寺の者はみんな老師の居室に呼ばれ、そこで講話があった。
 老師の選んだ公案は、無門関第十四則の南《なん》泉斬猫《せんざんみょう》である。
「南泉斬猫」は、碧巌録《へきがんろく》にも、第六十三則「南泉斬猫児」、第六十四則「趙州頭戴草鞋《ちょうしゅうずたいぞうあい》」の二則となって出ている、むかしから難解を以て鳴る公案である。
 唐代の頃、池州南泉山に普願禅師という名僧があった。山の名に因《ちな》んで、南泉和尚と呼ばれている。
 一山総出で草刈りに出たとき、この閑寂な山寺に一匹の仔《こ》猫《ねこ》があらわれた。ものめずらしさに皆は追いかけ廻してこれを捕え、さて東西両堂の争いになった。両堂互いにこの仔猫を、自分たちのペットにしようと思って争ったのである。
 それを見ていた南泉和尚は、忽ち仔猫の首をつかんで、草刈鎌《くさかりがま》を擬して、こう言った。
「大衆道《い》ひ得ば即《すなは》ち救ひ得ん。道《い》ひ得ずんば即ち斬却せん」
 衆の答はなかった。南泉和尚は仔猫を斬《き》って捨てた。
 日暮になって、高弟の趙州《ちょうしゅう》が帰って来た。南泉和尚は事の次第を述べて、趙州の意見を質《ただ》した。
 趙州はたちまち、はいていた履《くつ》を脱いで、頭の上にのせて、出て行った。
 南泉和尚は嘆じて言った。
「ああ、今日おまえが居てくれたら、猫の児《こ》も助かったものを」
 ――大体右のような話で、とりわけ趙州が頭に履をのせた件《くだ》りは、難解を以てきこえている。
 しかし老師の講話だと、これはそれほど難解な問題ではないのである。
 南泉和尚が猫を斬ったのは、自我の迷妄《めいもう》を断ち、妄念妄想の根源を斬ったのである。非情の実践によって、猫の首を斬り、一切の矛《む》盾《じゅん》、対立、自他の確執を断ったのである。これを殺人刀《せつにんとう》と呼ぶなら、趙州のそれは活人剣《かつにんけん》である。泥《どろ》にまみれ、人にさげすまれる履というものを、限りない寛容によって頭上にいただき、菩《ぼ》薩道《さつどう》を実践したのである。
 老師はこのように説明すると、日本の敗戦には少しも触れずに講話を打切った。私たちは狐《きつね》につままれたようであった。なぜ敗戦のこの日に、特にこの公案が選ばれたのか、少しもわからない。
 私室へかえる廊下で、私は鶴川にそういう疑問を訴えた。鶴川も頭を振っていた。
「わからんな。僧堂生活をしなきゃ、わかりっこないよ。それでも今夜の講話のミソは、戦争に負けた日に、何もその話はしないで、猫を斬る話なんかしたことだと思うよ」
 戦争に敗《ま》けたからと云って、決して私は不幸なのではなかった。しかし老師のあの満ち足りた幸福そうな顔は気にかかった。
 一つの寺では、通例、住職に対する尊敬の念が、寺の秩序を保たせるのだが、過去一年お世話になっていながら、私には老師に対する深い敬愛の心が湧《わ》いて来なかった。それはそれでよかった。しかし母によって野心に火を点ぜられて以来、十七歳の私の目は、時折老師を批判して見るようになっていた。
 老師は公平無私だった。しかしそれは私がもし老師であったら、そのように公平無私でありうるだろうと、容易に想像のつくような公平さであった。禅僧独特のユーモアも、老師の性格には欠けていた。通常そんな小肥りの姿にはユーモアがつきものなのだが。
 老師は女遊びをし尽した人だときいていた。老師が遊んでいるところを想像すると、可笑《おか》しくもなり、不安にもなる。桃色の餅《もち》菓子《がし》のような体に抱きしめられて、女はどんな気持がするのだろう。世界のはてまでその桃いろの柔らかい肉がつながって、肉の墓に埋められたような気がするだろう。
 私は禅僧にも肉体のあることがふしぎでならなかった。老師が女遊びをし尽したのは、肉体を捨離して、肉を軽蔑《けいべつ》するためだったと思われる。それなのに、その軽蔑された肉が思うさま栄養を吸って、つやつやして、老師の精神を包んでいるのはふしぎに思われる。よく馴らされた家畜のような温順な、謙譲な肉。和尚の精神にとっては、まさに妾《めかけ》のようなその肉……。

 私にとって、敗戦が何であったかを言っておかなくてはならない。
 それは解放ではなかった。断じて解放ではなかった。不変のもの、永遠なもの、日常のなかに融《と》け込んでいる仏教的な時間の復活に他ならなかった。
 寺の日課は敗戦のあくる日から、又同じようにつづけられた。開定《かいじょう》、朝課、粥座《しゅくざ》、作務《さむ》、斎《さい》座《ざ》、薬石、開浴、開枕。……その上、老師は闇米《やみごめ》を買うことを厳しく止められたので、檀《だん》家《か》の寄附にかかる米だの、あるいは副《ふう》司《す》さんが発育ざかりの私たちのために、寄附と称して買うわずかな闇米が、乏しい粥《かゆ》の椀《わん》に沈んでいた。甘藷《かんしょ》の買い出しにもときどき行った。粥座は朝だけでなく、昼も夜も粥や藷《いも》の食事がつづき、私たちはいつも飢《う》えていた。
 鶴川は東京の生家にたのんで、ときどき甘いものなどを送らせた。夜が更《ふ》けてから、私の枕許《まくらもと》へやってきて一緒に喰《た》べた。深夜の空にはときどき稲妻《いなづま》が走っていた。
 そんな豊かな生家と、慈愛の深い父母のもとへ、どうして帰らないのかと私は尋ねた。
「だってこれも修行だもの。どうせ僕も、おやじの寺を継ぐんだもの」
 彼には少しも物事が苦にならぬらしかった。箸箱《はしばこ》にきちんとはまっている箸のように。私は更に追究して、これから想像もつかない新らしい時代が来るかもしれない、と鶴川に言った。そのとき私は、終戦後三日目に学校へ行った折、工場の指導者の士官が、トラック一杯の物資を自分の家へもちかえった、という話を、みんながしていたのを思い出した。士官は公然と、これから俺は闇屋になるのだ、と言ったそうである。
 あの豪胆で、残酷な、鋭い目をした士官は、まさに悪へ向って駈《か》け出したのだと私は思った。彼の半長靴が駈ける道のゆくてには、戦争における死とそっくりな貌《かお》をした、朝焼けのような無秩序があった。胸もとに白絹のマフラーをひるがえし、盗んだ物資を背が曲るほど背負い込んで、夜のなごりの風に頬をさらして、彼は出発するだろう。彼はすばらしい速さで磨《ま》滅《めつ》するだろう。しかしもっと遠くで、もっと軽やかに、無秩序の輝やく鐘楼《しゅろう》の鐘は鳴っている。……
 そういうものすべてから私は隔てられていた。私には金もなく、自由もなく、解放もなかった。しかし「新らしい時代」と私が言うとき、十七歳の私が、まだそれとはっきりは形を成さぬながら、一つの決意を固めていたことはたしかである。
『世間の人たちが、生活と行動で悪を味わうなら、私は内界の悪に、できるだけ深く沈んでやろう』
 しかし手はじめに私の考える悪は、老師に巧《うま》くとり入って、いつか金閣を手に入れようというほどのことでしかなく、又ほんの空想の中で、老師を毒殺して、そのあとに私が居《い》据《すわ》ると云った、他愛もない夢でしかなかった。この計画は、鶴川に同じ野心のないことを確かめ得て、私の良心の安らぎにさえなった。
「君は、未来のことに、何の不安も希望も持たへんのか?」
「持ってないんだ、何も。だって、持っていて何になるんだ」
 こう答えた鶴川の語調には、わずかな暗さも、投げやりな調子もなかった。そのとき稲妻が、彼の顔だちの唯一《ゆいいつ》の繊細な部分である細いなだらかな眉《まゆ》を照らし出した。床屋がそうするままに、鶴川は眉の上下を剃《そ》らせるらしかった。そこで細い眉はいよいよ人工的に細く、眉のはずれの一部に、剃りあとの仄《ほの》かな青い翳《かげ》を宿していた。
 私はちらとその青さを見て、不安に搏《う》たれた。この少年は私などとはちがって、生命の純潔な末端のところで燃えているのだ。燃えるまでは、未来は隠されている。未来の燈芯《とうしん》は透明な冷たい油のなかに涵《ひた》っている。誰が自分の純潔と無垢《むく》を予見する必要があるだろう。もし未来に純潔と無垢だけしか残されていないならば。

 ……その晩、鶴川が自分の部屋へ戻《もど》って行ってから、残暑のむしあつさに私は寝つかれなかった。あまつさえ、自《じ》涜《とく》の習慣に抗しようとする気持が眠りを奪った。
 ときたま私は夢精をすることがあった。それも確たる色慾《しきよく》の影像はなく、たとえば暗い町を一匹の黒い犬が駈けていて、その炎のような口の喘《あえ》ぎが見え、犬の首につけられた鈴がしきりに鳴るにつれて昂奮《こうふん》が募り、鈴の鳴り方が極度に達すると、射精していたりした。
 自涜の折には、私は地獄的な幻想を持った。有為子《ういこ》の乳房があらわれ、有為子の腿《もも》があらわれた。そして私は比類なく小さい、醜い虫のようになっていた。
 ――私は床を蹴《け》って起きて、小書院の裏手から忍び出た。
 鹿苑寺の裏手、夕《せっ》佳《か》亭のあるところより更に東に、不動山という山がある。赤松に覆《おお》われた山で、松のあいだに生い茂る笹《ささ》にまじって、うつぎ、躑躅《つつじ》などの灌木《かんぼく》があった。その山には夜道でも躓《つまず》かずに登れるほど馴れていた。頂きに登れば上京中京《かみぎょうなかぎょう》、はるかに叡山《えいざん》や大文《だいもん》字《じ》山《やま》を望み見ることができた。
 私は登った。おどろかされた鳥の羽音の中を、わき目もふらずに、木の株を除《よ》けながら登った。何も考えないこの登攀《とうはん》が、たちまち私を癒《い》やすのを感じた。頂上に着いたとき、涼しい夜風が来て、汗にまみれた体を捲《ま》いた。
 目の前の眺望《ちょうぼう》がわが目を疑わせた。久しいあいだの燈火管制を解かれた京都市は、見わたすかぎりの灯であった。戦後になって、夜、一度もここへ登ったことがなかったので、この光景は私にとって殆《ほと》んど奇《き》蹟《せき》であった。
 灯は一つの立体をなしていた。平面のそこかしこに散らばる灯が、遠近感を失って、燈火ばかりでできた透明な一つの大建築が、複雑な角《つの》を生やし、翼楼をひろげて、夜の只中《ただなか》に立ちはだかっているように思われた。これこそは都というものだった。大きな黒い洞《ほら》のように、御所の森にだけは灯が欠けていた。
 かなた、叡山の片ほとりから暗い夜空にかけて、時折稲妻がひらめいた。
『これが俗世だ』と私は思った。『戦争がおわって、この灯の下で、人々は邪悪な考えにかられている。多くの男女は灯の下で顔を見つめ合い、もうすぐ前に迫った、死のような《?????》行為《??》の匂《にお》いを嗅《か》いでいる。この無数の灯が、悉《ことごと》く邪《 よこし》まな灯だと思うと、私の心は慰められる。どうぞわが心の中の邪悪が、繁殖し、無数に殖え、きらめきを放って、この目の前のおびただしい灯と、ひとつひとつ照応を保ちますように! それを包む私の心の暗黒が、この無数の灯を包む夜の暗黒と等しくなりますように!』



 金閣の見物はおいおい数を増した。老師は市に申請して、インフレーションに即応するような拝観料の値上げに成功した。
 今まで金閣の拝観者は、軍服や作業服やもんぺ姿の、つつましいまばらな客でしかなかった。やがて占領軍が到着し、俗世のみだらな風俗が金閣のまわりに群がるにいたった。一方、献茶の習慣もよみがえり、女たちはあちこちへ隠していたとっておきの華美な衣裳《いしょう》を着て、金閣へ昇った。かれらの目にさらされる私たち、私たちの僧衣の姿、それは今でははっきりした対照をなし、まるでわれわれは酔興に僧侶《そうりょ》の役を演じているかのようであった。或る地方の珍奇な風俗を見にやって来る観光客のために、殊更《ことさら》昔の珍奇な風俗を固守している住民のように。……とりわけ米兵たちは、無遠慮に私の僧衣の袖《そで》を引張って、笑ったりした。あるいはいくばくの金を差出し、記念写真をとらせるために、僧衣を貸してくれ、と言ったりした。それというのも、英語のできない案内人の代りに、時折、鶴川や私が、片言の英語の案内に狩り出されたからである。

 戦後最初の冬になった。或る金曜の晩から雪が降りはじめ、土曜にも降りつづけた。学校にいるあいだも、正午で退《ひ》けて帰って、雪の金閣を見るのがたのしみだった。
 午後も雪であった。私はゴム長靴《ながぐつ》に、肩から鞄《かばん》をかけたまま、参観路から鏡湖池のほとりへ出た。雪は暢達《ちょうたつ》な速度で降った。子供のころよくそうしたものだが、私は今も天へむかって大きく口をあけた。すると雪片はごく薄い錫《すず》の箔《はく》をうちあてるような音を立てて、私の歯にさわり、さて、温かい口腔《こうこう》の中へ、隈《くま》なく雪が散って来て、私の赤い肉のおもてに融け浸《し》み入るのが感じられた。そのとき私は究竟頂《くきょうちょう》上の鳳凰《ほうおう》の口を想像していたのだった。あの金色《こんじき》の怪鳥《けちょう》の、なめらかな熱い口を。
 雪は私たちを少年らしい気持にさせる。まして私は年を越しても、まだ十八歳なのである。私が少年らしい躍動を身内に感じていたとしても、それが嘘《うそ》になろうか?
 雪に包まれた金閣の美しさは、比べるものがなかった。この吹き抜けの建築は、雪のなかに、雪が吹き入るのに委《まか》せたまま、細身の柱を林立させて、すがすがしい素《す》肌《はだ》で立っていた。
 どうして雪は吃《ども》らぬのか? と私は考えた。それは八つ手の葉に障《さや》るときなど、吃ったように降って、地に落ちることもあった。しかし遮《さえ》ぎるもののない空から、流麗に落ちてくる雪を浴びていると、私の心の屈曲は忘れられ、音楽を浴びているように、私の精神はすなおな律動を取戻した。
 事実、立体的な金閣は、雪のおかげで、何事をも挑《いど》みかけない平面的な金閣、画中の金閣になっていた。両岸の紅葉山の枯枝は、雪をほとんど支え得ないで、その林はいつもよりも裸かに見えた。おちこちの松に積む雪は壮麗だった。池の氷の上にはさらに雪がつもり、ふしぎにつもらぬ個所もあって、白い大まかな斑《まだ》らは、装飾画の雲のように大胆にえがかれていた。九山八海石も淡路島も、池の氷上の雪とつながって、そこに茂る小松は、あたかも氷と雪の原の只中から、偶然生い立ったもののように見えるのであった。
 人の住まぬ金閣は、究竟頂と潮音洞の二つの屋根、これに更に漱清《そうせい》の小屋根を加えて三つの、くっきりした白の部分のほかは、暗い複雑な木組が、雪中にむしろなまなましい黒色をうかべていたが、われわれが南画の山中の楼閣などに、ふと人が住んでいはしないかと、画面に顔を近づけて覗《のぞ》いたりするように、その古い黒い木の色のあでやかさは、金閣に誰か人が住んでいるのではないかと、窺《うかが》いたくなる気持に私をさせた。しかしたとえ近づける私の顔も、雪の冷たい絵絹にぶつかって、それ以上近づくことはできなかったであろう。
 究竟頂の扉《とびら》は今日も雪空に向って開け放たれていた。そこを見上げている私の心は、降り込む雪片が、究竟頂の何もない小さな空間を飛びめぐり、やがて壁面の古い錆《さ》びた金箔《きんぱく》にとまって、息絶えて、小さな金いろの露を結ぶにいたるまでの、逐一を見るのであった。

 ……あくる日の日曜の朝、老案内人が私を呼びに来た。
 開場前の時刻に、外人兵の見物が来たのだった。老案内人は手まねで待たしておいて、「英語のできる」私を呼びに来た。さてふしぎなことに、私は鶴川よりも英語はよくできたし、英語となると吃らなかった。
 玄関の前にはジープがとまっていた。泥酔《でいすい》している米兵は玄関の柱に手をかけ、私を見下ろして蔑《さげす》むように笑った。
 雪晴れの前庭はまばゆかった。そのまばゆさを背に、脂切《あぶらぎ》った肉がひしめいている青年の顔は、私の顔へ、白い息と一緒にウイスキーの酒気を吹きつけた。いつものことながら、こういう寸法のちがった人間の中で動いている感情を想像することは私を不安にした。
 私は何でも反抗せぬことにしていたので、開門前だが、特に案内する、と云い、入場料と案内料を請求した。巨《おお》きな酔漢は意外に大人しく仕払った。それからジープの中をのぞいて、「出て来い」という意味のことを言った。
 雪の反射がまぶしかったので、ジープの暗い車内はそれまで見えなかった。幌《ほろ》の明り取りの中で何か白いものが動いた。兎《うさぎ》のようなものが動いた気がした。
 ジープの踏台の上へ、細いハイヒールの脚がさし出された。この寒いのに素足であったので私はおどろいた。女は外人兵相手の娼婦《しょうふ》だと一目でわかる真赤な炎いろの外套《がいとう》を着、足の爪《つめ》も手の爪も、同じ炎いろに染めていた。外套の裾《すそ》のさばけるときに、うす汚れたタオル地の寝間着が見えた。女もひどく酔っていて目が据《すわ》っていた。そして男のほうは、それでもきちんと軍服を着ているが、女は起きぬけのまま、寝間着の上に襟巻《えりまき》と外套を引っかけて出て来たのであるらしい。
 雪の反映をうけた女の顔はひどく蒼《あお》ざめていた。血の気のほとんどない肌に、口紅の緋《ひ》いろが無機的にうかんでいた。下りた途端に女は嚏《くさめ》をし、細い鼻梁《びりょう》にこまかく走る小《こ》皺《じわ》を寄せて、酔い疲れた目が一瞬遠くを見たのが、また底深くどんよりと沈んだ。そしてジャックを、ジャーアックと発音して、男の名を呼んだ。
「ジャーアック、ツー?コールド! ツー?コールド!」
 女の声は哀切に雪の上に流れた。男は答えなかった。
 こんな商売の女を、私が美しいと感じたのははじめてである。有為子《ういこ》と似ているからではなかった。ひとつひとつちがっていて、有為子と似せないように似せないようにと、吟味して描いた肖像のようであった。そのことが何かしら、有為子の記憶に抗して出来た影像の、反抗的な新鮮な美しさを帯びていた。というのは、私が人生で最初に感じた美に対するその後の官能の反抗に、媚《こ》びるようなものがあったのだ。
 ただ一点が有為子に共通していた。僧衣を着ず、汚ないジャンパーにゴム長靴の姿の私へ、女は目もくれなかったことである。
 その朝早く、寺中総出で、辛うじて参観路の雪《ゆき》掻《か》きは済んでいた。団体でも来られると困るが、並の人数なら、一列に歩けるほどの通路がひらかれた。そこを私は、米兵と女との先に立って歩いた。
 米兵は池のところまで来て眺望《ちょうぼう》がひらけると、大手をひろげて、何かわからぬことを喚《わめ》いて、歓声をあげた。女の体を乱暴にゆすぶった。女は眉《まゆ》をしかめて、又、
「オー、ジャーアック。ツー?コールド!」
 と言うきりであった。
 米兵は雪をたわわに積んだ葉かげに見える青木のつややかな赤い実を、あれは何かと私に尋ねたが、私は「アオキ」としか答えることができなかった。巨きな体《たい》躯《く》にも似ず、彼は抒情《じょじょう》詩人なのかもしれないが、その澄んだ青い目は残酷に感じられた。「マザア?グウス」という外国の童謡に、黒い目のことを意地悪で残酷だと歌っているが、異国的なものに託して人間は、残酷さを夢みるのが通例なのであろうか。
 私は型どおりに金閣を案内した。ひどく酔っている兵士は、ふらふらして靴をあちこちへ投げ飛ばして脱いだ。私はポケットからかじかんだ手で、こうした場合に読みあげる英文の説明書をとり出した。しかし米兵が横から手を出してこれをとりあげ、おどけた節で読みはじめたので、私の案内は不要になった。
 私は法《ほ》水院《すいいん》の欄《てすり》にもたれ、すさまじく照りかがやく池を眺《なが》めた。金閣の中がこんなに不安なほど明るく照らし出されていることはなかった。
 私の気づかぬうちに、漱清のほうへ行っていた男女のあいだに、口論が起っていた。諍《いさか》いはだんだん烈《はげ》しくなったが、私には一語も聴きとれなかった。女も何か強い言葉でやり返しているのだが、それが英語であるか日本語であるかわからなかった。二人は諍いながら、もう私の存在は忘れて、法水院のほうへ立戻って来た。
 女が、顔を突き出して罵《ののし》っていた米兵のその頬《ほお》を、思い切り平手打ちにした。そして身をひるがえして逃げ、ハイヒールを穿《は》いて、参観路を入口のほうへ駈《か》け出した。
 私も何やらわからずに、金閣を下りて池畔を駈けた。しかし女に追いついたときには、すでに足の長い米兵が追いついていて、女の真紅な外套の胸倉《むなぐら》をつかんでいた。
 そのまま青年は私のほうをちらと見た。女の炎いろの胸もとをつかんでいた手を、軽く離した。その離す手にこもっていた力は、しかし尋常なものではなかったらしい。女は仏《ほとけ》倒《だお》しに雪の上に仰向けに倒れた。炎いろの裾が裂けて、雪に白い素肌の腿《もも》がひろがった。
 女は起き上ろうともしなかった。下からじっと、雲つくような男の高所の目を睨《にら》んでいた。私はやむなく、ひざまずいて、女を扶《たす》け起そうとした。
 ヘイ、と米兵が叫んだ。私はふりむいた。足をひろく踏んばった彼の立姿が目の前に在《あ》った。指で私に合図していた。打って変った温かい潤《うる》みのある声が、英語でこう言った。
「踏め。おまえ、踏んでみろ」
 何のことか私にはわからなかった。しかし彼の青い目は高所から命じていた。彼のひろい肩幅のうしろには、雪をいただいた金閣がかがやき、洗われたように青い冬空が潤んでいた。彼の青い目は少しも残酷ではなかった。それを、その瞬間、世にも抒情的だと感じたのは何故だろう。
 彼の太い手が下りて来て、襟首《えりくび》をつかまえて、私を立たせた。しかし命ずる声音はやはり温かく、やさしかった。
「踏め。踏むんだ」
 抵抗しがたく、私はゴム長靴の足をあげた。米兵が私の肩を叩《たた》いた。私の足は落ちて、春《しゅん》泥《でい》のような柔らかいものを踏んだ。それは女の腹だった。女は目をつぶって呻《うめ》いていた。
「もっと踏むんだ。もっとだ」
 私は踏んだ。最初に踏んだときの異和感は、二度目には迸《ほとばし》る喜びに変っていた。これが女の腹だ、と私は思った。これが胸だ、と思った。他人の肉体がこんなに鞠《まり》のように正直な弾力で答えることは想像のほかだった。
「もういい」
 と米兵ははっきり言った。そして礼儀正しく女の体を抱きあげ、泥と雪を払ってやり、それからは私には振向かずに、先に立って女の体を支えて歩いた。女は最後まで私の顔から視線を外《そ》らしていた。
 ジープのところまで来て、女を先に乗せると、酔のさめたいかめしい顔つきで、米兵は私にサンキューと言った。金をくれようとしたので、私は断わった。彼は座席から、米国煙草《たばこ》を二カートンとり出し、私の腕に押しつけた。
 私は玄関先の雪の照り返しの中に、頬をほてらせて立っていた。ジープは雪煙をあげて、丹念に揺れながら遠ざかった。ジープは見えなくなった。私の肉体は昂奮《こうふん》していた。

 ……やっと昂奮が治まったとき、私には偽善の喜びの企《たく》らみがうかんだのだが、煙草好きの老師はどんなにか喜んで、この贈物をうけとるであろう。何も知らずに《??????》。
 すべては告白の必要のないことだった。私は命ぜられ、強《し》いられてやったにすぎない。もし反抗したら、私自身がどんな目に会っていたかしれないのである。
 大書院の老師の部屋へゆく。そういうことの巧い副《ふう》司《す》さんが、老師の頭を剃《そ》っている。朝日のいっぱい当った縁先で私は待った。
 庭の陸舟松は、積った雪をまばゆくかがやかせているので、それがまるで折り畳んだ真新らしい帆のようであった。
 頭が剃られるあいだ、老師は目をつぶり紙を両手でささげて、落ちる毛を受けている。剃られるにつれてその頭の動物的ななまなましい輪郭がはっきりしてくる。剃りおわると副司さんは、温かい手拭《てぬぐい》で老師の頭をくるんだ。しばらくしてそれを剥《は》がす。その下から、生れたてのような、ほかほかした、茹《ゆ》でたような頭が現われる。
 私はやっと口上を言って、二カートンのチェスタフィールドをさし出して、叩頭《こうとう》した。
「ほほう。御苦労だった」
 と老師は、自分の顔の外れで笑うような微笑をちらとうかべて言った。それきりであった。二本の煙草包は、老師の手で、大そう事務的に、いろんな書類や手紙の積まれた机の上に無造作に重ねられた。
 副司さんが肩を揉《も》みだしたので、老師は又目を閉じた。
 私は退《さが》らねばならなかった。不満が私の体を熱くしていた。自分のした不可解な悪の行為、その褒《ほう》美《び》にもらった煙草、それと知らずにそれを受けとる老師、……この一連の関係には、もっと劇的な、もっと痛烈なものがある筈だった。老師ともある人がそれに気づかぬことが、私をして老師を軽蔑《けいべつ》させる又一つ大きな理由になった。
 しかし退ろうとする私を老師は引止めた。彼は丁度《ちょうど》私に、恩恵を施そうと思っているところだったのである。「おまえをな」と老師は言った。「卒業次第、大谷《おおたに》大学へやろうと思ってる。亡《な》くなったお父さんもきっと心配しておられるから、うんと勉強をして、よい成績で大学へ入らないかん」
 ――このニュースは、忽《たちま》ち副司さんの口から寺じゅうに伝えられた。老師のほうから大学進学の話があるのは、よほど嘱望《しょくぼう》されている証拠だというのであった。昔徒弟が大学へ行かしてもらうために、住職の部屋へ肩を揉みに百夜も通って、やっと望みを叶《かな》えられたという話は山程ある。家の費用で大谷大学へ行かしてもらうことになっている鶴川は、私の肩を叩いて喜び、老師から何の沙汰《さた》もないもう一人の徒弟は、爾後《じご》私とは口をきかなくなった。



第四章


 私がやがて、昭和二十二年の春、大谷《おおたに》大学の予科へ入ったとき、老師の渝《かわ》らぬ慈愛と、同僚の羨望《せんぼう》とに包まれて、意気揚々と入学した、というのではなかった。外《そと》目《め》にはおそらくそう見えた。しかしこの進学については、思い出すさえ忌々《いまいま》しい事情がある。
 老師があの雪の朝、私に大学進学の許しを与えてから一週間後、私が学校からかえると、大学進学の沙汰《さた》のなかった例の徒弟が、大そう嬉《うれ》しそうな表情で私を見た。それまでこの男は私と口を利《き》かなくなっていたのである。
 寺男の態度にも、副《ふう》司《す》さんの態度にも、何かしら常とことなるものがあった。しかし表ては常とかわらぬように装うているのが見てとれた。
 その晩、私は鶴川《つるかわ》の寝室へゆき、寺の人たちの態度がおかしいと愬《うった》えた。鶴川もはじめは私と一緒に首をかしげて見せたけれど、感情をいつわることのできない彼は、やがて後ろめたい顔つきになって私を見据《みす》えた。
「僕はあいつ」ともう一人の徒弟の名を云って、「あいつからの又聞きなんだが、というのは、あいつも学校へ行っていて、知らなかったんだから、……とにかく君の留守に、妙なことがあったんだって」
 私は胸さわぎがした。詰問《きつもん》した。鶴川は、秘密を守る誓いを私にさせて、私の顔色を伺い伺い、話し出した。
 その日の午下《ひるさが》りに、緋《ひ》いろの外套《がいとう》を着た外人向の娼婦《しょうふ》が寺を訪れ、住職に面会を求めた。副司さんが代りに玄関へ出た。女は副司さんを罵《ののし》って、どうしても住職に会わせろと云った。そこへ老師が折悪しく廊下をとおって来て、女の姿をみとめて、玄関先へ出た。女が云うには、一週間ほど前の雪晴れの朝、外人兵と一緒に金閣を見物に来た折、寺の小僧が外人兵に阿諛《あゆ》して、外人兵が突き倒した女の腹を踏みにじった。その晩、女は流産した。そこで、いくばくの金を貰《もら》いたい。呉《く》れなければ、鹿苑《ろくおん》寺《じ》の非行を世間に訴えて、表沙汰にする、というのである。
 老師は黙って、金を渡して女を帰した。その日の案内人が他ならぬ私であることはわかっていたが、私の非行の目撃者はなかったので、老師はこのことを私に決して知らせてはならぬと言った。老師はすべてを不問に附したのだ。
 しかし、寺の人たちは、副司さんからそれを訊《き》くなり、私の非行を疑わなかった。鶴川はほとんど涙ぐんで、私の手をとった。その透明な眼差《まなざし》は私を見つめ、その少年らしい生《き》一本《いっぽん》な声は私を搏《う》った。
「本当に君はそんなことをやったのか?」

 ……私は自分の暗黒の感情に直面した。鶴川がこんな追いつめるような質問で以《もっ》て、私をそれに直面させたのだ。
 どうして鶴川は私にそれを訊くのだろう。友情からだろうか。私にそんな質問をすることによって、彼が自分の本当の役割を放擲《ほうてき》していることを、彼自身知っているだろうか。彼がそんな質問によって、私の深いところで私を裏切ったことを知っているだろうか。
 私はたびたび言った筈《はず》だ、鶴川は私の陽画だと。……鶴川がもし彼の役割に忠実であったら、私を問いつめたりせずに、何も訊かずに、私の暗い感情を、そっくりそのまま、明るい感情に飜訳《ほんやく》すべきであったのだ。そのとき、嘘《うそ》は真実になり、真実は嘘になった筈だ。鶴川の持ち前のそういう仕方、すべての影を日向《ひなた》に、すべての夜を昼に、すべての月光を日光に、すべての夜の苔《こけ》の湿《しめ》りを、昼のかがやかしい若葉のそよぎに飜訳する仕方を見れば、私も吃《ども》りながら、すべてを懺《ざん》悔《げ》したかもしれない。が、このときに限って、彼はそれをしなかった。そこで私の暗黒の感情が力を得たのだ。……

 私はあいまいに笑った。火の気のない寺の深夜。寒い膝《ひざ》。古い太い柱が、幾本もそそり立って、ひそひそ話をしている私たちを囲んでいた。
 私が慄《ふる》えていたのはおそらく寒さからだった。しかしはじめて公然と、この友に嘘をつく快楽も、私の寝間着の膝を慄わせるに足りた。
「何もせえへんで」
「そうか。じゃ、あの女は嘘を言いに来たんだな。畜生。副司さんまでそれを信じるなんて」
 彼の正義感はだんだん高じて来て、明日は私のために、ぜひとも老師に対して釈明してやると息巻くまでになった。そのとき私の心には、ふいに老師の、あの茹《ゆ》でた野菜のような剃《そ》りたての頭が浮んだ。それから桃いろの無抵抗な頬《ほお》が浮んだ。この心象に、何故か突然甚《はなは》だしい嫌《けん》悪《お》を感じた。鶴川の正義感は、発露せぬうちに、私の手で土に埋めてしまう必要があった。
「そやかて、老師は僕のしたことやと信じていやはるやろか」
「さあ」と忽《たちま》ち鶴川の考えは窮した。
「ほかの人はどないに蔭口《かげぐち》をきいても、老師だけは黙って見とおしてて下さるよって、安心しとったらええのや。僕はそう思うとる」
 そして私は、鶴川の釈明が却《かえ》って私に対するみんなの猜《さい》疑《ぎ》を深めるのにしか役立たないことを納得させた。老師だけは私の無辜《むこ》を知っておられればこそ、すべてを不問に附したのだ、と私は言った。言ううちに私の胸には喜びが兆《きざ》し、喜びは次第に鞏固《きょうこ》な根を張った。『目撃者はない《??》のだ。証人はない《??》のだ』という喜び……。

 さて私は、老師だけが私の無辜をみとめている、などと信じていたわけではない。むしろその反対だ。すべてを老師が不問に附したことは、却って私のこの推測を裏書している。
 もしかしたら二カートンのチェスタフィールドを私の手からうけとったとき、老師はすでに見抜いていたのかもしれない。不問に附したのはただ、私の自発的な懺《ざん》悔《げ》を、遠くからじっと待つためであったかもしれない。そればかりではない。大学進学の餌《えさ》を与えておいて、それと私の懺悔とを引換えにして、もし私が懺悔をしなければ、その不正直の罰に進学を差止め、もし懺悔すれば、改悛《かいしゅん》のしるしを見究めてから、今度は格別に恩着せがましく、大学進学を許すつもりかもしれない。そしてもっとも大きな罠《わな》は、老師が副司さんに、このことを私に告げるな、と命じた点にあるのだ。私がもし本当に無辜なら、かくて、私は何も感ぜず、何も知らずにその日その日を送ることができる。一方、私がもし非行を犯していれば、そして私に多少の知恵があれば、無辜の私が送るであろう純潔な沈黙の日々を、つまり決して懺悔の必要のない日々を、完全に模倣することができる。いや、模倣すればよいのである。それが最善の方法であり、それが私の身の明しを立てる唯一《ゆいいつ》の道なのだ。老師はそれを暗示している。その罠に私を引っかけている。……ここに思いいたると、私は怒りに駆られた。
 私とて、弁《べん》疏《そ》の余地がないわけではない。もし私が女を踏まなかったら、外人兵は拳銃《けんじゅう》をとり出して、私の生命をおびやかしたかもしれない。占領軍に反抗することはできない。私はすべてを強いられてやったのである。
 しかし私のゴム長の靴裏に感じられた女の腹、その媚《こ》びるような弾力、その呻《うめ》き、その押しつぶされた肉の花ひらく感じ、或る感覚のよろめき、そのとき女の中から私の中へ貫ぬいて来た隠微な稲妻《いなづま》のようなもの、……そういうものまで、私が強いられて味わったということはできない。私は今も、その甘美な一瞬を忘れていない。
 老師は、私の感じた中核、その甘美さの中核を知っていた!

 それから一年、私は籠《かご》に捕えられた小鳥のようになった。籠は私の目にたえず見えていた。決して懺悔しまいと思いながら、私の毎日には安《あん》堵《ど》がなくなった。
 ふしぎなことである。あの当座には少しも罪を思わせなかった行為、女を踏んだというあの行為が、記憶の中で、だんだんと輝やきだしたのである。それは女が流産したという結果を知ったからだけではない。あの行為は砂金のように私の記憶に沈澱《ちんでん》し、いつまでも目を射る煌《きら》めきを放ちだした。悪の煌めき。そうだ。たとえ些《さ》細《さい》な悪にもせよ、悪を犯したという明瞭な意識は、いつのまにか私に備わった。勲章のように、それは私の胸の内側にかかっていた。
 ……さて、実際問題として、大谷大学を受験するまでのあいだ、私は老師の意向をあれこれと揣摩《しま》しつつ、途方に暮れるほかはなかった。老師は一度でも進学の口約束を覆《くつが》えすようなことは言わなかった。しかしまた、受験の準備を急がせるようなことも言わなかった。そのいずれにせよ、どんなに私は老師の一言を待ったことか。老師は意地わるく沈黙を守り、私を永い時間のかかる拷問《ごうもん》にかけていた。私も亦《また》、怖《おそ》れからか、あるいは反抗からか、進学について老師の意向をもう一度質《ただ》してみることができかねた。かつては人並に敬意も払い、批判の目で眺《なが》めてもいた老師の姿は、徐々に、怪物的な巨《おお》きさを得て、人間らしい心を持った存在とは見えなくなった。それは何度目を外《そ》らそうとしてもそこに存在し、奇怪な城のようにそこにわだかまっていた。
 晩秋のことである。或る古い檀《だん》家《か》の葬式に招かれて、それが汽車で二時間もかかる土地であったので、老師は朝五時半に出発する旨《むね》を、前の晩から申し渡した。副司さんがお供についてゆく。私たちも、その時間に老師が出門するのに間に合うように、四時には起きて、掃《そう》除《じ》や食事の仕度をせねばならぬ。
 副司さんが老師のお世話をしているあいだ、私たちは起きぬけに朝課のお経を読んだ。
 暗い冷たい庫裏《くり》から、つるべの軋《きし》り音《ね》がたえず響いた。寺の人たちは洗顔をいそいでいた。晩秋の暁闇《ぎょうあん》をさえざえとつんざいて、裏庭の?鳴《けいめい》が白くきこえた。私たちは法衣の袖《そで》を合わせて、客殿の仏壇の前へ急いだ。
 そこに人の寝ることのない広い畳は、夜明け前の冷気のなかに、はねつけるような肌《はだ》ざわりをしていた。燭台《しょくだい》の焔《ほのお》はゆらめいた。私たちは三拝した。立って叩頭《こうとう》し、鉦《かね》の音《ね》と共に坐《すわ》って叩頭する。それを三度くりかえすのである。
 朝課の経のとき、私はいつもその合唱する男の声に、生々《なまなま》しさを感じるのが常であった。一日のうちでも朝課の経の声は力強いが、その声の強さが、夜じゅうの妄念《もうねん》をあたりに吹き散らし、声帯から黒い繁《し》吹《ぶき》がほとばしっているようである。私のことはわからない。わからないが私の声も、同じ男の汚れを撒《ま》き散らしていると思うことは、私を奇妙な具合に勇気づけた。
 私たちが粥座《しゅくざ》をすます前に、老師の出発の時刻が来た。寺の者は玄関の前に整列して、見送るのが作法である。
 まだ夜は明けない。空は星に充たされている。山門までのあいだの石だたみは、星あかりにしらじらと伸びているが、巨木の櫟《くぬぎ》や梅や松の影が、いたるところにはびこって、影は影に融《と》けて地を占めている。穴のあいたスウェーターを着ている私の肱《ひじ》からは、暁の冷気がしみた。
 すべては無言で行われる。私たちは黙って頭を下げる。老師はほとんどそれに応えない。そして老師と副司さんの下駄《げた》の音《おと》が、石だたみの上を戞々《かつかつ》とわれわれから遠のいてゆく。後ろ姿が全く見えなくなるまで見送るのが、禅家の礼である。
 遠くまで見えるのは後ろ姿の全部ではない。僧衣の白い裾《すそ》と、白い足袋《たび》とだけである。もう全く見えなくなったと思われる時がある。しかしそれは樹々の影に紛れたのだ。影のむこうに再び白い裾と白い足袋が現われて、足音の谺《こだま》は却って高まるようにも思われる。
 私たちは凝然とこれを見送っている。総門を出て、二人の姿がすっかり消え去るまでは、見送っている身にはずいぶん永い。
 そのとき私の内には異様な衝動が生れていた。大事な言葉が迸《ほとばし》ろうとして吃音《きつおん》に妨げられる時と同様、この衝動は私の咽喉《のど》元《もと》で燃えていた。私は解《と》き放たれたかった。母がかつて暗示した、住職の跡を襲う望みはおろか、大学進学の望みもこのときにはなかった。無言で私を支配し、私にのしかかっているものから遁《のが》れたかったのである。
 このとき私に勇気がなかったのだと云うことはできない。告白者の勇気などは知れている! 二十年間というもの黙りこくって生きてきた私には、告白の値打などは知れている。私を大《おお》袈裟《げさ》だと云うだろうか? 老師の無言に対抗して、告白をせずに来た私は、「悪が可能か?」ということ一つを試して来たのだと思われる。もし私が最後まで懺悔をしなければ、ほんの小さな悪でも、悪はすでに可能になったのだ。
 しかるに、老師の白い裾と白い足袋が、木《こ》立《だち》の影に隠見しながら、暁闇の中を遠ざかるのを見るにつけ、私の咽喉元で燃える力は、ほとんど制しがたい力になった。すべてを打明けたいと私は思った。老師を追って行って、その袖にすがり、大声で雪の日の逐一を述べ立てたいと思った。老師に対する尊敬がそんなことを思いつかせたのでは決してない。老師の力は、私にとっては一種の強力な物理的な力に似ていた。
 ……しかしもし打明ければ、私の人生の最初の小さな悪も、瓦《が》解《かい》するのだという思いは私を引止め、何ものかが私の背をしっかりと引いていた。老師の姿は総門をくぐり、明けやらぬ空の下に消え去った。
 皆はふいに、解き放たれて、ざわざわと玄関の中へ駈け入った。ぼんやりしている私の肩を鶴川が叩《たた》いた。私の肩は目ざめた。この痩《や》せた見すぼらしい肩は、矜《ほこ》りを取戻した。



 ……こんな経緯がありながら、私が結局大谷大学へ進んだことは前にも述べた。懺悔は不要であった。その日から数日後、老師は私と鶴川を呼び、言葉すくなに、受験準備をはじめるべきこと、試験勉強のためには作務《さむ》を免ずること、などを申し渡した。
 そうして私は大学へ進んだわけであるが、それですべてが片附いたのではなかった。老師のこんな態度は、なお何事も語っていなかったし、後継者の心づもりについても、何一つつかめなかった。
 大谷大学。ここは私が生涯《しょうがい》ではじめて思想に、それも私の勝手に選んだ思想に親しみ、私の人生の曲り角となった場所である。
 この大学は、三百年ちかい昔、寛文《かんぶん》五年に筑《つく》紫《し》観《かん》世《ぜ》音《おん》寺《じ》の大学寮を、京都の枳《き》殻《こく》邸内へ移したのがそもそものはじまりである。爾《じ》来《らい》永く大谷派本願寺子弟の修道院となったが、本願寺第十五世常如宗主のとき、浪華《なにわ》の門徒高木宗賢が浄財を喜《き》捨《しゃ》して、洛北烏丸頭《らくほくからすまがしら》の此《この》地《ち》を卜《ぼく》して、本学を建てた。一万二千七百坪の地所は、大学としては決して大きなものではない。しかし大谷派のみならず、各宗各派の青年がここに学んで、仏教哲学の基礎的な知識を修めるのであった。
 古い煉《れん》瓦《が》の門は、電車通りと、大学のグラウンドを隔てて、西の空にたたなわる比《ひ》叡山《えいざん》に対している。門を入ると、砂利の車道が本館前の馬車廻しに通じている。本館は古い沈《ちん》鬱《うつ》な赤煉瓦の二階建である。玄関の屋根の頂きに、青銅の櫓《やぐら》がそそり立っているが、鐘楼《しゅろう》にしては鐘が見えず、時計台にしては時計がない。そこでその櫓は、繊細《かぼそ》い避雷針の下に、むなしい方形の窓で青空を切り抜いているのである。
 玄関のわきには、樹齢の高い菩《ぼ》提樹《だいじゅ》があって、その荘厳《そうごん》な葉《は》叢《むら》は、日が当ると赤銅いろに照り映える。校舎は本館から建増しに建増しを重ね、何の秩序もなくつながっているが、多くは古い木造の平屋で、この学校では土足が禁じられているので、棟《むね》と棟とは、壊れかかった簀《す》の子《こ》を際限もなくつらねた渡り廊下で連絡されている。簀の子は、思い出したように、壊れた部分だけが修理される。そこで、棟から棟へ渡ると、もっとも新らしい木の色から、もっとも古い木の色にいたるまでの、各種の濃淡のモザイクが、足の下に踏まれた。

 どこの学校でも新入生がそうであるように、私は毎日新鮮な気持で通いながらも、とりとめのない思いがしていた。知り人は鶴川一人であった。どうしても鶴川とばかり話すようになる。それでは折角新らしい世界へ出て来た意味がないのを、鶴川のほうでも感じているらしく、数日たつうちに、休み時間にはわざと二人が離れて、おのがじし新らしい友を開拓しようとした。しかし吃《ども》りの私には、そういう勇気もなかったので、鶴川の友が増えるにつれ、私はますます孤《ひと》りになった。
 大学の予科一年では、修身、国語、漢文、華語、英語、歴史、仏典、論理、数学、体操の十課目があった。論理の講義は最初から私を悩ました。ある日のこと、その講義がすんで昼休みになってから、かねて心宛《あ》てにしていた一人の学生に、私は二三の質問を持ちかけてみようと思った。
 この学生はいつも一人離れて、裏庭の花壇のほとりで、弁当を喰《た》べるのだった。その習慣は一種の儀式のようでもあり、不味《まず》そうなその喰べ方はひどく厭人的《えんじんてき》でもあったので、誰も彼の傍《かたわ》らへ寄る者はなかった。彼も学友とは口を利《き》かず、友を持つことを拒んでいるように見えた。
 名を柏木《かしわぎ》ということを私は知っていた。柏木の著しい特色は、可《か》成《なり》強度の両足の内飜足《ないほんそく》であった。歩行は実に凝っていた。いつもぬかるみの中を歩いているようで、一方の足をぬかるみからようやく引き抜くと、もう一方の足はまたぬかるみにはまり込んでいるという風なのである。それにつれて全身は躍動し、歩行が一種の仰々しい舞踏であって、日常性というものがまるでなくなっていた。
 入学当初から、私が柏木に注目したのは、いわれのないことではない。彼の不具が私を安心させた。彼の内飜足は、私の置かれている条件に対する同意を、はじめから意味していた。
 柏木は、裏庭のクローバアの原っぱで弁当をひらいていた。唐《から》手《て》部や卓球部の、ほとんど窓硝子《ガラス》の破れ落ちた廃屋の部室が、この裏庭に面していた。五六本の痩《や》せた松が生え、空っぽの小さなフレイムがあった。フレイムに塗られた青いペンキは、剥《は》げて、けば立って、枯れた造花のように巻きちぢれていた。かたわらには二三段の盆栽の棚《たな》があり、瓦《が》礫《れき》の山があり、ヒヤシンスや桜草の花圃《かほ》もあった。
 クローバアの草地は坐《すわ》るのに佳《よ》かった。光りはその柔らかな葉に吸われ、こまかい影も湛《たた》えられて、そこら一帯が、地面から軽く漂っているように見えた。坐っている柏木は、歩いているときとちがって、人と変らぬ学生であった。のみならず、彼の蒼《あお》ざめた顔には、一種険《けわ》しい美しさがあった。肉体上の不具者は美《び》貌《ぼう》の女と同じ不敵な美しさを持っている。不具者も、美貌の女も、見られることに疲れて、見られる存在であることに飽き果てて、追いつめられて、存在そのもので見返している。見たほうが勝なのだ。弁当を喰べている柏木は伏目でいたが、私には彼の目が自分のまわりの世界を見尽していることが感じられた。
 彼は光りの中に自足していた。この印象が私を搏《う》った。春の光りや花々の中で、私の感じる気恥かしさやうしろめたさを、彼の持っていないことが、その姿を見てもわかった。彼は主張している影、というよりは、存在している影そのものだった。日光は彼の硬い皮膚から滲《し》み入らないのにちがいなかった。
 一心に、それでいてひどく不味そうに、彼の喰べている弁当は貧しく、朝、典《てん》座《ぞ》で私自ら詰めて来る弁当に、おさおさ劣らなかった。昭和二十二年は、まだ闇《やみ》でなければ、滋養分を摂《と》ることのできなかった時代である。
 私はノオトと弁当を持って、彼のそばに立った。弁当が私の影で翳《かげ》ったので、柏木は顔をあげた。ちらと私を見ると、又伏目になって、蚕《かいこ》が桑《くわ》の葉を噛《か》むのに等しい単調な咀嚼《そしゃく》をつづけた。
「一寸《ちょっと》、今の講義でわからんところを、教えてもらおうと思って」
 と私は吃り吃り、標準語で言った。大学へ入ったら、標準語を喋《しゃべ》ろうと思っていたのである。柏木は、
「何を言ってるのかわからん。吃ってばかりいて」
 といきなり言った。私の顔は紅潮した。彼は、箸《はし》の先を舐《な》めながら、更に一気に言った。
「君が俺に何故話しかけてくるか、ちゃんとわかっているんだぞ。溝口《みぞぐち》って言ったな、君。片《かた》輪《わ》同士で友だちになろうっていうのもいいが、君は俺に比べて自分の吃りを、そんなに大事《おおごと》だと思っているのか。君は自分を大事にしすぎている。だから自分と一緒に、自分の吃りも大事にしすぎているんじゃないか」
 のちに彼が、同じ臨済宗《りんざいしゅう》の禅家の息子だと知れたとき、この最初の問答に、多少彼の禅僧気取のあらわれていたことがわかったが、それでもこのとき私の受けた強烈な印象を否定することはできない。
「吃れ! 吃れ!」と柏木は、二の句を継げずにいる私にむかって、面白そうに言った。
「君は、やっと安心して吃れる相手にぶつかったんだ。そうだろう? 人間はみんなそうやって相棒を探すもんさ。それはそうと、君はまだ童貞かい?」
 私はにこりともしないでうなずいた。柏木の質問の仕方は医者に似ていて、私は嘘《うそ》をつかぬことが身の為《ため》であるかのような気持にさせられた。
「そうだろうな。君は童貞だ。ちっとも美しい童貞じゃない。女にももてず、商売女を買う勇気もない。それだけのことだ。しかし君が、童貞同士附合うつもりで俺と附合うなら、まちがってるぜ。俺がどうして童貞を脱却したか、話そうか?」
 柏木は私の返事も待たずに話しだした。
 …………………………。
 …………………………。
 俺は三ノ宮近郊の禅寺の息子で、生れついた内飜足だった。……さて俺がこんな風に告白をはじめると、君は俺のことを、相手かまわず身の上話をやりだす哀れな病人だと思うだろうが、俺は誰にでもこんなことを話すわけじゃない。俺のほうでも、恥かしいことだが、君を打明け話の相手として最初から選んでいたんだ。というのは、どうやら俺のやって来たことは多分君にとっていちばん値打があり、俺のやって来たとおりにすれば、多分それが君にとって一等いい道だと思われたからだ。宗教家はそういう風にして信者を嗅《か》ぎだし、禁酒家はそういう風にして同志を嗅ぎだすことを君も承知だろう。
 そうだ。俺は自分の存在の条件について恥じていた。その条件と和解して、仲良く暮すことは敗北だと思った。怨《うら》みようならいくらもある。両親は俺が幼児のときに、矯正《きょうせい》手術をしてくれるべきだったのだ。今となってはもう遅い。しかし俺は両親に対しては無関心で、怨みを持ったりするのは億劫《おっくう》だった。
 俺は絶対に女から愛されないことを信じていた。これは人が想像するよりは、安楽で平和な確信であることは、多分君も知っているとおりだ。自分の存在の条件と和解しないという決心と、この確信とは、必ずしも矛盾《むじゅん》しない。なぜなら、もし俺がこのままの状態で女に愛され得ると信じるなら、その分だけ、俺は自分の存在の条件と和解したことになるからだ。俺は現実を正確に判断する勇気と、その判断と戦う勇気とは、容易に馴《な》れ合うものだと知った。居ながらにして、俺は戦っているような気になれたのだ。
 こういう俺が、友だちのするように、商売女で以て、童貞を破ろうと心掛けなかったのは、当然だと云わなければならない。なぜなら、商売女は客を愛して客をとるわけではない。老人でも、乞《こ》食《じき》でも、目っかちでも、美男でも、知らなければ癩者《らいしゃ》でも客にとるだろう。並の人間なら、こういう平等性に安心して、最初の女を買うだろう。しかし俺にはこの平等性が気に喰《く》わなかった。五体の調った男とこの俺とが、同じ資格で迎えられるということが我慢がならず、それは俺にとっては怖《おそ》ろしい自己冒涜《ぼうとく》に思われた。俺の内飜足という条件が、看過され、無視されれば、俺の存在はなくなってしまうという、君が今抱いているような恐怖に、俺も捕われていたわけだ。俺の条件の全的な是認のためには、並の人間より数倍贅沢《ぜいたく》な仕組が要る筈《はず》だった。人生はどうしてもそういう風に出来ていなければならぬ、と俺は思った。
 われわれと世界とを対立状態に置く怖ろしい不満は、世界かわれわれかのどちらかが変れば癒《い》やされる筈だが、変化を夢みる夢想を俺は憎み、とてつもない夢想ぎらいになった。しかし世界が変れば俺は存在せず、俺が変れば世界が存在しないという、論理的につきつめた確信は、却《かえ》って一種の和解、一種の融和に似ている。ありのままの俺が愛されないという考えと、世界とは共存し得るからだ。そして不具者が最後に陥る罠《わな》は、対立状態の解消でなく、対立状態の全的な是認という形で起るのだ。かくて不具は不治なのだ。……
 こんなときに青春(この言葉を俺はひどく正直に使うのだが)の俺の身の上に、信ずべからざる事件が起った。寺の檀《だん》家《か》の子で、その美貌が名高く、神戸の女学校を出ている裕福な娘が、ふとしたことから、俺に愛を打明けた。しばらく俺は自分の耳を信じることができなかった。
 俺は不幸のおかげで人間の心理を洞察《どうさつ》することに長《た》けていたから、簡単に、彼女の愛の動機を同情にもとめて、それでつむじを曲げたりしたわけではない。同情だけで女が俺を愛したりする筈もないことは、百も承知だったからだ。俺の推量したところでは、彼女の愛の原因は並外れた自尊心だった。十分美しく、女としての値打を十分知っていたから、彼女は自信のある求愛者を受け入れるわけにゆかなかった。自分の自尊心と求愛者の己《うぬ》惚《ぼ》れとを秤《はかり》にかけるわけにゆかなかった。いわゆる良縁ほど彼女に嫌《けん》悪《お》を与えた。ついには、愛におけるあらゆる均衡を潔癖にしりぞけて、(この点で彼女は誠実だった)、俺に目をつけるようになった。
 俺の答は決っていた。君は笑うかもしれないが、女に向って、俺は、「愛していない」と答えたのだ。これ以外に答えようがあっただろうか? この答は正直だったし、些《いささ》かの衒《てら》いもなかった。女の打明けに対して、奇貨居《お》くべしという気になって、「俺も愛していた」と答えることは、俺がやれば滑稽《こっけい》を通りすぎて、ほとんど悲劇的に見えただろう。滑稽な外形を持った男は、まちがって自分が悲劇的に見えることを賢明に避ける術《すべ》を知っている。もし悲劇的に見えたら、人はもはや自分に対して安心して接することがなくなるのを知っているからだ。自分をみじめに見せないことは、何より他人の魂のために重要だ。だから俺はさらりと言ってのけた、「愛していない」と。
 女はたじろがなかった。その俺の答は嘘だと言うのである。それから女が、俺の自尊心を傷つけぬように用心しいしい、俺を説得しようとしたやり方は見ものだった。彼女にとっては、男であって彼女を愛さない人間などは想像の外であり、もし居るとすれば、彼は己《おの》れを偽わっているのである。彼女はかくて、俺の精密な分析をやってのけ、とうとう実は、俺は彼女を以前から愛していた、と決めつけた。彼女は聡明《そうめい》だった。もし彼女が本当に俺を愛していたと仮定すれば、手のつけようのない相手を愛していたわけで、美しくもない俺の顔を美しいとでも言えば俺を怒らせたろうし、俺の内飜足を美しいと言えば俺はもっと怒ったろうし、俺の外見でなく内容を愛していると言えば俺は更に怒ったろうことを計算に入れて、ただ、俺を「愛している」と言いつづけたのである。そうして俺の中にも、分析によって、それと対応する感情を見つけ出したのである。
 俺はこういう不合理に納得《なっとく》がゆきかねた。その実俺の欲望はだんだん烈《はげ》しく募って来ていたが、欲望が彼女と俺とを結ぶとは思われなかった。彼女がもし他人をでなくこの俺を愛しているのだとすれば、俺を他人から分つ個別的なものがなければならない。それこそは内飜足に他ならない。だから彼女は口に出さぬながら俺の内飜足を愛していることになり、そういう愛は俺の思考に於《おい》て不可能である。もし、俺の個別性が内飜足以外にあるとすれば、愛は可能かもしれない。だが、俺が内飜足以外に俺の個別性を、俺の存在理由を認めるならば、俺はそういうものを補足的に認めたことになり、次いで、相互補足的に他人の存在理由をも認めたことになり、ひいては世界の中に包まれた自分を認めたことになるのだ。愛はありえない。彼女が俺を愛していると思っているのも錯覚だし、俺が彼女を愛していることもありえない。そこで俺はくりかえし言った。「愛していない」と。
 ふしぎなことには、俺が愛していないと言えば言うほど、彼女はますます深く、俺を愛しているという錯覚の中へ溺《おぼ》れた。そうして或る晩、とうとう俺の前へ体を投げ出すようなことをやってのけた。彼女の体はまばゆいばかり美しかった。しかし俺は不能だったのである。
 こんな大失敗は、凡《すべ》てを簡単に解決した。やっと彼女には、俺が「愛していないこと」が証明されたらしかった。彼女は俺を離れた。
 俺は恥じていたが、内飜足であることの恥に比べれば、どんな恥も言うに足りなかった。俺を狼狽《ろうばい》させたのはもっと別のことである。不能の理由が俺にはわかっていた。その場になって、俺は自分の内飜足が彼女の美しい足に触れるのを思って、不能になったのだ。この発見は、決して愛されないという確信の持っていた平安を、内側から崩してしまった。
 何故なら、そのとき、俺には不真面目《ふまじめ》な喜びが生れていて、欲望により、その欲望の遂行によって、愛の不可能を実証しようとしていたのだが、肉体がこれを裏切り、俺が精神でやろうとしていたことを、肉体が演じてしまったからだ。俺は矛盾に逢着《ほうちゃく》した。俗悪な表現を怖れずに言えば、俺は愛されないという確信で以《もっ》て、愛を夢見ていたことになるのだが、最後の段階では、欲望を愛の代理に置いて安心していた。しかるに欲望そのものが、俺の存在の条件の忘却を要求し、俺の愛の唯一の関門であるところの愛されないという確信を放棄することを要求しているのが、わかってしまったのである。俺は欲望というものはもっと明晰《めいせき》なものだと信じていたので、それが少しでも己れを夢見ることを必要とするなどとは、考えもしていなかった。
 このときから、俺には精神よりも、俄《にわ》かに肉体が関心を呼ぶものになった。しかし自分が純粋な欲望に化身することはできず、ただそれを夢みた。風のようになり、むこうからは見えない存在になり、こちらからは凡てを見て、対象へかるがると近づいてゆき、対象を隈《くま》なく愛《あい》撫《ぶ》し、はてはその内部へしのび入ってゆくこと。……君は肉体の自覚というとき、或る質量をもった、不透明な、確《かっ》乎《こ》とした「物」に関する自覚を想像するだろう。俺はそうではなかった。俺が一個の肉体、一個の欲望として完成すること、それは俺が、透明なもの、見えないもの、つまり風になることであったのだ。
 しかし忽《たちま》ち内飜足《ないほんそく》が俺を引止めにやって来る。これだけは決して透明になることはない。それは足というよりは、一つの頑《がん》固《こ》な精神だった。それは肉体よりももっと確乎たる「物」として、そこに存在していた。
 鏡を借りなければ自分が見えないと人は思うだろうが、不具というものは、いつも鼻先につきつけられている鏡なのだ。その鏡に、二六時中、俺の全身が映っている。忘却は不可能だ。だから俺には、世間で云われている不安などというものが、児戯《じぎ》に類して見えて仕方がなかった。不安は、ないのだ。俺がこうして存在していることは、太陽や地球や、美しい鳥や、醜い鰐《わに》の存在しているのと同じほど確かなことである。世界は墓石のように動かない。
 不安の皆無、足がかりの皆無、そこから俺の独創的な生き方がはじまった。自分は何のために生きているか? こんなことに人は不安を感じて、自殺さえする。俺には何でもない。内飜足が俺の生の、条件であり、理由であり、目的であり、理想であり、……生それ自身なのだから。存在しているというだけで、俺には十分すぎるのだから。そもそも存在の不安とは、自分が十分に存在していないという贅沢《ぜいたく》な不満から生れるものではないのか。
 俺は自分の村に、たった一人で住んでいる老いた寡婦《かふ》に目をつけた。六十歳だともいわれ、それ以上だともいわれた。亡父の命日に俺は父の代理で経を上げに行ったのだが、親《しん》戚《せき》一人いず、仏前にはこの老《ろう》婆《ば》と俺だけだった。経がすんで、別室で茶を御馳《ごち》走《そう》になっていたとき、夏だったので、俺は水を浴びさせてもらいたいとたのんだ。老婆は裸かになった俺の背中から水をかけた。老婆がいたわしそうに俺の足に見入っていたとき、俺の心には企《たく》らみがうかんだ。
 さっきの部屋に戻《もど》ると、体を拭《ふ》きながら、俺は鹿爪《しかつめ》らしく語りはじめた。俺が生れたとき、母の夢に仏が現《げん》じて、この子が成人した暁、この子の足を心から拝んだ女は極楽往生《ごくらくおうじょう》するというお告げがあった、と俺は語った。信心の深い寡婦は、数《じゅ》珠《ず》を爪《つま》ぐり、じっと俺の目を見つめてきいていた。俺は好《いい》加《か》減《げん》な経を称《とな》えて、数珠をかけた手で胸のところで合掌して、屍《しかばね》のように、裸のまま仰向けに横たわった。俺は目をとじていた。口はなおも経を誦《ず》していた。
 
 俺がどうやって笑いをこらえていたか想像してみるがいい。俺の内部は笑いに溢《あふ》れていた。そして俺は露ほどもおのれを夢みてはいなかった。老婆が経を称えながら、俺の足をしきりに拝んでいるのがわかった。俺は拝まれている自分の足のことだけを考え、その滑稽さに息が詰りそうな心地がした。内飜足、内飜足、ただそれだけを思い、それだけを脳《のう》裡《り》に見ていた。その奇怪な形。その置かれた醜悪きわまる状況。その野放図の茶番。事実たびたび叩頭《こうとう》する老婆のほつれ毛は足の裏に触れ、くすぐったさはますます可笑《おか》しさをあおったのである。
 俺は以前、あの美しい足に触れて不能になったときから、欲望について思いちがえをしていたものと思われる。何故ならこのとき、この醜悪な礼拝の最中に、俺は自分が昂奮《こうふん》しているのに気づいたから。いささかもおのれを夢みることなしに! こんな最も仮借ない状況のもとに!
 俺は起き上り、老婆をいきなり突き倒した。老婆が少しも愕《おどろ》いていないのを、ふしぎに思う暇もなかった。老いた寡婦は突き倒されたまま、じっと目をつぶって、経を読みつづけていた。
 奇妙なことに、このとき老婆の称えていたのが大《だい》悲《ひ》心《しん》陀羅尼《だらに》の一節であったのを、俺はありありと覚えている。
 伊醯伊《いきい》醯《きー》。室那室《しのし》那《のー》。阿羅《おら》?《さん》。仏?《ふら》舎利《しゃりー》。罰沙罰《はざは》?《ざー》。仏?《ふら》舎耶《しゃやー》。
 君も知ってのとおり、「解」によると、これはこういう意味だ。
「召請し奉る。召請し奉る。貪瞋《とんしん》癡《ち》の三毒を壊滅せる無垢清浄《むくしょうじょう》の本体を」
 俺の目の前には、目をつぶって俺を迎えている六十幾歳の女の、化粧もしない、日に灼《や》けた顔があったのだ。俺の昂奮はすこしも途絶えなかった。そしてこれが茶番の最たるものだが、俺はしらずしらず誘導されていた《???????》。……
 だが、しらずしらず、などと文学的には云うまい。俺は凡てを見ていた。地獄の特色は、すみずみまで明晰に見えることだ。しかも暗黒のなかで!
 老いた寡婦の皺《しわ》だらけの顔は、美しくもなく、神聖でもなかった。しかしその醜さと老いとは、何ものをも夢みていない俺の内的な状態に、不断の確証を与えるかのようだった。どんな美女の顔も、些《いささ》かの夢もなしに見るとき、この老婆の顔に変貌《へんぼう》しない、と誰が云えよう。俺の内飜足と、この顔と、……そうだ、要するに実相を見ることが俺の肉体の昂奮を支えていた。俺ははじめて、親和の感情を以て、おのれの欲望を信じた。そして問題は、俺と対象との間の距離をいかにちぢめるかということにはなくて、対象を対象たらしめるために、いかに距離を保つかということにあるのを知った。
 見るがいい。そのとき俺は、そこに停止していて同時に到達しているという不具の論理、決して不安に見舞われぬ論理から、俺のエロティシズムの論理を発明したのだ。世間の人間が惑溺《わくでき》と呼んでいるものの、相似の仮構を発明したのだ。隠れ蓑《みの》や風に似た欲望による結合は、俺にとっては夢でしかなく、俺は見ると同時に、隈なく見られていなければならぬ。俺の内飜足と、俺の女とは、そのとき世界の外に投げ出されている。内飜足も、女も、俺から同じ距離を保っている。実相はそちらにあり、欲望は仮象にすぎぬ。そして見る俺は、仮象の中へ無限に顛落《てんらく》しながら、見られる実相にむかって射精するのだ。俺の内飜足と、俺の女とは、決して触れ合わず、結びつかず、お互いに世界の外に投げ出されたまま。……欲望は無限に昂進《こうしん》する。何故なら、あの美しい足と俺の内飜足とは、もう永久に触れ合わないですむのだから。
 俺の考え方はわかりにくいだろうか。説明を要するだろうか。しかし俺がそれ以来、安心して、「愛はありえない」と信ずるようになったことは、君にもわかるだろう。不安もない。愛も、ないのだ。世界は永久に停止しており、同時に到達しているのだ。この世界にわざわざ、「われわれの世界」と註《ちゅう》する必要があるだろうか。俺はかくて、世間の「愛」に関する迷蒙《めいもう》を一言の下に定義することができる。それは仮象が実相に結びつこうとする迷蒙だと。――やがて俺は、決して愛されないという俺の確信が、人間存在の根本的な様態だと知るようになった。これが俺の童貞を破った顛末《てんまつ》だよ。
 …………………………。
 …………………………。
 柏木は語り終った。
 きいていた私はようやく息をついた。烈しい感銘に見舞われ、今まで考えもしなかった考え方に触れた苦痛から醒《さ》めなかった。柏木が語り終ると、ややあって、あたりの春の日ざしが私のまわりに目ざめ、明るいクローバアの草生がかがやきだした。裏手のバスケットのコートから、ひびいてくる喚声《かんせい》もよみがえった。しかしすべては同じ春の真昼のまま、意味をすっかり変えて現われて来たように思われた。
 黙っていることができなかったので、私は何か合槌《あいづち》を打とうとして、吃《ども》りながら、へまなことを言った。
「それで君は、それ以来孤独なわけなんだね」
 柏木は又意地悪く、ききとりにくいふりをして、私にもう一度その言葉をくりかえさせた。しかしその答には、はや親しみがあった。
「孤独だって? どうして孤独でなくちゃならんのだ。それ以後の俺についちゃ、附合っているうちにだんだんわかってくるよ」
 午後の講義の開始のベルが鳴りひびいた。私は立上ろうとした。柏木は坐《すわ》ったまま、私の袖《そで》を邪慳《じゃけん》に引張った。私の制服は禅門学院時代のものを修理して、釦《ボタン》をつけ代えただけであり、生地は古く、傷《いた》んでいた。あまつさえ、体には窮屈で、貧しい体をなおのこと小さく見せた。
「今度は漢文だろう。つまらんじゃないか。そこらへ散歩に行こう」
 柏木はそう言うと、一度体をばらばらにほぐして又組立てるような大変な労をとって立上った。それが映画で見る駱《らく》駝《だ》の起居を思わせた。
 私はかつて講義を怠けたことがなかったが、柏木についてもっと知りたいという思いは、この機会を逸しがたくさせた。われわれは正門のほうへ歩きだした。
 正門を出たとき、柏木のまことに独特な歩き方が、ふいに私の注意を喚起し、恥かしいというのに近い感情を起させた。自分がそういう風に、世間並の感情に加担して、柏木と一緒に歩くのが恥かしいと思ったりするのは奇異なことであった。
 柏木は私に私の恥の在処《ありか》をはっきりと知らせた。同時に私を人生へ促したのである。……私のすべての面《おも》伏《ぶ》せな感情、すべての邪《よこし》まな心は、彼の言葉で以て陶《とう》冶《や》されて、一種新鮮なものになった。そのためか、われわれが砂利を踏んで、赤煉《れん》瓦《が》の正門を出てきたとき、正面に見える比《ひ》叡《えい》の山は、春日に潤《うる》んで、今日はじめて見る山のように現われた。
 それもまた、私のまわりに眠っていた多くの事物と同じく、意味を新たにして再現したもののように思われた。叡山の頂きは突兀《とっこつ》としていたが、その裾《すそ》のひろがりは限りなく、あたかも一つの主題の余《よ》韻《いん》が、いつまでも鳴りひびいているようであった。低い屋根の連なりの彼方《かなた》に、叡山の山襞《やまひだ》の翳《かげ》りは、その山襞の部分だけ、山腹の春めいた色の濃淡が、暗い引きしまった藍《あい》に埋もれているので、そこだけが際立って近く鮮明に見えていた。
 大谷大学門前は人通りも少なく、自動車の数も少なかった。京都駅前から烏丸《からすま》車庫前をつなぐ市電の路線にも、たまにしか電車のひびきは伝わらなかった。通りのむこうには大学グラウンドの古い門柱が、こちらの正門と相対して立ち、左方に若葉の銀杏《いちょう》並木がつづいていた。
「グラウンドをしばらくぶらぶらするか」
 と柏木が言った。私に先立って電車通りを渡った。体全体の動きを猛烈にして、ほとんど車の通らぬ車道を、水車のように狂奔して渡るのである。
 グラウンドは広大で、講義を怠けているか休講かの学生が、幾組か遠くでキャッチ?ボールをしており、こちらでは五六人がマラソンの練習をしていた。戦争がすんで二年しかたたないのに、青年たちは再び精力の消耗を企てていた。私は寺の貧しい食事を考えた。
 われわれは朽ちかけた遊動円木《ゆうどうえんぼく》に腰かけて、楕《だ》円《えん》の上を近づき又遠ざかるマラソンの練習者たちを、見るともなしに眺《なが》めた。学校を怠けている時間の、下ろしたてのシャツのような肌《はだ》ざわりが、周囲の日ざしや微《かす》かな風のそよぎから感じられた。競技者たちは苦しい息の一団をなして徐々に近づき、疲労が増すにつれて乱れた跫音《あしおと》を、舞い立つ土埃《つちぼこり》と共に残して遠ざかった。
「阿《あ》呆《ほう》な奴《やつ》らだな」と、負け惜しみにきこえる余地を少しも残さずに柏木は言った。「あのざまは一体何だろう。奴らが健康だというのか。それなら健康を人に見せびらかすことが何の値打があるんだい。
 スポーツはいたるところで公開されているね。まさに末世の徴《しるし》さ。公開すべきものはちっとも公開されない。公開すべきものとは、……つまり死刑なんだ。どうして死刑を公開しないんだ」と、夢みるようにつづけた。「戦争中の安寧秩序は、人の非業の死の公開によって保たれていたと思わないかね。死刑の公開が行われなくなったのは、人心を殺伐ならしめると考えられたからだそうだ。ばかげた話さ。空襲中の死体を片附けていた人たちは、みんなやさしい快活な様子をしていた。
 人の苦《く》悶《もん》と血と断末魔の呻《うめ》きを見ることは、人間を謙虚にし、人の心を繊細に、明るく、和やかにするんだのに。俺たちが残虐《ざんぎゃく》になったり、殺伐になったりするのは、決してそんなときではない。俺たちが突如として残虐になるのは、たとえばこんなうららかな春の午後、よく刈《か》り込まれた芝生の上に、木洩《こも》れ陽《び》の戯《たわむ》れているのをぼんやり眺めているときのような、そういう瞬間だと思わないかね。
 世界中のありとあらゆる悪夢、歴史上のありとあらゆる悪夢はそういう風にして生れたんだ。しかし白日の下に、血みどろになって悶絶《もんぜつ》する人の姿は、悪夢にはっきりした輪郭を与え、悪夢を物質化してしまう。悪夢はわれわれの苦悩ではなく、他人の烈しい肉体的苦痛にすぎなくなる。ところで他人の痛みは、われわれには感じられない。何という救いだろう!」
 しかし今や私は、こういう彼の血なまぐさい独断よりも、(もちろんそれはそれとして魅力のあるものではあったが)、童貞を破ったのちの彼の遍歴のほうをききたかった。私がひたすら彼から「人生」を期待したのは、前にも述べたとおりである。私は口をさしはさみ、そういう質問を暗示した。
「女かい? ふん。俺にはこのごろ、内飜足の男を好きになる女が、カンでちゃんとわかるようになった。女にはそういう種類があるんだよ。内飜足の男を好きだということは、もしかすると一生隠されたまま、墓場へまで一緒にもって行きかねない、その種の女の唯《ゆい》一《いつ》の悪趣味、唯一の夢なんだが。
 そうだな。内飜足を好く女を一目で見分ける法。そいつは大体において飛切りの美人で、鼻の冷たく尖《とが》った、しかし口もとのいくらかだらしのない……」
 そのとき一人の女がむこうから歩いてきた。



第五章

 さてその女は、グラウンドの中を歩いていたのではない。グラウンドの外側に、屋敷町に接した道がある。道はグラウンドの地面よりも二尺ほど低い。そこを歩いてきたのである。
 女が出て来たのは、宏壮《こうそう》なスペイン風の邸《やしき》の耳門《くぐり》であった。二つの煙《けむ》出《だ》しを持ち、斜《なな》め格《ごう》子《し》の硝子《ガラス》窓《まど》を持ち、ひろい温室の硝子屋根を持っている邸は、いかにも壊れやすい印象を与えるが、当然そこの主人の抗議で設けられたにちがいない高い金網《ネット》が、道をへだてたグラウンドの一辺にそそり立っていた。
 柏木《かしわぎ》と私はネットの外れの遊動円木《ゆうどうえんぼく》にいたのである。女の顔を窺《うかが》った私は愕《おどろ》きに搏《う》たれた。そのけだかい顔は、柏木が私に説明した「内飜足《ないほんそく》好き」の女の人相に、そっくりであったからだ。しかし後になって私はこの愕きを莫迦《ばか》らしく思うのだが、柏木はその顔をずっと前から見知っていて、夢みていたのかもしれないのである。
 私たちは女を待ち設けていた。春の日光の遍満の下に、むこうには濃紺《のうこん》の比《ひ》叡《えい》の峯《みね》があり、こちらには次第に歩み寄って来る女があった。私はさきほどの柏木の言葉、彼の内飜足と彼の女とが、二つの星のように、互いに触れ合わずに実相の世界に点在し、彼自身は仮象の世界に無限に埋もれつつ欲望を遂げるという奇怪な言葉、あの言葉の与えた感動からまだ醒《さ》めずにいた。このとき雲が日のおもてをよぎり、私と柏木は稀薄な翳《かげ》に包まれたので、私たちの世界は、たちまち仮象のすがたを露《あら》わすように思われた。すべては灰色に覚束《おぼつか》なく、私自身の存在も覚束なくなった。そしてかなたの比叡の紫《し》紺《こん》の頂きと、ゆっくり歩いてくる気高い女と、この二つのものだけが実相の世界にきらめいて、確実に存在しているように思われた。
 女はたしかに歩いてきた。しかしその時間の推移は、募ってゆく苦痛に似、女は近づいては来るけれども、それと共に、何のゆかりもない他人の貌《かお》が、だんだん鮮明に見えだしていた。
 柏木は立上った。私の耳もとに、重い、押し殺した声で囁《ささや》いた。
「歩くんだ。俺《おれ》の言うとおりに」
 私は歩かざるをえなかった。女と平行に、同じ方向へ、女の歩いている道から二尺ほど高い石塀《いしべい》沿いにわれわれは歩いた。
「そこらで跳び下りろ」
 私の背が柏木の尖《とが》った指先で押された。私はごく低い石塀をまたいで、道の上へ跳び下りた。二尺の高さは何ほどでもなかった。しかしそれにつづいて、内飜足の柏木が、怖《おそ》ろしい音を立てて、私の傍《かたわ》らに崩れ墜《お》ちていた。当然のことながら、彼は跳びそこねて倒れたのである。
 黒い制服の背は私の眼下に大きく波打っていたが、うつぶせの姿は人間のようには見えず、私には一瞬それが無意味な大きな黒い汚《し》点《み》、雨後の路上の濁った水たまりのように見えた。
 柏木は女が歩いてくる突先《とっさき》へ崩折れたのだ。そこで女は立ちすくんだ。柏木を扶《たす》け起そうとして、ようやく私がひざまずいたとき、彼女の冷たい高い鼻、いくらかだらしのない口もと、うるんだ目、そういうもののすべてから、瞬時、私は月下の有為子《ういこ》の面影《おもかげ》を見たのである。
 しかし忽《たちま》ち幻影は消え、まだ二十歳《はたち》を越していない女が、私を蔑《さげす》む眼差《まなざし》で見て、ゆきすぎようとするのが見られた。
 柏木は私よりも敏感にその気配を察していた。彼は叫びだした。その怖ろしい叫びは、人《ひと》気《け》のない真昼の屋敷町に谺《こだま》した。
「薄情者! 俺を置いてゆくのか。君のためにこんなざまになったんだぞ!」
 ふりむいた女は慄《ふる》えていた。乾いた細い指先で、血の気を失ったわが頬《ほお》をこするようにしていた。ようやく私にこう訊《き》いた。
「どないしたらええのんえ」
 すでに顔をあげた柏木は、女をまともに見つめ、一語一語を的確に言った。
「君の家に薬ぐらいないというのか」
 しばらく黙っていて、女は背を向けて、もと来たほうへとって返した。私は柏木を扶け起した。扶け起すまでは大そう重たく、痛そうに息は迫っていたが、私が肩を貸して歩きだすと、その体は意外に軽く動いた……。

 ――私は駈《か》けて、烏丸《からすま》車庫前の停留所に達した。電車に飛び乗った。電車が金閣寺へ向けて走りだしたとき、ようやく息がつけた。掌《てのひら》は汗にまみれていた。
 柏木を擁《よう》して、あのスペイン風の洋館の耳門を、女を先立ててくぐるや否《いな》や、恐怖に搏《う》たれた私は、柏木をそこに放置して、あとをも見ずに逃げ帰った。学校へ立寄る裕《ゆと》りもなかった。深閑とした歩道を駈けた。薬屋、菓子屋、電気屋の家並の前を駈けた。そのとき目のはじに、紫や紅《くれな》いのひらめいたのは、多分、梅鉢《うめばち》の定紋付の提灯《ちょうちん》を黒塀の上につらね、門には同じ梅鉢の紫の幔幕《まんまく》を張りめぐらした、天理教弘徳分教会の前を、駈け抜けたときだったと思われる。
 どこへ向って急いでいるのか、私自身わからなかった。電車が徐々に紫野《むらさきの》へさしかかるころから、私は自分のせきたつ心が金閣を志しているのを知った。
 平日にもかかわらず、観光季節であったので、その日の金閣をめぐる人ごみは甚《はなは》だしかった。案内の老人が、人を分けて金閣の前へいそぐ私の姿を訝《いぶか》かしそうに見た。
 こうして私は、舞い立つ埃《ほこり》と醜い群衆に囲まれている春の金閣の前に在った。案内人の大声がひびいている中では、金閣はいつもその美を半ば隠して、空恍《そらとぼ》けているように見えた。池の投影だけが澄明だった。しかし見ようによっては、聖衆来迎図《しょうじゅらいごうず》の諸菩《ぼ》薩《さつ》に囲まれた来迎の弥陀《みだ》のように、埃の雲は、諸菩薩を包んでいる金色の雲に似かよい、金閣が埃に霞《かす》む姿も、古い褪色《たいしょく》した絵具や、すりきれた絵《え》柄《がら》に似かよっていた。この混雑と喧騒《けんそう》が、繊細な柱のたたずまいの裡《うち》に澄み入り、小さな究竟頂《くきょうちょう》や頂きの鳳凰《ほうおう》の次第に細まり聳《そび》え立って接している白っぽい空へ、吸い込まれてゆくのは奇異ではなかった。建築は、そこに存在するだけで、統制し、規制していた。周囲のさわがしさが募れば募るほど、西に漱清《そうせい》を控え、二層の上に俄《にわ》かに細まる究竟頂をいただいた金閣、この不均整な繊細な建築は、濁水を清《し》水《みず》に変えてゆく濾過器《ろかき》のような作用をしていた。人々の私語のぞめきは、金閣から拒まれはせずに、吹き抜けのやさしい柱のあいだへしみ入って、やがて一つの静寂、一つの澄明にまで濾過された。そして金閣は、少しもゆるがない池の投影と同じものを、いつのまにか地上にも成就《じょうじゅ》していたのである。
 私の心は和《なご》み、ようようのこと恐怖は衰えた。私にとっての美というものは、こういうものでなければならなかった。それは人生から私を遮断《しゃだん》し、人生から私を護《まも》っていた。
『私の人生が柏木のようなものだったら、どうかお護り下さい。私にはとても耐えきれそうもないから』
 と私は殆《ほと》んど祈った。
 柏木が暗示し、私の前に即座に演じてみせた人生では、生きることと破滅することとが同じ意味をしか持っていなかった。その人生には自然さも欠けていれば、金閣のような構造の美しさも欠けており、いわば痛ましい痙《けい》攣《れん》の一種に他ならなかった。それに私が大いに惹《ひ》かれ、そこに自分の方向を見定めたことも事実であったが、まず棘《とげ》だらけな生の破片で手を血みどろにせねばならぬことは怖ろしかった。柏木は本能と理智とを同じ程度に蔑《さげす》んでいた。奇怪な形をした鞠《まり》のように、彼の存在そのものがころげまわり、現実の壁を破ろうとしていた。それは一つの行為ですらなかった。要するに彼の暗示した人生とは、未知の仮装でもってわれわれをあざむいている現実をうち破り、再びいささかも未知を含まぬように世界を清掃するための、危険な茶番だったのである。
 というのは、私はのちに、彼の下宿で次のようなポスターを見たからだ。
 それは日本アルプスを描いた旅行協会の美しい石版刷《せきばんずり》で、青空に浮んだ白い山頂に、「未知の世界へ、あなたを招く!」という活字が横書きになっていた。柏木は毒々しい朱筆で、その字と山頂を斜め十文字に抹消《まっしょう》し、さてかたわらには、内飜足の歩行を思わせる彼の躍るような自筆が、
「未知の人生とは我慢がならぬ」
 と書きなぐっていた。

 あくる日私は、柏木の身を案じながら学校へ行った。あのとき彼を放置して逃げ帰ったことは、思い返すと友情に篤《あつ》い振舞とも思われたので、さほどの責任は感じていなかったが、もし今日教室に彼の姿が見られなかったら、という不安があった。しかし講義がはじまるすれすれの時間に、柏木がいつもと少しも変らず、不自然に肩を聳やかして、教室へ入ってくる姿を私は見たのである。
 休み時間に早速《さっそく》私は柏木の腕をとらえた。こういう快活な仕草がすでに、私には珍らしいことである。彼は口のはたを歪《ゆが》めて笑い、私を廊下へ伴なった。
「怪我《けが》は大丈夫か」
「怪我だって?」――柏木は憫笑《びんしょう》するように私を見た。「俺がいつ怪我をしたんだ? え? 君は何だって、俺が怪我をしたなんて夢を見たのだい」
 私は二の句が継げずにいた。柏木はさんざん私をじらせてから種明しをした。
「あれは芝居さ。あの道へ落っこちる練習は何度もやって、いかにも骨折でもしたように、うまく大《おお》袈裟《げさ》に倒れる工夫を凝《こ》らしていたんだ。女が知らん顔をして行き過ぎようとしたのは、計算の外だったがね。しかし見るがいい。もう女は俺に惚《ほ》れかけているんだからね。これは言いまちがえた。つまりその、俺の内飜足に惚れかけているんだ。あいつは手ずから俺の足に、沃度《ヨード》丁幾《チンキ》を塗りたくったもんさ」
 彼はズボンの裾《すそ》をたくしあげて、薄黄に染まった脛《すね》を見せた。
 そのとき私は彼の詐術《さじゅつ》を見たように思ったのだが、わざわざああして路上に崩折れたのは、女の注意を惹くためであったのは勿論《もちろん》だが、怪我の仮装で彼の内飜足を隠そうとしたのではなかったか? しかしこの疑問は一向彼に対する軽蔑《けいべつ》とはならず、むしろ親しみを増す種子《たね》になった。そして私はごく青年らしい感じ方をしたのだが、彼の哲学が詐術にみちていればいるほど、それだけ彼の人生に対する誠実さが証明されるように思われたのである。
 鶴川《つるかわ》は私と柏木との交渉を、好い目で見ていなかった。友情に充《み》ちた忠告をして来たのが、私にはうるさく感じられた。のみならずそれに抗弁して、鶴川なら良い友人も得られようが、私には柏木が相応のところだ、というふうな口を利《き》いた。そのとき鶴川の目にうかんだ、言うに言われぬ悲しみの色を、のちのち私は、どんなに烈《はげ》しい悔恨《かいこん》を以《もっ》て思い起したかしれない。



 五月であった。柏木が休日の人ごみを忌《い》み、平日に学校を休んで、嵐山《あらしやま》へあそびにゆく計画を樹《た》てた。彼らしく、もし晴天だったら行かず、曇った暗鬱《あんうつ》な日だったら行こうと言った。彼は例のスペイン風の洋館の令嬢を伴い、私のためには彼の下宿の娘を連れて来てくれる手《て》筈《はず》になった。
 われわれはふつうに嵐電《らんでん》と呼ばれる京福電鉄の北野駅で待ち合わせた。当日は幸いに、五月にめずらしい曇った鬱陶《うっとう》しい天気であった。
 鶴川は何か一族にごたごたがあって、一週間ほど休暇をとって東京へかえっていた。決して告げ口をするような彼ではなかったが、私は朝一緒に登校して途中から行方をくらまさねばならぬ気まずさを免《まぬ》かれた。
 そうだ。あの遊《ゆ》山《さん》の思い出は私には苦《にが》い。いずれにしろ遊山の一行は皆若かったのに、若さの持つ暗さと苛《いら》立《だ》たしさと不安と虚無感とが、あの遊山の一日を隈《くま》なく彩《いろど》っていたように思われる。そして柏木はおそらくすべてを見越していて、あのような暗鬱な空模様の日を選んだのにちがいない。
 その日風は南西から吹き、急に勢いを増すかと思うと、はたと止《や》んで、不安な微風がさざめいたりした。空は暗かったが、全く太陽の在処《ありか》が知れないのではなかった。雲の一部分が、多くの重ね着の襟元《えりもと》にほの見える白い胸のように白光を放ち、その白さがいかにも模糊《もこ》としている奥に、陽の在処が知れるのだが、それはまた忽ち、曇り空の一様な鈍色《にびいろ》に融《と》かされてしまった。
 柏木の約束は嘘《うそ》ではなかった。彼は本当に二人の若い女に護られて、改札口に姿をあらわした。
 一人はたしかにあの女であった。高い冷たい鼻、だらしのない口もと、舶来《はくらい》生地《きじ》の洋服の肩から水筒《すいとう》をかけた美しい女。彼女の前では小《こ》肥《ぶと》りした下宿の娘は、身に着けているものも容貌《ようぼう》も見劣りがした。小さな顎《あご》と、括《くく》ったような唇《くちびる》だけが娘々していた。

 往きの車内からすでに、愉《たの》しかるべき遊山の気分は崩された。その内容ははっきり聴きとれないが、柏木と令嬢とはたえず口あらそいをし、令嬢は時折涙をこらえるように唇を噛《か》んだ。下宿の娘はすべてに無関心で、低くはやり唄《うた》を口吟《くちずさ》んでいた。突然娘は、私にむかってこんなことを語りだした。
「うちの近所に、とてもきれいな生花《いけばな》のお師匠さんがいやはって、このあいだ、悲しいローマンスを話してくれはったんやわ。戦争中お師匠さんに恋人がいやはったのが、陸軍の将校でいよいよ戦地へお行きやすことになって、ほんの短かい間を、南禅寺でお別れの対面をしやはったいうの。親の許さん仲やけど、そのお別れのちょっと前に、やや児《こ》まででけたのが、お気の毒に死産やったんやって。将校さんもえらい嘆かはった末、お別れに、せめて母親としてのおまえの乳を呑《の》みたい、云うて、暇もないから、その場でお薄茶《うす》に乳をしぼって垂《た》らして、呑ませてあげた云うねんわ。そうして、一ト月もたったら、その恋人は戦死してしまはった。それからこっち、お師匠さんは操《みさお》を立てとおして、一人で暮していやはるの。まだお若い、きれいな人ですけど」
 私はわが耳を疑った。戦争末期に南禅寺の山門から鶴川と二人で見た、あの信じがたい情景が蘇《よみがえ》った。娘にわざとその思い出は話さずにおいた。というのは、もしも口に出してしまったら、今この話をきいたときの感動は、あのときの神秘な感動を裏切ってしまうように思われ、口に出さずにいることによって、今の話はあの神秘の謎《なぞ》解《と》きどころか、むしろ神秘の構造を二重にして、一そうそれを深めるような気がしたからである。
 電車はそのとき、鳴滝《なるたき》あたりの大竹藪《おおたけやぶ》のかたわらを走っていた。竹は五月の凋落《ちょうらく》の季節に当って黄ばんでいた。梢《こずえ》のほうをそよがす風が、枯葉を密集した藪の只中《ただなか》に降らせているのに、根《ね》方《かた》はそれと関わりがないかのように、奥の奥まで太い節《ふし》を乱雑に交《こう》叉《さ》させて静まっていた。ただ電車の疾《しっ》駆《く》する間近の竹だけが、大袈裟にたわんで揺れた。その中に一本の際立って若い、青いつややかな竹が目に残った。その竹のいたくたわんださまが、艶《なま》めかしい奇異な運動の印象を以て、私の目に残り、遠ざかり、消え去った……。

 嵐山へ着き、渡月橋《とげつきょう》の片ほとりまで来たわれわれ一行は、今までは知らずに見すごしていた小督局《こごうのつぼね》の墓に詣《もう》でた。
 平清盛を憚《はばか》って嵯峨野《さがの》に身を隠した局を、勅命によって探しもとめていた源仲国は、仲秋名月の夜、微《かす》かにきこえる琴《こと》の音《ね》をたよりに、局の隠れ家をつきとめる。その琴の曲は「想《そう》夫《ふ》恋《れん》」である。謡曲「小督」には、「月にやあくがれ出《い》で給ふと、法輪に参れば、琴こそ聞え来にけれ。峯《みね》の嵐《あらし》か松風かそれかあらぬか、尋ぬる人の琴の音か、楽《がく》は何ぞと聞きたれば、夫《つま》を想ひて恋ふる名の想夫恋なるぞ嬉《うれ》しき」とあるが、局はそののちも嵯峨野の庵《いおり》で、高倉帝の菩《ぼ》提《だい》を弔いながら、後半生を送ったのである。
 塚《つか》は細い小《こ》径《みち》の奥にあり、巨《おお》きな楓《かえで》と朽ちはてた梅の古木とにはさまれている小さい石塔にすぎなかった。私と柏木は、殊勝らしく短い経を手向《たむ》けた。柏木のひどく生まじめで冒涜《ぼうとく》的な経の読み方が私にも伝染《うつ》り、私はそこらの学生が鼻唄をうたうような心意気で読《ど》経《きょう》をやってのけたが、この小さな涜聖がひどく私の感覚を解放し、いきいきとさせた。
「優雅の墓というものは見すぼらしいもんだね」と柏木が言った。「政治的権力や金力は立派な墓を残す。堂々たる墓をね。奴らは生前さっぱり想像力を持っていなかったから、墓もおのずから、想像力の余地のないような奴《やつ》が建っちまうんだ。しかし優雅のほうは、自他の想像力だけにたよって生きていたから、墓もこんな、想像力を働かすより仕方のないものが残っちまうんだ。このほうが俺はみじめだと思うね。死後も人の想像力に物《もの》乞《ご》いをしつづけなくちゃならんのだからな」
「優雅は想像力の中にしかないのかい」と私も快活に話に乗った。「君のいう実相は、優雅の実相は何なんだ」
「これさ」と柏木は苔《こけ》むした石塔の頭をぺたぺたと平手で叩《たた》いた。「石、あるいは骨、人間の死後にのこる無機的な部分さ」
「ばかに仏教的なんだね」
「仏教もくそもあるものか。優雅、文化、人間の考える美的なもの、そういうものすべての実相は不毛な無機的なものなんだ。龍安寺《りょうあんじ》じゃないが、石にすぎないんだ。哲学、これも石、芸術、これも石さ。そして人間の有機的関心と云ったら、情ないじゃないか、政治だけなんだ。人間はほとほと自己冒涜的な生《いき》物《もの》だね」
「性欲はどっちだね」
「性欲かい? まあその中間だろうな。人間と石との、堂々めぐりの鬼ごっこさ」
 私は彼の考える美について直ちに反駁《はんばく》を加えようと考えたが、議論に飽きた女二人が、細径《ほそみち》を引返しかけたので、その後を追った。細径から保津《ほづ》川《がわ》を望むと、そこは渡月橋の北の、あたかも堰《せき》の部分であった。川むこうの嵐山には陰鬱な緑がこもっているのに、川のその部分だけは、いきいきとした飛《ひ》沫《まつ》の白の一線が延び、水音があたり一面にひびいていた。
 川にうかぶボートの数は少なくなかった。しかしわれわれ一行が川ぞいの道を進み、つきあたりの亀山《かめやま》公園の門を入ったとき、散らばっているのは紙屑《かみくず》ばかりで、きょうは公園の中の行楽客の稀《まれ》なことがわかった。
 門のところでわれわれはふりかえり、もう一度、保津川と嵐山の若葉の景色をながめた。対岸には小滝が落ちていた。
「美しい景色は地獄だね」と又柏木が言った。
 どうやら柏木のこの言い方は、私には当てずっぽうに思われた。が、私も亦《また》、彼に倣《なら》って、その景色を地獄のつもりで眺《なが》めようと試みた。この努力は徒《あだ》ではなかった。若葉に包まれた静かな何気ない目前の風景にも、地獄が揺曳《ようえい》していたのである。地獄は、昼も夜も、いつどこにでも、思うがまま欲するがままに現われるらしかった。われわれが随意に呼ぶところに、すぐそこに存在するらしかった。

 十三世紀に吉野山の桜を移植したと云われる嵐山の花は、すでに悉《ことごと》く葉桜になっていた。花季がすぎると、花はこの土地では、死んだ美人の名のように呼ばれるにすぎなかった。
 亀山公園にもっとも多いのは松だったので、ここには季節の色が動かなかった。大きな起伏のある広大な公園で、松はいずれも亭々《ていてい》と伸び、かなり高くまで葉をつけていず、こんな数しれない裸の幹が不規則に交《こう》叉《さ》していて、公園の眺めの遠近の感じを不安にしていた。
 登るかとおもえば又降《くだ》る広い迂路《うろ》が公園をめぐっており、あちこちに切株や灌木《かんぼく》や小松があり、巨岩が白い石肌《いわはだ》を半ば土に埋めているあたりに、紅紫《べにむらさき》の杜鵑花《さつき》の夥《おびただ》しい花々が咲いていた。その色は曇った空の下で、悪意を帯びて見えた。
 われわれは凹《くぼ》地《ち》に設けられたブランコに若い男女が乗っているかたわらを登って、小さな丘陵の頂きの唐傘《からかさ》なりの東屋《あずまや》で休んだ。そこからは東のほうに公園のほぼ全貌《ぜんぼう》が眺められ、西には保津川の水が木《こ》がくれに見下ろされた。ブランコの軋《きし》り音は、たえず歯ぎしりのように、東屋へ昇ってきた。
 令嬢が包みをひろげた。柏木が弁当は要らないと言ったのは嘘ではなかった。そこには四人前のサンドウィッチだの、手に入りにくい舶来の菓子類だの、最後には、進駐軍の需要にだけ充《あ》てられているために、闇《やみ》でしか入らないサントリイ?ウイスキーが現われた。当時京都は、京阪神地方の闇売買の中心地と云われていた。
 私はほとんど呑めなかったが、柏木と共に、さし出されたグラスを、合掌《がっしょう》してから、手にとった。女二人は水筒の紅茶を飲んだ。
 私には令嬢と柏木とのそんなに親しい間柄《あいだがら》が、いまだに半信半疑であった。気むずかしそうなこの女が、どうして柏木のような内飜足の貧書生と懇《ねんご》ろにしているのかわからなかった。この疑問に答えるように、二三杯呑んだ柏木は言いだした。
「さっき電車の中で喧《けん》嘩《か》をしていたろう。あれはね、彼女が家からやかましく言われて、厭《いや》な男と結婚を迫られているからなんだ。彼女はすぐ弱気になって負けそうになるんだ。それで俺《おれ》が、その結婚を徹底的に邪魔してやると云って、慰めたり脅《おど》かしたりしていたんだよ」
 これは本来、当人の前で云い出すべきことではなかったが、柏木はかたわらに当の令嬢がまるでいないかのように平気で言った。それをきいている令嬢の表情にも、何らの変化が現われていなかった。しなやかな頸筋《くびすじ》には陶片をつらねた青いネックレースをかけ、曇り空を背に、たわわな髪の輪郭がその鮮明すぎる顔だちをぼかしていた。目は過度に潤《うる》み、目だけがそのためになまなましい裸かな印象を与えた。だらしのない口もとも、いつものように、薄くあいていた。その唇と唇との薄い隙《すき》間《ま》から、細かい鋭い歯並が、さえざえと乾いて白くのぞかれた。それは小動物の歯のような感じがした。
「痛い! 痛い!」と柏木が急に身を屈して、脛《すね》を押えて呻《うめ》きだした。私もあわてて、うつむいて介抱しようとしたが、柏木の手が私を押しのけざま、ふしぎな冷笑的な目くばせを私に与えた。私は手を引いた。
「痛い! 痛い!」と柏木は真に迫った声で呻いた。思わず私はかたわらの令嬢の顔を見た。その顔には著しい変化があらわれ、目は落ちつきをなくし、口は性急にわななき、冷たい高い鼻だけが物に動じないでいるさまが奇異な対照を示して、顔の調和と均衡は打ち破られていた。
「かんにんえ! かんにんえ! 今治《なお》してあげるから! 今じきだから!」――彼女の甲《かん》高《だか》い傍若無人《ぼうじゃくぶじん》な声を私ははじめてきいた。令嬢は長い首をもたげて、周囲を見まわすようにしたが、忽《たちま》ち東屋の石の上に膝《ひざ》まずき、柏木の脛を抱いた。頬《ほお》をすりつけ、はてはその脛に接吻《せっぷん》したのである。
 私は再びあのときのような恐怖に搏《う》たれた。下宿の娘を見た。娘はあらぬ方を眺めて鼻歌を唄っていた。
 ……このとき日が雲間を洩《も》れたように思われたが、私の錯覚であったかもしれない。しかし静かな公園の全景の構図に違和が生じて、私たちが包まれていた澄明な画面、その松林、川の光り、遠い山々、白い岩肌、点在する杜鵑花の花々、……こういうもので充《み》たされた画面の隅々《すみずみ》まで、細かい亀《き》裂《れつ》がいちめんに走ったように感じられた。
 実際のところ、起るべき奇《き》蹟《せき》は起ったらしかった。柏木は次第に呻きをやめた。顔をあげ、あげかけたとき、又私のほうへ、冷笑的な目くばせを投げた。
「治った! ふしぎだなあ。痛みだしたとき、君がそうしてくれると、いつも痛みがとまるんだからな」
 そして女の髪を両手でつかんでもちあげた。髪をつかまれた女は、忠実な犬の表情で柏木を見上げて微笑した。白い曇った光線の加減で、この瞬間、私には美しい令嬢の顔が、いつか柏木の話した六十幾歳の老《ろう》婆《ば》の顔そのものに見えたのである。
 ――しかし奇蹟を果した柏木は陽気になった。狂気にちかいほど陽気になった。彼は大声で笑い、たちまち女を膝の上へ抱き上げて接吻した。彼の笑いは凹地の松の梢の枝々に谺《こだま》した。
「なぜ口説《くど》かないんだ」と黙っている私に言った。「折角君のためにも娘さんを一人連れて来たんだのに。それとも吃《ども》って笑われるのがはずかしいのか。吃れ! 吃れ! 彼女だって吃りに惚《ほ》れるかもしれないんだ」
「吃りやったの?」と今気づいたように下宿の娘は言った。「ほな三人片輪の二人揃《そろ》ったわけやな」
 この言葉ははげしく私を刺し、いたたまれぬ気持にさせた。娘に感じた憎悪が、しかし、一種の目まいのようなものを伴って、そのまま突然の欲望に移って行ったのは奇異だった。
「二組別々にどこかへ身を隠そうよ。二時間たったら又ここの東屋へかえって来よう」
 柏木が、まだ飽きもせずブランコに乗っている男女を見下ろしながら、そう言った。

 柏木や令嬢と別れた私は、下宿の娘と共に、東屋の丘から北へ降り、また東のほうへ迂《う》回《かい》してゆく緩《ゆる》い坂を登った。
「あの人はお嬢さんを『聖女』に仕立てたんよ。いつもあの手や」
 と娘が言った。私はひどく吃って反問した。
「どうして知ってる」
「そやかて、わてかて、柏木さんと関係があるのやもん」
「今は何でもないんだね。しかしよく平気でいられるね」
「平気やわ。あんな片輪、しようがない」
 この言葉は今度は逆に私を勇気づけ、次の反問がすらすらと出た。
「君もあいつの片輪の足が好きだったのとちがうか」
「やめといて、あんな蛙《かえる》のような足。わて、そうやな、あの人の目はきれいな目や思うけど」
 これで又私は自信を喪《うしな》った。柏木がどう考えようとも、女は柏木の気づかぬ美質を愛していたことになるが、自分について何一つ気がついていないところはないと思う私の傲慢《ごうまん》さが、そういう美質の存在を、自分にだけは拒んでいたからである。
 ――さて私と娘は、坂を登りつめて深閑とした小さな野に出た。松と杉のあいだから、大《だい》文《もん》字《じ》山《やま》、如《にょ》意《い》ヶ岳《たけ》などの遠山が、おぼろげに望まれた。竹藪《たけやぶ》が、この丘陵から町へ下りる斜面をおおい、藪の外れに、一本の遅桜《おそざくら》がまだ花を落さずにいた。それは実に遅い花で、吃り吃り咲き出したために、こんなにも遅れたのではないかと思われた。
 私の胸はふたがり、胃のあたりが重くなっていた。酒のためではない。いざとなると欲望は重みを増し、私の肉体から離れた抽象的な構造を持ち、私の肩にのしかかるのだ。それはまるで真黒な、重い、鉄製の、工作機械のように感じられる。
 柏木が私を人生へ促してくれる親切あるいは悪意を、私が多としていたことはたびたび述べたとおりである。中学時代に先輩の短剣の鞘《さや》に傷をつけた私は、人生の明るい表側に対する無資格を、すでに自分の上に明確に見ていた。しかるに柏木は裏側から人生に達する暗い抜け道をはじめて教えてくれた友であった。それは一見破滅へつきすすむように見えながら、なお意外な術数に富み、卑劣さをそのまま勇気に変え、われわれが悪徳と呼んでいるものを再び純粋なエネルギーに還元する、一種の錬金術と呼んでもよかった。それでも、事実それでもなおかつ、それは人生だった。それは前進し、獲得し、推移し、喪失することができた。典型的な生とは云えぬにしても、生のあらゆる機能はそれに備わっていた。もしわれわれの目に見えぬところに、あらゆる生の無目的という前提が与えられていたとしたら、それはますます他の通例の生と等価の生であった。
 柏木にだって酩酊《めいてい》がないとは云えまい、と私は考えた。どんな暗鬱《あんうつ》な認識にも、認識そのものの酔のひそんでいることを、私は夙《つと》に知っていた。そして人を酔わすものは、ともかくも酒なのである。
 ……私たちが腰を下ろしたのは、色あせて蝕《むしば》まれた杜鵑花《さつき》の花かげであった。下宿の娘がどうしてそんな風に私と附合う気になったのかはわからなかった。私は自分に対して酷《むご》い表現を故《ことさ》ら用いるが、どうして娘がわが身を「けがしたい」という衝動にかられているのかわからなかった。世には羞恥《しゅうち》とやさしさに充ちた無抵抗もある筈《はず》だが、娘はその小《こ》肥《ぶと》りした小さな手の上に、昼寝の体にたかる蠅《はえ》のように、私の手をただたからせていた。
 しかし永い接吻と、柔らかい娘の顎《あご》の感触が、私の欲望を目ざめさせた。ずいぶん夢みていた筈のものでありながら、現実感は浅く稀《き》薄《はく》であり、欲望は別の軌道を駈《か》けめぐっていた。白い曇った空、竹藪のざわめき、杜鵑花の葉をつたう七星天道虫《ななほしてんとうむし》の懸命な登攀《とうはん》……、これらのものは、依然何の秩序もなく、ばらばらに存在しているままであった。
 私はむしろ目の前の娘を、欲望の対象と考えることから遁《のが》れようとしていた。これを人生と考えるべきなのだ。前進し獲得するための一つの関門と考えるべきなのだ。今の機を逸したら、永遠に人生は私を訪れぬだろう。そう考えた私の心はやりには、吃りに阻《はば》まれて言葉が口を出かねるときの、百《もも》千《ち》の屈辱の思い出が懸っていた。私は決然と口を切り、吃りながらも何事かを言い、生をわがものにするべきであった。柏木のあの酷薄な促し、「吃れ! 吃れ!」というあの無遠慮な叫びは、私の耳に蘇《よみがえ》って、私を鼓舞した。……私はようやく手を女の裾《すそ》のほうへ辷《すべ》らせた。

 そのとき金閣が現われたのである。
 威厳にみちた、憂鬱《ゆううつ》な繊細な建築。剥《は》げた金箔《きんぱく》をそこかしこに残した豪奢《ごうしゃ》の亡骸《なきがら》のような建築。近いと思えば遠く、親しくもあり隔たってもいる不可解な距離に、いつも澄明に浮んでいるあの金閣が現われたのである。
 それは私と、私の志す人生との間に立ちはだかり、はじめは微細画のように小さかったものが、みるみる大きくなり、あの巧《こう》緻《ち》な模型のなかに殆《ほと》んど世界を包む巨大な金閣の照応が見られたように、それは私をかこむ世界の隅々までも埋め、この世界の寸法をきっちりと充たすものになった。巨大な音楽のように世界を充たし、その音楽だけでもって、世界の意味を充足するものになった。時にはあれほど私を疎《そ》外《がい》し、私の外《そと》に屹立《きつりつ》しているように思われた金閣が、今完全に私を包み、その構造の内部に私の位置を許していた。
 下宿の娘は遠く小さく、塵《ちり》のように飛び去った。娘が金閣から拒まれた以上、私の人生も拒まれていた。隈《くま》なく美に包まれながら、人生へ手を延ばすことがどうしてできよう。美の立場からしても、私に断念を要求する権利があったであろう。一方の手の指で永遠に触れ、一方の手の指で人生に触れることは不可能である。人生に対する行為の意味が、或る瞬間に対して忠実を誓い、その瞬間を立止らせることにあるとすれば、おそらく金閣はこれを知《ち》悉《しつ》していて、わずかのあいだ私の疎外を取消し、金閣自らがそういう瞬間に化身して、私の人生への渇望《かつぼう》の虚《むな》しさを知らせに来たのだと思われる。人生に於て、永遠に化身した瞬間は、われわれを酔わせるが、それはこのときの金閣のように、瞬間に化身した永遠の姿に比べれば、物の数でもないことを金閣は知悉していた。美の永遠的な存在が、真にわれわれの人生を阻み、生を毒するのはまさにこのときである。生がわれわれに垣《かい》間《ま》見せる瞬間的な美は、こうした毒の前にはひとたまりもない。それは忽ちにして崩壊し、滅亡し、生そのものをも、滅亡の白茶《しらちゃ》けた光りの下に露呈してしまうのである。
 ……さて私が幻の金閣に完全に抱擁《ほうよう》されていたのは永い時間ではなかった。われに返ったとき、金閣はすでに隠れていた。それはここから東北のはるか衣笠《きぬがさ》の地に、今もそのまま存在している一つの建築にすぎず、見える筈はなかった。あのように金閣が私を受け入れ、抱擁していた幻影の時は過ぎ去った。私は亀山公園の丘のいただきに横たわり、周囲には草の花や昆虫《こんちゅう》の鈍い飛翔《ひしょう》と共に、放《ほう》恣《し》に寝そべっている一人の娘がいるだけだった。
 娘は私の突然の気後れに、白い眼を投げて身を起した。腰をひねって、うしろ向きに坐り、手《て》提《さげ》から出した鏡をのぞいた。物は言わなかったが、その蔑《さげす》みは、たとえば着物に刺った秋のいのこずちの実のように、万遍なく私の肌を刺していた。
 空は低く垂れた。軽い雨滴が、あたりの草や杜鵑花の葉を叩《たた》きだした。私たちはあわただしく立上り、さきほどの東屋《あずまや》への道をいそいだ。



 遊《ゆ》山《さん》がみじめに終ったこともそうであったが、その一日が、際《きわ》立《だ》って暗い印象を残しているのは、このためばかりではない。その夜の開枕《かいちん》前に、老師宛《あて》に東京から電報が届き、それが早速《さっそく》、寺中の者に披《ひ》露《ろう》されたのである。
 鶴川《つるかわ》が死んだのだった。電文は簡単に、事故で死んだとだけ書かれていたが、のちにわかった詳細はこうであった。前日の晩、鶴川は浅草の伯父の家へゆき、馴《な》れぬ酒を御馳《ごち》走《そう》になった。その帰るさ、駅の近くで横丁から突然あらわれたトラックにはねとばされて、頭《ず》蓋《がい》骨折で即死したのである。途方に暮れたままの家族が、鹿苑《ろくおん》寺《じ》へ電報を打つべきことにようやく気づいたのは、あくる日の午後であった。
 父の死のためにも流さなかった涙を私は流した。何故なら鶴川の死は父の死にもまして、私に喫緊の問題とつながりがあると思われたからだ。柏木《かしわぎ》を知ってから鶴川をいくらか疎《そ》略《りゃく》にしていた私であったが、失って今更わかることは、私と明るい昼の世界とをつなぐ一《いち》縷《る》の糸が、彼の死によって絶たれてしまったということであった。私は喪《うしな》われた昼、喪われた光り、喪われた夏のために泣いたのである。
 東京へ弔問に飛んで行こうにも、私には金がなかった。老師からもらう小遣は月五百円にすぎなかった。母はもとより貧しい。年に一二度、二三百円位ずつ送金してくるのがせいぜいである。家産を整理して加佐郡の伯父の家へ身を寄せるようになったのも、良人《おっと》の死後、檀《だん》家《か》から上る月五百円足らずの扶持《ふち》米《まい》と、府のわずかな補助金とだけでは暮しかねたからである。
 私は鶴川の亡骸《なきがら》も見ず、葬《とむら》いにも列《つら》ならず、どうして鶴川の死を自分の心にたしかめたらよいかと迷った。かつて木洩《こも》れ陽《び》を浴びて波打っていた彼の白いシャツの腹は今燃えている。あのように光りのためにだけ作られ、光りにだけふさわしかった肉体や精神が、墓土に埋もれて休らうことができると誰が想像しよう。彼には夭折《ようせつ》の兆候《ちょうこう》とて微《み》塵《じん》もなく、不安や憂愁《ゆうしゅう》を生れながらに免《まぬ》かれ、少しでも死と類似の要素を持たなかった。彼の突然の死はまさにそのためだったかもしれないのだ。純血種の動物の生命が脆《もろ》いように、鶴川は生の純粋な成分だけで作られていたので、死を防ぐ術《すべ》がなかったのかもしれない。すると私にはその反対に、呪《のろ》うべき長寿が約束されているようにも思われる。
 彼の住んでいた世界の透明な構造は、つねづね私にとって深い謎《なぞ》であったが、彼の死によって謎は一段と怖《おそ》ろしいものになった。この透明な世界を、丁度《ちょうど》透明なあまりに見えない硝子《ガラス》にぶつかるように、横合から走り出たトラックが粉砕したのだ。鶴川の死が病死でなかったことは、いかにもこの比喩《ひゆ》に叶《かな》っており、事故死という純粋な死は、彼の生の純粋無比な構造にふさわしかった。ほんの瞬時《しゅんじ》の衝突によって接触して、彼の生は彼の死と化合したのだった。迅速《じんそく》な化学作用。……こんな過激な方法によってしか、あの影を持たぬふしぎな若者は、自分の影、自分の死と結びつくことができなかったのに相違ない。
 鶴川の住んでいた世界が明るい感情や善意に溢《あふ》れていたとしても、彼は誤解や甘い判断によってそこに住んだのではなかったと断言できる。彼のこの世のものならぬ明るい心は、一つの力、一つの靱《つよ》い柔軟さで裏打ちされ、それがそのまま彼の運動の法則なのであった。私の暗い感情をいちいち明るい感情に飜訳《ほんやく》してくれた彼のやり方には、何か無類に正確なものがあった。その明るさは私の暗さとあまりに隅々まで照応し、あまりに詳細な対比を示していたので、時折鶴川は私の心を如実《にょじつ》に経験したことがあるのではないかと疑われた。そうではなかった! 彼の世界の明るさは、純粋でもあり偏《へん》頗《ぱ》でもあって、それ自体の細《さい》緻《ち》な体系が出来上り、その精密さは悪の精密さに殆《ほとん》んど近づいていたのかもしれない。この若者の不《ふ》撓《とう》な肉体の力が、たえずそれを支えて運動していなかったら、忽《たちま》ちにしてその明るい透明な世界は瓦《が》解《かい》していたのかもしれないのだ。彼はまっしぐらに走っていた。そしてトラックがその肉体を轢《ひ》いたのである。
 鶴川が人々に好感を与える源《もと》をなしていたいかにも明朗なその容貌《ようぼう》や、のびのびした体《たい》躯《く》は、それが喪われた今、又しても私を人間の可視の部分に関する神秘的な思考へいざなった。われわれの目に触れてそこに在る限りのものが、あれほどの明るい力を行使していたことのふしぎを思った。精神がこれほど素《そ》朴《ぼく》な実在感をもつためには、いかに多くを肉体に学ばなければならぬかを思った。禅は無相を体とするといわれ、自分の心が形も相もないものだと知ることがすなわち見性《けんしょう》だといわれるが、無相をそのまま見るほどの見性の能力は、おそらくまた、形態の魅力に対して極度に鋭敏でなければならない筈《はず》だ。形や相を無私の鋭敏さで見ることのできない者が、どうして無形や無相をそれほどありありと見、ありありと知ることができよう。かくて鶴川のように、そこに存在するだけで光りを放っていたもの、それに目も触れ手も触れることのできたもの、いわば生のための生とも呼ぶべきものは、それが喪われた今では、その明《めい》瞭《りょう》な形態が不明瞭な無形態のもっとも明確な比喩であり、その実在感が形のない虚無のもっとも実在的な模型であり、彼その人がこうした比喩にすぎなかったのではないかと思われた。たとえば、彼と五月の花々との似つかわしさ、ふさわしさは、他《ほか》でもないこの五月の突然の死によって、彼の柩《ひつぎ》に投げこまれた花々との、似つかわしさ、ふさわしさなのであった。
 とまれ私の生には鶴川の生のような確《かっ》乎《こ》たる象徴性が欠けていた。そのためにも私は彼を必要としたのだった。そして何よりも嫉《ねた》ましかったのは、彼は私のような独自性、あるいは独自の使命を担《にな》っているという意識を、毫《ごう》も持たずに生き了《おお》せたことであった。この独自性こそは、生の象徴性を、つまり彼の人生が他の何ものかの比喩でありうるような象徴性を奪い、従って生のひろがりと連帯感を奪い、どこまでもつきまとう孤独を生むにいたる本源なのである。ふしぎなことだ。私は虚無とさえ、連帯感を持っていなかった。



 又、私の孤独がはじまった。下宿の娘とはその後会わず、柏木《かしわぎ》とも前のように親しく附合うことはなくなった。柏木の生き方の魅力はなおしっかりと私をとらえていたが、少しでもそれに抗して、自ら望まずとも疎《そ》遠《えん》にしていることが、鶴川への供《く》養《よう》のような気がしたからだ。母には手紙を書き送り、一人前になるまでは訪ねて来ぬように、ときっぱり書いた。それは前にも母にむかって口で言ったことではあるが、もう一度強《きつ》い語調で書き送らなければ安心できぬような気がしたのである。その返事には、訥々《とつとつ》とした文章で、伯父の農事の手つだいにいそしんでいる状況やら、単純な教訓がましいことが書き列《つら》ねられた末、「おまえが鹿苑《ろくおん》寺《じ》の住職になった姿を一目見て死にたい」という文句が添えられていた。この一行を私は憎み、それから数日、この一行が私を不安にした。
 夏のあいだも、私は母の寄《き》寓先《ぐうさき》を訪ねなかった。貧しい食事のために夏は身にこたえた。九月の十日すぎのある日のこと、大きな颱風《たいふう》が襲うかもしれぬという予報があった。誰かが金閣の宿直《とのい》をすることになり、私が申し出てそれに当った。
 このころから微妙な変化が、私の金閣に対する感情に生じていたものと思われる。憎しみというのではないが、私の内に徐々に芽生えつつあるものと、金閣とが、決して相《あい》容《い》れない事態がいつか来るにちがいないという予感があった。亀山公園のあのときから、この感情は明白になっていたが、私はそれに名をつけることを怖れた。しかし一夜の宿直《とのい》に金閣が私に委《ゆだ》ねられたのはうれしく、私は喜びを隠さなかった。
 私は究竟頂《くきょうちょう》の鍵《かぎ》を渡された。この第三階はわけても貴ばれ、?《び》間《かん》には後小松帝の宸筆《しんぴつ》の扁額《へんがく》が、地上四十二尺の高さにけだかくかかっていた。
 ラジオは刻々に颱風の接近を伝えていたが、一向にその気配はなかった。午後のしばしばの雨は霽《は》れ、夜の空には、あきらかな満月がのぼった。寺の者たちは庭に出て空工合を見ては、嵐《あらし》の前の静けさだなどと噂《うわさ》していた。
 寺が寝静まる。私は金閣に一人になる。月のさし入らぬところにいると、金閣の重い豪《ごう》奢《しゃ》な闇《やみ》が私を包んでいるという思いに恍惚《こうこつ》となった。この現実の感覚は徐々に深く私を涵《ひた》し、それがそのまま幻覚のようになった。気がついたとき、亀山公園で人生から私を隔てたあの幻影の裡《うち》に、今私は如実にいるのを知った。
 私はただ孤《ひと》りおり、絶対的な金閣は私を包んでいた。私が金閣を所有しているのだと云おうか、所有されているのだと云おうか。それとも稀《まれ》な均衡がそこに生じて、私が金閣であり、金閣が私であるような状態が、可能になろうとしているのであろうか。
 風は午後十一時半ごろから募った。私は懐中電燈をたよりに階段を上り、究竟頂の鍵穴に鍵を宛《あて》がった。
 究竟頂の勾欄《こうらん》にもたれて立っている。風は東南である。しかし空にはまだ変化があらわれない。月は鏡湖池の藻《も》のあいだにかがやき、虫の音や蛙《かえる》の声があたりを占めている。
 最初に強い風がまともにわが頬《ほお》に当ったとき、ほとんど官能的と云ってもよい戦慄《せんりつ》が私の肌《はだ》を走った。風はそのまま劫風《こうふう》のように無限に強まり、私もろとも金閣を倒壊させる兆候のように思われたのである。私の心は金閣の裡にもあり、同時に風の上にもあった。私の世界の構造を規定している金閣は、風に揺れる帷《とばり》も持たず、自若として月光を浴びているが、風、私の兇悪《きょうあく》な意志は、いつか金閣をゆるがし、目ざめさせ、倒壊の瞬間に金閣の倨傲《きょごう》な存在の意味を奪い去るにちがいない。
 そうだ。そのとき私は美に包まれ、まさしく美の裡にいたのだが、無限に募ろうとする兇暴な風の意志に支えられずに、それほど私が十全に美に包まれていられたか疑わしい。柏木が私を「吃《ども》れ! 吃れ!」と叱《しっ》咤《た》したように、私は風を鞭《むち》打《う》ち、駿馬《しゅんめ》をはげます言葉を叫ぼうと試みた。
「強まれ! 強まれ! もっと迅《はや》く! もっと力強く!」
 森はざわめきだした。池辺の樹の枝々は触れ合った。夜空の色は平静な藍《あい》を失って、深い納《なん》戸《ど》いろに濁っていた。虫のすだきは衰えていないのに、そこらをけば立たせ、そぎ立てるような風の遠い神秘な笛音が近づいた。
 私は月の前をおびただしい雲が飛ぶのを見た。南から北へむかって、山々の向うから、次々と大軍団のように雲がせり出して来る。厚い雲がある。薄い雲がある。広大な雲がある。雲のいくつかの小さな断片がある。それらが悉《ことご》く、南からあらわれて、月の前をよぎり、金閣の屋根を覆《おお》って、何か大事へいそぐように北へ駈け去ってゆくのである。私の頭上では金の鳳凰《ほうおう》が叫ぶ声を聴くように思った。
 風はふと静まり、又強まる。森は敏感に聴《きき》耳《みみ》を立て、静まったりさわいだりする。池の月かげが、そのたびに暗み明るみして、時には散光をひきつらせて、池の面を迅速《じんそく》に一?掃きする。
 山々のむこうにわだかまる雲の累積が、大きな手のように空いちめんにひろがり、うごめきひしめいて近づくのは凄《すさ》まじかった。雲の絶え間に当って明澄に見えていた空の半ばも、忽ちにして又、雲におおわれた。しかしごく薄い雲がよぎるときには、これを透かして、おぼろな光輪をえがいている月が眺《なが》められた。
 夜もすがら、空はこのように動いていた。しかしそれ以上、風のつのる気配はなかった。私は勾欄のもとに眠っていた。晴れた朝早く、寺男の老人が私を起しに来て、颱風が幸いに京都市を外《はず》れて去ったと告げた。



第六章


 私は鶴川《つるかわ》の喪に、一年近くも服していたものと思われる。孤独がはじまると、それに私はたやすく馴《な》れ、誰ともほとんど口をきかぬ生活は、私にとってもっとも努力の要らぬものだということが、改めてわかった。生への焦躁《しょうそう》も私から去った。死んだ毎日は快かった。
 学校の図書館が私の唯一《ゆいいつ》の享楽《きょうらく》の場所になり、そこでは禅籍は読まず、手あたり次第に飜訳《ほんやく》の小説やら哲学やらを読んだ。その作家の名や哲学者の名をここに挙げることを私は憚《はばか》る。それらは多少とも影響を及ぼし、のちに私のした行為の素因となったことは認めるが、行為そのものは私の独創であると信じたいし、何よりも私はその行為が、或る既成の哲学の影響として片付けられることを好まぬからである。
 少年時代から、人に理解されぬということが唯一の矜《ほこ》りになっており、ものごとを理解させようとする表現の衝動に見舞われなかったのは、前にも述べたとおりだ。私は何ら斟《しん》酌《しゃく》なく自分を明晰《めいせき》たらしめようとしていたが、それが自己を理解したいという衝動から来ていたかどうか疑わしい。そういう衝動は人間の本性に従って、おのずから他人との間にかける橋ともなるからだ。金閣の美の与える酩《めい》酊《てい》が私の一部分を不透明にしており、この酩酊は他のあらゆる酩酊を私から奪っていたので、それに対抗するためには、別に私の意志によって明晰な部分を確保せねばならなかった。かくて余人は知らず私にとっては、明晰さこそ私の自己なのであり、その逆、つまり私が明晰な自己の持主だというのではなかった。

 ……大学予科へ進んで二年目、昭和二十三年の春休みのことである。その宵《よい》も老師は御留守であったので、幸いの自由な時間を、友をもたぬ私は一人で散歩に費やすほかはなかった。寺を出て、総門をくぐった。総門の外側には溝《みぞ》をめぐらし、溝のほとりに制札が立っている。
 永らく見馴れたものであるのに、月に照らされた古い制札の文字を、私はふりかえってつれづれのままに読んだ。
 注 意
 一、許可ヲ受ケタル場合ノ外現状ヲ変更セザルコト
 二、其他保存ニ影響ヲ及ボスベキ行為ヲナサザルコト
 右注意セラレタシ 若《も》シ之《これ》ヲ犯シタル者ハ国法ニ依《よ》リ処罰セラルベシ
  昭和三年三月三十一日内務省  
 制札は明らかに金閣について云っているのである。しかしその抽象的な語句は何を暗示しているとも知れず、不変の不壊《ふえ》の金閣は、こんな制札とは別のところに立っているとしか思えなかった。何かこの制札は、不可解な行為、あるいは不可能な行為を予定していた。立法者はおそらくこの種の行為を概括することに戸惑ったに相違なかった。狂人でなければ企てられない行為を罰するためには、事前にどうやって狂人を嚇《おど》かすべきか。おそらく狂人にしか読めない文字が必要になるだろう。……
 私がこんな由《よし》ないことを考えていたとき、門前の広い鋪《ほ》道《どう》を、こちらへ向って来る人の影があった。昼の見物人の群はのこらず消え、月に照らされた松と、かなたの電車通りをゆきかう自動車の前燈のひらめきだけが、このあたりの夜を占めていた。
 影は突然柏木《かしわぎ》だと認められた。歩き方でわかったのである。すると永い一年の、こちらから選んだ疎《そ》遠《えん》は棚《たな》に上げて、私はただ、かつて彼に癒《い》やされたことへの感謝だけを思い起した。そうだ。はじめて会ったときから、彼はそのぶざまな内飜足《ないほんそく》で、無遠慮に傷つける言葉で、その徹底した告白で、私の不具の思いを癒やしたのだった。私はあのとき、自分がはじめて同格で話し合う喜びをさとった筈《はず》だ。坊《ぼう》主《ず》であり吃《ども》りであることの、確《かっ》乎《こ》とした意識の底に身を沈める、悪徳を行うに似た喜びを味わった筈だ。それに反して鶴川との附合では、そのいずれの意識も拭《ぬぐ》い去られるのが常であったが。
 私は柏木を笑顔で迎えた。彼は制服を着、手に細長い包みを持っていた。
「出かけるところなのか」と彼が訊《き》いた。
「いや……」
「会えてよかった。実はね」と柏木は石段に腰を下ろし、風呂《ふろ》敷《しき》を解いた。暗い光沢を放つ二管の尺八が現われた。「この間、国の伯父が死んで形見にこの尺八をもらったんだ。ところで俺《おれ》のは、むかし伯父から習ったときに貰《もら》ったのがまだあるし、形見のほうが名器らしいんだが、俺は使い馴れた奴《やつ》のほうがいいし、二つあっても仕《し》様《よう》がないから、君に一つやろうと思って持って来たんだ」
 人から贈物をもらったことのない私には、何であれ、贈物はうれしかった。手にとってみる。孔《あな》は前面に四つ、うしろに一つあった。
 柏木はつづけて言った。
「俺の流儀は琴古流《きんこりゅう》だよ。めずらしく月がいいから、できたら金閣で吹かせてもらおうと思って来たんだ。君に教えかたがた……」
「今ならいいと思う。老師がお留守だから、じいさんが怠けて、まだ掃《そう》除《じ》をすませていないんだ。掃除がすんだあとで、金閣の戸締りをするんだから」
 その現われ方も唐突《とうとつ》なら、月が良いから金閣で尺八を吹きたいという申出も唐突で、凡《すべ》てが私の知っている柏木の像を裏切った。それにしても単調な私の生活にとっては、愕《おどろ》かされることはそれだけで喜びであった。私はもらった尺八を手にして、金閣へ案内した。

 その宵《よい》、私が柏木とどんなことを語り合ったか、よく憶《おぼ》えていない。おそらく大して実《み》のあることを語らなかったものと思われる。柏木が第一、いつもの奇矯《ききょう》な哲学や毒のある逆説を、少しも口に出す気配がなかった。
 彼は私の想像もしなかった別の側面を、故《ことさ》ら私に示すために、やって来たのかもしれなかった。美の冒涜《ぼうとく》にだけ興味を惹《ひ》かれていたようなこの毒舌家は、まことに繊細な別の側面を私に見せた。彼は私よりもさらにさらに精密な理論を、美に関して抱いていた。それを言葉ではなしに、身ぶりや目や、吹き鳴らす尺八の調べや、月光の中へさしだしたその額などで語ったのである。
 私たちは第二層の潮音洞の手《て》摺《すり》にもたれていた。ゆるやかに反《そ》った深い軒庇《のきびさし》のかげのその縁側は、下方から、典雅な八つの天竺様《てんじくよう》の挿肘《さしひじ》木《き》で支えられて、月を宿した池のおもてへ迫《せ》り出していた。
 柏木はまず「御《ご》所車《しょぐるま》」という小曲を吹いたが、その巧みさに私はおどろいた。真似《まね》て、唇《くちびる》を歌口《うたぐち》に当てたものの、音は出なかった。彼は私に教えて、左手を上にした持ち方からはじめ、腮当《あごあた》りへ腮を当てる具合や、歌口にあてがう唇のひらき方、幅の広い薄片のような風をそこへ送るコツなどを、念入りに習得させた。何度試みても音は出なかった。頬《ほお》にも、目にも力が入って、池に宿る月は、風もないのに、千々に砕けてみえるような気がした。
 疲れ果てた私は、或る瞬間には、柏木がわざわざ私の吃りをからかうために、こういう苦行を強《し》いるのではないかと疑ったりした。しかし徐々に、出ない音を出そうと試みる肉体的な努力は、吃りをおそれて最初の言葉を円滑に出そうとする普段の精神的努力を、浄化するもののように思われてきた。まだ出ぬ音は、この月に照らされた静寂の世界のどこかに、すでに確実に存在しているように思われた。私はさまざまな努力の果てにその音に到達し、その音を目ざめさせさえすればよかったのである。
 いかにしてその音に、柏木が吹き鳴らしたような霊妙な音に到達するか。他《ほか》でもない熟練がそれを可能にするのであり、美は熟練であり、柏木がその醜い内飜足にもかかわらず澄んだ美しい音色に到達したように、私もただ熟練によってそれに到達できるのだという考えが私を勇気づけた。しかし別な認識も私に生れた。柏木の「御所車」の調べがあんなに美しく聴かれたのは、月のあたら夜《よ》の背景もさることながら、彼の醜い内飜足のためではなかったか?
 柏木を深く知るにつれてわかったことだが、彼は永《なが》保《も》ちする美がきらいなのであった。たちまち消える音楽とか、数日のうちに枯れる活《い》け花とか、彼の好みはそういうものに限られ、建築や文学を憎んでいた。彼が金閣へやって来たのも、月の照る間《ま》の金閣だけを索《もと》めて来たのに相違なかった。それにしても音楽の美とは何とふしぎなものだ! 吹奏者が成《じょう》就《じゅ》するその短かい美は、一定の時間を純粋な持続に変え、確実に繰り返されず、蜉蝣《かげろう》のような短命の生物をさながら、生命そのものの完全な抽象であり、創造である。音楽ほど生命に似たものはなく、同じ美でありながら、金閣ほど生命から遠く、生を侮《ぶ》蔑《べつ》して見える美もなかった。そして柏木が「御所車」を奏《かな》でおわった瞬間に、音楽、この架空の生命は死に、彼の醜い肉体と暗鬱《あんうつ》な認識とは、少しも傷つけられず変改されずに、又そこに残っていたのである。
 柏木が美に索めているものは、確実に慰《い》藉《しゃ》ではなかった! 言わず語らずのうちに、私にはそれがわかった。彼は自分の唇が尺八の歌口に吹きこむ息の、しばらくの間、中空《なかぞら》に成就する美のあとに、自分の内飜足と暗い認識が、前にもましてありありと新鮮に残ることのほうを愛していたのだ。美の無益さ、美がわが体内をとおりすぎて跡形もないこと、それが絶対に何ものをも変えぬこと、……柏木の愛したのはそれだったのだ。美が私にとってもそのようなものであったとしたら、私の人生はどんなに身軽になっていたことだろう。

 ……柏木の導くままに、何度となく、飽かず私は試みた。顔は充血し、息は迫って来た。そのとき急に私が鳥になり、私の咽喉《のど》から鳥の啼声《なきごえ》が洩《も》れたかのように、尺八が野太い音の一声をひびかせた。
「それだ」
 と柏木が笑って叫んだ。決して美しい音ではないが、同じ音は次々と出た。そのとき私は、わがものとも思われぬこの神秘な声《こわ》音《ね》から、頭上の金銅の鳳凰《ほうおう》の声を夢みていたのである。



 その後柏木のくれた独習本をたよりに、私は毎夜尺八の上達にいそしんだ。「白地に赤く日の丸染めて」などが吹けるようになるにつれ、彼との親交も旧に復して行った。
 五月のこと、私は尺八の礼を何か柏木にせねばならぬと思った。しかし金がない。思い切ってそれを柏木に言うと、金のかかる礼など要らないと答え、さて口のはたを奇妙に歪《ゆが》めて、次のようなことを言い出した。
「そうだな。折角そう言ってくれるんなら、ほしいものがあるんだ。このごろ活け花をしたくても、花が高くてな。丁度今ごろ金閣はあやめやかきつばたが花ざかりだろう。かきつばたを四五本、蕾《つぼみ》のやら咲きかけのやらもう咲いたのやら、それに木賊《とくさ》を六七本とって来てくれないかな。今夜でもいいんだ。夜、俺の下宿へもって来てくれないかな」
 私は思わず軽く請け合ってから、実は彼が私に盗みを示唆《しさ》しているのだということに気づいた。そして体面上、是非とも私は花盗人にならねばならなかった。
 その晩の薬石《やくせき》は粉食であった。真黒な、目方の重いパンに、野菜の煮附だけである。幸いに土曜であったので、午後から除策《じょさく》になり、出かけるべき人はもう出かけていた。今夜は内開枕《ないかいちん》で、早く寝てもよし、十一時まで外出していてもよし、あまつさえ、明朝は「寝忘れ」と謂《い》って朝寝ができた。老師もすでに外出しておられた。
 日は六時半をすぎてようよう昏《く》れた。風が出てきた。私は初夜の鐘を待った。八時になって、中門左側の黄鐘調《おうじきちょう》の鐘が、いつまでも余《よ》韻《いん》を引くその高い明澄な音《ね》色《いろ》の、初夜の十八声をひびかせて来た。
 金閣の漱清《そうせい》のかたわらに、蓮沼《はすぬま》の水が鏡湖池にそそぐ小さな滝口があり、半円の柵《しがらみ》がこの滝口を囲んでいる。杜若《かきつばた》はそのあたりに群生している。花はここ数日、大そう美しい。
 私が行くと、杜若の草叢《くさむら》は夜風にさわいでいた。高くかかげた紫の弁は、しずかな水音のなかにわなないていた。そこらあたりは闇《やみ》が深く、紫も、葉の濃い緑も黒く見えた。私は二三の杜若をとらえようとした。しかし風と共に、花や葉はざわめきながら私の手をのがれ、葉の一つは私の指を切った。
 木賊と杜若を抱えて柏木の下宿を訪れたとき、彼は寝ころんで本を読んでいた。私は下宿の娘に会うことを怖《おそ》れていたが、留守らしかった。
 小さな盗みが私を快活にしていた。柏木と結びつくとき、いつもまず私には、小さな背徳や小さな涜聖《とくせい》や小さな悪がもたらされ、それがきまって私を快活にさせるのだが、そういう悪の分量をだんだん増してゆけば、快活さの分量もそれにつれて際限もなく増してゆくものか私にはわからなかった。
 柏木は私の贈物を大そう喜んで享《う》けた。そして下宿の主婦のところへ、水盤や水切りに使うバケツなどを借りに行った。家は平屋で彼の部屋は離れの四畳半であった。
 床の間に立てかけてある彼の尺八をとって、私は唇を歌口にあて、小さな練習曲を吹いてみたが、これは大そう巧く行き、帰ってきた柏木をおどろかせた。しかし今夜の彼は、金閣へ来たときの彼ではなかった。
「尺八だとちっとも吃《ども》らないな。俺は吃りの曲をきいてみたいと思って、尺八を教えたんだのに」
 この一言で、われわれは初対面のときと同じ位置に引き戻された。彼が自分の位置を取戻したのである。そこで私も、例のスペイン風の家の令嬢について、気楽にたずねることができた。
「ああ、あの女か。とっくに結婚したよ」と簡単に答えた。「生娘《きむすめ》でないことがばれない方法を、俺は痒《かゆ》いところに手が届くようにして教えてやったんだが、相手の花婿《はなむこ》が堅物《かたぶつ》だったから、どうやら旨《うま》く行ったらしいや」
 言いながら彼は水にひたした杜若を一本一本とりだして丹念に眺《なが》め、鋏《はさみ》を水にさし入れて、水の中で茎を切った。彼の手にとられる杜若の花影は、畳の上に大きく動いた。そして又、突然言った。
「君は『臨済録』の示衆の章にある有名な文句を知ってるか。『仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、……』」
 私はあとをつづけた。
「『……羅《ら》漢《かん》に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷《しんけん》に逢うては親眷を殺して、始めて解《げ》脱《だつ》を得ん』」
「そうだ。あれさ。あの女は羅漢だったんだ」
「それで君は解脱したのか」
「ふん」と柏木は切った杜若の花を揃えて眺めながら言った。「それにはまだ殺し方が足らんさ」
 水が清く湛《たた》えられた水盤の内部は銀いろに塗られていた。柏木は剣山《けんざん》の曲ったのを丹念に直した。
 私は手持無沙汰になって喋《しゃべ》りつづけた。
「君は『南泉斬猫《なんせんざんみょう》』の公案を知ってるだろう。老師が終戦のとき、皆を集めてあれの講話をしたんだけど、……」
「『南泉斬猫』か」と柏木は、木賊《とくさ》の長さをしらべて、水盤にあてがってみながら答えた。
「あの公案はね、あれは人の一生に、いろんな風に形を変えて、何度もあらわれるものなんだ。あれは気味のわるい公案だよ。人生の曲り角で会うたびに、同じ公案の、姿も意味も変っているのさ。南泉和尚の斬《き》ったあの猫《ねこ》が曲者《くせもの》だったのさ。あの猫は美しかったのだぜ、君、たとえようもなく美しかったのだ。目は金いろで、毛並はつややかで、その小さな柔らかな体に、この世のあらゆる逸楽と美が、バネのようにたわんで蔵《しま》われていた。猫が美の塊まりだったということを、大ていの註釈者は言い落している、この俺を除けばね。ところでその猫は、突然、草のしげみの中から飛び出して、まるでわざとのように、やさしい狡猾《こうかつ》な目を光らせて捕われた。それが両堂の争いのもとになった。何故って、美は誰にでも身を委《まか》せるが、誰のものでもないからだ。美というものは、そうだ、何と云ったらいいか、虫歯のようなものなんだ。それは舌にさわり、引っかかり、痛み、自分の存在を主張する。とうとう痛みにたえられなくなって、歯医者に抜いてもらう。血まみれの小さな茶いろの汚れた歯を自分の掌《てのひら》にのせてみて、人はこう言わないだろうか。『これか? こんなものだったのか? 俺に痛みを与え、俺にたえずその存在を思いわずらわせ、そうして俺の内部に頑《がん》固《こ》に根を張っていたものは、今では死んだ物質にすぎぬ。しかしあれとこれとは本当に同じものだろうか? もしこれがもともと俺の外部存在であったのなら、どうして、いかなる因縁《いんねん》によって、俺の内部に結びつき、俺の痛みの根源になりえたのか?こいつの存在の根拠は何か? その根拠は俺の内部にあったのか? それともそれ自体にあったのか? それにしても、俺から抜きとられて俺の掌の上にあるこいつは、これは絶対に別物だ。断じてあれ《??》じゃあない』
 いいかね。美というものはそういうものなのだ。だから猫を斬ったことは、あたかも痛む虫歯を抜き、美を剔抉《てっけつ》したように見えるが、さてそれが最後の解決であったかどうかわからない。美の根は絶たれず、たとい猫は死んでも、猫の美しさは死んでいないかもしれないからだ。そこでこんな解決の安易さを諷《ふう》して、趙州《ちょうしゅう》はその頭に履《くつ》をのせた。彼はいわば、虫歯の痛みを耐えるほかに、この解決がないことを知っていたんだ」
 解釈はいかにも柏木一流のものであったが、それは多分に私にかこつけ、私の内心を見抜いて、その無解決を諷しているように思われた。私ははじめて柏木を本当に怖れた。黙っていることが可怕《こわ》かったので、さらにたずねた。
「君はそれでどっちなんだ。南泉和尚かい。それとも趙州かい」
「さあ、どっちかね。今のところは、俺が南泉で、君が趙州だが、いつの日か、君が南泉になり、俺が趙州になるかもしれない。この公案はまさに、『猫の目のように』変るからね」
 さて、こんな話をしつつも、柏木の手は微妙に動いて、錆《さ》びた小さな剣山を水盤の中に並べ、天に当る木賊をそれに挿《さ》し並べてから、三枚組の葉組を整えた杜若をこれに配して、次第に観水活けの形を作って行った。洗い込まれた白や褐色の細かい清らかな玉砂利も、仕上げを待って水盤のかたわらに積まれていた。
 彼の手の動きは見事という他はなかった。小さな決断がつぎつぎと下され、対比や均整の効果が的確に集中してゆき、自然の植物は一定の旋律のもとに、見るもあざやかに人工の秩序の裡《うち》へ移された。あるがままの花や葉は、たちまち、あるべき花や葉に変貌《へんぼう》し、その木賊や杜若は、同種の植物の無名の一株一株ではなくなって、木賊の本質、杜若の本質ともいうべきものの、簡潔きわまる直叙的なあらわれになった。
 しかし彼の手の動きには残酷なものがあった。植物に対して、彼は不快な暗い特権を持っているように振舞った。それかあらぬか鋏の音がして茎が切られるたびに、私は血のしたたりを見るような気がしたのである。
 観水活けの盛花は出来上った。水盤の右端に、木賊の直線と杜若の葉のいさぎよい曲線がまじわり、花のひとつは花咲き、他の二つはほぐれかけた蕾であった。それが小さな床の間にほとんど一杯に置かれると、水盤の水の投影は静まり、剣山を隠した玉砂利は、いかにも明澄な水ぎわの風《ふ》情《ぜい》を示した。
「見事なもんだな。どこで習ったの」
 と私が訊《き》いた。
「近所の生花の女師匠だよ。もうじき、彼女はここへやって来るだろう。附合いながら、俺は生花を習っていて、こんな風に一人で活けられるようになったら、俺はもう飽きが来たんだ。まだ若いきれいな師匠だよ。何でも、戦争中、軍人と出来ていて、子供は死産だったし、軍人は戦死するし、その後は男道楽がやまないのだ。小《こ》金《がね》をもってる女で、生花は道楽に教えているらしい。何だったら、今夜、君がどこかへ連れて行ってもいいよ。どこへでも彼女は行くだろう」

 ……このとき私を襲った感動は錯乱していた。南禅寺の山門の上からその人を見たとき、私のかたわらには鶴川がいたが、三年後の今日、その人は柏木の目を媒介として、私の前に現われる筈《はず》なのである。その人の悲劇はかつて明るい神秘の目で見られたが、今はまた、何も信じない暗い目で覗《のぞ》かれている。そして確実なことは、あの時の白い昼月のような遠い乳房には、すでに柏木の手が触れ、あの時華美な振袖《ふりそで》に包まれていた膝《ひざ》には、すでに柏木の内飜足が触れたということだ。確実なのはその人がすでに、柏木によって、つまり認識によって汚されているということだ。
 この思いはいたく私を悩まし、その場に居たたまれぬ気持にさせた。しかしなお好奇心が私を引き止めていた。有為子《ういこ》の生れかわりとさえ思われたその人が、今、不具者の学生に捨てられた女として、姿を現わすのは待ち遠しかった。いつか私は柏木に加担して、自分の思い出をわれとわが手で汚すかのような錯覚の喜びに涵《ひた》った。

 ……さて女がやって来ると、私の心には何も波立たなかった。今も私はありありと憶《おぼ》えている。その心もちかすれた声、その大そう行儀のよい起《たち》居《い》と行儀のよい言葉づかい、それにもかかわらず目に閃《ひら》めく荒々しい色、私を憚《はばか》りながら柏木にむかって言う喞《かこ》ち言《ごと》、……そのときはじめて、柏木が今夜私を呼んだ理由がわかったのだが、彼は私を防壁に使おうと思ったのである。
 女は私の幻影と何のつながりもなかった。それは全くはじめて見る別の個体の印象にとどまった。行儀のよい言葉づかいのまま次第に取乱して、女もまた、私のことなど見ていはしなかった。
 
 とうとう自分のみじめさに耐えられなくなった女は、柏木の心を飜《ひるが》えそうとする努力から、しばらく立《たち》退《の》いていようと思ったらしい。今度は突然落着きを装い、せまい下宿の一室を見まわした。床の間に大々《だいだい》と置かれた盛花に、女は三十分も居て、はじめて気づいたらしかった。
「結構なお観水どすな。ほんまによう活けてはる」
 この言葉を待っていた柏木は、止《とど》めを刺した。
「巧《うま》いでしょう。このとおり、もう、あんたに教わることは何もないんだよ。もう用はないんだよ、本当に」
 私は柏木のこの切口上で、女が顔色を変えたのを見て目を外《そ》らした。女はやや笑ったようだったが、そのまま行儀よく膝行《しっこう》して床の間に近づいた。私は女の声をきいた。
「何や、こんな花! 何やね、こんなん!」
 そして水が飛び散り、木賊《とくさ》が倒れ、花ひらいた杜若《かきつばた》は引き裂かれ、私が盗みを犯して採《と》った花々は、狼藉《ろうぜき》たるさまになった。私は思わず立上ったが、なすすべを知らずに、窓硝《まどガラ》子《ス》に背を押しあてていた。柏木が女の細い手首をつかむのが見えた。それから、女の髪をつかみ、平手打ちを頬《ほお》にくれるのが見えた。そういう柏木の荒々しい一聯《いちれん》の動作は、実に先程、活け花をしていて葉や茎を鋏で切っているときの、静かな残忍さと寸分ちがわず、そのままの延長のように思われた。
 女は両手で顔を覆《おお》うて、部屋を駈《か》けて出た。
 柏木はというと、立ちすくんだままの私の顔を見上げて、異様に子供っぽい微笑をうかべて、こう言った。
「さあ、追っかけて行くんだ。慰めてやるんだ。さあ、早く」
 その柏木の言葉の威力に押されたのか、それとも本心から女に同情したのか、そこのところは我ながら曖昧《あいまい》だったが、ともかく私の足はすぐ動きだして女を追った。下宿から二三軒さきで追いついた。
 そこは烏丸《からすま》車庫裏の板倉町の一劃《いっかく》であった。曇った夜空を車庫へ入る電車の反響がとよもし、スパークのうす紫の光りが隈《くま》取《ど》った。女は板倉町から東へ抜け、裏道づたいに上った。泣きながら歩いている女に、私は黙って雁行《がんこう》したが、やがて気づいて、私に寄り添うてきた。そして涙のために尚更《なおさら》かすれた声で、しかも行儀のよすぎる言葉づかいは崩さずに、永々と柏木の非行を愬《うった》えた。
 私たちはどれだけ歩いたことだろう!
 私の耳もとで縷々《るる》と述べ立てられている柏木の非行、その悪どい卑劣な細目、それらはすべてただ「人生」という言葉を私の耳にひびかすだけだった。彼の残忍性、計画的な遣《やり》口《くち》、裏切り、冷酷、女から金をせびりとるさまざまな手、それらはただ彼の言いがたい魅力を解説しているにすぎなかった。そして私は彼の内飜足《ないほんそく》に対する彼自身の誠実さを信じていればよかったのである。
 鶴川の急死このかた、生そのものに触れずにいた私は久々で、別個の、もっと薄命でない暗い生、その代り生きつつある限り他人を傷つけてやまない生の動きに触れて鼓舞された。彼の「殺し方が足らんさ」という簡潔な言葉は、よみがえって私の耳を搏《う》った。そして私の心に思い起されるのは、終戦のとき不動山頂で京都市街のおびただしい灯にむかって、こめた祈願のあらまし、あの「私の心の暗黒が、無数の灯を包む夜の暗黒と等しくなりますように」という祈りの文句であった。
 女は自分の家へ向って行くのではなかった。話のために、人通りのすくない裏路《うらみち》ばかりを辿《たど》って、当てもなく歩いた。そこでようよう女の一人暮しの住居の前まで来たとき、そこがどのへんの町角なのか私にはわからなくなった。
 すでに十時半であったので、別れて寺へ帰ろうとしたが、女が強《し》いて引止めるままに上った。
 先に立って、女は明りをつけて、いきなりこう言った。
「あんた、人を呪《のろ》わはって、死んだらええと思いやしたこと、あるのん」
 言下に私は「ある」と答えた。おかしなことに、その時まで忘れていたのだが、私の恥の立会人であるあの下宿の娘の死を、明らかに私はねがっていたのだ。
「こわいこと。うちもやわ」
 女は崩折れて、畳の上に横坐《よこずわ》りに坐った。部屋の電燈は多分百ワットで、電力制限のころに珍らしい明るさであり、柏木の下宿の電燈に比べると、三倍の光度であった。女の体ははじめてあかあかと照らし出された。白博《しろはか》多《た》の名古屋帯が鮮明に白く、友禅の着物の藤《ふじ》棚霞《だながすみ》の紫が浮き上った。
 南禅寺の山門から天授庵《てんじゅあん》の客間までは、鳥でなければ飛べぬ距離があったが、数年の時をかけて私は徐々にその距離を近づき、今ようやくそこに達したような心地がした。あのときから微細に時を刻んで、私は天授庵の神秘な情景の意味するものへ、確実に近づいて来たのだった。そうあらねばならぬ、と私は考えた。遠い星の光りが届くときには、すでにこの地上の相貌《そうぼう》が変っているように、女が変質してしまっていることは余儀なかった。そして南禅寺の山門の上から見たとき、私と女とが、今日を予定して結ばれていたならば、そんな変貌などは、わずかの修正で旧に復し、再びあのときの私とあのときの女とが相見ることができると考えられた。
 そこで私は語った。息せき切って、吃《ども》りながら語った。あのときの若葉が蘇《よみがえ》り、五《ご》鳳楼《ほうろう》の天井画《てんじょうが》の天人や鳳凰《ほうおう》が蘇った。女の頬にはいきいきと血の気がさし、その目には荒々しい光りの代りに、定めない乱れた光りが宿った。
「そうやったの。いやァ、そうやったの。何ていう奇縁どっしゃろ。奇縁てこんなことやわ」
 今度は女の目は昂《たか》ぶった喜びの涙に充《み》ちた。今しがたの屈辱を忘れて、思い出の中へ逆様《さかさま》に身を投げ、同じままの昂奮《こうふん》のつづきを別の昂奮に移し変えて、ほとんど狂気のようになった。藤棚霞の裾《すそ》は乱れていた。
「もうお乳も出えへんわ。ああ、可哀想なやや子! お乳は出えへんけど、あんたに、あの通りにして見せたげる。あのときから、うちを好いててくれはったんやもん、今、うち、あんたをあの人と思いますわ。あの人と思うたら、恥かしいことあらへん。ほんまにあの通りにして見せたげる」
 決断を下す口調で言ってから女のしたことは、狂喜のあまりとも見え、また、絶望のあまりとも見えた。おそらく意識の上には狂喜だけがあって、その烈《はげ》しい行為を促した本当の力は、柏木の与えた絶望、もしくは絶望の粘り強い後味だったと思われる。
 かくて私は、目の前で帯揚げが解かれ、多くの紐《ひも》が解かれ、帯が絹の叫びをあげて解かれるのを見た。女の衿《えり》は崩れた。白い胸がほのみえるところから、女の手は左の乳房を掻《か》き出して、私の前に示した。

 私に或る種の眩暈《めまい》がなかったと云っては嘘《うそ》になろう。私は見ていた。詳《つぶ》さに見た。しかし私は証人となるに止まった。あの山門の楼上から、遠い神秘な白い一点に見えたものは、このような一定の質量を持った肉ではなかった。あの印象があまりに永く醗酵《はっこう》したために、目前の乳房は、肉そのものであり、一個の物質にしかすぎなくなった。しかもそれは何事かを愬《うった》えかけ、誘いかける肉ではなかった。存在の味気ない証拠であり、生の全体から切り離されて、ただそこに露呈されてあるものであった。
 まだ私は嘘をつこうとしている。そうだ。眩暈に見舞われたことはたしかだった。だが私の目はあまりにも詳さに見、乳房が女の乳房であることを通りすぎて、次第に無意味な断片に変貌するまでの、逐一を見てしまった。
 ……ふしぎはそれからである。何故ならこうしたいたましい経過の果てに、ようやくそれが私の目に美しく見えだしたのである。美の不毛の不感の性質がそれに賦与《ふよ》されて、乳房は私の目の前にありながら、徐々にそれ自体の原理の裡《うち》にとじこもった。薔薇《ばら》が薔薇の原理にとじこもるように。
 私には美は遅く来る。人よりも遅く、人が美と官能とを同時に見出すところよりも、はるかに後から来る。みるみる乳房は全体との聯関《れんかん》を取戻し、……肉を乗り超え、……不感のしかし不朽の物質になり、永遠につながるものになった。
 私の言おうとしていることを察してもらいたい。又そこに金閣が出現した。というよりは、乳房が金閣に変貌したのである。
 私は初秋の宿直《とのい》の、台風の夜を思い出した。たとえ月に照らされていても、夜の金閣の内部には、あの蔀《しとみ》の内側、板唐《いたから》戸《ど》の内側、剥《は》げた金箔《きんぱく》捺《お》しの天井の下には、重い豪奢《ごうしゃ》な闇《やみ》が澱《よど》んでいた。それは当然だった。何故なら金閣そのものが、丹念に構築され造型された虚無に他ならなかったから。そのように、目前の乳房も、おもては明るく肉の耀《かがや》きを放ってこそおれ、内部はおなじ闇でつまっていた。その実質は、おなじ重い豪奢な闇なのであった。
 私は決して認識に酔うていたのではない。認識はむしろ踏み躙《にじ》られ、侮《ぶ》蔑《べつ》されていた。生や欲望は無論のこと!……しかし深い恍惚《こうこつ》感《かん》は私を去らず、しばらく痺《しび》れたように、私はその露《あら》わな乳房と対坐していた。
 …………………………。
 こうして又しても私は、乳房を懐《ふとこ》ろへ蔵《しま》う女の、冷め果てた蔑《さげす》みの眼差《まなざし》に会った。私は暇《いとま》を乞《こ》うた。玄関まで送って来た女は、私のうしろに音高くその格《こう》子戸《しど》を閉めた。

 ――寺へかえるまで、なお私は恍惚の裡にあった。心には乳房と金閣とが、かわるがわる去来した。無力な幸福感が私を充たしていた。
 しかし風にさわぐ黒い松林のかなた、鹿苑《ろくおん》寺《じ》の総門が見えて来たとき、私の心は徐々に冷え、無力は立ちまさり、酔い心地は嫌悪に変り、何ものへとも知れぬ憎しみがつのった。
「又もや私は人生から隔てられた!」と独言した。「又してもだ。金閣はどうして私を護《まも》ろうとする? 頼みもしないのに、どうして私を人生から隔てようとする? なるほど金閣は、私を堕地獄から救っているのかもしれない。そうすることによって金閣は私を、地獄に堕《お》ちた人間よりもっと悪い者、『誰よりも地獄の消息に通じた男』にしてくれたのだ」
 総門は黒く静まっていた。朝鳴鐘のときに消燈される耳門《くぐり》のあかりが仄《ほの》かにともっていた。私は耳門の戸を押した。内側で、錘《おも》りを吊《つ》り上げる古い錆《さ》びた鉄鎖の音がして、その戸はあいた。
 門番はすでに寐《やす》んでいた。耳門の内側には、午後十時以後は、最後の帰山者が戸締りをする旨《むね》の内規が貼《は》られ、まだ表へ返されていない名札が二枚あった。一枚は老師の名札であり、一枚は年老いた庭男の札であった。
 歩くほどに、右側の作事場《さじば》に横たえられている五米《メートル》にあまる数本の材木が、夜目にも明るい木の色を見せていた。近づくと、こまかい黄いろい花が散り敷いたように、大鋸《おが》屑《くず》が落ちちらばり、闇のなかにあでやかな木の香が漂《ただよ》っていた。作事場の外れの車井戸のわきから、庫裡《くり》へ行こうとして、私は立戻った。
 床へ入る前に、今一度金閣に会わねばならぬ。眠りに静まっている鹿苑寺本堂をあとに、唐門《からもん》の前をとおって、私は金閣への道を辿《たど》った。
 金閣が見えはじめた。木立のざわめきに囲まれて、それは夜のなかで、身じろぎもせず、しかし決して眠らずに立っていた。夜そのものの護衛のように。……そうだ、私は寝静まった寺のように金閣が眠っているのを見たことがない。人の住まぬこの建築は、眠りを忘れることができた。そこに住んでいる闇は人間的法則を完全に免《まぬ》かれていたのである。
 ほとんど呪《じゅ》詛《そ》に近い調子で、私は金閣にむかって、生れてはじめて次のように荒々しく呼びかけた。
「いつかきっとお前を支配してやる。二度と私の邪魔をしに来ないように、いつかは必ずお前をわがものにしてやるぞ」
 声はうつろに深夜の鏡湖池に谺《こだま》した。



第七章

 総じて私の体験には一種の暗合がはたらき、鏡の廊下のように一つの影像は無限の奥までつづいて、新たに会う事物にも過去に見た事物の影がはっきりと射《さ》し、こうした相似にみちびかれてしらずしらず廊下の奥、底知れぬ奥の間《ま》へ、踏み込んで行くような心《ここ》地《ち》がしていた。運命というものに、われわれは突如としてぶつかるのではない。のちに死刑になるべき男は、日《ひ》頃《ごろ》ゆく道筋の電柱や踏切にも、たえず刑架の幻をえがいて、その幻に親しんでいる筈《はず》だ。
 従って又私の体験には、積み重ねというものがなかった。積み重ねて地層をなし、山の形を作るような厚みがなかった。金閣を除いて、あらゆる事物に親しみを持たない私は、自分の体験に対しても格別の親しみを抱いていなかった。ただそれらの体験のうちから、暗い時間の海に呑《の》み込まれてしまわぬ部分、無意味のはてしれぬ繰り返しに陥没してしまわぬ部分、そういう小部分の連鎖から成る或る忌《いまわ》わしい不吉な絵が、形づくられつつあるのがわかった。
 するとその一つ一つの小部分とは何だろう。時折私はそれを考えた。しかしそれらの光っているばらばらな断片は、道ばたに光るビール罎《びん》の破片よりも、もっと意味を欠き、法則性を欠いていたのである。
 と云って、これら断片を、過去に嘗《かっ》て形づくられていた美しい完全な形姿の、落ち崩れた破片だと考えることはできなかった。それらは無意味のうちに、法則性の完全な欠如のもとに、世にもぶざまな姿で打ち捨てられながら、おのがじし未来を夢みているように見えたからだ。破片の分際で、おそれげもなく、無気味に、沈静に、……未来を! 決して快《かい》癒《ゆ》や恢復《かいふく》ではないところの、手つかずの、まさに前代《ぜんだい》未《み》聞《もん》の未来を!
 こんな不明瞭《ふめいりょう》な省察が、この私にも、われながら似合わないと思う一種の抒情《じょじょう》的昂奮《こうふん》を与えてくれることがあった。そういう時には、折よく月の夜であったりすると、尺八を携えて、金閣のほとりへ行って吹いた。今ではかつて柏木《かしわぎ》の奏《かな》でた「御《ご》所車《しょぐるま》」の曲も、譜面を見ずに吹けるようになっていた。
 音楽は夢に似ている。と同時に、夢とは反対のもの、一段とたしかな覚醒《かくせい》の状態にも似ている。音楽はそのどちらだろうか、と私は考えた。とまれ音楽は、この二つの反対のものを、時には逆転させるような力を備えていた。そして自ら奏でる「御所車」の曲の調べに、時たま私はやすやすと化身した。私の精神は音楽に化身するたのしみを知った。柏木とちがって、音楽は私にとって確実に慰《い》藉《しゃ》だったのだ。
 ……尺八を吹き終って、いつも私は思ったが、金閣はどうしてこのような私の化身を、咎《とが》めたり邪魔したりしないで、黙過してくれるのだろうか? 他方、人生の幸福や快楽に私が化身しようとするとき、金閣は一度でも見のがしてくれたことがあったか? 忽《たちま》ち私の化身を遮《さえぎ》り、私を私自身に立ちかえらすのが、金閣の流儀ではなかったか? なぜ音楽に限って、金閣は私の酩酊《めいてい》と忘我を許すのか?
 ……こう思うと、金閣がゆるしているというそのことだけで、音楽の魅力は薄れた。なぜなら、金閣が黙認している以上、音楽はいかに生に似通って見えても贋物《にせもの》の架空の生でしかなく、たとえそれに私が化身しようと、その化身はかりそめのものでしかなかったからである。

 私が女と人生への二度の挫《ざ》折《せつ》以来、諦《あき》らめて引込思案になってしまったなどと思わないでもらいたい。昭和二十三年の年の暮まで、幾度かそのような機会があり、柏木の手引きもあって、私はひるまずに事に当った。しかしいつも結果は同じであった。
 女と私との間、人生と私との間に金閣が立ちあらわれる。すると私の掴《つか》もうとして手をふれるものは忽ち灰になり、展望は沙《さ》漠《ばく》と化してしまうのであった。
 あるとき私は、庫裡《くり》の裏の畑で作務《さむ》にたずさわっていた手すきに、小輪の黄いろい夏菊の花を、蜂《はち》がおとなうさまを見ていたことがある。光りの遍満のうちを金いろの羽を鳴らして飛んできた蜜蜂《みつばち》は、数多い夏菊の花から一つを選んで、その前でしばらくたゆとうた。
 私は蜂の目になって見ようとした。菊は一点の瑕《か》瑾《きん》もない黄いろい端正な花弁をひろげていた。それは正に小さな金閣のように美しく、金閣のように完全だったが、決して金閣に変貌《へんぼう》することはなく、夏菊の花の一輪にとどまっていた。そうだ、それは確《かっ》乎《こ》たる菊、一個の花、何ら形而上《けいじじょう》的なものの暗示を含まぬ一つの形態にとどまっていた。それはこのように存在の節度を保つことにより、溢《あふ》れるばかりの魅惑を放ち、蜜蜂の欲望にふさわしいものになっていた。形のない、飛翔《ひしょう》し、流れ、力動する欲望の前に、こうして対象としての形態に身をひそめて息づいていることは、何という神秘だろう! 形態は徐々に稀薄になり、破られそうになり、おののき顫《ふる》えている。それもその筈、菊の端正な形態は、蜜蜂の欲望をなぞって作られたものであり、その美しさ自体が、予感に向って花ひらいたものなのだから、今こそは、生の中で形態の意味がかがやく瞬間なのだ。形こそは、形のない流動する生の鋳《い》型《がた》であり、同時に、形のない生の飛翔は、この世のあらゆる形態の鋳型なのだ。……蜜蜂はかくて花の奥深く突き進み、花粉にまみれ、酩酊に身を沈めた。蜜蜂を迎え入れた夏菊の花が、それ自身、黄いろい豪《ごう》奢《しゃ》な鎧《よろい》を着けた蜂のようになって、今にも茎を離れて飛び翔《た》とうとするかのように、はげしく身をゆすぶるのを私は見た。
 私はほとんど光りと、光りの下に行われているこの営みとに眩暈《めまい》を感じた。ふとして、又、蜂の目を離れて私の目に還《かえ》ったとき、これを眺めている私の目が、丁度金閣の目の位置にあるのを思った。それはこうである。私が蜂の目であることをやめて私の目に還ったように、生が私に迫ってくる刹《せつ》那《な》、私は私の目であることをやめて、金閣の目をわがものにしてしまう。そのとき正に、私と生との間に金閣が現われるのだ、と。
 ……私は私の目に還った。蜂と夏菊とは茫《ぼう》漠《ばく》たる物の世界に、ただいわば「配列されている」にとどまった。蜜蜂の飛翔や花の揺動は、風のそよぎと何ら変りがなかった。この静止した凍った世界ではすべてが同格であり、あれほど魅惑を放っていた形態は死に絶えた。菊はその形態によってではなく、われわれが漠然《ばくぜん》と呼んでいる「菊」という名によって、約束によって美しいにすぎなかった。私は蜂ではなかったから菊に誘《いざな》われもせず、私は菊ではなかったから蜂に慕われもしなかった。あらゆる形態と生の流動との、あのような親和は消えた。世界は相対性の中へ打ち捨てられ、時間だけが動いていたのである。
 永遠の、絶対的な金閣が出現し、私の目がその金閣の目に成り変るとき、世界はこのように変貌することを、そしてその変貌した世界では、金閣だけが形態を保持し、美を占有し、その余のものを砂《さ》塵《じん》に帰してしまうことを、これ以上冗《くど》くは言うまい。例の娼婦《しょうふ》を金閣の庭に踏んで以来、又鶴川《つるかわ》の急死このかた、私の心は次の問をくりかえした。『それにしても、悪は可能であろうか?』



 昭和二十四年の正月のことである。
 土曜の除策(それは警策を除く意味で、こう云うのである)を幸い、三番館ぐらいの安い映画館で映画を見てのかえるさ、私は久々に新京極《しんきょうごく》をひとりで歩いた。その雑沓《ざっとう》の中で、よく見知った顔に行き当ったが、それが誰だか思い出されぬうちに、顔は人波に押し流されて私の背後に紛れてしまった。
 その人はソフトをかぶり、上等な外套《がいとう》とマフラーを身につけて、明らかに芸《げい》妓《ぎ》とわかる銹朱《さびしゅ》いろのコートの女と連れ立って歩いていた。桃いろのふくよかな男の顔、普通の中年紳士にはたえて見られぬ異様な赤ん坊のような清潔感、長めの鼻、……他ならぬ老師その人の顔の特徴を、ソフトが殺しているのだ。
 私の側には何も疚《やま》しいことはなかったのに、むしろ私は、私が見られたのを惧《おそ》れていた。何故なら老師の微行《おしのび》の目撃者になり、証人になり、老師と無言のうちに信頼や不信の関《かか》わり合いを結ぶことを、咄《とっ》嗟《さ》の間に避けたい気持が起ったからだ。
 そのとき一疋《いっぴき》の黒い犬が、正月の夜の雑沓にまぎれて歩いていた。この黒い尨犬《むくいぬ》は、こうした人ごみを行き馴《な》れているとみえ、華美な女のコートの間に軍隊外套もまじる行人の足もとを、巧みにすり抜けてあちこちの店先に立ち寄った。犬は聖護院《しょうごいん》八ツ橋の昔にかわらぬ土産《みやげ》物《もの》の店の前で匂《にお》いを嗅《か》いだ。店のあかりのために犬の顔がはじめて見えたが、片目が潰《つい》え、潰えた目《め》尻《じり》に固まった目《め》脂《やに》と血が瑪《め》瑙《のう》のようである。無事なほうの目は直下の地面を見ている。尨毛の背のところどころが引きつって、それらの硬《こわ》ばった毛の束が際《きわ》立《だ》っている。
 何故犬が私の関心を惹《ひ》いたのか知らない。多分この明るい繁華な町並とはまるで別の世界を、犬が頑《かたく》なに裡《うち》に抱いて、さまよっているのに惹かれたのかもしれない。嗅覚《きゅうかく》だけの暗い世界を犬は歩いており、それは人間どもの町と二重になって、むしろ燈火やレコードの唄声《うたごえ》や笑い声は、執拗《しつよう》な暗い匂いのために脅《おび》やかされていた。なぜなら匂いの秩序はもっと確実であり、犬の湿った足もとにまつわる尿の匂いは、人間どもの内臓や器官の放つ微《かす》かな悪臭と、確実に繋《つな》がっていたからだ。
 大そう寒かった。闇《やみ》屋《や》風《ふう》の若者たちが二三人、松の内を過ぎてまだ取り払われずにいる門松《かどまつ》の葉をむしって通った。かれらは新らしい革手袋の掌《てのひら》をひろげて競《きそ》い合った。一人の掌にはわずか数本の松葉が、一人の掌には小さな一枝がまるごと残っていた。闇屋たちは笑いながら行きすぎた。
 さて、私はいつのまにか犬に導かれていた。犬は見失われるかと思うと又現われた。河原町通へ抜ける道を曲った。私はこうして新京極よりもいくらか暗い電車通りの歩道へ出た。犬の姿は消えた。立止った私はと《?》見こう《??》見した。車道のきわまで出て、犬のゆくえを目でたずねていた。
 そのときつやつやした車体のハイヤーが目の前にとまった。ドアがあけられ、女が先に乗り込んだ。私は思わずそのほうを見た。女につづいて乗ろうとした男は、ふと私のほうに注意して、そこに立ちすくんだ。
 それは老師であった。どうして先刻私とすれちがった老師が、女と共に一巡して、又私にめぐり会う羽目になったのかわからない。ともかくそれは老師であり、先に車へ乗った女のコートの銹朱いろも、先程見た色の記憶が残っていた。
 今度は私も避けるわけに行かなくなった。しかし動顛《どうてん》して、口から言葉が出ない。声を発しないうちから、吃音《きつおん》が口の中で煮立っている。とうとう私は自分でも思いがけない表情をした。というのは、何らその場との繋がりなしに、老師に向って笑いかけたのである。
 こんな笑いを説き明かすことはできない。笑いは外部から来て、突然私の口もとに貼《は》りついたかのようだった。だが、私の笑いを見た老師は顔色を変えた。
「馬鹿《ばか》者《もん》! わしを追跡《つ》ける気か」
 そう叱《しっ》咤《た》して、忽ち老師は私を尻目に車へ乗り、ドアは音高く閉められ、ハイヤーは走り去った。先程新京極で会った折も老師はたしかに私に気づいていたということが、そのとき突然はっきりした。

 明る日、私はむしろ老師が叱責のために私を呼び出してくれるのを待った。それが釈明の機会にもなる筈だった。が、娼婦を踏んだあの事件のとき同様、明る日から、老師の無言の放任による拷問《ごうもん》がはじまった。
 折も折、母から又便りがあった。私が鹿苑《ろくおん》寺《じ》の主《あるじ》になる日をたのしみに生きるという結語は同じであった。
「馬鹿者! わしをつける気か」と一喝《いっかつ》した老師の言葉は、思い返せば返すほど不似合なものではあった。もっと諧謔《かいぎゃく》に富み豪放磊落《らいらく》な禅僧らしい禅僧であったら、こんな俗悪な叱咤を徒弟に浴びせはしなかったろう。その代りにもっと効《きき》目《め》のある寸鉄人を刺すような一語を吐《は》いたであろう。取り返しのつかぬことであるが、これから見てもあのとき老師が私を誤解して、ことさら老師をつけて来た末、尻《しっ》尾《ぽ》をつかんだという表情で嘲笑《あざわら》ったものだと信じて、半ば狼狽《ろうばい》しながら、思わずはしたない怒りを見せたのに相違なかった。
 それはともあれ、老師の無言は又しても私の日々にのしかかる不安になった。老師の存在が大きな力になり、目の前をうるさく飛びまつわる蛾《が》の影のようになった。法要へ招かれるとき老師は一人乃《ない》至《し》二人の侍僧を伴うのが例だが、もとは副《ふう》司《す》さんが必ずそのお供をつとめたのに、このごろでは所謂《いわゆる》民主化から、副司さん、殿《でん》司《す》さん、私ともう二人の徒弟との五人の間の廻り持ちになっていた。いまだにそのやかましさが噂《うわさ》に残っている寮頭は、兵隊にとられたまま戦死したので、寮頭の役目は四十五歳の副司さんが兼ねた。鶴川《つるかわ》の死と共に、徒弟は一人補充された。
 折しも同じ相国寺《しょうこくじ》派に属する由緒《ゆいしょ》のある寺の住持が亡《な》くなり、新命の住持の入院《じゅえん》の儀式に、老師が招かれていたが、そのお供が私の番に当っていた。老師はことさら私のお供をしりぞけることはしなかったので、この往復に何か釈明の機会が得られるだろうと私は心待ちにした。しかし前夜になって、お供としてもう一人の新入りの徒弟が追加され、私のその日にかけた望みはすでに半ば徒《あだ》になった。
 五山文学に親しんだ人は、康安《こうあん》元年石室善《せきしつぜん》玖《きゅう》が京都万寿寺に入院《じゅえん》したときの入院法語を記憶しているにちがいない。新命住持が任寺に到着し、山門から仏殿、土地《つち》堂《どう》、祖師堂、そして最後に方丈へと進む道行《みちゆき》に、一々述べた美しい法語が残っている。
 山門を指して住持は新命のよろこびに心躍りながら、
「天域九重《きゅうちょう》の内、帝城万寿の門。空手にして関鍵《かんけん》を抜き、赤脚にして崑崙《こんろん》に上る」
 と誇らしげに言うのである。
 焼香がはじまり、嗣《し》法《ほう》師《し》への報恩の香である嗣法香が行われた。むかし禅宗が慣例にとらわれず、個人の省悟の系譜を何よりも重んじた時代には、師が弟子《でし》を決めるのではなく、むしろ弟子が師を選んだのである。弟子は最初に業を受けた師のみならず、諸方の師から印可を受けるが、その中で心から法を嗣《つ》ぐべき師の名を、嗣法香の折の法語で公《おおや》けにするのであった。
 この晴れの焼香の儀式を見ながら、もし私が鹿苑寺を嗣いで、このような嗣香にたずさわるとき、慣例どおり老師の名を告げるだろうかと思い迷った。七百年の慣例をやぶって、私は別の名を告げるかもしれなかった。早春の午後の方丈の冷ややかさ、立ちこめる五種香のかおり、三《みつ》具《ぐ》足《そく》の奥にきらめく瓔珞《ようらく》や本尊の背をかこむきらびやかな光背のさま、居並ぶ僧たちの袈裟《けさ》の色彩、……もしいつの日か私がそこで嗣法の香を焚《た》けば、と私は夢想した。新命の住持の姿にわが姿を思い描いた。
 ……そのときこそ、私は早春の凜烈《りんれつ》な大気に鼓舞されて、世にも晴れやかな裏切りでこの慣習を踏みにじるだろう。座に列《つら》なる僧は、おどろきのあまり口もきけず、怒りのために蒼《あお》ざめるだろう。私は老師の名を口にしようとしない。私は別の名を言う。……別の名を? しかし私の本当の省悟の師は誰だろう。本当の嗣法の師は誰だろう。私は口ごもる。その別の名は、吃音に阻《はば》まれて容易に出ない。私は吃《ども》るだろう。吃りながら、その別の名を、「美」と言いかけたり、「虚無」と言いかけたりするだろう。すると満座の笑いが起り、笑いの中に、私はぶざまに立ちすくむだろう。……
 ――急に夢想はさめた。老師のするべき事があって、私の侍僧としての助けが要った。こうした席に列なる侍僧にとっては本来誇らしいことなのだが、鹿苑寺住職は当日の来賓の上首であった。上首は嗣香がおわると白槌《びゃくつい》という槌《つち》を打って、新命の住持が贋《がん》浮図《ふと》すなわち贋《にせ》坊主ではないことを証明するのである。
 老師は称《とな》えた。
「法筵竜象衆《ほうえんりゅうしょうしゅう》
 当観《とうかん》第一義」と。
 そして音高く白槌を打った。方丈にひびきわたるその槌音が、私に又もや、老師の持っている権力のあらたかさを思い知らせた。

 私はいつまでつづくか知れぬ老師の無言の放任に耐えなかった。私に何らかの人間的な感情があれば、それに対応する感情を相手から期待していけないという法はない。愛であれ憎しみであれ。
 折ある毎に老師の顔色を伺うのが、私の情ない習慣になったが、そこには特別の感情は何一つ浮んで来なかった。その無表情は冷やかさですらなかった。もしその無表情が侮《ぶ》蔑《べつ》を意味しているとしても、この侮蔑は私個人に向けられたものではなく、もっと普遍的なもの、たとえば人間性一般とかさまざまな抽象概念とかに向けられたものと同じであった。
 私はそのころから、強《し》いて老師の動物的な頭の恰好《かっこう》や、肉体的なみっともなさを思い浮べることにしていた。彼の排便の姿を想像し、更には、あの銹朱《さびしゅ》のコートの女と寝ている姿態を想像した。彼の無表情がほどけ、快感にだらけた顔が笑いとも苦痛ともつかぬ表情をうかべるところを空想したのである。
 つやつやした柔らかい肉が、同じようにつやつやして柔らかい女の肉と融《と》け合って、ほとんど見わけのつかなくなる有様。老師の腹のふくらみが、女のふくらんだ腹と押し合う有様。……しかしふしぎなことに、どんなに想像を逞《たく》ましくしても、老師の無表情はただちに排便や性交の動物的な表情につながってゆき、その間を埋めるものがなかった。日常のこまかい感情の色合が虹《にじ》のようにその間をつなぐのではなくて、一つは一つに、極端から極端へと変貌《へんぼう》した。わずかにその間をつなぐもの、わずかに手がかりを与えてくれるものと云っては、あの一瞬の可《か》成卑《なりいや》しい叱咤、「馬鹿者! わしをつける気か」があるばかりであった。
 思いあぐね、待ちあぐねた末、私はただ一つ老師の憎悪の顔をはっきりつかみたいという、抜きがたい欲求の虜《とりこ》になった。その結果思いついた次のような術策は、気違いじみてもおり、子供っぽくもあり、第一明らかに私に不利をもたらすものであったが、私はもう自分を制することができなかった。そんな悪《いた》戯《ずら》が、老師の誤解を進んで裏書することになるという不利をさえ、かえりみなかったのである。
 学校へ行って、柏木に店の場所と名をきいた。柏木は理由もたずねずに教えてくれた。その日早速《さっそく》その店へゆき、祇《ぎ》園《おん》の名《めい》妓《ぎ》の葉書大の写真の数々を私は見た。
 人工的な化粧の女たちの顔は、はじめは等しなみに見えたけれど、やがてその中から微妙な性格の濃淡がうかんで来、白粉《おしろい》と臙脂《べに》の同じ仮面を透かして、暗さや明るさや、すばしこい知恵や美しい愚かさや、不機嫌やとめどのない陽気さや、不幸や仕合せや、それら多様な色調が躍如として来た。ようやく私は求める一枚に行き当った。その写真は、店の明るすぎる電燈のおかげで、光沢紙のおもてに反射を閃《ひら》めかせ、危うく見のがされそうになったのだが、私の手の中で反射が納まると、銹朱のコートの女の顔がそこに現われた。
「これを下さい」
 と店の人に私は言った。

 私がどうしてそれほど大胆になれたかという不思議は、その目《もく》論見《ろみ》に手をつけてから私が打って変って陽気になり、説明のつかない喜びに心の勇んだ不思議と、丁度《ちょうど》相応じている。まず考えたのは老師の留守を狙《ねら》って、誰の仕業ともわからぬようにする方法だったが、そのうちに昂揚《こうよう》した気分は私を駆って、はっきり私の仕業とわかる危険な方法を選ばせるまでになった。
 今も朝刊を老師の部屋へ届けるのは私の役目であった。三月のまだ肌寒い朝、常のように玄関へ新聞をとりに行った。懐《ふとこ》ろから祇園の女の写真をとり出して、新聞の一つに挟《はさ》んだとき、私の胸は高鳴った。
 前庭の車廻しの中央に、円い生垣《いけがき》に囲まれた蘇《そ》鉄《てつ》が旭《あさひ》を浴びている。その荒々しい幹の肌は、旭のために鮮明に隈《くま》取《ど》られている。左のほうに小さな菩《ぼ》提樹《だいじゅ》がある。帰り遅れた四五羽の鶸《ひわ》がこの枝にまつわって、数《じゅ》珠《ず》を揉《も》み鳴らすようなひそかな鳴《なき》音《ね》を立てていた。まだ鶸がいるのに私は意外な感じがしたが、旭のさし入る枝づたいに、ごくささやかな黄いろい胸毛の移るのはたしかに鶸だった。前庭の白い砂利は静まっている。
 私は粗雑な拭掃《ふきそう》除《じ》のあとの、ところどころ濡《ぬ》れた廊下を、足を濡らさぬように注意して歩いた。大書院の老師の部屋は、障子をひたと閉ざしている。その障子の白がまだ鮮やかに見えるほど朝が早い。
 廊下にひざまずいて常のようにこう言った。
「おねがいいたします」
 老師の応《こた》えがあった。障子を披《ひら》いて入って、机の一角に、かるく折り畳んだ新聞を置いた。老師はうつむいて何か本を読んでいた。私の目を見なかった。……私は退いて、障子を締め、強いて落着いて、自室のほうへゆっくりと廊下を歩いた。

 自室に坐《すわ》って、学校へゆくまでのその間、鼓動のいよいよ高まるのに任せながら、私はこうまで希望を以《もっ》て何事かを待ったことはない。老師の憎しみを期待してやった仕業であるのに、私の心は人間と人間とが理解し合う劇的な熱情に溢《あふ》れた場面をさえ夢みていた。
 老師は突然私の部屋へ来て、私をゆるすかもしれなかった。ゆるされた私は、生れてはじめて、鶴川の日常がそうであったような、あの無垢《むく》の明るい感情に到達するかもしれなかった。老師と私はおそらく抱き合い、お互いの理解の遅かったのを嘆くことだけが、あとに残されるに相違なかった。
 短かい間にもせよ、何故私がこんなたわけ《???》た《?》空想に熱中したか、説明することができない。冷静に考えれば、つまらぬ愚行のおかげで老師を怒らせ、後継住職の候補から私の名を抹殺《まっさつ》させ、ひいては金閣の主《あるじ》になる望みを永久に失うことになる糸口を自分でつけながら、私はそのとき金閣への永い執着をすら忘れていた。
 私はひたすら大書院の老師の居間のほうへ聴耳《ききみみ》を立てた。何の音もきこえて来なかった。
 今度は老師の荒々しい怒りを、雷のような大喝《だいかつ》を待った。殴《おう》打《だ》され、蹴《け》倒《たお》され、血を流す羽目になっても悔いないだろうと私は思った。
 しかし大書院のほうはひっそりして、何の物音も近づいて来なかった。……

 その朝いよいよ登校の時刻が来て鹿苑《ろくおん》寺《じ》を出たときの私の心は、疲れ果て、荒廃していた。学校へ行っても、講義はろくに耳に入らない。教師から質問をうけて、見当外れの返事をしたとき、皆が笑ったが、見ると柏木だけは無関心に窓の外を眺《なが》めていた。柏木は私の内心の劇に気づいているに相違なかった。
 寺へかえってからも、何の変化もなかった。寺の生活の暗い黴《かび》くさい永遠性は、今日と明日との間に、どんな差異も懸隔も生れぬように仕組まれていた。月に二度の教典講義の一日が今日に当っており、寺の者は悉《ことごと》く老師の居間に集まって講義をきくのであったが、私はおそらくその無門関の講義に託して、老師が皆の前で私を問責するのだろうと信じた。
 そう信じた理由はこうである。今夜の講義で老師と面と向って坐ることに、私は、甚《はなは》だ私に似合わぬことではあるが、一種の男性的な勇気ともいうべきものを自ら感じていた。そこで老師はこれに応《こた》えて男性的な美徳をあらわし、偽善を打ち破り、寺の一同の前でおのれの行状を告白して、その上で私の卑劣な行為を問責するだろうと思われたのである。
 ……暗い電燈の下に、無門関のテキストを手にして、寺の者は集まっていた。夜は寒かったが、老師のかたわらに小さな手《て》焙《あぶ》りがあるだけだった。洟《はな》をすする音がきこえた。うつむいている老若《ろうにゃく》の顔は影に隈取られ、いいしれぬ無気力なものがどの顔にも漂っていた。新入りの徒弟は、小学校の教師を昼間勤めている男で、彼の近眼鏡はいつも貧しい鼻梁《びりょう》を辷《すべ》りかかった。
 私だけが身内に力を感じていた。少くとも私にはそう思われた。テキストをひらいて老師は皆を見まわしたが、私の目は老師の目を追った。決して伏目になってはいないところを見せようとしたのである。しかし老師のふくよかな皺《しわ》に囲まれた目は、何の感興もあらわさずに、私を経て隣りの顔へ移って行った。
 講義がはじまった。どこで講義が私の問題に急転するかと、私はそれのみ待った。耳をそば立てた。老師の甲高《かんだか》い声がつづいていた。老師の内心の声は何一つきこえては来なかった。……

 その夜眠れぬままに私は老師を蔑《さげす》み、その偽善を嗤《わら》おうとしたが、次第に兆《きざ》してくる悔《かい》恨《こん》が、いつまでも私をこのような昂《たか》ぶった気持のままに置いてはくれなかった。老師の偽善に対する軽蔑《けいべつ》は、奇妙な具合に私の心弱りと結びつき、ついにはそんな取るに足らない相手と判ったからには、詫《わ》びを入れても私の負けにはならないと思いつく迄《まで》になった。一度昇りつめた急坂を、私の心は足早に駈《か》け下りつつあった。
 あしたの朝、謝まりに行こうと私は思った。朝になると、今日中に謝まりに行こうと思った。老師の表情には依然変化が見られなかった。
 風のさわがしい日であった。学校からかえって、何気なしに机の抽斗《ひきだし》をあけた私は、白い紙に包まれたものを見た。包んであったのは、例の写真である。包み紙には一字も書かれていなかった。
 老師はこんな方法で事件に結着をつけたつもりらしかった。はっきりと不問に附したわけではないが、私に行為の無効を思い知らせたつもりらしかった。しかし写真のこの奇妙な返し方は、俄《にわ》かに群《むら》がる想像を私に与えた。
『老師もやっぱり苦しんだにちがいない』と私は思った。『並々ならぬ思い煩《わずら》いの果てに、こんな手を考え出したのにちがいない。今や確かに彼は私を憎んでいる。多分写真そのものについて憎んでいるのではなく、こんな一葉の写真が老師をして、自分の寺の中で人目を忍ぶ思いをさせ、人のいない隙《すき》に忍び足で廊下を歩かせ、行ったこともない徒弟の部屋を訪れさせ、まるで犯罪を犯すように私の机の抽斗をあけさせたこと、まさにそんな卑《いや》しい恰好《かっこう》をせねばならなかったことで、老師は今十分に私を憎む理由を得たのだ』
 そう思いつくと私の胸には、突然、得体のしれない喜びが迸《ほとばし》った。それから私は愉《たの》しい作業に従事した。
 女の写真を鋏《はさみ》で細かく切り刻み、ノオトの丈夫な紙で二重に包んで、これを握りしめて金閣のほとりへ行ったのである。
 金閣は風のさわぐ月の夜空の下に、いつにかわらぬ暗鬱《あんうつ》な均衡を湛《たた》えて聳《そび》えていた。林立する細身の柱が月光をうけるときには、それが琴《こと》の絃《げん》のように見え、金閣が巨《おお》きな異様な楽器のように見えることがある。月の高低によってそう見えるのだが、今夜がまさにそうであった。しかし風は決して鳴らない琴の、絃の隙《ひま》をむなしく吹き過ぎた。
 私は足もとの小石をひろった。紙に小石を包み入れ、堅固に絞った。こうして細かく刻まれ錘差《おも》りをつけられた女の顔の断片を、鏡湖池の池心へ投げ入れた。のびやかにひろがる波紋は、水《み》際《ぎわ》の私の足もとへやがて届いた。



 その年の十一月の私の突然の出奔《しゅっぽん》は、すべてこれらのことが累積《るいせき》した結果であった。
 後から思うと、突然に見えるこの出奔にも永い熟慮とためらいの時期があったが、私はそれを出しぬけの衝動にかられてやった行為だと考えるほうを好む。何か私の内に根本的に衝動が欠けているので、私は衝動の模倣をとりわけ好む。たとえば、父親の墓参りに行こうとして、前の晩から計画を立てていた男が、当日になって家を出て、駅の前まで来たときに、突然思い返して呑《の》み友達の家へ行ってしまうというような場合、彼を純粋に衝動的な男だと云えようか? 彼のその突然の心変りは、それまでの永い墓参の準備よりももっと意識的な、自分の意志に対する復讐《ふくしゅう》の行為ではあるまいか?
 私の出奔の直接の動機は、その前日、老師がはじめて、決然たる口調で、
「お前をゆくゆくは後継にしようと心づもりしていたこともあったが、今ははっきりそういう気持がないことを言うて置く」
 と明言したその言葉に懸っていたが、宣告されたのはこれが最初とはいえ、私はずっと前からこの宣告を予感し、覚悟していた筈《はず》である。私は寝耳に水の宣告をうけたのではない。それに今更仰天し、狼狽《ろうばい》したわけではない。にもかかわらず、私は自分の出奔が、老師のこの言葉に触発され、衝動によって行われたと考えるほうを好む。
 写真の術策で老師の憎しみを確かめ得てから、目に見えて私は学業をおろそかにしはじめていた。予科一年の成績は、華語、歴史の八十四点を筆頭に、総点七百四十八点で、席次は八十四人中二十四番である。欠席は四百六十四時間中、十四時間を数えるにすぎない。予科二年の成績は総点数六百九十三点で、席次は七十七人中三十五番に落ちた。しかし私が暇つぶしの金もないのに、ただ講義に出ないという閑暇のたのしみのためにだけ学校を怠けだしたのは、三年になってからであり、この新学期は、あたかも写真の事件のすぐあとではじまったのである。
 第一学期がおわったとき、学校から注意があり、老師は私を叱責《しっせき》した。成績がわるく、欠席時間の多いことも叱責の理由であったが、一学期にわずか三日間が充《あ》てられている接心《せっしん》を怠ったことが、老師をいたく怒らせた。学校の接心は、夏休みと冬休みと春休みの前に各?《おのおの》三日ずつあり、諸事専門道場と同じ型式で行われるのであった。
 この叱責は老師が殊更《ことさら》私を自室に招いた稀《まれ》な機会だった。私はただうなだれて、無言でいた。ひそかに心待ちしていたことは一つであるのに、老師は写真の件にも、遡《さかのぼ》って娼婦《しょうふ》の強請《ゆすり》の件にも一言も触れなかった。
 しかしこのときから老師の態度は、私に対して目立ってよそよそしくなった。いわばそれは私の望んだ成行であり、私の見ようと希《ねが》っていた証跡であり、一種の私の勝利であったが、しかもこれを獲《え》るためには怠けるだけで足りたのである。
 三年の一学期間の私の欠席時間は、六十数時間に及んでいたが、これは一年の三学期をあわせた欠席時間のほぼ五倍である。それほどの時間を、本を読むでもなし、娯《たの》しみに費《つか》う金もなく、時たま柏木と話すほかには、私は一人で何もせずにいた。大谷大学の記憶が無為の記憶と頒《わか》ちがたくなったほど、黙りこくって、一人で何もせずにいた。こんな無為も私流の一種の接心であったのか、そうしているあいだ、私は片時も退屈を知らなかった。
 草に坐って、数時間も、こまかい赤土を運ぶ蟻《あり》の巣の営みを眺《なが》めていたこともある。蟻が私の興味を惹《ひ》いたのではない。学校の裏手の工場の煙突があげる薄い煙を、永いこと見《み》呆《ほう》けていたこともある。煙が私の感興をそそったのではない。……私は自分という存在に首までどっぷり浸《つか》っているような気がした。外界のところどころが冷え、また熱していた。そうだ、何と云ったらいいか、外界が斑《まだ》らをなし、又、縞《しま》目《め》をなしていた。自分の内部と外界とが不規則にゆるやかに交代し、まわりの無意味な風景が私の目に映るままに、風景は私の中へ闖入《ちんにゅう》し、しかも闖入しない部分が彼方《かなた》に溌溂《はつらつ》と煌《きら》めいていた。その煌めいているものは、ある時は工場の旗であったり、塀《へい》のつまらない汚点《しみ》であったり、草間に捨てられた古下駄の片方であったりした。あらゆるものが一瞬一瞬に私の内に生起し、又死に絶えた。あらゆる形をなさない思想が、と云おうか。……重要なものが些《さ》末《まつ》なものと手をつなぎ、今日新聞で読んだヨーロッパの政治的事件が、目前の古下駄と切っても切れぬつながりがあるように思われた。
 私は一つの草の葉の尖端《せんたん》の鋭角について永いあいだ考えていたこともある。考えていたというのは適当ではない。そのふしぎな些《さ》細《さい》な想念は決して持続せず、生きているとも死んでいるともつかぬ私の感覚の上に、リフレインのように執拗《しつよう》に繰り返して現われたのである。なぜこの草の葉の尖端が、これほど鋭い鋭角でなければならないのか。もし鈍角であったら、草の種別は失われ、自然はその一角から崩壊してしまわねばならないのか。自然の歯車の極小のものを外してみて、自然全体を転覆させることができるのではないか。そしてその方法を、私は徒《いたず》らにあれこれと考えたりした。
 ――老師の叱責は忽《たちま》ち洩れて、寺の人々の私に対する態度は日ましに険《けわ》しくなった。私の大学進学を嫉《ねた》んでいた例の徒弟は、いつも勝ち誇った薄ら笑いで私を眺めた。
 夏も秋も、余人とほとんど口をきかない私の生活が寺内でつづいた。私が出奔した前日の朝、老師が副《ふう》司《す》さんに命じて私を呼んだ。
 十一月九日のことである。私は登校前であったので、制服を着て、老師の前へ出た。
 老師の本来福々しい顔は、私と会い、私にものを言わねばならぬという不快で、異様に固く凝縮していた。私はといえば、老師の目が癩者《らいしゃ》を見るように私を見ることが快かったのである。これこそは私が望んだ人間的感情を湛《たた》えた目なのだ。
 老師はすぐ目を外《そ》らし、手《て》焙《あぶ》りの上で手を揉《も》み合わせながら語った。その柔らかい掌の肉が摺《す》れ合う音は、初冬の朝の空気のうちに、微《かす》かだが、清澄をみだす耳ざわりなものにひびいた。和尚《おしょう》の肉と肉とは、必要以上に親密な感じがした。
「亡《な》くなったお父さんは、どないに悲しんでいられるやろ。この手紙を見てみい。学校から又きつう言うてよこした。そないなことで、末はどうなると思うか、自分でよう考えてみるのやな」――それから、引きつづいてあの言葉を言ったのである。「お前をゆくゆくは後継にしようと心づもりしていたこともあったが、今ははっきりそういう気持がないことを言うて置く」
 私は永いあいだ黙っていて、こう言った。
「私をもうお見捨てになるのとちがいますか」
 老師は即答しなかった。やがて、
「そうまでして、まだ見捨てられたくないと思うか」
 私は答えなかった。しばらくして、我知らず、吃《ども》りながら別事を言った。
「老師は私のことを隅々《すみずみ》まで知っておられます。私も老師のことを知っておるつもりでございます」
「知っておるのがどうした」――和尚は暗い目になった。「何にもならんことじゃ。益もない事じゃ」
 私はこの時ほど現世を完全に見捨てた人の顔を見たことがない。生活の細目、金、女、あらゆるものに一々手を汚しながら、これほどに現世を侮《ぶ》蔑《べつ》している人の顔を見たことがない。……私は血色のよい温かみのある屍《しかばね》に触れたような嫌《けん》悪《お》を感じた。
 そのとき、自分のまわりにあるすべてのものから、しばらくでも遠ざかりたいという痛切な感じが私に湧《わ》き起った。老師の部屋を辞したのちも、たえずそれを考えたが、この考えはますます激しくなった。
 風呂《ふろ》敷《しき》に仏教辞典と、柏木にもらった尺八を包んだ。鞄《かばん》と共にこの包みを提げて学校へ急ぐあいだ、私はひたすら出発のことだけを考えた。
 校門を入ると、折よく柏木が私の前を歩いていた。私は柏木の腕を引いて通路の端へ連れてゆき、三千円の借金を申込んだ。そして仏教辞典と貰った尺八とを、何かの足しに、引取ってくれとたのんだ。
 柏木の顔からは、いつもの逆説を述べるときの哲学的爽快《そうかい》さともいうべきものが拭《ぬぐ》い去られた。小さくすぼまった、煙るような目つきで私を見た。
「ハムレット劇の中でレイアティーズの父親が、息子に何て忠告したかおぼえているか?『金は借りてもいけず、貸してもいけない。貸せば金がなくなり、あわせて友を失う』とさ」
「僕にはもう父親はおらん」と私は言った。「だめならいいんだ」
「まだだめだと言ってやしないよ。ゆっくり相談しよう。今俺の金を掻《か》き集めて、三千円あるかどうか」
 私は思わず、活《い》け花の師匠からきいた柏木の遣口《やりくち》、女から金を絞る巧みな遣口を言い立てようとして、差控えた。
「まずその字引と尺八の処分を考えようや」
 柏木はそう言うと、忽《たちま》ち踵《きびす》を返して校門へ向ったので、私も引返し、歩度を緩《ゆる》めて彼と並んで歩いた。柏木は、例の光クラブの学生社長が闇《やみ》金融容疑で検挙されたのが、九月に釈放されてから、信用がガタ落ちになって難儀しているそうだという話をした。この春ごろから光クラブ社長はひどく柏木の興味を惹いており、私たちの話題にしばしば現われたが、彼を社会的強者だと信じ切っていた柏木も私も、わずか二週間後に彼が自殺しようとは予期していなかった。
「何に使う金なんだ」
 突然そう訊《き》かれた私は、さても柏木らしからぬ質問だと思った。
「どこかへ、ぶらっと旅に出たいんだ」
「帰って来るのか」
「多分……」
「何から遁《のが》れたいんだ」
「自分のまわりのもの凡《すべ》てから逃げ出したい。自分のまわりのものがぷんぷん匂《にお》わしている無力の匂いから。……老師も無力だ。ひどく無力なんだ。それもわかった」
「金閣からもか」
「そうだよ。金閣からもだ」
「金閣も無力かね」
「金閣は無力じゃない。決して無力じゃない。しかし凡ての無力の根源なんだ」
「君の考えそうなことだ」
 と柏木は、歩道を例の大《おお》袈裟《げさ》な舞踏の足取で歩きながら、ひどく愉快そうに舌打ちをした。
 柏木の導くままに、われわれは寒々とした小さな骨董《こっとう》屋《や》へ入って尺八を売った。四百円にしか売れなかった。次いで古本屋へ立寄って辞典をようようのこと百円で売った。のこりの二千五百円を貸してくれるために、柏木は私を自分の下宿へ伴った。
 そこで彼は奇妙な提案をした。尺八は返してもらったものであり、字引は贈物と考えて、二つとも一旦柏木に帰属したものだから、それを売った五百円はやはり柏木の金で、二千五百円にこれを加えて、貸金は当然三千円になる。返却まで、利子を毎月一割ずつ貰いたい。光クラブの月三割四分の高利に比べれば、ほとんど恩恵的な低利である。……彼は半紙と硯箱《すずりばこ》をもち出して、これらの条件をおごそかに書き、この借用証に私の拇《ぼ》印《いん》を求めた。私は未来のことを考えるのがいやだったので、直ちに拇指を印肉に染めて捺《お》した。
 ――私の心は急いでいた。三千円を懐《ふとこ》ろにして柏木の下宿を出ると、電車に乗って船岡公園前で下車し、建勲《たけいさお》神社へ向う迂《う》回《かい》した石段を駈《か》け昇った。そこの御みくじ《???》で旅先の暗示を得ようと思ったのである。
 石段の昇りぎわに、右手に義照《よしてる》稲荷《いなり》神社のけばけばしい朱いろの社殿や、金網に入っている一対の石の狐《きつね》が見えた。狐は巻物を口にくわえ、鋭く立てた耳の中も朱に塗られている。
 薄日のひまに、時折ひらめく風の肌《はだ》寒い日である。昇ってゆく石段の石の色が、こまかく灰が降ったように見えるのは、木かげを洩《も》れる弱《よろ》日《び》の色だ。その光りはあまりにも弱いので、汚れた灰のように見えるのだ。
 しかし建勲神社のひろびろとした前庭に出たときには、そこまで一気に駈け昇ってきた私は汗ばんでいた。正面に拝殿につづく石階がある。これに向って平坦な甃《いしだたみ》がのびている。左右から低くわだかまる松が、参道の空に伏している。右側には木壁の色の古い社務所があり、玄関の戸に「運命研究所」という札がかけてある。社務所から拝殿寄りに白い土蔵があり、そこからはまばらな杉《すぎ》木《こ》立《だち》がつづいて、冷たい蛋白《たんぱく》いろの雲が沈痛な光りを含んで乱れている空の下に、京都西郊の山々が見渡された。
 建勲神社は信長を主祭神とし、信長の長子信忠を配《はい》祀《し》した社である。簡素な社だが、拝殿をめぐる朱いろの欄干《らんかん》だけが色どりを添えている。
 私は石階を登り、礼拝して、賽銭箱《さいせんばこ》の横に渡してある棚《たな》の上の古い六角の木箱を手にとった。木箱を振った。孔《あな》から細く削った竹の一本を振り落した。それには墨で、
「一四」
 とだけ書いてある。
 私は踵を返した。「一四、……一四、……」と呟《つぶや》きながら石階を下りた。その数字の音《おん》は私の舌に停滞して、徐々に意味を帯びるように思われた。
 社務所の玄関で、案内を乞《こ》うた。水仕事をしていたらしい中年の女が、外した前掛で執《しつ》拗《よう》に手を拭いながら現われて、私のさし出す規定の十円を無表情にうけとった。
「何番どす」
「十四番です」
「その縁のところでお待ちやす」
 私は濡縁《ぬれえん》に腰かけて待った。こうして待つうちに、あの濡れたひび《??》われた女の手で運命が決せられるのは、いかにも無意味に思われたが、そういう無意味に賭《か》けるつもりで来たのだから、それもよかった。締めた障子の中で、大そうあけにくい古い小《こ》抽斗《ひきだし》の環《かん》のぶつかる音がし、紙をめくる音がした。やがて障子が小さくあけられ、
「へえ。どうぞ」
 と一枚の薄紙がさし出されて、又障子は閉った。紙の一角の女の指あとは濡れていた。
 それを読む。「第十四番 凶」と書いてある。
「汝有此間者遂為八十神所滅《いましここにあらばつひにやそかみにほろぼされなむと》
焼石はめ矢等の困難苦節にあひ給ひし大《おほ》国主命《くにぬしのみこと》は御祖神《みおやのかみ》の御教示によつて此の国を退去すべく ひそかにのがれ給ふ兆」
 解説は、あらゆる事の不《ふ》如《にょ》意《い》と、前途に横たわる不安とを説いている。私は怖《おそ》れなかった。下段についているあまたの項目のうちの旅行という項を見る。
「旅行――凶。殊に西北がわるし」
 と書いてある。私は西北へ旅をしようと思った。



 敦《つる》賀《が》行は京都駅を午前六時五十五分に発《た》つ。寺の起床は五時半である。十日の朝、私が起きてすぐさま制服に着かえても、誰も訝《いぶ》からなかった。誰もが私を見ないふりをすることに馴《な》れていたのである。
 かわたれどきの寺のそこかしこへ散らばって、人々は掃《そう》除《じ》や雑巾《ぞうきん》掛けにとりかかった。六時半までが掃除の時間である。
 私は前庭を掃いていた。鞄《かばん》一つ持たずに、ここから突然神隠しに会ったように、旅へ出てゆくのが私の目《もく》論見《ろみ》だった。しののめの仄《ほの》白《じろ》い砂利道の上に私と箒《ほうき》が動いている。突如として箒は倒れ、私の姿は消え、あとには薄明のなかに白い砂利道だけが残される。そういう風に出発せねばならぬと私は夢みていた。
 私が金閣に別れを告げなかったのもこのためだ。金閣を含む私の全環境から、私だけが突如として奪い去られる必要があったのだ。徐々に総門のほうへ向って私は掃いた。松の梢《こずえ》の間に暁の星が眺《なが》められた。
 私の胸は高鳴った。出発せねばならぬ。この言葉はほとんど羽《は》搏《ばた》いていると云ってよかった。私の環境から、私を縛《いま》しめている美の観念から、私の轗《かん》軻《か》不遇から、私の吃りから、私の存在の条件から、ともかくも出発せねばならぬ。
 手から箒は、果実が離れるように自然に、暁闇《ぎょうあん》の草むらの中へ落ちた。木がくれに総門のほうへ私は忍《しの》び足で歩き、総門を出ると一散に駈けた。始発の市電が近づいてきた。まばらな労働者風の客にまじって、私は車内の明るい電燈を晴れがましく浴びていた。こんなに明るいところへ来たことがなかったような気がした。

 その旅の詳細は今も脳《のう》裡《り》にまざまざと思いうかべることができる。目的地も知らずに出奔したのではない。目的地は中学時代に一度修学旅行をした地方に決めた。しかしそこへ向って徐々に近づくあいだ、出発と解放の思いがあまりに強かったので、私の前には未知だけしかないかのようだった。
 汽車のゆくその線は、生れ故郷へ向う馴《な》染《じみ》の路線であるのに、古びて煤《すす》けた列車が、これほど新鮮なものめずらしい姿で眺《なが》められたことはなかった。駅、汽笛、朝まだきの拡声器のだみ声の反響までが、同じ一つの感情をくりかえし、それを強め、目もさめるばかりの抒情《じょじょう》的な展望を私の前にひろげた。旭《あさひ》は広大なプラットフォームを区切っていた。そこを駈ける靴音、弾《はじ》ける下駄《げた》の音、じっと単調に鳴りつづけるベル、駅売の籠《かご》からさし出される蜜《み》柑《かん》の色……これらすべてが、私の身を委《まか》せた大きなものの一つ一つの暗示、一つ一つの予兆のように思われた。
 駅のどんな些細な断片も、別離と出発の統一的な感情へ向って、引き絞られ集められていた。私の目の下に後方へしりぞくプラットフォームは、いかにも鷹揚《おうよう》に、礼節正しく退いた。私は感じていた。こんなコンクリートの無表情な平面が、そこから動き、離れ、出発してゆくものによって、どんなに輝やかしくされているかを。
 私は汽車に信頼した。これは可笑《おか》しな言い方だ。可笑しな言い方だが、自分の位置が京都駅から少しずつ遠ざかり移動してゆくという、この信じられぬ思いを保証するには、そうとしか言いようがない。鹿苑《ろくおん》寺《じ》の夜、花園ちかくを行きすぎる貨物列車の汽笛を何度か聴いたが、私の遠方を、あのように夜も昼も確実に疾駆していたものに、私が今乗っていようとは不思議でしかなかった。
 汽車は昔病んだ父と一緒に見た群青《ぐんじょう》の保《ほ》津《づ》峡《きょう》に沿うて走った。愛宕《あたご》連山と嵐山《あらしやま》の西側、ここから園《その》部《べ》あたりまでの間の地域は、おそらく気流の影響で、京都市とは截然《せつぜん》と気候がちがった。十月、十一月、十二月の期間、夜の十一時から朝の十時ごろまで、規則正しく、保津川から上る霧がこの地方を隈《くま》なく包んだ。その霧はたえず流動していて、途切れるのは稀《まれ》であった。
 田園はおぼろげに展《ひら》き、刈《かり》田《た》は青黴《あおかび》の色に見えた。畦《あぜ》のまばらな立木は、高低も大小も思い思いで、枝葉は高みに刈り込まれ、細い幹がいずれもこの地方で蒸籠《せいろう》と呼ばれる積藁《つみわら》で囲まれているので、それらが順繰りに霧の中から現われるさまは、木々の幽霊のようであった。又、あるときは車窓の目《ま》近《ぢか》に、ほとんど視野の利《き》かぬ灰色の田畑を背にして、大そう鮮明な一本《ひともと》の大きな柳が、濡れそぼった葉を重たげに垂《た》らし、かすかに霧に揺られながら、現われたりした。
 京都を発つときあのようにいきいきとしていた私の心は、今また死者たちの追憶へ導かれた。有為子《ういこ》や父や鶴川《つるかわ》の思い出は、云うに云われぬやさしさを私の裡《うち》に呼びさまし、私は死者をしか人間として愛することができないのかと疑われた。それにしても死者たちは生者に比べて、何と愛され易《やす》い姿をしていることか!
 あまり混《こ》んでいない三等の客車にも、愛されにくい生者たちは、あわただしく煙草《たばこ》を吹かしたり、蜜柑の皮を剥《む》いたりしていた。どこかの公共団体の年とった役員が隣りの座席で大声で話している。いずれも古い無《ぶ》恰好《かっこう》な背広を着ており、一人の袖口《そでぐち》からは縞《しま》の裏地のやぶれたのが顔を出している。私は凡庸《ぼんよう》さというものが年齢を重ねても、少しも衰えぬのに改めて感心した。百姓風のそれらの日に焦《や》けた皺《しわ》の太い顔は、酒に荒されただみ《??》声と共に、一種の凡庸の精華ともいうべきものをあらわしていた。
 かれらは、公共団体に寄附させるべき人々の論評をしていた。一人のおちついた禿頭《とくとう》の老人は、話に入らずに、何万遍洗濯《せんたく》したかしれない黄ばんだ白麻の手巾《ハンカチ》で、しきりに手を拭っていた。
「この黒い手。煤煙《ばいえん》で自然に汚れて来ますのや。困ったことです」
 別の一人が話相手になった。
「あなた、煤煙の問題で一度新聞に投書されたことがありましたな」
「いいや」と禿頭の老人は否定した。「ともかく、困ったことです」
 きくともなく私はきいた。かれらの会話にたびたび金閣寺や銀閣寺の名の出るのを。
 金閣寺や銀閣寺には、うんと寄附をさせなければならぬというのが、彼らの一致した意見だった。収入は銀閣のほうが金閣の半分ほどであるが、それでも莫大《ばくだい》な金額である。一例が金閣の年間収入は五百万円以上と思われるが、寺の生活は禅家の常で、電気代と水道代を入れても、一年に二十万円の余しかかからない。貯《たま》った金をどうするかというと、小僧たちには冷飯を喰《く》わせておいて、和尚一人が毎晩祇《ぎ》園《おん》へ出かけて使っている。それで税金もかからないのだから、治外法権も同じである。ああいうところからは、容赦なく寄附を要求せねばならぬ。と交?《こもごも》言った。
 例の禿頭の老人は、あいかわらず手を手巾で拭いながら、話の切れ目に来ると、
「困ったことです」
 と言い、それがみんなの結論になった。拭《ふ》かれぬき磨《みが》かれぬいた老人の手は、煤煙のあともなく、根《ね》附《つけ》のような光沢を放っていた。実際その出来合の手は、手というよりもむしろ手袋と云ったほうがよかった。
 奇妙なことであるが、これは私の耳に入った世間の批評のはじめてのものであった。私たちは僧侶《そうりょ》の世界に属しており、学校もまたその世界に在って、お互いの寺の批評をすることがなかった。しかし老いた役員たちのこんな会話は、少しも私をおどろかさなかった。それらはみんな自明の事柄《ことがら》だった! 私たちは冷飯を喰《た》べていた。和尚は祇園へ通っていた。……が、私には、老役員たちのこうした理解の仕方で、私が理解されることに対する、云わん方ない嫌《けん》悪《お》があった。「かれらの言葉」で私が理解されるのは耐えがたい。「私の言葉」はそれとは別なのである。老師が祇園の芸《げい》妓《ぎ》と歩いているのを見ても、私が何ら道徳的な嫌悪にとらわれなかったことを思い出してもらいたい。
 老役員たちの会話は、こうしたわけで、私の心に、凡庸さの移り香のようなもの、かすかな嫌悪だけを残して飛び去った。私は自分の思想に、社会の支援を仰ぐ気持はなかった。世間でわかりやすく理解されるための枠《わく》を、その思想に与える気持もなかった。何度も言うように、理解されないということが、私の存在理由だったのである。
 ――突然扉《とびら》がひらいて、塩辛声の物売りが胸から大きな籠を下げて現われた。俄《にわ》かに空腹を思い出した私は、米飯の代りに海草で作ったらしい緑いろの麺類《めんるい》を詰めた弁当を買って喰べた。霧は晴れたが、空には光りがなかった。丹《たん》波《ば》の山ぎわの痩《や》せた土に、楮《こうぞ》の木を植えた紙つくりの家々が見えはじめた。

 舞鶴《まいづる》湾。この名は昔にかわらず私の心をそそった。何故かは知れなかった。しかし志《し》楽《らく》村ですごした少年期から、それは見えざる海の総称であり、ついには海の予感そのものの名になったのだ。
 その見えざる海も、志楽村のうしろに聳《そび》える青葉山頂からはよく見えた。私が青葉山に登ったのは二度である。二度目のとき、私たちは折しも舞鶴軍港に入っていた聯合《れんごう》艦隊を見たのだった。
 きらめく湾内に碇泊《ていはく》している艦隊は、秘密の勢揃《せいぞろい》をしていたのかもしれない。この艦隊にまつわることはみんな機密に属し、私たちはほとんどそういう艦隊が本当に存在するのかを疑っていたほどである。だから遠望された聯合艦隊は、名のみ知っていて写真でしか見たことのない威厳のある黒い水鳥の群が、人に見られているとは知らずに、威々《たけだけ》しい老鳥の警戒に護《まも》られて、そこでひそかな水浴を娯《たの》しんでいるように見えたのである。
 ……列車の車掌が次の駅の「西舞鶴」の名をふれまわる声に私は呼びさまされた。あわただしく荷を担《かた》げる水兵の乗客も今はなかった。降り仕度をはじめたのは、私のほかには、二三の闇《やみ》屋《や》風の男だけであった。

 すべてが変っていた。そこは英語の交通標識がおびやかすように、そこかしこの街角に秀でている外国の港市《みなとまち》になっていた。多くの米国兵が往《ゆき》来《き》していた。
 初冬の曇った空の下に、冷たい微風が塩気を含んで、ひろい軍用道路を吹き通《とお》っていた。海の匂《にお》いというよりは、無機質の、錆《さ》びた鉄のような匂いがしていた。町の只中《ただなか》へ、深く導かれている運河のような狭隘《きょうあい》な海、その死んだ水面、岸に繋《つな》がれたアメリカの小艦艇、……ここにはたしかに平和があったが、行き届きすぎた衛生管理が、かつての軍港の雑然とした肉体的な活力を奪って、街全体を病院のような感じに変えていた。
 私はここで海と親しく会おうとは思わなかった。ジープがうしろから来て面白半分に、私を海へ突き落すかもしれなかった。今にして思うのだが、私の旅の衝動には海の暗示があり、その海はおそらくこんな人工的な港の海ではなくて、幼時、成生岬《なりうみさき》の故郷で接していたような、生れたままの姿の荒々しい海であった。肌理《きめ》の粗《あら》い、しじゅう怒気を含んでいる、あの苛《いら》立《だ》たしい裏日本の海なのであった。
 だから私は由良《ゆら》へ行こうとしていた。夏は海水浴で賑《にぎ》わう浜も、この季節にはさびれていて、ただ陸地と海とが、暗い力で鬩《せめ》ぎ合っているに相違なかった。西舞鶴から由良へゆく道は、ものの三里もあったが、私の足はう《?》ろ《?》覚えに覚えていた。
 道は舞鶴市から湾の底部に沿うて西へ向い、宮津線と直角に交わり、やがて滝尻峠《たきしりとうげ》をこえて、由良川へ出る。大川橋を渡ったのちは、由良川の西岸ぞいに北上する。あとは川の流れる姿なりに、河口まで導かれるのである。
 私は市街を出て、歩きだした……。

 歩きながら足が疲れてくると、こんな風に自分に問うた。
『由良に何があるのか? どんな明証にぶつかるために、私はこうしてせっせと歩いているのか? あそこには裏日本の海と、人のいない浜とがあるだけではないか』
 しかし私の足は滞《とどこお》る気配がなかった。どこかへ、どこであろうと、私は到達しようとしていた。私の行こうとしている場所の地名には、何の意味もなかった。何ものであろうと、到達したものに直面する勇気、ほとんど不道徳な勇気が私に生れていた。
 時折気まぐれに薄日がさし、道ばたの大きな欅《けやき》が、薄い木洩《こも》れ日の下へ私を誘ったが、何故ともしれず、私は荏苒《じんぜん》と時を移し身を休める暇がないような気がした。
 川の広大な流域へ近づいてゆく風景のなだらかな傾斜はなくて、由良川は山のはざまの道から、突然その姿を現わした。川水は青く、川幅は広いのに、流れがどんよりとして、曇り空の下に、それは徐々に不本意に海のほうへ運ばれてゆくかのようだった。
 川の西岸へ出ると、自動車のゆききも人のゆききも絶えた。道ぞいに夏蜜柑の畑がときどき見られたが、人の影は射《さ》さなかった。和《わ》江《え》という小さな部落があったが、そこでも草をかきわける音が俄《にわ》かにして、鼻先の毛の黒い犬が顔を出したきりである。
 このあたりの名所とては、由緒《ゆいしょ》の怪しい山《さん》椒太夫《しょうだゆう》の邸跡《やしきあと》というのがあることを、私は知っていた。そこへ立寄る気もなかったので、私はいつのまにかその前を行き過ぎた。川のほうばかりを眺めていたせいである。川中に竹藪《たけやぶ》に包まれた大きな洲《す》があった。私のゆく道には風がないのに、洲の竹藪は風にひれ伏していた。天水で耕す一二町歩の田が洲の上にあったが、農夫の姿はなくて、一人、こちらへ背を向けて釣糸を垂れている人が見えた。
 私は久々に見る人影に親しみを抱いた。
『鯔《ぼら》釣りだろうか。もし釣っているのが鯔だとすると、ここはもう河口から遠くない筈《はず》だ』
 そのとき、ひれ伏している竹藪のざわめきが川音をこえて高まり、そこに霧の立つようにみえたのは雨らしかった。雨滴が洲の乾いた河原を染めた。と思う間に、私の上へおちかかる雨があった。私が濡《ぬ》れながら見る洲の上には、もう雨の気配はなかった。釣をする人はさっきの形のまま、身じろぎもしなかった。そして私の上の時雨《しぐれ》も過ぎた。
 芒《すすき》や秋草は、道の曲り角ごとに私の視野を覆《おお》うていた。しかし河口が、目の前にひろがるのは近かった。大そう寒い潮風が鼻を搏《う》って来たからである。
 由良川は終りへ近づくほどに、いくつかのうらさびしい洲を露《あら》わにした。川水は確実に海へ近づき、潮《うしお》に犯されているのだが、水の面《おもて》はますます沈静に、何の兆《きざし》もうかべていなかった。失神したまま死んでゆく人のように。
 河口は意外に窄《せま》い。そこに融け合い、犯し合っている海は、空の暗い雲の堆積《たいせき》にまぎれ入り、不明瞭に横たわっているだけである。
 私が海を触知するには、野や田畑をわたってくる烈風にむかって、なおしばらく歩かなければならなかった。風が北の海を隈《くま》なく描いた。こんなに厳しい風が、人の気配もない野の上に、このように浪費されているのは、海のためだった。それはいわばこの地方の冬を覆うている気体の海、命令的な支配的な見えざる海なのであった。
 河口のむこうに幾重にも畳まれていた波が、徐々に灰色の海面のひろがりを示した。山高帽のような形をした島が、河口の正面にうかんで来た。それは河口から八里の冠島で、天然記念物の大みずなぎ鳥の棲息《せいそく》地《ち》である。
 私は一つの畑に踏み入っていた。周囲を見まわした。荒涼たる土地だった。
 そのとき何かの意味が私の心に閃《ひら》めいた。閃めくかと思うと消え去り、意味は失われた。しばらく佇《たたず》んでいたが、吹きつける冷たい風が私の思考を奪った。私は又風に逆らって歩きだした。
 痩《や》せた畑地は石の多い荒《こう》蕪地《ぶち》へつづき、野の草は半ばは枯れ、枯れていない緑は、土にへばりついている苔《こけ》のような雑草だけで、その雑草の葉もちぢれて、ひしゃげていた。そこらはすでに砂まじりの土であった。
 慄《ふる》えるような鈍い音がしていた。人声がきこえた。それをきいたのは、思わず私が烈風に背を向けて、背後の由良ヶ嶽を仰いでいたときである。
 私は人の在処《ありか》を探した。浜へ下りるには、低い崖《がけ》づたいに下りる小《こ》径《みち》があった。そこで甚だしい浸蝕《しんしょく》に抗して、ほそぼそと護岸工事が行われているのがわかった。白骨のようにコンクリートの柱があちこちにころがっていたが、砂の上のその新らしいコンクリートの色は妙にいきいきと見えた。慄える鈍い音は、枠《わく》に流し込んだセメントを震動させているコンクリート?バイブレーターの音であった。鼻の頭を真赤にした四五人の工夫が、学生服の私を訝《いぶか》かしそうに見た。
 私もちらとそちらを見た。人間同士の挨拶《あいさつ》はこれで済んだ。
 海は砂浜から摺鉢形《すりばちがた》に急激に陥《お》ち込んでいた。花《か》崗岩《こうがん》質の砂を踏んで、波打際へむかって歩くあいだ、私はさっき心にひらめいた一つの意味へ向って、確実に一歩々々近づいてゆくという喜びに再び襲われた。烈風は冷たく、手袋をしていない手はほとんど凍えていたが、何程のことはなかった。
 それは正しく裏日本の海だった! 私のあらゆる不幸と暗い思想の源泉、私のあらゆる醜さと力との源泉だった。海は荒れていた。波はつぎつぎとひまなく押し寄せ、今来る波と次の波との間に、なめらかな灰色の深淵《しんえん》をのぞかせた。暗い沖の空に累々《るいるい》と重なる雲は、重たさと繊細さを併《あわ》せていた。というのは、境界のない重たい雲の累積が、この上もなく軽やかな冷たい羽毛のような笹縁《ささべり》につづき、その中央にあるかなきかの仄青《ほのあお》い空を囲んでいたりした。鉛いろの海は又、黒紫色の岬《みさき》の山々を控えていた。すべてのものに動揺と不動と、たえず動いている暗い力と、鉱物のように凝結した感じとがあった。
 ふと私は、柏木がはじめて会った日に、私に言った言葉を思い出した。われわれが突如として残虐《ざんぎゃく》になるのは、うららかな春の午後、よく刈《か》り込まれた芝生の上に、木洩れ陽の戯れているのをぼんやり眺《なが》めているような、そういう瞬間だと言ったあの言葉を。
 今、私は波にむかい、荒い北風にむかっていた。うららかな春の午後も、よく刈り込まれた芝生もここにはなかった。しかしこの荒涼とした自然は、春の午《ひる》さがりの芝生よりも、もっと私の心に媚《こ》び、私の存在に親密なものであった。ここで私は自足していた。私は何ものにも脅《おび》やかされていなかった。
 突然私にうかんで来た想念は、柏木が言うように、残虐な想念だったと云おうか? とまれこの想念は、突如として私の裡《うち》に生れ、先程からひらめいていた意味を啓示し、あかあかと私の内部を照らし出した。まだ私はそれを深く考えてもみず、光りに搏たれたように、その想念に搏たれているにすぎなかった。しかし今までついぞ思いもしなかったこの考えは、生れると同時に、忽《たちま》ち力を増し、巨《おお》きさを増した。むしろ私がそれに包まれた。その想念とは、こうであった。
『金閣を焼かなければならぬ』



第八章


 そののちさらに私は歩いて、宮津線の丹《たん》後《ご》由良《ゆら》駅の前へ出た。東舞鶴《ひがしまいづる》中学校の修学旅行のときも、同じコースを辿《たど》って、この駅から帰路についたのである。駅前の自動車道路は人かげもまばらで、ここが短かい夏の殷賑《いんしん》をたよりに、なりわいを立てている土地だと知れた。
 私は海水浴御旅館由良館という看板のある駅前の小さな宿に泊ろうと思いついた。玄関の磨《すり》硝子《ガラス》をあけて、案内を乞《こ》うたが答《いら》えはなかった。式台には埃《ほこり》がつもり、雨戸を閉めた家内《いえうち》は暗く、人の気配はなかった。
 裏手へまわる。菊のすがれている素《そ》朴《ぼく》な小庭がある。高いところにしつらえた水槽《すいそう》がある。夏のあいだ水泳からかえった客が、体についた砂を洗いおとすためのシャワーがその水槽から下っている。
 やや離れて、宿の主人の家族の住むらしい小さな家がある。閉《た》てきった硝子戸がラジオの音を洩《も》らしている。その徒《いたず》らに高い音はうつろにきこえ、却《かえ》って人がいそうに思えなかった。果してそこでも、私は二三足の下駄《げた》の散らかった玄関で、ラジオの音の隙々《ひまひま》に声をかけては空《むな》しく待った。
 背後に人影がさした。曇りがちの空から日が仄《ほの》かににじんで来ていて、玄関の下駄箱の木《もく》目《め》が明るむのに気づいたときである。
 体の輪郭が融けてはみ出したように太った色白の、あるかなきかに目の細い女が私を見ていた。私は宿をたのんだ。女はついて来いとも云わずに、黙って踵《きびす》を返して、旅館の玄関のほうへ向った。
 ――宛《あて》がわれた部屋は、二階の一角の、海の方角へ窓を展《ひら》いた小間《こま》であった。女の運んできた手《て》焙《あぶ》りのわずかな火気が、永いこと閉《た》てきった部屋の空気をいぶして、その黴臭《かびくさ》さを耐えがたいものにした。窓をあけて北風に身をさらした。海の方角では、さっきと同じように、誰に見せるともない、雲のゆったりした重々しい戯《たわむ》れが続いていた。雲は自然のあてどない衝動の反映でもあるかのようだった。しかも必ずその一部分には、明敏な理智の青い小さな結晶、青空の薄片が見えていた。海は見えなかった。
 ……私はこの窓辺で、又さきほどの想念を追いはじめた。なぜ私が金閣を焼こうという考えより先に、老師を殺そうという考えに達しなかったのかと自ら問うた。
 それまでにも老師を殺そうという考えは全く浮ばぬではなかったが、忽《たちま》ちその無効が知れた。何故ならよし老師を殺しても、あの坊主頭とあの無力の悪とは、次々と数かぎりなく、闇《やみ》の地平から現われて来るのがわかっていたからである。
 おしなべて生《しょう》あるものは、金閣のように厳密な一回性を持っていなかった。人間は自然のもろもろの属性の一部を受けもち、かけがえのきく方法でそれを伝《でん》播《ぱ》し、繁殖するにすぎなかった。殺人が対象の一回性を滅ぼすためならば、殺人とは永遠の誤算である。私はそう考えた。そのようにして金閣と人間存在とはますます明確な対比を示し、一方では人間の滅びやすい姿から、却って永生の幻がうかび、金閣の不壊《ふえ》の美しさから、却って滅びの可能性が漂ってきた。人間のようにモータルなものは根絶することができないのだ。そして金閣のように不滅なものは消滅させることができるのだ。どうして人はそこに気がつかぬのだろう。私の独創性は疑うべくもなかった。明治三十年代に国宝に指定された金閣を私が焼けば、それは純粋な破壊、とりかえしのつかない破滅であり、人間の作った美の総量の目方を確実に減らすことになるのである。
 考え進むうちに、諧謔《かいぎゃく》的な気分さえ私を襲った。『金閣を焼けば』と独言した。『その教育的効果はいちじるしいものがあるだろう。そのおかげで人は、類推による不滅が何の意味ももたないことを学ぶからだ。ただ単に持続してきた、五百五十年のあいだ鏡湖池畔に立ちつづけてきたということが、何の保証にもならぬことを学ぶからだ。われわれの生存がその上に乗っかっている自明の前提が、明日にも崩れるという不安を学ぶからだ』
 そうだ。たしかにわれわれの生存は、一定のあいだ持続した時間の凝固物に囲まれて保たれていた。たとえば、ただ家事の便に指物《さしもの》師《し》が作った小《こ》抽斗《ひきだし》も、時を経《ふ》るにつれ時間がその物の形態を凌駕《りょうが》して、数十年数百年のちには、逆に時間が凝固してその形態をとったかのようになるのである。一定の小さな空間が、はじめは物体によって占められていたのが、凝結した時間によって占められるようになる。それは或る種の霊への化身だ。中世のお伽草《とぎぞう》子《し》の一つ「付《つく》喪《も》神《がみ》記」の冒頭にはこう書いてある。
「陰陽雑記云《おんみょうざっきにいふ》、器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑《たぶらか》す、これを付喪神と号すといへり。是によりて世俗、毎年立春にさきたちて、人家のふる具足を、払いたして、路次にすつる事侍《はべ》り、これを煤払《すすはらひ》といふ。これ則《すなはち》、百年に一年たらぬ、付喪神の災難にあはしとなり」
 私の行為はかくて付喪神のわざわいに人々の目をひらき、このわざわいから彼らを救うことになろう。私はこの行為によって、金閣の存在する世界を、金閣の存在しない世界へ押しめぐらすことになろう。世界の意味は確実に変るだろう。……
 ……思うほどに私は快活になってゆく自分を感じた。今私の身のまわりを囲み私の目が目前に見ている世界の、没落と終結は程近かった。日没の光線があまねく横たわり、それをうけて燦《きら》めく金閣を載せた世界は、指のあいだをこぼれる砂のように、刻一刻、確実に落ちつつあった。……



 三日にわたる由良館の逗留《とうりゅう》が打切られたのは、その間一歩も宿から出ない私の素振を怪しんで、内儀が連れてきた警官のおかげであった。部屋へ入って来る制服の警官の姿を見たときに、私は発覚を怖《おそ》れたが、すぐこの怖れの理由のないことに気づいた。訊問《じんもん》に答えて、私はありのままに、寺の生活から少しの間離れていたくて出奔《しゅっぽん》したのだと言い、学生証明書も見せ、わざと警官の前で宿料もきれいに仕払った。その結果、警官は保護の態度に出た。彼はすぐさま鹿苑《ろくおん》寺《じ》へ電話をかけて、私の申立にいつわりのないことを確かめ、これから附添って寺へ送り届けると告げた。そして将来ある《????》私を傷つけぬため、わざわざ私服に着換えた。
 丹後由良駅で汽車を待つうちに時雨《しぐれ》が来、屋根のない駅はたちまち濡《ぬ》れた。警官は私を伴って駅の事務室に入った。駅長も駅員も彼の友人であることを、私服の警官は誇らしげに私に示した。そればかりではない。彼はみんなに、京都から訪ねて来た甥《おい》だと私を紹介したのである。
 私は革命家の心理を理会した。あかあかと火の熾《おこ》った鉄の火《ひ》鉢《ばち》を囲んで談笑しているこの田舎の駅長や警官は、目前に迫っている世界の変動、自分たちの秩序の目《ま》近《ぢか》の崩壊を露ほども予感していなかった。
『金閣が焼けたら……、金閣が焼けたら、こいつらの世界は変貌《へんぼう》し、生活の金科玉条はくつがえされ、列車時刻表は混乱し、こいつらの法律は無効になるだろう』
 自分たちのかたわらに、何喰《く》わぬ顔をして、一人の未来の犯人が火鉢に手をさしのべていることに、少しも気づかぬ彼らが私を喜ばせた。陽気な若い駅員が、この次の休みに行く映画のことを、大声で吹聴していた。それは見事な、涙をそそるような映画で、派手な活劇にも欠けていなかった。この次の休みは映画に! この若々しい、私よりもはるかに逞《たく》ましい、いきいきとした青年が、この次の休みには、映画を見て、女を抱いて、そして寝てしまうのだ。
 彼はたえず駅長をからかい、冗談を言い、たしなめられ、その間いそがしく炭をついだり、黒盤に何かの数字を書いたりしていた。再び私を、生活の魅惑、あるいは生活への嫉《しっ》視《し》が虜《とりこ》にしようとした。金閣を焼かずに、寺を飛び出して、還俗《げんぞく》して、私もこういう風に生活に埋もれてしまうこともできるのだ。
 ……しかし忽ち、暗い力はよみがえって私をそこから連れ出した。私はやはり金閣を焼かねばならぬ。別誂《べつあつら》えの、私特製の、未《み》聞《もん》の生がそのときはじまるだろう。
 ――駅長が電話に出た。やがて鏡の前へゆき、金線の入った制帽をきちんとかぶった。咳払《せきばら》いをしてから、胸をそらし、式場へ出てゆくように、雨上りのプラットフォームへ出て行った。やがて私の乗るべき汽車が、線路に沿うて切り立った崖《がけ》に、その轟音《ごうおん》を先立てて辷《すべ》らせて来るのがきこえた。雨上りの崖土の伝えてくる鮮やかに濡れた轟音を。



 午後八時十分前に京都に着いた私は、私服に送られて鹿苑寺の総門の前まで来た。肌寒い夜であった。松林の黒い幹《みき》のつらなりを出て、総門の頑《かたく》なな形が迫って来たとき、そこに立っている母を私は見た。
 母はたまたま例の制札、若《も》シ之《これ》ヲ犯シタル者ハ国法ニ依リ処罰セラルベシと記した制札のかたわらに立っていた。髪のおどろにみだれたさまは、門燈のあかりで、白《しら》髪《が》が一本一本逆立っているように見えた。母の髪はそれほど白くはないのに、燈火が映えてそう見えたのである。その髪に囲まれた小さな顔は動かなかった。
 小柄な母の体は、しかし無気味にふくれ上り、巨大に見えた。母のうしろには開け放った総門の中の前庭の闇《やみ》がひろがり、闇を背にして、唯一のよそゆきの摺《す》り切れた金糸の縫取のある帯を〆《し》めて、粗末な着物はおろかしく着崩れのした姿が、そこに立ったまま死んでいる人のように眺《なが》められた。
 私は近づくのをためらった。なぜ母がここに来ているのかも訝《いぶ》かられたが、あとでわかったことは、老師が私の出奔を知って母のもとへ問い合わせ、母は動顛《どうてん》して鹿苑寺を訪ね、そのまま泊っていたのである。
 私服が私の背を押した。近づくにつれて、しかし母の姿は徐々に小さくなった。母の顔は私の目の下にあり、私を見上げて醜く歪《ゆが》んでいた。
 感覚はおよそ私をあざむいたことがない。小さな狡《ずる》そうな落ち窪《くぼ》んだ母の目は、今更ながら、母に対する私の嫌悪の正当さを思い知らせた。そもそもこの人から生れたことへのもどかしい嫌悪、その深い汚辱の思い、……それが却って私を母から絶縁させて、復讐《ふくしゅう》をたくらむ余地も与えなかったことは前に述べた。だが絆《ほだ》しは解けなかった。
 ……しかし今、母が母性的な悲嘆におそらく半ば身を沈めているのを見ながら、突然私は自由になったと感じた。何故であるかは知れない。母がもう決して私を脅《おび》やかすことができないと感じたのである。
 ――けたたましい、絞め殺されるような嗚《お》咽《えつ》が起った。と思う間《ま》に、その手が私の頬《ほお》に伸びて、力なく搏《う》った。
「不《ふ》孝者《こうもん》! 恩知らず!」
 私が打擲《ちょうちゃく》されるのを私服は黙って見ていた。打つ指先が乱れて、指の力が喪《うしな》われているので、かえって爪先が霰《あられ》のように頬に当った。打ちながらも母の表情が哀願を忘れていないのを見て、私は目をそむけた。ややあって、母の語調は変った。
「そないに……そないに遠く行って、お金どうしたんえ?」
「お金か? 友だちに借りて行ったんやがな」
「ほんまか。盗んだんとちがうか」
「盗まへんがな」
 それが唯一の心配事であったかのように、母は安《あん》堵《ど》の息をついた。
「そうか。……何も悪いことしてえへんのやろな」
「してえへん」
「そうか。そりゃまあよかったなあ。方丈さんにようお詫《わ》びせなあかへんえ。うちからもようあやまっといたけれど、しんそこからお詫びして、お許しいただかなあかへんえ。方丈さんはお心のひろい方やで、このまま置いといて下さると思うけれど、今度こそ心を入れかえなんだら、お母さん死んでしまうえ。ほんまえ。お母さんを死なしとうなかったら、心を入れかえるのやで。そうして偉い坊さんになって……。まあそれより早う、あやまらんならん」
 母のあとに、私と私服は黙って従った。母は私服にすべき挨拶《あいさつ》も忘れていた。
 小刻みにゆく塩垂れた帯の背を眺めながら、母を殊更《ことさら》醜くしているものは何だと私は考えた。母を醜くしているのは、……それは希望だった。湿った淡紅色の、たえず痒《かゆ》みを与える、この世の何ものにも負けない、汚れた皮膚に巣喰《すく》っている頑《がん》固《こ》な皮《ひ》癬《ぜん》のような希望、不治の希望であった。



 冬が来た。決心はいよいよ堅固になった。計画はのばしのばしにされたが、それを徐々に引きのばしてゆくことに飽きなかった。
 それから半年のあいだ、私が悩まされたのはむしろ別の事柄である。月末毎に柏木《かしわぎ》が金の返済を迫り、利子を加えた額を私に通達して、何やかと口汚なく責め立てた。しかし私はもはや金を返す気持がなかった。柏木に会わぬためには学校を休めばよかった。
 一旦こうと決めた心が、さまざまに動揺して、行きつ戻りつする経過を私が語らないのを、奇異に思ってはならない。私の心の移ろいやすさは消え去った。この半年のあいだ私の目は、一つの未来を見つめて動かなかった。このあいだの私は、おそらく幸福の意味を知っていた。
 第一に、寺の生活が楽になったのである。金閣がいずれ焼けると思うと、耐えがたい物事も耐えやすくなった。死を予感した人のように、寺の者たちに対する私の愛想はよくなり、応対は明るく、何事につけ和解を心がけるようになった。自然とすら私は和解した。冬の朝な朝な、梅もどきの残んの実を啄《ついば》みに来る小鳥たちの胸毛にも親しみを抱いた。
 老師への憎しみさえ私は忘れた! 母からも、朋輩《ほうばい》からも、あらゆるものから自由の身になった。しかしこの新らしい日々の住心《すみごこ》地《ち》のよさを、手を下さずに成就《じょうじゅ》した世界の変貌《へんぼう》だと錯覚するほど、それほど私は愚かではなかった。どんな事柄《ことがら》も、終末の側から眺めれば、許しうるものになる。その終末の側から眺める目をわがものにし、しかもその終末を与える決断がわが手にかかっていると感じること、それこそ私の自由の根拠であった。
 あんなに唐突《とうとつ》に生れた想念であったとはいえ、金閣を焼くという考えは、仕《し》立卸《たておろ》しの洋服か何ぞのように、つくづくぴったりと私の身についた。生れたときから、私はそれを志していたかのようだった。少くとも父に伴われてはじめて金閣を見た日から、この考えは私の身内に育ち、開花を待っていたかのようだった。金閣が少年の目に世の常ならず美しく見えたというそのことに、やがて私が放火者になるもろもろの理由が備わっていた。
 昭和二十五年三月十七日に、私は大谷大学の予科を修了した。翌々日の十九日の誕生日を閲《けみ》して、満二十一歳になった。予科三年の成績は見事なものであった。席次は七十九人中七十九番、各課目の最低位は国語の四十二点である。欠席時数は、六百十六時間のうち二百十八時間で、三分の一を上廻っている。それでも仏の慈悲心から、この大学には落第というものがなかったので、私は本科へ進むことができた。老師もそれを黙認した。
 授業をなおざりにしながら、私は晩春から初夏にかけての美しい日々を、金のかからぬ寺々や社の見物にすごした。足の及ぶかぎり歩いたのである。そういう一日のことが思い出される。
 私は妙心寺の表通りの寺ノ前町を歩いていた。すると私の前を、同じような歩度で行く学生の姿に気づいた。古い軒の低い煙草《たばこ》屋へ彼が煙草を買うために立寄ったとき、その制帽の横顔が見えた。
 眉《まゆ》の迫った色白の鋭い横顔で、制帽を見ると京都大学の学生である。彼は目のはじでちらと私のほうを見た。濃い影が流れ寄って来るような視線である。このとき、『彼は放火者にちがいない』と私は直感した。
 午後三時であった。時刻はいかにも放火に適しなかった。鋪《ほ》装《そう》したバス道路へ迷い出た蝶《ちょう》が、煙草屋の店先の一輪差《いちりんざし》の衰えた椿《つばき》にまつわっていた。白い椿は、枯れた部分が、茶褐色の火に焼けたあとのようになっていた。バスはいつまでも来ず、道の上の時間は停《とま》っていた。
 何故私がその学生を、放火へむかって一歩一歩進んでゆくところだと感じたのかわからない。ただ端的に彼は放火者に見えた。放火にもっとも困難な白昼を敢《あえ》て選んで、彼は自分の固く志した行為へゆっくりと歩を運んでいた。彼のゆくてには火と破壊があり、彼の背後には見捨てられた秩序があった。その制服のいくらか厳《いか》つい背中から、私はそう感じた。若い放火者の背中はそうあるべきだと、かねて私は思い描いていたのかもしれない。日の当った黒サージのその背中は、不吉な険《けわ》しいものでいっぱいになっていた。
 私は歩みを緩め、学生をつけようと考えた。そうして歩くうちに、少し左肩の落ちた彼のうしろ姿が、私自身のうしろ姿であるように思われてきた。彼は私よりはるかに美しかったが、同じ孤独と、同じ不幸と、同じ美の妄《もう》念《ねん》から、同じ行為へ促されたに相違なかった。いつかしら、彼をつけながら、私は私自身の行為を前以《まえもっ》て見届けるような心地になっていた。
 晩春の午後には、明るさと空気のものうさのあまりに、こんな事が起りがちである。つまり私が二重になり、私の分身があらかじめ私の行為を模倣し、いざ私が決行するときには見えない私自身の姿を、ありありと見せてくれると謂《い》った事が。
 バスはいつまでも来ず、路上の人影も絶えた。正法山妙心寺の巨大な南門が迫ってきた。左右に大きく扉《とびら》をひらいた門は、あらゆる現象を呑《の》み込んでしまっているように見えた。それは、ここから見ると、その壮大な枠《わく》の中に、勅使門や山門の柱の重複するさま、仏殿の甍《いらか》、多くの松、それに加えて鮮やかに切りとられた青空の一部や、ほのかな雲の幾片《いくひら》までも併呑《へいどん》していた。門に近づくにつれ、ひろい寺内を縦横に走る甃《いしだたみ》やら、多くの塔頭《たっちゅう》の塀《へい》やら、限りもないものがこれに加わった。そしてひとたび門をくぐれば、神秘な門はその門内に蒼穹《そうきゅう》の全部と、雲の悉《ことごと》くを収めていることがわかるのであった。大《だい》伽《が》藍《らん》とはそういうものなのだ。
 学生は門をくぐった。彼は勅使門の外側をめぐり、山門の前の蓮池《はすいけ》のほとりに佇《たたず》んだ。さらに池に跨《またが》る唐風《からふう》の石橋の上に立って、聳《そび》え立つ山門を仰いだ。『彼の放火の目的はあの山門だな』と私は思った。
 それは壮麗な山門で火に包まれるのにふさわしかった。こんなに明るい午後では、火はおそらく見えないだろう。そこでそれは夥《おびただ》しい煙に巻かれ、見えない焔《ほのお》が空を舐《な》めるさまは、蒼空《あおぞら》がただ歪《ゆが》んで揺れて見えることだけでそれと知れるだろう。
 学生が山門に近づいたので、私は覚《さと》られぬために山門の東側へまわって窺《うかが》った。托鉢僧《たくはつそう》の帰院の時刻であった。東の径《みち》から、連鉢《れんぱつ》の三人の一隊が、草鞋《わらじ》がけで甃を雁行《がんこう》して来る。網《あ》代笠《じろがさ》はみな手にかけている。坊へかえるまで托鉢の掟《おきて》のまま、三四尺先をしか見ぬ目づかいで、お互いに私語を交わさず、ものしずかに私の前で右折して去った。
 学生は山門のほとりでまだためらっていた。ついに彼は、柱の一つに身を凭《もた》せて、ポケットから、先ほど買った煙草をとりだした。あたりを落着きなく見まわした。きっと煙草にことよせて、火を起すのだろうと私は思った。果して彼はその一本を口にくわえ、顔を近づけて燐寸《マッチ》を擦った。
 燐寸の火は、一瞬、小さな透明なひらめきをそこに示した。火の色は学生の目にさえ見えなかったと思われるのは、折から午後の日が山門の三方を包み、私のいる側にだけ影を与えていたからだ。火は蓮池のほとりの山門の柱に身を凭せている学生の顔の間近で、ほんの一瞬、火の泡沫《うたかた》のようなものを浮ばせた。そして彼のはげしく打ち振る手に消されてしまった。
 燐寸が消えただけでは、学生は気がすまぬらしかった。礎石の上に捨てた燐寸を、靴《くつ》の裏で念入りに揉《も》んだ。さて、彼は煙草をたのしげに吹かしながら、残された私の失望をよそに、石橋をわたって勅使門のかたわらをすぎ、のびのびと歩いて、家並の影がやや延びた大路の見える南門を出て行った。……

 彼は放火者ではなく、ただの散歩している学生だった。おそらくは少し退屈した、少し貧しい、それだけの青年だった。
 逐一を見ていた私にとっては、放火のためではなしに一本の煙草を吸うためにあんなに落着きなくあたりを見まわした彼の小心、つまり学生流のけちけちした脱法の喜び、火の消えた燐寸をあんなに念入りに揉み消した態度、つまり彼の「文化的教養」、とりわけこの後のものが気に入らなかった。こんながらくたな教養のおかげで、彼の小さな火は安全に管理された。彼はおそらく自分が燐寸の管理者であり、社会に対して火の完全な遅滞なき管理者であることを得意がっていた。
 洛中洛外《らくちゅうらくがい》の古い寺々が、維新以後めったに焼かれなくなったのは、こういう教養の賜物《たまもの》だった。たまさかの失火はあっても、火は寸断され、細分され、管理されるにいたった。それまでは決してそうではなかった。知恩院は永享《えいきょう》三年に炎上し、その後何度となく火を蒙《こうむ》った。南禅寺は明徳《めいとく》四年に本寺の仏殿、法堂、金剛殿、大雲庵などが炎上した。延暦寺《えんりゃくじ》は元《げん》亀《き》二年に灰燼《かいじん》に帰した。建仁《けんにん》寺《じ》は天文二十一年に兵火に罹《かか》った。三十三間堂は建長元年に焼亡した。本能寺は天正十年の兵火に焼かれた。……
 そのころ火は火とお互いに親しかった。火はこのように細分され、おとしめられず、いつも火は別の火と手を結び、無数の火を糾合《きゅうごう》することができた。人間もおそらくそうであった。火はどこにいても別の火を呼ぶことができ、その声はすぐに届いた。寺々の炎上が失火や類火や兵火によるものばかりで、放火の記録が残されていないのも、たとえ私のような男が古い或る時代にいたとしても、彼はただ息をひそめ身を隠して待っていればよかったからなのだ。寺々はいつの日か必ず焼けた。火は豊富で、放《ほう》恣《し》であった。待ってさえいれば、隙《すき》をうかがっていた火が必ず蜂《ほう》起《き》して、火と火は手を携え、仕遂げるべきことを仕遂げた。金閣は実に稀《まれ》な偶然によって、火を免れたにすぎなかった。火は自然に起り、滅亡と否定は常態であり、建てられた伽藍は必ず焼かれ、仏教的原理と法則は厳密に地上を支配していた。たとえ放火であっても、それはあまりにも自然に火の諸力に訴えたので、歴史家は誰もそれを放火だとは思わなかったのであろう。
 そのころ地上は不安だった。昭和二十五年の今も地上の不安はそれに劣るものではなかった。かつて寺々が不安によって焼かれたのだとしたら、どうして今金閣が焼かれないでよい筈《はず》があろうか?



 講義に出るのを怠けながら、図書館にだけはたびたび通っていたので、五月のある日、私は避けていた柏木《かしわぎ》に会った。私の避ける様子を見て、彼は面白そうに追ってきた。もし私が駈《か》ければ内飜足《ないほんそく》の彼は追いつく筈もないという考えが、却《かえ》って私を立止らせた。
 私の肩をつかんだ柏木は息を切らせていた。放課後の五時半ごろと思われる。柏木に会わないように、図書館を出てから私は校舎の裏側をまわり、西側のバラックの教室と高い石《いし》塀《べい》との間の道を来たのである。そこは荒地野菊の生い茂ったあいだに紙屑《かみくず》や空罎《あきびん》の捨てたままになっている場所で、忍び込んだ子供たちがキャッチボールをしていた。そのけたたましい声が、破れた硝子《ガラス》ごしに埃《ほこり》っぽい机の列の眺められる放課後の教室の人《ひと》気《け》のなさを際《きわ》立《だ》たせている。
 私が立止ったのは、そこをゆきすぎて本館の西側へ出、華道部が工房という札をかけている小屋の前まで来たときであった。塀ぞいにそそり立つ楠《くすのき》の並木が小屋の屋根ごしに、夕日を透かしたその細かい葉影を、本館の赤《あか》煉瓦《れんが》の壁に映していた。夕日を浴びる赤煉瓦は花やいだ。
 息を切らせながら、柏木はその壁に身を支えたので、楠のさやぐ葉影は、彼のいつもながら憔悴《しょうすい》した頬《ほお》を彩《いろど》って、そこに奇妙に躍動する影を与えた。あるいは彼にふさわしくない赤煉瓦の反映がそう見せたのかもしれない。
「五千百円だぞ」と彼は言った。「この五月末で五千百円だぞ。君はますます自分で返しにくくしているんだ」
 つねづねそこに入れている胸のポケットから、彼はまた折り畳んだ証文をとりだして、ひろげて見せた。そして私の手がつかみかかってそれを破るのを怖《おそ》れてか、慌《あわただ》しく畳んで元へしまったので、私の目には、毒々しい朱いろの拇《ぼ》印《いん》の残像だけがちらと残った。私の指紋はひどく陰惨《いんさん》に見えた。
「早く返したまえ。そのほうが君のためだぞ。授業料でも何でも流用したらいいじゃないか」
 私は黙っていた。世界の破局を前にして借金を返す義務があるだろうか? 私はそれをほんの少し柏木に暗示しようかという誘惑にかられたが、思い止まった。
「黙っていちゃわからんじゃないか。吃《ども》るのが恥かしいのか? 何を今更! 君が吃りだということは、これだって知ってるんだ。これだって」と彼は拳《こぶし》で、夕日の照り映《は》えた赤煉瓦の壁を叩《たた》いた。拳は代赭《たいしゃ》いろの粉に染まった。「この壁だって。学校中で誰知らぬものはないんだ」
 それでも私は黙ったまま彼に対《たい》峙《じ》していた。そのとき子供たちのボールが外《そ》れて、私たち二人の間へころがって来た。柏木は拾って返そうとして身をかがめかけた。意地の悪い興味が私に起り、一尺前にあるボールを、彼の内飜足がどんな風に活動して、彼の手につかませるかを見ようとした。無意識に私の目は彼の足のほうを見たらしい。柏木がこれを察した速さはほとんど神速と云ってよかった。彼はまだかがめたとも見えぬ身を起して私を見つめたが、その目には彼らしくもない冷静さを欠いた憎悪があった。
 一人の子供がおずおずと近づき、私たちのあいだからボールを拾って逃げた。ついに柏木がこう言った。
「よし。君がそういう態度なら、俺にも考えがある。来月国へかえる前に、どうあっても、とるだけのものはとってみせる。君にもその覚悟はあるんだろうな」



 六月に入ると、重要な講義はだんだんと少なくなり、学生はそれぞれの郷里へかえる仕度をはじめる。忘れもしない六月十日のことである。
 朝から降りつづいていた雨が夜に入って土《ど》砂《しゃ》降《ぶ》りになった。薬石《やくせき》のあと自室で本を読んでいた。夜八時ごろ、客殿から大書院へゆく間《あい》の廊下を足音が近づいた。めずらしく外出しない老師のところに来客があるらしかった。しかしその足音の奇異なことは、雨が乱れて板戸にぶつかる音のようである。先導してゆく徒弟の足音は、もの静かで規則正しいのに、客の足音が、廊下の古い板を異様にきしませ、しかも大そうのろい。
 雨のひびきが鹿苑《ろくおん》寺《じ》の暗い軒庇《のきびさし》を籠《こ》めている。古い大きな寺に降り濺《そそ》ぐ雨は、がらんとした無数の黴《かび》くさい部屋々々の夜を、いわば雨でいっぱいにしてしまうのだ。庫裏《くり》も、執事寮も、殿司寮も、客殿も、耳に聴くのは雨音ばかりである。私は今金閣を領している雨を想《おも》った。部屋の障子《しょうじ》を少しあけた。石ばかりの小さな中庭は雨水に溢《あふ》れ、水は石から石へ黒いつややかな背を見せて伝わっている。
 新入りの徒弟が、老師の居間から戻《もど》り、私の部屋へ首だけさし入れてこう言った。
「老師のところへ柏木いう学生が来とるぜ。あんたの友だちやないのか」
 私は俄《にわ》かに不安にかられた。そして昼間は小学校の教師を勤めている、この近眼鏡をかけた男が、去ろうとするのを、引止めて招じ入れた。大書院の対話をあれこれと想像しながら一人でいるのに耐えなかったからである。
 五六分たった。老師が鳴らす振鈴《しんれい》の音がきこえた。雨音をつんざいて、鈴は凜々《りり》しく鳴り渡り、はたと途絶えた。私たちは顔を見合わせていた。
「あんたやで」
 と新入りの徒弟が言った。私は辛うじて立上った。

 老師の机には私の拇印を捺《お》した証文がひろげられ、老師はその紙の一方をもたげて、廊下に膝《ひざ》を突いている私に示した。部屋へ上る許しはなかった。
「これはたしかにお前の拇印やな」
「はい」
 と私は答えた。
「困ったことをしてくれたな。今後こういうことがあったら、もう寺には置かれんから、そのつもりでいなさい。他にも数々……」言いかけて老師はおそらく柏木を憚《はばか》って口をつぐんだ。「金は儂《わし》から返しておくから、もう退《さが》ってよろしい」
 この一言で私には柏木の顔を見る裕《ゆと》りができた。彼は神妙な顔つきで坐《すわ》っていた。さすがに私から目を外《そ》らしていた。悪を行うときの彼は、彼自ら意識せずして、性格の芯《しん》が抜き出たような、もっとも純潔な表情をしていた。それを知っているのは私ばかりであった。
 自室にかえった私は、はげしい雨音の中で、孤独の中で俄かに解き放たれた。徒弟はすでにいなかった。
「もう寺には置かれんから」と老師は言った。私は老師の口からはじめてその言葉を聴き、いわば老師の言《げん》質《ち》をとったのである。突然事態は明瞭《めいりょう》になった。私の放逐がすでに老師の念頭にあるのであった。決行を急がなければ《?????????》ならぬ《???》。
 もし柏木が今夜のような行動に出ていなかったら、私が老師の口からその言葉をきく機会もなく、決行はさらに引延ばされたかもしれないのだ。私に踏切る力を与えてくれたのは柏木だと思うと、奇妙な感謝が彼に対して湧《わ》いた。
 雨は衰えるけしきもなかった。六月というのに肌寒く、板戸に囲まれた五畳の納《なん》戸《ど》は、暗い電燈の下に荒涼としてみえた。これが私の、やがて追い出されるかもしれぬ住《すみ》家《か》である。飾りとては何もなく、変色した畳の黒い縁《へり》は破れたまま、よじれて、固い糸を露《あら》わにしたりしていた。暗い部屋に入って電燈をつけるとき、私の足の指はよくそれに引っかかったが、繕《つくろ》うことはしなかった。私の生活の熱意は畳などと関《かか》わりはない。
 五畳の空間には、夏が近づくにつれ、私の酸《す》えた臭《にお》いがこもった。笑うべきことには私は僧侶《そうりょ》で、しかも青年の体臭を持っていた。臭いは古い黒光りのした四《よ》隅《すみ》の太い柱や、古い板戸にまでしみ入って、それらは歳月が折角さびを与えた木目のあいだから若い生物の悪臭を放っていた。それらの柱や板戸は、半ば腥《なまぐさ》い不動のいきものに化していた。
 そのとき、先程の奇異な足音が廊下を渡ってきた。私は立って廊下へ出た。かなたの老師の居間のあかりを受けた陸舟松が、濡《ぬ》れた黒っぽい緑の舳《へさき》を高くかかげているのを背にして、柏木は機械仕掛がふいに止ったような身振りで立ちすくんだ。私はというと、笑いをうかべていた。それを見て柏木がはじめて恐怖に近い感情を顔にあらわしたのに私は満足した。こう言った。
「部屋へ寄ってゆかないか」
「何だ。おどかすなよ。君は妙な人間だ」
 ――柏木はようよう、私のすすめる薄い座《ざ》蒲団《ぶとん》に、例のごとくうずくまるような動作でゆっくり横坐りに坐った。頭を上げて部屋を見まわした。雨音は厚い緞帳《どんちょう》のように戸外をとざしていた。濡縁《ぬれえん》に当るしぶきのなかから、時折障子のそこかしこにはね返る雨滴があった。
「まあ怨《うら》むなよ。こんな手に出ざるをえなくしたのも、結局君の自《じ》業《ごう》自《じ》得《とく》なんだから。それはそうと」と彼はポケットから、鹿苑寺と印刷した封筒を出して、札《さつ》をかぞえた。札は今年の正月から発行されている真新らしい千円札が三枚だけだった。私が言った。
「ここのお札はきれいだろ。老師が潔癖《けっぺき》だから、副《ふう》司《す》さんが三日おきに小《こ》銭《ぜに》を替えてもらいに銀行へゆくんだ」
「見ろ。たった三枚だ。君のとこの和尚《おしょう》の渋いことはどうだ。学生同士の貸し借りで、利子などということは認めないというんだ。自分はさんざん儲《もう》けてやがるくせに」
 柏木のこの思いがけぬ失望は、私を心から愉快にした。私は心おきなく笑い、柏木もそれに和した。しかしこんな和解もつかのま、笑いを納めた彼は、私の額のあたりを見ながら、突き離すようにこう言った。
「俺《おれ》にはわかるんだ。何かこのごろ、君は破滅的なことをたくらんでいるな」
 私は彼の視線の重みを支えるのに難渋した。が、破滅的という彼流の理解が、私の志すところから遠いのを思うと、落着きが戻ってきた。答はつゆ吃らなかった。
「いや。……何も」
「そうか。君は奇妙な奴《やつ》だな。俺が今まで会った中でいちばん奇妙な奴だ」
 その言葉は私の口辺から消えぬ親愛の微笑に向けられたものだとわかったが、私の中に湧《わ》き出した感謝の意味を、彼が決して察することはあるまいという確実な予想は、私の微笑をさらに自然にひろげた。世のつねの友情の平面で、私はこんな質問をした。
「もう国へかえるのかい」
「ああ。あしたかえるつもりだ。三ノ宮の夏か。あそこも退屈だが……」
「当分学校でも会えないな」
「何だ。ちっとも出て来ないくせに」――そう言いざま、柏木はそそくさと制服の胸の釦《ボタン》を外して、内かくしをまさぐった。「……国へかえる前にね、君を喜ばそうと思ってこれを持って来たんだ。君はむやみとあいつを高く買っていたからな」
 私の机の上に四五通の手紙がほうり出された。差出人の名を見て私が愕《おどろ》いたとき、柏木は事もなげにこう言った。
「読んでみたまえ。鶴川《つるかわ》の形《かた》見《み》だよ」
「君は鶴川と親しかったのか」
「まあね。俺流に親しかったのだ。しかしあいつは生前、俺の友達と見られることをひどくいやがっていた。それでいて俺にだけ、打明け話をしていたんだ。死んでもう三年たったから、人に見せてもいいだろう。特に君が親しかったから、君にだけはいつか見せるつもりだった」
 手紙の日附は、いずれも死の直前のものであった。昭和二十二年の五月の、ほとんど日毎に、東京から柏木へ宛《あ》てた手紙である。彼は私には一通も寄越さなかったが、これで見ると帰京の翌日から、毎日柏木に書き送っていたのであった。手跡は疑いもなく鶴川の、角ばった稚《ち》拙《せつ》な字である。私は軽い妬《ねた》みを抱いた。何一つ私の前にその透明な感情をいつわっていないようにみえた鶴川は、時には柏木を悪しざまに云って、私と柏木との交遊を非難しながら、自分はこれほど密な柏木との附合をひた隠しにしていたのである。
 私は日附の順序に、薄い便箋《びんせん》に書いた細字の手紙を読みだした。文章は例えようもなく下手で、思考はいたるところで滞《とどこお》り、読みとおすのは容易ではなかったが、その前後する文章の裏からおぼろげな苦痛がうかんで来、あとの日附の手紙を読むころには、鶴川の苦痛の鮮明さが目《ま》の当りに在った。読み進むにつれて私は泣いた。泣きながら、一方心は、鶴川の凡庸《ぼんよう》な苦悩に呆《あき》れていた。
 それはどこにでもある小さな恋愛事件にすぎなかった。親の許さぬ相手との不幸な世間知らずの恋にすぎなかった。しかし書いている鶴川自身がしらぬ間《ま》に犯していた感情の誇張であろうが、次のような一句は私を愕然《がくぜん》とさせた。
「今、思うと、この不幸な恋愛も、僕の不幸な心のためかとも思える。僕は生れつき暗い心を持って生れていた。僕の心は、のびのびした明るさを、ついぞ知らなかったように思える」
 読みおわった最後の手紙の末尾が、激湍《げきたん》のような調子で切れていたので、そのときはじめて私は今まで夢想もしなかった疑惑に目ざめた。
「もしかすると……」
 言いかけた私に、柏木はうなずいた。
「そうだよ。自殺だったんだ。俺にはそうとしか思えない。家の人が世間体を繕《つく》ろってトラックなんかを持ち出したんだろう」
 私は怒りに吃《ども》りながら、柏木の答を迫った。
「君は返事は書いたんだろうな」
「書いた。しかし死んだあとに届いたそうだ」
「何と書いた」
「死ぬなと書いた。それだけだ」
 私は黙った。
 感覚が私をあざむいたことはないという私の確信は徒《あだ》になった。柏木は止《とど》めを刺した。
「どうしたね。それを読んで人生観が変ったかね。計画はみんな御破算かね」
 柏木が三年後に私にこれを見せた企《たく》らみの意味は明瞭《めいりょう》だった。しかしかほどの衝撃を受けながら、夏草の繁みに寝ころんでいた少年の白いシャツの上に小さな斑《まだ》らを散らしていた朝日の木洩《こも》れ陽《び》は、私の記憶から去らなかった。鶴川は死に、三年後にこのように変貌《へんぼう》したが、彼に託していたものは死と共に消えたと思われたのに、この瞬間、却《かえ》って別の現実性を以て蘇《よみがえ》って来た。私は記憶の意味よりも、記憶の実質を信じるにいたった。もはやそれを信じなければ生そのものが崩壊するような状況で信じたのである。……しかし柏木は私を見下ろしながら、今しがた彼の手が敢《あえ》てした心の殺戮《さつりく》に満ち足りていた。
「どうだ。君の中で何かが壊れたろう。俺は友だちが壊れやすいものを抱いて生きているのを見るに耐えない。俺の親切は、ひたすらそれを壊すことだ」
「まだ壊れなかったらどうする」
「子供らしい負け惜しみはやめにするさ」と柏木は嘲笑《ちょうしょう》した。「俺は君に知らせたかったんだ。この世界を変貌させるものは認識だと。いいかね、他のものは何一つ世界を変えないのだ。認識だけが、世界を不変のまま、そのままの状態で、変貌させるんだ。認識の目から見れば、世界は永久に不変であり、そうして永久に変貌するんだ。それが何の役に立つかと君は言うだろう。だがこの生を耐えるために、人間は認識の武器を持ったのだと云おう。動物にはそんなものは要らない。動物には生を耐えるという意識なんかないからな。認識は生の耐えがたさがそのまま人間の武器になったものだが、それで以て耐えがたさは少しも軽減されない。それだけだ」
「生を耐えるのに別の方法があると思わないか」
「ないね。あとは狂気か死だよ」
「世界を変貌させるのは決して認識なんかじゃない」と思わず私は、告白とすれすれの危険を冒しながら言い返した。「世界を変貌させるのは行為なんだ。それだけしかない」
 果して柏木は、その冷たい貼《は》りついたような微笑で私をうけとめた。
「そら来た。行為と来たぞ。しかし君の好きな美的なものは、認識に守られて眠りを貪《むさぼ》っているものだと思わないかね。いつか話した『南泉斬猫《なんせんざんみょう》』のあの猫だよ。たとえようもない美しいあの猫だ。両堂の僧が争ったのは、おのおのの認識のうちに猫を護り、育《はぐ》くみ、ぬくぬくと眠らせようと思ったからだ。さて南泉和尚は行為者だったから、見事に猫を斬《き》って捨てた。あとから来た趙州《ちょうしゅう》は、自分の履《くつ》を頭に乗せた。趙州の言おうとしたことはこうだ。やはり彼は美が認識に守られて眠るべきものだということを知っていた。しかし個《?》々の《?》認識、おのおのの《?????》認識というものはないのだ。認識とは人間の海でもあり、人間の野原でもあり、人間一般の存在の様態なのだ。彼はそれを言おうとしたんだと俺は思う。君は今や南泉を気取るのかね。……美的なもの、君の好きな美的なもの、それは人間精神の中で認識に委託された残りの部分、剰余《じょうよ》の部分の幻影なんだ。君の言う『生に耐えるための別の方法』の幻影なんだ。本来そんなものはないとも云えるだろう。云えるだろうが、この幻影を力強くし、能《あた》うかぎりの現実性を賦《ふ》与《よ》するのはやはり認識だよ。認識にとって美は決して慰《い》藉《しゃ》ではない。女であり、妻でもあるだろうが、慰藉ではない。しかしこの決して慰藉ではないところの美的なものと、認識との結婚からは何ものかが生れる。はかない、あぶくみたいな、どうしようもないものだが、何ものかが生れる。世間で芸術と呼んでいるのはそれさ」
「美は……」と言いさすなり、私は激しく吃った。埒《らち》もない考えではあるが、そのとき、私の吃りは私の美の観念から生じたものではないかという疑いが脳《のう》裡《り》をよぎった。「美は……美的なものはもう僕にとっては怨敵《おんてき》なんだ」
「美が怨敵だと?」――柏木は大仰《おおぎょう》に目をみひらいた。彼の上気した顔には常ながらの哲学的爽快《そうかい》さが蘇っていた。「何という変りようだ、君の口からそれを聴くとは。俺も自分の認識のレンズの度を、合わせ直さなくちゃいかんぞ」
 ……それからのちも、われわれは久々に親しい議論のやりとりをした。雨はやまなかった。帰りぎわに、柏木が私のまだ見ぬ三ノ宮や神戸港の話をし、夏の港を出てゆく巨船のことなどを語った。私は舞鶴の思い出に目ざめた。そしてどんな認識や行為にも、出帆《しゅっぱん》の喜びはかえがたいだろうという空想で、私たち貧しい学生の意見ははじめて一致を見た。



第九章

 老師がいつも訓戒を垂れる代りに、あたかもまた訓戒を垂れるべき場合に、却《かえ》って私に恩恵を施《ほどこ》して来たのはおそらく偶然ではあるまい。柏木《かしわぎ》が金をとりに来た五日後に、老師は第一期分の授業料の三千四百円と、通学電車賃の三百五十円と、文房具購入代としての五百五十円とを、私を呼んで手ずから渡した。夏休み前に授業料を払込む校則であったが、あのようなことがあったあとでは、私はまさか老師がその金を呉《く》れるとは思っていなかった。よし金を呉れる気持があっても、私が信頼できないことを知った以上、老師は直接学校へその金を郵送するだろうと思われたのである。
 しかしこうして私の手に金が渡されても、私に対する信頼の虚偽であることは、老師以上に私がよく知っていた。老師が無言でさずける恩恵には、老師のあの柔らかい桃いろの肉と似たものがあった。いつわりに富んだ肉、裏切りに処するに信頼を、信頼に処するに裏切りを以《もっ》てする肉、どんな腐敗にも犯されず、ひっそりと温かく薄桃いろに繁殖する肉。……
 由良《ゆら》の旅館へ警官が来たときに、咄《とっ》嗟《さ》に私が発覚を怖《おそ》れたように、又しても私は、老師が私の計画を見抜いていて、金を与えて決行のきっかけを外させようとしているのではないかと、妄想《もうそう》にちかい怖れを抱いた。その金を大事に持っているあいだは、決行の勇気が湧《わ》かないような気がした。一日も早く、その金の使途を見つけなければならぬ。貧しい者に限って、金のよい使途が思い浮ばぬものである。老師がそれと知ったら激怒せずにいられぬような、そして即刻私を寺から放逐せずには措《お》かぬような、そういう使途を見つけ出さねばならぬ。
 その日私は炊事の当番であった。薬石《やくせき》のあと、典《てん》座《ぞ》で皿小鉢を濯《すす》ぎながら、すでに静かになった食堂《じきどう》のほうを何気なく見た。典座との境に立つ煤《すす》で黒光りのする柱には、あらかた変色したお札《ふだ》が貼られている。
 
阿多古《あたご》
火《ひ》 迺《の》 要《よう》 慎《じん》
祀符《しふ》
 ……私の心に、この護符が封じ込めている囚《とら》われの火の蒼《あお》ざめた姿が見えた。かつては華やいでいたものが、古い護符のうしろに、白くほのかに病み衰えているのが見えた。火の幻にこのごろの私が、肉慾を感じるようになっていたと云ったら、人は信じるだろうか? 私の生きる意志がすべて火に懸っていたのであれば、肉慾もそれに向うのが自然ではなかろうか? そして私のその欲望が、火のなよやかな姿態を形づくり、焔《ほのお》は黒光りのする柱を透かして、私に見られていることを意識して、やさしく身づくろいをするように思われた。その手、その肢《あし》、その胸はかよわかった。

 六月十八日の晩、私は金を懐ろにして、寺を忍び出て、通例五番町《ごばんちょう》と呼ばれる北新《きたしん》地《ち》へ行った。そこが安くて、寺の小僧などにも親切にしてくれるということは聞き知っていた。五番町は鹿苑《ろくおん》寺《じ》から、歩いても三四十分の距離である。
 湿気の高い晩だったが、うすぐもりの空に月がおぼめいていた。私はカーキいろのズボンに、ジャンパーを羽織り、下駄《げた》を穿《は》いていた。おそらく数時間後に、私は同じ服装で帰って来るだろう。しかしその中身の私が、ちがう人間になっているという予想を、どうやって自分に納得させたものだろう。
 私はたしかに生きるために金閣を焼こうとしているのだが、私のしていることは死の準備に似ていた。自殺を決意した童貞の男が、その前に廓《くるわ》へ行くように、私も廓へ行くのである。安心するがいい。こういう男の行為は一つの書式に署名するようなもので、童貞を失っても、彼は決して「ちがう人間」などになりはしない。
 あのたびたびの挫《ざ》折《せつ》、女と私の間を金閣が遮《さえぎ》りに来たあの挫折は、今度はもう怖れなくていい。私は何も夢みてはいず、女によって人生に参与しようなどと思ってはいないからだ。私の生はその彼方《かなた》に確《かっ》乎《こ》と定められ、それまでの私の行為は陰惨な手続にすぎないからだ。
 ……私はそう自分に云いきかせた。すると柏木の言葉が蘇《よみがえ》って来た。
『商売女は客を愛して客をとるわけではない。老人でも、乞食《こじき》でも、目っかちでも、美男でも、知らなければ癩者《らいしゃ》でも客にとるだろう。並の人間なら、こういう平等性に安心して、最初の女を買うだろう。しかし俺《おれ》にはこの平等性が気に喰《く》わなかった。五体の調った男とこの俺とが、同じ資格で迎えられるということが我慢がならず、それは俺にとっては怖ろしい自己冒涜《ぼうとく》に思われた』
 思い出したこの言葉は、今の私にとって不快であった。しかし吃《ども》りはともあれ五体の調った私は、柏木とちがって、自分のごく月並な醜さを信じればよかったのである。
『……とはいうものの、女がその直感で、私の醜い額の上に、何か天才的犯罪者のしるしのようなものを読み取らないだろうか?』
 と私は又、愚にもつかぬ不安を抱いた。
 私の足は捗《はかど》らなくなった。思いあぐねた末には、一体金閣を焼くために童貞を捨てようとしているのか、童貞を失うために金閣を焼こうとしているのかわからなくなった。そのとき、意味もなしに「天《てん》歩《ぽ》艱難《かんなん》」という高貴な単語が心に浮び、「天歩艱難々々々々」とくりかえし呟《つぶや》きながら歩いた。
 とこうするうちに、パチンコ屋や呑《の》み屋の明るい賑《にぎ》わいの尽きるところに、蛍光燈《けいこうとう》と仄《ほの》白《じろ》い行燈《あんどん》とが、闇のなかに規則正しい連なりを見せている一角が見えはじめた。

 寺を出るときからこの一角に、私は有為子《ういこ》がなお生きていて、隠れ棲《す》んでいるという空想にとらわれていた。空想は私を力づけた。
 金閣を焼こうと決心して以来、私はふたたび少年時代のはじめのような新らしい無垢《むく》の状態にいたのであるから、人生のはじめに会った人々や事物に、もう一度めぐり会うことがあってよい筈《はず》だ。そう私は考えた。
 これから私は生きる筈であるのに、ふしぎなことに、日ましに不吉な思いが募って、明日にも死が訪れるように思われ、金閣を焼くまでは死がどうか私を見のがしてくれるように祈った。決して病気ではなく、病気の兆もなかった。しかし私を生かしている諸条件の調整やその責任が、のこらず私一人の肩にかかって来たという重みを、日ましに強く感じるようになったのである。
 きのう掃《そう》除《じ》のあいだに、人差指が箒《ほうき》の簓《ささら》に傷つけられたとき、こんな些《さ》細《さい》な傷さえ不安の種子《たね》になった。薔薇《ばら》の棘《とげ》に指先を傷つけられたのが死の因《もと》になった詩人のことが思い浮んだ。そこらの凡庸《ぼんよう》な人間はそんなことでは死なない。しかし私は貴重な人間になったのだから、どんな運命的な死を招き寄せるか知れなかった。指の傷は幸いに膿《うみ》を持たず、きょうはそこを押すと微《かす》かに痛むだけであった。
 五番町へ行くにつけても、私が衛生上の注意を怠らなかったのは云うまでもない。前日から、顔を知られていない遠い薬屋まで行って、私はゴム製品を買っておいた。粉っぽいその膜《まく》はいかにも無気力な不健康な色をしていた。昨夜私はそのひとつを試してみた。茜《あかね》いろのクレパスで戯《たわむ》れに描いた仏画や、京都観光協会のカレンダーや、丁度仏頂尊勝陀羅《だら》尼《に》のところがあけられている経文の禅林日課や、汚れた靴下や、笹《ささ》くれ立った畳や、……こうしたものの只中《ただなか》に、私のものは、滑《なめ》らかな灰いろの、目も鼻もない不吉な仏像のように立っていた。その不快な姿が、今は語り伝えにだけ残っているあの羅《ら》切《せつ》という兇暴《きょうぼう》な行為を私に思い起させた。

 ……さて私は行燈をつらねた横丁へ歩み入った。
 百数十軒の家はことごとく同じ造作だった。ここでは総元締の親分をたよれば、お尋ね者も容易にかくまわれると云われていた。親分がベルを鳴らすと、遊廓《ゆうかく》じゅうの一軒々々にひびき渡り、お尋ね者に危険を知らせるのだそうである。
 どの家も入口の横に暗い櫺《れん》子《じ》窓《まど》を持ち、どの家も二階建であった。重い古い瓦《かわら》屋根が、同じ高さで、湿った月の下に押し並んでいた。どの入口にも、「西陣」と白く染め抜いた藍《あい》のれんを掛け、割烹《かっぽう》着《ぎ》の遣《やり》手《て》が、身を斜《はす》にして、のれんの端からおもてを窺《うかが》っていた。
 私には快楽の観念は少しもなかった。何かの秩序から見離されて、一人だけ列を離れて、疲れた足を引きずって、荒涼とした地方を歩いて行くような気がした。欲望は私のなかで、不機嫌な背中を見せて、膝《ひざ》を抱いてうずくまっていた。
『とにかくここで、金を使うことが私の義務なんだ』と考えつづけた。『とにかくここで授業料を使い果せばいい。そうすれば老師に、尤《もっと》も至極な放逐の口実を与えることになるからだ』
 私はそんな考えに奇妙な矛盾《むじゅん》を見出さずにいたが、もしこれが私の本心だとすれば、私は老師を愛していなければならなかった筈である。
 まだ出《で》盛《さか》る時刻ではないのか、その町にはふしぎに人通りが少なかった。私の下駄の音はあらわにひびいた。遣手たちの呼びかける単調な声《こわ》音《ね》が、梅雨《つゆ》時《どき》の低く垂れた湿った空気の中を這《は》いずりまわるように聴かれた。私の足の指は、ゆるんだ鼻《はな》緒《お》をしっかと挟《はさ》んでいた。そしてこう思った。終戦後、不動山の頂きから眺《なが》めた夥《おびただ》しい灯の中には、確実にこの町の灯も在ったのだと。
 私の足がみちびかれてゆくところに、有為子はいる筈だった。とある四《よ》つ辻《つじ》の角店に、「大滝」という家があった。やみくもに私はそこの暖《の》簾《れん》をくぐった。畳六帖《じょう》ほどのタイルを敷いた一間が突先《とっさき》にあり、奥の腰掛けに三人の女が、まるで汽車を待ちくたびれたような風《ふ》情《ぜい》で腰かけていた。一人は和服で、首に繃帯《ほうたい》を巻いていた。洋装の一人はうつむいて、靴下をずり下ろして、腓《こむら》のところをしきりに掻《か》いていた。有為子は留守だった《?????????》。その留守だったことが私を安心させた。
 足を掻いていた女が、呼ばれた犬のように顔をあげた。その丸い、すこし腫《は》れたような顔は、童画風の鮮やかさで、白粉《おしろい》と紅《べに》に隈《くま》取《ど》られていたが、私を見上げた目つきには、奇妙な言い方だが、実に善意があった。女はいかにも、町角でぶつかった知らぬ人同士のように私を見たのである。その目は私のなかに全然欲望を認めていなかった。
 有為子が留守だとすれば、誰でもよかった。選んだり、期待したりしたら、失敗するという迷信が私に残っていた。女が客を選ぶ余地がないように、私も女を選ばなければよいのだ。あの怖《おそ》ろしい、人を無気力にする美的観念が、ほんのわずかでも介入して来ないようにしなければならぬ。
 遣手がきいた。
「どの子供っさんにおしやす」
 私は足を掻いていた女を指さした。彼女の足をそのとき伝わっていた小さな痒《かゆ》みが、おそらくそこのタイルのおもてをうろついていた藪《やぶ》蚊《か》の刺し跡が、私と彼女をつないだ縁であった。……その痒みのおかげで、彼女はのちのち、私の証人になる権利を獲得するだろう。
 女は立上って、私のそばへ来て、唇《くちびる》をまくり上げるように笑って、私のジャンパアの腕に少し触った。

 暗い古い階段を二階へのぼるあいだ、私はまた有為子のことを考えていた。何かこの時間、この時間における世界を、彼女は留守にしていたのだという考えである。今ここに留守である以上、今どこを探しても、有為子はいないに相違なかった。彼女はわれわれの世界のそとの風呂屋《ふろや》かどこかへ、一寸《ちょっと》入浴に出かけているらしかった。
 私には有為子は生前から、そういう二重の世界を自由に出入りしていたように思われる。あの悲劇的な事件のときも、彼女はこの世界を拒むかと思うと、次には又受け容《い》れていた。死も有為子にとっては、かりそめの事件であったかもしれない。彼女が金剛院の渡殿《わたどの》に残した血は、朝、窓をあけると同時に飛び翔《た》った蝶《ちょう》が、窓枠《まどわく》に残して行った鱗粉《りんぷん》のようなものにすぎなかったのかもしれない。

 二階の中央に、中庭の吹き抜けになった部分を古い透かし彫《ぼり》の欄干《らんかん》で囲んだところがあって、そこに赤い腰巻や、パンティや、寝間着などが、軒から軒へ渡した物干竿《ものほしざお》にかけてあった。大そう暗くて、おぼろげな寝間着は人の姿のように見えた。
 どこかの部屋で女が歌をうたっていた。女の歌はなだらかにつづき、ときどき調子外れの男の歌声がそれに和した。歌が切れて、短かい沈黙があったのち、糸が切れたように女が笑い出した。
「――子さんやわ」
 と私の敵娼《あいかた》が遣手に言った。
「いつもいつもああやさかいな」
 遣手は笑い声のするほうへ頑《かたく》なに四角い背を向けていた。私の通されたその小座敷は、殺風景な三畳の間で、水屋のようなところを床の間代りに、布《ほ》袋《てい》と招き猫が散漫に置いてある。壁には細かい箇条書を貼《は》り、カレンダーが掛けてある。三、四十燭《しょく》の暗い灯が下っている。開け放った窓からは、おもての嫖客《ひょうかく》の足音がまばらにひびいた。
 遣手がお時間か泊りかと私にたずねた。お時間は四百円であった。私はそれから酒と摘《つま》みものを頼んだ。
 遣手がそれを取りに階下へ下りても、女は私のそばへ寄って来なかった。寄って来たのは、酒をもって来た遣手が促してからである。近くでみると、女は鼻の下のところが、こすれて少し赤くなっていた。足ばかりではなく、退屈しのぎに、彼女はほうぼうを掻いたり擦《こす》ったりする癖《くせ》があるらしい。しかし鼻の下のこの仄《ほの》かな赤みは、もしかすると紅がはみ出したものかもしれなかった。
 私が生れてはじめての登楼に、そんなに仔《し》細《さい》な観察を働らかしたのを訝《いぶか》ってはならない。自分の見える限りのものから、私は快楽の証拠を探し出そうとしていた。すべてが銅版《どうばん》画《が》のように精密に眺《なが》められ、しかも精密なまま、それらは私から一定の距離のところに平らに貼りついていた。
「お客さん、前に見たことあるわ」
 と女は、まり子という自分の名を告げたあとで言った。
「はじめてだよ」
「こういうところ、本当にはじめて?」
「はじめてだよ」
「そうだろうな。手がふるえてるもの」
 そう言われてから、私は猪《ちょ》口《く》をもつ自分の手が慄《ふる》えているのに気づいた。
「ほんまやったら、まり子さんは今夜はまん《??》がええな」と遣手が言った。
「ほんまかどうか、もうじきわかるわねえ」
 とまり子はぞんざいに言った。しかしその言葉に肉感はなく、まり子の心は、私の肉体とも彼女の肉体とも関わりのない場所に、遊びはぐれた子供のように、遊んでいるのが私には見てとれた。まり子は薄みどりのブラウスに、黄いろいスカートをはいていた。朋輩《ほうばい》に借りていたずらをしたのか、両手の親指の爪だけを赤く染めていた。

 やがて八畳の寝間に入ったとき、まり子は蒲《ふ》団《とん》の上へ片足を踏み出して、電燈の傘《かさ》から長く垂れた紐《ひも》を引いた。明りの下にあざやかな友禅《ゆうぜん》の蒲団がうかび上った。仏蘭西《フランス》人形を飾った立派な床の間のついた部屋である。
 私は不器用に脱衣した。まり子は薄桃いろのタオル地のゆかたを肩にかけ、その下でたくみに洋服を脱いでいた。私は枕《まくら》もとの水をたんと呑《の》んだ。その水音をきいて、
「あんた、水呑みやねえ」
 と女はむこうを向いたまま笑っていた。そして床に入って顔を見合わせてからも、私の鼻を指先で軽くつついて、
「本当にはじめて遊ぶの」
 と云って笑った。暗い枕行燈《まくらあんどん》のあかりの中でも、私は見ることを忘れなかった。見ることが私の生きている証拠だったから。それにしても他人の二つの目が、こんなに近くに在るのを見るのははじめてだった。私の見ていた世界の遠近法は崩壊した。他人はおそれげもなく私の存在を犯し、その体温や安香水の匂《にお》いもろとも、少しずつ水嵩《みずかさ》を増して浸水し、私を涵《ひた》してしまった。私は他人の世界がこんな風に融けてしまうのをはじめて見た《??》のである。
 私は全く普遍的な単位の、一人の男として扱われていた。誰も私をそんな風に扱えるとは想像していなかった。私からは吃りが脱ぎ去られ、醜さや貧しさが脱ぎ去られ、かくて脱衣のあとにも、数限りない脱衣が重ねられた。私はたしかに快感に到達していたが、その快感を味わっているのが私だとは信じられなかった。遠いところで、私を疎《そ》外《がい》している感覚が湧《わ》き立ち、やがて崩折れた。……私は忽《たちま》ち身を離して、額を枕にあてがい、冷えて痺《しび》れた頭の一部を、拳《こぶし》で軽く叩《たた》いた。それから、あらゆるものから置き去りにされたような感じに襲われたが、それも涙の出るほどではなかった。

 事の後の寝物語に、女が名古屋から流れて来たことなどを話しているのを、おぼろげに聴きながら、私は金閣のことばかり考えていた。それは実に抽象的な思《し》索《さく》で、いつものように肉感の重く澱《よど》んだ考えではなかった。
「又来なさいよね」
 と女の言う言葉で、まり子が私より一つ二つ年上だという感じがした。事実そうなのに違いなかった。乳房は私のすぐ前に在って汗ばんでいた。決して金閣に変貌《へんぼう》したりすることのない唯《ただ》の肉である。私はおそるおそる指先でそれに触った。
「こんなもの、珍らしいの」
 まり子はそう言って身をもたげ、小動物をあやすように、自分の乳房をじっと見て軽く揺った。私はその肉のたゆたいから、舞鶴湾の夕日を思い出した。夕日のうつろいやすさと肉のうつろいやすさが、私の心の中で結合したのだと思われる。そしてこの目前の肉も夕日のように、やがて幾重の夕雲に包まれ、夜の墓穴深く横たわるという想像が、私に安《あん》堵《ど》を与えた。



 同じ店の同じ女を訪ねて、その明る日も私は行った。金が十分残ったからばかりではない。最初の行為が、想像裡《り》の歓喜に比べていかにも貧しかったので、それをもう一度試みて、少しでも想像上の歓喜に近づける必要があったのだ。私の現実生活における行為は、人とはちがって、いつも想像の忠実な模倣に終る傾きがある。想像というのは適当ではない。むしろ私の源《みなもと》の記憶と云いかえるべきだ。人生でいずれ私が味わうことになるあらゆる体験は、もっとも輝やかしい形で、あらかじめ体験されているという感じを、私は拭《ぬぐ》うことができない。こうした肉の行為にしても、私は思い出せぬ時と場所で、(多分有為子と)、もっと烈《はげ》しい、もっと身のしびれる官能の悦《よろこ》びをすでに味わっているような気がする。それがあらゆる快さの泉をなしていて、現実の快さは、そこから一掬《いっきく》の水を頒《わ》けてもらうにすぎないのである。
 たしかに遠い過去に、私はどこかで、比《なら》びない壮麗な夕焼けを見てしまったような気がする。その後に見る夕焼けが、多かれ少なかれ色《いろ》褪《あ》せて見えるのは私の罪だろうか?
 きのう女が、あまりに私を人並に扱ったので、きょう私は、数日前に古本屋で買った古い文庫本をポケットに入れて行った。ベッカリーアの「犯罪と刑罰」である。この十八世紀イタリヤの刑法学者の本は、啓蒙《けいもう》主義と合理主義の古典的な定食料理で、数頁読むなり私は投げ出してしまったが、もしかして女がその題名に興味をもつかと思ったのである。
 まり子は、きのうと同じ微笑で私を迎えた。同じ微笑ではあったが、「昨日」はどこにもその痕跡《こんせき》を残していなかった。そして私に対する親しみには、どこかの町角でちらと会った人間に対する親しみがあったが、それというのも彼女の肉体がどこかの町角のようなものだったからであろう。
 小座敷の酒のやりとりは、もうそれほどぎこちなくはなかった。
「ちゃんと裏を返しておくれやして、お若いのに粋《いき》なことどすなあ」
 遣手がそう言うと、
「でも、毎日来て、和尚《おしょう》さんに叱《しか》られない?」とまり子は言い、見破られた私のおどろいた顔つきを見てこう言った。「そりゃあわかるわ。今はリーゼントばかりで、五分《ごぶ》刈《がり》やったら、お寺さんに決ってるもの。家《うち》なんか、今は偉い坊さんになってる方《かた》が、若いときは大抵見えてるんだって。……さあさ、歌でもうたいましょう」
 まり子は藪《やぶ》から棒《ぼう》に、港の女がどうとかしたという時花《はやり》歌《うた》をうたいはじめた。
 そして二度目の行為は、すでに見馴《みな》れた環境の中で、とどこおりなく気楽に運んだ。今度は私も快楽を瞥見《べっけん》したように思ったが、それは想像していた類《たぐ》いの快楽ではなく、自分がそのことに適応していると感じる自堕《じだ》落《らく》な満足にすぎなかった。
 事の後で女が年上らしく私に感傷的な訓戒を与えたのが、私のほんのつかのまの感興をも壊してしまった。
「あんまりこんなところへ来ないほうがいいと思うわ」とまり子は言ったのである。「あんたはまじめな人だもの。そう思うもの。深入りせんと、まじめに商売に精出したほうがいいと思うわ。来てほしいことは来てほしいけど、私がこう言う気持、わかってもらえるわねえ。あんたが弟みたような気持がするんだもの」
 おそらくまり子は、何かの三文小説でそういう会話を学んでいた。それはそんなに深い気持で言った言葉ではなく、私を相手にして一つの小さな物語を仕組んで、まり子の作った情緒《じょうちょ》を私が共にしてくれることを期待していた。それに応《こた》えて私が泣いてくれれば、さらによかった。
 しかし私はそうしなかった。いきなり枕もとから、「犯罪と刑罰」をとって、女の鼻先へつきつけた。
 まり子は素直に文庫本の頁をめくった。何も言わずに、もとのところへほうり投げた。もうその本は彼女の記憶を去っていた。
 私は女が、私と会ったという運命に、何かの予感を感じてくれることをのぞんでいた。世界の没落に手を貸しているという意識に、少しでも近づいてくれるようにのぞんだ。それは女にとっても、どうでもよいことではない筈《はず》だと私は考えた。こうした焦慮のあげく、とうとう言うべきでないことを私は言った。
「一ト月、……そうだな、一ト月以内に、新聞に僕のことが大きく出ると思う。そうしたら、思い出してくれ」
 言い了《おわ》ると、私は激しく動《どう》悸《き》していた。しかしまり子は笑い出した。乳房をゆすって笑い、私をちらちら見ながら、袂《たもと》を噛《か》んで笑いをこらえるが、又新たな笑いに小突きまわされて、体じゅうが慄《ふる》えた。何がそんなに可笑《おか》しいのか、まり子にも説明できなかったにちがいない。それに気がついて、女は笑い止《や》んだ。
「何が可笑しいんだ」と私は愚問を発した。
「だって、あんたって嘘《うそ》つきだねえ。ああ、おかしい。あんまり嘘つきなんだもの」
「嘘なんか言わない」
「もう止《よ》して。ああ、おかしい。笑い殺されちゃう。嘘ばっかり言ってさ、まじめな顔をして」
 まり子は又笑った。その笑いは実に単純な理由、勢い込んで言った私の言葉が異様に吃《ども》ったからにすぎなかったかもしれない。とにかくまり子は完全に信じなかった。
 彼女は信じなかった。目前に地震が起っても、彼女は信じなかったにちがいない。世界が崩壊しても、この女だけは崩壊しないかもしれない。何故ならまり子は、自分の考える筋道どおりに起る事柄《ことがら》しか信じないのに、世界がまり子の考えるように崩壊することはありえず、まり子がそんなことを考える機会も金輪際《こんりんざい》なかったからだ。その点でまり子は柏木に似ていた。女の、考えない柏木が、まり子であった。
 話題が途絶えたので、乳房をあらわにしたまま、まり子は鼻歌をうたった。するとその鼻歌が蠅《はえ》の羽音にまぎれた。蠅が彼女のまわりを飛んでいて、たまたま乳房にとまっても、まり子は、
「くすぐったいわねえ」
 と言うだけで、追うでもなかった。乳房にとまるとき、蠅はいかにも乳房に密着していた。おどろかされたことには、まり子にはこの愛《あい》撫《ぶ》が満更でもないらしかった。
 軒庇《のきびさし》に雨音がした。それはそこだけに降っているような雨音だった。雨がひろがりを失って、この町の一隅に迷い込んで、立ちすくんでいると云った風である。その音は、私の居る場所のように、広大な夜から切り離された、枕行燈の仄明《ほのあか》りの下だけのような、局限された世界の雨音であった。
 蠅は腐敗を好むなら、まり子には腐敗がはじまっているのか? 何も信じないということは腐敗なのか? まり子が自分だけの絶対の世界に住んでいるということは、蠅に見舞われることなのか? 私にはそれがわからなかった。
 しかし突然、死のような仮睡《まどろみ》に落ちた女の、枕もとの明りに丸く照らされた乳房の明るみの上では、蠅も亦《また》、急に眠りに落ちたかのように動かなかった。



 私は二度と「大滝」へ行かなかった。なすべきことは終った。あとは老師が授業料の使途に気づいて、私を放逐することが残っているだけだ。
 が、私は決して老師に、この使途を暗示するような行動に出なかった。告白は不要であり、告白しなくても、老師が嗅《か》ぎつけてくれる筈だったのである。
 どうしてそこまで私が、或る意味で老師の力に信頼し、老師の力を借りようとしているのか、説明はむずかしかった。自分の最後の決断を、又しても老師の放逐に委《ゆだ》ねようとしているのかわからなかった。私が夙《つと》に老師の無力を見きわめていたことは、前にも述べたとおりである。
 二度目の登楼の数日のち、私は老師のこんな姿を見たことがある。
 老師としてはめずらしいことであるが、その日の朝早く、開園前の金閣のほとりへ散歩に出かけた。私たちの掃《そう》除《じ》にねぎらいの言葉をかけ、老師は涼しげな白衣で、夕《せっ》佳《か》亭へむかう石階を登って行った。そこで一人でお茶でも点《た》てて心を澄ますのだろうと思われた。
 その日の朝空には、烈しい朝焼けの名残《なごり》があった。空の青のそこかしこに、まだ紅《あか》く照り映《は》えている雲が動いていた。雲がまだ含羞《はじらい》から醒《さ》め切らぬかのようであった。
 掃除がすんで、私たちはおのがじし本堂へ帰りかけたが、私だけは夕佳亭の横をとおって大書院の裏手へ出る裏道から帰った。大書院の裏手の掃除が残っていたからである。
 私は箒《ほうき》を携えて金閣寺垣に囲まれた石段をのぼり、夕佳亭のかたわらに出た。木々は昨夜までの雨に濡《ぬ》れていた。灌木《かんぼく》の葉末のおびただしい露には、朝焼けの名残が映って、時ならぬ淡紅の実《み》が生《な》ったかのようである。露をつないだ蜘蛛《くも》の巣もほのかに紅《あか》みがさしてわなないている。
 私は地上の物象が、こんなにも敏感に天上の色を宿しているのを、一種の感動を以て眺《なが》めた。寺《じ》内《ない》の緑に立ちこめている雨の潤《うるお》いも、すべて天上から享《う》けたものであった。それらはあたかも恩寵《おんちょう》を享けたように濡れそぼち、腐敗とみずみずしさの入りまじった香《か》を放っていたが、それというのも、それらは拒む術《すべ》を知らないからだった。
 周知のとおり、夕佳亭に接して拱北楼《きょうほくろう》があり、その名は、「北辰之居 其所 而衆星拱 之」に出ている。しかし今の拱北楼は、義《よし》満《みつ》が威令を振《ふ》っていたころのものとはちがって、百数十年前に再建して、丸形好みの茶席にしたのである。老師の姿は夕佳亭には見えなかったので、多分拱北楼にいるらしかった。
 私は一人きりで老師に顔を合わしたくはなかった。生垣ぞいに身を屈して歩けば、むこうからは見えない筈だ。そのようにして、足音をひそめて歩いた。
 拱北楼は開け放たれていた。常のように、床《とこ》には円山応挙《まるやまおうきょ》の軸が見える。白檀《びゃくだん》を彫ったのが歳月と共に黒くなった天竺《てんじく》渡りの繊巧な細工の厨子《ずし》が床の間に飾ってある。左方に利《り》休《きゅう》好みの桑棚《くわだな》も見える。襖絵《ふすまえ》も見える。老師の姿だけが見えないので、思わず首を生垣の上へもたげて見まわした。
 床柱のわきの仄暗《ほのぐら》いあたりに、大きな白い包みのようなものが見える。よく見ると老師である。白衣の身を曲げるだけ曲げて、頭を膝《ひざ》の間に擁して、両袖《りょうそで》で顔を覆《おお》うて、うずくまっているのである。
 その姿勢のまま、老師は動かない。いっかな動かない。却《かえ》って見ている私のほうに、さまざまな感情が去来した。
 はじめ私の思ったのは、老師が何か急激な病気に襲われ、発作に耐えているのだろうということであった。私はすぐ立寄って介抱に当ればよかった。
 しかし私を引止める別の力があった。どんな意味ででも私は老師を愛していず、明日《あす》にも放火の決心を固めているのだから、そんな介抱は偽善であり、又もし介抱して、その結果和尚に感謝や情愛を示されたら、それが私の心弱りになるという危惧《きぐ》があった。
 仔《し》細《さい》に見ると、老師は病気とは思われなかった。いずれにせよその姿勢は、矜《ほこ》りも威信も失くして、卑《いや》しさがほとんど獣《けもの》の寝姿を思わせた。袖がかすかに慄《ふる》えているのがわかり、何か見えない重いものがその背にのしかかっているようであった。
 その見えない重みは何だろうかと私は考えた。苦悩だろうか? それとも老師自身の耐えがたい無力感だろうか?
 耳が馴《な》れるにしたがって、老師がごく低く呟《つぶや》いている経文らしいものが聴かれたが、何の経文かわからない。私たちの知らぬ暗い精神生活が老師にはあって、それと比べたら、私が懸命に試みて来た小さな悪や罪や怠慢は、とるに足らぬものだという考えが、突然私の矜りを傷つけるために現われた。
 そうだ。そのとき私は気づいたのだが、老師のそのうずくまった姿は、僧堂入衆《にっしゅ》の歎願を拒まれた行脚僧《あんぎゃそう》が、玄関先で終日自分の荷物の上に頭を垂《た》れて過ごすあの庭詰《にわづめ》の姿勢に似ていた。もし老師ほどの高僧が、新来の旅僧のこのような修行の形を真似《まね》ているなら、その謙虚さはおどろくべきものがあった。何にむかって老師がそれほど謙虚になっているのかわからなかった。庭の下草や、木々の葉末や、蜘蛛《くも》の網《い》に宿った露が、天上の朝焼けに対して謙虚なように、老師も自分のものではない本源的な悪や罪業《ざいごう》に対して、それをそのまま獣の姿勢でわが身に映すほど、謙虚になっているのであろうか?
『私に見せているのだ!』と突然私は考えた。それにちがいない。私がここを通ることを知っていて、私に見せるためにああしているのだ。自分の無力をほとほと覚《さと》った老師は、最後に無言で私の心を引き裂き、私に憐憫《れんびん》の感情を起させ、ついには私の膝を屈させる、そういう世にも皮肉な訓誡《くんかい》の方法を発見したのだ!
 何やかと心迷いながら、その老師の姿を見ているうちに、危うく私が感動に襲われかけていたのは事実だった。力の限り否定しながら、私が老師をまさに愛慕しようとしているその境目のところにいたことは疑いがない。しかし『私に見せるためにそうしている』と考えたおかげで、すべてが逆転し、私は前よりも硬い心をわがものにした。
 放火の決行に、老師の放逐などをあてにすまいと、私が思い定めたのはこの時である。老師と私は、もうお互いに影響されることのない別の世界の住人になった。私は無礙《むげ》であった。もはや外の力に期待せずに、自分の思うまま、自分の思うときに決行すればよかった。
 朝焼けが色褪《あ》せると共に、空には雲が殖《ふ》え、拱北楼の濡縁《ぬれえん》からは鮮やかな日ざしが退いた。老師はうずくまったままだった。私は足早にそこを立去った。



 六月二十五日、朝鮮に動乱が勃発《ぼっぱつ》した。世界が確実に没落し破滅するという私の予感はまことになった。急がなければならぬ。



第十章


 五番町へ行ったあくる日、実は私はすでに一つの試みをしている。金閣の北側の板戸の二寸程の釘《くぎ》を二本抜いておいたのである。
 金閣の第一層法《ほ》水院《すいいん》の入口は二つある。東西に一つずつ、いずれも観音披《かんのんびら》きの扉《とびら》がついている。案内人の老人が、夜、金閣に上って、西のほうの扉を内側から締め、東のほうの扉を外から締めて、それに錠前を下ろすのである。しかし錠前がなくても金閣へ入れることを私は知った。東側の扉から裏へまわった北側の板戸は、あたかも閣内の模型の金閣の背後を護《まも》っている。その板戸は老朽しており、上下の釘を六七本抜けばたやすく外れるのである。釘はいずれも緩んでいて、指の力だけで楽に抜くことができる。そこで私は試みに、その二本を抜いておいた。抜いた釘は紙に包んで、机の抽斗《ひきだし》の奥深く保存した。数日経った。誰も気がついた様子はない。一週間経った。誰も気づいた気配はなかった。二十八日の晩、又私はひそかに二本の釘を元へ戻《もど》しておいた。
 老師のうずくまった姿を見て、いよいよ誰の力にもたよらない決心をしたその日のこと、私は千本今出川の西陣署ちかくの薬屋でカルモチンを買った。はじめ店の者が、三十錠入りと思われる小《こ》瓶《びん》を出して来たので、私はもっと大型のをくれと云って、百錠入りを百円で買った。さらに、西陣署南隣りの金物屋で、刃渡り四寸ほどの鞘附小刀《さやつきこがたな》を九十円で買った。
 私は夜の西陣署の前を行きつ戻りつした。窓のいくつかはあかあかと灯《とも》し、開襟《かいきん》シャツの刑事が鞄《かばん》を抱えてあわただしく入って行く姿が見えた。私に注意を払う者は一人もいない。過去二十年、私に注意を払う人間はいなかったが、今のところ、その状態はつづいている。今のところ、私はまだ重要ではない。この日本にも、何百万、何千万の、人の注意を惹《ひ》かない片隅《かたすみ》の人間がいて、私はまだそれに属しているのである。こういう人間が生きようと死のうと、世間は何ら痛痒《つうよう》を感じないのだが、そんな人間は実に安心させるものを持っている。だから刑事も安心して、私のほうを振向こうとしないのだ。「察」の字の脱落した西陣警察署という横書きの石の文字を、赤い煙るような門燈の光りが示している。
 寺へのかえるさ、私は今《こ》宵《よい》の買物について考えた。心の躍るような買物である。
 刃物と薬とを、私は万一あるべき死の支度に買ったのであるが、新らしい家庭を持つ男が何か生活の設計を立てて、買う品物はさもあろうかと思われるほど、それは私の心を娯《たの》しませた。寺へかえってからも、その二つのものに見飽かなかった。鞘を払って、小刀の刃を舐《な》めてみる。刃はたちまち曇り、舌には明確な冷たさの果てに、遠い甘味が感じられた。甘みはこの薄い鋼《はがね》の奥から、到達できない鋼の実質から、かすかに照り映えてくるように舌に伝わった。こんな明確な形、こんなに深い海の藍《あい》に似た鉄の光沢、……それが唾《だ》液《えき》と共にいつまでも舌先にまつわる清冽《せいれつ》な甘みを持っている。やがてその甘みも遠ざかる。私の肉が、いつかこの甘みの迸《ほとばし》りに酔う日のことを、私は愉《たの》しく考えた。死の空は明るくて、生の空と同じように思われた。そして私は暗い考えを忘れた。この世には苦痛は存在しないのだ。

 金閣には戦後、最新式の火災自動警報器が取付けられていた。金閣の内部が一定の温度に達すると、警報が鹿苑《ろくおん》寺《じ》事務室の廊下のところで鳴りひびく仕掛になっている。六月二十九日の晩、この警報器が故障を起した。故障を発見したのは、案内人の老人である。老人が執事寮でその報告をするのを、たまたま庫裏《くり》にいて私は聴いた。私は天の励ましの声を聴いたと思った。
 しかし翌三十日の朝、副《ふう》司《す》さんは器械を納入した工場へ電話をかけて修繕をたのんだ。人のよい案内人はわざわざ私にそれを告げた。私は唇《くちびる》を噛《か》んだ。昨夜こそ決行の機会であったのに、その又とない機会を逸したのである。
 夕刻になって修理工がやって来た。われわれは物珍らしげな顔を並べて、修理のありさまを見物した。修繕は永くかかり、工員は首をかしげるばかりで、見物も一人去り二人去りした。ほどほどに私もその場を立去った。あとは修理が成って、工員が試みに鳴らすベルが、音高く寺内にひびきわたるのを、私にとっては絶望のその合図を待てばよいのである。……私は待った。金閣には潮《うしお》のように夜が押し上げ、修理のための小さな灯《ひ》がまたたいていた。警報は鳴らなかった。匙《さじ》を投げた工員は明日又来ると言い置いて帰った。
 七月一日、工員は約束を破って、来なかった。しかし寺には、それほど早急《さっきゅう》の修繕を促す理由がなかった。

 六月三十日に、私は又しても千本今出川へ行って、菓子パンと最《も》中《なか》を買った。寺では間食が出ないので、乏しい小遣の中から、たびたびそこで僅《わず》かずつ菓子を買ったことがある。
 しかし三十日に買った菓子は、空腹のためではない。カルモチンの服用の援《たす》けに買ったのでもない。強《し》いて言えば、不安がそれを買わせた。
 手に提げたふくよかな紙袋と、私との関係。私が今や着手しようとしている完全に孤独な行為と、みすぼらしい菓子パンとの関係。……曇った空からにじみ出た陽《ひ》が、むしあつい靄《もや》のように古い町並に立ちこめていた。汗はひそかに、私の背に突然冷たい糸を引いて流れた。大そう倦《だる》かった。
 菓子パンと私との関係。それは何だったろう。行為に当面して精神がどれほど緊張と集中に勇み立とうが、孤独なままに残された私の胃が、そこでもなお、その孤独の保証を求めるだろうと私は予想していた。私の内臓は、私のみすぼらしい、しかし決して馴《な》れない飼犬のように感じられた。私は知っていた。心がどんなに目ざめていようと、胃や腸や、これら鈍感な臓器は、勝手になまぬるい日常性を夢みだすことを。
 私は自分の胃が夢みるのを知っていた。菓子パンや最中を夢みるのを。私の精神が宝石を夢みているあいだも、それが頑《かたく》なに、菓子パンや最中を夢みるのを。……いずれ菓子パンは、私の犯罪を人々が無理にも理解しようと試みるとき、恰好《かっこう》な手がかりを提供するだろう。人々は言うだろう。『あいつは腹が減っていたのだ。何と人間的《???》なことだろう!』



 その日が来た。昭和二十五年の七月一日である。前にも言ったように、火災警報器は今日中に直る見込はない。そのことは午後六時に確かになった。案内の老人がもう一度催促の電話をかけた。申訳ないが今日は多忙で行けないから、明日は必ず行くと工員が答えたのである。
 その日の金閣拝観者は百名ほどであったが、六時半には閉鎖されるので、すでに人波は引きぎわであった。老人は電話をかけおわると、案内の仕事はもう終っていたから、庫裏の東側の土間から小さな畑を眺《なが》めてぼんやり立っていた。
 霧雨《きりさめ》が降っている。朝から何度か降っては止む。風もほのかに吹き、さして蒸暑いほどではない。畑には南瓜《かぼちゃ》の花が雨のなかに点々としている。一方黒いつややかな畝《うね》には、先月はじめに蒔《ま》いた大《だい》豆《ず》が芽生えている。
 老人は何か考え事をするとき、顎《あご》をうごかして、はまりのわるい総入歯をかち合わせて鳴らしていることがある。毎日同じ案内の口上を述べているが、日ましに聴きとりにくくなるようなのは入歯のせいである。が、人にすすめられても、直そうとするでもない。畑を見つめて、何か呟《つぶや》いている。呟いては、又歯を鳴らし、鳴らすのを止めては又呟く。多分警報器の修繕が捗《はかど》らないのをこぼしているのである。
 そのききとれない呟きをきいていると、私には、彼は入歯にも警報器にも、どんな修繕ももはや不可能だと言っているように思われる。

 その夜鹿苑寺には、老師のもとへめずらしいお客があった。むかし老師と僧堂の友であった福井県龍法寺の住職、桑井禅海和尚《おしょう》である。老師と僧堂の友であったことは、私の父ともそうであったということである。
 老師の出先へ電話がかけられた。一時間ほどして老師が帰るだろうと告げられた。禅海和尚は鹿苑寺に一二泊するつもりで上洛《じょうらく》したのである。
 父は何かにつけて禅海和尚のことを愉《たの》しげに話し、父が和尚に敬愛の心を寄せていることがよくわかった。和尚は外見も性格もまことに男性的な、荒削《あらけず》りな禅僧の典型であった。身の丈は六尺にちかく、色は黒く眉《まゆ》は濃かった。その声は轟《とどろ》くばかりであった。
 老師のかえりを待つあいだ私と話したいという和尚の意向を伝えて、朋輩《ほうばい》が呼びに来たとき、私はためらった。和尚の単純で澄明な目が、今夜に迫った私の企てを見抜きはしないかとおそれたのである。
 本堂客殿の十二畳の間《ま》で、和尚は副《ふう》司《す》さんが気を利《き》かして出した酒を、精進《しょうじん》の肴《さかな》で、胡《あぐ》坐《ら》をかいて呑《の》んでいた。朋輩がそれまで酌《しゃく》をしていたのを、今度は私が代って、和尚の前の畳に正座して、酌をした。音のせぬ雨の闇《やみ》に私は背を向けていた。そこで和尚は、私の顔と、この梅雨《つゆ》時《どき》の庭の夜と、ふたつながら暗い眺めを見る他《ほか》はなかった。
 が、禅海和尚は何ものにも囚《とら》われない。初対面の私を見るなり、父によく似ている。よく成人した。お父さんが亡《な》くなったのはまことに惜しい。などと、つづけざまに朗らかに言ったのである。
 和尚には老師の持たぬ素《そ》朴《ぼく》さがあり、父の持たぬ力があった。その顔は日に灼《や》けて、鼻は大々《だいだい》とひらき、濃い眉の肉が隆起して迫っているさまは、大?《おおべし》見《み》の面《おもて》に象《かたど》って作られたかのようであった。整った顔立ちではない。内部の力が余って、その力が思うままに発露して、整いを壊してしまっている。突き出た顴骨《かんこつ》までが、南《なん》画《が》の岩山のように奇峭《きしょう》である。
 それでいて、轟くような大声で話す和尚には、私の心にひびくやさしさがある。世の常のやさしさではなくて、村のはずれの、旅人に木《こ》蔭《かげ》の憩《いこ》いを与える大樹の荒々しい根《ね》方《かた》のようなやさしさである。ごく手ざわりの粗《あら》いやさしさである。話すほどに、私は今夜という今夜、自分の決心がこういう優しさに触れて鈍ることを警戒した。すると又しても、老師がわざわざ私のために和尚を招いたのではないかという疑いが湧《わ》いたが、私のために福井県から和尚の上洛をたのむなどということはありえなかった。和尚は奇妙な偶然の客、この上もない破局の証人にすぎなかった。
 二合ちかく入る大きな白《はく》磁《じ》の銚子《ちょうし》が空になったので、私は一礼して典《てん》座《ぞ》へ代りをとりに行った。熱い銚子を捧《ささ》げて帰って来るとき、私に嘗《かっ》て知らなかった感情が生れた。一度も人に理解されたいという衝動にはかられなかったのに、この期《ご》に及んで、禅海和尚にだけは理解されたいと望んだのである。再び来て酒をすすめる私の目が、先程とちがって、いかにも真率にかがやくのに和尚は気づいた筈《はず》だ。
「私をどう思われますか」
 と私はたずねた。
「ふむ、真面目な善い学生に見えるがのう。裏でどんな道楽をしておるか、儂《わし》は知らん。しかし気の毒に、昔とちがって道楽の金もあるまいがのう。お父さんと儂とここの住職とは、若い時分はなかなか悪さをしたものじゃった」
「私は平凡な学生に見えましょうか」
「平凡に見えるのが何よりのことじゃ。平凡でよいのじゃ。そのほうが人に怪しまれんでよいわい」
 禅海和尚には虚栄心がなかった。高位の僧の陥りがちな弊であるが、人物から書画骨董《こっとう》にいたるまでの万般の鑑識眼を恃《たの》まれるので、あとで鑑識の誤まりを嗤《わら》われぬように、断定的なことを言うまいとする人がある。もちろん禅僧風の独断を即座に下してみせるが、どちらにも意味のとれるような余地を残しておくのである。禅海和尚はそうではなかった。彼が見たまま感じたままを言っていることがよくわかった。彼は自分の単純な強い目に映る事物に、ことさら意味を求めたりすることはなかった。意味はあってもよく、なくてもよい。そして和尚が何より私に偉大に感じられたのは、ものを見、たとえば私を見るのに、和尚の目だけが見る特別のものに頼って異を樹《た》てようとはせず、他人が見るであろうとおりに見ていることであった。和尚にとっては単なる主観的世界は意味がなかった。私は和尚の言わんとするところがわかり、徐々に安らぎを覚えた。私が他人に平凡に見える限りにおいて、私は平凡なのであり、どんな異常な行為を敢《あえ》てしようと、私の平凡さは、箕《み》に漉《こ》された米のように残っているのだった。
 私はいつかしら自分の身を、和尚の前に立っている静かな葉《は》叢《むら》の小さな樹のように思い做《な》した。
「人に見られるとおりに生きていればよろしいのでしょうか」
「そうも行くまい。しかし変ったことを仕出かせば、又人はそのように見てくれるのじゃ。世間は忘れっぽいでな」
「人の見ている私と、私の考えている私と、どちらが持続しているのでしょうか」
「どちらもすぐ途絶えるのじゃ。むりやり思い込んで持続させても、いつかは又途絶えるのじゃ。汽車が走っているあいだ、乗客は止っておる。汽車が止ると、乗客はそこから歩き出さねばならん。走るのも途絶え、休息も途絶える。死は最後の休息じゃそうなが、それだとて、いつまで続くか知れたものではない」
 「私を見抜いて下さい」ととうとう私は言った。「私は、お考えのような人間ではありません。私の本心を見抜いて下さい」
 和尚は盃《さかずき》を含んで、私をじっと見た。雨に濡《ぬ》れた鹿苑寺の大きな黒い瓦《かわら》屋根のような沈黙の重みが私の上に在った。私は戦慄《せんりつ》した。急に和尚が、世にも晴朗な笑い声を立てたのである。
「見抜く必要はない。みんなお前の面上にあらわれておる」
 和尚はそう言った。私は完全に、残る隈《くま》なく理解されたと感じた。私ははじめて空白になった。その空白をめがけて滲《し》み入る水のように、行為の勇気が新鮮に湧き立った。

 老師が帰った。午後九時である。常のように四人の警備員が巡回に出た。何の異状もなかった。
 帰った老師は和尚と酒を酌《く》みかわし、夜中の零時半ごろ、朋輩の徒弟が和尚を寝所に案内した。それから老師は開浴《かいよく》と謂《い》って風呂に入り、二日の午前一時、撃柝《げきたく》の声も納まって、寺は静かになった。雨はなお音もなく降っていた。
 私は一人、敷いた寝床の上に坐《すわ》っていた。そして鹿苑寺に沈澱《ちんでん》する夜を計った。夜は次第に密度と重さを増し、私のいる五畳の納《なん》戸《ど》の太い柱や板戸は、この古い夜を支えておごそかに見えた。
 私は口のなかで吃《ども》ってみた。一つの言葉はいつものように、まるで袋の中へ手をつっこんで探すとき、他《ほか》のものに引っかかってなかなか出て来ない品物さながら、さんざん私をじらせて唇の上に現われた。私の内界の重さと濃密さは、あたかもこの今の夜のようで、言葉はその深い夜の井戸から重い釣《つる》瓶《べ》のように軋《きし》りながら昇って来る。
『もうじきだ。もう少しの辛抱《しんぼう》だ』と私は思った。『私の内界と外界との間のこの錆《さ》びついた鍵《かぎ》がみごとにあくのだ。内界と外界は吹き抜けになり、風はそこを自在に吹きかようようになるのだ。釣瓶はかるがると羽《は》搏《ばた》かんばかりにあがり、すべてが広大な野の姿で私の前にひらけ、密室は滅びるのだ。……それはもう目の前にある。すれすれのところで、私の手はもう届こうとしている。……』
 私は幸福に充《み》たされて、一時間も闇《やみ》の中に坐っていた。生れてから、この時ほど幸福だったことはなかったような気がする。……突然私は闇から立上った。
 大書院の裏手へ忍び足で出て、かねて用意していた藁草《わらぞう》履《り》をはいて、霧雨のなかを鹿苑寺の裏側の溝《みぞ》ぞいに歩いて、作事場《さじば》へ向った。作事場には材木はなく、ちらばっている大鋸《おが》屑《くず》の雨に湿った匂《にお》いが立ち迷っていた。そこに藁が買い貯《た》めてある。一時《いっとき》に四十束も買うのである。しかし今夜はすでにあらかた使われたあとの三束が積まれているだけである。
 私はその三束を抱えて、畑のかたわらを立戻った。庫裏《くり》のほうはしんとしていた。料理部屋の角を曲って、執事寮の裏まで来たとき、そこの厠《かわや》の窓に突然明りが射した。私はその場にうずくまった。
 厠で咳払《せきばら》いがきこえた。副《ふう》司《す》さんらしかった。やがて尿《いばり》の放たれる音がしたが、それが際限もなく長い。
 藁が雨に濡れるのをおそれて、私はうずくまった胸で藁を覆《わら》うていた。微風がゆるがす羊歯《しだ》の草むらに、雨のために強《つよ》くなった厠の匂いが澱《よど》んでいる。……尿の音は止んだ。体が板壁に、よろめいてぶつかる音がした。副司さんは十分に目ざめているのではないらしい。窓の灯は消えた。又私は三束の藁を抱えて、大書院の裏手へ歩きだした。

 さて私の財産とては、身の廻り品を入れた柳行李《やなぎごうり》一箇と、小さな古いトランク一箇だけであった。それを悉《ことごと》く焼こうと思っていた。今夜すでに書籍類から、衣類や被衣《ころも》、こまごまとしたものはすべてこの二つに納めておいたのである。私の綿密さを認めてもらいたい。運ぶ途中音を立てやすいもの、たとえば蚊帳《かや》の吊《つり》手《て》とか、焼けないで証拠を残すもの、たとえば、灰皿、コップ、インキ瓶《びん》のたぐいは、座蒲《ざぶ》団《とん》にくるみ、風呂《ふろ》敷《しき》に包んで、別にしてあった。右に加えて、敷蒲団一枚と掛蒲団二枚が、焼かれなければならなかった。そしてこれらの大きな荷物を、大書院の裏の出口のところへ、少しずつ運んで重ねた。その上で、金閣の例の北側の板戸を外しに行った。
 釘《くぎ》は一本一本、柔土《やわつち》に刺っていたようにたやすく抜けた。私は傾く板戸を体ごと支えていたが、その濡れた朽《くち》木《ぎ》のおもては、私の頬《ほお》にしっとりとふくらみを帯びて触った。思ったほどの重さではなかった。私は外した板戸をかたわらの土に横たえた。のぞかれる金閣の内部には闇が張りつめていた。
 板戸の幅は身を斜《はす》にして丁度入れる程である。私は金閣の闇へ身をひたした。ふしぎな顔があらわれて私を戦慄《せんりつ》させた。入りぎわにある金閣模型の硝子《ガラス》のケースに、燐寸《マッチ》の火をかざした私の顔が映っていたのである。
 そうしている場合ではなかったが、私はケースのなかの金閣にしみじみと見入った。この小さな金閣は、燐寸の月に照らされて、影がゆらめいて、その繊細な木組を不安でいっぱいにして蹲踞《つくば》うていた。それは忽《たちま》ち闇に呑《の》まれた。燐寸の火が尽きたのだ。
 燃えかすの一点の赤いほのめきを気にして、私がいつか妙心寺で見た学生のように、一心に燐寸を踏み消していたのは異様である。さらに私は新らしい燐寸を擦った。六角の経堂や三尊像の前をすぎ、賽銭箱《さいせんばこ》の前まで来たとき、金を投げ入れるために沢山の桟《さん》をつらねたのが、その桟の影が燐寸の火のゆれるにつれ、波立って見えた。賽銭箱の奥に鹿苑院殿道義足利義満《あしかがよしみつ》の国宝の木像がある。それは法衣を着た坐像で、衣の袖《そで》は左右に長く延び、笏《しゃく》を右手から左手へ横たえている。目をみひらいた剃髪《ていはつ》の小さな頭が法衣の襟《えり》に首を埋めている。その目が燐寸の火にきらめいたが、私は畏《おそ》れなかった。小さな偶像はいかにも陰惨で、自分の建てた館《やかた》の一角に鎮坐しながら、とうの昔に支配を諦《あき》らめてしまっているように見えた。
 私は漱清《そうせい》へ通ずる西の扉《とびら》をひらいた。この扉の観音披《かんのんびら》きが内側からあくようになっていることは前にも述べたとおりである。夜の雨空も、金閣の内部よりは明るかった。湿った扉は低い軋《きり》りの忍び音《ね》を納め、微風にみちた紺《こん》いろの夜気を導き入れた。
『義満の目、義満のあの目』と、その扉から戸外へ身を躍らして、大書院裏へ駈《か》け戻るあいだ私は考えつづけた。『すべてはあの目の前で行われる。何も見ることのできない、死んだ証人のあの目の前で……』
 駈けているズボンのポケットの中で音を立てるものがある。燐寸箱が鳴っているのである。立止った私は、燐寸箱の隙《すき》間《ま》に花紙を詰めて音を消した。手巾《ハンカチ》に包んだカルモチンの瓶と小刀とを入れた別のポケットは鳴らない。菓子パンと最《も》中《なか》と煙草《たばこ》を入れたジャンパーのポケットももとより鳴らなかった。

 それから私は機械的な作業をした。大書院の裏口に重ねておいた荷を、四回にわたって金閣の義満像の前に運んだのである。最初に運んだのは、吊手を除いた蚊帳と敷蒲団一枚である。次に運んだのは掛蒲団二枚である。次はトランクと柳行李である。次は三束の藁である。これらを乱雑に積み上げて、藁の三束は、蚊帳や蒲団の間にはさんだ。蚊帳が一等火がつき易《やす》いように思われたので、それを半ば他の荷の上へ拡げるようにした。
 最後に大書院裏へ戻った私は、例の燃えにくいものを包んだ風呂敷包みを抱えて、今度は金閣の東端の池のほとりへ行った。すぐ目前の池中に夜泊石を見るところである。数本の松の下かげになっていて、辛うじて雨を防ぐことができる。
 池のおもては夜空を映してほのかに白い。しかし夥《おびただ》しい藻《も》は陸つづきのようで、細かく散らばったその隙《ひま》に水の在処《ありか》が知れる。雨はそこに波紋をえがくほどではない。雨に煙って、水気がこもって、池がどこまでもひろがっているように見えるのである。
 私は足もとの小石をひとつ水に落した。その水音は私のまわりの空気が亀裂《ひび》われるかのように大《おお》袈裟《げさ》にひびいた。私は身をすくめてじっとしていた。その沈黙で、今計らずも立ててしまった音を消そうと思ったのである。
 水のなかへ手をさし入れたが、手にはなまぬるい藻がからまった。私はまず蚊帳の吊手を、水にひたした手の中から落した。次いで灰皿を、濯《すす》ぐように水に託して落した。コップもインキ瓶も、同じ方法で落した。水に沈めるべきものは尽きた。それらを包んでいた座蒲団と風呂敷だけが私の傍《かたわ》らに残っていた。あとはこの二つを義満像の前へ運んで、いよいよ火を点ずるだけである。
 このときの私が突然食欲に襲われたのは、あまりにも予想に叶《かな》っていて、却《かえ》って私は裏切られたような感じに襲われた。きのう喰《た》べ残した菓子パンと最中はポケットにあった。私は濡れた手をジャンパーの裾《すそ》で拭《ふ》き、貪《むさぼ》るように喰べた。味はわからない。味覚とは別に、私の胃が叫んでいて、私はひとえに慌《あわただ》しく菓子を口の中へ詰め込めばよかった。胸は急《せ》いて動《どう》悸《き》していた。ようよう呑み込むと、私は池の水を掬《すく》って飲んだ。

 ……私は行為のただ一歩手前にいた。行為を導きだす永い準備を悉《ことごと》く終え、その準備の突端に立って、あとはただ身を躍らせればよかった。一挙手一投足の労をとれば、私はやすやすと行為に達する筈であった。
 私はこの二つのあいだに、私の生涯《しょうがい》を呑み込むに足る広い淵《ふち》が口をあけていようとは、夢想もしていなかった。
 というのは、そのとき私は最後の別れを告げるつもりで金閣のほうを眺《なが》めたのである。
 金閣は雨《あま》夜《よ》の闇におぼめいており、その輪郭は定かでなかった。それは黒々と、まるで夜がそこに結晶しているかのように立っていた。瞳《ひとみ》を凝《こ》らして見ると、三階の究竟頂《くきょうちょう》にいたって俄《にわ》かに細まるその構造や、法水院と潮音洞の細身の柱の林も辛うじて見えた。しかし嘗《かつ》てあのように私を感動させた細部は、ひと色の闇の中に融《と》け去っていた。
 が、私の美の思い出が強まるにつれ、この暗黒は恣《ほしいま》まに幻を描くことのできる下地になった。この暗いうずくまった形態のうちに、私が美と考えたものの全貌《ぜんぼう》がひそんでいた。思い出の力で、美の細部はひとつひとつ闇の中からきらめき出し、きらめきは伝《でん》播《ぱ》して、ついには昼とも夜ともつかぬふしぎな時の光りの下《もと》に、金閣は徐々にはっきりと目に見えるものになった。これほど完全に細《さい》緻《ち》な姿で、金閣がその隈々《くまぐま》まできらめいて、私の眼前に立ち現われたことはない。私は盲人の視力をわがものにしたかのようだ。自ら発する光りで透明になった金閣は、外側からも、潮音洞の天人奏楽の天井画や、究竟頂の壁の古い金《きん》箔《ぱく》の名残《なごり》をありありと見せた。金閣の繊巧な外部は、その内部とまじわった。私の目は、その構造や主題の明瞭《めいりょう》な輪郭を、主題を具体化してゆく細部の丹念な繰り返しや装飾を、対比や対称の効果を、一望の下に収めることができた。法水院と潮音洞の同じ広さの二層は、微妙な相違を示しながらも、一つの深い軒庇《のきびさし》のかげに守られて、いわば一双のよく似た夢、一対のよく似た快楽の記念のように重なっていた。その一つだけでは忘却に紛れそうになるものを、上下からやさしくたしかめ合い、そのために夢は現実になり、快楽は建築になったのだった。しかしそれも、第三層の究竟頂の俄かにすぼまった形が戴《いただ》かれていることで、一度確かめられた現実は崩壊して、あの暗いきらびやかな時代の、高邁《こうまい》な哲学に統括され、それに服するにいたるのである。そして柿葺《こけらぶき》の屋根の頂き高く、金銅の鳳凰《ほうおう》が無明《むみょう》の長夜に接している。
 建築家はなおそれだけでは満ち足りなかった。彼は法水院の西に釣殿に似たささやかな漱清を張り出した。彼は均衡を破ることに、美的な力のすべてを賭《か》けたかのようであった。漱清はこの建築において、形而上学《けいじじょうがく》に反抗している。それは決して池へ長々とさしのべられているのではないのに、金閣の中心からどこまでも遁走《とんそう》してゆくようにみえるのである。漱清はこの建築から飛び翔《た》った鳥のように、今し翼をひろげて、池のおもてへ、あらゆる現世的なものへむかって遁《のが》れていた。それは世界を規定する秩序から、無規定のものへ、おそらくは官能への橋を意味していた。そうだ。金閣の精霊は半ば絶たれた橋にも似たこの漱清からはじまって、三層の楼閣を成して、又再び、この橋からのがれてゆくのである。何故なら、池のおもてにたゆたう莫大《ばくだい》な官能の力が、金閣を築く隠れた力の源泉であったのだが、その力が完全に秩序立てられ、美しい三層を成したあとでは、もうそこに住むことに耐えられなくなって、漱清をつたわってふたたび池の上へ、無限の官能のたゆたいの中へ、その故郷へと、遁れ去ってゆくほかはなかったのだ。いつも思ったことだが、鏡湖池に立ち迷う朝霧や夕靄《ゆうもや》を見るたびに、私はそここそ金閣を築いたおびただしい官能的な力の棲《すみ》家《か》だと思うのであった。
 そして美は、これら各部の争いや矛盾、あらゆる破調を統括して、なおその上に君臨していた! それは濃紺《のうこん》地《じ》の紙《し》本《ほん》に一字一字を的確に金泥で書きしるした納経のように、無明の長夜に金泥で築かれた建築であったが、美が金閣そのものであるのか、それとも美は金閣を包むこの虚無の夜と等質なものなのかわからなかった。おそらく美はそのどちらでもあった。細部でもあり全体でもあり、金閣でもあり金閣を包む夜でもあった。そう思うことで、かつて私を悩ませた金閣の美の不可解は、半ば解けるような気がした。何故ならその細部の美、その柱、その勾欄《こうらん》、その蔀戸《しとみど》、その板唐《いたから》戸《ど》、その華頭窓、その宝形造の屋蓋《おくがい》、……その法水院、その潮音洞、その究竟頂、その漱清、……その池の投影、その小さな島々、その松、その舟泊りにいたるまでの細部の美を点検すれば、美は細部で終り細部で完結することは決してなく、どの一部にも次の美の予兆が含まれていたからだ。細部の美はそれ自体不安に充《み》たされていた。それは完全を夢みながら完結を知らず、次の美、未知の美へとそそのかされていた。そして予兆は予兆につながり、一つ一つのここには存在しな《????????》い《?》美の予兆が、いわば金閣の主題をなした。そうした予兆は、虚無の兆だったのである。虚無がこの美の構造だったのだ。そこで美のこれらの細部の未完には、おのずと虚無の予兆が含まれることになり、木割の細い繊細なこの建築は瓔珞《ようらく》が風にふるえるように、虚無の予感に慄えていた。
 それにしても金閣の美しさは絶える時がなかった! その美はつねにどこかしらで鳴り響いていた。耳鳴りの痼《こ》疾《しつ》を持った人のように、いたるところで私は金閣の美が鳴りひびくのを聴き、それに馴《な》れた。音にたとえるなら、この建築は五世紀半にわたって鳴りつづけて来た小さな金鈴《きんれい》、あるいは小さな琴《こと》のようなものであったろう。その音が途絶えたら……

 ――私は激甚《げきじん》の疲労に襲われた。
 幻の金閣は闇の金閣の上にまだありありと見えていた。それは燦《きら》めきを納めなかった。水ぎわの法水院の勾欄はいかにも謙虚に退き、その軒《のき》には天竺様《てんじくよう》の挿肘《さしひじ》木《き》に支えられた潮音洞の勾欄が、池へむかって夢みがちにその胸をさし出していた。庇《ひさし》は池の反映に明るみ、水のゆらめきはそこに定めなく映って動いた。夕日に映え、月に照らされるときの金閣を、何かふしぎに流動するもの、羽《は》搏《ばた》くものに見せていたのは、この水の光りであった。たゆたう水の反映によって堅固な形態の縛《いまし》めを解かれ、かかるときの金閣は、永久に揺れうごいている風や水や焔《ほのお》のような材料で築かれたものかと見えた。
 その美しさは儔《たぐ》いがなかった。そして私の甚《はなは》だしい疲労がどこから来たかを私は知っていた。美が最後の機会に又もやその力を揮《ふる》って、かつて何度となく私を襲った無力感で私を縛ろうとしているのである。私の手足は萎《な》えた。今しがたまで行為の一歩手前にいた私は、そこから再びはるか遠く退いていた。
『私は行為の一歩手前まで準備したんだ』と私は呟《つぶや》いた。『行為そのものは完全に夢みられ、私がその夢を完全に生きた以上、この上行為する必要があるだろうか。もはやそれは無駄事ではあるまいか。
 柏木の言ったことはおそらく本当だ。世界を変えるのは行為ではなくて認識だと彼は言った。そしてぎりぎりまで行為を模倣しようとする認識もあるのだ。私の認識はこの種のものだった。そして行為を本当に無効にするのもこの種の認識なのだ。してみると私の永い周到な準備は、ひとえに、行為をしなくて《???????》もよい《???》という最後の認識のためではなかったか。
 見るがいい。今や行為は私にとっては一種の剰余物にすぎぬ。それは人生からはみ出し、私の意志からはみ出し、別の冷たい鉄製の機械のように、私の前に在って始動を待っている。その行為と私とは、まるで縁もゆかりもないかのようだ。ここまで《????》が私であって、それから先は私ではないのだ。……何故私は敢《あえ》て私でなくなろうとするのか』
 私は松の根方にもたれた。その濡《ぬ》れた冷たい樹《き》の肌《はだ》は私を魅した。この感覚、この冷たさが私だと私は感じた。世界はそのままの形で停止し、欲望もなく、私は満ち足りていた。
『このひどい疲労をどうしたものだろう』と考えた。『何だか熱がこもっていて、けだるくて、手を自分の思うところへ動かすこともできない。きっと私は病気なのだ』
 金閣はなお耀《かが》やいていた。あの「弱《よろ》法師《ぼし》」の俊徳丸が見た日想観《じっそうかん》の景色のように。
 俊徳丸は入日の影も舞う難波《なにわ》の海を、盲目の闇のなかに見たのであった。曇りもなく、淡路絵島、須磨《すま》明《あか》石《し》、紀の海までも、夕日に照り映えているのを見た。……
 私の身は痺《しび》れたようになり、しきりに涙が流れた。朝までこのままでいて、人に発見されてもよかった。私は一言《ひとこと》も、弁《べん》疏《そ》の言葉を述べないだろう。

 ……さて私は今まで永々と、幼時からの記憶の無力について述べて来たようなものだが、突然蘇《よみがえ》った記憶が起死回生の力をもたらすこともあるということを言わねばならぬ。過去はわれわれを過去のほうへ引きずるばかりではない。過去の記憶の処々《しょしょ》には、数こそ少ないが、強い鋼《はがね》の発条《ばね》があって、それに現在のわれわれが触れると、発条はたちまち伸びてわれわれを未来のほうへ弾《はじ》き返すのである。
 身は痺れたようになりながら、心はどこかで記憶の中をまさぐっていた。何かの言葉がうかんで消えた。心の手に届きそうにして、また隠れた。……その言葉が私を呼んでいる。おそらく私を鼓舞するために、私に近づこうとしている。
『裏《うち》に向ひ外に向つて逢著《ほうちゃく》せば便《すなは》ち殺せ』
 ……その最初の一行はそういうのである。臨済録示衆の章の名高い一節である。言葉はつづいてすらすらと出た。
『仏に逢《お》うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅《ら》漢《かん》に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷《しんけん》に逢うては親眷を殺して、始めて解《げ》脱《だつ》を得ん。物と拘《かか》はらず透脱《とうだつ》自在なり』
 言葉は私を、陥っていた無力から弾《はじ》き出した。俄《にわ》かに全身に力が溢《あふ》れた。とはいえ、心の一部は、これから私のやるべきことが徒爾《とじ》だと執拗《しつよう》に告げてはいたが、私の力は無駄事を怖《おそ》れなくなった。徒爾であるから、私はやるべきであった。
 傍《かたわ》らの座蒲団と風呂敷を丸めて小《こ》脇《わき》に抱えて、私は立上った。金閣のほうを見た。きらめく幻の金閣は薄れかけていた。勾欄は徐々に闇に呑《の》まれ、林立する柱は分明《ぶんみょう》でなくなった。水の光りは消え、軒庇《のきびさし》の裏の反映も消え去った。やがて細部はことごとく夜闇に隠れて、金閣はただ黒一いろのおぼろげな輪郭をとどめるだけになった。……

 私は駈《か》けた。金閣の北をめぐった。足は馴れていて、躓《つまず》くことはなかった。闇が次々とひらいて私を導いた。
 私は漱清のほとりから、金閣の西の板戸、あけはなしたままになっている観音披《かんのんびら》きの戸口へ躍り込んだ。抱えていた座蒲団と風呂敷を、積み重ねた荷の上へ投《ほう》った。
 胸は陽気に鼓動を打ち、濡れた手は微《かす》かに慄《ふる》えていた。あまつさえ燐寸《マッチ》は湿っていた。一本目はつかない。二本目はつきかけて折れた。三本目は風を防いだ私の指の隙々《ひまひま》を明るませて燃え上った。
 藁のありかを探したのは、さっき自分で三束の藁をそこかしこに差し挟《はさ》んだのに、もうその場所を忘れていたからである。探しあてたときに、燐寸の火は尽きた。そこにしゃがんで、私は今度は二本を束《つか》ねて擦った。
 火は藁の堆積《たいせき》の複雑な影をえがき出し、その明るい枯野の色をうかべて、こまやかに四方へ伝わった。つづいて起る煙のなかに火は身を隠した。しかし思わぬ遠くから、蚊帳《かや》のみどりをふくらませて焔《ほのお》がのぼった。あたりが俄かに賑《にぎ》やかになったような気がした。
 私の頭がこのときはっきりと冴《さ》えた。燐寸の数には限りがある。今度は別の一角に走って、一本の燐寸を大切にして、別の藁の一束に火をつけた。燃え上る火は私を慰めた。かねて朋輩《ほうばい》と焚《たき》火《び》をするとき、私は火を起すのが巧かったのだ。
 法水院の内部には、大きなゆらめく影が起った。中央の弥陀《みだ》、観音《かんのん》、勢《せい》至《し》の三尊像はあかあかと照らし出された。義満像は目をかがやかせていた。その木像の影も背後にはためいた。
 熱さはほとんど感じられなかった。賽銭箱《さいせんばこ》に着実に火が移るのを見て、もう大丈夫だと私は思った。
 私はカルモチンや短刀を忘れていた。この火に包まれて究竟頂で死のうという考えが突然生じた。そして火から遁《のが》れて、窄《せま》い階段を駈け上った。潮音洞へ昇る扉《とびら》がどうして開いたのかという疑いは起らない。老案内人が二階の戸締りを忘れていたのである。
 煙は私の背に迫っていた。咳《せ》きながら、恵《え》心《しん》の作と謂《い》われる観音像や、天人奏楽の天井画を見た。潮音洞にただよう煙は次第に充ちた。私は更に階を上って、究竟頂の扉をあけようとした。
 扉は開かない。三階の鍵は堅固にかかっている。
 私はその戸を叩《たた》いた。叩く音は激しかったろうが、私の耳には入らない。私は懸命にその戸を叩いた。誰かが究竟頂の内部からあけてくれるような気がしたのである。
 そのとき私が究竟頂に夢みていたのは、確かに自分の死場所であったが、煙はすでに迫っていたから、あたかも救済を求めるように、性急にその戸を叩いていたものと思われる。戸の彼方にはわずか三間四尺七寸四方の小部屋しかない筈《はず》だった。そして私はこのとき痛切に夢みたのだが、今はあらかた剥落《はくらく》してこそおれ、その小部屋には隈《くま》なく金箔《きんぱく》が貼りつめられている筈だった。戸を叩きながら、私がどんなにその眩《まば》ゆい小部屋に憧《あこが》れていたかは、説明することができない。ともかくそこに達すればいいのだ、と私は思っていた。その金色《こんじき》の小部屋にさえ達すればいい……。
 私は力の限り叩いた。手では足りなくなって、じかに体をぶつけた。扉は開かない。
 潮音洞はすでに煙に充たされていた。足下には火の爆《は》ぜる音がひびいていた。私は煙に噎《む》せ、ほとんど気を失いそうになった。咳き込みながら、なおも戸を叩いた。扉は開かない。
 ある瞬間、拒まれているという確実な意識が私に生れたとき、私はためらわなかった。身を飜《ひるが》えして階を駈け下りた。煙の渦《うず》巻《ま》く中を法水院まで下りて、おそらく私は火をくぐった。ようやく西の扉に達して戸外へ飛び出した。それから私は、自らどこへ行くとも知らずに、韋駄《いだ》天《てん》のように駈けたのである。

 ……私は駈けた。どれだけ休まずに私が駈けたかは想像の外《ほか》である。どこをどう通ったかも憶《おぼ》えていない。おそらく私は拱北楼《きょうほくろう》のかたわらから、北の裏門を出て、明王殿のそばをすぎ、笹《ささ》や躑躅《つつじ》の山道を駈けのぼって、左大文字山の頂きまで来たのだった。
 私が赤松の木かげの笹原に倒れ、はげしい動《どう》悸《き》を鎮めるために喘《あえ》いでいるのは、たしかに左大文字山の頂きであった。それは金閣を真北から護っている山である。
 私が明瞭な意識を取戻したのは、おどろかされた鳥の叫喚《きょうかん》のためである。或る鳥は私の顔の目《ま》近《ぢか》に、大仰《おおぎょう》な羽《は》搏《ばた》きを辷《すべ》らせて翔《た》った。
 あおのけに倒れた私の目は夜空を見ていた。おびただしい鳥が、鳴き叫んで赤松の梢《こずえ》をすぎ、すでにまばらな火の粉が頭上の空にも浮遊していた。
 身を起して、はるか谷間《たにあい》の金閣のほうを眺《なが》め下ろした。異様な音がそこからひびいて来た。爆竹のような音でもある。無数の人間の関節が一せいに鳴るような音でもある。
 ここからは金閣の形は見えない。渦巻いている煙と、天に冲《ちゅう》している火が見えるだけである。木《こ》の間《ま》をおびただしい火の粉が飛び、金閣の空は金砂《きんすな》子《ご》を撒《ま》いたようである。
 私は膝《ひざ》を組んで永いことそれを眺めた。
 気がつくと、体のいたるところに火ぶくれや擦《す》り傷があって血が流れていた。手の指にも、さっき戸を叩いたときの怪我とみえて血が滲《にじ》んでいた。私は遁れた獣《けもの》のようにその傷口を舐《な》めた。
 ポケットをさぐると、小刀と手巾《ハンカチ》に包んだカルモチンの瓶《びん》とが出て来た。それを谷底めがけて投げ捨てた。
 別のポケットの煙草《たばこ》が手に触れた。私は煙草を喫《の》んだ。一ト仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った。
――一九五六、八、一四――
 
 

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